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読書

澁澤龍彦

しぶさわたつひこ

フランス文学者、エッセイスト、小説家翻訳家。本名は澁澤龍雄。

1928年生まれ。母親の実家である東京高輪に生まれ、幼少期は埼玉県川越市で過ごす。東大文学科卒。

ジョルジュ・バタイユマルキ・ド・サドの翻訳、紹介者として知られる。

晩年は小説を発表するようになり、遺作となった『高丘親王航海記』は第39回読売文学賞を受賞した。昭和40年代に鎌倉に移り住む。1987年に病院で読書中に頚動脈瘤破裂のため死去する。戒名は文光院彩雲道龍居士。墓は浄智寺にある。

澁澤龍彦自作年譜より

少年時代から「澁澤龍彦」の誕生まで

1928年(昭和3年)東京市高輪生まれ、父武、母節子の長男。下に妹が3人。

父武は埼玉の澁澤一族の出身で武州銀行に勤務。

「一年から六年まで、小学校の成績は優等を通したが、級長には一度も選ばれなかった。人格円満を欠いていたのであろう。学科では図画と音楽を最も得意とし、体操は苦手であった。運動会の徒競走では、いつもビリだった。」

「少年時の私が最も熱中したのは、『幼年倶楽部』の冒険小説や『のらくろ』とともに、日本選手の多く活躍したベルリンオリンピックであった。」

9歳のとき友人と相撲をとっていて右脚を骨折。「そのほか大腸カタル、ジフテリア水疱瘡などでしばしば学校を長く休み、医者から『病気の問屋さんみたいだ』と言われた。」

「場所ごとに父とともに両国国技館に行き、クラスでは『相撲博士』をもって自他共に任じていた。」

昭和15年。「この年まで、クラスでただひとり頭髪をいわゆる坊ちゃん刈りにしていたが、戦時色が濃くなってくるとともに、教師および級友一同の反撥を買い、悲壮な決意のもとに坊主頭にする。『ゼイタクハ敵ダ』『パーマネントはやめましょう』などの標語が幅をきかせていた時代であった。」

昭和16年。東京都立第五中学校に入学する。「背広にネクタイというスマートな制服にあこがれて入学したのに、この年から、全国の中学校の制服はカーキ色(当時は国防色と言った!)の国民服と戦闘帽に統一され、がっかりする。四年間の中学の成績も優等で、英語は好きだったし、歴史のような暗記物は最も得意の領分だった。」八月の夏休みは父や母の郷里で「昆虫採集や標本つくりに熱中する。このころ動物図鑑が私の枕頭の書であった。」

昭和19年。「三月。戦争が末期的徴候を示してくるとともに、、ついに通年動員令が布告され、私たちは授業を完全に放棄して、毎日、板橋区志村の合金工場に通うことになる。私はダイカストの係りで、陸軍の新司令部偵察機の部品を造っていた。いっぱしの熟練工であった。このころ神田本郷古書店街には読むべき本はなく、私はチベット蒙古関係の本を苦心して集めていた。いまだに冒険小説や魔境小説の夢を追っていたのである。」

昭和20年。「一月、浦和高等学校理科甲類の試験に合格。戦時のため、私たちは一年繰り上げの四年卒業という、異例の世代である。」「八月十五日、そのころ一家が身を寄せていた深谷市埼玉銀行支店の離れで、終戦のラジオ放送を聴く。私は浦和の寮で、消息通の友人から原子爆弾と終戦の情報を得ていたから、べつに少しも驚かなかった。」

昭和21年。「終戦後しばらくして、理科から文甲類に転ずる。いわゆる『ポツダム文科』であり、自分に理科的な才能がないことを、身にしみて知ったためである。このころようやくフランス文学関係の書を集中的に読みはじめ、将来は仏文に進もうと心にきめる。東京神田アテネ・フランセに通って仏語を学習。」

昭和22年。「ジイドを読み、その汎神論ふうな快楽主義に共感。さらにコクトーを読み、その軽業師ふうの危険な生き方に強く惹かれる。倫理の問題とスタイルの問題とが、いつも頭の中で一緒になっていた。倫理はスタイルであり、スタイルは倫理であった。戦後文学は頭から馬鹿にしていて、ほとんど読まなかった。」

昭和23年。「東京大学フランス文学科を受験して落ちる。同じ仏文を志望した出口裕弘は合格。文学にのめりこむようになってから、正規の授業を軽んずる習慣がついていたから、あまりショックは感じなかった。六月、浪人中のアルバイトとして、娯楽雑誌『モダン日本』および『特集読物』を出していた東京築地の新太陽社に勤務する。ここで同編集部の吉行淳之介と知り合い、翌年の春ごろ退社するまで、しばしば新橋有楽町あたりのマーケットを一緒に飲み歩く。」「太宰治が死んだのも、帝銀事件犯人がつかまったのも、極東裁判や昭電疑獄事件があったのも、この年であるが、それらは私の内面生活にはあまりかかわりがなかった。」

昭和24年。「三月、ふたたび東大仏文を受けて落ちる。全く受験勉強をせず、かなり自堕落な生活をしていたから、どう考えても受かるはずはなかった。それでもフランス語の原書だけは意地になって読んだ。八月、中学時代の友人たちと赤城山に登る。私が歩いて登った山は、あとにも先にも、これしかない。」

昭和25年。「三月、三度目に受けた東大仏文にようやく合格。よくも三度も受けたものである。どうして受かったか、今もって、我ながら不思議である。いざ入学してみると、当時はレジスタンス文学人民戦線理論が大流行で、私の好きなアンドレ・ブルトントロツキストの汚名を蒙っていた。級友たちがみんな秀才馬鹿のように見え、つくづく厭気がさして、ほとんど学校へ顔を出さないようになる。研究室の雰囲気も大嫌いで、アカデミーは自分の肌に合わないと感じる。」

昭和26年。「シュルレアリスムに熱中し、やがてサドの存在の大きさを知り、自分の進むべき方向がぼんやりと見えてきたように思う。」

昭和28年。「三月、東大を卒業。卒業論文は『サドの現代性』というタイトル。鈴木信太郎先生から『もう少し論文らしく整理して書かなければいけません』とたしなめられる。…後顧の憂いなからしむるために、この論文は卒業後いち早く、東大文学部の事務所から奪い返した。卒業しても就職口はなく、白百合女学院の女の子の家庭教師などをやりながら、相変わらずぶらぶら遊び暮らしていた。それでもコクトーの『大胯びらき』の翻訳は、この年に終わっていたはずである。翻訳原稿を見てくれたのは佐藤朔氏であった。晴天の霹靂のように、医院にて肺結核の診断を下され、ぶらぶら遊び暮らすことが保証されたような形になった。」「岩波書店の外校正の試験を受け、これは大学の試験と違って一ぺんで受かり、以後、この仕事を数年にわたってつづけることになる。」

昭和29年(1954年)澁澤26歳。「八月、コクトオ『大胯びらき』の翻訳を白水社より刊行する。刊行当時、何の反響もなかったが、ずっとのちに河盛好蔵氏から『見事な邦訳』と評されて、大いに気をよくした。」

著作

桃源社より『澁澤龍彦集成』、白水社より『ビフリオテカ澁澤龍彦』が刊行されている。

現在、『世界悪女物語』、『毒薬の手帖』、『黒魔術の手帖』、『夢の宇宙誌』、『異端の肖像』など著作の多くは河出文庫で読むことが可能。

全集(河出書房新社 刊)

澁澤龍彦・早わかり

関係者による評論など


異体字による表記

澁澤龍彥渋沢龍彦渋澤龍彦

本来「澁澤龍彥」が正式な表記だが、文字参照(「彥」*1=彥)を含むため、Web上では「澁澤龍彦」が一般的に用いられている。

*1:「偐」の旁部分