リバタリアンな制度は児童虐待を解決するか


最近、世間では児童虐待の問題が大きな注目を集めている。こうした時勢を受けて、リバタリアニズム・ジャパン・プロジェクト(LJP)のサイトに相次いで興味深いエントリが挙がっている*1リバタリアン経済学者として知られる蔵研也氏は、「児童保護警察(NPO)が必要だ」と題する記事で、虐待被害を受けている児童を保護するための案として、親権者の住居に無断で踏み込むことも辞さないような過激な「児童保護NPO」の活動と、「警察の分割・民営化」の2つを挙げている。この提案に対してanacapさんは、「子供売買を合法化しよう」と応じている。いずれも相当に刺激的・挑発的な議論である。


これらの提案に対して、強い反発を覚える向きも少なくないだろう。だが私自身は、これらが検討にも値しないような類の暴論だとは思わない。かといって賛成するわけでもない。どれだけ、そしてどのように値するのか、順に検討しよう。


とはいえ、その前に。ここで採り上げる議論は児童虐待から子どもたちを救うことを目的として行われているわけであるから、まずは児童虐待の現状について最低限の事実を押さえておこう。以下は、2年ほど前に書かれた「現代日本社会研究のための覚え書き――5.親密圏/人権(第2版)」からの引用である。

まず、2000年5月に児童虐待防止法児童虐待の防止等に関する法律)が施行された。同法は、身体的虐待・性的虐待・ネグレクト・心理的虐待を禁止対象とし、児童福祉に係る者の早期発見義務と一般的な通告義務を定めている。通告を受けた福祉事務所ないし児童相談所は、児童の安全を確認した上で必要に応じて一時保護などの措置を行うことができるものとされ、都道府県知事の許可を得た上で、虐待が疑われる家庭への立ち入り調査を行う権限が与えられる。その後、二度の改正(05年、07年)を経て、虐待が疑われる児童の保護者に出頭を要求する制度や、児童養護施設などに入所させられた保護児童に対して虐待を行った保護者の接近を禁止する命令を発することができる制度などが新設された。

児童虐待防止法の立法背景には、89年に国連で採択された子どもの権利条約を、日本が90年に署名、94年に批准したことに伴う国内法制整備が挙げられる。99年には児童買春・ポルノ防止法(児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律)が成立している。虐待そのものの状況はどうかと、児童相談所で対応した相談件数の推移を見てみると(下図)、一貫した増加傾向にあり、特に90年代末からは飛躍的な伸びを見せ、2006年度現在では37,323件に上っている(厚生労働省〔2007〕)。また、2006年度の立ち入り調査件数は238件、一時保護件数は7,081件である。


児童虐待の相談件数はその後も続伸し、2009年度の相談件数は速報値で4万4210件である。児童虐待が引き起こされる要因は経済問題と育児環境の2種類に大別できるが、多くのケースではそれらが相互に絡み合っていると思われる。90年代末以降の相談件数激増をもたらしたのは、一方で長期の不況とそれに伴う雇用の流動化、他方で離婚率の上昇に代表される家庭内流動性の上昇であると言えるだろう(さらに背景として、子どもの権利と虐待問題に対する社会的認知および意識の向上が考えられる)。こうした認識が妥当だとするなら、短期的には経済状況を好転させることが、中長期的には、経済状況や家庭環境が悪化しても児童虐待が引き起こされにくいような仕組みを作り上げることが、問題の解決策として必要とされているはずである。

冒頭に挙げた幾つかのリバタリアンな提案も、こうしたマクロ的な問題状況認識に結び付けながら検討しなければ、目的を見失ってしまうことになるだろう。頭の体操をするだけなら別だが、未来の選択肢として真面目に検討するつもりなら、私たちが「採るに値する」案でなければならない。


まず、蔵氏の1つ目の提案である過激な児童保護NPOであるが、これは法に抵触することも厭わずに目的を達成しようとする点で、反捕鯨団体シー・シェパードのような組織をイメージすればいいのかもしれない。親権者の許諾を得ずに家に上がり込んだり、場合によっては無断で子どもを連れ去ったりすれば、確かに虐待から守られる子どもの絶対数は増えるかもしれない。だが、そのNPOは虐待が疑われる家庭の情報をどうやって収集するのだろうか。国家や企業が行う活動は比較的情報を集めやすいので、小さな組織でも監視したり妨害したりすることが可能だが、個々の家庭の情報を逐一収集することは容易でない。必要な情報を集めるためには日常的に非合法な活動にも手を染めなければならないだろうが、そこまでの逸脱行為を許容する出資者はいるだろうか。仮に出資者に困らなくても、そのような日常的な監視や情報収集が許されるなら、子どもを持つ家庭は絶えず盗聴・盗撮や他人の目に怯えなければならなくなるだろうし、収集された情報が目的外に不正使用される危険も高まることになる。

こうした多大な社会的不利益を払ってまで過激な児童保護NPOの活動を期待する人はいないだろう。仮にそのような活動に投入できるような資源があるのならば、そのNPOは独立で逸脱的な活動を行うよりも、強制立ち入りの権限を持つ既存の児童相談所等と協力して児童保護に当たった方が安定的かつ効果的に目的を達成できるだろう。今現在、虐待の疑いを通報する義務があっても、なかなか通報に踏み切れない状況が見られることからすれば、学校や地域と児童相談所等を繋いで円滑な情報収集をサポートする活動を行うだけでも、一定の意味を持つかもしれない。あるいは同じ資源を用いて、そもそも虐待が起こりにくくするための育児支援など他の活動を行った方が、問題の解決には役立つ可能性もある。


蔵氏の2つ目の提案にも、同じことが言えそうである。氏は、児童虐待を専門的に扱う警察の部門を作るというだけでなく、その活動資金を有権者(消費者)が与える評価=投票(料金)に応じて配分するという制度を提示する。だが、「虐待を阻止すればするほど資金が集まる制度」になれば、虐待を阻止するための情報収集合戦が過剰な相互監視を日常化させないだろうか。既にコメント欄で指摘されているように、児童虐待警察が既存の官僚組織の一部として創設されるなら、それは市民社会に対する公権力の介入可能性を一層大きくしかねない。また、児童虐待警察が営利企業になれば各家庭の情報は盛んに売買されるようになるであろうし、最悪の場合は、虐待を摘発して評価を上げるために「でっち上げ」のような行き過ぎも起こるかもしれない。さらに、これもNPOの場合と共通する可能性だが、仮に民間・民営の組織が児童虐待を防止・摘発するようになったとすれば、「与しやすい」家庭での虐待ばかりが対象になる恐れがある。つまり、裕福な家庭やセキュリティが厳重な家庭における虐待は防ぎにくくなるのではないか。


これら蔵氏の2つの提案と比べると、「子供(の親権)売買」というanacapさんの提案は一層過激に見えるが、児童虐待の解決策としては、むしろこちらの方が現実的だと思う。虐待死の事例の3割が望まない妊娠であることを考えると、子どもを育てられない親が自分たちに代わる養育者を円滑に見つけることのできるシステムを整備することは、(性教育の充実とは別に)それとして必要な施策ではないか。「子ども手当」の理念がそうであったように、子どもを社会全体の資産であると捉える観点からすれば、重要なことは全ての子どもが安全・健康に発育・学習するために必要な環境を整えることであり、その整備メカニズムを担うのが政府であるか非営利組織であるか市場であるかは、問題ではない*2

ただし、ここでも「たいようぱくぱく」さんがコメント欄で問題にしているように、子ども(の親権)を売買の対象にすると、児童性愛者など、問題のある買い手が親となる危険性を回避できないのではないか、との疑いがある。むしろ児童虐待を拡大ないし集中させかねない、というわけである(この点についてはコメント欄で反論が為されている)。また、そもそも虐待を行っている親権者がみな金銭によって子どもを手放すとは限らない。虐待を行いながらも子どもを深く愛している者もいるだろうし、虐待行為そのものの中に精神的な依存を得ているケースもありそうである。少なくとも、子ども(の親権)売買合法化によって児童虐待が全て丸く収まるというわけにはいかない(そんなことは誰も主張していないかもしれないが)。養育を放棄せざるを得ない保護者が里親市場に円滑にアクセスすることが可能になっても、児童虐待を防止・摘発する公的な枠組みは必要であり続けるだろう。もっとも、その「公的な枠組み」の一種として、虐待を行っている親権者から子どもを強制的に取り上げた後に、その補償として金銭等を支払う、という仕組みはあり得るのかもしれない。「売買」の具体的な仕組みについては、様々な考慮の余地がありそうである。


他にも重要なコメントが色々とあって、拾うべき論点はまだまだたくさんあるのだが、既にだいぶ長くなったので、このぐらいにしておく。児童虐待をめぐって、こういう議論があるのだということを知って欲しかったので、かなり大雑把ではあるが、自分の疑問点も含めて一応整理して提示させて頂いた。意図的に問題を誇張している部分もあるし、論点が多少ズレている部分もあるかもしれない。多くの人が関心を持っているテーマであるし、議論喚起的な内容になっていると思うので、厳しいご批判も含めてリアクションを歓迎する。ただ、採り上げた各意見に対するコメントは、LJPの方に直接書き込んでもらえるとありがたい。

なお、コメント欄でanacapさんが指摘しているように、子どもの問題を考えることは障害者や動物などの問題を考えることと地続きである。この点に関してはtypeAさんによる「リバタリアンな世界における「子供」の問題について」と題するエントリも参照。anacapさんは「子供の虐待というのは、知的障害児であるケースが主なのでは」と書いているが、既に述べたように虐待の要因になっているのはふつう保護者側の問題であり、(知的障害児の虐待被害率がその他の児童におけるそれと比べて高いということはあるかもしれないが)虐待被害児童の中で知的障害児の割合が「主」と言えるほど高いということは無いと思う。

*1:LJPは「リバタリアニズムとは何か」で紹介したリバタリアンブロガーの方々が中心になって運営しているプロジェクトで、そのサイトではリバタリアンの観点からの発信が連日盛んに投稿されている。

*2:念の為に言えば、これはつまり「子ども(の親権)売買」によらずに解決できる方法があるなら、それでもよい、ということである。