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2006-03-23 日の丸・君が代論争再考

[]日の丸・君が代論争再考 22:12

 今回は当ブログで初めて、[議論]というカテゴリーを作ってみました。

 以下のエントリーの追記です。

■[メディア]「スポーツ朝鮮」記事より説得力がない「朝日新聞」社説〜国旗・国歌論争

http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060317/1142563601



●真摯な青龍さんの反論

 上記エントリーに関して、青龍さんから真摯なトラックバック及び反論をいただきました。

青龍の雑文Blog

君が代 - それは「マナー」か?

http://seiryu-y.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/post_7f60.html

 不肖・木走は、根っからの横着者でして、トラバいただいても普通積極的にレスしたりは少ないのですが、この青龍さんの内容はとても興味深かったのです。

 そこで、ややこしい不毛な議論は本来あまり好きではないのですが、誠実な青龍さんならば、木走のオバカな議論にも嫌にならず、有意義な議論もできるかな、と期待して、今回は苦手な議論をしてみたいと思いました。

 ・・・

 まず青龍さんの反論内容を引用させていただきましょう。

 青龍さん、すみません、少々お行儀悪いかもしれませんが、どの文章も重要だと思われましたので全文引用させていただきます。(問題有れば御指摘下さい、訂正します。)

君が代 - それは「マナー」か?

 木走様は

自国の国旗・国歌に敬意を示すことは「しつけ」として当たり前と思うんですが、これからの国際社会に置いて、自国の国旗・国歌に敬意を示せない人が、はたして他国の国旗・国歌に敬意をもてるのでしょうか。

 理屈ではなくこれはマナーの問題だと思うのですが、違うのでしょうか。

と主張されています。

 しかし、私はこの主張には賛同できません。なぜなら、この主張は日の丸・君が代を巡る価値観の対立を捨象して、一見価値中立的な「マナー」を持ち出すことにより、結果として異なる価値観に基づく行為を押しつけるものだからです。

 すなわち、この主張では、卒業式で君が代を斉唱することがなぜ「マナー」なのかという点が問題とされません。突き詰めて考えれば卒業式で君が代を斉唱すべきという主張は君が代ひいては国家や歴史に関する特定の価値観を基盤としているイデオロギー的なものであり、それは君が代の斉唱を拒否するもう一方のイデオロギーとの関連でそれを「マナー」として認めるべきかを検討する必要があるのに、その検討の過程は省略されて君が代の斉唱が「マナー」であることがいつの間にか議論の前提とされているのです。そして、そこから導き出される「マナー」は守られるべき、というある意味同義反復的論法では、もはや思想信条の自由や信教の自由との調整は問題とされません。本来その調整の結果確定されるべきマナーの内容が既に決定されているのですから。

 この論理構造は戦前の神道非宗教論と酷似しています。神道が宗教でなく国家儀礼とされることで神道という特定の宗教に基づく行為を強制することが信教の自由の侵害ではないとされたように、特定のイデオロギー(価値観)に基づく行為を強制することがそれをマナーと言い換えることで信教の自由や思想信条の自由を侵害するものではないとされてしまっているのです。

 私は、木走様がこのマナーの是非の部分の検討を意図的に省略しているとは思いません。ただ、意図的ではないために問題はより深刻なのだというのが私の考えです。

すなわち、木走様は自らの主張が特定のイデオロギーに立脚していることに無自覚な(もしくはその認識が薄い)ため自らの主張が中立であることを議論の前提としてしまっているように思います。

 同様の傾向は自らの立ち位置をニュートラルとされる鮎川様や、君が代を歌わないことを特定の思想を表現すると評価する一方で、君が代を歌わせることの思想性・イデオロギー性には言及されないmasashi様にも見て取れます。

 私も木走様も鮎川様もmasashi様も、みなそれぞれのイデオロギーを持ちそれに基づいて議論をしている、それが議論の出発点であることは、心にとめておいた方がよいと思うのです。

 うーん、基本的にはとっても文章の理論としては、納得いきます。最後の文章の「私も木走様も鮎川様もmasashi様も、みなそれぞれのイデオロギーを持ちそれに基づいて議論をしている、それが議論の出発点であることは、心にとめておいた方がよいと思う」という御指摘もその通りであると思います。

 人はそれぞれ必ず議論するときの立ち位置、青龍さんが言うところの「それぞれのイデオロギーを持ちそれに基づいて議論をしている」わけであります。

 そしてこのエントリーで私は確かに「マナー」とか「しつけ」とか、一見中立的に聞こえる(見える)用語を用いているのですが、その「マナー」とか「しつけ」は守るべきであると主張すること自体、ある「行為を押しつける」主張と見なされてもしかたがないようです。



●真摯な青龍さんの反論に対する木走の反論

 同意ばかりしても議論になりませんのでささやかに建設的な反論を試みましょう。(苦笑)

青龍さんのご意見

 この主張は日の丸・君が代を巡る価値観の対立を捨象して、一見価値中立的な「マナー」を持ち出すことにより、結果として異なる価値観に基づく行為を押しつけるものだから

 元エントリーでもたしかに私は「イデオロギー論は抜きにして」という前提を明示した上で記述したものですが、確かに私は「日の丸・君が代を巡る価値観の対立を捨象」した議論を展開いたしました。

 その理由は、第一には、細かい過去のイデオロギー論的事象について議論する用意が私の方にまったくなく(意識としても能力としても嗜好としてもです)、イデオロギー的議論に拘泥するのを避けたかったからであります。

 しかしより本質的には、この日の丸・君が代論争そのものが持つ「過去の価値観の対立」に意味を見出すことが、というよりもそこに議論を集約させて拘泥してしまうことが、この問題を議論し解決するうえで正しい方法論なのか、個人的にはとても疑問に思っていたからです。

青龍さんのご意見の続き

 すなわち、この主張では、卒業式で君が代を斉唱することがなぜ「マナー」なのかという点が問題とされません。突き詰めて考えれば卒業式で君が代を斉唱すべきという主張は君が代ひいては国家や歴史に関する特定の価値観を基盤としているイデオロギー的なものであり、それは君が代の斉唱を拒否するもう一方のイデオロギーとの関連でそれを「マナー」として認めるべきかを検討する必要があるのに、その検討の過程は省略されて君が代の斉唱が「マナー」であることがいつの間にか議論の前提とされているのです。

 この部分で納得がいかないのは「突き詰めて考えれば卒業式で君が代を斉唱すべきという主張は君が代ひいては国家や歴史に関する特定の価値観を基盤としているイデオロギー的なもの」という表現です。

 確かに歴史を紐解けば、事実として日の丸にも君が代にも、かつてイデオロギー的なものはあったのでしょう。

 愛国心や民族主義はくり返し戦争の原因になってきたわけですし、戦争になったとき、必ず政治家は国民に愛国心を強制する。ナショナリズムと軍国主義は深く結びついていて、それを別のものだというのは無理があるという意見もあるでしょう。

 

 国旗や国歌はナショナリズムとして悪用されることも多いわけでして、愛国心をあおることで、自分の国が最もすぐれているような錯覚を起こさせ、まわりの国を侵略したり、支配したりすることもあったでしょう。

 戦前の日本やドイツがその典型的な例だったのかも知れません。そういう歴史を持つ日本が国旗や国歌にこだわるのは、再び戦前のような過ちを犯すことになると考えることもできましょう。

 しかしです。

 いくつかの世論調査では、日の丸については国民の約90%が国旗として支持し、君が代は約70%が国歌として支持している現状は何を意味しているのでしょうか。(もちろん、この支持にはまあべつにいいんじゃないという消極的支持もふくまれるでしょうが)

 敗戦から60年が経過し、日の丸・君が代に戦争を連想する世代よりも、今回のWBCやトリノオリンピックをはじめとしたスポーツの国際大会を連想する世代が圧倒的に増加していることがこの支持率になっていることは明らかです。

 私が強く主張したいのは、「卒業式で君が代を斉唱すべきという主張は君が代ひいては国家や歴史に関する特定の価値観を基盤としているイデオロギー的なもの」という認識は、今日の日本では残念ながら一般化していないだろうということです。

 「国家や歴史に関する特定の価値観を基盤としているイデオロギー的なもの」そこに結びつけることには、私には(そして私が思うに多くの国民には)違和感しかないのです。

 私が元エントリーのタイトルを「「スポーツ朝鮮」記事より説得力がない「朝日新聞」社説〜国旗・国歌論争」としたのも、正にこのような現状認識からなのです。

 ・・・

青龍さんのご意見の続き

そして、そこから導き出される「マナー」は守られるべき、というある意味同義反復的論法では、もはや思想信条の自由や信教の自由との調整は問題とされません。本来その調整の結果確定されるべきマナーの内容が既に決定されているのですから。

 私が「マナー」という用語を用いたのはなにも戦前回帰のためではまったくありませんが。(苦笑)

 国旗掲揚や国歌斉唱は、「法律」でもって強制的に罰するようなことはエレガントではなくもちろんそのようなやり方は反対であり、この件は「マナー」のような、それは守るべきであると私は個人的に考えていますが、守らない他者を罰するような「掟(おきて)」にするのは決して望ましくないというニュアンスも込めてのモノです。

 このような「マナー」がやがて戦前のような「掟(おきて)」となってしまうならば、私は断固反対いたしましょう。(私はその可能性は少ないという現状認識を持っていますが)

 法律による強制には反対です。

 ですから私は法的拘束力のない「マナー」を使ったのでした。



●日の丸だけではない「旗」の閉鎖性

 少し議論を国旗に絞ってみます。

 国旗に代表される「旗(はた)」の起源はどこから来ているのでしょうか。

 私には旗の起源に関する正確な知識はありませんが、想像するにおそらく古代から洋の東西を問わず戦さのときの敵・味方の区別に使用されてきたことに由来するのではないでしょうか。

 そもそも国旗を含めて旗の役割は、ある価値観(ときに部族、ときに民族、ときに宗教、ときに国家、ときにイデオロギー)に基づく味方集団の象徴的な印・記号としての役目だったのでしょう。

 ある人間集団を特徴付け、その集団の内なるモノと外なるモノ、敵・味方を区別するための閉鎖的側面を「旗」自体が有しているのでしょう。

 作家、城山三郎氏の次の詩は、まさにそのような旗の持つ「閉鎖性」を糾弾しています。

「旗」

旗振るな 旗振らすな 旗伏せよ 旗たため

社旗も 校旗も 国々の旗も 国策なる旗も 運動という名の旗も

ひとみなひとり ひとりには ひとつの命

走る雲 冴える月 こぼれる星 奏でる虫 みなひとり ひとつの輝き

花の白さ 杉の青さ 肚の黒さ 愛の軽さ みなひとり ひとつの光

狂い 狂え 狂わん 狂わず みなひとり ひとつの世界 さまざまに 果てなき世界

山ねぼけ 湖しらけ 森かげり 人は老いゆ

生きるには 旗要らず

旗振るな 旗振らすな 旗伏せよ 旗たため

限りある命のために

「支店長の曲り角」城山三郎著より

http://www.bk1.co.jp/product/863099

 ここでは「国旗」も「社旗」も「運動という名の旗」もすべて否定されています。

 具体的に例えば、「日の丸」も「朝日新聞社旗」も「あか旗」もと言い換えるとまたおしかりいただいちゃうでしょうか(苦笑

 ・・・

 日の丸だけではなく、それぞれの「国旗」には負の歴史もあり、また国旗掲揚という行為には、ある種の集団を記号化した旗のもつ宿命的属性としてのその閉鎖性を指摘することは間違ってはいないでしょう。

 その面で否定するならば、日の丸だけではなくいろいろな旗が否定対象になってしかるべきでしょう。

 ・・・

 しかし、私はそのような旗の持つ負の属性も含めて、「国旗」に自国・他国の区別無く敬意を払うことは、国際的には200ヶ国以上の独立国がひしめく現在の世界を少なくとも公平に公正に振る舞うための構成員として、少なくとも必要な「マナー」であると考えるのですが、いかがでしょうか。

 ・・・

 ある集団(自分以外のです)がそこに愛着を持ち敬愛の情を抱いているならば、日本を含めどの国の国歌・国旗にも、敬意を表すべきではないでしょうか。

 私は北朝鮮という国家の現状の有様を個人的にはまったく否定しますが、もし日本人の中で、儀礼中に理不尽に北朝鮮国歌や国旗を冒涜する者がいれば、その人間を軽蔑することでしょう。

 国旗・国歌に儀礼として敬意を表することと、その国の過去・イデオロギー・有様に隷属・服従することは、まったく別次元であると考えているからです。

 ・・・

 青龍さま、読者のみなさまの、忌憚のないご意見をお待ちします。

 (異論・反論は優しくネ(爆))



(木走まさみず)

kaioukaiou 2006/03/23 23:19 国旗というのはイデオロギーよりもマナーよりもなによりも全ての国において等しく「国の器」の証として
国旗の元に国のアイデンティティーをも表示するものと思ってます。
よく中国や朝鮮から日の丸=軍国主義と揶揄(あえてこの表現)されますが、歴史的に見れば例えば中国でも
軍旗もまた軍国の証そのままであるし、紀元前から戦乱を続けてきた欧州にとっても国旗はあくまで国の証。
等しく「国」という入れ物に住まう人々の存在意義でもある訳です。

それを踏まえた上で国旗を誇るも汚すも結局はその国の人々だけが許されるのであって、他国が国旗を燃やしたり
すればそれ自体本来なら「宣戦布告」と捉えられる訳です。

つきつめて言えば国旗はそれぐらいの重みを持って扱われるべき「存在」の筈であり、その意義を
賛成なり反対なり真摯に考えてる人が現在何人いるのか?というのが自分にとっての歯がゆいところなんですわ。
確かに日本の軍国主義の時代に生まれたには違いないですが、だからといって日の丸を否定するのでなく、
軍国主義に至った経緯をこそ反省せねばならないのに、何故、いつから日の丸という存在にすりかわったのか?

自分にとって日の丸は軍国主義の象徴ではなく、あくまで日本という国を表示してるだけです。
ただし、日の丸に敬意は払ってもその下に集う日本には敬意はあまり払えないなぁと苦笑しきりw;

masashimasashi 2006/03/24 01:20 まず最初に、長文失礼します。この場をお借りすることを木走さんに深くお詫び申し上げます。

>青龍さん
青龍さんのところのエントリ見てませんでした。大変申し訳ございません。

『私も木走様も鮎川様もmasashi様も、みなそれぞれのイデオロギーを持ちそれに基づいて議論をしている、それが議論の出発点であることは、心にとめておいた方がよいと思うのです。』

仰せの通りです。私も自分の有しているイデオロギーを棚に上げた書き方をしたことを、青龍さんの文章を読んで再認識させられました。

私は、自治体を通じての大学生や多くのNPOやボランティアグループなどで市民活動をしている人(プロ市民ではないです:笑)とお話をする機会をいただきました。
特に、神戸に住んでいる私には、震災直後の被災者に対する支援などを含めて、いろいろな体験をさせていただきました。そこで私なりに(また、いろいろな学識経験者の方々などとも議論をさせていただいて)考えたこととして、「人と人のつながりにおける多様性の欠如」があります。
地域の付き合いの希薄化について、何も昔みたいな「ムラ」社会を復活させようと言うわけではなく、これからの時代に応じた多様な結びつきを壊さないようなシステム(例えば、それが放任により生じるのであればそれもよし・・実際にはありえませんが:笑)を考えるべきではないか。そして、やはり人は、社会の中で他の人とつながりを感じられる社会を必要としているのではないかと感じました。
そんな方法が簡単に見つかれば苦労しませんが、試行錯誤はあるもののこれからの時代に即した方法を手探りで現在も探している状況です。

この時に、日本人であるということから、容易に同意できる部分−−それが、慣習なのか、Common Lawなのかはわかりませんが−−重要な役割を果たすのだと強く感じました。それが、家族、地域、そして国というある集団を安定させる一つの重要な要素であると考えています。・・それがないと、人は不安を感じたりするケースが多いようです。もちろん、全ての人々が個を持っていれば別でしょうが、そんな社会は今のところ私には想像できません。

国歌・国旗にイデオロギーがないか?と問われれば、おっしゃるとおり無いわけはないと思います。そもそも、イデオロギーが絡まない物事など、探すことですら難しい。極端なことを言えば、色や数式でさえ、イデオロギーと結びつけることは可能でしょう。
ただ、私はイデオロギー論争をしたいわけではありません。社会の安定装置としての一定の共通認識は必要ではないか。そして、その認識として国歌や国旗は意味のあるものではないか、と考えている次第です。
すなわち、国歌・国旗に対して、イデオロギーを強く意識する人もいれば、ほとんどそれを感じない人もいる。というのが、実際のところでしょう。もちろん、それにイデオロギーを強く意識する人のことを考えないとは言いません。その人にも言論の自由や思想の自由は当然ありますし、有意義な議論ができることに異論はありません。ですから、今回の青龍さんとの議論も非常に意味のあるものだと思います。
ただ、繰り返しになりますが私はイデオロギー論争をしたいのではないのです。家族・地域・国における一定の共通認識を持つことが、そして教育においてそれをさせることが、イデオロギーの論争に値するものなのかを考えて、その必要までは見いだせないと思っているに過ぎません。
さらに、子供の教育として、大人に与えられるべき思想信条の自由をそのまま持ち込むことに対して違和感を感じているのです。

今回の青龍さんの疑問は、あくまで国歌国旗のイデオロギー色に対する個人的認識の差異が問題点かと考えます。私の思いこみかもしれませんが、木走さんも鮎川さんも、マナーを言われたのはそういう理由ではないかと思います。
青龍さんがおっしゃられるように、マナーであってもイデオロギーはあると言うことはそのとおりかと思います。また、思想信条に対する強制であるということも事実でしょう。
しかし、少しでもあるからと言って、社会全体の問題になるとは思いません。し、その効用を否定できるだけの論点だろうか、とも感じています。
私は、これをバランスの問題だと思っています。もちろん、私のバランスなので、偏っている可能性は非常に高いですが(笑)。社会は、数多くの人々の総体で構成されます。よって、世論なんて適当なものですが、同時に世論は重要な意味を持つとも考えます。私は、私自身のフィルターを通してですが、世論の立つ位置を感じて認識しています。それが、このような議論をさせていただいている理由であり、私の感想でもあります。

前回も、木走さんが書かれていましたが、おそらく青龍さんも木走さんも僭越ながら私も、言っていることは大して変わらないのではないかと今でも思います。ただ、認識の仕方が異なるだけじゃないかと感じる次第です。

なお蛇足ですが、「太田肇:囲い込み症候群,ちくま書房」という本には興味深い記述があります。従来の市民参加や地域というものは、既存組織の人の囲い込みに終始している部分が強く見られるからです。そこには、人と人がつながることを新しい価値の発見ではなく、義務としている点で問題があると思います。まだまだ、私自身にも何がよいのかは全くわかっていませんが(笑)。
民主主義・成熟市民社会の理想型は、どこまでも遠く果てしないものだと感じます(笑)。

読みづらい長文失礼しました。

トリルトリル 2006/03/24 01:51 私は、まぁ、マナーで良いかと思います。
例えば無神論者がそうであることを振り回して、周囲の者が畏敬する形をいたずらに汚したり喧嘩を売ったりする事は、状況と覚悟を決めてやるべきでしょう。
何時でも何処でもとなれば社会的にはキチガイでしかないと思います。
となれば、一応形は嗜みとして抑えておくべきかと思います。

飯大蔵飯大蔵 2006/03/24 02:05 お邪魔します。
国旗・国家のイデオロギーと言うのは、付加されたもののようですね。私の経験から言って、教育などによって教えられないとイデオロギーを感じないものだと思います。
 オリンピックやWBCでの国対抗は確かにナショナリズムを喚起すると思いますが、それが国の対立を生むべきでもなく、適度の刺激を与えるものだと考えるべきなのでしょう。言ってみればクラス対抗ソフトボール大会みたいなものでしょう。
そのような意味で
>私は法的拘束力のない「マナー」を使ったのでした。
はなかなか意味の深い言い方だと思います。

私の思いを言えば
 日の丸・君が代が侵略戦争時に使われていたことは事実であり、我々は村山談話と同様重く受け止めるべきだと思います。しかしそれを捨て去ることが本当にいい事なのでしょうか。
 私は日の丸・君が代とは、過去の戦争を頭に描きながら向き合うことにしています。ナチスのせいにして現在の国民は関係ないという態度より誠実だと思います。日の丸・君が代は日本が軍国主義になる前に作られたものです。この素晴らしいものを軍国主義が使ったから止めるのは、軍国主義に取られたような気がするのです。私はこれを我々の手に戻すこと、平和と友好のシンボルに変えていくことが我々の責務ではないかと思います。
私のエントリーhttp://iitaizou.at.webry.info/200601/article_24.htmlも見ていただきたいと思います。

seiryu95seiryu95 2006/03/24 03:33 >木走様
 私の拙いエントリーを取り上げていただきありがとうございます。
 全文引用は何も問題ありません。閑散としている私のブログよりもこちらで取り上げていただいた方が多くの方の目にとまるのでむしろありがたいぐらいです(笑)。
 木走様のエントリーに対するお返事は後ほど私のブログの方で書こうと思います(昨日徹夜して記事を書いていたのが祟って今現在かなり眠たいです)が、その前に気になった点を一点だけ補足しておこうかと思います。
 「君が代ひいては国家や歴史に対する特定の価値観」とは戦前の軍国主義的価値観やナショナリズムも含みますがそれに限定されるものではなく、卒業式のような儀式の場で国歌を斉唱することによって何らかの目的(国家への帰属意識を高める、子供の人格形成に役立つ等)を達成しようとする価値観を広く包含します。逆に、卒業式で君が代を歌うことに個人の好き嫌いを超えた何らかの意義を感じていない人であれば、自らが歌うとしても他の者が歌わないことに対し強制までしようとは考えないのではないかと思うのです(ただ、特に日本では皆がやっているからやるべきだという同調圧力が強いことも検討すべきかもしれません)。WBCで日の丸を振って応援していた人も、日の丸を振らずに応援していた人を非難することはないように思います。
 他方、君が代を歌わない理由も人によって違ってくるでしょう。戦前の軍国主義を彷彿とさせるからという人もいれば、私のように君が代ひいては天皇制が平等という理念と矛盾するがゆえに歌わないという者もいます。また、宗教的な理由から歌わない人も存在するでしょうし、単に面倒くさいから歌わないという人も当然いると思います。
 このように、君が代の斉唱をさせたい人も歌いたくない人もその理由は様々であり、その動機の強弱も様々です。私がイデオロギーと表現したため仰々しいものに限定して理解されたのかもしれませんが、それは誰でも持っているものだというのが私の考えです。
 書いている間に本格的に眠くなってきたので今日はこれだけにしておきます。遅筆なため、議論への応答が遅れるかもしれませんがどうかご容赦ください。

biaslookbiaslook 2006/03/24 03:59 >seiryu95さん
校歌はどうなのでしょうか。
在学中の嫌な思い出を思い出させるという人もいれば、校歌が「学校」という枠を押し付けるゆえに歌いたくないという人もいるかもしれなせん。また、単に面倒くさいから歌わないという人も当然いると思います。
 このように、校歌の斉唱をさせたい人も歌いたくない人もその理由は様々であり、その動機の強弱も様々です。つまり、ある共同体において1つの決まった歌を歌わせることを権力の押し付けと見ることができ、歌いたくない動機は誰でも持っているものだという考えもできます。

 生徒が校歌も君が代も自分で歌いたくない、というのなら別に構いません。しかし、教師が生徒に対して歌わないように指導したり、公務員が歌わないことが問題なのです。

biaslookbiaslook 2006/03/24 04:13 >seiryu95さん(追記)
校歌と君が代は違う。君が代は純粋にイデオロギーの問題だと言われるかもしれません。
しかし、それは、私とseiryu95さんの価値観の基準の違いです。その基準によって、木走さんはマナーと言っており、seiryu95さんはイデオロギーと言っているだけです。よって、たとえ校歌を歌わないことがその教師の価値観であっても、それを生徒に指導するのは間違っているし、公務員が校歌を歌わないことを拒否するのは間違っていると思います。

nebuonebuo 2006/03/24 06:37 この問題は前から興味をもって読んでいるのでひとつだけ気がついたことを書かせていただきます。この問題、賛成派の人は国歌、国旗論争といい、反対派の人は君が代、日の丸論争といっていることが多いように感じています。反対派の人は正面から国歌、国旗に敬意をはらうことを指導することに反対するのは気後れするのか賛同を得られないと思っているせいなのか、話を戦前のことにすりかえているような気がします。その結果、不毛な議論になってしまっています。反対派の方は、全ての国旗国歌というものに敬意をはらう必要がないのか、それとも君が代、日の丸が気に入らないのかについての立場をはっきりさせていただいた上で議論を進めるべきではないでしょうか。私は国歌、国旗に敬意をはらうのは一部の国を除いて世界中の常識だから、それを教えることは当然と考えていますし、強制すべきことと思っています。日の丸、君が代についても今のままで問題ないと思います。日の丸君が代を国歌国旗にすると、どうして軍国主義を肯定することになるのか今ひとつ理解できないのですがそれについては議論の余地はあると考えています。

ふにふにふにふに 2006/03/24 11:02  なぜか問題になるのって公立の学校なんですよね。
公立の学校は、当然国のお金で運営されており、教師は国に給料もらって働いてるんですよね(正確には特別地方公務員だっけか?)。
んで、その学校の公式行事で国歌を歌って国旗掲揚してもめるのがそもそも理解できないんですよねぇ〜
私学なら、学校の方針としてってので判るんですけどね。

もう、納得できない先生たち・保護者たちが集まって、自分たちで学校作っちゃえば良いんじゃないですかね?
指導要録さえ守ってれば補助も出るんだし(朝鮮高級学校みたいなのは駄目だけどww)、まあ公立よりは高くなるけど、それで思想信条の自由が思う存分買えるんだから良いんじゃないですかねぇ〜
たぶん誰も止めないよ。
まあ、こういうと、お金が無くて公立にしか行けない子供が・・・
とかいう人がいると思うけど、子供が歌わなくても起立しなくてもそれはまた別の問題なわけで、まあ場の空気を読んで欠席すると言う選択もあるわけで、そのことで私の思想心情が侵害されたってのは、他の大多数の生徒の権利をその子が一方的に侵害することでもあるのだから通らないでしょうしね。
 職業選択の自由がある大の大人が、わざわざ公務員を選択しておいて、その雇い主である国に対しておおっぴらに反対運動を行うってのがわかんないんですよ。
いつも思うんですが、公立学校の先生って教師として採用される時に、公務員としての職務規定をまもりますという宣誓とか無いんですかね?

 まあ、現体制を革命で打破したい存在にとっては、日の丸や君が代はまさに現体制の象徴ですから、日の丸君が代反対運動ってのは、体制転覆のための革命活動なんですよね〜
で、直接そう言っちゃうとみんなそっぽを向いちゃうから、もっともらしい理由を後付でつけたのが、今の反対運動なんですよねぇ。
そういう意味では、純粋に信じて運動している人たちは、ある意味被害者といえるかも知れませんねぇ〜
ま、同情はしませんがww

ふにふにふにふに 2006/03/24 11:17 mumurブルログ(一部でヘイトサイトとして有名なw)でこんなの拾いました

>東京都日野市立小学校・ピアノ伴奏拒否事件
>東京地裁2003年12月3日判決
>平成14年(行ウ)第51号 懲戒処分取消請求事件 棄却

>「全体の奉仕者である地方公務員は、思想・良心の自由についても公共の福祉の見地から、職務の公共性において制約を受ける」
>「学校教育法などで、入学式において国歌の斉唱が求められていることなどから、職務命令は合理的範囲内」
>「目的や手段に著しい不合理性がない以上、職務命令の違法性は問えない」
>「職務命令は正当で、思想・良心の自由を制約するものであっても、教諭は受忍すべきものだ」

これが現在の司法での考え方ということです。
まあ、弁護士会は正反対でしょうがねww

zoffyzoffy 2006/03/24 11:50 はじめまして、こんにちは。

木走さん:法律による強制には反対です。

元ネタの「朝日」の記事は東京都教育委員会からの通達による強制を批判するものだったと思いますが、そこのところはどうなんでしょうね。
自分も国立競技場でもどこでも国歌流れたら帽子脱いで立ちますけどね。よその国のならなおさら。
でも、都教委みたいなやり方されたら反発しそうです。

GedolGedol 2006/03/24 11:55 ども。コメントの削除・再記入を繰り返す愚を行っているろくでもない人材代表でございますw

 さて、まず「国旗国歌は国を規定するもので国が指定している」論。
 そりゃそうなんでございます。以前、真っ赤な友人が「俺は君が代が嫌いなのにワールドカップで流れると何故か感動してしまう」と言っておりました。それは当たり前なのです。なぜなら国歌は個人的な好き嫌いやイデオロギーに拘り無く「その国そのものを示すポインタ」の機能をもっていますので、そのポインタを参照して彼の頭の中には「わが国」という実体が想起されているわけです。日の丸にしたって同じ事でございます。
 ですから国旗国歌を制定するのは別に悪い事じゃないし、学校で「そのように指定されている」旨教えるのはプチサヨ的に考えても何も問題ないのでございます。

 次に「国旗掲揚国歌斉唱はマナー」論なのですが、これは「そもそもマナーとは何か」とか「学校行事での国歌斉唱がマナーとなった理由は」とかの点から考えてゆくと少なくとも現在の日本では必要無いなぁ・・・と思うのでございます。
 例えば徴兵制を布く国の様な場合は国旗国歌を事ある毎に意識させるのは国にとっても当人にとっても大事なことです。何せ自分の意思とは無関係に「国のために」死地に赴かされる可能性が多分にあるワケで、そのような場合は多少なりとも国家主義的思想をもっていないと辛いだろうなぁ、と思うわけです。
 あるいは前回のコメントで申し上げた様に、人工的に統合した国家では何か「要」になるオブジェクトが必要で、それが個々の国情によって国旗国歌だったり宗教団体であったり独裁者であったりするわけでございます。
 ところがわが国を顧みますに、この国は「単一民族」であると誤解されるくらい近隣と比して十分ユニークな国でありまして、そのうえ制度上「金稼いで税金を納める」以上の奉仕を国家に対して求められていないコトになっておりますので、少なくとも国内的には国旗国歌の役処が無いのでございます。実際問題、社会人になってしまうと国旗に触れる機会など極端に減ってしまうのが実情ではないでしょうか。よく感じるのですが、そもそも国旗の正しい掲揚の仕方とか皆さん御存知なんでしょうか。祭日など夜中に国旗を出しっぱなしにしていませんか?結構見かける光景でございますよ。
 ま、とにかくそんなワケで私は「学校行事における国旗掲揚国家斉唱」は戦前の教育現場における「規則」が形骸化して「マナー」として残っているに過ぎないと考えるのです。そして、そもそも他人を不快にするマナーって何だ?という問題が残るのでございます。

 因みにわが母校でも行事の時に校旗掲揚校歌斉唱は別に異論無く行われていました。当たり前です。それは「これから行動する行為主体を示すポインタ」なのでございますから。


・・・この文体は疲れます。よくできるなぁ、木走さん。

追加。
>「目的や手段に著しい不合理性がない以上、職務命令の違法性は問えない」
私ならここを衝きますね。

antonianantonian 2006/03/24 12:17 そういえば、私は琉球圏の島在住ですが、この島のお正月の光景は今も「日の丸を門に出す」あの懐かしい光景があります。島の人々は右翼的な方のいうような「単一民族」ではありません。中国の慣習などの影響も強く、島言葉も日本語と言語もかなり違う。そして戦前には本土における差別なども体験しています。そしてこの島は、戦後、アメリカ占領を体験していて、その時にアメリカから奄美琉球群島で自治国家を設立するという案が出されたにも関わらず、住人のほとんどが日本への帰属を求めました。
普段は「島だけが宇宙」という価値しかないのですが、しかし日本という国に帰属するというのは島の人にとって大切なことのようでもあります。周辺の民として大きな国々の間でいいようにされて来た歴史の中で、島の人にとって「自らが帰属することを選ぶ国」とは日本以外にはなく、自分の島をとても大切に思うと同様、日本の一員であることも大切に思っているように思えます、その思いが旗を掲げることで無言のうちに主張されているのだと思います。
それはいつ何時占領されてもおかしくない最前線の土地に住むから、より切実に感じられるのかもしれません。

tyujhgtyujhg 2006/03/24 14:14 極論を言えば、日本の教育現場で「日の丸」や「君が代」に反対が起こる構図は、中国共産党政府が外交カードとして靖国参拝問題に難癖を付けるのに似た構図のように思えます。
日本政府に反対する、反権力、反体制的な思想を持つ個人や集団が、「日の丸」や「君が代」が持つ歴史と伝統の影の部分を持ち出したり、愛国心があたかも「悪」であるかのように喧伝して、式典の儀礼的行為である国旗掲揚や国歌斉唱に、難癖を付けているように思います。(他の反対の理由で反対している人もいるでしょうが)

私たちは日本の国民であり、日本政府は私たちの代表です。
そして、「日の丸」と「君が代」は、私たちの祖国を象徴する旗であり歌です。
私たちが日本人であるという認識が薄れ、同じ国家に属し同じ国土に住みながら、同胞としての連帯感を喪失して行くことは、国家としての競争力を無くすだけではなく、集団への帰属意識が希薄になることによって、社会生活の色々な場面で支障を来たすことになるのではないでしょうか。
もちろん、国歌や国旗については、一義的には強制や強要をされるべきものではないでしょう。
しかしながら、国家という集団に属しながら、教育現場でその自らの帰属を再確認する行為に対して、異を唱えることは、自らの帰属意識が薄弱なだけでなく、その教育的意味をも台無しにすることではないでしょうか。

toorisugaritoorisugari 2006/03/24 16:26 かなり熱い議論になっているようですが,敢えて読まずにレスします.
まず,自分の疑問は,「校歌」はいいのに「国歌」はだめなの?という点です.校旗,校歌が自分の学校という集団のアイデンティティを象徴している以上,それを容認するなら,国旗,国歌も自分が属する国を象徴しているのだから,それを敬うことを容認する必要があります.
問題は,その敬うという行為を,強制,あるいは反強制(つまり”敬わないように”強制)することです.特に教育現場においての反強制というのは問題があると考えています.自分の体験では,反強制をされたわけではありませんが,国歌斉唱について,そんな雰囲気に近いものは感じたことはあります.先生がイデオロギーを子供に話すのは構わないと思いますが,それだけを話すのは立派な洗脳です.そして,生徒に国歌,国旗を敬う自由を”容認していない”ことになります.
まあ,教育委員会と教員組合の対立などどうでもいいのですが,”教員たるもの,生徒を巻き込むな”というのが本音です.思想対立は大いに結構.でも,そんなのは市役所でやってくれ.式っていう格式ばったところで,学級崩壊をおこしてんじゃねー!格式を重んじないなら,そんな式は初めからするな!そんなに個人の自由が重要なら,学級崩壊を問題視する必要はないのではないでしょうか.
ここまで来ると,日教組もマスコミも論点がずれているようにしか思えないのですが.
自分は,愛国心を強制も反強制もされたくありません.ただ,自分がほんのささやかながらも幸せに生活しているこの国が好きであり,それを象徴する日の丸,君が代に違和感は感じません.そして,ことさら”愛国心”を目の敵にするサヨクの人々の意見には違和感を感じます.

きくいちきくいち 2006/03/24 19:52 初めまして。少し思ったことを書かせてください。
国旗国歌以前に、「卒業式への参加」がそもそも思想の押し付けだ、という意見は出ないのでしょうか。卒業式に限らず「式」と名のつくもの(=儀式)で、イデオロギー的なものを含まないものはほとんど存在しないと思うのですが…
上でふにふに様も同じようなことを書かれていますけど、「式というのはそういうものなのだから、それがいやなら参加をやめなさい、参加するならきちんと決められた手順をこなしなさい」というのがバランスが取れていると思うのですけど。これで困る人っているんでしょうか。

dokendoken 2006/03/24 19:59 ここの議論では君が代斉唱賛成派が圧倒的に多いですが、これが社会の分布と同じなのでしょうか?同じであると自分は感じていますが、そうなのであれば思想的少数派が学校教育を牛耳って居るという事でありますな。血の気の盛んな若いうちから愛国教育して過激な人を増やすよりは、少しくらい左に寄ってても良いかなとは思いますけど、卒業式で歌わないどころか起立もしないなんて、洗脳ですよ。
日教組解体すべし。

反対派の人、君が代を歌わない事で何が得られるのだろうか・・・
そんなゴタゴタを起こすより、歌いたく無いなら立ってクチパクしていれば宜しい。卒業生の為にはスマートに議事進行した方が良いに決まってます。法律で決めたにも関わらずそうできないとは、すごく強い意思、そしてイデオロギーの発露でありますね。前のエントリーにも書きましたが、晴舞台である卒業式の進行をギクシャクさせてまで自分のイデオロギー主張をする、そんな教育は最低です。多少窮屈に感じることでも決められた事は守れるように成らないと。それも大事な教育でしょう。

masashimasashi 2006/03/24 21:09 なんとなく気になったので一言だけ。
私は学生が卒業式で君が代を歌わなくても、実はどうでもいいです。しかし、歌わないことをイデオロギーの発現として教え込む教師がおかしいと感じているのみです。そういう人たちがいるから、教育委員会も無理強いせざるを得ない状態に至っているのではないかと考えます。
強制的に歌わせること(程度によりますが)には反対です。自由意志で誇りを持って歌えるようになればいいですね。

kawakawa 2006/03/25 00:17 うーん、日の丸・君が代を批判する側に「反戦・軍国主義の否定=日の丸・君が代の否定」という等式が出来てしまった時点で戦略的な失敗だったと思いますよ。

本来、重要度は「反戦・軍国主義の否定 >>>> 日の丸・君が代の否定」のはずですから、反戦・軍国主義の否定をしっかりと伝えられているのなら、日の丸・君が代の是非は瑣末な事のはずなんです。
どうも、こう、目的と手段が逆転してるような気がしてなりません。

ただ、マナーというのもどうなんでしょう?
法で規定する事(堅苦しい事・国権の介入)を避けたいという気持ちはわかるんですが、日の丸・君が代に敬意は払わなくとも他国の国旗・国歌にはちゃんと敬意を払うように教育しちゃえますからね

個人的な経験では日の丸を否定されたことはなかったですね。
中学校卒業の時は、君が代歌えと言われましたが歌わなかったですね。(単に人前で歌と歌うという事が恥ずかしかった)
高校卒業の時は、歌ってもいいし歌わなくてもいいと言われました。
全くソリの合わなかった担任が歌わないで欲しそうだったので歌いましたが(笑)

nobu3382nobu3382 2006/03/25 01:29 nebuoさんが
>公立学校の先生って教師として採用される時に、公務員としての
>職務規定をまもりますという宣誓とか無いんですかね?
とかかれてますが、公務員は日本国憲法・法律を守るという誓約書を提出するはずですよ。
わたしもかって提出したことがあります。
#いまは公務員じゃありません。

国旗・国家について活動家の方々が取り上げるのは良いとは思います。
ですが、子供を巻き込んで教員、とくに管理職批判をさせる時点で、おまいらに対して同情的な人の数は減っていることを覚悟しておきな、と言いたい。

しかし、法律を守れない公務員を許すような活動家って、なんとおこちゃまじみた存在なのでしょう。

鮎川龍人鮎川龍人 2006/03/25 16:30 イデオロギーの問題と捉えられると困ります。
私は国際常識を子供に教えるか否か?と捉えていますので。
ちなみに、自分をニュートラルと思ったこともありませんし。
実際、かなり偏屈です。
でも自分の国の国旗や国歌を尊重しないで、他国のものを尊重できるとは思えないのです。
それに非常識な日本人が増えると他国で生活する時に、いらぬ神経を使うことになるのが困るのです。
やはりイデオロギーに関わる活動は、プライベートな時間に行なうのが社会人として当たり前では?

tntn 2006/03/25 20:08 つうか、要するにこれって、

右翼有権者層への選挙目当てのアピール

でしょ。政治家の靖国参拝もそうだけど、結局選挙目当て。
動機が不純。

kawakawa 2006/03/25 20:10 イデオロギーの問題かどうかは脇に置きますが(私自身はイデオロギーの問題としてしか捉えられないので)、外国に行って恥を書くかも知れないという心配(知識の欠如に対する心配)があるなら、脱帽等の具体的な敬意の払い方と共に、単純に日本以外の国旗・国歌には敬意を払いなさいと教えればよいだけだと思います。

理由・来歴を知らずに世間にあわせているマナー・習慣などは山ほどあるんですから、国旗・国歌に対してもそうして悪い理由は無いと思いますよ。

tntn 2006/03/25 20:12 そう言えば昨日の3K抄に、

>連合国軍総司令部(GHQ)が製造元の憲法護持を叫ぶ社民党の辞書には「愛国心」という言葉はないかのようだ。

ってあって(この論理も強烈なんだけど)、でももし憲法が「GHQ製造元」っていうのなら、君が代だって製造元は英国人(しかも編曲にはドイツ人も関与)だろって言われても文句言えないよねw

seiryu95seiryu95 2006/03/26 00:39  木走様、masashi様、biaslook様の発言にお答えする形でまた記事をエントリーしました。よろしければまた閲覧の上御意見をお聞かせください。

biaslookbiaslook 2006/03/26 07:41 >seiryu95さん、新エントリー拝見しました。コメントをどちらに書くか迷いましたが、コメント欄をすぐ読める、こっちに書きます。

>国家への帰属意識が高まったり、人格形成に役立つ効果を持つとは考えていません。
 国歌を歌うことは、無意識のうちに国歌への帰属意識を高めるものです。それは、近代国民国家の成立に必要です。しかし、人格形成に役に立つ、と考えているのは一部の右層で少数派でしょう。
木走さんの「マナー」という言い方がややこしくなったけど、「マナー」の強制は権力です。しかし、権力が国家の維持には必要です。ちなみに教師が、無知の生徒に国歌を歌わせないことも権力です。

>木走様が法律による強制に反対という文脈で「マナー」という言葉を使われるのであれば、これまでの東京都教育委員会の措置についてはどの様に考えられるのでしょうか、
 生徒が自主的に歌わないのではなく、公務員教師が国歌を歌わなかったり、生徒に歌わないことだけを教えるというのは、「わざわざ法律に書く必要がない国民国家の規律」に違反します。masashiさん発言「それが、慣習なのか、Common Lawなのかはわかりませんが」は参考になります。よって、わざわざ法律を作らなければならなくなったのでしょう。公務員が歌わない原因があって、法律で強制するという結果があります。

>ならば、その点について価値観が違う者との対話の際にそれを問題にしないで議論をすることは不可能ではないでしょうか。
 国民国家に反対する者との対話という意見になりますが、国民国家は当分は必要でしょう。

>偏った教育が行われたから生徒に無理強いしてもよいというのは論理的につながっていないようにおもうのです。
 注目点が違うと思います。国歌を歌わせないこと生徒に強制する公務員教師の排除が目的だと私は思います。

seiryu95さんと私の違いは、公務員教師の振る舞いに対して、どのように対処するかという点でしょう。私は、民主主義国家において、大多数の国民の意見と異なり、それを未成年に強制する(これは権力です)公務員は法律でもって排除すべし、という意見です。

seiryu95さん、未成年に対して権力を振るう公務員への対処法を教えてください。

kibashirikibashiri 2006/03/26 10:16  みなさま真摯な有意義なご意見の数々ありがとうございます。私の意見としては再度新しいエントリーをしましたので、そちらをご覧下さいませ。
 ご意見に対するレスは、必要に応じて新しいエントリーのコメント欄の方でさせていただきます。
 (ちょっと個別にレスするには量が多くてしんどそうなので(汗)スミマセン)

 引き続き忌憚のないご意見をお待ちしております。