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 Dear the people who are interested in the word "PHALLIC GIRL".
 If so, please watch 
 URL http://d.hatena.ne.jp/killhiguchi/20080810,
 and you will find many illustrations of PHALLIC GIRLs.

 このブログには
時々、毒電波に近い文法の話が書かれることがあります。
 読者諸氏は決して毒に染まらないで下さい。


2009-11-07 世の中怪しい言語学を唱えた者勝ちらしい このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 まだ、前のエントリーが途中だが。なんか頭の固い司書の古い図書館学を懐かしんでいるのが、単なる私情で今のネットが嫌いだと書いているだけで、全然性的な話に進んでいかないなあ。

 日本語について語られる状況についての私憤を先日書いたところ、何故かブックマークが(私にしては)一杯ついていてビックリしている。こんなブログなんか読まなくていいのに。dlitさんのところの学識と良識に満ちたエントリーをこそ是非にも読んでほしいものだ。

 その、珍しいブックマーク関連で、こんな記事http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/6f7cc3b6a4b704e7b9573f8812f4d5e1を見つけた。多くのコメントブックマークが付いている。私はルサンチマンを抱くべきだろう。そして、これを機に、電波なことを書いて、人々にこのブログの信用性を落とさせるべきではないだろうか。

 私は池田信夫という人がどういう経済学者なのかよく知らない。何故専門外のことについて、こうもいい加減なことを自信を持って書くのか、よく分からない。生成文法についても認知言語学についても日本語学についても、おかしなことを言っている。この人の人となりも動機も専門分野もよく分からない。

 無論、経済学者経済学以外のことについて書いてはいけないという道理はない。他人の権利を侵害しない限りで、誰にだって何についても発言する権利はあるはずである。間違ったことを書くことがあっても、それも仕方がない。誰でも色んな事に興味がありつつ決して万能ではないからである。ただし、発言の自由は批判する側にもあり、どのような発言であろうと、合理的に批判されることは許されねばならない。再反論も無論自由に行われねばならないが、結果として間違ったことを言った側は、普通逃げるなり黙るなり反省するなりするのだが、影響力の大きい人物が間違ったのならば、公に謝ることが望ましいだろう。望ましいだけだが。ここら辺は、議論の政治学倫理学に属することであり、必ずしも現実の論者たちは合理的に動くわけではないから、まあ、私には関心がないことである。個人的には、私は電波だから、自分の言うことには何時も自信はないし、批判されたら、ない頭を絞ってできるだけ合理的に反論しようとし、自分に理がないと納得したら、謝る気ではいる。ただ、気ではいるだけで、根が小心で卑怯なので、現実がそのようになるという保証はないし、今までもこのようであったとは言い切れない。

 で、問題なのは、言語の問題について、このように怪しい説が流布されたときに、それが批判されることは滅多にない、ということである。件の記事のコメント欄にもブックマークコメントにも、目立った批判はない。どうも、言語においては、非専門家が怪しい説を流布する自由を行使しているのに、専門家は批判する自由を行使していないように見える。言語においては、一般に流布する怪しい説に対して、合理的批判が加えられることは、極めて少ない。そして、批判が挙がったとしても、その批判が言語学者によってなされていることはまずない。このようにして、言語については、何時までも、怪しい説が掣肘されぬまま罷り通り、怪しい説は、間歇泉のように、学史を無視して世間に繰り返し現れる、ということが起こっているように思う。

 言語について怪しい説が罷り通ったままであるのは、声高に批判しない言語学者が悪いのだろうか。確かに、普通専門家自分研究に手一杯であり、一つの専門を極めるのでさえ難しい中で、世間の訳のわからぬことに巻き込まれている余裕はないだろう。けれど、不合理な説が世間に広まって、まともな言語学的知識が顧みられない時でも、言語学者は世間のことだからと無視していればいいのだろうか。進化論研究者は、創造論などが幅を利かす世間に対して、反論を行い続けているが、そのようなことは言語学者はしなくてもよいのだろうか。なるほど、進化論研究者は、創造論などを批判しなければ、就職先がなくなってしまうので、自分の為に、批判活動をしているのかもしれない。進化論創造論は供に天を戴けない敵同士である。対して、言語学者は、どんなに怪しい説が挙がっても、それが言語学自体の不必要性を説くものでない限り、自分の職には影響がないから、批判しようとしないのかもしれない。大概、流布する怪しい説は、言語学自体を脅かすものではない。一般の人々は、自分達の言語に対する欲求を満たすものとして、なんとなく、言語学を認めており、怪しい説であろうと妥当な説であろうと、言語学(らしきもの)が、自分達の欲求を満たしてくれればそれでいいのである。だから、まず、人々から言語学自体を批判する怪しい説は出てこようもない。したがって、言語学者は積極的に打って出る必然性を感じないのかもしれない。

 では、怪しい説に対して批判が上がること自体少なく、人々は自分の欲求が満たされればよいという受動的姿勢なのだから、専門家でなく、怪しい説を批判しない一般の人々が悪いのだろうか。一般の人達にしてみれば、言語に関心はあるものの、怪しい説が罷り通ろうが合理的な説での批判が起ころうが、損にも得にもならないというのが、実情ではないだろうか。人々は、自分言語への欲求を埋めてくれる説が提供されればそれで満足なのであり、それが学問的に怪しかろうが正しかろうが、知ったことではないだろう。対して、医学教育学などの、一般の人々の生活に関わる学問であるならば、怪しい説が流布されても、確かに大方の人々は怪しかろうが正しかろうが受動的に受容するだろうが、一部には、怪しい説を検証しようとする人々が必ず出てくるはずである。その「一部」とは、一般の市民団体だったり、ジャーナリストだったり、評論家だったりするのだろうが、怪しい説の批判までに時間が空くとしても、自分達に影響のあることならば、いずれは人々から検証の声は挙がるはずである。何故なら、医学教育学の怪しい説は、人々に不利益を齎すことが、時間がかかるにしても、いずれは、認識され是正されることが、誰か被害者(になる可能性のある人々)によって求められるからである。言語学では、怪しい説が挙がっても、被害者が出ることは極めて稀である。実害が出るような怪しい説、実害を齎す政策の根拠となる怪しい説、例えば、日本語は劣っているから使用を止めて英語日本公用語にしよう、だとかならば、人々は批判するだろうし、言語学者もそれに手を貸すだろう。実際、英語公用語化や英語早期教育の問題については議論が起きている。だが、人々が関心を持つ日々の言語について、この類のことは滅多にない。人々は、生活に関係のないことでまで、合理的に思考し市民社会の一員として責任を負わなければならないのだろうか。

 ならば、言語学が、一般社会にとって損にも得にもならない学問であり、人々にとって言語に対する欲求を満たすだけの学問であるならば、怪しい説が世間に罷り通るのも、それを批判する意見が、専門家一般人とを問わず、滅多に挙がらないのも、仕方がないのだろうか。怪しい説が広まっていると眉を顰めるのは、一部の、暇に任せて毒にも薬にもならない言語学に関心を寄せている人たちにおいてであり、しかも、怪しい説は自分達を脅かさないために、眉を顰めるだけに終わってしまうのも、仕方がないのだろうか。怪しい説を信じている人々を批判するのは、単に、非合理的なものは許せないという啓蒙主義に属するものにすぎず、人々に、生活の役にも立たないことについてまでも合理的に思考せよと言うのは、学者達の唯の僭越な行為なのだろうか。つまり、実害のない怪しい説が罷り通っていること自体は、なんら「悪い」ことでさえないということなのだろうか。

追記:

 どうもこのエントリーブックマークがついているようで、困惑しています。なかなか思い通りにはいかないものです。思い通りにいかない序でに、ブックマークコメントに、心外なものを見つけたので、反論を書いておきます。このように、ブックマークコメントは、それに対して反論したいときに、簡単にできないので、私は嫌いなのです。ブックマークコメントは、無責任な発言や陰口の温床になる気がします。このブログでは、できれば、ご意見コメント欄にお願いします。必ずお答えします。

id:torin 揉め事 これだけ「信夫の誤りを批判すべき」という内容を重量級の長文で書いてあるのに肝心の「信夫の何が間違ってるのか」は一語たりとも書いてない。ある意味凄い/まず自分啓蒙すべきじゃね? 2009/11/08

 池田信夫個人の誤りを批判することは、明らかにこの記事の眼目ではありません。この記事に書いたことは、(もともと随想ですから要約すること自体馬鹿馬鹿しいのですが)要約すれば「言語学において怪しい説が世間に流布しているときに言語学者はそれを正さない傾向があるがそれは妥当か」とでもいうものです。したがって、池田の間違いの個々を指摘する気は全くありません。また、文章中でも述べたとおり、私は啓蒙をよいことだと必ずしも思っていません。したがって、自分から誰かを啓蒙する気はありません。

のこぎりザメ。のこぎりザメ。 2009/11/08 13:41  「善いか悪いか」について客観的に捉えようとすること自体が徒労じゃないかな。だからそれについて、他人に意見を求めるというのもあまり意味が無いように思うよ。「多数派に属していたい」とかいうなら別だけど。
 まあ「暇つぶし」という意味では有意味なテーマだと思うよ。
 というわけで暇つぶしに考えた意見を表明させていただけば、「僕は他人の行為に責任を負うつもりはこれっぽっちもないので、どこで誰が適当なことい言ってようがどうでも善い」。
 世の不合理にいちいち腹立てて「自分がなんとかしたい」なんて思うのは傲慢だと思うよ。
 もっと他に自分にできるやり方に集中して社会に貢献するほうが早いんじゃないかな。

torintorin 2009/11/08 15:38 揉め事視点から言うと、この文、言論学系の人を煽って揉め事に火を付けたいだけの文に読めちゃうんですよね。

「あいつは間違ってる!間違ってることを正さないおまえらプロはそれでいいのか!」って、要は自分の気に入らないネタを他人に潰してもらいたい、しかも(問題点を指摘しない事で)責任は全く取らない、というプロパガンダ技になっちゃうんですよ。
言論学系の人としては「自分の正しさ」を人質に取られて敵地特攻せよと言われてるようなもんで、あまりいい気がしないんじゃないかなと。

killhiguchikillhiguchi 2009/11/08 19:49  コメントありがとうございます。
>のこぎりザメさん
 申し訳ありませんが、まず、「「善いか悪いか」について客観的に捉えようとすること」というのが、「何を」という項を略されているために、私には意味をとりかねます。したがって、それ以下の論旨も、何を巡って語られているのか、正直、私には分かりません。
 「世の不合理にいちいち腹立てて「自分がなんとかしたい」なんて思うのは傲慢だと思うよ。」はい、その通りだと思います。私がここで考えようとしているのは、「ニセ科学批判を科学者はよくするが、怪しい言語学批判を言語学者は滅多に行わない。それは何故か。それは妥当なことか」というものです。「世の不合理」に科学者は腹を立てて意見を表明するのに、言語学者はそうしない、それはいいのだろうか、ということを自問しているのです。

>trinさん
 「揉め事視点」というのがよく分かりません。ご説明いただければ幸いです。
 「要は自分の気に入らないネタを他人に潰してもらいたい、しかも(問題点を指摘しない事で)責任は全く取らない」。どうも、池田信夫という有名人らしき人の記事を引用したために、誤解があるのかもしれません。
 私は池田本人の間違いを指摘したいとは思いません。第一に、池田の記事の間違いは、それぞれの学問を専攻する人々にとって当たり前のことで今更説明する必要を感じないということがあります。それに、私は言語学を正しく広めようなどの使命感を持っているわけでもありませんし、このブログは電波な場所です。私自身や周辺の人々に分かり切っていることについてうだうだ言おうとは思いません。
 第二に、私がここで考えようとしているのは、何度も繰り返しになりますが、「怪しい言語学が流布する時に言語学者が批判しないことは妥当なのか」ということであって、「あいつは間違ってる!間違ってることを正さないおまえらプロはそれでいいのか!」ということではありません。言語学者をしそう(今何故か変換できないようです。申し訳ありません)しようとしているのではありません。

 うーん、どうも、矢鱈ブックマークがついて不可解だったのですが、池田信夫と言う人がかなりの有名人で、私がそれに食ってかかったように見られているのが、色々な誤解を生んでいるようです。私の書いていることは、下手な文章ですが、分かりにくいことはないと思いますので、できればコメントを下さる皆様には、文意を理解してからのコメントをお願いします。沢山の相手をするのに慣れていないものですから、そこはご容赦を。

のこぎりザメ。のこぎりザメ。 2009/11/08 20:44  レスありがとうございます。
 お返事させていただきますね。

>まず、「「善いか悪いか」について客観的に捉えようとすること」というのが〜

 これはですねー。

>「ニセ科学批判を科学者はよくするが、怪しい言語学批判を言語学者は滅多に行わない。それは何故か。それは妥当なことか」

 このあたりの主張のなかの「妥当性」に対する問いを、私は「社会的」な「正否」すなわち「善悪」についての問いである、という風に解釈していたのですが、どうやら勘違いであったようですね。すみません。
 そもそも人に向けた問いではなくて「自問」だったんですね。
 なるほどブログという開かれた場での独り言はまさに「電波」です。
 どうも楽しませていただきました。ありがとうございました。

killhiguchikillhiguchi 2009/11/08 21:11  コメントありがとうございます。
 理解しました。おつきあいありがとうございました。
 ただ、「なるほどブログという開かれた場での独り言はまさに「電波」です」というのは、聊か論理の飛躍がある気がします。ブログ自体は開かれた場であることを保証しません。開かれたコメント欄やトラックバックの機能がついたときに、開かれたものになると思います。そして「この」ブログはそういう意味で開かれています。次に、開かれた場で自問することは、普通の人にもないわけでもありません。開かれた場で自問して周りの反応を待つことはあり得ます。独り言即電波とはなりません。逆に、電波であることは独り言であることを意味しません。寧ろ、多くの電波さんたちは自分の考えを他人に語りかけたがっています。独り言かどうかとは独立に、電波であるには、周囲に理解されないほどの独自の論理展開と表現が必須です。その意味では私はまだまだ修行中です。

のこぎりザメ。のこぎりザメ。 2009/11/08 21:46  またもレスありがとうございます。
 ちょっと弁解させてくださいね。
>理解しました。
 ご理解いただけてよかったです。
>ただ、「なるほどブログという開かれた場での独り言はまさに〜
 すいません。それは苦し紛れの皮肉でした。
 自分の勘違いが恥ずかしく、くやしかったゆえの捨て台詞です。深く考えずに書いた蛇足で気分を害されたなら謝ります。すみません。
 で、まあせっかくなのでちょっと考えてなおしてみました。よかったらぜひもう少し読んでやってください。
>開かれたコメント欄やトラックバック機能がついたときに〜
 細かいことを言うと私は「書いた文章が人目に晒される可能性がある」時点で開かれていると思います。これは本筋とは関係ないのですけれど、書きたかったので。
 いずれにしてもこちらのブログは開かれていますね。
>開かれた場で自問することは〜ないわけではありません。
 おおいにあると思います。私もブログは独り言ばっかり書いてます。
 ただ、
>自問して周りの反応を待つことはあり得ます。
 こちらについては私はいままでほとんど意識したことがありませんでした。自問には自答で応え、他答を求めるのであれば他問を行うのが当然であろうと考えていました。また、他人の自問に他答を行うというのは、おせっかいだろうとも思っていました。
 ですのでkillhiguchiさんが「このエントリは自問でした」というふうなことを言われたときに「それならコメントしなかったのに!」と勝手に腹を立ててしまったんです。
 言われてみれば「開かれた場での自問」など、それだけで他問であることと変わりありませんものね。おかげさまで見識が深まりました。重ねてお礼します。
 「電波」という人々? についてはよくわからないですし長くなるのでコメントは差し控えますね。
 ありがとうございました。

killhiguchikillhiguchi 2009/11/14 04:34  コメントありがとうございます。体調不良で返事が遅れて申し訳ありません。
 電波については根本敬あたりをお読みになるのがいいかもしれません。何の得にもなりませんが。

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