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観測問題

(サイエンス)
かんそくもんだい

波動関数の収縮に関する議論の総称。
量子力学の確率解釈では、対象を観測した瞬間にそれまで雲のように広がっていた波動関数が確率的に収縮すると考えるが、この解釈の奇妙な点を説明するのによく用いられる思考実験に『シュレディンガーの猫』と呼ばれるものがある。
箱の中に猫を閉じ込める。中には他に、致死性ガスの詰まった壜とそれを割る装置、それから装置を起動させるスイッチとなる放射線検知器、それに半減期が1時間の放射性元素1個が置かれている。
半減期が1時間であるから、1時間の間にこの原子が崩壊して放射線を放出し、装置が作動して猫が死ぬ確率は50%。丁度1時間後に箱を開けたとき、猫が生きているか死んでいるか判るのだが、では量子的重ね合わせからどちらかに収縮したのはどの瞬間なのか。人間が観測した瞬間だとすると、猫は生と死の量子的重ね合わせ状態にあったのか。
この「観測した瞬間」の定義が問題であり、この問題を端的に浮き彫りにするために使われるのがこの猫の例えであると言える。収束はいつ起こるのか。装置が放射線を感知した瞬間か。猫が装置を見た瞬間か。人間が猫を見た瞬間か。どれであっても、結局我々人間が見た瞬間には収束しているので、実験結果を説明する上では区別する必要はない。そのため物理学では観測問題は後回しにされてきた。
最も初期にこの問題にとりくんだジョン・フォン・ノイマンは「人間のような意識を持った存在が観測した瞬間に収束する」という解釈を提示した。普通の物理学者が漠然とイメージする常識的解釈は、ミクロな世界は量子的重ね合わせ状態にあり、マクロな世界では収束して古典的描像が成り立つ、というものであろう。しかしこのミクロとマクロの境目は厳密に線が引けるものではない。それに対してノイマンは意識の有無というはっきり線が引ける所で収束が起こるとした。この解釈によれば人間の眼はまだ「観測対象」であり、収束が起こるのは人間の脳においてである、ということになる。しかし一方この解釈では「意識とはなにか」というもっと難しい問題を考えなくてはならなくなる、ともいえる。
その後も様々な解釈が提示されてきたが、その中でも最近よく話題になるのが「エヴェレット解釈」あるいは「多世界解釈」と呼ばれるものである。その解釈とは「収束」はどこでも起こらない、というものである。「死んだ猫」と「生きている猫」の量子的重ね合わせ状態を人間が観測した場合、そこでどちらかに収束するのでなく我々人間も「死んだ猫を見ている人間」と「生きている猫を見ている人間」の量子的重ね合わせ状態となる、というものである。それぞれの状態の人間からすれば「死んだ猫」と「生きている猫」しか見えないのだから、収束しているのと同じことであり実験結果とも矛盾しない。これら様々な解釈の全てが実験結果と全く矛盾しない以上、どの解釈が正しいのかを実験で確かめるのは不可能である。


上で述べた様々な解釈は全て、現在の量子力学の理論的枠組みはとりあえず完全であると仮定している点は共通していて、確率的にしか予測できない現象があるということを受け入れている。
一方でアインシュタインの言葉「神はサイコロ遊びをしない」に代表されるように、現在の量子力学の理論で確率的にしか予測できない現象があるのは理論が不完全なためであり、現在の理論にはない「隠れた変数」を考えることで全ての現象を決定論的に扱うことができるはずだ、という考え方もある。このような理論を仮定すると、ある種の実験(EPRパラドクスに出てくる実験)を行った時に実験結果が「ベルの不等式」と呼ばれる式を満たさねばならないことをJ.S.ベルは1964年に数学的に示した。1982年アスペらにより実際にその実験が行われ、実験結果がベルの不等式を満たしていないことが分かり、「隠れた変数」の理論はとりあえず否定された。しかしその後もベルの不等式を満たさなくてもよい修正された隠れた変数の理論が提唱されたりもして(ただし数学的にはかなり汚くなる)、まだ完全には決着がついていないようである。


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