太田資正と言えば、扇谷上杉氏滅亡後、長く北条氏に抵抗したイメージがあるがそれは間違いだとのこと。太田資正は岩付太田氏の次男で、同じ扇ヶ谷上杉氏の家臣の松山城主の難波田憲重の養子として松山城に入ったとのこと。憲重には三人の子息がいたが、天文6年の北条氏との戦いで戦死したらしい。そして天文十五年の河越合戦で、兄の太田全艦が北条氏に寝返り、上杉陣営は大敗する。扇ヶ谷上杉氏の当主朝定と難波田憲重も戦死してしまい、松山城も陥落していまう。この時、太田資正は二十四才。太田資正は上野まで逃れ、その後わずか数ヶ月後に松山城を奪還する。そして、北条に寝返っていた兄が病死し、資正は岩付城も手に入れるのである。しか…