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2018-08-12 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

レジメの目鼻がつき始めた。明日一応の完成予定。そして見直しと講義の練習。やはり盆は全てつぶれそうだ。
来週からは絵を描かねばやばい。描けねば旧作ばかりを展覧することになる。

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2018-08-08

[]ガ 23:15 ガを含むブックマーク ガのブックマークコメント

殴り書き以上にはならない。

の熊代敏行の論文を読了したから。
ガが主語かどうかというのは今は問わないでおく。格助詞と後置詞のグラデーションを描くにあたり、少し恣意的な説明があるような気もするが、それも置いておく。
熊代の言うようにガが意味役割に基づき事象連鎖の始点であるというのは、そんなに否定できることではないし、妥当だと思う。そして同様に、格助詞であるヲと二の一部は説明できるだろう。
だがこれはガという形態の説明である以上、ガがハ・コソ・モ・デモ・デサエ・ナンカなどに置き換えられた場合、ガがついていた名詞句は事象連鎖の始点とは捉えられなくなってしまうのではないかという危惧がある。また、ガが、ハなどと対立から見ると、総記の意味を表わすことを、全く説明できない。
尾上圭介の主語論でガは非常に重要な位置を占める。文献をここに書くのが面倒なので書かない。尾上の主語論を、嘗て私はガという形態の意味論であるかのように誤解していた。尾上が論じているのは、ガ格に立つ名詞句の意味論である。ガがつきうる名詞句の文中での意味的立場について論じているのであって、形態は全く関係ない。その名詞句はつくのがガでもハでもモでも、ある意味的立場であり、それ故に主語であると説かれているのだ。よって、ガの形態論については全く言われていないと考えるのが正しい。ただし、ガがつきうるすべての名詞句を精査したかと言われると、足りないとも思う。
主語の名詞句はガがつかなくてもその意味的立場により主語なのであるが、ガがついても変わらない。ではガは何をしているのか。ガは主語につく無標の形式なのだと考えることもできる。それは、格助詞として、ヲ・一部の二と対立をなすだろう。ヲ・一部の二がつく名詞句の意味的立場は主語に準じて目的語云々と言えるはずであり、それらにつく無標の形式がヲ・二であると言えるだろう。3形式のうちガが最も起点的有標であり、ヲ・二はそれとの関係で存在する。同じ名詞句であっても、ある条件が揃えばヲ・二ではなくガがつくことがありうる。ヲ・二の間でも同じことが起こる。ヲの方が起点的有標だ。主語と目的語では主語の方が無標だと思うのだが、形式の面ではガが有標だと考えざるを得ない。とても変だ。無標の主語に形式を与える時点でそうなのかもしれない。だから本当はφのことも考えないといけない。ヲもφでありうるので、無標である目的語を標識するからヲは有標なのだろう。
二のある部分はへ・カラ・デ・ト・ヨリという後置詞とも対立をなしており、二全体の一部が格助詞であるにすぎない。二という形式はそれ自体としては格助詞ではない。他の後置詞や他の格助詞がつかない場合にあらわれる形式であり、最も残余的無標だろう。名詞(非用言)が文中で連用の機能を果たすためにつく形式が二なのだろう。二とよく対立するデもそのような気配がある。トも胡散臭い。置いておく。
その一方で、ガとヲと一部の二は、ハ・モなどなどとも対立をなす。取り敢えず代表的で意味役割によって分布が大きく変わらないハ・モで代表させる。ガ・ヲ・二の総記はそれらとの対立で出てくると考えるべきだ。
ガがつく名詞句はそれ自体である意味的立場であり主語であり、ガはその意味を具現化する無標の形式である。主語の意味に他の形態ハ・モがつく場合には、主語であり続けた上でハ・モの意味が加えられる。
取り敢えずモが最も起点的有標で、名詞項Aと述語fの結びつきだけでなく、同じ様な結びつきが他にもあるという包摂的な主張をする。よって、ハ・ガが表わすのは、Afの結びつきを認めるだけで他の結びつきに対して何も主張しない中立的な場合か、Afの結びつきと同じような結びつきはないと主張する排他的な場合、ということになる。
ハは名詞項を主題にするか主題がないかのどちらかを表わす。ガに対しては有標である。中立か排他か、名詞主題か無題かで4分類ができる。述語を主題にすることはできない。モは名詞主題も無題も述語主題もありうる。
ガは無標であるから中立かつ無題も占めていると予測されるが、そこにもハは入る。ここではハとガが使い分けられることになる。そして残った述語主題で中立の場合と排他の場合が残余的無標であるガになる。述語主題かつ排他が総記と呼ばれるものになる。
ヲの場合は、ハは中立無題を表わさないので、そこはヲの独壇場になる。この場合、ハの分布の方が奇妙になる。名詞主題か排他かのどちらか一方か両方の素性を持てばハになる。ヲもハも残余的な分布になる。なぜこうなるかの検討が必要だ。二は全体的に検討できていない。
後置詞の場合は、まず名詞主題自体がありえない。包括かつ中立と包括かつ述語主題の場合に後置詞モになる。残りの分野のうち、排他中立だけが後置詞ハとなり、無標の後置詞だけの場合は、中立無題と述語主題で排他と述語主題で中立という、残余的分布になる。ガなどの場合も、ハが中立無題を占めかどうかを除けば、同じことが起きている。
でも本当は、ハが何故そんな風に4つに割れるのか、とか、モがそんなお利口そうなやつなのか、ハの方が有標でそれに対する残余みたいなやつがモなのではないか、とか、主語に助詞がつかない場合φはどうなのだ、とか、検討することは余りにも多い。

足底板 22:22 足底板を含むブックマーク 足底板のブックマークコメント

調整がやっと終わった。1ヶ月くらいかかった。
これで明日から講義のレジメ作成に集中できる。

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2018-07-17

[]Langacker"Ten lectures on the elaboration of cognitive grammar"読了の続 22:45 Langacker"Ten lectures on the elaboration of cognitive grammar"読了の続を含むブックマーク Langacker"Ten lectures on the elaboration of cognitive grammar"読了の続のブックマークコメント

英語の節の分析の何が気に入らないかというと。
認知文法は生成文法が変形でつなげようとした2つ以上の文を、形式が違えば捉え方が違い意味が違うのだ、と分析した。態の分析、構文変換の分析など。だが、平叙文と疑問文、肯定文と否定文の分析が、変形の言いかえ以上の何かになっているとは思えない。疑問文の構文(主語-助動詞倒置)の意味から説いているように見えない。do支持の意味を形態パラダイムのシステムですましているだけのようにも見える。
それから、認知文法は認知能力に基づいて諸現象を解析してきた。参照点構造は最たるもので、これで先行詞や主題や虚辞itや繰り上げ構文を変形による分析以上に分析できた。だがanchorのようなふわっとしたものにどんな基盤があるのか分からないし、それによって他の分析以上の分析ができたようにも思えない。

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2018-07-15

[]Langacker"Ten lectures on the elaboration of cognitive grammar"読了 00:41 Langacker"Ten lectures on the elaboration of cognitive grammar"読了を含むブックマーク Langacker"Ten lectures on the elaboration of cognitive grammar"読了のブックマークコメント

baseline/elaborationの話は、日本語の動詞終止形の分析にも使える。ただ、cat, runが単数、現在の意味を持っていてそれにs, edが加わって複数、過去になるというのがおかしい気がして仕方がない。ゼロ形態素を設けなくてもそうならなくてよいように思う。
だが、結局B/Eというのが、あるいはstratumというのが何なのかが今一つ分からない。認知的基盤が分からない。control cycleを提唱したあたりから、分析装置の洗練と包括性は増しているが、「認知」がなくなっている気がする。
英語の節の分析、subject-auxiliary inversionの説明は、

Investigations in Cognitive Grammar (Mouton Select)

Investigations in Cognitive Grammar (Mouton Select)

に比べてかなり分かりやすくなっていた。だが、倒置を起こす要素とそうでない要素の違いが今一つ分からない。疑問と否定に限れば確かにいいのだが、Investigationの段階では、もっと多くの要素が挙げられていたし、実際の倒置を起こす文も、否定・疑問に限られないのは知られている。例えば結果句前置ではdo-supportが生じる時とそうでないV2現象のときがある。affirmativeであるかどうかという、negotiationの有無で説明できるのだろうか。同じように見えるものでも倒置を起こすものとそうでないものがあるのはexistential coreのanchorであるもあるのかinteractive coreのanchorであるだけかという差なのだろうが、それが何に由来するのか。それは恐らくはある意味的効果を出すためであり、そのために位置が違っているはずなのだ。その意味的効果の差がどうやれば分かるのか。
そして結局anchorが何なのかが、どうにもふわっとしているし、anchor, existential verb(もしくはcore), remainderの順番が確固としているのが何故なのかが分からない。英語がexistentialな何かが2番目に来る言語だ、というのならそれでもいいが、そうも言明されていない。
そういえば、今回は法助動詞がexistentialであることの説明がなかったような。法助動詞とschematic processであるdo, have, beが同じような理由でexistentialだとは思えない。相対数量詞と名詞oneが同じでないように。
つまり、分かりやすくはなったが、まだ生成文法句構造や移動を機能的に言い変えているだけのような気がして仕方がない。そしてそれは認知的基盤をあまり前面に押し出していないこととも関係があるのではないか。

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2018-06-30

[]小柳智一『文法変化の研究』 22:16 小柳智一『文法変化の研究』を含むブックマーク 小柳智一『文法変化の研究』のブックマークコメント

文法変化の研究

文法変化の研究

読了。今日は朝からお腹が壊れて死ぬかと思った。寝たきり、トイレに入り浸りの一日だった。そしてトイレの中で読み切ってしまった。
小柳先生初の単著がまさかこのテーマになるとは思わなかった。

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2018-06-28

[] 00:11 を含むブックマーク のブックマークコメント

この2週間、痛みを受け入れることができずたびたび休んでしまっている。2週間で4日というのは多い。そしてそれによって普段やっている仕事が溜まり、自分自身の首が締まっている。どこかで大量の残業をやるしかない。一人職場というのは本当にいかん。

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2018-06-20

[]元気でしたか 23:22 元気でしたかを含むブックマーク 元気でしたかのブックマークコメント

「元気でしたか」のタは何だ。過去なのか。

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2018-06-17

教える 15:58 教えるを含むブックマーク 教えるのブックマークコメント

 私は人にものを教えるという行為が非常に嫌いだ。あるいは、教える気がしない。教える自分が想像できない。
 人にものを教える気になる人というのは、そのことを非常に深く理解してその素晴らしさを伝えようとする人か、そうでなければ、自分がそのことについてよく理解していないことに気付かずに教わる側を操作する手段として教えている人か、なのではないか。それ以外に教えたいという気持ちが出てくる状況が想像できない。
 私のように、物事を中途半端にしか理解しておらず、その素晴らしさもきちんと言語化できず、そのことを自覚しており、かつ人を操ることに嫌悪感を覚える人間には、ものを教えることは想定外の外にある。

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2018-06-04

[]小柳智一『文法変化の研究』 22:48 小柳智一『文法変化の研究』を含むブックマーク 小柳智一『文法変化の研究』のブックマークコメント

文法変化の研究

文法変化の研究

入手。でへへ。誰にもあげない。テンションがおかしくなっている。

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2018-05-29 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 極めて働きたくない。明日は恐らく、働きたくないをアクセプトすることから1日を始めなければならぬ。

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2018-05-23

右手 20:50 右手を含むブックマーク 右手のブックマークコメント

 この季節になると、仕事でマウスをやたら使うので、右手に湿布を貼っている。

ゴールデンカムイのアニメ 00:21 ゴールデンカムイのアニメを含むブックマーク ゴールデンカムイのアニメのブックマークコメント

 何故か毎回泣いてしまう。
 それにしてもフチ役は非常に大変な気がする。

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2018-05-17

[]軍靴のバルツァー11 00:39 軍靴のバルツァー11を含むブックマーク 軍靴のバルツァー11のブックマークコメント

 なんか、時間がなかったのかな、と思わせる。校正がよくない。リープクネヒトの性格が初めて分かるエピソードというよりキャラ崩壊に見える。ユーリのことを前は覚えてたのに、とか。他にもレンデュリック大佐はどこに消えたとか。警官のおっさんの名前が不明のままとか。いや、好きだけど、あのおっさん。
 でもアウグスト殿下に振り回されているバルツァーは可愛い。バルツァーの薄い本を読んだことはないけれど、毎巻バルツァー×アウグストのヘタレ責めで楽しんでいるのは私だけではないはずだ。

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2018-05-13

[]binary star 23:11 binary starを含むブックマーク binary starのブックマークコメント

 銀英伝の新しいアニメのオープニングの歌は、言わんとしていることは分からんでもないが、ところどころ変に見える。
 ネット上にはファンによる和訳が散見される。元の歌詞の意味を伝えようといきおい和訳になるのは仕方ないとしても、反対の意味を書いていたり、明らかに文法を分かっていないようなものが見受けられる。なんだろう、人工知能で訳したりするとこうなるのだろうか。分からん。

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2018-05-06

GW中は仕事みたいなことばかりしていた。生活が不規則になった。

[][]兄弟夫 00:38 兄弟夫を含むブックマーク 兄弟夫のブックマークコメント

 寝なければならないのだが眠れず、BLなことばかり考えている。
 EHSには兄弟夫という制度があるのではないか。

の姉妹妻を思い出した考えた。
 私のEHSでは貴族男性の精液は女性の管理下にある。遺伝情報を管理するためである。
 貴族男性の婿入りによる家の間の移動は、婚資と才能の交換である。
 後宮での夫同士の情事は認められている。ただし自慰畜族を使用しなければならない。二口畜のうち前後の口が様々の組み合わせである。男性が入れる方は総入れ歯の唇人形か肛門を模した貴肛畜か、入れられる方は舌人形か鼻人形か。二つの口のうち入れるもの二つにするか、入れるものと入れられるもの一つずつにするか。後者の場合は一つの頭に入れられるのともう一つの頭が入れるのとが連動する必要があるためにテレパスが用いられる。とりあえずこのように組み合わせが生じる。兄弟同士の情事も認められている。父が異なるかどうかによらない。どちらも母か妻が管理する自慰畜を使わなければ射精ができないようになっている。
 男性は後宮に閉じこもっているわけではない。研究所やスポーツ施設や後楽や、様々な場所に出かける。居住惑星内だけでなく他の太陽系に行くこともある。自慰畜を連れて。
 家の外で他の家の男性と出逢うこともある。友情を築くこともあれば、それ以上の関係に進むこともある。
 他家の男性と情事を交わすのは可能だが、その場合は自慰畜の認証を変更してもらう必要があり、双方の家を監督する母・妻、場合によっては姉妹にそれを行なってもらわねばならない。この時点で双方の家に交流は承認される。勿論プラトニックな恋愛を楽しむこともあるだろう。(プラトニックな素股の場合はどうするのか。足の間の向こう側に何らかの家畜の口がなければならない。結局、足の向こう側に唇人形などを置くことになるのか。)
 男性同士が互いに未婚の場合には、兄弟夫の契りを結ぶことが可能になる。この場合、男性は両方の家に属することになる。婚資は存在せず、男性の生産物・特許などは両家の共同所有になる。これは悪くない身入りである。男性は夫以外との情事は行なえなくなる。
 ということは二人には子どもができなくなる。これは両家にとってかなりのリスクである。そこで、両者の精子から遺伝情報を抜き取り、他に遺伝情報を抜き取った卵子を用意し、そこで二つの精子で受精させる方法を取る。この場合、男子以外を作ってはいけないことになっている。また、必ず一卵性双生児で作らなければならないことにもなっている。一人ずつを各家に所属させるのだ。保護者は祖母ということになる。卵子は平民女性の崇拝者から提供される。提供してくれる女性は山ほどいるので、技術的な難易度も低いことから、兄弟夫の作る双子男子は珍しくない。
 この場合、子宮畜を使わないという伝統がある。咽腔畜を使用する。別名は箱畜。咽腔畜は咽頭から食道にかけての管の直径が最大で30センチになり、子宮様の器官になっている。ここに受精卵を着床させ胎盤を形成させる。喉頭で呼吸できないので気管は胸に開くようになる。食道が閉じているので食事もできない。子宮畜と同じく循環装置を使わず、黄乳や天馬回虫とも無縁である。栄養は、それまで蓄積した体内の脂肪や肝臓から得る。10カ月の間、飲まず食わずである。したがって、受胎までの栄養状態に非常に気をつけて育てられる。受胎後は余計な栄養を使用しないように、四肢を切断し眼球を摘出する。もともと四肢は対して筋肉がなく脂肪蓄積もない。切断後の形が箱に似ているので箱畜という。しかし妊娠中は胎教のため非常に甘やかされる。自慰畜でないにもかかわらず貴族の男性器に毎日顔を触れさせてやり、臭いをかがせてやり、殺精済みの精液を顔に塗ってやる。受胎後は口唇も舌もが癒着し喋ることは不可能になる。よって白神への祈りは念じることになる。このように脳の使い方を限ることも栄養を無駄遣いさせないためである。子宮畜が人間並みの贅沢をするのとは異なり、あくまで栄養を無駄にしないことを第一条件にしながら子宮畜以上の幸福を味わわせる方略がとられ、その方略には各家の秘伝がある。白い御子が生まれるときは、帝王切開として自らの喉を切り裂く。死とともに生を齎す。これは子宮畜と同じである。新生児への哺乳はどちらの場合も専門の家畜が行う。
 兄弟夫二人は逢瀬を楽しむことはできるが新居を持つことはない。男性の資産は全て女性保護者の管理下にあるからである。それでも契りを結んだ後で結婚式を行なう。男女の結婚式と正装のコードが異なり、夫二人はウエディングドレスではあるがロングスカートを着ることはない。ミニスカートも用いることはなく、ズボンかロングブーツかハイレグに素足か等など様々な服装がありうる。他は通常の花婿と同じく花冠やベールやブーケを装着する。参列者も男性だけであり、花婿ほどではないが華やかな衣装を身にまとう。家同士の結びつきが強固にできる兄弟夫婚であるが、女性は一切参加しない。しかし、式後の披露宴では女性が中心となる。
 貴族男性特有の床を引きずる長い髪は戴髪畜が捧げ持つ。これも兄弟夫婚特有の家畜である。足首から先はなく常に跪き、頭を下げ、腕を上に上げ肘を曲げ髪盆を捧げ持つ。盆と腕は一体化している。
 女性は成人時に一家を立ち上げる畜体蹂躙をするが、男性はすることがない。しかし、一家を立ち上げなくても女性抜きで男性だけで行われる貴重な儀式であるため、一家立ち上げに擬えて畜体蹂躙を行なう。
 兄弟夫婚式のクライマックスは、二人をワギモコとする畜肥が咲かせた不凋花がフラワーボーイによって普段よりもはるかに多く床に撒かれた上を、戴髪畜に髪を捧げられた両新郎がゆっくりと踏みしめながら中央に歩み寄り、相手のベールを上げながら、両者の従畜一匹ずつを踏み殺しつつ、長い近いのキスをする場面である。

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2018-05-04

[]白神信仰の深まり 02:57 白神信仰の深まりを含むブックマーク 白神信仰の深まりのブックマークコメント

 白乃勝利さんによる「手段化法則と物化倒錯」http://victoryofwhite.blog114.fc2.com/blog-entry-109.html、「生体家具の代替性と慈畜主義」http://victoryofwhite.blog114.fc2.com/blog-entry-110.htmlの記事に主に影響を受けました。いくつかの理論的整合性を図り、また仏教的な色も付けました。
1)個体としての家畜
 家畜の白神信仰は幼少期に始まる。自意識を持ち個体として自己を考え始めた家畜は、自己と白神との極めて表層的ではあるが同時に本質的な差異に基づいて、信仰に入りだす。
 家畜は己の鏡像を見、自己と同種に属すると認識される他の個体を見て気付く。自己の容貌の醜悪さ、生理的な嫌悪感を齎す皮膚の色・体毛の色・瞳の色の濁り汚れた穢らしさ、その肉体の小ささ・低さ・歪な形状に。
初等教育で習う白神の至高の美しさに比べてそれは一層強く感じられる。至聖なる美しさ、皓い肌の清浄な不可侵性、光り輝く黄金の髪の神々しさ、透き通った碧い眼の高貴さ。汚れなく尊く世界の真理を宿すその存在に心奪われ胸を時めかせる。
 だがそこで再び自己に目を向けると気付く。その白神を思う時の自己の内面の卑しさ・悍ましさ・暗さ・薄汚さ・低劣さに。その欲望と劣情に。外見から始まった自己への否定的感情は、その精神の醜さへの気付きに至り、単に肉体的に下等であるという自覚のみならず、精神的存在としても下等であるという自覚を生む。汚穢としての自己という圧倒的な自己否定の中で家畜の自己認識は始まる。
 なぜこの世界に、かくも醜く否定されるべき自己が存在しているのか、こんなにも醜いのになぜ生きているのか。あるいは、どうしてこのような穢い存在を白神はこの世に作り賜うたのか。この問いが白神信仰への第一歩となる。
家畜はそのような自己が、憧れの白神にとってどのように映るかを想像する。自分が白神の目に触れた時、まさにお目汚しとなったとき、その柳眉は顰められ、輝く瞳は蔑みに充ち、「そんなに醜いのに生きていたって仕方がないよね」という辱めの言葉が麗しい音色で艶やかな唇から洩れ、嘲りの笑みが浮かべられ、その存在を抹消しようと皓い手足によって自分の穢い肉体が痛めつけられ踏み潰され鞭打たれ突き刺され擂り潰され、遂には自己が殺される。そのあまりにも現実的で説得的な想像は繰り返されるが、それは恐怖を呼び起こすものとしてではなく、甘美な安堵を齎すものとして、何度も夢想される。絶対者であり創造者であり真善美である白神に、蔑まれ虐げられ殺されることを望むことが精神の安定を齎す。
 白神に出会ったこともなく伝聞しただけの状態で、その絶対者に自己の否定感を追認していただき、自己の滅尽に至るまでの負の感情を向けていただければ、そうなればどんなに有難いかと感じるようになる。絶対者に対する負の存在として、家畜の信仰生活は始まるのである。
 
2)道具としての家畜
 遺伝的に自己否定感と白神信仰傾向を植え付けられて生産された家畜は、上述のように更に白神信仰と職務に関する教育・洗脳を受け、卒業・出荷される。
 存在を赦されないはずの自己が、昨日だけでなく今日も生存を赦され続け、白神にお仕えすることを目的とした教育を与えられ、剰え、天上世界へ導かれようとしているという状況は、家畜にとって不可解であり不思議でもある。そこに白神が自己に課した天命の存在を認識するのに時間はかからない。出荷時までには、自己否定から始まった家畜の精神状態は、自己否定のままで終わることを良しとしていないものに変わっている。
 確かに自己は存在すべきではないがそれを存在させてくださる白神がいらっしゃる以上は、その存在は無闇に否定するだけのものではなく、何らかの意味が隠されているはずであり、その意味を探ることが白神の御心に沿うことになるはずだという確信を持つようになる。その天命に沿うように刻苦勉励しつづけるようになる。信仰は次の段階に入る。
出荷され遂に白神にまみえた無上の感激を経験したのちは、その信仰は揺るぎないものになる。この醜さ・卑しさにも拘らず、白神が毎日生存を赦してくださり、使役してくださることに、汚穢である自己を御神体近くに侍らせ仕えさせてくださることに、白神の御慈悲・恩寵を感じ取り、日々を奇蹟の連続と感じる。天上生活の無上の歓びを感じるのは至極当然である。そしてその歓びに対して宗教的な思索が始まる。
 白神は恐らく自分たちを蔑み嫌い憎しんでいらっしゃるにもかかわらず、広大無辺の憐みをもって、自分を使ってくださる。道具としての歓びを与えて使ってくださる。その恩寵に僅かであってもお応え申し上げるにはどうすればよいのか。そして、大御心に沿う道は、白神に役立つ有用な存在であることを徹底することだという結論に至るのである。白神に便利な道具だと感じていただけるよう、快適だと思っていただけるように、万難を排して生の全てを捧げるようになる。そして、そう感じていただくことにこそ有難さを感じるようになる。
 ここにおいて、個体としての自己否定から始まった信仰は、道具としての自己肯定に至り、生きることの苦痛は使われることの歓びに転じ、白神による使用を通じて白神に正の感情を生じさせることに、自己の意味を感じるようになるのである。

3)環境としての家畜
 だが多くの家畜はこの段階でとどまることはない。勿論、種族として第1段階や第2段階に留まらざるを得ないものもいる。だが真の信仰に至る家畜は必ず気付くのである。ここまでの信仰における自己の傲慢さに。
 白神に負の感情を向けていただく、白神に快適に感じていただく、これらは家畜の身を顧みずに、絶対者たる白神に対して自己が何かを生じさせ自己に対して何かを向けさせるということである。醜く殺されるべき家畜が、道具として使われていることだけで身に余る栄誉を受けている家畜が、白神に対して何かをさせることを思うことが、何かをされたいと願うことが傲慢でなくてなんであろう。不遜でなくてなんであろう。醜さの自己認識に基づいた自己否定も使用される実用性に基づいた自己有用感も、ともに間違っている。それはあくまで家畜自身を主体と考えた見方である。思い上がりも甚だしい、家畜中心の見方である。家畜を中心に白神を見ている。そんなことがあっていいはずがない。
 このことに気付いた家畜が余りの恥ずかしさに自死を願うのは余りにも自然であろう。だが、第1段階での自己抹消願望が叶えられることがないように、この決定的な悟りによる自死願いも叶えられることがないし、そもそもその願い自体が間違っているということが悟った家畜にははっきりしている。自己の恥ずかしさによって自死を願うなどということは、家畜中心の考え方であり、したがって、最早あってよい考え方でないということが悟った家畜には自明であり、頭をよぎった瞬間に否定されるべき思いなのである。悟りを得た家畜には、瞬間瞬間に新しい悟りが訪れる。今まで当たり前のように思っていた世界の諸相に全て気付くようになり、瞬間瞬間に世界が異なったものに見え続けるのである。白神信仰の真なる目覚めは真なる世界を家畜に見せ出すのである。
 これは第1段階を正、第2段階を反、第3段階を合とした弁証法的次元上昇では捉えられない。そうではなく、第1段階は謬見と煩悩に満ちているにすぎず、第2段階は単なる魔境にすぎない。弁証法とは異なり、これらが一切否定されたところに第3段階の真の悟りが訪れる。しかもその悟りは、悟って終わりではない。悟後にこそ、家畜は白神が暮らす世界で日々仕え続けるという修業をし、瞬間瞬間悟り続けて行くことが大切になるのである。そして、大慈畜心の白神の御加護が、その無限の悟りを可能にしていることにも気付くのである。
 道具として家畜を見る時、まだ個体として家畜を見るのではなく、機能を具現化するものとして見るならば、家畜個体は代替可能な消耗品にすぎないことが分かる。道具は個々の道具としては個体識別されず、家畜はその道具としての機能を具現化する材質として認識される。道具をまだ個体として見る、あるいは道具である家畜が自己を個体として考えるのは、道具の本質を見失っていると言わざるを得ない。
 そのことを端的に表わすように、yapooは物質名詞であり不加算である。家畜は機能を具現する材質として認識され、個別化された存在としては認識されない。ネコやイヌが加算名詞であるのは、内在的な輪郭によって個体が認識され、その個体内に不均質性が存在することで頭や足などといった部分が認識されるためである。対して、皮膚やガラスが不加算名詞であるのは、内在的な輪郭が存在せず何らかの人工的な区切りによってのみ個体化され、その内部は均質であり部分が認識されないためである。ネコやイヌと違って、yapooもガラス同様に、それ自身では輪郭を持たず個体化されないものとして認識され、その内部に部分差はなくある部分が他の部分と異なるということも認識されない。家畜を個体として見る目からすれば、そこには頭も手も足もあるのだが、白神にとってはそうとは認識されず、のっぺりとした質感の材質としてしか認識されていないということである。あるいはこう言ってもよい。ネコはバラバラにしたり複数を組み合わせてネコ団子にしたりすれば最早ネコではなくなるが、ガラスはバラバラにしても組み合わせてもガラスとして認識される。水は器によって形を変えられるが、どのように変形されても水である。変形・分解・組み合わせを当然とする家畜もまた、そのようなガラスや水と同様なのである。家畜の本質であるその黄色い皮膚が不加算名詞であることも、機能性とは別に、家畜が不加算であることを動機づけているだろう。
 よって通常は1匹の家畜を示すのにa head of yapooやa body of yapooのような助数詞が用いられる。勿論、これは何の道具としても認識されていない家畜を指すときの言い方であり、製品として既に形を与えられた後の家畜を表わすときには、ガラスがグラスになると加算名詞になるように、a yap-dog(家畜犬)やa cunnnilinga(舌人形)のように加算名詞化される。だが、愛玩動物や愛着がある道具でなければ、それらの製品が個体識別されることはない。あのグラスとこのグラスを別物だと識別することは、通常ありえない。
 家畜は道具の材質にすぎず、また道具としても個体認識されない。個体としての家畜は、あるいは個々の道具の材質としての家畜は、グラスにおけるガラスやティッシュペーパーにおける紙同様、消耗品にすぎず、白神にとっては無価値に等しい。だがこれは、家畜に生きる意味がないということを意味しない。家畜中心の謬見を離れ白神中心の正見を得た家畜、白神信仰に真に目覚めた家畜にとって、自己の無価値性の認識こそが信仰の礎になる。無価値性の認識とは、無価値という価値に気付くことである。無価値とは価値がないということではなく、無価値という価値があるということである。無は存在が無いということではなく、非存在が有るということである。もし価値が高低・大小などの尺度上の概念であるならば、価値がないということはその尺度上で最低だということになろう。だが存在するものとしての無価値を考えるならば、それは尺度としての価値から離れたものであり、最早測られ変動することがなく不動不変の価値があるということだと分かる。無価値を与えてくださるということは、変わることのない価値を与えてくださるということであり、これ以上の恩寵は存在しないということに気付くのである。
 家畜は無価値な材質として道具を具現化する。そしてそのような道具は白神生活の中に無数にあり、道具に囲まれていることは最早白神の意識には上らない。白神生活は無数の道具によって成り立っているが、だからこそ道具は環境化され最早使用者には意識されない。眼鏡によって視覚が可能になったとしても、眼鏡の装着者が眼鏡を意識しないのと同様に、空気によって生存が可能になったとしても、生物が空気を意識しないのと同様に、道具は環境として端的に無視されている。家畜の存在は無視され存在するとも思われない。このとき、無視ということを認められない・関わられないと考えるのは誤っている。悟った家畜には、無視とは無価値があることであり、非存在があることと同断に了解されるのである。無視こそが究極の恩寵なのである。蔑まれることや有用感を持たれることに比べれば明らかなように、無視されることのなんと有難いことであろう。白神は、醜さにも拘らず無視してくださり、快適さにも拘らず当たり前のように無視してくださるのである。
 眼鏡や空気が生活者の一部であるのと同様に、家畜も環境として白神生活の一部となり、延いては、眼鏡がかけられることで生活者に密着し生活者の一部になっており、空気が呼吸されることで生活者の体内に入っては出て生活者の一部になっているのと同様に、家畜もまた白神の一部となっているのだ。なんと忝くも勿体ないことであろう。無価値で無視される存在になることで、絶対的に美しく高貴な存在である白神の、畏れ多くも一部となることができるのである。
 家畜の信仰生活は、こんなに醜くて生きていたって意味がないという煩悩に塗れることから始まり、醜くても白神の役に立つことこそが生きる意味なのだという誤った境地を経て、遂に、自己の無価値を認識し生きている意味がないことこそが生きる意味であるという真理を得ることで、全きものとなる。家畜の信仰はこのように深まっていく。そしてこのような信仰状態の道具こそが白神の生活を真に快適にするのであり、個体意識の滅尽に導くために家畜には白神信仰が与えられているのだ。

 信仰の深まりは何を歓びとするかも変えていく。虐げられることから使役されることに変わった歓びは、更に、日々を無視されて過ごすことへと変わる。畏れ多くも白神に何かを要求することも、誠に畏れ多くも白神に何かをされることや何かをさせることを望むこともなくなる。
 しかしながら環境としての信仰の核には、最早否定された道具としての信仰が根強く残っており、その更に内奥には、否定されたはずの個体としての信仰が消し難く残っているのも事実である。だからこそ、家畜はそれを滅尽すべく日々悟り続けねばならないのである。家畜の魂の薄暗く曇った部分には、白神の役に立ちたいという気持ちが燻り、魂の閉ざされた漆黒の暗部には、白神に殺されたいという叫びが熾火のように燃えている。
 白神に認識されない日々を歓びとしていながらも、白神による様々な褒美が家畜の心を張り裂けさせるほど躍らせるのは公知のことである。例えば白神信仰における7つの秘蹟の多くは、白神の排泄物(聖水・聖体・尊血・尊垢・聖唾)との接触によるが、それは家畜の煩悩を強く喚起する。また、道具として役に立った家畜に、特別に白神が褒美を与えることがあるが、それは家畜の自己有用感を抑えがたく刺激し、その褒美が排泄物や黒奴並の靴への接触もしくは自死許可あるいは手ずからの殺傷処分である場合は、秘蹟同様、家畜の魂の暗く深い部分は耐え難く動揺する。白神の恵みや秘蹟は、家畜に魂の階梯の下降を赦すことで、あるいは解脱者の魂を煩悩塗れの地獄に引きずり下ろすことで、その有難さを増すのである。
 家畜は信仰を深め悟り生前解脱する。それはなにより白神生活の利便性のためであり慈畜心を満たすためでもある。だが、家畜に深い憐みを持つ白神の気紛れがその修業全てを無にする。この場合も修業は無になったのではなく初めから無があったのである。白神にとっては無で無価値である信仰上の営みがあっただけである。そのことに気付くことでまた、特に、自死の許可を得たり殺傷処分されたりする瞬間の家畜は、至福を味わうのである。

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2018-04-06

[]主題 22:43 主題を含むブックマーク 主題のブックマークコメント

「誰が左利きなの?」「太郎が左利きだ」の「太郎が」は主題ではないだろう。
「次郎は左利きだね。じゃあ太郎は?」「太郎は左利きだ」の「太郎は」が主題なのも間違いないだろう。
では「誰が左利きなの?」「太郎は左利きだよ、とりあえず」の「太郎は」は主題だろうか?主題ではないとすべきだろう。ガ格相当のハであっても主題でない場合がありうる。対比かどうかはこの際おいておく。
「誰が左利きなの?」「次郎が左利きだ。太郎も左利きだ」の「太郎も」は主題ではないだろう。
では「次郎は左利きだね。じゃあ太郎は?」「太郎も左利きだ」の「太郎も」は主題だろうか?主題と考えるべきだろう。モでも主題の場合とそうでない場合があるのだ。だが、主題であるかどうかの統語的テストが使えない。客観的に、あるモが主題かどうかをテストする方法を見つけなければ。

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2018-03-23 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

ゲット。今日は職場の送別会。
昨年の送別会の時にも

ゲットした。
自分もいつも10割でありたいし、信頼されるよう誠実な馬鹿正直でいたい。仕事では。

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2018-03-21 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

ここ2カ月、本をやけ買いをしてしまった。はあ。

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2018-03-14

[]洗礼、堅信礼、聖体拝受をまとめる 23:04 洗礼、堅信礼、聖体拝受をまとめるを含むブックマーク 洗礼、堅信礼、聖体拝受をまとめるのブックマークコメント

 家畜はほぼ貴族(一部、平民の会社)の経営する工場で生産される。生産後、個体品質の差によって性能向上が行なわれる。家畜にとっては学校に当たる。出荷が学校卒業に当たる。性能が特段優れている個体のみが貴族に出荷される。
 工場製でない家畜、すなわち邪蛮に生息する野生の家畜もいる。それらを捕獲・調教するのは貴族のみである。用途は肉便器か性具に限られる傾向がある。
 これらの家畜には白神崇拝信仰が、遺伝的・後天的に与えられている。その過程で、白神の恩寵を感覚的に齎す、いくつかの通過儀礼がおこなわれる。
 ただし、人間にとっては嘔吐を催す儀式である場合もあり、人間と同様に育成されるのが目的である家畜(食用畜や子宮畜など)の場合は、その儀式は行なわれない。
1)洗礼
 尿洗礼により白神信仰に入る儀式である。工場製のものは初等学校に入る入学式を兼ねて受ける。この場合は物質複製機にかけられた工場所有貴族の尿に全身を浸す浸礼である。
 捕獲された原家畜の場合は、畜籍登録時に所有者である貴族から出たばかりの聖水による灌水礼である。
2)堅信礼
 かつては聖体拝受とまとめられていたが、現在は分けられている。白神に仕え使用されるという恵みを受ける資格を得る。
 工場製の場合は、学校卒業時にその工場製であるという烙印を受ける。出荷印である。この烙印は通常は不可視である。複数の上級学校を卒業した個体であっても、最終学校の卒業時にのみ烙印が押される。
 原家畜の場合、調教が仕上がったのを確認する作業が行なわれ、調教済み家畜による、邪蛮生息の親族(6親等以内の血族と配偶者と3親等以内の姻族)の鏖殺をもってはじめて、飼い主の烙印が押され、使用の恩恵に浴することになる。
3)聖体拝受
 堅信礼との前後は、工場製か原家畜かによって異なる。
 工場製にとっての聖体拝受は、出荷され購入されて所属場所が決まった後に行なわれる。購入主の尊体尊血、すなわち大便と経血(もしくは恥垢)を領聖する。購入先が個人でなく公共機関や企業・団体の場合は、その責任者のものを物質複製機にかけたものになる。
 原家畜の場合は順番は逆であり、領聖ののちに堅信礼を行なう。
4)婚姻
 この用語はかつては舌人形のみに用いられていたが、今日では全ての家畜に行なわれる儀礼を指す。初めて白神に使用される恵みを指す。
 工場製で貴族使用となった個体にとって、もっとも胸が高鳴る儀式である。
5)告解
 全ての家畜は毎日業務報告を行なう。これは義務ではない。家畜には権利も義務もない。家畜は業務報告するものなのである。
 家畜の生は罪と汚辱と醜さに満ちている。全ての家畜は日々のそれを含む逐一を毎日報告し、報告後も生存を赦されるという恵みを授けられ、悔悛し、次の日に臨む。
 業務報告を点検するのも家畜による有魂計算機であり(専用の有魂計算機を聴罪機という。)、その中で人間生活にとって意味のある報告だけが人間に届けられる。
6)終油(聖傅)
 業務報告には自己のパフォーマンスの低下も含まれる。一定以上の低下を自認した場合は、その個体は終末願いを出し、黒奴に運搬されて畜肥になる。畜肥になってすぐ、土の上から聖唾を垂らされる。この恵みの儀式を終油もしくは聖傅と呼ぶ。
 慈畜心が深い貴族が家畜を畜肥にせず屠殺する場合もあるが、その場合は、屠殺行為自体が聖傅である。
7)叙花
 畜肥となった家畜は花を咲かせるが、その花のうち一輪は不凋花として購入主に保存され、生前最も私淑していた白神(ワギモカ・ワギモコ)に捧げられるという恵みを受ける。
 平民は死ぬので、平民がワギモカ・ワギモコの場合は、葬儀の際、地面や床に撒かれ人々が踏みしめる花として使用される。これは、公共機関などに所属する家畜の場合も同様である。
 貴族をワギモカ・ワギモコとした場合、貴族は不死であるので、畜肥が分解され切って効能が切れる直前に咲かせた花を即座に、踏みしめるのに使用する。

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2018-03-10 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

舌の口内炎が非常に痛い。

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2018-03-04 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

パネルディスカッションについて勉強しただけで終わってしまった週末。

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