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太田三楽斎

(社会)
おおたさんらくさい

関東の戦国武将。武蔵岩付城主、常陸片野城主。
太田道灌の養子太田資家の孫で、太田資頼の次男。岩付太田氏の三代目。
諱は資正。通称は源五郎。美濃守、民部大輔。出家後は三楽斎導誉と称す。
父の跡を継いだ兄の太田資顕(資時)と不仲で、妻の父難波田善銀の武蔵松山城に身を寄せていたという。天文十五年の河越夜戦の大敗で主君扇谷上杉朝定と義父を失うと、松山城を退いて上野国高林へ逃れたが、その年の内に松山城を奪還。
翌年、兄が亡くなると岩付太田氏の家督継承を果たし、岩付城に入った。しかし松山城を委ねた上田朝直は忽ち北条氏に靡き孤立したため、天文十七年に北条氏に降伏。長らく北条氏に従属していたが、長尾景虎の呼びかけに応じて永禄四年の小田原城攻めに参じ、以後は上杉方として活動。永禄七年の第二次国府台合戦では安房の里見氏らと北条氏に対するが敗北。さらに北条氏康の娘を妻としていた嫡男太田氏資が北条氏に内応したため、岩付城より追放され、成田氏・宇都宮氏を頼って流転。永禄九年、常陸の佐竹義重に客将として迎えられ、以後佐竹氏のもとで活動。北条氏滅亡を見届けた翌年死去。

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