戸塚ヨットスクール校長による「教育改革に関する意見」について(その3)

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「2.教育崩壊と『脳幹論』」に対する批判

「脳の機能低下が教育問題を引き起こす」――これが戸塚ヨットスクールの主張する『脳幹論』です。

お馴染みの脳幹論の登場です。これまでの考察と上の一節で明らかなように、脳幹論とは「低下した脳機能は身体を鍛えることによって回復する」という理論です。

人間の精神は、進化の過程で「下意識」(脳幹)→「本能」(辺縁系)→「理性」(新皮質)という3段階で発展してきました。そのそれぞれが「知」「情」「意」で構成されています。

上で語られていることは脳の進化であって人間精神の進化の過程ではありません。今まで精神と肉体を二分する心体二元論を展開してきたわりには、この章では一転して唯物論を唱えています。

ところで、脳幹が司る精神機能として説明されている「下意識」について、戸塚氏は大きな誤解しているようです。下意識とは一般的に前意識と呼ばれ、意識されない記憶のことです。しかも記憶を司るのは大脳*1,*2であり、そこに脳幹が関わる余地はありません。

脳幹とは、平たく言えば生命維持の中枢となるような神経が集まった脳の部位です。また、この部位が担当するのは、身体器官の機能維持と外部刺激に対する反応が主です。脳幹は下等な脊椎動物も有する器官であり、これが「知」を司っているとは(少なくとも「知」という漢字の意味から推察する限り)考えられません。この時点で既に脳幹論がどの程度学術・医学的な根拠に基づいて提唱されているのかが推測できます。

次に本能は辺縁系が司っているとしています。辺縁系とだけ書かれているので確証はありませんが、大脳辺縁系のことを示しているのでしょう。確かに大脳辺縁系は情動を司っているため、「本能の器官」と言えそうです。しかし、大脳辺縁系は同時に記憶も司っています。つまり、戸塚氏が脳幹の担当分野としているとする精神機能(下意識)は本来、本能と同じ大脳辺縁系が担当しているのです。よって「情」が大脳辺縁系に司られているとは言えますが、戸塚氏のいう「知」=下意識(記憶)も辺縁系の守備範囲であることは否定のしようがありません。

大脳新皮質は人間の持つ高次な精神機能一般を司っています。よって「理性を扱っている」という記述は正しいと言えます。ただ、その「理性」は人口に膾炙した意味の「理性(社会性)」であり、今まで戸塚氏が執拗に批判を繰り返してきたキリスト教由来の「理性」とは別物です。ここを混同していることが脳幹論の理論的瑕疵の一つだと言えるでしょう。

また何故、大脳新皮質が「意」を司っていると主張されるのでしょうか。「意志」という意味なのでしょうか。しかし、明らかに新皮質は「知」を扱う部位でもあります。しかも、辺縁系と新皮質は相互に情報を交換し合うことによって記憶や情動、理性といった高度な精神機能を発揮しているのであり、各部位が「知情意」のどれか一つだけの精神機能を扱っているとは言えません。

結局、知情意という言葉を無理に脳の進化に当てはめること自体が誤りであるため、このような食い違いが生じているのです。

以上を大まかにまとめると、脳の進化と精神機能の関係は「外部刺激に対する反応(脳幹)→記憶・情動(大脳辺縁系)→高次的精神(大脳新皮質)」というように記述すべきであることが分かります。しかし、このような相関図は脳幹論をさも生物学的な裏付けがあるように見せかけるための仕掛け(権威付け)以外の何のものでもありません。それどころか、戸塚氏による脳機能の説明には科学的な間違いすら認められます。ちなみに、ここで述べた脳に関する知識も高校の保健体育レベルですよ。

登校拒否や非行、無気力などの子供を「情緒障害児」と呼びますが、ここでいう「情緒」とは本能のレベルでの感情(=情動、エモーション)のことです。

まず、「情緒障害」という言葉の定義が読者に提示されていないため、これを読んだ人の中には「そういうものなのか」と納得してしまう方がいるかもしれません。情緒障害とは英語の emotional disorder という概念を訳したもので、「情動における問題が顕著である事例のうち、特定可能な脳機能の異常によってもたらされたわけではない何らかの精神障害」が定義とされています。

つまり、情緒的な問題があるけど脳機能が問題原因でない場合、「情緒障害」に含めてしまって良いわけです。言い換えれば情緒障害は個別の障害ではなく、特定の特徴を持った障害の総称であることが分かります。

ところで、何をもって情緒障害とするのかといったガイドラインに近いものが検索結果から見付かりました(参考資料)。この資料によると、具体的な情緒障害の例として以下のようなものが挙げられています。

一方、戸塚氏は「登校拒否や非行、無気力などの子ども」を情緒障害児として挙げています。不登校はともかく、その他の例は根拠がありません。また夜尿症やチックなどはどんな子どもにも一時的に起こり得ることで、これを問題とする方が珍しい*3でしょう。また、情緒障害の中でも拒食や PTSD は普通の精神疾患として治療対象になるものです。

そもそも「情緒障害児」とは主に学校教育用語として使われる言葉であり、教師が接するにあたり特別な配慮を要する子ども達を指しているに過ぎないのです。少なくとも治療対象という文脈で使われる言葉ではありません。それにも関わらず、戸塚氏は情緒障害児を「脳機能(本能)に障害を抱えた治療対象」として捉えています(後述)。

結局、戸塚氏にとってこの「情緒障害」という文言は、どんな子どもであってもヨットスクールの受講者として受け入れることを可能にするための魔法の言葉なのです。戸塚氏が「異常だ」と認定すれば情緒障害児ですからね。

つまり「理性に至る前の段階(本能)がオカシクなっている」ことを意味しています。

ここもまた戸塚氏の自己矛盾が見受けられます。氏の考えでは、人間精神は必ず「下意識(と呼ばれる定義不明なもの)」から「本能」を通り、「理性」となって現れると考えているようです。戸塚氏が提唱する脳進化と精神機能の相関関係を用いて言い換えれば、脳幹から辺縁系を通り、新皮質に至るということになります。よって、理性に至る前段階(本能)にオカシクなっている(=異常がある)ということは、彼の言葉を借りると大脳辺縁系が機能障害を起こしているということになります。これは情緒障害の定義に反します。情緒障害は、脳機能の異常によってもたらされる情動の問題を除外するからです*4

大体、上のようなことを考えるまでもなく、PTSDの原因は強烈な心的ストレスによるものですし、不登校はクラスメートによるイジメや成績不振などが原因と考える方が自然です。「情緒障害」という字面だけを眺めて「情緒=本能=大脳辺縁系に異常がある」と解釈するのには大きな論理の飛躍があります。

戸塚氏は恐らく情緒障害の定義をご存じないのでしょう。よって氏による情緒障害の解釈、またその判断基準は著しく恣意的で非合理的なものである可能性が非常に濃厚です。

ですから「情緒障害児」には口で言ってもダメです。言葉は理性に働きかけるものであって、本能には無力だからです。カウンセリングが効かないのはこのためです。

この一節では、情緒障害児は辺縁系から新皮質に脳情報が伝達されないため、新皮質(言語野)が扱う分野である「言葉」が通じないと主張しています。また「本能には無力」と表現しているところから、情緒障害児は言葉が全く通じないと論じているようです。もはや情緒障害者は知的障害者扱いです。

ところが、この主張の正当性は、言葉と関係ない部分で完全否定することができます。

まず戸塚氏はここで、大脳新皮質に異常があると「言葉が通じない」という点にのみ注目しているようです。確かに左脳が破壊された人間は言語を解することができなくなります。しかし実際問題、本当に言葉が通じないほど大脳新皮質に異常があるのであれば、当然、大脳新皮質にある運動野にも影響があるはずです。よく脳卒中で倒れた人が半身不随になることがありますが、それは大脳にある運動野が脳内出血によって破壊されてしまった影響なのです。

つまり、大脳新皮質が全く機能しないのであれば、戸塚氏の主張する「情緒障害児」たちは全く動くことができない植物人間状態であるはずなのです。当然、ヨットに乗れるはずもありません。皮肉的ですが、子どもたちが戸塚ヨットスクールに辿り着いた時点で、彼らの大脳新皮質が正常に機能していることは証明されます。さて、戸塚氏は一体何を治療するつもりなのでしょうか。

(続く)

*1:http://www.nodai.ac.jp/web_journal/adventure/vol8.html

*2:Wikipedia大脳辺縁系

*3:そうでないと首を回すチックを持つ北野武監督は脳幹が腐ってることになってしまいます。

*4:もっとも、戸塚氏が主張するような辺縁系の障害は医学的な根拠がないものですから、「特定可能な脳機能の異常」とはなりえないという逃げ道がありますが。