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スチュアート朝

(社会)
すちゅあーとちょう

Stuarts

イングランド王国(1603年〜1714年)およびスコットランド王国(1371年〜1714年)を支配した王朝の一。ステュアート朝と表記されることもある。
スチュアートとはもともとは宮宰(Steward)のことだったが、宮宰を世襲することでそれが家名に転嫁して、さらに宮宰から王にランクアップしたことで王朝の名ともなった。後、イングランド王を兼ねるが、二度にわたる革命、イングランドとスコットランドの合同などを経て1714年に断絶した。

略史

1603年にチューダー朝の最後の君主、エリザベス1世が独身のまま亡くなったことでジェームズ6世がイングランドの王位も得(イングランド王としてはジェームズ1世)た。
が、スコットランドからやってきたジェームズ1世とその後を継いだチャールズ1世がイングランドの空気を読まずに専制に走ったことで反感が高まり、ついに1642年には清教徒革命が勃発。議会軍を率いるクロムウェルによって王党派は破れ、1649年にはチャールズ1世が処刑されて王制廃止となる。
が、クロムウェルの死後、1660年に王政復古がなり、チャールズ1世の子が帰還してチャールズ2世として即位した。
歴史は繰り返す。チャールズ2世とその後を継いだジェームズ2世はイングランドの空気を読まずにカトリック教徒を重んじる動きを見せたので、やはり反感が高まり、1688年に名誉革命が勃発。オランダからオラニエ公ウィレムが軍を率いて上陸、ジェームズ2世は無血のうちに追放された。
ウィレムはジェームズ2世の長女メアリーと結婚しており、ここに二人がイングランド王ウィリアム3世と女王メアリー2世となり、共同統治を行うことになった。
二人に子が無かったことから、その死後はメアリーの妹のアンが即位した。さらにアンも子が無かったことから、ハノーファーからジェームズ1世の曾孫ジョージが迎えられ(ジョージ1世)、ハノーヴァー朝が始まった。

英国史

チューダー朝→スチュアート朝→ハノーヴァー朝

スコットランド史

(ブルース朝)→スチュアート朝→(イングランド王国に合同)

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