木走日記

場末の時事評論

産経新聞メディア論に対するメディアリテラシー的考察

 今日は日曜なので、じっくり産経新聞が報じたメディア論を考えてみました。

●「『ネット優位』堀江氏のメディア論どうみる」特集の掲載背景

 3月25日付産経新聞5面に、評論家3氏による「『ネット優位』堀江氏のメディア論どうみる」という堀江氏のメディア論に対する評論が3本掲載されました。

 25日といえば、ニッポン放送が上告を取り下げライブドア傘下に下った日に「ホワイトナイト」としてソフトバンクグループが電撃的に登場してフジテレビジョン筆頭株主になることを発表した翌日であります。そんなホットな日に産経新聞に掲載されていますので、これらの内容は当然堀江氏にたいし、批判的な論調が多くさまざまな表現で堀江氏への反論が出されています。

 まず、メディアリテラシー的に読者としてしっかりと認識していただきたいのは、これから論じる3本の評論は、その掲載されたタイミングと掲載された媒体(メディア)がすでに、極めて特異であり、だからこそ逆説的ではありますがメディアをリテラシーする素材として興味深いテキストなのです。

評論は以下の3本であり、産経ウェブに載っております。

■「ジャーナリズムは不要」に異議 (ジャーナリスト・鳥越俊太郎氏)
■ネットで文化の伝承は不可能   (ノンフィクション作家・山根一眞氏)
■現状に反発 「堀江支持」の土壌 (法政大教授(メディア文化論)・稲増龍夫氏)

「ネット優位」堀江氏のメディア論どうみる(1−2) (03/25)
http://www.sankei.co.jp/databox/jolf/2005/050325m_med_113_1.htm
「ネット優位」堀江氏のメディア論どうみる(2−2) (03/25)
http://www.sankei.co.jp/databox/jolf/2005/050325m_med_114_1.htm

●考察1:「『ジャーナリズムは不要』に異議」を考察する
 鳥越氏は堀江氏がインターネットの時代に「ジャーナリズムは必要ない」と話したことについて、強く異議を唱えています。

 ジャーナリズムの言葉の定義は難しいが、広い意味でニュースを収集、商品化して伝える「ニュースの職人」は、百年二百年かかって市民が主人公の近代市民社会に発展する過程で生まれ、社会のシステム上のミスや誤り、暴走をチェックし、伝えるために発達してきた。その中で育てられた精神、取材方法、表現方法、責任もひっくるめてジャーナリズムと呼んでいる。テレビやラジオには娯楽もあるが、ある程度維持されている。

 堀江氏の言う、新聞やテレビが情報を取捨選択せず速報性を重んじて伝え、受け手自身が取捨選択するという考え方は、半分は当たっている。現代は、受け手も受け止める力を持たなくてはならない時代だからだ。

 ただ、インターネット情報は基本的に匿名性で責任の所在が不明。真実もあるが、うそや誹謗(ひぼう)中傷も多く、玉石混交だ。受け手が主観で都合のいいものばかりを取っていたら、間違った認識をするリスクがある。

 プロ、すなわち訓練を積んだ職人が粘り強く貴重な情報を取材したり、正確さを吟味して伝えたりするのとは、根本的に異なる。記者が取材対象者に対して行う“夜討ち朝駆け”にしても、何度も空振りし、長い間足を運んでようやく情報が取れるといった努力を、彼は理解していない。

 彼の主張は2点に集約できます。

 ・プロのジャーナリストは、「百年二百年かかって市民が主人公の近代市民社会に発展する過程で生まれ、社会のシステム上のミスや誤り、暴走をチェックし、伝えるために発達してきた」のであり、「訓練を積んだ職人が粘り強く貴重な情報を取材したり、正確さを吟味して伝えたりする」ことは、これからも必要である

 ・一方、「受け手自身が取捨選択するという考え方」は、「インターネット情報は基本的に匿名性で責任の所在が不明。真実もあるが、うそや誹謗(ひぼう)中傷も多く、玉石混交」であり、「受け手が主観で都合のいいものばかりを取っていたら、間違った認識をするリスクがある」ので、問題が多い。
 この2点ですが一般的ジャーナリズム論として、基本的には間違っていないと思います。しかし、木走としては欠落している重要な視点を指摘しておきたいです。

 インターネットに対し、鳥越氏は「受け手が主観で都合のいいものばかりを取っていたら、間違った認識をするリスクがある」と指摘していますが、ここへのフォーカスの当て方は少々ピンぼけであり、情報選択して「主観で都合のいいものばかり」を発信するリスクは、何もインターネットだけが抱えている問題ではなく、既存メディアにも根深く問われているメディア全体が共有する普遍的課題なのであり、例えば自身のこの評論自体が、産経新聞というメディアがある意図・目的を持って取捨選択した上で掲載している特集であることを、もっと強く自覚すべきであります。

まあ、「インターネット情報は基本的に匿名性で責任の所在が不明。真実もあるが、うそや誹謗(ひぼう)中傷も多く、玉石混交」であることは、現状としてある程度事実でありましょう。この点については後で考察いたします。

●考察2:「ネットで文化の伝承は不可能」を考察する
 まず、以下のようにインターネットの現状を分析しつつ、既存ジャーナリズムを擁護しています。

  結論を先に言えば、ネットが一朝一夕にジャーナリズムを担えるとは思えない。インターネットは現時点で、そこまで成熟していない。広場に一万人の市民がいて、それぞれが違うことを言っているだけで、一つのメッセージとして成り立っていないのが現状だ。

 ジャーナリズムというのは、いま盛んに言われるメディアと分けて考えないといけない。本来、ジャーナリズムは、社会の不正をえぐり、権力を監視する役割を担っている。人知れず陰で努力する人を発掘したりすることも大事な役割の一つといえるだろう。

 新聞社やテレビ局はスポンサーによって支えられている一面もあるが、だからといって広告を出す企業に迎合はしない。ジャーナリズムは、金と一定の距離を保ちながら存在してきた。

 ここで2点指摘いたします。インターネットが「ジャーナリズムを担える」かは別としても、「一つのメッセージとして成り立っていない」と括られているのは、少々勉強不足であり、インターネットメディアの持つ潜在的可能性を全く無視してしか語られていないのだと思います。
 今、ネット上で起こっていることは、確かに実証性を伴わない魑魅魍魎なテキストが跋扈している反面、マスメディアが押さえ損じた貴重な情報や、マスメディアとは別角度からの興味深い視点からの評論なども即時性を持って、各人のリテラシー能力を経由しながらですが、ハブサイトなどを通じて情報伝達・流通し始めています。そこにはまだぼんやりとした形ではありますが、ネット世論のような「総意の生成」の芽生えともいえる動きが、始まっているといえるのではないでしょうか? 
 山根氏の「広場に一万人の市民がいて、それぞれが違うことを言っているだけ」との決め付けは、このような観点から、現状認識を大きく捉え違いしていると考えます。

 もう一点は、「ジャーナリズムは、金と一定の距離を保ちながら存在してきた。」と言い切られていますが、本当にそこまで断言できるのでしょうか? そうは思わない、思えない人が増えているからこそ、今日の状況に置いて堀江氏支持派が多数を占めているのではないでしょうか?

 さらに、山根氏はインターネットの弱み・欠点を列挙しています。

 地震など災害時に既存メディアとネットを比較すると、違いがはっきりする。被災者に最も役立つのは「情報」だが、インターネットは災害時にとりわけ弱い。

 昨年、豪雨被害を受けた福井の現場を訪ねた際、地元紙が山間部の読者にその日の新聞を何とか届けようとしていたのが目に焼きついている。最後は紙媒体と足がモノを言うことを証明してみせた。

 以前にある調査会でネット上の情報を将来、保存できるかを検討したが、断念した。ネットに書き込まれた情報は一秒後には変わっていくため、将来に対して保存や記録が利かない。ドロドロ流れている川みたいなもので、文化を後世に伝えることは不可能に近い。

 匿名性という点もネットの特徴の一つ。だれかが特定の個人のスキャンダルを根拠もなしにネット上に書き込んでも、責任は問われない。身を隠して偽のページをつくることも可能で、正体が分からないから告発されることもない。情報は独り歩きし、だれかがそれを引用していくうちに、捏造(ねつぞう)情報がコンピューターウイルスのように広がっていく。

 ここでの彼の主張は3点に集約できます。

 ・「インターネットは災害時にとりわけ弱い。」
 ・「ネット上の情報」は紙媒体と違い、可変であり「将来に対して保存や記録が利かない」のであり、「ドロドロ流れている川みたいなもので、文化を後世に伝えることは不可能」に近い。
 ・「匿名性」があるので、「だれかが特定の個人のスキャンダルを根拠もなしにネット上に書き込ん」だり、「身を隠して偽のページをつくることも可能」であり、したがって、「情報は独り歩きし、だれかがそれを引用していくうちに、捏造(ねつぞう)情報がコンピューターウイルスのように広がっていく」

 一点目は、携帯電話が災害時に弱いことと同義であり、これはハードウエアやインフラの問題ですから、ゆくゆく解消される問題であり、ここでは考察対象としません。

 二点目で指摘させていただきますが、本当に「ネット上の情報」は、「ドロドロ流れている川みたいなもので、文化を後世に伝えることは不可能」なのかという点です。ここでも山根氏は少々勉強不足ではないのかと勘ぐってしまうのですが、「ドロドロ流れている川」のように垂れ流すメディアとしての形状を議論しているのであれば、インターネットだけでなくラジオやテレビも含まれます。勿論、テレビも一瞬のうちに絶えず消滅していくメディアですが、しかしビデオその他の情報保管技術は発達しており、「将来に対して保存や記録が利かない」わけではありません。
 インターネットにおいても同様で、テキストは絶えず可変であるかも知れませんが、その変更履歴も含めて媒体に長期間保存することは可能なのです。問題は情報発信側のリテラシー意識にあるだけです。 
 それから「匿名性」の問題ですが、さきほどの鳥越氏も指摘していましたが、あとで考察したいと思います。

●考察3:「現状に反発 『堀江支持』の土壌」を考察する
 
 現状なぜ世論の多数派が堀江氏支持にまわったのか、その要因をジャーナリストの特権的地位に対する世論の反発であるのではないかという視点から論じています。

 ジャーナリズムは近代化の過程で啓蒙(けいもう)的な役割を果たしてきた。視聴者や読者ら受け手のレベルがまだ低い時期に、ある程度の見識と判断力を持ち、情報を持った人たちがジャーナリストという責任を伴う特権的地位を与えられた。

 しかし、受け手がある程度成熟してくると、一部のジャーナリストが言うことに素直に従わなくなる。その成熟が本物かどうかはわからないが、少なくとも意識としては成熟し始めている。

 その機運をネットが支えており、今のジャーナリズムと比べてはるかに質は劣っても、自分たちもウェブで情報発信できると思ったときに、堀江氏のような既存メディアを否定する発言をする人間が絶賛されるという状況ではないか。

 この分析は、木走としてとても現状をよく捉えていると評価したいです。重要なことは、一部のジャーナリストが特権として与えられていた「情報発信」という行為が、インターネットの普及により、広く一般市民に解放されつつあることです。

 稲増氏は次のように評論をまとめています。

 しかし、堀江氏が主張するようにジャーナリズムが不要になることはないと思う。既存のジャーナリズムは「啓蒙する」という本来担っていた役割をより問われることになるだろう。と同時に、「ジャーナリズムは上から物申す人間が多い」といった受け手の思いを敏感に感じ、謙虚でなければならないと思う。

 今の大学生に接していると、テレビは信用できない、メディアはうそをついているという意見を持つ者が非常に多い。そう言いながらもみんなメディアを信用しており、現状と心情が乖離(かいり)している。

 世論とジャーナリズムが一体であるという幻想が崩れ、緊張関係を持つようになっている。今回の問題で一番見えてきたのは、メディアの受け手がジャーナリズムに反発することもあるという構図であり、メディアがそこから学ぶべきものは多いのではないか。

 この、「『ジャーナリズムは上から物申す人間が多い』といった受け手の思いを敏感に感じ、謙虚でなければならない」と指摘は、先の鳥越氏と山根氏にも是非心がけていただきたい点であります。


●木走的考察のまとめ〜匿名性を乗り越えて

 総論として3氏の意見は、2氏が堀江氏ならびにインターネットメディアに批判的であり、1氏が中立的に評論しているというところでしょうか?
 当事者としての産経新聞が精一杯メディアとしての客観的姿勢を維持するために最後の稲増氏の評論を加えたと考えるのは、穿ちすぎではありますまい。

 さて、一部のジャーナリストが特権として与えられていた「情報発信」という行為が、インターネットの普及により、広く一般市民に解放されつつあるのだと思います。インターネットは既存メディアにたいし、その情報発信能力は、現状では質的には劣っているかも知れませんが量的には十二分に匹敵するパワーを持ち始めています。

 インターネットの匿名性の問題もこの観点から捉えてみなければ、表層的な批判だけに終始してしまいそうです。

 「情報発信」する行為が、インターネットを介して広く一般市民に解放されてきた過度期ともいえる現在、匿名情報も含めてネット上にはまさに情報が氾濫しています。

 しかし、現状の先には淘汰が始まることは必然であり、すでに特定サイトの情報特化は始まっているとも言えます。自由解放区として「匿名」も含めて創生期のネットメディアはなんでもありの混沌(カオス)状態にあるのでありますが、この後、淘汰が始まり、棲み分けが始まるのではないでしょうか?
 適者生存・生存競争の原理が働いていき、ちょうど今の紙媒体において、大手新聞、週刊誌・月刊誌、趣味から風俗まで多様な専門誌、さらには同人誌のようなミニ媒体といった棲み分けが起きたようにであります。
 そして、インターネットが有する、情報の即時性、インタラクティブ性という特質が活かされ、既存紙媒体とは全くことなる新しい形のメディアの形態が創出されるのではないでしょうか?

 今いえることは、メディアとしてのインターネットの将来性を語るためには、しっかりとしたメディアリテラシー論が必須であろうということです。

 読者のみなさまは、この問題についてどう考えられているのでしょうか?



●追記(2005.03.27 18:10) 
 くまりん様の情報提供により、産経新聞の堀江氏のインタビュー記事もリンクしておきます。「聖域としてのメディア」とか、上の評論と合わせて読むと興味深いコメントが散見していて考えさせられます。
 くまりん様、情報提供ありがとうございました。

 ライブドア堀江社長インタビュー 一問一答全文 
http://www.sankei.co.jp/news/050326/kei038.htm




(木走まさみず)