贋作における「損傷」分析


シュタイングラバーは、オブジェを観察する要点は、
損傷、用途、年代の組み合わせだと教えてくれた。
「あらゆる損傷、ひっかき傷、打ち傷を見つけだし、心のなかで
スケッチすること。つぎに、その傷がいつ、どのようにして
ついたのか、説明してみることだ」


 彼は実際にオブジェの傷を図面にして描くことを勧めた。
そこが摩耗したのは十三世紀なのか、あるいはそこがへこんだのは
十五世紀なのか。修復されたのか、つけたされたのか。だとすれば、
それはいつのことなのか。現代ではないのか。贋作者は往々にして
美術好きをひっかけるために、「古代の修理痕」をつけ加える傾向がある。


(中略)


損傷が一定の用途と矛盾していたら、おそらく贋作である。
その極端な例として彼があげたのは、バクス(聖像牌)だった。
これは信者がキスをするためにつくられたキリストやマリアを
浮き彫りにした板である。
何千、何万という唇が表面にふれて柔らかに摩滅した痕跡は、
人工的な摩耗の痕とは明らかに違う。


トマス・ホーヴィング 著/雨沢泰
にせもの美術史』より抜粋

円覚寺の宝冠釈迦如来像、覚書


北鎌倉駅降りてすぐにある、臨済宗の大きな寺院
円覚寺」を訪問。広い。


建物も鎌倉造りで、質実剛健、直線的な美しさがある。
無駄が一切無い。職人の仕事が匠なのだろう。
それでいながら、厳粛でなく、
アンビエントな雰囲気があたりを包む…とても落ち着く。


本殿、龍の天井画は前田青頓。威風堂々として迫力あり。
鎮座する巨大な宝冠釈迦如来像、これは別格の美しさ、崇高さだ。
黒い本体に金の装飾。細部まで実に見事に造られてある。

鎌倉長谷の釈杖十一面観音立像を観たときも驚いたが、
こちらも凄い存在感だ。本物の仏教美が顕現しているような。


堂境内にある、閻魔堂の閻魔王坐像も民俗的な造形で素晴らしい。
破邪顕正」という書の扁額があり、
鏡、そして無数の弓矢が置いてある。
的場が隣接していた。


円覚寺は「光の落ち方」がとても美しい。
樹と庭、建物の配置が絶妙なのだ。考案者は誰だろう。

「シャルダン展」鑑賞の覚書


東京駅に隣接した、三菱一号舘美術館へ
シャルダン展」を観に行く。
ジャン・シメオン・シャルダンの絵画を観るのは初めてだ。


瀟洒な洋館だった三菱一号館の室内に展示されている
シャルダンの油彩画は小品が多く、そのほとんどが静物画だった。


解説にもあったが、初期(静物画)→中期(人物画)→後期(静物画)
と変遷し、それぞれの時期に、いくつか注目すべき傑作を残している。
白い陶器のポットのある静物画(初期)と、
野いちごの山盛りの静物画(後期)は、年代が違うが共に
シャルダンの静かな雰囲気が伝わってくる。


額双は簡素ながらもやや華やかな造りで、
「大理石のような」白くつるっとした
(そして肉感が弱く彫像のような)人物画もまた、
いかにもフランスらしい。


シャルダンのデッサン力はそれほど高いものとはいえない。
筆の使い方も天才的なものは感じられなかった。
が、なにか「人間の穏やかな目なざし」によって
描かれたもののように思えた。
描写以上に、「印象」の表現が優れているのだろう。

セザンヌやルドンが影響を受けているだろう。
(ルドンの大きな花の絵が観れたのは役得、これは美しい)

「レーピン展」鑑賞の覚書

Bunkamuraザ・ミュージアムで開催されていた
国立トレチャコフ美術館所蔵「レーピン展」を鑑賞。
ロシアの画家イリヤ・レーピンの絵を観るのは始めてだ。


素描が巧く、素早い筆運び。
少ない線で細部まで的確に描きとめる力は見事。
まるでイラストレーションのよう。
油彩は主に人物画。
レンブラントから学んだ要素が多く感じられる。
筆のタッチは大きく厚塗り。
デッサンが精緻なので、粗いタッチでも像が端正に見える。
作品にあたる照明が明るく感じ、不自然だ。
レーピンの絵はもともと採光性の低い、
暗い室内に飾られていたのではないだろうか?
だとすれば精緻なデッサンなのになぜ厚塗りのタッチなのか、
自然な説明がつく。


トルストイゴーリキー肖像画は迫力がある。
レーピンは人物の存在感を深く感じ取る人(感じ取りすぎるほどに)
ではなかっただろうか。


椅子で眠る赤い服を着た妻を描いた表題作が、一番美しい。
他の絵にはメッセージ性や政治性が織り込まれており、
純粋な美しさとは違う印象を受けた。

額装はロシアらしい、大ぶりで暗い色合いのものが多かった。
(額装はその国の美術的な装飾性をあわらすひとつの指標だ)

読書の習慣について、覚書


本を読む習慣のない人は、まず「岩波文庫」を読むことを
おすすめする。
できるだけたくさん。


岩波文庫は書店で新刊を買ってはいけない
必ず古書店で物色して買うこと。たいてい300円以下で買える。
が、値段ではなく、「古書店に行く」習慣をつけるためだ。
古書店に行く習慣は、自分にとって価値のある書物との出会いがあるからだ。
ちなみに古書で「90年代以降の本」は買わないこと。
本の作り、内容ともに質が低い。(科学書は別)

「ジョアン・ミロ展」鑑賞の覚書


高知県立美術館で開催されていた
ジョアン・ミロ展」を鑑賞。


暑い夏の平日だからか、ほとんど人がいない。
200点以上のリトグラフを観る。

下手だ。だが「遊び心」に満ちている。
そこが面白く「ひょうげて」いて、まねできない。


いろいろな実験を試みたのだろうが、完成していない。
晩年のものに少し、すっきりとした円熟味を感じる。


ジョアン・ミロ、彼は一生「子ども」だったんだろう。


そしてなにより、時代にめぐまれたのだろう。
無邪気で運のいい芸術家、ジョアン・ミロ。

オレンジをめぐる交渉


 2人の姉妹が、ひとつのオレンジをめぐって口喧嘩をしています。
「半分に分けたら?」と親が言いましたが、2人とも
「ひとつ分が必要なの!」と言って譲りません。

 しかし数分後、話し合いの結果、姉妹で無事に
分け合うことができました。
いったい何が起きたのでしょう?


考える時間:3分間



 実際に京都大学の授業でこの問題を出したところ、
学生たちから以下のような回答が挙がりました。

「姉妹のうちのひとりがオレンジを2つに切って、
 もうひとりが切り分けられたオレンジの好きなほうを
 取ったのでは?」

 なるほど、オレンジを切る人と選ぶ人に分けるわけですね。
たしかにそれならば文句は出そうにありません。
 しかしこの答えだと、結局オレンジを2つに分けることに
なります。あくまで姉妹は「ひとつ分」を主張して譲らないので、
これでは間違いです。

 また、「今回は姉がひとつ分、ぜんぶもらうけれど、つぎは
妹がぜんぶもらえる、と約束した」という回答もありましたが、
それも違います。

 両者ともにひとつ分必要という2人の主張は正しく叶えられて、
交渉は終結しています。


 では答えを言いましょう。
「オレンジの皮と中身を分け合った」

 これが正解です。


 なんで?という声が聞こえてきそうですが、要するに
「2人が求めていたものが違っていた」
ということなんですね。 
 姉はふつうにオレンジを食べたかったのですが、
妹は中身が食べたかったのではなく、オレンジの皮で
マーマレードを作りたかったのです。

 お互いに「ひとつ分が必要なの!」と主張していても、
じつは目的が違っていた。そのことが話し合ったことでわかり、
交渉が妥結したわけです。


 つまり「利害関係が一見、完全にぶつかっているように
見える問題でも、相手と自分、双方の利害をよく分析してみると、
うまく両者のニーズを満たす答えが出てくることがある」
ということを、この問題は示しているのです。



瀧本哲史・著『武器としての交渉思考』より抜粋