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橘守部

(読書)
たちばなもりべ

1781年〜1849年(天明1〜嘉永2)

江戸時代の国学者。

伊勢国朝明郡小向村で、飯田長十郎元親の長男として生まれる。号は蓬壺。江戸移住の際に波瀲舎(なぎさのや)と改める。他に池庵・生薬園など。

1792年(寛政4)年に父が一揆加担の嫌疑をかけられ、一家が破産。大坂の親戚の身に寄せる。97年(寛政9)年に江戸に移住。そこで村田春海や清水浜臣などと親しく交わるが、入門経験はなく、谷川士清に私淑しながら、ほぼ独学で国学を学ぶ。

1809(文化6)年に武蔵国葛飾郡内国府間村に移住。1816年頃から著述活動を開始する。

特に桐生や足利の商人層がパトロンとなり、守部の著述活動を支えた。

古文献を対照しながら、歴史的難語を解釈した『山彦冊子』を31年(天保2)年に刊行。とりわけ語彙や『万葉集』の注釈書も書く。

守部における学問的姿勢は、本居宣長の影響を受けながらも、『古事記伝』を反駁した『難古事記伝』を著したり、また平田篤胤と同時代人でありながら、その記紀解釈・幽冥観の部分では、独自な緊張関係を保っている。

彼の解釈によれば、「天」と「黄泉」とは不可視な世界としての「幽」のニ側面を表しているにすぎないという。従来の国学的幽冥論における三層構造としての〈宇宙〉を描くような考え方を否定した。

さらに記紀以前古伝承は、語りに即しての潤色が加えられていることを主張し、その修辞をそれぞれ「幼言」・「談辞」・「略言」・「含言」に分類し、その上で古伝承を忠実に伝えた書物としての『日本書紀』を重視する立場を打ち出した。それらの主張は『稜威道別(いつのちわき)』『稜威言別(いつのことわき)』などに見られる。

他方で歌格研究にも携わり、『長歌撰格』・『短歌撰格』・『文章撰格』という、いわゆる「三撰格」と呼ばれる書物群で、古代の歌や文章を構造的に捉えようとする意図が見られ、守部の学問的営為を考える上では、重要なものと思われる。

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