「ミリアム館で昇天」 @tatsuru
今日の「教育者とは」その1
引用「学生たち、もうはじけちゃってます」という島崎先生の言葉に誘われて、 ミリアム館に音楽学部舞踊専攻の発表会を見に行く。 …… 驚いたのは、某課長が 「これまでの人生を反省して、これからはまじめに生きようと思いました」 という感想を告げたことである。
そして、幕が上がり… 1時間50分の舞台の感想はうまく言葉に出来ない。 とりあえず島崎先生の手を握って「ありがとうございました」というのが精一杯であった。 「あなたは偉大な教師だ」とも申し上げた。 世界的なコレオグラファーをつかまえて「偉大な教師だ」もないものだが、経験者とはいえ、 アマチュアの学生さんたちをわずか1年でこれだけのパフォーマンス・レベルに 導くことができた指導者の力量には脱帽するしかない。
島崎先生の教育法がどういうものか、見たことがない私にはよくわからないけれど、 「ブレークスルー」というのが何かを学生ひとりひとりに実際に経験させていることは はっきり知れた。 「自分の限界を超える」やり方を教えることはある程度技術のある教師ならできる (それさえできない教師も多いが)。 けれども、一度「自分の限界を超える」ことができた人間は、 「自分の限界を超えたやり方」に固執するようになる。 …… しかし、ほんとうにすぐれた教師は「自分の限界を超えるやり方」に固執してはならない ということを教える。 「変化する仕方そのものを変化させる」ことがエンドレスの自己超克のためには必要なのである。
人間が自己の技能や知見の限界を超える契機は二つある。 一つは「限界を超えなければ、生き延びられない」という 死活的なストレスをかけることによって。 もう一つは「限界を超えることは、愉しい」という身体的実感を知ることによって。 島崎先生はそのどちらをも熟知されていたように私には思われた。 だから私は「あなたは偉大な教師である」と申し上げたのである。
きちんと機能すれば、 「わずか一年」でも「定員7名の小さな専攻」でも、大きなことができるのだな。 「マンパワーが無いからダメ」とか言うのは言い訳だ。
付記: というか、むしろ最初であること、まだ一度も成功していないことが大事なのかな。 要領のいい奴とかが入り込む前というか、まだ効率化を目指さない段階というか、 道のない所を進む時の、その試行錯誤自体が意味を持つレベルというか。 結果ではなくそのプロセスに入れ込める人間が集まる状況。
サマリー:教育について
「最終講義−学生の謝辞に感極まる−」@osame
今日の「教育者とは」その2
引用先日、納先生に「いくつもの趣味を本格的に楽しむためには、どんな秘訣があるんですか?」 と伺う機会がありました。先生は、 「おれの趣味はね、対象が何であれ、努力することなんだ」 とおっしゃいました。
サマリー:教育について
「無根拠性にこそ」@kenmogi
今日の「教育者とは」その3
引用カントの講義スタイルは、その問題をあたかも初めて考えたかのように提起して、 いろいろなアイデアをその場で生みだし、様々な角度から検討し、多角的に眺め、 講義が終わった時には、聴講生は単に知識を得るだけではなく、 そもそも思考というものはどのような方法論で進めるべきなのか、 その技術をも体得したとされる。
カントにあやかったわけではないが、私は、何か話す時に、できるだけ、 まるで生涯で初めてそのことを考えたかのように、 新鮮な気持ちになって、その場で表出されるものをつかもうと努力する。
自分の中には「演出嫌い」(今の世間的な文脈で言えば「やらせ嫌い」って言うのかな) がある(ことは、これまでもちょくちょく書いている, for example, 6/8/2006)。 だけど、そういう「計算してやってる」とかいうレベルを越えて出てくる 自発性とか即興性とか、それがないとダメなんだろうな。 自分のプレゼン技術に関しては、まぁ練習が足りない、という一言に尽きるのだが。 jazz player が譜面をのぞき込みながら弾く solo って、 出て来る音以前にその姿勢に落胆する、そのような意味で。 そういう自由は、土台をマスターしてこそ可能になるものだというのは、 当り前のことだ。土台のないフワフワした自由は「まぐれ」であり、偽物なんだろう。
まとめ。表現レベルには3つある。
1) 練習まったくなし、ぶっつけ本番
2) シナリオを作って、発表
3) そのシナリオを完全にマスターし、一旦すべてを捨てて、自然に発表
シロートはレベル 1 の「本当の」即興とレベル 3 のそれを混同しがち。 keith jarrett が「一切 preparation をしない」というのはレベル 1 ではない。
サマリー:教育について