民主主義の練習問題(2)代表制と政党


2006/12/17(日) 13:34:55 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-304.html

造反議員たちの自民党への復党が認められた。国民とメディアにおいては造反議員自民党執行部の一連の行動について批判の声が強いようである。


元々造反議員とは、小泉総裁時代、郵政民営化法案に反対したことを理由に直後の総選挙で自民党からの公認が得られず、無所属で当選した国会議員たちのことであった(落選議員はこの際無視する)。


一般に、中選挙区制から小選挙区制への制度変更は、候補者本位の選挙から政党本位の選挙へと選挙の性格を変容させる側面を持つと言われている。同じ党から複数人当選する中選挙区制では党よりも派閥が頼りだったのが、一人しか当選しない小選挙区制では党への依存が強まる、ということのようだ。


小泉総裁時代に自民党執行部から議員への拘束が強まったのも、この制度変更が定着した帰結として説明されることが多い(加えて、都市無党派層が党の浮沈を左右するようになったために選挙の顔としての力を誇る人気総裁に権力が集中しやすい、という面も指摘される)。今やかつての派閥の威勢は姿を消し、党執行部の権力が強まっている、と少し前までは盛んに言われていた。「青木派」(参院自民党)の問題もあり、そう単純でもないようだが、とりあえず大まかな傾向として、執行部による拘束が以前より強まっているという見方にはそれなりの妥当性がありそうだ。


さて、民営化反対の票を集めて当選した造反議員がその後に立場を変更し、民営化に賛成したり復党したりすることに対して強い批判が向けられているが、私はこれ自体はさして問題だとは思わない。立場の変更可能性を認めないのであれば、そもそも討論などする必要はない。代議制において立場の変更や選好の変容を全く認めないとすれば、命令的委任制(有権者の訓令に反する行動をした場合には解任される)を採るべきであるが、そこまで求める人は今の日本には多くないだろう。私自身、選好の変容可能性を排斥する命令的委任制には反対である。そして、命令的委任ほど有権者による代議士への拘束を強めるべきだと考えないならば、議員の行動についての責任を問うためには、基本的に、事後の選挙での有権者の判断に委ねる他なかろう(この方法には限界があるが、それは後述する国民代表の理念に内在的な限界である)。


命令的委任までは求めないまでも復党への反発は強いということから、国会議員とは各選挙区の有権者の意思を代表(代理)するものであるという見方が国民の間で一般的であることがわかる。つまり、国会議員は特定の地域や集団の代表ではない「国民代表」である(憲法第四十三条第一項)、という理念は建前以上の存在感を持つほど国民の意識に根付いているわけではなさそうだ。こうした状況を憲法学の言葉を用いて説明するならば、国民の意思分布が国民の意思分布に反映されなくてもよいと考える「純粋代表制」ではなく、国民の意思分布と代議士の意思分布に類似性が実現されるべきだ(「社会学的代表」)と考える「半代表制」こそが国民意識レベルで支持されている、ということになろう。過去の利益分配政治に対する近年の強い反発にもかかわらず、国会における議席の分布は国民内部の意思の多様性を反映するべきであるという考え方は、未だ生き残っているのである。


このことは、一種のねじれ的現象を生んでいるように映る。かつての派閥本位の利益分配政治を嫌い、政党本位の選挙や政策本位の政治対立を望むメディアや国民における主流的立場からすれば、各議員が各選挙区の特殊事情に基づいて党の政策から大きく逸脱する態度を示すことは好ましくない。したがって、この立場を採る人々は、総選挙の争点を郵政民営化に一元化した手法はともかく、政策の不一致を理由に非公認を貫くこと自体は批判しにくかったか、積極的に支持を与えたはずである。ところが、造反議員が党の政策を呑んで復党することを批判する姿勢は、この立場とは矛盾しかねない。そうした姿勢は、代議士は選出選挙区の意思に少なからず拘束されるべきだという考えに基づくものであるからである。ここでは、国会議員は国民内部の多様な意思を国会の場に反映させる役割を負っているとする考えと、国政は政策方針を同じくする議員が組織する政党を本位として選挙区の意思によらず行われるべきだとする考えとが対立しなければならないように見える。


このような対立は本質的なものであろうか。必ずしもそうではない(それゆえ先のねじれは実はねじれではない)。現代日本の政治は明らかに半代表制(ここでは「半直接制」と区別しない)にあるが、半代表制下においても国民代表の理念は維持されるのが通常である。国会議員は現実として選出選挙区の意思にある程度拘束されるが、最終的には国民全体の利益を実現すべく行動するべきであるとされる。つまり、半代表制下における国会議員は、国民代表としての役割および選出選挙区の意思を反映する役割、という二重の責務を負っていることになる。この点を踏まえれば、国会議員がなすべき政治行動プロセスは明確になる。?まず選出選挙区の意思をよく理解してその意思を国政の場に届け、?その意思を他の議員が持ち寄ってくる他の選挙区の意思や選挙区に還元されない国民の利益などと突き合わせた上で、?国民全体(≠有権者)の利益を実現するような一般意思を統合・形成する。以上が国会議員の役割である。


こうした観点からすれば、各選挙区の意思を国会の場に反映させながら国民代表の理念も維持すべし、という先のねじれ的要求は実際に両立しうるものであることが了解されるであろう。上記の通り整理した国会議員が負うべき本来の役割からすれば、現在の政治過程の問題点について大きく次の二点を指摘できる。


第一に、地方分権が不徹底であるために国会議員の役割が国家レベルの問題に限定されず、本来は地方側が主体的に行うべき仕事も国会議員の仕事の中に混在していることである。このような状況下では、国会議員が国民代表として一般意思の形成に尽力するどころか、むしろ地方の特殊意思を実現すべく働くことに汲々とするのも自然な帰結と言える。


第二に、政党の政策決定過程が不透明であり、党内民主主義が成立していないことである。純粋代表制においては唾棄すべき部分集団であった政党も、現代政治においては国政の主要アクターである。現行の政治システムにおける一般意思の形成過程では、地域の多様な意思はまず各政党内部に吸収され、党内で相互に突き合わされて一つの政策に収斂されていかなければならない。その上で各政党の政策が突き合わされることによって、各選挙区・各地域の特殊意思から国民全体の一般意思が形成れることになる。一般意思形成過程の重要な一部分をなす党内政治過程が不透明であることは、極めて深刻な問題である。中央の執行部が勝手に決めたものを地方にそのまま強制しようとするならば、末端の党員および支持者の反発を招くのは理の当然であろう。地域の多様な意思から国家の政策が形づくられていく過程が目に見えなければ、国民代表と社会学的代表の両立という理念は破綻せざるを得ない。


以上の二点は、復党問題に対する批判の仕方を検討する上でも有用であろう。特に第二点を考慮するならば、復党問題への国民の批判は、選挙区の意思を担う造反議員がその意思を自民党の政策に同化させていく理由と過程が不明瞭であるゆえ、と考えることができるだろう。そう考えるならば、あるいはそのような形に修正するならば、復党問題への批判は国民代表や政党・政策本位の政治といった理念と整合的になりうる。現下の政治問題をこうした理論的観点から捉え直していくことは、必須かつ恒常的な課題である。


参考文献:
杉原泰雄『国民代表の政治責任』(岩波新書、1977年)
杉原泰雄『憲法Ⅰ 憲法総論』(有斐閣、1987年)
杉原泰雄『国民主権の史的展開』(岩波書店、1985年)
いずれも入手しにくければ、辻村みよ子『憲法』(日本評論社、2004年)など。


参考エントリ:
選挙制度と政党
国民代表の独立性と拘束性


国民代表の政治責任 (1977年) (岩波新書)

国民代表の政治責任 (1977年) (岩波新書)

憲法〈1〉憲法総論 (有斐閣法学叢書)

憲法〈1〉憲法総論 (有斐閣法学叢書)

国民主権の史的展開―人民主権との対抗のなかで

国民主権の史的展開―人民主権との対抗のなかで

憲法

憲法

TB


代表制にまつわる若干の問題 http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070114/p1