水上勉の文章に戻ります 「丹波口駅の建物は田舎の幼稚園よりも小さいくらいで、切符を売る窓も、その前の三和土も、改札の柵も、これが京都の町なかにある駅かと驚かされるほど貧相だった。 不思議だったことは、駅前広場といっても、いまのように自動車など走っていないころだから、自転車置場がわずかにあるくらいで、そこからまっすぐに島原通りがあって、両側は妓楼だった。つまり、駅前通りは遊廓のまん中を通って、大宮へ出る直前には、有名な通り門があった。つまり、『丹波口駅』は遊廓の裏口だった。」 丹波口駅から真っ直ぐに東進したとすれば正面通を歩いたはずですが、「有名な通り門」すなわち島原大門に到達したということなら…