確率・亡霊・唯一者――政治学的想像力のために(4・完)

目次

1.確率と亡霊
2.可能性と単独性
3.唯一者と絶対性
4.政治と未来(本記事)

4.政治と未来


だが、幽霊はなおも取り憑く。現代は「リスク社会」だと言われる。リスクとは確率、すなわち幽霊である。何らかの選択や決定に伴う不確実性への認知から生じる不安が掻き立てられ、蔓延する。ありうる未来たる幽霊への動揺と、ありえた未来たる亡霊への罪責が、人々の周囲を徘徊する。反復して再来する。リスク社会における人々の行動は、未来についての不確実な予測――幽霊への不安――によって規定され、組織される。


中山竜一によれば、遍在するとともに潜在するリスクは、それが結び付き得る何らかの被害・加害とその影響についての予測不可能性ゆえに、専門家の計測・分析を頼りにするような統計学的基礎付けを持った統治システムの有効性を低減させている。公共的決定の様式は、今や単純な費用便益分析に基づくだけでなく、市民による価値評価を含み込んだものでなければならない。リスクについての議論は、「われわれはこう生きたい、という観点が入ってくる」ことを避けられないからである。リスクに怯える私たちは、その現実化に備えた事前の公共的討議を必要とするが、討議が要請される機会と領域は著しく増え、拡大・拡散している。

こうした現状に臨んで、リスク管理を巡る公共的決定の有り得る選択肢として中山が示すのは、(1)幅広い利害関係者stakeholderの参加に基づいて行われる「熟議deliberation」:「リスク管理者の管理」、(2)市場メカニズムによる最適化:「リスク管理の個人化」、(3)自由な自己決定を尊重しつつ、人々の行動を一定の方向へと回路付ける「リバタリアンパターナリズム」:「環境管理によるリスク管理」の3つである。


私は(1)を支持するが、市場メカニズムを軽視したり、いかなる制度設計や環境管理とも縁を切ったりすることが現実的ではなく、望ましくもない以上、これらの選択肢が相互に排他的であるとは考えない。述べておくべきことは、いかなる選択肢を採るにせよ、「決定」のモメントは消滅せず、政治は不可避であるということである。


「情報環境に刻まれた行為と欲望の履歴」たるデータベースから抽出される「均されたみんなの望み」としての「一般意志2.0」を現代政治哲学の中心課題に据えようとする東によれば、数理的に人々の利害を均衡させ、最適な選択肢を提出することを可能にする、この新たな方法論は、「友敵の分割線を決して作らない」からシュミット的政治を意味することがない。ここでもまた政治の消去、である。

望みを均される「みんな」に数えられる者が「友」であり、数えられない者が「敵」である。批判はそれで足りるが、もう少し考えよう。尖鋭的なのは、やはり幽霊である。幽霊や幽霊ですらない何物か(幽霊の幽霊)の権利主張を考える。それは「ありえた私」や「もうひとりの私」でよい。彼らにも利害関係は想定できる。それらをどう処理しよう? 計算できないから無視する――そこで私たちは政治に出遭う。幽霊たちの利益を排除するにもかかわらず、そのことを語らないままに政治の消去可能性を黙殺する振る舞いが、鮮やかな政治性を発露する。


市場をはじめとする様々な制度やアーキテクチャには、それらの内部における決定と、それらについての決定――誰が・どういった手続きによって・どのような仕組みに設計するのか――が二重に内在している。方法・プロセスとしての熟議はこれらいずれの決定にも適用できるし、決定を公共化する必要を認めるなら、適用すべきでもある。

ある種の功利主義においては、「刑罰を含む諸々のサンクションによって統治者の不偏性を」確保するような制度や、「快苦でみた統治のパフォーマンスが悪い場合にはその統治者をその意図の善し悪しに関わりなく厳格な結果責任によって」淘汰するような「フィードバック」を可能にするアーキテクチャが維持されさえすれば、統治者が誰/何であるかは問題ではないとされる。だが、「統治のパフォーマンス」を測る基準はどうやって定まり、結果はどうやって評価されるのだろうか。無論、それもまた決定、である。


したがって、公共的な管理や設計を巡っていかなる立場を採るにせよ、私たちは少なくとも3つの政治的フェイズに出遭わざるを得ない。すなわち、(a)範囲・手続き・基準の設定:どこまでの誰/何を含め、いかなるプロセスを踏み、どのような価値を共通の尺度とするか、(b)決定の作成と実施:参加と合意形成ないし選択、および遂行、(c)帰結の評価:予め設定された基準に則ったフィードバック。これらそれぞれのフェイズにおいて熟議的手段が適用されることが、決定や統治の正統性を担保する。


だが、公共的討議が前提としなければならない社会の共通性・全体性(への確信)は、今や掘り崩されてしまっている。「いま政治の再生を考えるのであれば、必要なのは」、「自己愛的で閉鎖的な共感の情念」を前提としながら、「公共的なコミュニケーションを可能にする「複雑性の縮減」とはいかなるものなのか、そのありかたをめぐる実践的な問い」である、と言われる。この問いは引き受けねばなるまい。私の答えは「利害関係者民主政stakeholder democracy」の具体化であるが、もはや詳論する紙数は残されていない。


何らかの超越的前提や非政治的解決に可能性を見出す哲学的営為に一定の敬意を払うことを、惜しもうとは思わない。だが、そうした哲学的想像力とは区別されるものとして、より世界内在的な「この現実」に強く規定された、政治学的想像力の働きを促すこと。私はそれをしたい。「私たち」と「彼ら」のどちらかがそれぞれ味わう血反吐と蜜を、その両者を分かつ分断線を、その線を引く/引かせる力を見つめ、その浮動に何らかの想いを賭けること。それが政治学的想像力である。

「敵」が、「妖怪」が、「幽霊」が、そして「幽霊の幽霊」が、そこら中に潜んでいる。憑いている。生きなければならない――憑かれながら。殺さなければならない――止むを得ず(しかし本当に?)。だから、考えよう――殺す/殺されない/殺さない/殺させないため。そのために、できるだけ。「境界線の向こう側の「彼ら」と、こちら側の「私たち」とは」、「現につながっている」。しかし、線を消すことはできない。引き直すか、より深く刻むか、こちらに引き寄せるか、向こうに引き伸ばすか。その決定はいつも、未来に開かれている。


(完)



付記

  • 本記事については、以下を参照されたい。

http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20100913/p1

  • 本記事の全体版は、下記のサイトから読むことができる。

http://sites.google.com/site/politicaltheoryofegoism/works

  • ブログ掲載にあたり、注を省略している。