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平沼騏一郎

(社会)
ひらぬまきいちろう

元首相。日本大学総長。右翼思想家。
1867年10月25日岡山県生まれ。
東京帝国大学法学部卒業後司法官僚となる。
1921年 大審院長*1
1923年 第2次山本内閣で法相
1939年 内閣総理大臣に。独ソ不可侵条約締結の責任を取り(彼の極端な反共主義に因る)退陣。
1940年 近衛内閣の国務相兼内相。
太平洋戦争後、極東軍事裁判にてA級戦犯となり、終身刑が言い渡される。
1952年病気仮釈放直後に死去。

国本社を結成し、戦前の右翼思想に多大な影響を与えた。

平沼赳夫衆議院議員の大叔父に当たる。

 平沼騏一郎 1867-1952
司法官、政治家。美作国に生まれる。兄は経済史学者平沼淑郎。
明治十六年東京大学法学部に入り(「明治十六年事件」で一時退学処分を受けた)、二十一年帝国大学法科大学を卒業。司法省参事官試補を命ぜられ、民事局勤務。判事試補として芝区・京橋区・東京地裁・千葉横浜地裁・東京控訴院部長を経、明治三十二年東京控訴院検事に。三十八年大審院検事に、三十九年司法省民刑局長に。四十年英独仏へ派遣、法学博士称号を与えられる。日糖疑獄の処理や幸徳事件(大逆事件)の取扱いで名を上げた。四十四年刑事局長、大正元年(1912)検事総長。大正三年シーメンス事件、四年大浦内相事件、七年八幡製鉄所事件で腕を振るう。明治四十年法律取調委員、大正八年臨時法制審議会副総裁に任命され、立法・法改正に参画。
大正四年、東洋道徳学術の究明振興のため「無窮会」を創立。大正十年大審院長、十二年第二次山本内閣の司法大臣に。関東大震災直後に組閣されたこの内閣では重鎮の一人で、十一年に発布された「国民精神作興に関する詔書」に関与。この内閣は虎ノ門事件で辞職するに至る。
無政府主義・社会主義の勃興に危機を感じ、大正十三年それまで東京帝大学生中心に組織されていた「国本社」を改組し社長に就任、司法関係者・軍人・財界関係者・官僚・学者などを会員とする国民精神作興のための大団体に成長させる。大正十二年「修養団」団長も引き受け、国本社の別働隊と見なされた。大正十二年日本大学総長に就任。
十三年貴族院議員に勅撰されたが、枢密顧問官に任じられ、十五年副議長就任、男爵を授けられる。この前後から反政党的で「復古」的な「現状打破」をめざす閥として平沼閥が喧伝され、首班候補として話題に上るようになる。
満州事変以後は軍部からも期待を受ける(海軍の加藤寛治、陸軍の真崎甚三郎と連携)が、元老西園寺公望は平沼の「右翼」的体質を好まず機会を得なかった。
ジャーナリズムからファッショ的存在と見られたが、昭和七年(1932)内外にこれを否定する声明を発し、昭和十一年枢密院議長就任にあたり国本社会長を辞任、国本社解散。
昭和十四年近衛内閣を引継ぎ内閣を組織した。「支那事変処理」を中心議題として掲げ、近衛内閣の「革新」政策は引き継がなかった。緊張した国際環境の中で、国内で対立する諸勢力の調整に苦慮したが、独ソ不可侵条約の締結を機に八ヶ月で総辞職。この時期から「現状維持」派と目される。
昭和十五年第二次近衛内閣改造で内務大臣に就任。第三次近衛内閣には国務大臣として留任(十六年には「現状維持」派として狙撃され重症を負う)、東条内閣の成立に伴ない辞職。以後重臣の一人として重きをなす。昭和二十年枢密院議長就任。
敗戦とともにA級戦犯として収監、二十一年東京裁判に起訴され終身禁固の判決を受ける。昭和二十七年死去。八十四歳。
 出典;『日本近現代人名辞典』(吉川弘文館、2001年)879-880pより抜粋要約。

*1:現在の最高裁判所長官

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