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落語

(アート)
らくご

概要

日本に伝わる話芸の一つ。何人かの登場人物や状況描写などすべてを一人の話者が行う。二人(若しくはそれ以上)の掛け合いで物語が進行することが多い。話者は高座と呼ばれる少し高い位置に座す。そして、聴衆もしくは観客に向かい語り、しぐさや声音を上手に使いながら話を聞かせ、笑いや涙を誘う演芸パフォーミングアートである。 (頑張って自分のことばで書きました。by nobody

歴史

笑い話を初めて職能としたのは室町末期の戦国大名が抱えた御伽衆といわれる。それが江戸時代になり、安楽庵策伝(1642年没)らの御伽衆が活躍するようになり、所司代の板倉重宗の招きで口演した小咄をまとめて『醒睡笑』という書物として出版し、ヒットした。その後、落語は上方発展して行くが、時代はとんで寛政十(1789)年、江戸に三笑亭可楽、三遊亭円生、上方に桂文治が登場し、定席が設けられるようになって落語は一気に広まった。
明治に入ると、東京では三遊亭円朝を中心とする三遊派と柳亭燕枝を中心とする柳派が競い、百花繚乱の様相を呈する。さらに明治の終わりから大正にかけては三代目柳家小さんが出て、東京の落語を支えた。他方の上方でも明治二、三十年代に全盛期を迎えるが、その全盛期を支えた二代目桂文枝らがなくなると、漫才や音曲、奇術を中心とした色物本位の興行が人気を博すようになり、そして大正十五年には花月亭の吉本泰三が独占体制を築いて、上方落語は漫才の添え物の地位に堕ちて行った。
昭和になると、東京では小会派が乱立するが、いろいろあって、昭和8年に古典派の「落語協会」と新作派の「落語芸術協会」に統合され、現在の体制が形作られる。戦中には自ら禁演落語などを選定して、力を弱めるが、戦後に復活、古今亭志ん生、三遊亭円生、三遊亭金馬、林家正蔵、柳家小さんなどの古典派が活躍して昭和三、四十年代にブームを築いた。上方では、まず二代目桂春団治、続いて五代目笑福亭松鶴が昭和の落語界を一手に支え、何とか火を絶やさずに戦後へとつなぎ、昭和三十二年には「上方落語協会」が結成され、上方落語四天王と呼ばれる、笑福亭松鶴、桂米朝、桂春団治、桂文枝の活躍で上方落語は息を吹き返した。
(by ケニー・ルーザー@cafe the gentleman looser

主な落語家

誰か埋めてくださいな。
三遊亭円生
古今亭志ん朝
立川談志

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