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2007-07-11

[]アルゴリズムの心地よさ


ナンバープレイス・イラストロジック・ループコースというパズルに共通するのは形式論理のみを使ってそのパズルの解答を求めるということだ。ナンバープレイスで言えば、ある数字がその枠に「入る」か「入らない」かという排中律と、同時に両方が成立しないという矛盾律を駆使して、その数字を決定する。イラストロジックでは、ある格子のマスを「塗りつぶす」か「塗らない」かということに形式論理を適用する。ループコースでは、正方形の4つの辺のうち、どの辺を実線で引くかという個数が示されている。この場合は、実線に「する」か「しない」かということに形式論理が適用される。

このパズルをやり始めた初心者の時は、どこに数字が入るか、どこが塗りつぶされるかを、一つずつ考えながら形式論理を展開していく。しかし、慣れてくるとそのうちに、このパターンは必ずこうなるはずだという法則のようなものがつかめてくる。一つのアルゴリズムが見えてくるのだ。そうなると、そのアルゴリズムに従う限りでは、そこでは最初にいろいろと試行錯誤をしたときのような思考の展開は無くなり、機械的に解答を書き入れていくようになる。

パズルというのは、マニアにとっては、考える過程が面白さを感じさせてくれるものなのだが、ほとんど考えることなく、機械的に解答を書き入れていくアルゴリズムが思った以上に心地よいことに気が付いた。それは、かなり面倒な作業で、しかも機械的であるから、やっているうちにいやになるのではないかとも思うのだが、そんなことは無く、同じことの繰り返しが非常に心地よい気分を与える。何時間繰り返していても飽きないと感じるくらいだ。

これは、数学屋としての僕の特殊性からくるものなのか、それとも、人間は一般的にアルゴリズムを好むものであるのかどうか、教育的には面白い観点からの考察ではないかと思う。もし一般的にアルゴリズムというものが人間に心地よさを与えるなら、アルゴリズムを教えるということは、教育的に非常に有効な方法だと思えるからだ。アルゴリズムの習得によって、学習は楽しいものになるだろうか。

アルゴリズムに似たものに、反復練習というものがある。これは初歩の段階でどうしても必要なもので、反復練習なしに初心者が初心者の段階を脱して上達することは出来ない。だが、この反復練習は、単調でつまらないものとして、初心者にはあまり歓迎されていない。

スポーツなどは、初心者と経験者の差がかなり出るものだが、初心者は複雑な動きを同時に制御しなければならないような練習をしていたのではなかなか上達しない。一つ一つの動きを単純化して、その動きのみを反復して練習したほうがいい。まずは一つの動きを身体に覚えさせて、その覚えた動きを後で総合して制御できるようにして初めて上達ということが出来る。そのような理屈が了解できると、つまらないと思える反復練習も、それを終えた後の上達している自分の姿を想像することで、つまらなさを乗り越えて面白さを発見することも出来る。だが、それが見えない間は、つまらない反復練習よりも、すぐに試合をするような面白い動きのほうを一般的には人間は好むのではないだろうか。

スポーツの練習で初心者を上達させるには、つまらないと思える反復練習を、面白い動きの中にどのようにして取り入れるかということが重要になるのではないかと思う。アルゴリズムにも同様の面があるように感じる。僕はアルゴリズムに心地よさを感じたが、これをつまらない反復練習のように感じる人もいるかもしれない。それは、どこに違いがあるからなのだろうか。

一つの違いを感じるのは、僕の場合はアルゴリズムを自ら発見していることだ。自らアルゴリズムを発見しているので、それが到達する先を見通すことが出来る。そのアルゴリズムが解答へ至る道でどのように利用されているかが分かりながらアルゴリズムを適用している。そのようなアルゴリズムは、単調な繰り返しにとどまらず、動的な変化を感じさせてくれる。これは、走るというような単調な運動で、ゴールのイメージを持ちながら走ることが出来ると、その単調さを少し解消できるということに通じる感覚ではないかと思う。

このアルゴリズムを、その手順だけを教えられて、反復練習として単調な繰り返しの練習にしてしまうと、そこには楽しさが失われてしまうのではないだろうか。自らアルゴリズムを発見するのではなく、手順を教えられることによって習得するものであっても、その終点が示されている場合は、単調な反復練習という受け止め方でなくなるのではないかとも感じる。

アルゴリズムが楽しいものになるのは、そのアルゴリズムの終点が良く見えているときなのではないだろうか。もしそのような状況でアルゴリズムを展開しているのであれば、アルゴリズムの楽しさは、一般的に誰もが感じるといえるのではないだろうか。これは、実りある努力を体験するということでもあるのかなと感じる。アルゴリズムは、それだけを取り上げれば、面倒な努力を要することでもある。しかし、その努力は到達点が保証されており、努力すれば必ず報われるというものになっている感じがする。人間は、報われる努力は嫌いではないのではないかと思う。それを楽しめるのではないかと感じる。

ジグソーパズルというのは、形式論理のみによって展開できるものではないので、僕はあまり好みではないのだが、それにはまる人の感覚は理解できるような気がする。それは、ゴールのイメージとしての完成された絵があることが大きいのではないかと思う。目指すべき目標がはっきりしていて、面倒な試行錯誤という努力が、報われる瞬間が自分にイメージできるので努力が続けられるのではないだろうか。しかもその努力が面白く感じられるのだと思う。

かつて三浦つとむさんは、「若さがゆえに希望があるか」というような問いかけをしていた。これは、そう言える場合もあるし、そう言えない場合もあるという、当たり前のことではあるが弁証法性を持っているという結論だった。若さに希望があるのは、そこに成長の喜びを感じることが出来る場合であり、成長よりもむしろ苦労が多く、絶望的な未来が待っているだけだと思えば、若さが故の希望はまったく無くなる。

「若いうちの苦労は買ってでもせよ」ということわざがあるが、この場合も、この苦労が実りあるものに結びつくのであれば「買ってでもせよ」と言えるが、実りあるものにまったく結びつかない苦労であれば、それは人間を消耗させるだけであり、人間をつぶす苦労になってしまう。

教育に携わる人間は、努力によって成長する過程というものを具体的に、さまざまな場合について想像できるだけの能力を持たなければならないだろう。そして、どのような努力が実りあるものに結びつき、人間を成長させるのか、どのような種類の努力が、人間を成長させるどころかつぶす方向で働いてしまうのかということをつかまなければならない。根性だけでは人間は成長しないというのを、教育に携わる人間は肝に銘じなければならない。

根性だけでは人間は成長できないが、根性がまったくなしで成長できるかというと、これも難しいものがある。三浦さんの弁証法に学んだと自ら語っていた武術家の南郷継正さんは、しごきの必要性というものを主張していた。しごきというのは、自らの限界を乗り越えて一歩高い段階へ到達するために必要不可欠のものであるという主張だった。

しかし、しごきは一歩間違えば、そこで人間をつぶしてしまう。しごきは、それに耐えられなければ人間をつぶしてしまい、教育効果は失われてしまう。しかし、簡単に耐えられるようなしごきでは、限界を一歩越えるというしごきの効果は薄れてしまう。しごきは、人間をつぶしてはいけないが、つぶすかどうか紙一重のところで課されなければならないという難しさをもっている。

しごきというのは、教育においては非常に高等な技術を要する、ハイレベルなものなのである。勢いだけで簡単に出来るものではない。相手の実力が教師以上に優れていれば、たいていのしごきには耐えてしまうだろうが、それは教育的な意味でのしごきとは呼べない。しごきに近い効果をもつ体罰に関しても同じことが言えるだろう。しごきや体罰は、教育の効果としては捨てがたいものをもっているが、それを正しく行える教育者は少ない。技術を持たない教師が、感覚的にしごきや体罰に走れば、それは大きな弊害を生むだろう。だから、一般的にしごきや体罰を禁止するのは正しいと思う。だが、本当に達人のような教師には、成長の壁を一歩越えさせるという点でしごきと体罰を使わざるを得ないところがあるようにも感じる。

しごきと体罰の有効性から、それを使うことの正当性が安易に導かれてはならないが、弊害が大きいからといってすべての教育からしごきと体罰を捨てるのは、大きな財産を捨てることにもなるのではないかと思う。難しいところだ。どのような条件を満たせば、この危険な教育技術を使ってもいいと言えるかを深く考察しなければならないだろう。南郷さんの言葉に学ぶところが大きいのではないかと思う。

アルゴリズムの教育への応用は、しごきと体罰ほどの深刻な影響を与えないものの、使い方を間違えれば教育効果が薄れるという点では同じ構造をもっているものと思われる。小学校3年生くらいまでの子どもは、算数の計算を好むという。100マス計算と呼ばれる単純な反復練習も喜ぶと言われている。これは、アルゴリズムの有効性をよく生かした教育になっているのだろう。

しかし、高学年になって小数や分数の計算が入ってくると、そのアルゴリズムは意味を理解することが難しくなり、単なる手順の記憶だけで行っていることが多くなる。そうなると、少数や分数の計算は、もはやアルゴリズムを楽しむということが出来なくなり、その面倒くささが苦痛になってくるという、アルゴリズムのもつマイナス面が大きくなる。

仮説実験授業研究会の新居信正氏は、分数の計算のアルゴリズムを発見的に理解することで、そのアルゴリズムの楽しさを見出すことに成功している数少ない教師だ。新居先生の授業は、一般化する可能性を持ってはいるものの、まだ新居先生の職人芸的なところが大きいものになっている。これを、遠山啓先生が作った水道方式のように、教育技術もアルゴリズム化して、誰もが出来るような形にすることは重要だろうと思う。分数計算の面倒さは、それを困難にしているだろうが、何とか発見的にアルゴリズムを習得できないものかと思う。

方程式の解法なども、移項などの技術はアルゴリズムの典型と言えるだろう。僕は、授業では移項のアルゴリズムを、香川県の田中先生が考案・製作した二重天秤を使って教えた。これは、実際の天秤の重りを動かすことと、移項のメカニズムを結びつけてそのアルゴリズムを発見しようとするものだ。移項というものを一度わかってしまった人間にとっては、これは確認することはやさしかったが、移項を知らない人間が発見するという点ではやや難しかったようだ。

ただ、方程式のアルゴリズムは、それを知らなかった人には心地よい作業として受け止められたようだ。始めは見当のつかなかった方程式の解が、アルゴリズムを使うことによって求められるというのは、知的な快感が得られるようだ。量子力学アルゴリズムも、そのメカニズムを理解できて、発見的に習得できれば、極微の世界という今まではよく分からなかったものが見えてくるという快感を感じることが出来るのではないだろうか。アルゴリズムは、単に機械的な手順として記憶するものではなく、発見的に習得することで世界認識を広げることが出来、そうであればこそ心地よい・楽しいものになるのではないかと思う。

2007-06-24

[]みんな仲良し教育の欠陥


楽天ブログでmsk222さんが「みんなで仲よし、って…」というエントリーを書いている。ここに書かれていたことに、以前から問題意識を感じていたので、コメントを書かせてもらった。それは、みんな仲良し教育が、共同体主義を助長して、個人の主体性を育てることを阻害するという考えだった。

共同体の中で、よく知り合った仲間が阿吽の呼吸ですごすというのは、その中で何も問題が生じない時は、非常に幸せな気分をもたらしてくれるだろう。少々貧乏であっても、助け合って生きていくことに喜びを感じ、何が価値あるものであるか、何が善であるかがはっきりと決まっているという安心感を感じながら生きていくことが出来るだろう。

しかし、このような幸せな共同体は、前近代的な社会で過ごす場合にしか残らない。近代社会を構成する原則は、このような共同体を形式的には破壊してしまうことになる。近代社会は、さまざまな自由が認められ、もはや、生まれてから死ぬまで、一つの共同体の中で暖かい雰囲気の中ですごすということが出来なくなっている。共同体の中で安定してすごせる時代ではなくなってしまうのが近代社会というものだ。

近代社会は、どこでも同じ道徳が支配するという共同体的な規範のあり方ではなく、個々の人間が、個人の自由を実現すべく自己主張の基に行動していくことを原則とする。当然、他人の自由とぶつかって軋轢を生じることが起こるだろう。このときに、お互いの自由を調整してどこまでを認め合うかということを対話するというコミュニケーション能力が必要になる。

共同体の中では、何が許されて何が許されないかが伝統的に決まっているので、この判断に迷うことはない。長く生きている人間に裁定を任せればそれですむ。共同体の中では、知識のある長老こそが尊敬に値する人間だ。しかし、近代社会は、原則的な規範が違う人々が協働して生きていくという形態を取っている。ある人にとっては当然の規範であっても、それに従わない人が大勢いるということもありうる。このときに、社会の秩序を保ったまま協働していくということがどのように可能だろうか。

共同体の伝統的規範というのは、それがなぜあるのかという理由は述べることが出来ない。それは必然的な規範ではなく、伝統として長く守られてきたということが正統性になり、守ることが正当であるということになってきたものだ。その規範があるのは偶然の結果に過ぎないが、長く守られてきたためにそれが正しいとされてきたものだ。

その規範に従う人間が、共同体内部の人間だけである時は、それをなぜ守るかというような疑問は出てこない。守ることが当然の義務であるという意識があるだけだ。しかし、違う共同体の人間は、偶然その規範が立てられているだけだということをすぐに見抜いてしまう。それに従うだけの必然性を感じないので、当然規範を破る場合があっても、それを気にかけることはない。

規範が違う、共同体として違うものに属している人間同士が協働するには、この規範の違いを秩序を乱さないように機能させる工夫が必要だ。これが道徳と法律を分離するということではないかと思う。道徳的規範は、何が善であり何が善でないかを決める。これは恣意的で偶然的なものであり、共同体によって違う。しかし、それは破られたからといって社会に対して深刻な影響を与えるものではないと判断される。道徳が守られない場合は、秩序が乱れたとは解釈するものの、秩序が破壊されたとは解釈しない。そういう道徳は、罰則を伴ったものとしての強い規制はしないでおくことが、共同体の自由を守ることになる。

それに対して、ある規範は、それを破ることがすぐに社会秩序の破壊につながるようなものがある。社会の存続を危うくさせるような種類の規範に関しては、強権をもってそれを規制しなければならないだろう。それが法律化されるということになるのではないかと思う。殺人や窃盗を許さない法律があるのは、その行為が社会秩序そのものの破壊につながると判断されるからではないだろうか。

道徳の場合は、共同体が違えば違う規範になりうる。つまり、それはある場合は善であっても、ある場合は善ではないという視点の違いによって反対の判断になる弁証法的なものと考えられる。それに対して法律の場合は、誰が考えても同じ結論に導くような形式論理的なものでなければならない。共同体によって解釈が違ってしまえば、社会全体の秩序の維持が難しくなる。オウム真理教の教団は、自らの共同体にとっては地下鉄サリン事件が正しいと判断しただろうが、社会全体の秩序の観点からはそれは犯罪だと判断されて処罰される。道徳的規範なら法的に裁かれることはないが、地下鉄サリン事件は法に違反しているために国家権力によって処罰される。あの行為は、社会の秩序を破壊するものだと判断される。

道徳的規範を法的規範として強制することの間違いは、それが共同体の自由を侵すところにあるのではないかと思う。共同体の自由を侵すというのは、共同体を破壊するということでもある。ある場面で、違う行為をしても必ずしも社会の秩序を破壊しないのだというような行為は、近代社会の自由として認められなければならないのではないか。それを認めずに、すべてを法的に縛っていけば、社会に存在する共同体はすべて破壊され、個人は孤立した存在として社会の中で生きていかなければならなくなるのではないか。徹底した個人主義が貫ければいいが、そうでなければ近代社会の自由は、個人を孤立させる恐ろしいものになってしまうだろう。

みんな仲良し教育は、「みんな仲良し」という規範を強制する教育になる。つまり、道徳的規範である「みんな仲良し」というものを、ある意味では法的規範のように強制するという形態を取る教育である。道徳を強制することの弊害がここには現れる。一般論から導かれる結論としては、この道徳の強制は、より小さな共同体を破壊し、すべてを学校共同体というものの恣意的な規範に従うように働きかける。

より小さな共同体というのは、気の合った仲間同士という子ども共同体だ。本当の意味での仲良しの共同体は、学校共同体的な意味での「みんな仲良し」の中では存在できない。気の合った仲良しで共同体を作り、その中である種の道徳的規範に従って、お互いに気持ちのいい遊び方をしていたとしても、その共同体は、気の合わない仲間は排除するという面をどうしてももたざるを得ないだろう。しかし、学校共同体規範である「みんな仲良し」は、この「気の合った仲間集団」というより小さい共同体規範を認めないので、これを破壊することになる。

実際には、気の合わない人間がいるというのは誰でも経験的にわかることだ。そしてそれは、必ずしも悪ではない。むしろ、気の合わない人間と、深いコミュニケーションを取らなくてすむような工夫をして、軋轢が必要以上に大きくならないようにすることが必要だ。気の合わない人間とは、深いコミュニケーションではないが、挨拶程度でお互いの存在を知らせるというコミュニケーションをとるというのは、その一つの技術だろう。挨拶もしないという態度では、「あなたが嫌いだ」というのを露骨に表してしまうが、挨拶程度が出来るなら、そのような態度を見せているのではないので、軋轢が大きくはならないだろう。そして、深く付き合うと、気の合わないことが大きな影響を与えてしまうが、挨拶程度の関係は、深いつき合いを生むことがないのでその弊害を避けることも出来るだろう。

社会秩序の維持には、「みんな仲良し」という規範よりも、気の合った仲間共同体では「仲良し」の関係で、そうでない共同体に対しては、薄く付き合うという規範のほうが有効に機能するだろう。気の合わない人とも無理をして付き合うという「みんな仲良し」という規範は、その我慢が限界に達したときにカタストロフ(破局)を起こす。これは、秩序の乱れにとどまらず、秩序の破壊につながってしまう。学校共同体の「みんな仲良し」という規範は、近代社会とは相容れない規範だろうと思う。

msk222さんは「「みんな仲良し」大批判」というエントリーで、僕のコメントに応えた文章を書いてくれている。ここでは、「長いものに巻かれる」という日本的な空気の悪影響が語られている。これは、本来は道徳的規範に過ぎないものなのに、強制力を持って押し付けられてくるものは、それを受け入れていたほうが楽だということから、このような気分が育てられる。自己主張を抑えておけば、「みんな仲良し」という規範は、どうしても受け入れられないというものではなくなる。

自己主張を抑えるという結果から、長いものに巻かれるという気分が育てられる。自己主張をどうしても抑えられない子どもは、学校共同体においては「わがまま」というレッテルを貼られて弾圧されるだろう。この自己主張の弾圧には、「みんな仲良し」という規範の押し付けがかなり有効に働いているものと思われる。

「みんな仲良し」教育は、いじめの温床にもなるという指摘は、社会学者の内藤朝雄さんがしていたものだが、これは道徳を押し付けるということから導かれるものだろう。道徳に違反するということは、その罰則は良心の責めというような自己の内面的な反省から生まれるものでなければならないだろう。それが強制力を伴う他者から押し付けられるものになれば、道徳ではなく法的な規範にしなければならないと思う。

道徳的規範が法的規範になれば、自己の意志から発する反省による規範破りの対処ではなく、強制的に処罰するという法的な規範破りの対処になるだろう。いじめをする子どもの大部分は、それはいじめではなく処罰をしているという意識を持っているという報告もある。板倉さんの指摘も、「いじめは正義感から起こる」というものだった。それは、規範破りに対する処罰という意識をもっているものが多いのではないかと思う。

道徳的規範を破っただけで処罰されるような社会では、そこではどのような道徳が支配しているのかという「空気」を読むことが重要になってくる。道徳であるのなら、それは違う共同体では規範となっていないこともありうるのに、それが法律のように守らなければならないものになってしまえば、「長いものに巻かれる」という気分も生まれてくるだろう。個人の主体的な判断が尊重されないというのは、日本社会の欠点として指摘する人も多い。

小室直樹氏や宮台真司氏は、旧日本軍における議論において、誰もが結果的に負けると分かっているような作戦でも、それに負けるかもしれないなどということを言い出すことが誰もできなかったということを語っていた。負けるということを言うことが許されないという道徳が支配していたのだ。負けるかもしれないということは、可能性として語る限りでは、善悪の範疇にあるものではない。しかし、この道徳が絶対視されて、誰もそれが言えないということになれば、カタストロフ(破局)が訪れなければその間違いに誰も気づかないということになってしまうだろう。

みんな仲良し教育は、主体性を破壊し、長いものに巻かれるという気分を育てるために、合理的判断を主張することを控えさせるという欠点を持っている。この欠陥は、日本社会のあらゆる場所に蔓延している。みんな仲良し教育の効果の大きさに驚くほどだ。しかし、いまや学校教育も、その内部でカタストロフ(破局)を迎えているのではないかとも感じる。ようやく、この教育の欠陥が誰の目にも明らかになってきたのかもしれない。

みんな仲良し教育は、一方ではmsk222さんが指摘するように、他者を蹴落として自己中心的に利益を追求するようなエリートを生み出す温床にもなっていたのではないかと思う。これは、みんな仲良しの反対の結果を生んでいるのだが、道徳を法のように押し付けるとき、結果的には正反対の効果を生むという社会の法則を思い出すと、これは論理的帰結だとも感じる。エリートになるような頭のいい子どもは、みんな仲良し教育の嘘を見抜き、それに恨みを抱くのかもしれない。だから、日本のエリートは、社会に貢献してみんなが幸せになるよりも、自己の利益のほうが大事になるのかもしれない。健全なエリートを育てるという面でも、みんな仲良し教育は欠陥があるのではないかと思う。

2007-06-23

[]シェーマとしてのたとえ話


シェーマというのは故遠山啓先生が、水道方式という計算体系の教育に際して、数という抽象的対象を教えるために考案したタイルという教具の特徴を指して使った言葉である。タイルという教具は、10進法の構造を教えるための教具であり、加減乗除の計算アルゴリズムの構造を教えるための教具として考案された。

タイルは、風呂の壁などについている正方形の板であり、これをつなぎ合わせ10個の細長い棒状にしたものや、縦横10個ずつの大きな正方形にして100を表したりしたものを使って数を教える。タイルの特徴は、つなぎ合わせたときの10個の塊や100個の塊を判別しやすく、10集まると桁が大きくなるという位取りの原理を、目で見て理解することが出来ることだ。

それまでは、計算棒というマッチ棒のようなものをたくさん集めたものや、お金を使って数を教えることが多かったらしい。しかし、計算棒は、10ずつ集まったという集合的な把握のイメージが難しく、10進法という位取りの原理だけを引き出すにはふさわしいものではなかった。お金は、すでに10進法の原理を知っているからこそその大小などが理解できるのであって、お金の価値と大小関係が混同される恐れもある。

また計算においても、小学生などは指を使って計算することが多いが、指は実際に動かしてみないと計算のイメージが湧かないが、タイルは頭の中に想像するのも楽に出来る。正方形であるということ以外の具体性が捨てられているからだ。足し算の時は、このタイルをくっつけて合成するという操作と足し算の計算を結びつけ、さらに10進法の構造と関連させて繰り上がりの計算を理解していくように考えられている。

このシェーマが教育的に大きな成果をもたらしたのは、教員になりたての若い教員が、計算のアルゴリズムの習得ということに関しては、ベテランの教員の実践と遜色がないくらいの結果を出したことで証明された。シェーマを有効に使うことで抽象的な概念の理解が容易になるというのは、教育においては科学的な法則として成り立つのだと思う。有効な理論と方法さえあれば、職人芸的な実践は必要なくなる。社会的な職業というのは、そういうものでなければ大衆的なものにはならないだろう。

水道方式におけるタイルは、シェーマの利用の鮮やかな成功例だと思うが、その他の教育実践を眺めても、なかなか他のシェーマの例を見つけることが難しい。適度な抽象性の対象というのがなかなかないのかもしれない。数の10進構造や筆算のアルゴリズムに関しては、ちょうどいい対象が見つかったと思うのだが、他の抽象的な概念は、具体性から抽象性への飛躍を埋めるのにちょうどふさわしい対象が見つかっていないのではないだろうか。

仮説実験授業は、抽象概念への飛躍を、仮説と実験の繰り返しの階段によってステップアップしていこうとするものではないかと思う。原子という存在は目に見ることが出来ない・想像するしかない、極めて抽象度の高いものだ。仮説実験授業では、この原子の理解に発泡スチロールで作る原子模型というものを使う。これはシェーマに当たるものになるだろう。目に見えない原子を、目に見えるような形の模型にするという、具体性を持ちながらも抽象性を表現する対象になる。

タイルというシェーマは水道方式という計算体系の中で使うことによって、そのシェーマとしての機能をよく発揮する。同じように、原子模型も、仮説実験授業の中で仮説と実験を繰り返す中で使うことで、それがシェーマとしてよく機能するのだろうと思う。その意味では、シェーマというのは、それだけを単独に取り出して利用してもあまりうまくはいかない。教育の中でどのように位置付けるかが重要になるだろう。

シェーマというのは教育においてかなり有効性を発揮するものだから、これを、ある対象の理解に利用することが出来れば自らの学びにも有効性を発揮することが出来るのではないかと思う。その一つの可能性を持ったものが、「たとえ話」あるいは「比喩」としてのシェーマではないかという感じがしている。

抽象的対象というのは、その概念を把握した人間は、それにふさわしい表現を見つけたときには、それ以外の表現ではもはや考えることが出来なくなるくらいはっきりしたイメージになってしまう。しかし、それをつかむ前は、何か得体の知れないもやもやしたものとして頭の中に漂っている感じがする。

数学における概念などは、最高の抽象度を持っているので、いったん理解してしまうと、数学用語以外では表現できなくなる。それを比喩的に他のもので具体的に語ろうとすると、数学の持っている厳密性が失われてしまう。極限などという概念はその際たるものだ。これは、数学的にイプシロン-デルタと呼ばれる論理でつかんだ後は、「限りなく近づく」などという比喩では正確さを欠いていると感じてしまう。極限は極限と呼ぶしかない。

だが、これを理解するまでは、それに近づくためのシェーマがあったほうがいいだろう。高校数学では、「限りなく近づく」という言葉で比喩的に語っているが、これは、高校段階ではそれ以上の抽象的な段階に到達することが難しいと思われているからだろう。具体的なイメージとしての「限りなく近づく」というものが、たとえ正確ではないにしても必要になるものと思われる。

しかし、「限りなく近づく」という比喩はシェーマとしては有効に機能していない。その具体性は、有限の状態からの連想で捉えられているので、実際には本当に抽象された極限の姿を見ることが出来ないからだ。これは、本来の抽象の方向に有効に結びつくようなシェーマとなっていない。むしろ無限という存在を間違って認識する可能性を持った比喩になっている。この比喩は、微分や積分の計算規則を導出するために有効に使われるが、それは計算技術の利用という問題での有効性を持っているだけで、本当の意味での抽象的概念である「極限」の理解にはほとんど役立たない。本当に極限という概念を理解したいと思ったら、有効性を持ったシェーマとして、他の比喩を探したほうがいいだろうと思う。

比喩をシェーマとして利用するというのはかなり難しいことだ。タイルや原子模型は、言葉による比喩ではないので、かなりの具体性を捨てることが出来る。シェーマにおいては、具体性を捨てられるということが決定的に大事なことのように感じる。何かある部分を抽象するというのは、それを理解できた人間が対象を見たときに正しく抽象できるのであって、初学者が対象を見たとき、余計な属性をたくさん持っている対象では、目的の部分を抽象することが難しくなる。余計なものが一緒に抽象されて、うまく概念を作ることが出来ない。

初学者にとっては、抽象したいもの以外のほとんどが捨象されている存在こそが、シェーマとしてもっとも有効に機能するものだろう。言葉による比喩やたとえ話は、具体性がたくさん残されているので、どこを抽象すればいいかというのが、すでに分かっている人間以外にはよく分からないのではないかと思う。

たとえ話で抽象的な法則性を教えるものに「ことわざ」と呼ばれるものがある。このたとえ話は、非常に具体的な表現になっているので分かりやすい。しかし、それを具体的な表現の表の意味だけで受け取っていては「ことわざ」としての機能を果たさない。そこに隠されている裏の意味である抽象的な意味を読み取る必要がある。

ことわざ辞典に「言いたいことは明日言え」というものがあった。これは、人間関係というコミュニケーションを円滑にするためには非常にいいアドバイスだと思う。しかし、これを具体的なアドバイスとして聞いているだけではことわざとしての理解は不十分である。そこに表現されている抽象性を受け取らなければ、たとえ話として機能しない。

言いたいことをすぐ言うというのは、感情の流れに任せて表現をするということだ。これは、あるときは率直さとしていいほうに受け取ってくれることもあるが、たいていの場合は、自分の利害関係において、利益となることを感情的に主張しているだけだと受け取られるだろう。言いたいことというのは、自分にとって言いたいことであって、自分は言うことに利益があるが、相手はそれを聞くことが利益かどうかはまったく分からない。相手が、それを聞くことが利益にならない、むしろ損害であると受け取るなら、その人間関係は壊れてしまうだろう。

この考察の元には、人間は感情的な判断をすれば間違える場合が多いという、一般的な認識もある。間違えないためには、感情的に短絡して反応するのではなく、その反応が多くの選択肢の中の一つであることをよく考えた後、それでもその選択肢を選ぶかということを吟味して反応したほうがいいだろう。そうすれば、同じ反応であっても、結果的には違うものとして作用する。

ことわざでは、「言いたいことは明日言え」というようなことを語って、「よく考えろ」とか、「短絡的に判断するな」というような一般論を語っていない。しかし、今すぐに言わないことで「短絡的に反応しない」ということになる。そして、明日言うことによって、その間に「よく考える」ことにもなる。感情的になっている人間に、冷静に一般論を語っても効果はないので、そのときのアドバイスとしては、実によく考えられたいいものだろうと思う。

この具体的なアドバイスを、ことわざとして受け取らないで、具体的な処方箋として受け取ってそのように行動する人もいるだろう。この場合は、ことわざ的な理解がないので、抽象的な理解はそこにはないことになる。ことわざ的に理解することによって、それを抽象的な法則として一般化して理解することが出来る。シェーマとしてのたとえ話は、このようにことわざ的な理解が出来るようなたとえ話が、抽象概念の理解に役立つものとしてシェーマになるのではないかと思う。

量子力学を調べているといろいろなたとえ話が見つかる。それは、人間の直感を超えた対象を説明しているので、その抽象性をまだ捉えていない人間には、直感と抽象の橋渡しをするものが必要なのでたとえ話で語られているのだと思う。しかし、なかなかすっきりした理解が出来るようなシェーマとしてのたとえ話が見つからない。

極限の場合の「限りなく近づく」というようなたとえに似て、物理状態の計算結果を出すという目的には役立つかもしれないと思えるようなたとえ話が多いように感じる。高校数学では、微分を解釈するよりも計算することのほうが重視されたのでそのようなものになっているようだ。量子力学でも、量子力学的な概念を理解するよりも、計算結果がうまく現実に合っていることを確かめるということには役立つが、その計算がどうして導出されてくるのかという概念の問題を理解するのに役立つたとえになっていないような気がする。どうもうまく理解できないからだ。

その中で『量子力学の基本原理』(デヴィッド・Z・アルバート著、日本評論社)という本の中に面白いたとえ話を見つけた。この本は、「なぜ常識と相容れないのか」という副題がついていて、難しい物理用語を使わずに、日常的に使われるありふれた言葉で比喩的に、量子力学的現象を語っている。その日常的な言葉の具体性に引きずられると、抽象概念の理解が難しくなるが、それが何を比喩的に語っているかということわざ的理解が出来ると、量子力学が語りたいミクロの構造というものが抽象的に浮かび上がってくる。その理解も難しいのだが、何度か読み返しているうちに、ことわざ的な裏の意味が見えて来たように感じる。ようやく、量子力学の抽象概念に一歩近づいたなという気がしてきた。今度はこれの理解を語ってみたいと思う。

2007-05-15

[]教育は手段か目的か


教育を手段か目的かと考えるとき、それを自分にとってのもの・あるいは自分の子供にとってのものというふうに個人的な立場で考えると、個人にとっていいものという価値判断的な要素が入ってくる。そうすると、手段というのは何か価値的には貶めてしまうように感じるので、教育そのものが価値をもつような目的的なものとして捉えたくなるのではないかと思う。

しかし個人を基礎にして物事を考えると、個人によって感じ方の違うものは主観に左右されてしまい、客観的な判断というものが出来なくなる。科学的に扱うことが難しくなってしまう。教育を目的として捉えた場合、ある個人にとってはいいものが、別の個人にとっては最悪のものになる可能性もある。特にイデオロギーに支配された思考から目的が決まってくるような教育はその傾向が強くなるだろう。

これは右でも左でもそれほど違いはない。右にとっていいものである日の丸・君が代も、その押し付けを最悪の教育と捉える個人がかなり存在する。逆にいえば、左の側から正しい歴史だと思われるものも、それを自虐史観と呼んで、それを押し付けられることに大きな恨みを抱く個人がたくさんいる。

これは、現象的には押し付けることが間違いなのであるが、何故に押し付けが生じてしまうかといえば、それは教育を目的と捉えるところから出てくるのではないかという気がしている。教育が単なる手段に過ぎないものなら、そういう考え方もあるという程度でこのことを流してしまえる。そうすれば押し付けによる弊害もかなりなくなるだろう。教育というのは、社会的認識を高めるために多様な考え方を紹介しているに過ぎないのであって、このことを学ぶこと自体が目的ではないと捉えればいいだけのことになる。

教育を手段として捉えた方が、より客観的で科学的な捉え方だと感じたのは、『教育真論』(ウェイツ)という本の最後に書かれた「シンポジウムを終えて」という宮台真司氏のあとがきのようなものを読んだからだ。ここで宮台氏は、教育が手段か目的かという考察をしているのだが、それは二つに分岐する捉え方を重ねることで考察を展開している。

まずは教育が

  • 1 手段である
  • 2 そこで生じること自体が目的である

という二つの分岐があるが、もし教育を目的だと捉えるなら、考察はそこで停止してしまう。教育において生じること自体がいいものである・人を幸せにするという価値判断が出来れば、それは全面的に肯定され、それ以上のことを考える必要はなくなる。日本において人々に感動を呼び起こす学校ドラマは、たいていがこのような発想で教育を捉えていたのではないかと感じる。

映画「二十四の瞳」や昔の学園ドラマは、僕もそれを面白いものとして見ていたものだった。感動する場面もたくさんあった。しかし、「金八先生」のころには、僕もそれなりに大人になっていたので、そのドラマ構成にはちょっとした違和感を抱いていた。この舞台は、何も学校でなくてもいいだろうという思いを感じた。人間同士の深い結びつきを描くのに学校という舞台が便利だというのは分かる。しかし、学校においてそのような深い人間関係が作られることが理想だというのは、現実の学校を見ている限りでは嘘ではないかという感じがしていたのだ。

内田樹さんは、かつて、「二十四の瞳」の大石先生は教師としては無能であり何一つ出来ない先生だったと書いていた。しかし、ここでの大石先生と生徒たちとの心の結びつきの深さは大きな感動を呼ぶ。金八先生も、その授業の場面をあまり見たことがないが、その国語の授業は必ずしも上手なものには見えない。生徒との心の結びつきがあるから、つまらない説教でも耳を傾けてもらえるが、もしその前提がなかったら平凡なつまらない授業をする国語教師に過ぎないだろう。

日本では、学校で幸せに過ごすために、教師との深い関係が必要で、それさえあれば学校での目的が達成されたとも言えるのではないだろうか。そして、教師の影響によって学習のモチベーションも上がる。しかしこれは教育としてはどうも変な感じがする。

個人的な相性が合うかどうかはまったく偶然性に支配される。たまたま相性の合う先生と出会えばいいが、そのような幸運はまれではないのだろうか。むしろ、学習する内容との相性で学習のモチベーションが高まるというほうがはずれが少ないのではないか。学習する内容は、長い歴史を経て絞り込まれていく可能性があるからだ。仮説実験授業は、学ぶに値する対象があれば、必ず仮説実験授業として楽しい授業が実現できると自信を持って主張している。それは、個人的な資質というあたりはずれではなく、論理と歴史という客観性を基礎にしているからだ。

宮台氏は、考察の止まってしまう「目的としての教育」ではなく、「手段としての教育」をまた二つに分岐させて考察を進めている。それは、

  • 1−1 子どもの幸せのための手段としての教育
  • 1−2 システムの回転のための手段としての教育

これも価値判断的には、1-1のほうが価値が高いような気がして、そちらのほうを選びたくなってくるが、子どもの幸せというものが客観的に決定できないので、これもそちらのほうは客観性がなく、科学的に扱うことが出来ない。また、子どもの幸せのためという手段は、ここから分岐する考察の方向に問題がある。それは次の二つの方向が考えられるのだが、「かつては両者が重なることが暗黙の前提だったが、今は通用しない」と宮台氏は指摘する。

子どもの幸せの場による分岐

  • 1−1−1 学校での幸せのための手段としての教育
  • 1−1−2 社会での幸せのための手段としての教育

学校での幸せが、例えば学校で高く評価されることであれば、その評価がそのまま社会でも通用したのがかつての時代だった。だから、その幸せは学校卒業後も続き、両者が重なっていたといえる。しかし、今の時代は、学校優等生が社会ではむしろ通用しなくなってきている。学校で過剰適応するような学校優等生は、社会では使い物にならない、幸せになれない人間になってしまっている。これは、「子どもの幸せのための手段としての教育」が破綻していることを意味しているのではないかと思う。

これは、幸せというものがもともと主観的なものであり、時代とともに変わっていくものであれば、ある時代に適合した幸せ観が今の時代では通用しなくなるということは十分ありうることである。主観にはそういう面がある。ある程度の時代を通じて通用するような普遍性をもったものにするには、主観ではなく客観性を基礎にした観点が必要になるだろう。

この普遍性を持った客観的な観点、すなわち科学としての教育の捉え方は、次のようなものになるだろう。

  • 1−2−1 学校的な合理性の手段としての教育
  • 1−2−2 社会的な合理性の手段としての教育

宮台氏は、「社会システム理論家である私」すなわち科学者である自分としては、「1-2-2の立場。すなわち「教育を、社会システムにとって合理的な人材を生み出すための手段とみなす立場」から教育を論じると語っている。この二つの観点は、それが矛盾しない限りではどちらも合理的であり、問題を生じないだろうと思う。

しかし、学校的な合理性が、社会にとって害悪になる場合が存在する。必要のない末梢的な知識を詰め込むという教育は、子どもたちに勉強を嫌わせるという効果を生ずるという点で社会にとっては害悪となる。勉強を嫌いになった子どもたちは、大人になってから物事を深く考えることをしなくなり、衆愚政治に荷担することになるからだ。

しかし、学校的な合理性から言えば、各教科の教員にとっては、自分が教えることが末梢的で必要のない知識だと判断することが難しい。それは、専門家にとっては大事だろうが、専門家でない人間にとってどれほど大事であるかということが難しい判断になる。学校的合理性からは、たとえ末梢的だと思えるような知識であろうとも、教えることが大事だと結論付けられるかもしれない。

このような時、どちらの合理性が優先するかという原則があれば判断が客観的になる。これは、もちろん社会的な合理性が優先されなければならないだろう。社会の存在があってこそ学校の存在があると考えられるからだ。学校が社会に先行して存在することはあり得ないからだ。

科学的・客観的に教育を捉えるには、それが「社会的な合理性のための手段」であると定義したほうが有効な定義になる。主観的には、この定義に違和感を感じる人がいるかもしれないが、それはこの定義に価値観を含めるからではないかと思う。科学的・客観的という方向性は、価値判断を離れなければならない。この定義は、統治権力が資本主義の存続・発展のために都合のいい人間を育てるということを「社会的な合理性」と捉えれば、ジョン・テイラー・ガットさんが批判するような学校になる。しかし、自分の頭で考える人間を作ることを「社会的な合理性」と捉えれば、むしろガットさんが主張するような教育こそが正しいと主張できる。

この定義は、価値判断からはニュートラルなので、どちらの価値を実現するためにも役立つ。ある立場のために貢献するということはない。立場を越えているという点で、この定義は客観的だといえるのだと思う。

宮台氏は、「しばしば組合系の教員たちが掲げる「心の理解」や「一体化」」が教育において生じること自体を目的とみなす態度の典型だと指摘している。このことが、何かの手段として捉えられていれば弊害は少ないのだが、このこと自体が役に立つ・立たないにかかわらず、そこでの幸福感として作用することが目的になれば、金八先生的な教育が理想となる。しかし、このようなものが実現するというのは、今は妄想に過ぎないのではないだろうか。妄想を理想とするのは、必ず大きな弊害を生むのではないかと思う。心は、もはや理解や一体化が出来ないほど多様化しているのが、現代社会の特徴ではないだろうか。それを教員に求めるのは、教員への無用な圧力であり、子どもたちにも絶望感をもたらすだけではないのだろうか。

宮台氏は、社会に何に役立つのかとは無関係に「教育を、子どもが学校で幸せに生きてもらえるための手段とみなす立場」ないし「教育において生じる理解や一体化を先見的に価値あるものとみなす立場」を「時代錯誤的な宗教臭」と断じている。そのような教育は、おそらく師弟関係という特殊な関係が生じるような教育では生まれるのだろう。しかし、公教育という大衆教育においてはないものねだりであり、そのようなものを理想として掲げれば、誰もそれが実現できないという妄想に過ぎないものになってしまう。

教育は手段で十分だ。しかし、それが手段に過ぎないものであっても、フィクションの世界では「陽の当たる教室」という映画で、現実にはジョン・テイラー・ガットさんの教育で、深い感動を与える実践を見ることが出来る。僕は、手段として役立つ技術を伝える能力を持った教員のほうが、人間的に深い付き合いが出来る教員よりも、教育の能力は高いと思う。教育というのは、あくまでも普遍的・抽象的な営みであり、個人的な心情の世界の物語ではないと思うからだ。

2007-05-08

[]ジョン・テイラー・ガットさんはどんな教師だったのか


ジョン・テイラー・ガットさんは、義務教育学校の欠陥を鋭く指摘し、それ以上ないくらいの悪口でそれを批判している。しかし、ガットさんは最優秀教師として表彰されてもいるのである。日本的な感覚では、たとえ欠陥がある制度であっても、その制度の下で最優秀だと評価されるなら、ある意味ではその精度の維持に貢献しているのではないかとも考えられる。口を極めて学校の悪口を言っているガットさんは、その欠陥に協力したという悔恨からこのような批判を展開しているのだろうか。

しかしそれは考えにくい。もしガットさんが、その制度に貢献したということで高く評価されたのであれば、それを批判している姿勢から言って、その評価をそのまま受け取るのは誠実さに欠けることになるだろう。表彰されたとしてもむしろ返上することが正しい態度になる。また、そのような人間に対して、もし制度への貢献を宣伝したいのなら、始めから表彰などの対象にしないだろう。

『バカを作る学校』には「私はこうして教師になった」とガットさんが語る章がある。これを読むと、ガットさんは教師としては、ガットさんが批判する制度をそのまま維持するために貢献したのではないことがよく分かる。むしろその制度がおかしいことを告発するような仕事を数多くこなしている。このような面が評価されて最優秀教師として表彰されたということは、アメリカという国の懐の大きさと社会に通用する論理性の健全さを物語るものだろう。

僕も教員になってすぐに、ここは灰谷健次郎や林竹二の理想が実現する場所ではないということを悟った。それは僕の非力というものも原因していたのだが、制度的にこれをひっくり返すのは無理だという絶望感もあった。

このまま学校にとどまって仕事を続ければ、もし有能な教員として生き残っていけば、制度の欠陥の維持拡大に貢献するような教員になるだろうと思った。制度の欠陥に貢献したくなければ有能な教員であってはならないとも思った。無能な教員ですごす覚悟をしなければならないと思った。

しかし、1年目にはあれだけ苦労した仕事が、2年目はかなり楽になっていた。3年もするころには、このまま何年でも仕事が続けられるのではないかという感覚さえあった。同期に教員になった人間で、僕よりも志に忠実な人間は一番早いやつでは半年で学校現場を去っていった。僕は、意に反して有能になりつつあると感じていた。少なくとも仕事にならないほど無能な教員であることには耐えられなくなっていると感じていた。

そこで、無能ではなくても自分の評価と生徒の評価が重なってくれる学校はないかと思って探したのが養護学校だった。ここでは、僕はことさら制度の欠陥を意識することなく、人間としてほぼ常識的なふるまいをしていれば生徒に受け入れられるという経験をした。僕は特別に優秀な養護学校教員ではなかったけれど、ひどい教員でもなかったので子どもたちに嫌われずにすんだ。そして、養護学校で嫌われないですむというのは、それは子どもたちに好いてもらえるということでもある。僕はここで幸福な教員生活を送れた。自分の仕事を喜んでくれる人間(生徒)がいるということはとても幸せなことだ。

夜間中学でも僕はごく普通の教員だ。無能ではないが特別優れているわけではない。ごく普通に仕事をし、常識さえわきまえていれば生徒は教師として尊敬してくれる。こんなありがたい学校はない。制度の維持、あるいは抵抗に多大なエネルギーを使わなければならない普通の学校と比べればうんと楽な仕事が出来る職場だ。しかし、学校は本来そのような場であるべきではないかと思う。特別有能な教員でなければ勤まらないところであっては、それは大衆教育の場ではないのだ。そこにも制度の欠陥が現れていると思う。

僕は青年期には人間嫌いのところがあったので、コミュニケーション能力という点で劣っていると感じていた。だから、教員としては必ずしも有能ではないと感じていた。学問的な思考力については自信があったものの、臨機応変な人間的付き合いには失敗することが多かった。

今教員になる若い人たちは、僕よりもはるかにコミュニケーション能力があり、教員の資質としては高い人がいるだろうと思う。しかし、その人たちが、ガットさんのように、本来の教育の世界で優秀さを認められて評価されるということが今の学校制度では難しいのではないかと思う。そのコミュニケーション能力の大部分は制度の欠陥の維持に使われているのではないだろうか。

どうすればガットさんのような能力が高く評価されるようになるだろうか。アメリカと日本の社会の違いが大きく反映しているのだと思うが、教育本来の意味からいえば、ガットさんがしてきたことのほうが価値が高いというのは、論理的には明らかなような気がするのだが。教育というのは、資本主義の拡大発展に貢献することが目的ではなく、教育される生徒自身が成長したと感じられることが本来の目的だと考えれば、ガットさんがした次のような仕事は一つの感動的なエピソードとして理解できるだろう。

ガットさんは代用教員としての仕事からスタートしたようなのだが、「教職員のほぼ100%が非ヒスパニック系であるのに対し、生徒の99%はヒスパニック系だった」という小学校である女生徒に出会った。「そのクラスは特にレベルが低く、数語以上の文をすんなり読める生徒はひとりもいなかった」らしい。「しかし、ミラグロスという女子生徒だけは、選集を最後まで間違えずに読んだ」という。

アメリカでは生徒のレベルに応じてクラス分けがされているらしく、ガットさんは、この生徒がそのクラスにいるのはふさわしくないと思ったようだ。そこで校長にそのことを告げたのだが、校長は、代用教員が学校の方針に口を出すなというようなことを言って、専門家でもないガットさんの判断を信用しなかった。

そこでガットさんは、公平を来たすためにミラグロスをテストしてくれと頼んだ。ガットさんの判断を信用しないのはかまわないが、実際に自分の目で見て能力を判断して、確かに駄目だとなったら仕方がないが、それもせずに判断を下すのは公平ではないと言ったのだった。

これはごく普通の常識的な対応だろうと思う。ガットさんが特に優れた教師だったからこのような対応をしたというのではなく、普通に民主主義的な平等ということを考えれば、このような対応をすることが常識ではないかと思う。その意味では、ガットさんは特別優れた資質をもった教師ということではなかったのだと思う。むしろ経験の中で資質を膨らませていったと考えたほうがいいのではないかと思う。

ガットさんのもっと古いエピソードでは、混乱した教室をうまく静めることが出来ない若いころの姿も語られている。つまり、その時点ではかなり無能な教師であったことも語られている。だが、ガットさんの教師としてのセンスはかなり優れていたと感じる部分もかかれている。それは、校長からこのように言われたときに、ガットさんが「自分でも意外だったが、、私は自分にミラグロスを守る義務があるように感じた」と書いてあるところだ。このようなセンスを持っている教師は、経験から学ぶことが出来、経験をつむことによって教育本来の意味で有能だと評価されるような教師に育っていくだろう。

ミラグロスは見事にテストをクリアして上級のクラスに移っていったようだ。ガットさんがミラグロスにしてやったのはこれだけのことだった。上級のクラスに移ったので、それ以後はガットさんの手を離れて他の教師の教育にゆだねられることになった。校長からは、少々意地の悪い目で見られてうらまれたようだ。しかしガットさんは、ミラグロスからある一枚のカードをもらったことで、気分の悪いことのすべては帳消しになった。

そのカードには「先生のような教師は他にいません。あなたの生徒、ミラグロスより」と書かれていたそうだ。「この飾らない言葉のおかげで、教師は私の一生の仕事になった」とガットさんは語っている。おそらくそのような経験をした教師は、教師という仕事がいかに幸せなものかを味わうことが出来るだろう。感動的なエピソードだと思う。

リチャード・ドレイファス主演の「陽の当たる教室」という映画でも、本当は作曲家として生活したかった主人公が、生活費を得るために就いた音楽教師という仕事で、生徒からこのような心からの感謝と尊敬をささげられる場面で、「片手間に始めた教師という仕事が私の一生の仕事になった」と語る感動的な場面がある。アメリカという国のすごさは、このような感動を高く評価できる国民性にあると僕は思う。

このミラグロスは、後にニューヨーク州教育課から特別教師賞を授与されてガットさんの記憶を呼び起こすことになる。ガットさんは、このときの喜びを「ああ、ミラグロス、私は君にとってのモノンガヒーラになれたのだろうか。いずれにせよ、君のような教師は他にいない」と語っている。これもすばらしく感動的な表現だ。

モノンガヒーラというのは、ガットさんの故郷で、ガットさんが今日ある基礎を築いてくれたところ・ものとして感謝をささげている象徴のことだ。モノンガヒーラという象徴を持っている教師がそれを伝えることで、教育の持っている本来大切なものが受け継がれていくのではないかと思う。ガットさんからミラグロスへとそれは着実に伝わったのではないかと思う。

かつてのマル激で、ケン・ジョセフさんが、ボランティア活動で最も大事なものは「常識を届ける」ということだと語っていた。何か物質的なものを届けるということは、第二義的な問題で、混乱した現場において、エゴが剥き出しになるような状況が生まれかねないとき、常識的な判断で一つずつものをこなしていくような冷静さを届けるのが本来のボランティア活動だと語っていた。

これは眼から鱗が落ちるようなすばらしい指摘だった。何かいいことをしなければボランティア活動ではないということではないのだ。平凡なごく当たり前のことが、冷静に行われることこそがすばらしいのだという指摘は大事なことだと思った。

ガットさんの教師としての活動も同じだと思う。欠陥を多く含んだ学校という現場で、常識を取り戻し、冷静にごくあたりまえの事をすることこそが最も有能な教師なのだと思う。そして、それがまったく困難な状況に陥っているのが現在の学校なのだろう。我々は有能さというのをちょっと間違えてしまったのではないかと思う。自分にとってのモノンガヒーラを取り戻さねばならないのではないかと思う。