(主に中京を中心とした)東海地方の方言で、自転車のこと。 語源として、(ペダルを)蹴ったくる(蹴りまくる)からという説がある。地方によっては「ケッター」と伸ばす場合もある。
類語の「ケッタマシーン」は、自転車を意味する「ケッタ」と機械を意味する「マシーン」の複合語で、「ケッタ」同様に自転車を指す地域と、原動機付き自転車のことを指す地域があるようだ。 関東地方のママチャリの同義語で「ママケッタ」と呼ぶ地域もある。また、「婦人ケッタ」と言う地域もある。
社会の中では私たちは、「あれをするか、これをするか」「あっちにつくか、こっちにつくか」「それを悲しむか、見なかったことにするか」という選択肢がいろいろに与えられるけれど、社会の向こうにある世界は選択肢など与えてくれず、茫洋としていて手がかりがない。人はその手がかりのなさに耐えなければならない。それはそのまま、カフカやベケットを意味づけせずに読むことだと言えるのではないか。 (保坂和志『小説の自由』 p.351) 9時30分起床。よく寝た。歯磨きをすませて洗濯機をまわす。11時前になったところで寮を出る。第四食堂の「(…)」で麺を食す。店員の兄ちゃん、こちらの存在をおぼえていたらしく、唐辛子はい…
科学的思考法が無条件に前提とされている時代を生きている私たちは、ある本の中で書かれていることの真偽を確かめるためには、その本の外に広がる現実世界の中でその内容が実証されなければ「真」とは言えないという風に考えるのをあたり前としている。しかし、書物でも思想でも、体系を持っているものは何よりもまず、それが整合性を持っていることの方が重要で、体系として矛盾がなければ「真」と考えられる、という考え方の方が実証主義的な判定法よりも思索という行為の歴史の中で長くつづいてきたはずだ。 体系としての整合性を時間をかけて考えずに、事実がそのとおりだからという理由によってある説が「真」とされる考え方は反証の出現を…
以前にこの連載で、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』にアウレリャノのアルカディオが何人も出てくるからといって、単行本に家系図を収録しても意味がないと言ったこととか、カフカの『城』の章ごとの出来事を並べていっても『城』に書かれていることの全体を記憶しなければ意味がないような気持ちになると言ったことは、つまり視覚化した思考でなく本当の思考が小説の理解には求められるという意味なのだが、習熟するということは仮定=不確定要素を頭の中に溜めておいてそれを操作できる量が増えることなのだ。そういうことを私が考えるようになったのは、麻雀と将棋からだった。 詰め将棋は図面を見ているだけで駒を手で動かすことはしない…
小説の想像力とは、犯罪者の内面で起こったことを逐一トレースすることではなく、現実から逃避したり息抜きしたりするための空想や妄想でもなく、日常と地続きの思考からは絶対に理解できない断絶や飛躍を持った想像力のことで、それがなければ文学なしに生きる人生が相対化されることはない。 (保坂和志『小説の自由』 p.261-262) 8時過ぎにドリルの音で目が覚めた。朝の8時からドリルで部屋の工事をするという発想が理解できない。来世はモグラかミミズにでもなっていればいい。時間にやや余裕があったので、朝食をとったあとにインスタントコーヒーを飲み、授業のシミュレーションを軽くした。いつもミネラルウォーターを買う…
しかし私にとってうちの猫たちがかけがえがないのは、私が猫それぞれの個性を発見したからではない。それは逆で、かけがえがないから個性の違いが一層よくわかるようになっただけのことで、猫がもっとずっと個性の違いを見つけにくい生き物だったとしても猫は私にはかけがえがない。 堂々巡りになるが、そのかけがえのなさは一緒に暮してきた時間にしか根拠がないのではないか。——ペットショップでの出会いでも捨て猫(犬)との出会いでも、「最初に目と目が合って、もうメロメロになった」という言い方があるけれど、一緒に暮らす過程で発見していく個性とだいたい同じものとして、「最初の出会い」が飼い主と猫(犬)との絆の〝神話〟として…
読者は気がついているだろうか? 私はここで、自分のことを「私」と書いたり「こっち」と書いたり「読者」と書いたりしている。しかもこの段落にも「読者」という呼び名が出てきていて、前の段落の「読者」は「私」から移行してきた「読者」であり、この段落の頭にある「読者」は私自身を含まないいま読んでいるあなたであるのに混乱は起こしていない。さらにまた「いま読んでいる」と、苦もなく書く私は、書いている私にとっては一ヵ月ちかく先になるこの文章が読まれる時間を平然と織り込んでいる。 実験的に「あなた」という呼びかけではじまる小説がある。「あなたはいま憂鬱とも期待とも呼べる重く華やぐ気持ちを抱えて列車の窓側の席にす…
負けに負けまくっている我らがタイガースですがオープン戦なのでへっちゃらなのです。 嘘です。 ちょっとこたえてきました。 辛いです。 ま、そんな事はいいのです。 ええんかい… はい、で、昨日の夜ですねうちの美しい嫁とテレビを見てたんですよそしたらね{(甲)自転車を降りて押すシーン}があったんですよ。甲って何だ?うるさいです。後で使いますから。で、うちの可愛い嫁は名古屋民なのですが僕は西宮生まれの東大阪育ち四半世紀ほど前にはるばる名古屋に来たわけです。名古屋に来た当初は関西との違いを色々面白がったりしてました。散髪屋が火曜休みな事やなんでも味噌な事、自転車をケッタと呼ぶ事(今はケッタと言う若者はほ…
「リンゴ」や「コップ」や「犬」のようには目で確かめることのできないのが「愛」で、誰かが「リンゴ」と言って犬を指差したときに、「それはリンゴではない」と指摘するようには簡単に指摘することができないのが愛で、だから愛はその人ごとに「これが愛だ」と信じるしかない。 信じるといっても意識してそれに向かうように能動的な心の使い方をして意味を獲得したわけではなくて、愛は人生のある時点でそういうものとして勝手に定着してしまう。犬を「リンゴ」だと思い込んで育った人には、「リンゴとはこういうものだ」と正解を示すことができるけれど、愛ではその人が「愛」と信じている状態にかわる状態を示すことは難しい、というか不可能…
共感覚というと、音と色を想像しがちだが、聴覚と視覚だけでなく、視覚と味覚とか、聴覚と触覚とかの共感覚(未分化)もあると考えると、文字による描写を読んでいるときに風景が頭に浮かんでくる理由も文学としての巧拙を離れた別の様相を帯びてくる、というか文字によって表現される小説というものが五感(身体)とのダイナミックな関係に投げ出されるように感じられてくる。 (保坂和志『小説の自由』 p.14) 6時半起床。8時から三年生の日語文章選読。このクラスの授業は一年ぶり。出席をとったのち、編入組のK・KさんとS・Dさんの名前の日本語読みを確認。後者は「J・N」であるとみずから名乗ったが、人名については呉音では…
「父さんは言っているよ、おれたちが大人になるころには、何もかも機械になっているって。仕事があるのは、こわれた機械の廃棄場だけになるだろうって。機械にできないことと言ったら、ふざけることだけだ。人間の使い道は、冗談を生かすことだけさ。」 (トマス・ピンチョン/志村正雄訳『スロー・ラーナー』より「秘密のインテグレーション」 p.207) 8時過ぎ起床。10時から一年生2班の日語会話(二)。出席をとるついでに他学部に移った学生の確認。K・SくんとR・Eさんのふたりはマルクス主義学院へ。K・Sくん、念願の転籍を果たすことができたようでなにより。S・Hさんは事前に本人から聞いていたとおり外国語学院の英語…
今になってみれば「低地」は不愉快だと言っても、「エントロピー」を見なければならないときの心のわびしさに比べれば何でもない。この短編は新米の作家がいつも、犯さないようにと警告されている、手続き上の誤りの好例である。一つのテーマ、象徴、あるいは他の、統一のための因子をまず考えて、それから無理やり人物や出来事をそれに合わせるようにするのはまちがっているとしか言いようがない。 (トマス・ピンチョン/志村正雄訳『スロー・ラーナー』より「スロー・ラーナー(のろまな子)序」 p.21) 10時起床。Lから微信が届く。明日の午後4時半にオフィスに来てくれ、と。そこから彼女の運転する車に乗って晩餐会の会場に向か…