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1)私は疼痛性障害(慢性疼痛・心因性疼痛・身体表現性障害)です。現在ブログを、同じ病気の人の役にも立つよう改良中です。治療については固有名詞は避けています。治療の詳細について知りたい方は直接メールをください。

私は日記に疼痛のひどさのために弱音を吐くことが頻繁にあります。読まれた方の中には気の毒に思ってくださる方もいらっしゃる可能性があります。しかし、そういう方には誠に申し訳ありませんが、お気遣いのコメントなどを残されることは、できれば、ないようにお願いします。私が痛みを感じることも弱音を吐くことも自然の摂理ですし、それを見て気の毒に思うのも自然な人の情でしょうが、そのコメントに対してまた申し訳なく思ってしまう私の心もまた、勝手ですが、自然なものだと思います。お気持ちは、できればスター・リツイートなどで表わしていただけると助かります。無論、痛い目をしてザマを見ろ的なスター・リツイートも受け付けております。

2)文法毒電波に注意。

3)Dear people who are interested in words such as: "PHALLIC GIRL", futanari, dick girl, white goddess, white worship, white supremacy, blonde worship, blonde superiority, Nordicism, racial fetishism or interracial masochism, Please watch the following illustrations:PhallicGirls. See also "What are the Phallic Girls?" They were inspired by "Yapoo, The human cattle(家畜人ヤプー)" written by NUMA, Shozo(沼正三).

(4?)See also Bishonen worship

2007-06-14 アグリーム

 おとといのこと。作業療法実質初日。散歩をしてパズルをする予定だった。
 神社*1か空港まで散歩はどうかと言う。それはなんぼ何でも無理でしょうと答える。では、旧町営*2の「アグリーム」まで行こうということになった。アグリームとはなんぞや。アグリカルチャーとドリームをくっつけたグリーンツーリズムの施設であるらしい。血痰もののネーミングである*3
 道々会話をした。作業療法士の先生は方言丸出しなので出身地をすぐに当てられた。こうやって利用者の散歩にも付き合わねばならぬとは、作業療法士とは体力のいる仕事である。本日31度。事実私が汗をかき出したのに先生は汗一つかかない。その上、利用者が陶芸や料理やスポーツなどをする際にも付き合わねばならないのであるから、多様な技能を必要とする生半な仕事ではない。心より敬意を表する。先生は我が県に来た時にやはりうどんやの多さとセルフうどんの存在とうどんとおでんがセットになっていることに驚いたそうである。途中牛糞の臭いがした。久しく嗅いでいない臭いである。ホルスタインが道端に鎮座している。先生は田舎の出で里ではよく見たそうである。きつい上り坂に入る。先生は相変わらず汗一つかかない。聞くと、その田舎というのは半端な田舎ではなく、山の上の一軒家であったらしい。小学校時代から山道を登り降りして通学していたようだ。高校時代になると自転車で通学したので、先に述べた神社や空港まではかなりの坂があるのだが他の利用者と自転車で登った時にも平気であったらしい。健康診断ではスポーツ心臓とかいうのだったそうだ。
 アグリームに着く。集団で利用者を連れてくることもあるそうだ。入院患者などは、三食昼寝つきで体が鈍っている上に根気とかやる気とかなにくそという根性が欠落してしまっている為に、途中で泣きがはいるそうだが、それでも連れてくるそうだ。鬼コーチか。認知症の患者などは入院してばかりだと四季のうつろいも解らず刺激もワンパターンになるので、進行が速くなるそうである。そうやって外にしばしば連れ出さないといけないものらしい。
 アグリームは広大で、空港までの勾配を利用した果樹園があり、またその向いの勾配には菜園があり、山羊まで飼っている。私の田舎でも昔は山羊をよく見かけたものだ。家庭で乳を絞っていたのだろう。ウサギとかを飼っていれば、可愛さ目当てに客が来るかもしれないがセンスがない。このような地方都市でのグリーンツーリズムというのは限界があると思う。都会の近郊都市でなら採算が成立するかもしれない。しかし、地方都市では、すぐに郊外に至り、田舎が幾らでもあるのだ。地方都市の人は、親戚がすぐ田舎にいたりもするし、自身も農家だったりする。行政がサービスとして行う余地はほとんどないし、商売にもならないだろう。アグリームは閑散どころか人っ子一人いなかった。まして広大な土地である。管理は困難に思われた。施設の中央には建物があり、苗木やハーブの乾燥したものを売っている。しかしこれもすぐ近所にあるJAに比べれば貧相なものであり魅力はなさそうである。喫茶店がありアイスやコーヒーなどを提供している。しかしこれもグリーンツーリズムの利用者がいてこそ合間に楽しむものであり、こんな田舎にまして空港ラウンジの側にあるところにわざわざ来る客はいまい。我々はダイエット目的なので何も買わず、ぶらっと一周しただけであった。
 先生が携帯電話の時計を見ると(私は鬱になってから腕時計をする習慣をなくしている。まして携帯電話など持ち歩かない。)既に30分以上経過している。先生の嘘つき!全然「ちょっと歩きましょうか」じゃないじゃん!後で分かったことだが、地図で見ると、アグリームは件の神社よりも病院から遠いところにある。もう詐欺師なんだから。
 というわけで、病院に帰り(行きに比べると、帰りは道が分かっている分短く感じたが)解散となった。パズルは来週である。それでも来週も先生は「ちょっと歩く」つもりらしい。果たして私の集中力トレーニングへの道のりはいかが相成ることやら。まあ、ダイエット(効果が期待できることが)できたということで今日はよしとするか。

他者 他者を含むブックマーク 他者のブックマークコメント

 私が使っている「他者」という語は、http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070427/1177603065http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070529/1180428267#seemoreでの用語とは異なり、共生可能な飼いならせるものとして使用されている。決して、「私にとって不快で不都合な他者」「不快な存在」「「私が認めたくないような自分自身の隠された何ものかを、否応なく暴いてくる」ような存在」*4ではない。
 仮に、私にとって不都合であっても、コミュニケーションしていくことで私とある関係を結ぶ者である。それは私という系に侵入した者である。私と葛藤しゲームをし仲良くなりまた葛藤し理解不能になりなどするが、やがては動的非平衡系のアトラクターに落ち着く者として描かれている。私と新たな系を作る者として描かれている。
 女は他者である。まぎれもなく私にとって理解不能で、けれどコミュニケーション可能な存在である。確かに、http://mazoero.hp.infoseek.co.jp/sexp.htmlの述べるように、女は恐怖の対象である。「母」として男を飼いならし「女」として世界を男を支配し「セックス」で男を吸収する存在である。喰らうものである。けれど、不可解故に、常に男がコミュニケーションをしようと試み、その系の形成の試みを通じて人類史を構成してきた相手である。
 私は、kagamiさんのように、幼女を眺めることを正当化できるとは思えない。それは、第一に、幼女の中に眠り既に発露している女を無視している、無視しようとしている。女は産まれた時より女なのである。既に子宮を持ち卵を持つのである。そして幼稚園児でさえその振る舞いはオジョウサンやオネエサンやオバサンやオバアサンと何ら変わるところのないものである。第二に、その態度は、幼女の中の人格を無視しエージェントであることを無視し対象として外部に置き、コミュニケーションを閉ざすものである。観念の中の女に逃げることは自閉することに他ならず、真善美を求める態度とは遠い。真善美とは留まることの中にあるのではなく、流転するものの中にあるパターンにあるはずだからである。「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず」のように。

左に受け流す女 左に受け流す女を含むブックマーク 左に受け流す女のブックマークコメント

 私の妹は思い出というものを持っていない。私が粘着的に執着するのとは対照的である。過去の思い出の話をしても、「そんなことあったっけ」で終わってしまう。自身がデブであったという嫌な過去を持つ妹にとっては、過去は覚えていたくもないものなのかもしれない。しかし、そうではない。婿との、愛に満ちたはずの恋人期夫婦期の生活ですら忘れているのである。惚けているのではない。知識は持っている。思い出というものエピソードというものを定着させていないのである。
 しかしこのことは妹の開放性とも関連しているのかもしれない。妹夫婦には友人が多いし妹はすぐに友人を作るのが得意である。過去にこだわらず、自己にこだわらず、それ故に他者に開放的な系を創出しえているのかもしれない。

消費は快楽なのよ 消費は快楽なのよを含むブックマーク 消費は快楽なのよのブックマークコメント

 我々は25年以上も前の80年代にも同じことを聞いていないだろうか。「ガイアの夜明け」の出演者のテレビショッピングのバイヤーの女性はカメラにこう語った。
 ポストモダンとははてなのキーワードによれば、「近代(=モダン)という時代がある程度、鉄鋼や造船がリードした産業資本主義の発展と平行して発展した点に着目するならば、ある程度は、その後、情報産業がリードするようになった時代を、ポストモダンと呼ぶことによって、ある独特の見晴らしを得ることも(場合によっては)可能である。」ということになっている。重厚長大産業の後の情報化や、消費社会の高度化をポストモダンの指標としている。とすれば、今は70年代より始まったポストモダンのまっただ中な訳で、25年前の言葉が消費社会の言葉として今も響くのはいささかもおかしくない。
 しかし、別の定義では、ポストモダンは、はてなのキーワードによれば、「とくに「近代」の主意主義的個人主義、工学的・道具的理性、普遍主義的傾向(主体、合理性、形而上学)を批判する思想潮流」である。けれどこれは、モダンを捨てたことになるのだろうか。モダンの合理主義の拡大を捨て、モダンが実行可能であるのを信じなくなっただけであり、モダンの根本的な批判にはなっていないのではないだろうか。
 近代とは、http://d.hatena.ne.jp/killhiguchi/20050517

 私にとって魂と機械は対である。世界を主体たる私が認識した時に(ナーガルジュナの)プラパンチャ(戯論)は始まる。事象は二つに分けられ、主述から成る命題が成立する。命題の成立は必然的に因果論を必要とする。そうでなければ世界は無関係な命題の混沌に晒されるからである。命題を並べ先後を決める必要がある。因果関係とはビリヤードボールの玉の連続した当たりのようなものである。
 その因果関係が成立するには、1)世界がその因果関係を許容しているか、2)命題の中核たる対象に因果関係を成立させる能力属性があるかである。2)はあってはならない。なぜならば主体たる私も客体たる命題と同じ物質でできており、その内部では因果関係が起きている以上、物質の能力の差に主客の差を帰することはできないからである。よって1)となる。主客の差は世界の許し方の違いとして考えることができる。ここに物質世界の因果を観測する主体と、二項的に観測され因果関係に従う機械としての自然/機械と、それらを分けて存在を許す世界が鼎立する。主体は自然に対し認識論で臨み、世界に対しては神学/宗教で臨む。
 主体同士もまた相互作用するが、それは単純な因果関係であってはならない。心あるもの同士の相互作用は因果関係ではなく社会的関係とされ、ここに主体の属する場である社会が存在することになる。そしてそこに主体は心理学/制度を持って臨むことになる。社会は当然物理物質からもできている。そのためそこには機械が存在し、機械は社会に存在論/技術を持って臨む。そして最後に世界は、対象と主体の相互作用によって生じた、存在論と心理学ですくいきれない部分を倫理学で掬おうとする。
 このようにして魂/機械/神/社会は存在し、認識論/宗教/制度/技術/倫理学によって関係する。
 そして魂は、自然の災いに出会い、神に祈り供物を捧げ、社会の複雑さに苦しんで統制するために制度と技術とイデオロギーを投入する。
 すべてはプラパンチャから始まった。自然を作り、自然と自分をわけるために神を作り、自然ではない自分と他人を分けるために社会を作った。
 (一部変更)

http://d.hatena.ne.jp/killhiguchi/20050909

近代世界は科学主義/合理主義/国民国家/資本主義の四つの輪からなっている。これは2005/05/17で述べたプラパンチャの発明した自然/心/社会/神にそれぞれ対応している。この四つは互いが互いをドライヴする関係にある。
 (一部変更)

のように、主体と客体と神と社会とからなる人間の認識装置に、合理主義/科学主義/資本主義/国民国家が当て嵌まったものと考えることが可能である。ならば、ポストモダンは合理主義のみを批判しただけであり、近代という装置そのもの、まして、人間の認識装置そのものは批判していないことになる。合理主義を欠如させ暴露し否定し脱構築しようとも、近代自体は批判されていない。
 もっと悪いことに、私の考えを認めればだが、今はまさにモダンのまっただ中にいることになる。情報化、消費社会の高度化は科学主義と資本主義の高度化以外の何者でもなく合理主義も国民国家も温存されている。ポストモダンが騒がれた70-80年代と同じ言葉をバイヤーの口から聞くのも当然、いや、もっと聞かれてよいことになる。資本主義は高度化し欲望は欲望を生んでいる。この社会で生きることは欲望を生きることであり、その社会でその成員としてまっとうに「中心」で暮らすのは快楽のはずである。「消費は快楽」なのだ。
 「周縁」に眼をやることからこそ近代の批判は始まる。快楽を行う者を現場に立たせることからこそ近代の批判は始まる。科学がうまれる場所に行き、心の仕組みを明かし、資本と国家の暴力を眼にすることから近代の批判は始まる。

*1:万葉集天治本を所有する。

*2:今は併合されて市営。

*3:というフレーズをどこかで見たことがあるので使っているのだが、どこで見たか思い出せない。御存知の方は御一報を。

*4:「「コメント欄を開放し、削除はせず、どんなコメントにもできるだけ丁寧な応答を返そう」という理想を、それは実現困難に感じられる理想に過ぎないとしても、やはり手放してはならないのである。」というのはまさに私が今までとってきた態度である。そして私は、私の為に20070608でそれを手放した。それは他者理解の変更というより検討し直した結果である。

mktmkmktmk 2007/06/14 17:22 おじゃまします。こんにちは。アグリーム、私は行った事がないのですが、ひぐちさんの描写でなんとなくイメージが作られました。ホルスタインが道ばたで…のどかでいいですね。素敵だな。
ヤギ乳はデパートで売られているけれど、ヤギは久しく見ておりません。

killhiguchikillhiguchi 2007/06/14 18:11 こちらでは初めまして。コメントありがとうございます。
 ホルスタインは近所の農家の人の物でアグリームの物ではありませんが、何故か糞臭い一日でした。
 山羊乳を売っているところがあるんですか!!しかもJAとかじゃなくデパート!!さすが北海道。大きいなあ(何がだ)。山羊乳のチーズは食ったことがあっても、山羊乳は飲んだことがありません。