1)私は疼痛性障害(慢性疼痛・心因性疼痛・身体表現性障害)です。現在ブログを、同じ病気の人の役にも立つよう改良中です。治療については固有名詞は避けています。治療の詳細について知りたい方は直接メールをください。
私は日記に疼痛のひどさのために弱音を吐くことが頻繁にあります。読まれた方の中には気の毒に思ってくださる方もいらっしゃる可能性があります。しかし、そういう方には誠に申し訳ありませんが、お気遣いのコメントなどを残されることは、できれば、ないようにお願いします。私が痛みを感じることも弱音を吐くことも自然の摂理ですし、それを見て気の毒に思うのも自然な人の情でしょうが、そのコメントに対してまた申し訳なく思ってしまう私の心もまた、勝手ですが、自然なものだと思います。お気持ちは、できればスター・リツイートなどで表わしていただけると助かります。無論、痛い目をしてザマを見ろ的なスター・リツイートも受け付けております。
2)文法毒電波に注意。
3)Dear people who are interested in words such as: "PHALLIC GIRL", futanari, dick girl, white goddess, white worship, white supremacy, blonde worship, blonde superiority, Nordicism, racial fetishism or interracial masochism, Please watch the following illustrations:PhallicGirls. See also "What are the Phallic Girls?" They were inspired by "Yapoo, The human cattle(家畜人ヤプー)" written by NUMA, Shozo(沼正三).
(4?)See also Bishonen worship)
2009-10-25 私憤(20091106完成)

(長い間書きかけで放置していたが、今日完成させる。ただし、ちゃんと書く気はもうない。id:dlitさんがいろいろ書いてくださって、そこで議論が盛り上がっているため、私ごときが書くことはなくなったためである。それでも、いい加減にでも書くのは何故か。読者のために書くのなら、丁寧に書かねばならない。しかし私は今読者のことは考えていない。今の私の気持ちの記録として、将来はてなダイアリーブックでこの記事を読むであろう私のためである。覚書というやつだ。)
http://type99.net/2009/10/curious-japanese.html
http://d.hatena.ne.jp/kanimaster/20091022/1256217225
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20091023
http://anond.hatelabo.jp/20091010002215
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091013/1255409629
私は、これらの記事とそこに加えられたブックマークコメントを見てある怒りに駆られた。その怒りの正体は何だろう。それをちょっと考えてみる。私憤の心理の分析をしてみる。
第一に、「言葉咎め」をする人々が相変わらずいて、その人々が、所謂知識人であるということだ。これは、文献に残る限り、中古より変わっていない。それは、知識層によるそうでない人々への反感に基づいている。Sollenはどれだけ唱えてみたところでSeinを変えられるわけではない。なのに、資源を独占する地位にある人々の「正しい」とする規範で、そうでない人々の現実を、「間違っている」と断罪する行為が行われ続けている。
第二に、言葉の「正しさ」について、いつまでも議論が深まっていないことだ。この手の話になると、咎める側も反論する側も、二つの論拠を挙げることが決まっている。一つは文法的に正しいかどうか。もう一つは歴史的に長く使われている言葉かどうか。だが、これらの事実は、なんらその言葉の「正しさ」や「反感」を持っていいかどうかの論拠にはなりえない。SeinはSollenの根拠にはなりえない。「正しさ」はどこまでいっても事実からは出てこない。では、その「正しさ」とはなんなのか、これを本来は考えなければならないのだが、多くの議論は「好悪」を基準とする以外、なにも議論を深めていない。「正しい」言葉というのは、文法的に正しい言葉でも語用論的に適切な言葉でもない。「正しさ」の依拠する基盤に、批判する側はなんら自覚的ではない。
第三は、仮に文法の正しさや歴史的使用の議論をするときでも、必ず出てくるのは知識人であって言語の専門家ではないということだ。物理学や経済学やニセ科学批判の問題で、素人が大きな顔をすることがあるだろうか。学問的議論の蓄積が、言葉の問題を語るときに、参照されることは極めて少ない。多くの人が、特に知識人が、自分の母語のことなのだから自分にはよく分かっていて語る権利があると言わんばかりに顔を出す。無論、素人が専門家の話にしゃしゃり出てきてはいけないということはない。議論は開かれているべきだ。しかし、専門家が参照されないことには問題がある。特に、「正しさ」「好悪」という、社会的な問題である以上、経済政策の決定をするときに経済学者の意見が必要であるように、言語規範の決定をするときに言語学者の意見は参照されるべきはずである。無論、科学者である言語学者は「正しさ」を決めることはできない。記述言語学と規範言語学は別物である。だからといって、事実と無関係に規範は定められようはずがない。言語学者の意見を聞かずに、一人合点で「正しさ」の議論をすべきではない。ブックマークコメントを見ていて、極めて腹立たしかったのはこの点である。ブックマークしている人々の多くは、「ことば」「日本語」などのタグを使っている。つまり、これらの人々は、日本語にきわめて興味があるのだ。なのに、そのコメントを見てみると、日本語学の成果を参照したものは、ほとんど見受けられない。「持論」か、偶々読んだ評論家の書いた「日本語論」の影響を受けたものばかりである。何故に、こと言語に関して、人々は、欲求を持ちながらも専門家を軽視するのか。
確かに、言語学者は、自然主義の誤謬を恐れて、「正しさ」の議論には入ろうとしない、というのはあるのかもしれない。しかし、市民が言語についての知見を欲求しているときには、資源を独占してきた専門家として、情報を提供する義務が、この市民社会ではあるのではないかと思う。人々は日本語についての知識を欲求している。このことは、一連の三上章受容問題http://d.hatena.ne.jp/killhiguchi/20070626#p3、http://d.hatena.ne.jp/killhiguchi/20070803#p2、http://d.hatena.ne.jp/killhiguchi/20080308#p2においても書いた。人々は、日本語についての知識をほとんど与えられないまま社会に出ていく。そして、外国人に公私にわたって日本語を教えるとき、外国語・文化を学んで日本語・文化との違いに気づくとき、異なる方言集団や上位や下位の社会的に異なる集団の日本語に出会ったときなどのように、自分の日本語を見つめ返す機会が訪れたときに、日本語について何も知らない自分に気づく。そしてなんとか日本語について考えようと足掻いた結果、不幸にも、間違った情報やトンデモな日本語論に出会い、それに縋りつくこともある。それを防ぎ、日本語についての市民の欲求を満たすためにも、私は、日本語学乃至言語学を、大学の一般教養で必修とすることはできないかと思っている。
国民国家において、言語の問題は重要である。言語は、アイデンティティや国民教育において常に重要な地位を占めているるはずである。だが、日本には、公用語についての法律もなければ、どのような公的な場所で使用言語をどのようにするのかについて、裁判所でを除いて、決まりもない。暗黙のうちに、公的な場所で日本語のみが使われるのが当たり前のようになっている。少数者は無視され続けている。これからの、外国人を受け入れ移民が増えるであろう社会、英語が世界に流通しその中で日本語も生きていかなければならない社会の中で、対内的にも対外的にも、日本には言語についての国家のヴィジョンがない。これは極めておかしなことである。だからhttp://d.hatena.ne.jp/michikaifu/20091031/1257023368のような、トンデモな意見が出てくるのだろうと思う。
今、対内的にも対外的にも日本には二つのものが求められていると思う。一つは、言語政策の策定である。公用語はどうするのか、アイヌ語の地位はどうするのか、琉球語はどうするのか、日本手話はどうするのか、初等教育に使う言語はどうするのか、在日の子孫や移民の子孫に初等で教えるのは日本語だけでよいのか、英語を初等教育に加えることが本当にいいのか、日本語を話せない人々を公的な場でどう扱うのか、これらを考えなければならない。人々のアイデンティティに関わる問題であり、一つの日本という幻想が崩れつつも一つの社会を作っていかなければならない、内部での分裂と外部からの圧力の鬩ぎ合いの場、議論の場が求められている。これは従来の科学的記述言語学の問題ではない。戦前の国語学は、民俗学などとも同様に、イデオロギー・支配・抑圧の道具にされた。国語学が科学であることを標榜するならば、これらのことにもう手を貸すべきではないだろう。科学が抑圧の道具になることは、これ以上あってはならない。新しい学問が求められているはずである。それは社会学や教育学と手を携えた、言語政策の学問である。
第二に求められているのは、教科書的な文法の設定である。日本では、教科書的な文法の設定のないままで、科学としての記述文法の導入が始まってしまったため、教科書的な日本語の文法書というのは、未だに書かれずにいる。学校文法は、日本語全体の文法書を書こうとしていた時代の痕跡を留める遺物と化し、学んだ者になんら利益を齎さず、ルサンチマンの温床になっていることは周知のとおりである。今、記述研究は言語現象の細部に分け入り、新しい言語学の概念も日々輸入され、日本語学の研究は盛んになっているが、日本語全体を見渡した文法書というのは未だに書かれていない。それに対して、ラテン語は死語となったのちも共通語としての地位があったために文法が研究され文法書ができたし、アラビア語のフスハーも北京官話も多くの方言を束ねる共通語として研究され文法書ができているし、もっと最近世界の共通語の地位を占めた英語も教科書的文法書を備えている。そして、これらの文法書は、学校教育に用いられ、また外国語人にそれらを教えるときの拠り所になっている。日本語では、日本語教育者が試行錯誤で非日本語人に日本語を教えている状況で、教育者にも日本語の知識は十分与えられておらず、纏まった十分な教科書も存在しない。日本語人のルサンチマンを抑え、非日本語人に日本語を広めるためにも、国家的事業として、教科書的日本語文法の設定は必要である。
このようにしてこそ、「正しい」日本語の議論は生産的になり始めるのではないだろうか。根拠を与えられたSollenと、科学としての言語学が対象とするSeinとは、関連を持ちながらも区別されうるようになる。教科書に書かれている日本語こそが「正しい」日本語であるが、現実には違った日本語が話されていることもあるだろう。それは、教科書が定められた時期以降の言語変化の結果かもしれず、若者言葉などの社会内集団の言葉かもしれず、外国語人や子供には勧められない俗語なのかもしれない。それらは記述言語学の対象にはなりうるしその所以は考察できるが、それらが「正しい」日本語ではないことは、教科書が保証してくれる。無論、この「正しさ」からの逸脱が蓄積していき、日本語が変化していけば、教科書文法も作り直さなければならない。我々が教わっている初等教育の英語の教科書でさえも、時代により異なっているはずである。
まあ、こんなことはどうでもいいことである。要は、日本語の「正しさ」に興味のある向きはhttp://d.hatena.ne.jp/dlit/20091102/1257169916、http://d.hatena.ne.jp/dlit/20091031/1256984496を、コメント欄を含めて見てほしいということである。
余談だが、母語の研究でなく、外国語の研究をするとき、SollenとSeinの関係はどう扱われるべきかが気になる。例えば、日本語では「僕はウナギだ」と言えるが、英語では「I am a humburger」とは言えない、とはよく聞くことである。しかし、英語話者によく聞いてみると、場面が与えられれば言えないこともないが非常にsloppyな言い方だと答えられることがある。ならば、「I am a humburger」は、果たして、文法的ではない表現なのだろうか、それとも文法的だが規範的ではない表現なのだろうか。余り発話されないのは、文法的知識の周辺にあるからだろうか、規範が文法的知識に優越しているのだろうか。場面が与えられれば言えないことはないというのは、語用論的支えがあれば文法的であるということなのだろうか、語用論が文法的知識に干渉しているのだろうか。規範と文法論と語用論が交錯して、どのように考えるべきなのか、三者は分けられる問題なのかが気になる。同じようなことが、英語のmiddle constructionの研究でも当てはまるのではないかと思うのだがどうだろう。英語のmiddle constructionにどのような動詞が使えるかは、二重目的語構文以上に、話者によって判断が異なるらしい。言えないこともないがsloppyだとか、広告としてなら言えるのではないかという文脈的支えを必要とするとか、言われている。ここら辺の研究が、今どうなっているのか、識者に教えを請いたいところである。


























