一橋大学機関リポジトリHERMES-IR


http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/


例えば森村進の論文とか。どうぞ。

http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/items-by-author?author=Morimura%2C+Susumu


以下は、以前取り上げた『思想』論文の姉妹編。こっちの方が読み易いだろうと思う。


鵜飼健史「ポピュラリティと共同性―政治空間の変容の中で―」『一橋社会科学』第1号、2007年1月

http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/13712/1/shakaikg0000101140.pdf

数年前、メールマガジンが爆発的な勢いで読者を開拓しているさなか、ある病院では、プリントされたメールマガジンが毎週回覧され、それが議論され、(見ず知らずの)患者たちの楽しみとなっていたという。このような自発的で非強制的なコミュニティに参加することを通じて、かれらは、政治的関心や批判意識を高め、そして主権者としてのアイデンティティを体感するという、高揚した感覚を共有していたのだろう。皮肉にも、このようなみずみずしい政治実践の経験や政治感覚の涵養は、まさに政治家や官僚たちを中心とした旧来の利益集団政治を批判し続けてきた政治学者たちが、日本社会に期待していたものである。つまり、いかにそれが粗野なものであろうとも、この人民主権の再生それ自体を批判するのは、理論的には困難である。そこで必要となるのは、ポピュリストの発する言説を逐次追いかけるのではなく、ポピュリズム(人民主義)に対する複眼的な構造分析である。[127頁]

 すでに見てきたように、政治における諸要求を部分的なままに抑圧する具体的な共同性の構造はすでに破綻し、あらゆる政治的要求は全体性へ転位する可能性が開かれている。たしかに、ポピュリズムがこのような政治的機能を果たしている。ポピュリズムは、既存のコミュニティに包摂されない多様な政治的要求を節合して、新たな共同性としての人民を構成する。このような場としてのコミュニティなき共同性は、人と人とのつながりが錯綜し偶然化した政治空間において求められているのである。こうして、ポピュリズムとコミュニティの関係は二重化されているといえよう。つまり第一に、コミュニティの断片化により個人の生と生活が市民社会に露出し、これが政治的にポピュリズムに回収されることである。そして第二に、ポピュリストが新たな共同性の担い手として登場し、人民による擬似的コミュニティが成立することである。新たな領域性の生成を、異質なものからなる脱領域的な共同性としてのポピュリズムのなかに見出すことができるのである。ポピュリズムの恣意的性格が明らかとなるのは、このような共同性の再構築を目的とするために、この共同性と合致しえないような政治的諸要求を実現する意志が全く備わっていないことが周知となるときである。[129頁]


法外なものごとについて
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20071031/p2


ポピュリズムと対抗政治
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20071101/p1