「自由」について考える

今週配信されたマル激には衆院議員の保坂展人さんが出ているのだが、保坂さんの話の中で非常に興味深いものがあった。それは、内申書裁判で有名な保坂さんが、教師との会話の中で聞いたというものだった。

保坂さんは、非常に主体的な人間だったので、かなりの強い自己主張の持ち主だったと思う。その自己主張に対して、教師の側は、保坂さんが何を考え・何を思おうと、それ自体は保坂さんの自由だという。思想・信条の自由だというわけだ。しかし、それを表明して他の人間に影響を与えるのはいけないというのだ。ビラを配ったりする行為はいけないというのが、教師の主張だった。

これは、教師である僕が言うのは変な感じもするが、この教師の「自由」に対する考え方はおかしいと思う。この教師は、心の内面としての思想・信条の自由は認めているけれども、それと深い関連を持っている「表現の自由」を認めていないからだ。「表現の自由」のない「思想・信条の自由」などと言うものが考えられるだろうか。

保坂さんが語った教師の考えでは、表現すること自体がいけないという意味ではなく、表現することによって引き起こされる事態が「迷惑」だと言っているのだと思う。その「迷惑」は自分たちにとって困る事態だから、それはいけないと語っているのだと思う。しかし、それならば、その「迷惑」が禁止されるほどのものだと言うことをちゃんと証明する必要があるだろう。「迷惑」だと思うことは仕方がない。これは内面の問題だからだ。しかし、「迷惑」だと言うことで禁止するという、現実的な行動に結びつく場合は、その行動の正当性を証明しなければならない。

教師の判断の方が正しく、保坂さんの判断が間違えていると言うことは、証明抜きに決まっていることではない。具体的な行為に沿った考察でそれは証明されなければならない。その考察なしに、教師の権威で保坂さんの行為を禁止していたように僕は感じたので、その教師の論理を変だと思ったのだ。

このことは一般論として考えても面白いと思った。「表現の自由」には具体的な行動が伴う。その表現によって影響される人間が必ず出てくる。だから、そこでは、具体的な現象に対して、何らかの制限が必要になってくることも想像出来る。「表現の自由」は、無制限の自由ではなく、それが実際に実現されるときは、いつでも何らかの条件付きで実現されると考えなければならない。

表現の自由があるからと言って、どんなことでも表現してもかまわないと言うわけではない。もっとも大きな制限は、プライバシーに関するものだろう。個人がプライバシーとして守りたいものは、他人が勝手に表現するわけにはいかない。この制限は論理的に納得出来るものだ。

では、「思想・信条の自由」は、表現さえされなければ、心の中で思うだけだから、どんなことを思おうと自由だろうか。これは、他人に決して知られないものであれば、それを非難することも出来ないのであるから、原則的には自由だと言えるだろう。問題は、その内心の思いを知ることが出来たとき、どこまでを「自由」だと言えるかと言うことだろう。

本人がことさらにそれを表現したいという意図を持っているなら、その表現することに伴う責任は生まれてくるだろう。この表現に対しては、実質的に影響が出た段階で責任を問うのか、それとも表現した時点ですでに責任を問うのかは難しい問題だ。ある種の表現に関しては、表現した時点で責任を問うというものが、今話題になっている共謀罪だろう。共謀罪は、「自由」に関する一般論とも関係していると思われる。

凶悪犯罪に関しては、その意図を表現した時点で責任を問われるのは仕方がないことだろうか。例えば、殺人というような凶悪犯罪では、「殺してやる」というような言葉を吐いただけで、その人間は裁かれるべきだろうか。

これは判断が難しいと思う。人間というのは、感情的な動物だから、「殺してやる」と思う感情はすぐに生まれてくるが、それを実際に実行する人間は少ない。感情が収まると、そのような気持ちが冷めてくるからだ。映画「12人の怒れる男」では、理詰めで追求してくる一人の男(ヘンリー・フォンダが演じていた)に対して、理屈ではなく感情で容疑者の少年を死刑にしたいと思っていた男(リー・J・コップが演じていた)が、激高して「殺してやる」と叫んでいた場面があった。その男は、もちろん、本当に殺すつもりはなかった。激高した感情が、そのように叫ばせてしまったのだ。

もし、表現しただけで罪に問われるのであれば、感情に流される人間は、さまざまな場面で罪に問われそうな恐れが出てくるだろう。これは果たして正しいのか。もし、凶悪犯罪であると言うだけで、表現したとたんに罪に問われるのであれば、人間は感情的な表現をしてはいけないと言うことが、道徳ではなく法律で規制されると言うことになる。本来道徳的に規定すべきことを法律で規定してひどい結果になったというのは、すでに禁酒法や生類憐れみの令という歴史的な経験がある。それを繰り返すことになるのではないか。

表現したとたんに罪に問われるというのは、もっと厳しい条件が必要だろう。それが表現されたと言うことだけで大きな影響を与えるのだと言うことが証明されなければならない。共謀罪は、機械的に4年以上の刑罰に及ぶものを対象にすると言うことではなく、本当に、それが表現の自由を制限してまでも規制する必要があるのだと言うことが納得出来るものに適用されなければならない。

僕は、犯罪的な意図であっても、少しも実効的な準備をせずに、単に表現しただけであるなら、罰則の対象にしてはならないと思う。それは、まったく空想的なもので戯言と呼べるものかも知れないし、もしかしたらある種の芸術表現かも知れないのだ。実際の犯罪は恥ずべきものだが、推理小説における殺人は、芸術として楽しんでいるものになっている。表現するだけで罪に問われるのなら、このような推理小説的なものが許されるという根拠が無くなってしまう。

実際に責任を問われるのは、考えただけのものではなく、表現されただけのものでもなく、具体的な準備をして実行に移そうという意図が明確に判断出来るものだと思う。その段階に至っているものなら、たとえ実行前であろうとも罪を問うことが出来るだろう。しかし、表現しただけのものは、罪に問えないと僕は思う。

しかし、それでも、重大な犯罪については、その段階で見逃すのは手遅れになるのではないかと心配する人もいるだろう。だが、もし重大な犯罪を計画している人間がいたとしたら、彼らはそんなに簡単にその犯罪に対して表現をするだろうか。それが重大であればあるほど、外に対しては表現をしないのではないか。

そのような重大な犯罪を未然に防ぐには、彼らの表現を見るのではなく、具体的に何をしているかという行動を見なければならないのではないか。もし、そうせずに、何を表現しているかに規制をかければ、犯罪的でない普通の人の行動に大きな規制をかけることになる。自由が失われていくことになる。

普通の人の行動に規制をかけると言うことは、権力の側に大きな力を与えると言うことになる。自由に率直にものが言えなくなれば、権力批判などと言う危ないことを語る人間はいなくなる。かつて収容所国家などと呼ばれた旧ソビエトのように、反体制という思想だけで刑罰を与えられる国家になってしまうだろう。多くの人が非難する「北朝鮮」よりもひどいことになるのではないか。

宮台真司氏は、「自由」というものを選択肢の問題として考えていた。選択肢が与えられていて、その選択肢のどれをも選ぶ可能性が与えられ、どの選択肢を選ぶのがもっとも最適かという判断能力があるときに、もっとも「自由」が実現された状態という風に見ていた。この「自由」が拡大することは、人間の文化の発展でもあると僕は思う。選択肢が増えることが望ましい。選択肢を減らし、「自由」を制限する方向に向かうのは、文化の発展の逆行だ。

表現の自由」を失うことは、やがて内面の自由である「思想・信条の自由」も失う方向へ行くだろう。規制され、選択肢が狭まれた表現の自由しかなければ、その狭められた範囲内で考えるしかなくなる。戦前・戦中の軍国主義下での生活を想像すると、その非人間的な姿が想像出来る。自由を失うことは人間でなくなることと一緒だ。

権力の側は、現在における不安を煽って、安全の確保と引き替えに多少の自由を制限するのはやむを得ないという宣伝をしてくるだろう。アメリカは、それが今かなりひどい状況になっているらしい。共謀罪などというものが提出されている日本でも、その傾向が強く出ていると思われる。

多少の自由の制限が、やがてはすべての自由の制限に結びついて来るという、軍国主義の経験は、すでに風化してしまっているのかも知れない。しかし今こそ敏感にならなければならない。今が不安が強い時代だということは確かだろう。しかし、それは自由を制限することで解消出来るものなのか。自由を制限しても、なおかつ安全が確保出来ないのではないか。それは、むしろ統治権力の民衆への監視を強めていくだけのことになるのではないか。実質的な安全の確保は、難しいだろうが、庶民にとっては連帯の意識を高めて、仲間だから傷つけてはいけないのだという道徳を復活させることで実現されるのではないかと僕は思う。庶民にとっては、連帯して助け合い、平和を確保して豊かさを分け合うことこそが、本当の安全の確保になるのではないか。