渋温泉の街なみ



 渋温泉街は浴衣に下駄の姿で町中を歩き回れる程度の小規模な温泉街だ。大正ロマンの世界に紛れ込んだかのような雰囲気の良い旅館が軒を連ね、いたるところに共同浴場の青い幟が立っている。

 いわゆる日帰り入浴で外来者が立ち寄ることのできる施設は9番湯の大湯のみ。その他の浴場に関しては宿泊者でないと入浴できないというシステムになっている。九つの外湯をめぐって専用の手ぬぐいにスタンプを押していき、最後に薬師様をお参りすると何か願い事が叶うとか叶わないとか。まさにスタンプラリーなのだ。達成賞はちゃっちい景品などではなく、薬師様の御利益。ご利益もそうだが外湯の泉質もそれぞれ異なるらしく、たまにはゆっくりと一つの温泉街に腰を下ろしてじっくり回ってみるのもいいなあと思い、後述するホテル金喜という宿を予約した。

 宿についたら誰もいない。フロントは掃除機が出しっぱなしでお世辞にも整理整頓されているとは言いがたい。これはハズレをひいてしまったのだろうか。しばらくしたら謎のおっさんが現れ、宿の少年少女に「お客さんだよー」と呼びかける。少年は「今お母さんいないよ!」とだけ返事してなにもしない。見かねたおっさんは携帯電話で宿主を召還する手段に出た。10分くらいしてようやく支配人が登場。まあ、早く着きすぎた自分も悪いのだけれども、あまりにもおおらかな旅館経営っぷりにボロ宿好きとしては胸をおどらせた。
 一通り説明を受け、あとエレベーターで上にあがってくださいとのこと。部屋は八畳と十分な広さがあり、エアコンの姿が見あたらない以外は何ら不自由のない部屋だった。タオルや浴衣、アメニティー類もちゃんと用意されている。あと四日でその役目を終えるアナログテレビは妙に愛おしい。こんな宿であるが、この後説明する外湯巡りの付加価値や館内の温泉を考えると、3800円(正確には+入湯税で3950円)という宿泊料は破格の安さだ。

 この宿の宿泊者には大きい木のプレートが付いた専用の鍵が渡される。渋温泉の各旅館共通のものである。これで外湯の鍵を自由に開けることができるのだ。ただし、入浴可能時間は朝6時から夜10時までである。
 浴衣を身にまとい、下駄を履いていざ温泉街へ。こんな旅がしてみたかったのだ。