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2016-05-26

[]ドイツ国民はどう見るか、「ヒトラー暗殺、13分の誤算」 ドイツ国民はどう見るか、「ヒトラー暗殺、13分の誤算」を含むブックマーク

ヒトラー暗殺、13分の誤算」という映画をご存知だろうか。

1939年11月、ヒトラーが政権を握ってから数年経ち

ナチス・ドイツ領土的野心をむき出しにしていた。

さらに国内のユダヤ人や反政府団体に対しても弾圧を強めていた最中。

ミュンヘン一揆16周年を記念して、ビアホールではヒトラーの演説が行われた。

実はこの時、ビアホールに時限爆弾を設置し、ヒトラーを暗殺せんと目論む

青年がいたのである。

ヒトラーは帰りの時間が変更となったため

慌ただしく演説を終えると、そのまま帰途についた。

その13分後、ビアホールは大爆発に包まれ、実に7人が死亡、63人が負傷する大事件となった。

この時、逮捕されたのが、家具職人のゲオルク・エルザーである。


本作品では、エルザーが反ヒトラー活動家として

活動を始めるまでのきっかけが

尋問に当たったアルトゥール・ネーベ武装親衛隊少将らを通して

描かれている。ネーベは、1944年にヒトラー暗殺未遂事件に関与したとして

絞首刑に処せられており、それも皮肉な描写といえる。


本作品を見ていると、2つの見方ができるであろう。

一つは命をかけてドイツを救おうとした義挙という面。

もう一つは、いかなる目的であれテロはテロであり、エルザーはやはり犯罪者という面。

ヒトラーのその後を考えれば、彼は暗殺されるべきであったというのに異論はなかろう。

しかし当時の一般国民の立場として見れば、後者である。

なぜなら、ヒトラーは間違いなく選挙でもって国民の信任を得たのであり

ヒトラー政権の業績により、ドイツ国民の生活水準はワイマール時代のそれと比べて

格段に上がっていたからだ。

そして、エルザーは義憤にかられて犯行に及んだのかもしれないが

彼が左派の中でも武闘派の赤色同盟戦線に所属していたことから赤色テロ

という見方もできるし

さらに、テロによって70人もの死傷者を出したことは許されるものではない。

1944年に発生したヒトラー暗殺未遂も爆弾を利用したものであったが

死亡したのは一般人ではないという点も、かなり評価は変わってくる。

僕は当時のドイツ国民として当時を生きていたら、どう思うだろうかと

考えながら本作を鑑賞した。


D

2016-05-24

[]イチロー大暴れの裏に「無事之名馬」 イチロー大暴れの裏に「無事之名馬」を含むブックマーク

大リーグマイアミ・マーリンズイチロー選手

この3試合で10本もの安打を打ち、大リーグ通算3000本安打まで残り40とした。

23日のマイアミ・レイズ戦で「一番・レフト」で先発したイチローは4安打と大暴れ。

チームも7-6で勝利し、この日の実況は「アンビリーバボー!」と大興奮。

40歳以上の選手が3試合で10本安打を記録したのは史上初とのことで

イチローはまさに前人未到をひた走っている。


イチローの大きな武器は故障の少なさにもあろう。

イチローは柔軟体操を念入りに行うことで知られ

ケガによる欠場はほとんどない。

2009年4月、胃潰瘍故障者リストに入って以来

ケガによる欠場がないため、それも高評価に繋がっているようだ。


「無事之名馬」という言葉がある。

競馬の用語の一つで、多少能力が劣っていても、病気やケガがなければ、その馬は

本当の名馬である、という意味。

なぜなら、馬が故障した際は馬主や調教師は心配するであろうし

療養にかける時間やコストも馬鹿にならない。

大きな重賞を取っていても、故障して引退となればファンの落胆も大きかろう。

ランニングフリーという馬は、1985年9月にデビューしてから、初勝利まで4戦かかり

オープン馬になってからも勝ち鞍には恵まれないことが長く続いたが

7歳になってからアメリカンジョッキークラブカップ、日経賞といった重賞で一着

有馬記念天皇賞などでも入着し、9歳で引退するまで大きな故障もなく

着実に賞金を稼いできたことから「馬主孝行」「無事之名馬」と称えられた。

決してスターではなかったため、種牡馬としても人気がなかったが

産駒には、弥生賞で勝利したランニングゲイルを輩出した。


人にも同じことが言えよう。

必ずしも大きい業績を上げることが偉人であるとは限らない。

表に出ることがなくとも、堅実に実績を積み上げていくことが回り回って

その人のためになることもあるのである。

イチローもまた、パワーバッターが注目される大リーグの中で

ヒット(特に内野安打)をコツコツと積み重ねていくことに批判もあった。

スタンドプレーではないか」「コックローチ(ゴキブリ)」と言われることも。

しかし、イチローはそんな批判を跳ね返すように、04年ジョージ・シスラーが持っていた

シーズン最多安打記録を更新し、オールスターでは史上初となるランニングホームラン

やってのけるなど、名実ともに「伝説」となった。

今ではイチローの伝説を疑う人はいない。

しかし彼が、故障をしていたらどう思われるであろうか。

いつまで試合に出られないのか、出られたとしてもケガの後遺症はどうなのだろうか

と不安であろう。

故障がない、病気をしないということもまた、実績の一つなのである。

われわれも彼を見習って精進しようではないか

2016-05-22

[]東亜連盟の「朝鮮問題」 東亜連盟の「朝鮮問題」を含むブックマーク

東亜連盟協会という組織をご存知だろうか。

陸軍切っての秀才とうたわれた石原莞爾中将を指導者とした

民族主義団体である。

石原山形庄内地方出身であったため

今でも庄内地方に行けば、石原関係の古書は手に入る。

東亜連盟が発行していた機関誌東亜連盟」の昭和16年12月8日発行号に

朝鮮民族問題について掲載されていたので、書き起こしてみよう。


大正中期の民族自決主義運動によっても救われず、昭和初頭の共産主義運動にも

遂に絶望せざるを得なかった朝鮮民族が、その自己の根底に横わる「独立的感情」を懐疑し

反省し、真の意味での民族的発展は、日本国家を構成する一民族として

最も正しく勇敢に生き抜くにあると考えるに至ったことは

満州建国によってもたらされた大いなる収穫の一つである。

ウィルソンの民族自決主義提唱以来、一民族一国家主義は全世界を風靡したのであるが

他面より多くの国家より多くの民族の結集を余儀なからしめる、急速なる人類文明の潮流の前には

小国は単に独立の美名を保持しつつ、常に大国の愛犬的地位に甘んぜざるを得なかったのである。

民族共和主義は力を以て他民族を強厭的に支配せんとするものにあらず

強者対弱者の愛護的感情を以て他民族を指導せんとするものにもあらず

伝統に生きる民族的自負心を相互に尊重しつつ同時にまた大いなる目標の下に相互に反省しつつ

民族的全能力を発揮せんとするのである。


吾人の朝鮮問題に関する見解について、世上幾多の論議の存することは、つとに聞知するところであるが

その批判おおむね一知半解の見解に過ぎず、あるいはことさら東亜連盟運動を妨害せんとするものか

あるいは自ら確たる対策を持つことなく、しかも飛躍的大計展開の頭脳も肚も責任感もなく

右顧左眄する神経衰弱的発言に過ぎない。

吾人は縷々朝鮮問題につき吾人の意見を正しからざるとする人に対し、吾人の見解を開陳するの機会を

持つものであるが、そのほとんど全部のものが「それなら自分も賛成だ」と答えるを常とする。

吾人の論述するところはことごとく「東亜連盟建設要綱」中の「国内における民族問題」の解説に外ならぬ

を考える時、実に現今のごとく、自己の先入観をもってほしいままに人を憶測し、これを批判し

恬として恥じざるものの多きについては、衷心よりこれを悲しまざるを得ないのである。

吾人の所論を子細に検討しての批判ならば、吾人は合掌の心をもってこれを聞き

もし誤りあらば即刻これを改訂するのにやぶさかなるものではない。


ひとり朝鮮問題に限らず、東亜連盟論に関する批判の大半は、吾人の所論を知らずして無責任になされるのである。

満州建国における民族共和主義によって、忠良なる日本国民として生きることと

朝鮮民族としての誇りをもって生きてゆくことがいささかの矛盾もなく統一されるのだと

いうことを悟り、翻然としてここに20余年にわたる「独立的感情」を清算、常時まだ目覚めざるものの

冷笑を浴びつつ勇躍新しき路を突進した半島先覚者の胸中を思う時、吾人は感激の涙を禁じ得ないのである。

独立論には独立論のよって生ずる根拠がある。これを解消せしめるためには彼等をして

解消を妥当なりと考えせしめるところの根拠がなければならぬ。

朝鮮民族の脳裏に永くこびりついて離れなかった独立論をして、再び逆行せざる終焉を可能ならしめるためには

彼等自身の体験的自覚と思想的飛躍とに待たなければならぬ。

民族協和主義及びこれに基づく東亜連盟論のみが、独立論を初めて発展的解消せしめるのであり

この外にはもはや何等の対策なしと断ぜざるを得ないのである。

この思想的体験的飛躍ありてこそ、いわゆる内鮮一体論も真に揺るがざる現実的地盤を得るものと言わねばならぬ。


東亜連盟結成の四条件は、独立国家間に適用されるべきものであり、もしこれを国内民族たる

日本朝鮮両民族間にも適用し、従って朝鮮政治は独立たるべしと考えるものあらば

甚だしき曲解である。自己主張と自己放棄とは協力における二つの面であり

この二要素の配分如何は、個より群へ、群より全への時代精神を通して

個々の歴史的関係の理に求めなければならぬ。

内地人の朝鮮に関する知識は極めて乏しいものであるが、朝鮮民族日本文化に対する認識は

更に乏しきことを思う。

吾人はこの際半島同胞に対して、日本の歴史の底に流れゆく一個の潮流を虚心に凝視されんことを望むこと

切なるものである。


大いなる時代の変遷は世界観の大いなる飛躍を要求する。

しこうして新しき世界観は、遺憾ながら鉄火の試練の下に練磨されつつ

その世界観としての地位を獲得することが一般である。

朝鮮問題は断じてすでに解決された問題にあらずして、ある程度の摩擦を冒しても

一刻も速やかに解決しなければならぬ今日の問題である。

朝鮮民族の最高最善のものを覚醒せしめんとする努力において日本民族の至高至善のものが

発揮されるのである。南方への進出の声高き今日、合邦三十年に及ぶ朝鮮の現状に対して

吾人は心より反省、朝鮮民族の民族的信頼を得ることについて、万般の努力すべき急務を感ぜざるを得ないのである。



以上

2016-05-21

[]殿様に銭バトル!「殿、利息でござる!」 殿様に銭バトル!「殿、利息でござる!」を含むブックマーク

映画「殿、利息でござる!」を観てきた。

本作は宮城県民ならばよくご存知の方もおられよう。

現在の仙台藩で実際に起こった出来事を映画化したものだからである。

時は1770年代、仙台藩黒川郡吉岡町仙台城より北に位置する奥州街道の宿場町

そこは、宿場町の割にはほとんどが百姓で、しか宿場町として栄えているとは到底言い難い町であった。

というのは、町民が借金の取り立てに耐え切れず、夜逃げすることが多かったためである。

なぜ取り立てが厳しいかといえば、宿場町には伝馬役という賦役が課されていて

藩の役人の荷物などを次の宿場町まで運ぶというものであったが

その負担はその宿場町で負う定めとなっており、馬や人足の手配などはその町で

やらねばならぬのであった。

その役料を負担するため商人借金の取り立てを厳しくせねばならず、それに耐えきれない百姓による

夜逃げが相次ぐばかりなのである。

その閉塞感ただよう町に、現状を打破しなければならんと考える人がいた。

造り酒屋の穀田屋十三郎。彼は京都から帰ってきた知恵者・菅原屋篤平治と組み

町を救おうとするのであるが、その方法とは誰も考え付かないような突拍子もないことであった。


当時吉岡を治めていたのは、伊達家の宿老である但木土佐である。

但木氏といえば、代々伊達家に仕えた譜代の重臣で、戊辰戦争の時は但木土佐(成行)が

佐幕派として新政府軍に対し徹底抗戦を主張、仙台藩降伏後はその責めを負って自害した。

その但木氏の当主は作中には出てこないが、当時は長行といって文献にこれといった

大きな業績は記されていないが、父の代には困窮のため藩から500両を賜っていることから

決して余裕のある統治をしていたことはないようである。

さらに、但木氏は1756年に吉岡に移ったばかりであり、領民にもその手腕が行き届いていないのも当然であろう。


ところで、仙台藩ではその行政を行うにあたり

トップが藩主なのは言うまでもないが、その下に実務担当者として「奉行職」を置いた。

幕府でいうところの老中である。

基本的には5人以下で、重臣の中から有能な者を選び出して任命したのである。

スタッフロールには「奉行 大町」「奉行 松前」「奉行 柴田」などと記されているだけでよくわからない。

該当する人物は大町成頼、松前脩広、柴田成義のことであるが

大町成頼は「安永の疑獄」によって免職されているから決して正しいとは断定できまい。

歴史史料は、「雄弁」である。欲しい情報は自ずから出てくる。

しかし、雄弁であるからこそ「偽」も混じっている。

伊達家世臣家譜」は仙台藩を多少なりとも研究している人にとっては必携であるが

これが必ずしも正しいとは限らない。考古資料なども含め、多角的に裏付けを行うことが大事である。


さて、本作はあまり世に知られていない歴史を掘り出したという点で

高く評価できる。涙あり、笑いありで、非常によくバランスのとれた作品であろう。

終盤では、現在の大和町吉岡の様子もきちんと伝えており

穀田屋が未だに営業しているという事実を描写している点は「行ってみようか」という気にさせる。

中村義洋監督も「アヒルと鴨のコインロッカー」「ゴールデンスランバー」などで

仙台市民にとってなじみの深い監督である。

瑛太阿部サダヲ西村雅彦、きたろうなどのベテラン陣のほか

フィギュアスケート羽生結弦AKB48岩田華怜など仙台にゆかりのある人々が出演していることもポイント

気になったのは、「真田丸」でも指摘されているのだが、振る舞いや言動が現代人すぎる

という点であろうか。

とはいえ、十分に楽しめる良作となっていることは間違いないであろう。

D

2016-05-17

[]1940年東京に学ぶオリンピックの意義」 1940年東京に学ぶ「オリンピックの意義」を含むブックマーク

一体何をしているのか――。

こう声を大にして言いたくなる。

日本オリンピック委員会JOC)が、オリンピック招致めぐり

約2億円の使途不明金が発生していることについて

竹田恒和会長は、16日参議院に参考人として出席。

国際陸連への票集めに使用したのではないかとの疑惑

否定したうえで「(広告代理店大手の)電通の紹介で送金したもの」と答弁した。

送金先はシンガポールのコンサルティング会社で、国際陸連前会長の息子の友人が経営しているという。

フランス検察はこの事態を受け、前会長がパリで多額の現金を引き出していたとして

捜査を開始したようだ。前会長は当時、国際オリンピック委員会IOC)委員を務めており

オリンピック開催の決定に影響力があったとされている。


鈴木明氏『「東京、遂に勝てり!」1936年ベルリン至急電』という書籍がある。

実は1940年、日本オリンピック開催国に選ばれたことがある。

実に意義のある大会となるはずだった。

この「幻の東京五輪」はアジア一丸となって実現させたものだからである。

当時、支那事変の真っ最中、わが国と国民党政府とは交戦状態にあった。

だが、中華民国IOC委員王正廷は

「私はアジア人の一人である。歴史的に光栄あるオリンピックが史上初めてアジアで行われることを

考えると、一アジア人として東京を支持せざるを得ない」と発表。

フィリピン委員も郵便ではあるが、日本開催を支持した。

フィリピンでは、「第9回極東オリンピックマニラ大会」が行われ

満州国の参加も予定されていたが、中華民国政府の抗議により

日本支那かどちらかが折れなければ、大会は成功とはいえない状況となっていた。

結局、日本側は満州の代表を派遣せず、としたことで支那も矛を収め

フィリピンはメンツを保ったのだった。

大統領秘書室長のホルヘ・ヴァルガスは大変喜び

「この感謝の気持ちは絶対に忘れない」と日本側に伝えたのである。


だが、最有力候補はイタリアローマであった。そこで副島道正伯爵、IOC委員の杉村陽太郎らは

イタリア渡り、統帥・ムッソリーニに直談判した。

副島伯爵は「東京オリンピックを開催することは、ヨーロッパアメリカ青年アジアを見てもらうためであり

アジアヨーロッパアメリカが共に手を取って、世界平和に向かうことでもあります」と熱烈に訴えた。

ムッソリーニはただ一言「そうしなさい。貴方の申し出はよく理解した」と答え

あっさりとローマの辞退を了解した。


1936年ベルリンで行われた開催都市投票。

残ったのはフィンランドヘルシンキ日本東京

36対27で見事、東京に決まった。

日本国民はこの報に熱狂した。アジア初のオリンピック東京

しかも皇紀2600年という節目の年である。

さっそく、日本では大会に向けて準備が進められたが、戦線が拡大する中、1937年8月帝国議会で

東京オリンピックは断念すべき」と主張した人物が出てきた。政友会河野一郎代議士

あの河野洋平の父である。最初は「このような時だからこそ開催すべき」と主張していた川崎代議士らもいたが

情勢が変わっていくのと比例してその数は少なくなっていき

1938年7月、木戸幸一厚生大臣が正式に中止を発表したのである。


さて、これには後日談がある。

フィリピンIOC委員であったホルヘ・ヴァルガス大統領秘書室長は大東亜戦争時に

日本統治下でフィリピンの要人を務めていたとして逮捕されたものの無罪となり

戦後は大学で教鞭をとりながら、IOC委員の資格も保持していた。

1959年、次期開催都市を決める投票で、フィリピンは再び東京を選んだ。

ヴァルガスは家族5人を引き連れ、戦後成長著しい東京の開会式に出席した。

彼は、東京を最後まで見捨てなかったのである。

日本にとって大恩人といえるであろう。


今やオリンピックは、利権と政治の道具となっている。

東京オリンピック決定当時も大なり小なり政治的な駆け引きはあったであろう。

しかし、これほど情熱を持って開催にこぎつけようと努力した人々の思いは

果たして今のJOCに引き継がれているのだろうか。

甚だ疑問に思わざるを得ない。

JOCはぜひ、オリンピックの意義について今一度原点に立ち返り

国際社会に対して素晴らしい大会である、と胸を張って言えるよう努力してもらいたい。


参考図書

1936年ベルリン至急電―「東京、遂に勝てり!」

1936年ベルリン至急電―「東京、遂に勝てり!」

 
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