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2007-11-06

現状認識と評価の差異


以下の認識は非常に重要なものであり、より明確な論拠に基づいた詳細な研究の出現が待たれるところである。


 しばしば、戦争の民営化は「国家だけが合法的に戦争をすることができる」という主権国家の原則を破壊し、それによって国家の権力を縮小させるだろうといわれることがある。しかしそれは正しくない。というのも、軍事業務を請け負う民間企業は、たとえそれが実際に武力を行使する場合でも、あくまでも国家に認可される限りでそうしているからだ。どれほど民間軍事企業が戦場で中核的な役割を担うようになっても、それらの企業が独自に戦争をひきおこしたり終結させたりすることはできない。国家だけが合法的に戦争をすることができるという図式そのものはなんの変更もうけていないのだ。

 むしろ戦争の民営化は国家の権力を強化する。たとえ民間軍事企業が戦場で国家の軍事活動をサポートするために国際法をおかしても国家は責任を逃れることができるし、、またどれほど民間軍事企業から戦死者が出ても、それは正規軍の損失としてカウントされないからだ。

(中略)

 そもそも規制緩和のねらいは、資本や労働、土地といった生産要素の流動性をたかめて、それらを利潤率のたかい産業へと流れやすくするということにあった。そこでは、その流動性をだれがどのように管理するのかという問題が必然的に生じてくる。この「だれがどのように」というところで権力や利益の拡大がはかられるのだ。


萱野稔人[2007]「構造改革をつうじた権力の再編成――新しい利権の回路と暴力の図式――」『権力のよみかた 状況と理論』青土社、69、72頁

 (前略)現代の統治は、国家による直接的・一元的な統治から、個人による能動的な自己統治にはたらきかける間接的・多元的な統治へと急速に変容しつつある[引用者注:文献注省略]。その特徴を言い表すために、「統治の統治」ないしは「再帰的な統治」という言葉も用いられるが、これらの言葉は、一方で国家による直接的な統治が後景に退くことを表すとともに、他方では、そうした統治の脱‐国家化が、古典的リベラリズムの「レッセ・フェール」への単純な回帰を意味するものではないことも示唆している。統治は、人びとの自発的かつ能動的な自己統治を積極的に促しながら、かつ、その自己統治のパフォーマンスを捕捉し、それを監査・評価するというモードに変わりつつある。言いかえれば、それは、個人や集団(アソシエーションを含む)による多元的な自己統治に広範な活動領域を与え、しかも、その活動に対する評価そのものをも多元化しながら、同時に、自己統治がそうした評価システム(audit system)をつねに参照しつつ行われるように方向づけるのである。


齋藤純一[2005]『思考のフロンティア 自由』岩波書店、87‐88頁


これら二者は統治権力の再編成と新形態への関心を示しつつ、どちらかと言えばその態度に警戒の色を含ませている。私は新たな形の政治的脅威に対する彼らの敏感さに敬意を払いたいと思っているが、個人的にはもう少し明確に両義的な評価姿勢を持っている。戦争の民営化についてはともかく、一般的に言えば、国家権力による垂直的な統治が行われる領域が狭まり、市民社会内部での自治や、民間主体と公共セクターとの協働による水平的統治の実践が拡大することは、好ましいことである。統治権力が「必要最低限」の範囲の役割に特化することで、その規模を縮小させ、市民社会が活性化することは、否定的に評価すべきことではない。逆に言えば、統治権力は「必要最低限」の仕事を手放すべきではないし、市民社会の活性化や水平的統治の実現によって新たな仕事が生じる場合もあるのだから、権力が単に縮小するのではなくて再編成という形を採ることは、自然な帰結だろう。それを新たな形の脅威や権力の強化と捉えることも可能だが、少なくとも一概に否定的な評価を下すことはできない。

で、重要なのは何がこうした事態の変化をもたらしたのかということだ。漠然とした言い方をすれば人命の尊重や個人の自由、多様性などといった価値の追求であると思うし、端的に言えば自由主義だろう。私たちは自由を求めてここまで来た。ニューリベラルな意味での自由も含めて、だ。統治権力を法で縛り、民主的決定に従わせ、特定の価値観から中立的になるように努めさせ、あくまで個人の幸福の追求を援け、支えてくれるような役割だけを担うような形を目指して、再編成に再編成を重ねさせてきたのは、私たちが自由を求めてきたからである。

そして、私たちが今居る場所というのは、相対的に見ればそれほど悪くない。それなりに多様な価値観が認められているし、それなりの自治が多元的に行われている。しかも幾人かの論者が示すところによれば、これから一層発展していくであろう非常に巧妙な管理システムによって、私たちは自ら自由になろうとするまでもなく望むものを与えられ、幸福感を味わうことができるようになるかもしれない。そうしたシステムが実現するとすれば、私たちは自由を志す態度からさえも自由になることができる。それは幸せなのではないだろうか。それを拒否する理由がどこにあるのか。自らの価値観に従って自らが望む生活を実現することができるのであれば、それが大きなシステムの中で権力によって管理された結果であるとしても、別に構わないのではないか。

もちろん、事態がそうした巧妙な管理システムの実現まで滞りなく進むのかは確かではないし、私自身はそこで拒否する理由が存在しないと考える立場にはまだ至っていないので、あくまで両義的な立場を採るべきと述べるに留める。だが、現状に肯定的に評価すべき部分が存在しないという立場に与することはできない、ということは自信を持って言える。

そこで、そういう現状認識可能性を云々する文脈からすれば、いつかに提示された荒井さんの主張を、私との「現状認識の違い」として片付けるよりは、「認識された現状に対する評価の違い」と見做して、ある程度まで評価し直すことができるのかもしれないと思い、再読してみた。


「逸脱」と「逸脱もどき」

http://araiken.blog8.fc2.com/blog-entry-268.html

許されている……わけじゃない

http://araiken.blog8.fc2.com/blog-entry-269.html


つまり、荒井さんは私と同じく事態の変化を認めているけれども、事態が肯定的に評価可能な側面を伴っている―ゆえにこそ余計厄介だ、と考える私と異なって、事態の変化は表面的なものに過ぎず本質的には何も変わっていないのであり、一見肯定的に評価可能に見える部分もまやかしに過ぎない(認められている自由や多様性は、脱色され、空洞化されたものに過ぎない)、と考えているということなのだろうか。しかし、そうだとすると、やはり「事態の変化」についての現状認識を共有していると言えるのかどうか疑問だ。荒井さんが言う意味での「逸脱」(「なんらかの葛藤や抵抗、告発など」)が完全に消滅する世界は存在し得ないけれども、その大部分は既に放置して構わないものと見做されているし、積極的に推奨されたり、システムの新たな推進力にさえなったりするので、「逸脱もどき」などという都合のよいカテゴリを持ち込まないで、素直に肯定的評価を下す部分があってもよいのではないかと思う。全く脱色されていない「逸脱そのもの」なるものがどうやって存在し得ると言うのか。

もっとも、事態の変化にもかかわらず一貫して何らかの権力の作用があって、それが統合なり均質化なり排除なり糾弾なり何なりを、制度などの構造によってなのか言説や文化によってなのか意識の操作によってなのか、紛れもなく行っているのだ、という認識は間違っているわけではないし、手放すべきでない重要な見方であるとは思う。それを手放さないということが両義的であるということでもあるから。問題は、果たしてそれに抗う必要があるのかという発問を認めるかどうかであって、それは一体何から逸脱すべきかがよく解らなくなっているということなのかもしれない。荒井さんは一体何から逸脱しようとしているのだろう。それは有意味な抵抗になり得ているのだろうか。


それから、別の記事も見つけたので、ついでに反論しておく。


呪われた「外部」

http://araiken.blog8.fc2.com/blog-entry-299.html


外部の視点を導入することによって、自明のものとされている所与のシステムを対象化し、その特質を描き出すという作業は、それとして重要である。だが、外部の視点を導入しなければ批判なるものは為し得ないと考えるのは間違っている。

非常に辛いが経済的安定が得られる可能性が高い選択肢Aと、比較的楽だが経済的不安定に陥る可能性が高い選択肢Bとを示し、「Aか、Bか」という二者択一を迫るシステムがあるとしよう。このシステムを批判するためには、わざわざ「二者択一を迫ることがないシステム」などを想定する必要は無い。例えば、「二者択一を迫るにしても、Bを選んだ人がひどい経済的苦境に陥ることがないように、何らかの対策を講じるべきだ」などと言うことができる。

現実を批判するためには「ここではないどこか」のような大げさな表現は不要であり*1、ただ所与の条件からして採り得る選択肢を並べてみた上で、それらを相対的な評価に付し、最も採るべき選択肢が現行の選択と異なることを示せばよい。実現不可能なことが分かっている何らかの「外部」を現実批判の準拠点に据えようとする態度がいかに問題含みのものであるかについては、「神と正義について」で検討した通りである*2

基本的な反論は以上で足りていると思うので、あとは読者諸氏がそれぞれに評価してくれればいい。現状肯定については何が問題なのか、よく解らない。


権力の読みかた―状況と理論

権力の読みかた―状況と理論

自由 (思考のフロンティア)

自由 (思考のフロンティア)

*1:不要であるばかりか、具体的には無内容な話をしているにもかかわらず、読み手/聞き手を感覚的に何かわかったような気にさせやすい点で有害ですらある。

*2:要旨は以下で解る。http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070831/1188567193

araikenaraiken 2007/11/10 21:25 きはむさん、こんにちは。
そうですね。私も社会はきはむさんのいっているような方向に向かって行くような気がします。それが巧妙な管理システムによって、すべての人が眠り込まされているような社会であるとしても、それですべての人が幸福だと感じているというのなら、それでいいのじゃないかと私も思わないではありません。社会が成員に対してにできることはこれくらいのことしかないのでしょう、、、いや、これくらいのことがが今まで、そして現在もなされていないことが問題だということでしょうが。

しかし、(来るべき社会に生きる人の感性をあれこれ想像するなんておこがましいことでしょうが)そのような社会においても、あえてその破壊の権力を分析し、抵抗しようとする人間は出てくるんじゃないでしょうか。雪山登山をする人は、誰に頼まれてわけでもなく、苦しい思いをして、死の危険に身をさらしてまで山登りをします。そこに山があるから登るのだ、みたいな事を言ってますが、登頂の達成感はやはりある種の強烈な幸福感なのでしょう。それと同じように、そこに権力があるから、それを分析し、抵抗するのだ、みたいな輩が現れてもおかしくはないと思います。権力への抵抗(逸脱)はどんな活動よりも第一級の幸福であるかもしれません。

それと最後のところですが、私が言ってる「外部」というのは、何も社会の思考モデルみたいな大げさなものを考えなくてもいいのです。それはフォーマルな政治的選択肢のみならず、日常的な小さな判断の根源にある視線やベクトルのようなものです。意識的な思考というよりほとんど生理的なものといってもいいかもしれません。いろんな体験や読書などによって、現状への没入から身を引き離した人はその感覚を、あるベクトルとして身体化するのでしょう。

つまり私が言いたいのは、もし、ある人が「外部」への視線を持たず、現行の「Aか、Bか」という二者択一を迫るシステムに没入し、満足てしまっているような論客であるなら、そもそもシステムを批判する気にすらなっていないだろうということです。たしかにそのとき「二者択一を迫ることがないシステム」を想定して判断しているわけではないでしょうが、ここでのきはむさんの例のように、システムをフォローする対策を提出するということに思い至ったということは、その人がすでに外部の視点を行使して現行への没入から脱していることに他なりません。そういった没入からの脱出の視線なり感覚なりをベースに、私たちは現行に変わる何かを構想したりもするわけです。

ようするにきはむさんが挙げてくれた例は、私に言わせれば、はじめから外部の視点を導入しているじゃないか、ということになります。

というかというか 2007/11/10 22:51 >最も採るべき選択肢が現行の選択と異なる

その「最も採るべき選択肢」が何か?という問題は、いろいろなビジョン、理念、イデオロギーに依存するのが、当然な訳で…

この当然から「自分は逃れ得ている」という人達がたまにいるような気もするし…

ただただ 2007/11/10 23:02 >現実を批判するためには「ここではないどこか」のような大げさな表現は不要であり

そのいろいろなビジョン、理念、イデオロギーにといったものは、厳密には「ここではないどこか」のようなものだし。そういったものには依存せずに、自分は相対的評価ができているかのように言い立てる人もいない訳ではないような気がするのが気になる。

kihamukihamu 2007/11/11 14:16 >荒井さん

こんにちは。前半部は概ねうなずけますが、「外部」については、なんだか随分とその射程を縮められてしまったような印象を受けます。そのような意味で「外部」を捉えるなら、ずっと机の前に座っているのをこらえきれずトイレに立つことも、「外部」への視線を導入することによってはじめて可能になっていると言えそうですね。そういう議論は哲学的にはそれとして面白いかもしれませんが、現実批判行為について議論する上で、それほど無限定な意味での「外部」という言葉を使うことに意味があるのか疑問です。ここにも術語の意味範囲のズレに発する議論のすれ違いが生じているようですが、個人的には私が虚像として(買い被って?)作り上げた荒井さんの方が叩きがいがあるなぁ、との感を持ちました。相変わらず無礼千万な物言いで申し訳ありません。

>というか/たださん

その問題は、「相対的評価にあたっては、論者が拠る価値基準を明示せよ」という要請を付け加えることによって理論的には解決可能であると思います。いかなる価値基準(例えば功利主義なのかカント的義務論なのか)が望ましいかについての議論は、専門的には規範理論研究の領域(倫理学/法哲学/政治哲学)で取り扱われることになります。

外部の視点と漸進改革外部の視点と漸進改革 2007/11/11 22:51 きはむさんのブログに、大変哲学的な考察ではありますが、ここでの議論にもつながるような話がありました。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_1491.html#comment-21424457

araikenaraiken 2007/11/12 15:44 きはむさん、どうもです。
たたいていたのが私の虚像だったとわかっていたただけただけでも前進だと思います。「外部」という言葉がこれほど誤解を招く言葉だとは思いませんでした。例えばこのエントリーにTBしてる人のものを読んでも、うーんって感じです。言葉の意味のズレに問題があるのはあきらかで、もっと適切な言葉があればと思いますが、それでも「外部」という言葉が、それほど妥当ではない言葉使いだった、とは思っていません。

繰り返しますが、「外部」の価値という言葉で、現行以外の社会の構想のような大げさなものを考える必要はありません、もちろんそのような構想をも「外部」なのですが、同時にそのような社会観と切っても切れない人間観についても「外部」といいうると思うからです。。もっとくだいて言えば、人間のあり方、とか、生き方、信念みたいな内面化した心のベクトルみたいなものです。

きはむさんの挙げた例で言いますと、「非常に辛いが経済的安定が得られる可能性が高い選択肢Aと、比較的楽だが経済的不安定に陥る可能性が高い選択肢Bとを示し、「Aか、Bか」という二者択一を迫るシステム」という制度を、人間観として翻訳すれば、「がんばらない人はホームレスになっても仕方がない」となると思います。これは昨今メインストリームとなっている社会の支配的価値です。これに対して、「二者択一を迫るにしても、Bを選んだ人がひどい経済的苦境に陥ることがないように、何らかの対策を講じるべきだ」という上記の制度をフォローする政策は、「すべての人は最低限の生活を保障されるべきだ=どんな人でも生きる価値がある」というメインストリームとは別の(外部の)価値感、人間観の表現と考えることが出来ます。

まあ、これを「外部」の価値観だ、と言い切ってしまうのには少々抵抗があります。少なくとも、つい最近まで、このような平等、福祉みたいな理念はむしろ(表向きは)近代社会のメインストリームの価値のひとつだったはずだからで、それが今ではずいぶん周辺化され、ほとんど「外部」化してしまった、考えられるからです。

いずれにせよ、このように主流の支配的価値を外れた価値をもってしてはじめて現行への批判的政策は打ち出されるわけだし、それには大げさな社会の設計図は必ずしも必要なく、それぞれの人が、ほとんど直感的、生理的に判断できるのではないかと思います。

問題なのは主流の支配的価値の「外部」であって、そのような外部的価値は、法的に制度化され現実化している主流の価値の網の目の間を縫って、人間同士ののコミュニケーションとして、あるいは出版物、音楽、芸術などのメディアを通して、流れ続けています。例えば、「どんな人でも生きる価値がある」だけではなく、「がんばらず怠惰であっていい」とか「他人と違うあり方をしたい」とかいろんな「外部」の価値がメインストリームの価値と絡まりあって流れているのが現実の社会なのではないかと思います。私はきはむさんが言っている具体的な改革を軽視する気はさらさらありませんが、同時にそのような改革や批判を動機づけする「外部」の価値の流れを途絶えさせない(そうした外部の価値を回収しようとする権力に抵抗する)ということが大事だ、といいたいわけです。

それと、トイレのことまで「外部」が関わってくるかどうかわかりませんが(笑)、小便をトイレでするか、外で立ちションするか、という判断は政治的かもしれません。立ちションいてるところにパトカーが偶然通りかかって、法的な問題が絡んだり、、、ま、これは冗談ですが、「外部」の問題が、そういう日常的な問題になることは決して射程が短くなった、とは私は思わないですね。むしろグローバルな問題と、一見つまらない日常の問題を同じレベルで考えることが大事だと思います。

kihamukihamu 2007/11/12 22:37 日常の問題と言うより、それこそ生理的な知覚の働きや認識の作用の仕方みたいな部分まで含まれてしまうということで、それでは「内部」の範囲が著しく限定されてしまう反面、何でも「外部」と見做せることになってしまうので、結局のところ「「外部」の価値の流れを途絶えさせない」などと言うことで荒井さんが何を意味したいのか具体的には何も解らないということが問題なのです。そんな弛緩しきったような「外部」概念を持ち出されるよりも、「ここではないどこか」的なことを大げさに言ってくれていた方がよっぽど議論しがいがありました。残念です。

「メインストリームの価値と絡まりあ」えるような価値のどこを以てして「外部」と呼ぶに値するのでしょうか。そもそも主流で支配的な価値とそれ以外の価値をどういう判断基準で分けられるのでしょうか。「すべての人は最低限の生活を保障されるべきだ=どんな人でも生きる価値がある」という言明に真っ向から反対する人は少数派であると思いますし、現に憲法から生存権規定を削除せよという改正論は聞きません。主流的な価値観とそうでない価値観が傾向性として分かれているものだという前提まで否定する気はありませんが、それらは明確に分けられるものではないし、ご指摘のように比較的短期の間にも優位性が入れ替わってしまうものでしょう。それほど「絡まりあって」いるものを「内部」と「外部」という言葉で分けてしまわれるのは無茶と言うものです。

「国家なんて必要無い、無くしてしまえ」という考え方ぐらい振り切れた立場を「外部」と呼ぶなら非常に解りやすく、その呼び方は支持に値すると思うのですが、荒井さんが挙げる「がんばらない人はホームレスになっても仕方がない」と考えている人々の中には無政府資本主義にまで行き着く人は多分ほとんどいないでしょうし、逆に「すべての人は最低限の生活を保障されるべきだ=どんな人でも生きる価値がある」と考えている人々の中にも私有財産を廃止したり著しく侵害したりしても構わないとまで言う人はあまりいないのでしょう。そうだとすれば彼らの大多数は国家や私有財産制度といった枠組みをひとまず肯定した上で議論を始めているわけで、その大枠の「内部」ではせいぜい「主流/傍流」と呼んだ方がよい程度の立場の違いしか出て来ないのではないか。荒井さんが意味する「内部/外部」の内容も(完全に対応しないまでも)概ね「主流/傍流」と呼び換えられるもののようです。

そして、私たちの社会では様々な「傍流」的価値観の多くは流通出来ています。もちろん、流通することが許されなかったり難しかったりする価値観も少なくないわけですから、それらを「外部」と呼ぶことはまぁあり得るとして、荒井さんはそこまで行かなくても、「傍流」的価値の存在が確保されていればよいと仰る。しかし、それなら私たちの社会にはそれほど大きな問題は無いのではないか。荒井さんは「傍流」的価値=「逸脱」と見えるものの中にも「主流」的価値が染み込んで汚染(「回収」?)されてしまう(「逸脱もどき」)と仰るのかもしれませんが、もともと主流/傍流程度の違いしかなくて相互に絡まり合い、流動的であるのなら、汚染も「もどき」も無いでしょう。

そもそも、荒井さんが仰るように「逸脱」=「なんらかの葛藤や抵抗、告発など」が消滅するようなユートピア的社会が存在し得ないのであれば、「逸脱」を導く「傍流」的価値もどこかに存在しているはずなのだから、何の問題も生じないように思えます。そう考えると、もしかしたら荒井さんは最初から、「外部」の視座からの現実全否定による現状肯定という私が批判した作法にも届かず、単に「傍流は常に存在する」という当然のことを繰り返すことによって現実否定を介することすらないままに、遂行的な形で現状を直接肯定していただけだったのかもしれません。荒井さんが具体的に何を批判したいのかよく解らなかったのは、結局何も批判していなかったからなのでしょうか。

あえて言えばあえて言えば 2007/11/12 22:53 「傍流に対する抑圧はまだまだ根強い。それはあかん!」というお話?あるいは多様性フォビア???

kihamukihamu 2007/11/12 23:02 附け加え。そういえば、「権力」(らしく思えるもの)に対する抵抗(らしく思えるもの)そのものが喜びをもたらす以上、何を批判するかとか、批判の内容とか、どうでもいいのかもしれなかったんでしたよね。それを忘れていました。本当の意味で「ためにする議論」と言うか、自己目的的な言説構築もあり得ることになるのでしょう。生産主義への遂行的な抵抗と言えば格好が付くのかもしれないし、それはそれで内容を埋め合わせるのかもしれない(私は評価しませんが)。

でもねえでもねえ 2007/11/12 23:40 「ためにする議論」であっても、面白くするために内容が伴うことはある訳で。動機の評価は別のこととして
そうじゃないと、アカデミーそのものが厳しい、というか

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