築150年の民家との出会い

養老公園の中でとろろ飯の店を住み込みで手伝いながら、飲食店の仕事を初めて二年間経験しました。お客さんの数は場所柄季節に左右されます。それと食材により影響はあると思われました。以前名古屋で仕事をしている時に手打ち蕎麦を食べに出かけていた店のご主人が時々訪ねてくれて、そば打ちの話をして下さり、蕎麦包丁を貸してくれました。たまたま川をはさんだ向かいの土産物屋さんに、信州のそば粉があり、そば打ちの練習を独学ではじめてみました。三ヶ月位したでしょうかメニューにざるそばを出してみました。注文があり、気を良くしてそば粉を方々から取り寄せて試してみました。水は養老の湧水でした。そんな時期に古民家と出会ったのです。秋になって、来年からそば屋を始めると家族に話すと妻はなにも云わず、子供達は冷ややかでした。蕎麦を打つ姿など見た事もないわけですから当たり前です。それと店を出すような資金など無いのも皆知っていましたから尚更でした。養老公園の店を十一月末に辞め、準備に入りました。
 岡崎の自宅に帰り店の名前を考えたり、看板をどうするかなどやることは沢山あり年末でもあり、慌ただしく過ごしていました。子供が古いマッキントッシュをプレゼントしてくれたので、初心者ですからその使い方も学ばねばならず、参考書を頼りにそば屋のホームページを作成しようと無茶な作業も始めてしまいました。

平成10年(1998)

 この年は色々ありました。妻のいない正月に始まり、養老での仕事が暇のかわりに名古屋の依頼した弁護士さんへ相談に出かけたり、病院へ見舞いに行ったり、会社倒産の後始末には、指定弁護士さんと会社で立ち会いがあって名古屋へ行ったりと忙しい冬ではありました。
 二月になって妻も元気になり退院しましたが、支払いにはばたばたさせられました。裁判所への出頭は春になり妻がどうにか歩けるようになってからの同伴でした。手続きが済み五月に自己破産の決定があり、私の年金支給の申し込みをして確定したのは月末でした。
 再び妻は岡崎に住み、長男はまだ大学在学中でしたから自宅から通学していました。養老での仕事は春になり、桜の時期は大忙しでしたが要領も覚え、周囲を見回す余裕も出来てきていました。
 七月になり、長女の夢だったイタリアへの留学が実現しました。師事したかったマエストロのところでデザインの勉強を始めました。
 次女がネットで安い航空券を探し、香港六時間待ちで姉の下宿先へ行き、二人でベネチアなどを見て回った写真をみて長女も元気なのをみて安心しました。
 その姉も一年して、帰国したら高校、大学の同級生と結婚するとの知らせをもらい、妻も驚いたり喜んだりと複雑な気持ちのようすでした。

見知らぬ土地で始めた生活

 一度も来た事もない養老公園の中で、紅葉の始まる良い気候に恵まれたとはいえ、経験のない仕事は心身ともにかなりの負担でした。妻たちを岡崎に残したまま単身で、待ちの商売に入ったのですが、毎日初めての方々に会え、それでも順調な滑り出しと感じていました。
 十二月になり、妻が膵臓腫瘍の摘出手術を受けるため大学病院へ入院しました。宇山一郎先生(王貞治さんの手術をされた方)の執刀で十時間ほどかかりました。養老の山を下り、手術の結果を次女と二人で待つ時間の長さと不安は言葉にはならないものでした。
 子供たちと私だけの正月は初めてでした。暮れの朝市へ出かけたりスーパーへ買い出しに行ったりしましたが、例年の正月料理とは比べられないものでした。それでも東京在住の長女が帰宅して治部煮を作ってくれたのが慰めとなりました。
 二月になりどうにか妻は無事退院できました。私は養老の山のなかで寒い冬を送っていましたが、会社倒産の処理もあり弁護士さんとも相談して自己破産をすることにしました。子供たちへ負債を残したくなかったからです。

M9.0

 三月十一日に記事を載せ、その続きは会社倒産の苦しみや悩みを書くつもりでいました。ところが地震津波のニュースを見てそんな事は吹き飛んでしまいました。資金繰りもうまく行かず、受注の減少に悩んで夜も眠れないからと酒を飲んでいた自分の姿を思い出し、どうにもやりきれない気持ちでした。経営の才覚や知恵の無さは自分の責任であって、バブルがはじけた事を理由にしていた間違いをつくづく思い知らされました。
 天災に呑み込まれ流された、多くの命や日常の平和な生活を想うと私の人生観はなんだったのか。
 収入が無くなり、仕事を探しにハローワークへ通いながら、腹の中で愚痴をこぼしていたちっぽけな姿が、今更ながら恥ずかしく思われてなりません。
 そんな私は知人に紹介され、養老公園の中にある、飲食店の手伝いをすることになったのは何だったのでしょうか。
 

 

子供たちとの約束

 私が中小企業のサラリーマンをしていた昭和の末は、まだ景気はよかったように記憶しています。それでも三人のこどもの教育で三人とも大学を卒業させるには、経済的にかなりの無理があると感じていました。豊かでない家庭の事情を説明し、大学を出たいなら、なんとかして大学までの費用は、私達親が負担するけれども、卒業後は自分たちで自立してほしい、と約束しました。
 しかし、財産の蓄えがあるわけでもないので悩みました。そこで以前お世話になったある社長に、この様な会社を起こしたいので出資をしてほしいとお願いし、承諾していただきました。
 平成元年に私を含めた四人で事業を始めました。順調にすべり出し、受注も伸びて十人少々の会社となり、私個人の収入もどうにか増えてきました。三人のこどももそれぞれ一年おきに大学へ進み、二人のむすめは卒業することができました。
 三人目の長男が在学していた頃、突然バブルがはじけ、その煽りで会社も傾き、昼夜なく資金繰りに走り回る状態でした。

暖かさを待っていました

 昨年の暮れから今年は雪がよく降り、今朝もうっすらと雪化粧でした。歳をとると寒さ暑さには抵抗力が弱るのか、体をうごかすのが億劫と云うか、鈍くなるのではと感じています。
 妻が亡くなり三度目の命日(四月二十六日)が間もなくです。
 どうにか独りで手打ちそば屋を続ける気持も強くなってはきました。これからどうするかを具体的に検討するためにも、十年間を振り返るのが必要かなとの考えがあります。
 暫く、開店から妻と歩んできた日々を思い返してみたいです。

伊吹山の雪も融けています

 自宅から眺められる山々もかなり雪が融けてますが、谷にはまだ残ってるのでしょう。風が吹くと寒いです。それでも庭の梅が開きだしたので、隣町の三重県藤原町の梅園もそろそろ見頃になる頃です。この時期になると、きっくう庵にもお客様が多く見えるようになります。例年お見えになる方もおり、梅や桜、牡丹と話題が広がります。そろそろ鰹の厚削りや干し椎茸の準備を始めなければなりません。