「従軍慰安婦問題」と米下院の「対日非難決議案」


少々古くなってきた話題だが、ようやく考えがまとまってきたのでそれを記しておこうと思う。この話題が出始めたころ、マル激の中で宮台真司氏が、この非難決議案のひどさというのを語っていた。それは全く歴史的事実に基づいたものではなく、ある意味ではでたらめなでっち上げに近いもので日本を非難しているもので、これに正しく反論しなければならないものだと語っていた。

もしこれに反論しなければ、そのでたらめを受け入れたことになってしまうので、いわれのない非難に対して反論することは外交的にも必要だというのが宮台氏の主張だった。そして、そのときの安倍首相の発言として、日本が国家として、あるいは軍として組織的に強制連行したと取られるような言説に反論したものとして、その主張を一定の範囲で支持していたことを思い出す。

僕も、この問題は歴史科学の問題として捉えるのではなく、外交の問題として考えるべきではないかと感じていた。それは、日本の戦争責任を正しく告発したものではなく、ある種のプロパガンダとして、反日的なイメージを高めるために提出された外交問題として処理すべきだろうと感じていた。だから、この問題で戦争責任を告発しているとか、正しい歴史認識をもつべきだというような議論をするのは間違っているのではないかという違和感を抱いていた。

宮台氏の言葉を借りれば、この問題で重要なのは、すべての責任を国家に帰するのではなく、どの程度の責任なのか、どの部分の責任を国家が負うべきなのかという、具体的な責任の帰属の問題を議論すべきだという点を確認することなのではないかと思った。そういう意味では、強制連行というような事実も、どの程度までが軍の組織的関与と言えるのかという、具体的な分析が必要なのではないかと思う。

宮台氏によると、この種の議論が日本で行われると、100%軍が悪いか、あるいは軍にまったく責任がないという0%の議論になってしまう。結論が両極端に分かれてしまうのだ。しかし、現実というのはそれほど単純ではないので、実際には曖昧な部分がたくさんあるはずだ。軍が正式な命令を下しているかという問題では、おそらくそのようなものは見つからないだろう。慰安所を建設するということは、本来の軍の任務とは関係がないからだ。

それでは、正式な命令がないから責任はまったくないという話になるかといえば、これもそう単純ではない。慰安所を軍が利用して役に立てたことも確かな事実だろうと思う。ストレスを抱えた兵士のガス抜きにもなっただろうし、明らかな犯罪行為に流れるのを防いだということもあるだろう。それなりに利用価値があったのであれば、何らかの関与があっただろうことは確かだと思う。便宜を図ったり、その利権を握って私服を肥やした人間もいたことだろう。

これらの責任がどこに帰属するかというのは単純な話ではない。宮台氏の「連載第一三回:「行為」とは何か?」によれば、行為は意味的なものであり、物理的な現象として外見は同じであっても、その文脈的な意味は違うものでありうる。そして、その意味の違いによって、責任の帰属する先も違ってくる。

何らかの犯罪行為が行われたとき、その犯罪行為を、その実行者である個人が主体的に判断して行ったのなら、その行為の責任はその実行者個人に帰するだろう。売春行為というものが犯罪行為ではなくても、強制連行のようなものは犯罪行為として当時でも告発できるものだと思われる。その犯罪行為の際に、主体的に判断したのが、その連行をした個人であったのか、連行をするように命令したほかの個人であったのかで責任の帰属先は異なる。そして、命令の系統をたどったときに、軍に到達すれば日本軍の責任が問われなければならないし、国家に到達するようであれば日本という国の責任が問われなければならない。

強制連行に関しては、それの責任を国家に問うのはいろいろな背景から言って蓋然性がないということを宮台氏は語っていた。これは僕もそう思う。慰安所の設置を国家が計画するということ自体はやはり考え方としては無理がある。国家に責任があるとすれば、その設置に際して違法行為があったのにそれを取り締まらなかったという面に絞るべきではないかと思う。もしこのようなことさえも国家に責任を問うならば、道徳面でも国家は国民を管理すべきだというような間違った方向の議論に発展しかねないのではないかと思う。

強制連行に関する「狭義」と「広義」という考え方は、本来はこのような観点から議論されるべきだっただろう。責任の重さを測る見方として提出されるべきだった。しかし、安倍首相の言い方が、何か言い逃れをしているように受け取られたり、日本はまったく反省していないのではないかという、0%の責任の主張のように受け取られたのは外交の失敗ではないかと思う。

その後マル激のゲストに出ていた首相補佐官の世耕議員も、最初のミスを取り戻すために、責任の部分を認めるような方向を取ることを語っていた。しかし、それが今度は逆の失敗につながりかねない様相を呈してきた。責任が0%ではないということを語っているはずなのに、今度は100%日本が悪いという受け取られ方をしかねないような印象を与えている。これもまた困ったことだと思う。相応の責任を負うことは僕も賛成だが、いわれのないことにまで責任を背負わされるようなら、それは不当な非難ではないかと感じる。宮台氏が語っていたが、そんなときに自らを左翼だと思っていた人間も、自分の中のナショナリズムという愛国心に気づくようになる。いわれのない非難というのは、一時のプロパガンダとしては大衆動員的な成功をもたらすかもしれないが、長期的には、正しい判断をする人々を離反させるようなマイナスとして働くのではないかと思う。

田中宇さんの「日米同盟を揺るがす慰安婦問題 2007年4月3日」によれば、「今回の騒動の最大のポイントは、なぜアメリカの側が、今のタイミングでこの問題を持ち出してきたのかということである」そうだ。そして、それを考えると、これは明らかに政治的な意図があり、外交的な処理として対処することが正しいと思われるものだ。

田中さんによれば、「日本では、下院で対日非難決議の提案を主導した日系のマイク・ホンダ議員が、戦争犯罪問題で日本を非難する市民運動を続けている自分の選挙区の中国系アメリカ人から政治献金を受けていたことから「中国政府が日本を陥れるために在米団体を使ってホンダ議員を動かした」「これは中国の陰謀だ」といった見方が出ている」という。ホンダ議員にはこの決議案を提出するだけの政治的な意味があったということだ。

そして、「米下院の外交委員会では、2月中旬に慰安婦問題を審議したが、その際に証人として呼ばれた元慰安婦らは、いずれも以前から反日運動を展開してきた活動家として知られている人々だった」ということも報告されている。これらの事実から伺えるのは、この決議案による告発は、政治的運動の一環として行われているということだ。民意の反映というよりは政治的プロパガンダとして出されている可能性が高いものと思われる。

日本政府の外交問題として最も大きなものは、この決議案に対して当然米政府の側は、日本との親密さから言っても一蹴してくれるくらいの扱いをしてくれるものと思ったらしいところだ。ところが、これがそうはならずに議会を通りそうになったところから、日本の外交の迷走が始まったようだ。

田中さんは「米議会で審議されている日本非難決議を見ると、その内容は、左派の人々の主張の中でも過激な方のトーンを採用していると感じられる。決議案は、慰安所での日本軍の行為について「ギャング的な強姦、強制堕胎、性的暴行、人身売買など、多数の非人道的な犯罪行為が、20世紀最大の規模で行われた。前代未聞の残虐さと広範囲を持った犯罪だった」と書いている」と語っている。そして、これを翻訳したものとしても、「honyakushaの日記 2007-04-16」を見ると、

  • 1930年代および第二次世界大戦の間、若い女性を性奴隷(一般には「慰安婦」と呼ばれる)にした責任を日本政府は公式に認めるべきである」という意見を表明する。

日本政府は「性奴隷」にする目的で慰安婦を「組織的に誘拐、隷属」させた。

  • 慰安婦は家庭から誘拐されたか、または嘘の勧誘によって性奴隷にされた」

日本政府の慰安婦制度は慰安婦に対して「人道に反する数え切れない犯罪」という苦痛をもたらした。

  • 史家は20万人もの女性が「性奴隷にされた」と結論付けた。
  • 本の歴史教科書の中の慰安婦制度に関する記述を縮小または削除しようと日本政府は努力してきた。
  • 本政府は「この人道に反する恐ろしい罪」を現在および将来の世代に教育するべきであり、慰安婦への支配と隷属はなかったという主張を公式に否定するべきである。
  • 本政府は慰安婦に関して国連とアムネスティ・インターナショナルの勧告を受け入れるべきである。


というような記述が見られる。慰安婦の問題が国家の責任がどの程度かというのは議論の余地のあるものであり、「「組織的に誘拐、隷属」させた」と主張したのでは、かえってそのようなことはなかったと反論されるのではないだろうか。

ここで語られている告発は、日本の国家的イメージを引き下げるには大いに役立つだろうが、それが本当のことなのかということにはかなり疑いを入れざるを得ない。プロパガンダとしては短期的には役立つかもしれないが、それが嘘だとわかったときには、取り返しのつかないダメージを左翼の側に与えるだろう。

特にこのような主張が日本国内で受け入れられるとは到底思えない。むしろ、今まで左翼だと思っていた人間にさえナショナリズムの高まりを感じさせるようになるだろう。アメリカの一議員の選挙対策のために日本のイメージダウンが利用されるなんて我慢がならないと思う人間のほうが多いのではないだろうか。

日本政府にとって困ったのは、米政府の立場が必ずしも日本を守るほうへと向いていなかったことだろう。そこで安倍首相も、ブッシュ大統領と直接会った時にこの話を持ち出したのだろう。謝罪の意を語るなら、ブッシュ大統領ではなく被害者である慰安婦のほうではないかという主張も見られたが、これが外交問題であるという捉え方をすれば、ブッシュ大統領に謝罪の意があることを語るのは、外交的には当たり前のことではないかと思われる。被害者である慰安婦個人に対してそのように言った場合、100%の責任を認めていると受け取られかねないので、むしろ言わないほうが普通ではないだろうか。

外交的には、日本政府はこの問題では大きな失敗をした。米政府に大きな借りをつくり、有効な外交カードを与えたというのがこの問題の妥当な解釈ではないだろうか。歴史科学としての戦争責任の問題は、この決議案の問題とは切り離して考察しなければ間違えるのではないかと思う。

この外交的失敗を取り戻すには、田中さんが「改善しそうな日中関係 2007年4月12日」の中で報告しているように、中国との関係改善によってアメリカに対して有効な外交カードを作る道ではないかと思う。そういう意味では、今年の8月に安部さんが靖国神社へ行かないと決断すれば、日本の外交は中国との関係改善に向かっているのだなと判断できるのではないかと思う。

義務教育における7つの教育方針 1


『バカをつくる学校』(成甲書房)からジョン・テイラー・ガットさんの主張を細かく見ていこうと思う。まずは最初の章から「7つの大罪」として断罪されているものを見ていこう。前回の最後に紹介した、「一貫性のなさ」がその第1番目なのだが、これは、教育の全体を見渡す人間がおらず、それぞれが専門分化された自分の狭い利権の範囲で重要性を主張することによってこの「一貫性のなさ」が現れていると僕は思っていた。

しかし、よく考えてみると教育の全体を見渡すなどということができるものかという疑問も湧いてくる。もともと教育というのは単純なものではなくとても難しいもので、計画的に全体を設計してもそのとおりにいかないものではないだろうか。むしろ、計画どおりに行かないものだからこそ、偶然遭遇したすばらしさを的確にキャッチしてそれを生かすことのほうが大事になってくるのではないかと思う。

そういう意味では、全体を把握していないことによる「一貫性のなさ」の弊害よりも、「一貫性がない」にもかかわらずそれがあるかのように装って押し付けてくることのほうが害が大きいのではないだろうか。正しい捉え方は、学校で教えていることが必要不可欠のものであると考えるのではなく、かなり無駄も多いんだけれど、興味と関心が強ければものになるかもしれない、という捉え方ではないだろうか。必要不可欠なものはごくわずかなのではないだろうか。

実際ジョン・テイラー・ガットさんは、読み書きと計算は100時間もあればものになると言っている。つまり必要不可欠なものはごくわずかの時間で身についてしまうのだ。それもそれほどの苦労をせずに身についてしまう。板倉さんも、仮説実験授業の基礎になるのは、日本語が理解できるという言語能力だけで十分で、科学の知識などはまったく要らないと語っていた。

必要不可欠な知識がごくわずかのものであると、実は学校に利権がある人間にとってははなはだ都合が悪い。それなら学校などはそれほど必要ではなくなるからだ。ジョン・テイラー・ガットさんは、まさに学校などいらないという主張をしているのだが、それは余計なことをすることによる害が大きすぎると考えているからだ。この余計なことは、ものを考えない、刺激に対して快感を求める資本主義社会の維持に都合のいい大衆を育てるのには役立つ教育となる。一貫性のない学校に対する次の批判は痛烈で爽快なものである。

「まともな人間が求めるのは、バラバラの事実ではなく、意味である。教育とは、生のデータから意味を引き出させることなのだ。パッチワークのような時間割や、事実と理論ばかりを優先する授業の中では、意味を模索することなど出来ない。これは小学校ではもっと難しい。そこでは、子どもに出来るだけ多くの体験をさせることが望ましいとされ、親たちはまだその嘘に気づいていない。
 そもそも物事には自然な順序というものがある。人間がまず歩くことを覚え、それから話すことを覚えるように、日の出から日没までの太陽の動きや、鍛冶や農作業といった昔ながらの手仕事、あるいは感謝祭のご馳走の準備など、どんなことにも流れというものがある。そこでは、一つ一つの動きに正当な理由があり、前後との結びつきによって、全体が完全に調和している。ところが、学校教育においては、一つの授業にしろ、一日の時間割にしろ、常に順序がめちゃくちゃである。教師も教師で、学校の方針には逆らえないため、批判の手段になるようなことは決して教えない。生徒が何かを「学ぶ」とすれば、それは宗教の教理問答を暗記するようなものだ。」


時間割というものは、あまりにもそれに慣れすぎているので、あるのが当たり前だと思っているが、実はそれが一貫性のなさを象徴するものだという指摘は目から鱗が落ちるように感じる新鮮なものだ。なぜその教科の学習が選ばれているのか。理論的な妥当性は多分ない。どうして好きな教科に専念してはいけないのか、僕は中学生のころからそう思っていたが、それが教育的に間違っているということの理由をいまだに見つけられないでいる。満遍なく何でもやらなければいけないということの弊害はきわめて大きいのではないかと僕は感じる。

批判の手段になることを教えない教員という指摘もまったくそのとおりだと思う。個人主義が徹底しているアメリカでさえそうなのだから、日本ではさらにこれは深刻だ。日本では、教員がそれを教えないというよりも、教員自身が批判ということをしたことがないので、批判そのものがどういうものかというはっきりした確信をもっていないように思う。

多くの場合教員の批判は的外れだと思うからだ。教員が語ることは批判ではなく要望であることが多い。それをすることが正しいという主張ではなく、自分は困っているからこうしてほしいという言い方のほうが多い。要望がかなえられていないという文句は多いが、それはこうあるべきだという正当な主張は少ない。真理を主張して批判するということの経験が多分少ないからだろう。

アメリカの教員は自分に不利になるから批判の方法を教えないが、日本の教員は、批判そのものを知らないので教えることが出来ないように僕は感じる。もちろん、どちらの国でもまともな批判が出来る人は育たない。しかし、エリート教育が行われているアメリカでは、エリートの間では正しい批判が行われているようでもある。日本では、学校エリートには正しい批判が出来ていないような感じがする。宮台氏のような、学校エリートからはみ出した人間が本当の意味での批判を行っているように見える。

次にジョン・テイラー・ガットさんが指摘するのは「クラス分け」の弊害だ。これも、学校においてはまったく当たり前に存在するものだけに、これがどれほど悪いものであるかはまったく気づかない。ジョン・テイラー・ガットさんが指摘するのは次のようなことだ。

  • クラス分けは、生徒が望んだものではなく、学校が勝手に決めたもので、生徒の自主性を破壊する。
  • クラスでは生徒に番号をつけ、彼らを管理することを目的にする。逃げ出してもすぐに連れ戻せるようにする。(自由を脅かす)
  • クラスは同年齢のものだけを集めて、同質の集団を作る。そこでのコミュニケーションは特殊なものであり、一般社会のモデルとしての人間関係を築くことが出来ない。


このようなクラスの特徴からどのような弊害が生み出されるかといえば、ジョン・テイラー・ガットさんは次のように語っている。

「いずれにせよ、私の仕事は、生徒を番号によってクラスへ閉じ込め、それに順応させることだ。上のクラスは厳しいもの、下のクラスはダメなものという先入観を植え付ければ、彼らは自分の地位に満足し、クラスは軍隊のようにびしっとまとまる。」


つまり、この特徴が最も生かせるのは、生徒を支配する道具として働くときなのだ。どこかに気の合った友達がいても、クラスを越えてその友達と過ごすことは出来ない。また、年少者の扱いがうまいものがいても、同年齢集団には入り込めない。年長者の手伝いがあればうまくいくようなときもそのような助けは得られない。一般社会であれば、指導したりされたりという役割が演じられるが、同質集団であるクラスではそのようなことはうまく運べない。

クラスでは、指導の役割はすべて教員が独占し、生徒の役割としては、教員の意思をうまく伝えることが出来る優等生になったり、指導に従う従順な生徒として、未来の有能な労働者への道を歩む生徒になることだ。自立して自分の頭でものを考えるような子どもは、それが出来ない優等生からは憎まれ、足を引っ張られることだろう。

ジョン・テイラー・ガットさんは、「クラス分けの目的は、子どもたちに自分のレベルを自覚させ、そこから脱出するには、点数を上げるしかないと信じ込ませることである」と語っている。これはアメリカのことであるのに、僕には妙にリアリティを持って、日本の学校のことだと思えるから不思議だ。

クラス分けを子どもの自由にしたらどうなるだろうか。おそらく混乱し秩序を破壊するだろう。その中で教員はあたふたして困るに違いない。しかし、混乱するからそれは駄目なんだろうか。秩序がないから間違っているのだろうか。教員が困るからそれはやってはいけないことなのだろうか。

クラス分けをすることで、教育的にどれだけの意味があったのか。それは積極的に教育を進める意味はまったくなかったのではないか。管理という面で役立つだけで、それは本来の意味での教育ではないのだ。

教育的に意味がなくても、それが害悪として働かないのであれば、どうでもいいんだよという意味で偶然そういうクラス分けになっていると受け止めればいい。しかし、明らかに害悪として働いているときは、それはやはりなくしたほうがいいのではないかと思う。

内藤朝雄さんや宮台氏は、いじめをコントロールするためにはクラスをなくしたほうがいいという提言をしている。東京の単位制高校では、実際に制度的にクラスを無くして成功している。クラスは、今の時代はもはや無用の長物になってしまっているのではないだろうか。

学校がある種の混乱を経て、その反省の結果としてより建設的な方向へ向かうという可能性はあるだろうか。日本社会ではこれはきわめて難しいように感じる。学力観を変えることで学校を変えようとした「ゆとり教育」は、ある種の混乱を学校にもたらし、学力低下を招いているということで非難された。このとき、その混乱を経てもなお、「ゆとり教育」が目指している方向が正しいのだという確信があれば、混乱の回避のために昔に戻るという選択は取らなかっただろう。

ゆとり教育で減った分の時間をまた増やすことで学力低下に歯止めをかけようという動きが学校には見られる。昨夏には、東京都葛飾区の中学校が夏休みを縮めて授業時間を確保するということをした。しかし、その年の学力テストでは葛飾区は23区の最下位に落ちてしまったという笑えない結果になった。前年は最下位ではなかった。時間だけを増やしても中身を変えない学習は、少しも学力低下をとどめることはできないということを証明したようなものだ。

残りの5つの指摘に対しても細かく考えていこうと思う。

教育の荒廃に対する日教組批判


メーデーの集会の後に寄った書店で、買わなかったのだが手にしてぱらぱらとめくってみた本が『マンガ 日狂組の教室』という本だった。これは、日の丸君が代に反対し、自虐史観の歴史を教える日教組教員を揶揄しているような漫画だった。この漫画の表現はあまり公平な感じがせず、日教組に対する深い恨みがこもっているように感じた。

右翼的な勢力の、極端な日教組批判を知るには役立つ本かなと思った。批判としては的外れで説得力がないと感じたが、このような恨みを抱かせた事実はやはりあるのではないかとも感じた。この漫画で描かれた学校は、まるで洗脳されたかのような左翼思想の生徒が登場するのだが、極端な左翼思想の押し付け教育がされる場面が描かれている。

実際にこのような学校があるのか、という批判もあるだろうが、漫画の場合にこのような批判をしてもあまり意味がないように感じる。漫画はフィクションであり事実を描いているわけではないからだ。むしろ、このようなイメージを抱かせた反日教組の感情というものがどのような事実から生まれたものかを考えたほうがいいのではないかと思う。

この漫画は高校が舞台になっているのだが、そこには通称名として日本風の名前を名乗っている在日朝鮮人の少女が出てくる。その少女に対して、日教組の教員と、その教員に洗脳されたクラスメイトは、通称名ではなく本名を名乗れと言って迫ってくる。その背景があまり描かれていないので、通称名と本名との本当の問題というのがここには描かれていないのだが、無理やりに価値観を押し付けてくる教員によって少女が不登校になってしまうように描かれていた。

漫画の描き方としては、イデオロギーに凝り固まったまるで新興宗教的な狂信的な教員によって、生徒が毒されていくというイメージを与えるように感じた。このような教育が学校の荒廃を招き、人生を狂わせたのだと考えている右翼的な人々はけっこう多いのではないだろうか。これは日教組に対する正しい批判になっているようには感じないのだが、感情的な恨みの気持ちとしてはよく分かる。僕も、押し付けに対しては抵抗したい人間だったからだ。

本編とはあまり関係がないかもしれないが、この少女に対して、教師が「強制連行で日本に来た在日朝鮮人の子どもたち」と呼んでいたのが印象的だった。日教組的な左翼歴史観ではそのように教えられたのだと、この漫画の著者は考えているのだろう。それはどこからきているのだろうか。著者自身の体験なのか、それともどこかにそういう教育実践があるのか、知りたいものである。

僕は、日教組の間違いは、このような反体制的なところにあるのではなく、本来は党派性のある組織であるのに、そこが教育という客観性を持った営みに対して正しい方向を提出できると考えたところにあるのではないかと思う。教育研究を日教組がリードできると考えたところが、最も大きな間違いであり、そここそが批判されなければならないのではないかと思う。

日教組という組織の本来の存在意義は、教員という労働者の労働条件を守ることにある。それこそが本来の役割であり、そこにとどまる限りでは、日教組は大きな間違いはしなかったのではないかと思う。教師は労働者かという議論がかつてはあったが、働いて給料をもらっているのだから労働者であることが当然で、組合があるのなら、その組合は労働者としての教員の条件を守るためにあるのが当然であると思う。

しかし、教育という仕事の内容に関しては、労働組合がかかわる問題ではなかったと僕は思う。それは、なにが正しいかということが問われるべき問題であり、何が利益となるかという問題とは本来は関係ないはずだ。それに、正しい教育なら、組合員であるかないかにかかわらず、教員の財産として共有すべきものになるだろう。

自由な研究・研修というものがなかったので組合がかかわらざるを得なかったという歴史的背景があるにしても、組合は教員の利益を代表しているので、中立的な組織ではないという自覚は忘れてはならなかっただろうと思う。組合はしょせん利害代表組織であり、難しい深刻な問題では、利害当事者として判断を間違える可能性があることを忘れてはならなかっただろう。

最初は組合がかかわらざるを得なかったとしても、それはやがては中立的な組織による運営を目指し、客観性を持った研究をする方向にいかなければならなかっただろう。それが、組合的な党派性の歯止めがないまま研究が進んだために、必ずしも客観的に正しいとはいえないような教育が無理やり押し付けられたということがあったのではないかと僕は感じる。

僕がかつていた養護学校では「発達保証論」という理論が正しいものとして、学校全体の実践にそれが押し付けられていた。僕は少人数で担当できるクラスを担当することにして、その押し付けから逃れることを考えたが、この理論は、障害児教育としては間違っていたと今でも僕は思っている。

党派性というイデオロギーは客観的判断を曇らせる。そういう意味では、行政側という統治権力が押し付けてくる教育も客観性はない。それは、現在の支配勢力の意向を反映した、利権の維持に役立つような教育に都合のいいものを提出してくると考えたほうがいい。それと同様に、反体制の組合的な発想の教育は、やはり反体制的なイデオロギーに都合のいい教育が提出されてくると考えたほうがいいだろう。

両者が歩み寄って協力すれば、どちらにもいいものができるかというと、これはそれほど単純ではない。たいていの場合は、両者が歩み寄ると、両方にとって都合が悪いと思われる部分を切り捨てることに同意したものが結果的に現れてくるようだ。毒にも薬にもならないものが出て、利権の維持に役立つということになるのだろう。

本当に客観的な科学的な研究をするには、どちらからも一定の距離をおいた、党派性を越えた存在が必要なのだが、これがおそらくたいへんな難しさを持っている。どちらからも距離をおかなければならないので、それをしたいという人間が自発的に、自分の金で参加してくるようなシステムでなければならないのだが、組合的な発想では、研修は教員の権利であり仕事であるからそれに金を出させるのは当然だという発想になり、行政の側は金を出しているのだからそれを管理統制するのは当然だという発想になり、ここには研究にとって最も重要な自由というものがなくなる。

ひも付きにならず、どちらにも縛られない自立した人間として研究をするというのは、日本社会では意外なくらい難しい。研究というのはノルマに従ってするものではない。それを必要とする人間が、自分の関心の強さにしたがって進めるものだ。日教組の大きな罪を告発するなら、教員の中から、そのような自発性をそぐようにシステムが働いてしまったことではないかと僕は思う。

日教組批判の最も肝心な部分は、日教組の活動は、教員の仕事を楽にしてはくれたけれど、それと引き換えに教員の仕事の魅力を捨てさせたことではないかと思う。自虐史観の問題や日の丸・君が代の反対は、日教組批判としては、学校に混乱をもたらせた現象としても的外れの批判なのではないかと感じる。

日教組は労働者としての面を代表しているに過ぎない。それは重要なことではあるだろうけれど、教育の中身に関しては、自由で自立した教員が自主的に研究して確立しなければならない。教育の中身まで組合に任せてはいけないのだと思う。

教育研究の中身にまで干渉してくるようなら、相手が行政であろうと組合であろうとも、それに客観性があるかどうかの批判をしなければならない。少なくともそれが教員の専門性というものだろう。

以前から右派勢力の日教組批判はピントがずれていると思っていたのだが、それがかなり深い恨みから生じているのではないかというのが、この漫画をぱらぱらとめくっているとわかった。このような恨みを抱かせたというのは、やはり教育の内容としては間違っていたのではないかと思う。妥当性のある日教組批判というものを内部からも考えていきたいものだと思う。僕は、昔も今も日教組組合員だから。