国民代表の独立性と拘束性


2006/07/20(木) 00:27:42 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-251.html

以前、選挙制度と政党という非常に拙く冗長なエントリを書いたことがある*1。やたら長いので今更改めて読む気もしないが、結局その後そこで扱ったような議論が活発になされることはなかったように思う。小選挙区制度の脅威を短絡に強調するものが目立つばかりで、選挙制度の根本や代表の意味そのものに遡った議論は乏しいものだ。


そこでも書いた通り、憲法43条1項は「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」は選出母体に拘束される「部分代表」を禁止していると考えるのが通説である。「両議院の議員は、議院で行った演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない」と定める51条と併せて、憲法は「国民代表」としての国会議員に有権者からの一定の独立性を保障していると考えられている。だが、当然ながらこうした通説に反対している論者もいるのである。以下は、杉原泰雄『国民代表の政治責任』(岩波新書、1977年、156‐159頁)から。


 第一に、第一五条一項(引用者注:「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」)を第四三条一項や第五一条についての支配的な見解と整合性を保つよう消極的に解釈するのではなく、その積極的な意義を確認することである。「国民固有の権利」が「国民の当然にもっている権利、したがって他人にゆずりわたすことのできない権利」(略)を意味しているところからすれば、国民から選定罷免権を奪うことはできない。もちろん、国民が全公務員をつねに選定罷免する必要はない。だが、国民に選定罷免権の行使の可能性をたえず保障しておくことは、必要であろう。国民代表については、その任務の性質上とくに必要だというべきであろう。
 そう解釈することは、たんに第一五条一項の文理に忠実であるということだけではなく、日本国憲法国民主権の理解からも当然のことというべきであろう。自己の意思に反する代表者さえも罷免できない国民を国家意思の最高の決定権者と呼ぶことは、論理的に不可能である。


(中略)


 第二に、第一五条一項の右のような理解にもとづいて、第四三条一項と第五一条を解釈しなおし、これまでの支配的な見解に修正を加えることである。これらの条項が命令的委任(引用者注:選挙人が被選挙人に対して事前に詳細な訓令を定め、被選挙人はそれにより議会における行動を拘束される。被選挙人が訓令に従っていないと見做された場合には、選挙人によって罷免されうる)を否定し、選挙区の有権者に対する議院の独立と無責任を保障すると解する支配的な見解は、「国民主権」に適合的であっても、「人民主権」的な国民主権の理解や、それを端的に表明する第一五条一項になじむものではない。後者の立場からすれば、議員が選挙区の有権者の多数の訓令に服し、有権者に対して責任を負うと解するのが自然である。したがって、第四三条一項が命令的委任の禁止を含意し、第五一条が有権者に対する無責任まで保障していると解することは許されないことになる。
 「全国民を代表する選挙された議員」、「院外で責任を問はれない」とする規定の文言の解釈からすれば、選挙区の有権者の多数による訓令と罷免は認められていないともみえないわけではない。だが、全国民の代表を選挙区単位で選出することが可能であれば、それを選挙区単位で罷免することも可能となるはずである。しかも、全国民の意思は、各議員が自己の選出母体の意思に適合的であることによってはじめて実質的に形成される、というところからすれば、選出選挙区が訓令権をもち、その意思を表明しないと判断する議員を任意に罷免できるのは当然のことであろう。


本当は前後に色々な留保が付けられているのだが、そのまま読めばかなりラディカルな主張である。簡単に説明しておけば、ここでの「国民主権」(nation主権)とは国籍保持者の総体としての抽象的観念的な「国民」を主権者とするもので、歴史的には選挙母体に拘束されない「純粋代表」原理を帰結してきたと言われる。「人民主権」(peuple主権)とは社会契約に参加可能な政治的意思決定能力者(実定法上の有権者)の総体としての具体的「人民」を主権者とするもので、ルソーに代表されるように、理想的には直接民主政を、議院制を不可避とする場合でも、議員が一般意思形成者としての「人民」の意思をできる限り反映することを志向する。こういう一般的説明について、個人的には疑義なしとしないが、今は措く。


私もどちらかといえば有権者の意思をできる限り反映する「反映的民主主義」(井上達夫)を志向するものであるが、杉原のようにそれを徹底しようとすると意見や選好の変容可能性を根こそぎ排除してしまいかねない点で問題が出てくる。もちろん現代の政党制においては変容可能性に期待するのは楽観的すぎると以前のエントリでも書いているところであるし、それゆえ党内民主主義の徹底と意見形成過程の透明化を求めているところであるのだが、やはり可能性としては担保しておく必要はある。そのあたり、つまり被代表集団からの拘束と変容可能性とのトレードオフについて、卒論では結局うやむやになっているところであるが…。


国民代表についての憲法論に話を限るなら、樋口陽一憲法』改訂版(創文社、1998年)の308‐315頁の議論、すなわち43条には部分代表の否定という禁止的規範的要求と国民意思の可能な限りの反映という積極的規範的要求の両方が含まれており、相互に緊張的かつ相補的関係にある、という説明に割合説得力を感じるところである。まぁ、憲法解釈上はこのあたりが落としどころか、ということでもあるが。


国民代表の政治責任 (1977年) (岩波新書)

国民代表の政治責任 (1977年) (岩波新書)

憲法

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TB


代表制にまつわる若干の問題 http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070114/p1