張作霖爆殺の犯人は? p26


満州某重大事件」張作霖爆殺事件について


成立直後の中華民国の実情:
方々にいた軍閥、国民党内部での争い、共産党軍との抗争で混乱が続く。
大正9年(1920)位になると、孫文の広東軍と蒋介石の江西軍が一緒になり「国民政府軍」として力を持ち統一へ。
その頃、東北地方(満州)の大軍閥として君臨していたのが張作霖満州を勢力化に置きたい日本軍と日本軍の後押しがほしい張の思惑が一致し蜜月を演じる。「いい気になって」大元帥と称する張は日本の後押しで北京に侵攻し北京政府を樹立。ところが張はだんだん日本の言うことを聞かなくなる。


「こういう時、つまり役に立たなくなった時点で張作霖を亡き者にしたほうがいい、さもないと満州の安寧は保てない、と日本は大正十年(1921)、原敬内閣の時に方針を決めていました。」


昭和3年(1928)、蒋介石の国民党に敗れた張作霖が北京から敗走してくるとの情報が入り、ここでまた張を支援して国民党と戦うよりは、張を排除し満州を日本軍自らが統治してしまおうという計画がひそかに練られる。そんな折、張作霖が北京を追われ奉天(いまの瀋陽)に逃げ帰ることがはっきりとする。なら列車を爆破して張を殺そうと関東軍の参謀は考えた。
昭和天皇独白録』は張作霖爆殺事件を冒頭にもってきている。


昭和という大動乱がはじまる基はこの事件だったわけです。」


6月4日
張作霖の列車が奉天付近に辿り着いた時に、線路に仕掛けられてあった爆薬が爆発してあっという間に列車が燃え上がり、張作霖は爆殺されてしまいます。」


「もちろん関東軍は自分たちの陰謀でやったことにはせず、現場で死骸として見つかった阿片中毒の中国人二人のしわざにするつもりでした。ところが、ずさんな計画はすぐばれてしまうのです。というのもこの二人は前日、奉天の銭湯で『明日おれたちはでかいことをやるんだ』などと吹聴し、多くの人たちがそれを聞いていた。この連中が自分たちで死ぬようなことをするはずがない、金をもらってやったに違いない、では誰がやったんだということになると、後ろに関東軍がいるのはすぐに察せられるわけです。」


関東軍は「われわれは関知しない」と無視するが、現場の状況から日本軍の謀略であることが徐々に明らかになる。しかし決定的な証拠がない。


最初におかしいと気づいたのは元老(天皇の側近・相談役の総理経験者)の西園寺公望


西園寺:(「さては陸軍がやったな」「けしからんことだ。世界的に公にはできないが、国内ではきちんとケリをつけておかないと将来的にいい結果をもたらさない」)と静岡興津の邸宅(坐漁荘:いまは愛知の「明治村」にある)から上京。
西園寺:「政府としてこの問題をしっかり調べ、もし犯人が日本人であるということになれば厳罰に処さねばならない」


田中義一首相(元陸軍大将):「わかりました」(というだけで一向に実行せず)


西園寺が急かすと、
田中:「11月1日の天皇御即位の大典が済んだ後で、この問題について陛下に申し上げるつもりだ」


西園寺:「内閣総理大臣であると同時に陸軍の親玉の立場でもあるからといって、そのようなごまかしを言ってはいけない、早く報告するように」


田中首相は渋るが、たびたび急かされたため、事件から半年以上たった12月24日になってようやく天皇に会いに行き、
田中:「この事件は世界的にも大問題ですので、陸軍としては十分に調査し、もし陸軍の手がのびているということであれば、厳罰に処するつもりでございます」


天皇:「非常によろしい。陸軍部内の今後のためにもそういうことはしっかりやるように」


昭和天皇独白録 (文春文庫)

昭和天皇独白録 (文春文庫)

情勢悪化の昭和の開幕

同時に、大正終わりにかけて、蒋介石の国民党軍が強くなり、共産党軍は北へ逃げてゆく(「長征」)。国民党は大正15年(1926)北へ進撃を開始(「北伐」)、北京に達する。=中国の国家統一が近づく。
一方、帝政ロシアでは大正6年(1917)にロシア革命ソビエト政権が樹立。


「要するに昭和というのは、中国が統一に向かっているのを恐れると同時に、日本が最大の仮想敵国とみていたロシアも新しい国づくりを始めるといった、日本を取り巻く環境がどんどん悪くなっていく、国際情勢が激動し始めたときにスタートしたわけです。しかし、強国になった日本を保持し、強くし、より発展させるためにはどうしても朝鮮半島満州を押さえておかなければならない。未来永劫に。それにはどんどん悪化しつつある状況にどう処理すべきか、これが日本にとっての大使命であり、昭和の日本人がもっとも解決を急がされる命題としてつきつけられた、ここから昭和がはじまるのです。
 昭和史の諸条件は常に満州問題と絡んで起こります。そして大小の事件の積み重ねの果てに、国の運命を賭した太平洋戦争があったわけです。とにかくさまざまな要素が複雑に絡んで歴史は進みます。その根底に”赤い夕陽の満州”があったことは確かなのです。」

第一次世界大戦では、「あとになって分け前が欲しくなって」突然参戦、戦勝国に。1919年のベルサイユ条約で日本はドイツの権益であるマーシャル諸島など南洋諸島委任統治領としてもらって、「またいい調子になってしまう。」
ところが大正3年(1917)から7年という長期戦のため欧州諸国は国力財産をなくし疲弊、国際連盟をつくり、国際協調、軍備制限の声が盛んになる。
イギリスが中心となりアメリカと手を組み、フランスなど戦勝国が軍備縮小に向けて話し合う。このワシントン海軍軍縮条約(日本は大正11年に正式調印)では、主力艦(戦艦・航空母艦)の比率として英・米・日が五・五・三となるよう定められた(五・五・三の比率)。


日露戦争日本海海戦で勝って大国となった日本は「五・五・三」が「不愉快でしょうがない」。
しかし「先見の明ある」海軍軍人加藤友三郎が全権大使として行き、


「国防は軍人の占有物にあらず、戦争もまた国家総動員してこれに当たらざれば目的は達しがたし。……平たく言えば、金がなければ戦争はできぬということなり」と言い切りこの比率を認める。


これはよかったが、ただその前に、「アメリカの実に巧みな外交作戦が日本を動かして」日英同盟明治35年(1902)=中国などにおける互いの権利の保護などを取り決め)が廃棄される。
これが日本のその後の外交にたいへんな影響を及ぼすことになります。それまで日本とイギリスは非常になかのよい国だったのですが、その関係が切れて、日本は独自の道を歩いていくことになる。
ワシントン軍縮条約」と「日英同盟廃棄」の世界体制が、「昭和」に入って大問題になる。

芥川龍之介『支那游記』から

一方、ロシアに勝ったからといって日本に満州の権益を奪われてよいのかという議論が清国の知識人・軍人を中心に起こる。列強の跋扈と軍閥の勢力争いを憂える知識人らにより革命運動が起こる。
日本で学んだことのある孫文や、蒋介石ら有能な軍人による辛亥革命が起き、大正元年(1912)清朝は滅び中華民国が誕生した。


「日本が朝鮮半島満州を経営し始めたときに、時を同じくして隣の大国・中国が新しい国づくりをはじめたことになります」
中華民国は各地の軍閥に勝利、「日本はそれを見て、困った事態になったと思ったでしょう。それでなくとも満州をめぐって清朝政府ともめていたのですから。……中華民国にすればそれこそ無関係の日本が満州の諸権益を奪っているのですから、これを許せないと思うのは当然です。当然将来における日中の衝突が予想されます。」


そこへちょうど大正13年(1914)、ヨーロッパで第1次世界大戦が勃発。ドイツ対イギリス・フランス・ロシアの構図のため列強の目はアジアから遠のき、これを捉えた日本は大正14年(1915)「対華21か条の要求」(内容:南満州鉄道や安奉鉄道の経営権、関東州の租借その他、すべての特殊権益の期限を百年くらい延ばす)を突きつけ、武力をもってむりやり認めさせた。


義和団事件(1899〜1901北清事変とも)以来列強が中国各地に駐屯、上海に租界をつくるなどしており、中国民衆の怒りがあったが、この頃から怒りの矛先が日本に向くようになる。大正8年(1919)には北京の学生が21ヶ条の要求に対する猛烈な抗議行動を行い、日本が弾圧した(五・四運動)。


作家の芥川龍之介(1892-1927)が大正10年(1921)3月下旬から7月下旬まで約120日間、新聞社の特派員として上海、南京,漢口、長沙、洛陽、北京、大同などを尋ねルポを書く(『支那游記』)。
杭州の西湖では

「……この唐代の美人の墓は、瓦葺の屋根をかけた、漆喰か何か塗ったらしい、詩的でもなんでもない土饅頭だった。殊に墓のあるあたりは、西冷橋の橋の普請の為に、荒され放題荒されていたから愈(いよいよ)索漠を極めている。掘り返された土の上に、痛々しい日の光が流れている。おまけに西冷橋畔の路には、支那の中学生が二三人、排日の歌か何かうたっている」

蘇州、天平山白雲寺では、

天平山白雲寺へ行って見たら、山によった亭(ちん)の壁に、排日の落書きが沢山あった。『諸君儞在快活之時、不可忘稜三七二十一条(しょくんなんじかいかつのときにありて、さんしちにじゅういちじょうをぼうするべからず=諸君、どんなに愉快なときであろうと、二十一カ条を忘れ去るべからず)』というのがある」
「『犬与日奴不得題壁』(いぬとにちどかべにだいすることをえず=犬と日本人だけは、壁に文字を書くことは許されない)と云うのがある。(中略)更に猛烈なやつになると、『莽蕩河山起暮愁。何来不共戴天仇。恨無十万横磨剣。殺尽倭奴方罷休』(もうとうたるかざんぼしゅうおこる。いずくよりきたるともにてんをいだかざるのあだ。うらむらくはじゅうまんのおうまけんなく。わどをころしてまさにひきゅうせん。=今や中国の山や河は猛り狂っている。それを見ているとおのずから憂いが起こってくる。なぜ中国にやってきたのか、ともに天をいだかざる敵が。恨みをもった十万の民衆が剣を磨いていて、日本人を殺し尽くして初めて休むことができる。)」

「聞けば排日の使嗾(しそう)費は、三十万円内外とか云う事だが、この位利き目があるとすれば、日本の商品を駆逐する上にも(駆逐するよりも)、寧ろ安い広告費である」

長沙で学校参観。

「……古今に稀なる仏頂面をした年少の教師に案内して貰う。女学生は皆排日の為に(日本製の)鉛筆や何かを使わないから、机に上に筆硯を具え、幾何や代数をやっている始末だ」

「次手(ついで)に寄宿舎も一見したいと思い、通訳の少年に掛け合って貰うと、教師愈仏頂面をして曰、『それはお断り申します。先達(せんだって)もここの寄宿舎へは兵卒が五六人闖入し、強姦事件を惹き起こした後ですから』!」

つまり、中国では国家づくりがまだ完成していない時にこれくらい排日運動が盛んで、日本に与えた満州の権益を返せという声がぐんぐん強くなっていった、それが大正から昭和はじめにかけての状況でした。


※ 『支那游記』が含まれる文庫本。

芥川龍之介全集〈8〉 (ちくま文庫)

芥川龍之介全集〈8〉 (ちくま文庫)

国防最前線としての満州 p11

帝政ロシア不凍港を求めて満州に乗り込み、武力をもって深刻と条約を締結し、満州における諸権益(旅順・大連を自分のものにした)を奪取。
日露戦争とは結局、このように帝政ロシアがどんどん南に下りてきて、旅順・大連を清国から強引にもぎ取り、さらに朝鮮半島へ勢力を広げてきたことにたいへんな脅威を抱いた日本が、その南下を食い止めんと、自存自衛のために起こったものです。」
日露戦争に勝った日本は、ロシアとの条約、さらには清国と「満州ニ関スル条約」などを結び、諸権益を得る。
ここでの諸権益

遼東半島のほとんどを借り受けて自由に使う。
南満州鉄道長春(のちの新京)と旅順の間)の鉄道経営権をもらう。
③軍用の安奉鉄道(安東(現在の丹東)と奉天(現在の瀋陽)の間)の経営権を得る。
南満州鉄道に属する炭鉱の採掘権を得る。
⑤(のちに)鴨緑江右岸地方の森林伐採権を得る。
⑥鉄道守備の軍隊駐屯権を得る。

満州国の3つの役割)
1「この結果、ひとつはロシア…が諸権益を奪い返しに再び南下してくる可能性があるゆえ、国防のための最大の防衛線--のちに日本の「生命線」と言われます--日本本土を守るための一番先端の防衛線を引くことができた、生命線としての満州ができたことになります。」

はじめは駐屯軍は1万人くらい(最後には70万人まで増える)。
もっぱら関東州の旅順・大連に司令部を置いたので、のち大正8年(1919)から「関東軍」と呼ばれるようになる。

2「資源の乏しい日本はそれまで鉄や石油、鈴や亜鉛などをもっぱらアメリカと、イギリスなどの植民地である東南アジアの国々からの輸入に頼っていましたが、もうその厄介にならなくていい、自力で生きる道が出来上がった、と大いに期待した、
つまり日本本土を守るための資源供給地としての満州が注目されたのです。」(石油は出なかったが…)

3「人口がどんどん増えて問題が起こっていた狭い日本には、人口流出先としても満州が重要視されました。」
明治の終わりから盛んに移民政策、昭和に激増。昔からの満州人、開拓した蒙古人、朝鮮人の土地を強制的に取り上げたり、「ものすごく安い金で」買い取ったりして恨みを買うことに。
のち昭和11年(1936)、広田弘毅内閣「20年間百万戸移住計画」
「最初は農家の次男坊三男坊、日本では食い詰めてひと旗上げようという人たち、弾圧により日本にいられなくなった転向したコミュニスト社会主義者などなど、昭和にかけてあらゆる人たちが満州に移住し」移民は40万から50万人まで増えた。

明治の終わり以降、満州経営が政治の中心課題に。
「日本本土を防衛するために朝鮮半島に日本の軍隊をおいてしっかり守ろうということになる、朝鮮半島を防衛するためには地続きである満州を守らねばならないのです。」
満州での権益を守り利用するため、明治40年(1907)頃に満州経営が始まるのと同時に、朝鮮半島李氏朝鮮は退廃し外国が好き放題)を圧迫、ついに明治43年(1910)に併合。
「ただし国際的には認められていましたが。」

国家興亡の四十年 p8

「しかし私はむしろ、ペルリが来て12年後、慶応元年(1865)に、京都の朝廷までが日本を「開国する」と国策を変更した、その時を近代日本のスタートと考えたほうがいいと思っています。
……国策として開国を決め、そこから新しい国づくりといいますか、世界の文明と直面しつつ自分たちの国をつくっていかなければならなくなりました。」

三年後が明治時代の始まり。以降、少々の無理を承知でいくらか背伸びした国家建設をけんめいにやった。

そのころ、
インド・ビルマシンガポール イギリスの植民地
香港 イギリスが強引に中国から100年借りる
インドネシア オランダの植民地
インドシナ3国 フランスの植民地
フィリピン アメリカの半植民地

「日本 アフリカのほうで戦争が起こって欧米列強がアジアから自分の国に帰らなくなったりの幸運もあって、植民地にならずにすみました。それは別にしても、明治の日本の人たちが、とにかく一人前のしっかりした国をつくろうとがんばったことは確かなんです。
明治27、28年(1894、95)の日清戦争に勝ち、明治37,38年(1904,05)日露戦争にかろうじて勝ち、世界の国々から、アジアに日本という立派な国があることを認めてもらうことができた。」
=開国から40年で近代国家を完成

大正、昭和になり、
「自分たちは世界の堂々たる強国なのだ、強国の仲間に入れるのだ、と日本人は大変いい気になり、自惚れ、のぼせ、世界中を相手にするような戦争を始め、明治の父祖が一生懸命つくった国を滅ぼしてしまう結果となる。

もうひとついえば、敗戦国日本がアメリカに占領されて、…いいなりになる苦労の7年間を過ごし、講和条約の調印を経て新しい戦後の国づくりをはじめた、これは西暦でいいますと1952年のことです。

さらにさまざまなことを経てともかく戦後日本を復興させ、世界で1番か2番といわれる経済大国になったはずなんですが、これまたいい気になって泡のような繁栄がはじけ飛び、「何だこれは」と思ったのがちょうど40年後、同時に昭和が終わって平成になりました

こうやって国づくりを見てくると、つくったのも40年、滅ぼしたのも40年、再び一所懸命つくりなおして40年、そしてまたそれを滅ぼす方へ向かって10何年過ぎたのかな、という感じがしないでもありません。」

これから話す昭和の前半は、滅びの40年の真っ只中。世界の5大強国のひとつ帝政ロシアを打ち破って一応「近代日本」が完成した結果、最初の40年で日本が何を得たかをみてみることにする。

はじめの章 昭和史の根底には“赤い夕陽の満州”があった―日露戦争に勝った意味 p7

昭和史 1926-1945

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