死刑は殺人か 1

中山千夏さんの死刑廃止論である『ヒットラーでも死刑にしないの?』(築地書館)という本を読んでいる。僕は、総論としての抽象論である死刑廃止には賛成だ。抽象的な論理としての結論では、死刑は廃止する方向で考えることが、民衆としての立場としては正しいと思う。民主的に考えれば、これは多数の人の利益になることとして正しいと僕は思う。

しかし、論理としては正しいと思っても、感情的な引っかかりがあるだろうことも理解出来る。そこで、中山さんが語る、この感情的な引っかかりの部分を考えてみようと思う。まず、第一章で語られているのは、死刑と殺人は同じものかというものだ。これに対しては、犯罪としての殺人は不正であり、死刑として凶悪犯を殺すのは、正義の実現として正しいのだと考える人がいるかもしれない。この感情の引っかかりを、論理でいかに埋めるかと言うことを、中山さんの文章をヒントに考えてみたいと思う。

殺人を辞書で引いてみると、「人を殺すこと」と出ている。漢字を文字通り解釈した意味になっている。この定義に機械的に当てはめてみれば、死刑も、死刑囚を殺すのだから「人を殺すこと」であり、殺人だと言うことになる。しかし、この解釈では、現象を短絡的につなげただけで、本質を見ているとは言えないだろう。

表面的には同じように見えながら、違う点が犯罪としての殺人と死刑の間にはある。だから、この違う点をまずは考察しなければならない。そして、それが違うように見えるにもかかわらず、本質においてはやはり同じだったと結論出来るなら、その結論は、短絡的な素朴な結論とは違ってくる。より深く本質を捉えた結論として回帰してくるのだ。

これを弁証法では「否定の否定」という法則として捉えている。エンゲルスが、最初の素朴な見方が正しかった場合があとで確認されるときがあると語っていたような例に重なる認識だ。エンゲルスが語った例は、熱に関するもので、最初の素朴な見方というのは、摩擦によって熱が発生するという素朴な経験から来るものだ。これが後にフロギストン(熱素)というものとして考えられて、素朴な見方がいったんは否定される。しかし、後に運動エネルギーが熱エネルギーに転化するという本質的な見方が提出されて、最初の素朴な見方が、一段高いレベルで復帰した。

認識の発展というのは、このように素朴な見方がだんだんと深まってレベルが上がっていくようになる。それが「否定の否定」と呼ばれる認識の法則になるのだが、これはいつでもそうなるとは限らない。最初の否定で終わってしまう場合もある。これは、素朴な見方が間違っていたという結論になるわけで、素朴だから正しいとは限らない。素朴な見方が、本質を捉えている、逆の意味で言えば、末梢的な部分を捉えられるほど発達していなかった(賢くなかった)おかげで本質だけが見えた場合に、後にそれが復帰してくる可能性があるのである。

仮説実験授業をやっていると、もっとも難しい問題に関しては、非常に優秀な・対象について深く知っている生徒と、無駄な知識を持っていない・素朴な見方をする劣等生とが同じ正解を出すと言うことがある。これなどは、認識における「否定の否定」の法則が正しいことを示す実験のように僕は感じていた。

さて、犯罪による殺人は不正で、死刑による殺人は正義の実現で正しいものだと考える人は、もしかしたら末梢的な部分にこだわって本質が見えなくなっているかも知れない、という視点でこのことを考えてみよう。中山さんが語る、両者の違いの一つは「手続きの正当性」というものだ。

犯罪による殺人はもちろん許されているものではない。たとえどのような理由があろうとも、個人が行う殺人は許されない。正当防衛と言うこともあるだろうが、それも、最初から相手を殺すつもりで防衛をするのではなく、やむをえず相手を死に至らしめてしまったという場合になるだろう。犯罪による殺人には正当な手続きというものは無い。殺人はすべて犯罪として裁かれる。

しかし、死刑の場合は、警察による逮捕から始まって、検察の側の証拠調べ、裁判を経て、正当だと思われる手続きによって死刑が決定される。だから、これはその正当性において違いがあるから、表面的には人が殺されるという共通点はあるものの、同じ「殺人」という言葉で語ることは出来ないと思う人がいるかもしれない。

これは、なかなか反駁することが難しい論理構造だと思われる。しかし、手続きの正当性が、行為の正当性と同等かどうかということでこのことを考察出来るのではないだろうか。手続きの正当性が、そのまま行為の正当性を保障する場合もあるし、そうでない場合もあるのではないかと考えられる。この二つの場合を正しく区別出来れば、死刑の正当性を、その手続きの正当性で保障出来るかどうかも考えられるのではないかと思う。

日本にいる外国人とつきあっていると、入国管理法というものが時にやっかいなものと感じられることがある。以前に荒川区で、タイから来た中学生が、この入国管理法によって一時帰国しなければならないと言われたときがあった。その中学生は、タイにはもう身寄りがなく、ただ一人の肉親である祖母を頼って日本に来ていた。そして、祖母は、その子を自分の養子として手続きをし、日本で生活出来るようにしてやりたいと思った。

しかし、入国管理法によれば、日本での「定住権」が得られるのは、特別養子と呼ばれる制限がある子供だけで、この中学生の場合は、年齢の面で特別養子になれなかったようだ。そうすると、一定期間の後に、日本での滞在許可を取るために本国へ帰らなければならなくなる。しかし、現実的には、身寄りのない中学生を一人でタイに帰らせて、正当な手続きだけをしてこさせるというのはいかにも理不尽なことである。

しかし、入国管理局の命令は、手続きとしては正当だから、この子だけを特別扱いすることは出来ないと言うことで、入国管理局の職員は、この命令を伝えざるを得ないだろうと思う。幸いなことに、法務大臣の判断で、この中学生は特別に滞在許可をもらったが、この特別措置が、正規の手続きの中に入っていなければ、同じような問題はまた生じてくるだろうと思う。

現実には理不尽だと思われることでも、法律に明記してあれば、それは正当な手続きを経て執行されなければならない。その執行をサボることになれば、法律の効果というものがなくなり、社会の秩序が保てなくなる。ということは、法律に明記されている死刑についても、それが明記されていると言うことで、その正当性が保障されているように結論されてしまう。それでは、死刑は正当だと言うことになるのだろうか。

これには一つの但し書きが必要だ。それは、現在の法律においては正当なのだという条件を付けなければならない。入国管理法に対しても、それが現在の形のものがあるから、タイの中学生のような問題が生じてしまうのであって、そのような問題に対処出来るように法律を変えれば、問題そのものはなくなってしまう。つまり、行為としては理不尽であっても、それに正当性を持たせることが出来てしまうのは、法律が現在の形を取っているせいなのである。

法律は、その手続きの正当性の根拠は与えるが、行為の正当性は与えない。むしろ理不尽である行為を温存する働きを持つ。だから、行為そのものに対しては、それを理不尽であると判断するかどうかが重要になってくる。タイの中学生に関しては、法務大臣が特別許可を出した。つまり、法律に従った行為は、手続きとしては正しいが、行為としては理不尽だったと判断したわけだ。そして、行為としては理不尽だから、手続きが正当であっても、執行してはならないと言う判断を下したのだと考えられる。

死刑の問題に関しても同じように考えられる。それが理不尽で不当な行為だと思うかどうかだ。行為そのものが理不尽で不当だと思えば、たとえ手続きが正当であっても、それを執行させてはならないと思うだろう。場合によっては手続きそのものを改めるという方向へ行く可能性もある。

手続きが正しいから死刑に正当性があると考えるのは、論理の展開としては逆にならなければならない。死刑に正当性があるのなら、それを行う手続きを整備して、手続きにも正当性を持たせることで、死刑の正当性を損なわないようにしなければならない、と考えなければならないのだ。

手続きの正当性とは別に死刑の正当性を主張する必要があるのだ。それでは、それはどこから言えるのだろうか。それが言えなければ、犯罪による殺人と死刑の違いはないということになり、最初の素朴な見方が正しいと言えるのだと思う。

もう一つの正当性の主張に関わりがあるのは、殺人の主体の違いというものだと中山さんは考えているようだ。犯罪はあくまでも個人が行う。組織から命令された殺人であっても、直接手を下すのはあくまでも個人だ。そして、犯罪の責任は、実行犯と命令をしたものと別々に問われる。

しかし、死刑の場合は、死刑囚の命を直接奪った人間に対して、殺人の責任を問うことはない。死刑における殺人の責任は、法律を制定し、それを遂行している国家にある。ここに違いを見て、国家が行うと言うことを根拠に、死刑の正当性を主張する論理が立てられるかも知れない。

これに対しても、中山さんは反駁を用意しているのだが、それはまた項を改めて考えてみようと思う。

死刑は殺人か 2

中山千夏さんの死刑廃止論は、犯罪による殺人も死刑による殺人も同じものだと言うことを論拠に、犯罪による殺人が許されないものであるなら、同じように死刑による殺人も許されないことだという展開をする。これは、前提となる、「殺人」という点では両者は同じということを認めるなら、論理展開としては間違いがない。

両者が同じ「殺人」であれば、一方が許されるなら他方も許されなければならないし、一方が許されないなら他方も許されないということで同じでなければならない。一方が許されない不当なもので、もう一方が許される正当なものであると主張するなら、その両者が同じものではないということをいわなければならない。

そこで、前回は、法律によって正当な手続きが取られることが両者の違いだということを検討したが、これは、現在の段階ではそうであるが、法律を変えるなら正当な手続きそのものがなくなるので、行為としての両者の違いは、手続きの正当性からは導かれないということを見た。行為としての違いが言えなければ、行為としては同じになる。つまり、行為としては死刑に正当性はないと結論しなければならなくなる。

さて、今回は、両者の違いをその主体の違いに見る視点を考察してみようと思う。行為の主体の違いが、その行為の正当性と不当性を区別する違いを反映したものになっているだろうか。

犯罪においては、殺人の主体はあくまでも個人である。そして、その個人には他人を殺す権利はない。だから、いかなる殺人であろうとも、個人が行う殺人は正当性がなく、犯罪となる。それに対して、死刑の場合は、その行為の主体は国家という機関である。直接殺人を行うものは、国家の役割を分担する個人であるが、その個人は個人的な自分の意志で死刑を行うのではない。あくまでも仕事として行う。この違いに、死刑の正当性が含まれているだろうか。

ちなみに、死刑の際に最後に命を奪うことになるスイッチを押すのは複数の人間で行うと聞いたことがある。これは、誰か特定の個人が死の責任を負わないように、誰が最後のスイッチを押したかが分からなくなるような工夫としてそのようにしているらしい。このことからも、死刑の主体が、個人ではなく国家という機関なのだということがうかがえる。

さて、国家には、罪を犯した人間を死刑にする権利があるのだろうか。個人には、他人を死に至らしめる権利はなかった。それが、国家というものになると、その権利を持ちうるだろうか。それを論理的に整合的に説明することが出来るだろうか。

この問題の解答の一つは、正義のための殺人は許されるとする考えだ。国家は死刑において正義を実現する。そのためであるなら、それは正当化され、許される殺人になるという論理だ。死刑廃止論者である中山さんは、この「正義のための殺人」に反対する。正義のためであっても殺してはいけないと主張する。

これは、正義というものが、科学的真理のように、立場を越えて同意出来るものにならないからだ。国家にとって正義であるものでも、立場を変えれば正義ではなくなることがある。正義というのはあやふやなもので、そんなものを基礎にした判断は信用出来ないというわけだ。

板倉聖宣さんは、正義というものはその時代の主流派の常識に過ぎないと語っていた。正義は多数決で決まってしまうのだ。このようなものに依拠して判断をすれば、それは時代や立場が違ったときに間違いになる。死刑を執行してしまったら、その間違いは取り返しがつかないのだから、正義を基にして死刑を許してしまってはいけないということになる。

この正義というのは実にやっかいなもので、板倉さんは「いじめは正義から始まる」と指摘しているし、中山さんは「戦争は正義から始まる」と指摘している。攻撃的で相手を傷つける行為は、それが不正なものから発生している場合は、それほど大きく傷つかずにすむ。攻撃する方が悪いことが明らかだからだ。しかし、攻撃する方が、正義だと思ってやっていることは、下手をすると相手を徹底的に傷つける恐れがある。

そのような弊害を持っている「正義のための殺人」は、間違えたときの影響の大きさを考えれば、やはり許してはいけないという結論を導くことが論理的な整合性があるのではないだろうか。現実の判断というのは、決して間違えないということがない。間違えたときに、取り返しのつかない結果を招くよりも、取り返しが出来るように配慮しておくことが、論理的には整合性があると思うのだ。

ここで、中山さんは、百歩譲って国家が決して間違った判断をしないと仮定してさえも、正義のための殺人には反対するという。その正義が常に正しくても、そこから死刑による殺人の正当性を導くことは出来ないと主張するのだ。

「それは、「どんな理由があろうと、殺人はいけない、やめよう」という私たちの大切なルールを弱める恐れがあるからだ」と中山さんは語る。最初から、このルールを大切なものと思わない人間だと困るのだが、一応これは大事なことだと思う人に対しては、「正義のための殺人」なら、やむを得ないこととして許されるという考えが、このルールを弱めるだろうことは想像出来る。

「どんな場合でも」と語っているのに、この「特別の場合だけは」と考えれば、「どんな」ということが薄められるのは必然的だ。「どんな」は例外を許さないのに、例外を設定することになるからだ。

この例外を許すことがどのようなものにつながってくるのかを想像しよう。この例外は、正義のためであれば殺人が許されるとするのだから、正義ということが確認された時点で、殺人が行われる可能性が出てきてしまう。

例えば、相手が攻撃してくるかも知れない状況なら、相手を倒すことが正義になるので、その場合には相手を殺してもいいということになってしまう。相手が攻撃してくるかどうかがはっきりと分からなくても、攻撃してくると思い込んだら、相手を殺すことが正義によって許されてしまうことになる。

これは、アメリカによるイラク攻撃の論理であり、イラクの危険性を語るアメリカの言説がほとんどでっち上げだったことを思うと、このような論理が誰の役に立って、誰の不利益になるかは明らかではないかと思う。

また、国家ではなく個人的なレベルで同じようなことを考えると、かつてハロウィンの衣装で間違って射殺されてしまった日本人留学生のことが頭に浮かんでくる。彼は、銃を構えたアメリカ人に対して攻撃をする気は全くなかったにもかかわらず、射殺したアメリカ人は、彼からの攻撃を恐れて銃を撃って殺人を犯した。正義のための殺人が許されるという考えがなかったら、彼はいきなり射殺されるようなことはなかったのではないか。

オウム真理教教団が行った地下鉄サリン事件なども、彼らにとっては正義の殺人だったことがいまでは知られている。それは、我々にとっては正義ではなかったが、オウム真理教信者にとっては正義だった。そして、彼らは、正義のために多くの人が犠牲になるような事件を起こした。

どんな場合でも殺人はいけないということが、もしも常識として人々の中に強く存在していたら、このような事件の加害者は、いきなり殺人を犯すという動機は持たなかったのではないか。死刑というものが、正義のための殺人は許されるのだという前提を持っているとしたら、その前提こそ否定されなければ、殺人という悲劇は少なくならないのではないかとも思える。中山さんは次のように主張する。

「「どんなに理由があっても、どんなに自分が正しくても、他人を傷つけたり殺したりしてはならない。それは人間として最低の行為だ」という考えが社会に強まれば強まるほど、殺人事件は抑制されるはずだ。
 正義の殺人=死刑の存在は、私たちが殺人を根底から否定していないことの印である。そしてまた、個人が正義の殺人に走るときのお手本である。
 私たちには、どんな理由があってもどんな正義があっても、他人を殺す権利はない。そのことをはっきり示すために、私たちの総体としての国家には、どんな殺人の権利も持たせてはならない、と私は思う。」

僕もその通りだと思う。中山さんが語る死刑廃止論に強く共感するところだ。最後に、中山さんは、死刑という殺人は、制度として存在しているので、制度をなくしてしまえばなくすことが出来ると指摘する。どんな理由があっても殺人はいけないということを正しいとするなら、なくすことの出来る殺人である死刑を廃止することは、この正しさを守ることになる。

また一方では、死刑ではない、犯罪としての殺人は、どのような努力をしてもなくすことは難しい、とも中山さんは語っている。人間はどうしても過ちを犯すからだ。死刑を廃止することは、この過ちを犯した人間を不当に許している甘い考えではないかと感じる人もいるかも知れないが、論理的にはそのような結びつきではなく、次のように考えるべきではないかと思う。

どのような殺人であれ、殺人は許されるべきではない。だから、その許されない殺人の一部である、死刑による殺人は確実になくすことが出来る殺人だから、まずこれから先になくしていって、その後に犯罪としての殺人が減る方向に努力していこうというふうに考える。これは、決して犯罪を許しているのではなく、解決の方向として、その順番の方が有効ではないかと考えるということだ。

死刑というものが、犯罪として行われる殺人と同じものである、と認めるなら抽象的には、死刑廃止という方向が正しいと結論出来るのではないかと思う。論理としてはこれが正しいと理解出来ても、何かすっきりしないところが残る人は、まだ感情の部分が納得していないのだと思われる。中山さんが語る各論として、その感情をどう受け止めるかということを次は考察してみようと思う。