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2017-04-15

[]野村剛史2017「古代日本語動詞のアスペクト・テンス体系」『国語国文』85(11) 23:22 野村剛史2017「古代日本語動詞のアスペクト・テンス体系」『国語国文』85(11)を含むブックマーク 野村剛史2017「古代日本語動詞のアスペクト・テンス体系」『国語国文』85(11)のブックマークコメント

(20170417追記:見直したらどうしようもなく詰めるべきところがたくさんあり、書き直さねばならないが、面倒なのでそのままにする。)
 論点はいくつかあるが、アスペクトにおいて形態対立はなかった、と主張している。論拠はアスペクト有標形式と無標形式の比率。有標の比率が低すぎるので、反照性が構成されない。用法としても、無標の側に有標の側との対立として齎される様な用法が認めにくい。従うべきだろう。
 では問題はス(テンス・アスペクトで無標の形式)の側の意味である。井島正博2014「動詞基本形をめぐる問題」『日本語文法』14(2)は、形態対立から付加へと思考を転換するよう求めている。ツ・ヌ・リ・タリは付加によっている。そこまではよい。では付加される基体のスの側はどのような意味をもっているのか。付加された後に形態対立があるかどうかは比率の問題ということになるのだろう。とりあえずは形式は加わり意味が何らかに加わる。ではその意味の加わり方はどうなのか。加わる前のスルの意味とはどういう関係を持つのか。
 付加というときに、基体に対してどのように意味を齎すかには3つくらい、論者によってイメージの違いがあるように思う。一つは意味の析出化。ダロウを例にすることが多い。スルはスルダロウとの対立で非推量なわけではない。スルはデフォルトで推量に限るわけではないという意味で非推量であり、それだけでも推量を表わし得る。ダロウはスルが持ちうる推量という意味を明晰化する、あるいはスルの中にある推量という意味を析出する、としか言えない。ツ・ヌは完了の意味を表わすが、スルが完了の意味を表わせないわけではない。その意味でツ・ヌは析出化するための付加である。
 もう一つは意味の変換。態が例になることが多い。レル・ラレルはスルの持つ意味の中の、例えば受身という意味を明晰にしているわけではない。また受身の意味を加えているわけでもない。スルに受身の意味を加えたからと言って受身になるわけではない。スル自体が全く持たない意味を齎すために、スルの持つ意味を変更し、意味を受身化している。
 更にもう一つは完全な付加である。意味を加える。これと意味の変換の間で線を引くのは理論的な問題である。ナイはスルに否定の意味を加えているのか、スルの意味を否定化しているのか。タはスルに過去の意味を加えているのか、スルの意味を過去化しているのか。
 スル自体が全く肯否に関して無色であり時間性に関して無色であるのなら、単に加えていることになる。そしてスル自体が肯定であり非過去であることは、別のメカニズムで出てくることになる。形態対立で非否定・非過去というのであれば、無標の側が時々否定や過去を表わすのでなければならない。スルは否定を全く表わさないが、過去を表わすと言えなくもない。あるいは、肯否無色のスルだが、肯定というのはデフォルトなので放っておけば肯定にならざるを得ないのかもしれない。
 スル自体がすでに肯定・非過去という意味を予め持っているのであれば、付加は否定化・過去化をするものになろう。スル自体が持っていない意味を齎すために、関係のない意味は保存しつつ関係のあるところのパラメーターのみをいじる、あるいは関数のように変換する。スルに過去の用法を認める場合は、スルが初めからそのような意味を持つものとして規定しなければならない。技術的に面倒な気がするが。
 上述のように、態の派生は意味の変換であろう。ダロウなどの文末外接形式のように、副詞によって明晰化される類の意味を述語に加えるものは、意味の明晰化であろう。ナイをきれいに説明するには、意味の変換でも意味の付加でもよい。スルが肯定を表わすには、予め肯定であるとしてもよいし、デフォルトで肯定作用がかかるとしてもよい。形態対立だけは入れてはいけない。スルとシナイの比率は分からないが、仮に中古の野村の調査のように大幅に否定が少ないのであれば、形態対立は成立しない。形態対立が成立しなければ、スルが否定を表わしてしまう。よって、スル自体が肯定でもよいし、形態対立を防ぐ理屈さえあれば無色でもよい。タが過去化というのは厳しいので、過去を付加した上で形態対立があるとしなければならないだろう。よってスルは無色であり形態対立で非過去になる。シテイルも同様であろう。スルは進行相を表わすこともありうる。しかし完了相を表わすことはないのではないか。進行相のシテイルは意味付加ではあるが、完了相のシテイルは意味変換なのかもしれない。よって、現代語のスルは、肯否に関して肯定か無色であり、テンスに関して無色で形態対立で非過去になり、アスペクトに関して無色で形態対立で非進行になる。
 では中古のスはどうだろうか。野村の言うように、アスペクトに関しては無色であり、形態対立によって、かろうじて非完了なのであろう。ではキ・ケリとの対立はどうか。シキ・シケリ:ス=905:5964である。ツなどがある場合も加えると、シキ・シケリ・シテキ・シタリキ:ス・シツ・シヌ・シタリ=905+267+153:5964+555+1887=1325:8136。どう考えても対等ではない。形態対立はない。であれば、キ・ケリにスを非過去・非既然に追い込む力はないと見るべきである。しかし、スに過去用法が多いとは思えない。キ・ケリを析出化と考えるのは無理がある。付加と考えと、スは既然かどうかに関して無色であり、形態対立で時間性を持つとしなければならず、形態対立がないという現実に反する。よって、キ・ケリは変換であり、スは既然では積極的にないとすべきである。ム・マシ・ジに関しても同様である。セム(野村の調査ではマシ・ジが含まれている。):ス=1116:5964。セム・シテム・シナム・シタラム:ス・シツ・シヌ・シタリ=1116+193+89:8136=1398:8136。ツなどは意味を明晰化している添え物にすぎないが、キなどはそうではない、ということは野村は述べていない。野村の書き方では、キなども添え物に見えてしまう。(勿論、ツなどだけでなくキなども派生とする説はあるが、それは取り敢えず置いておく。)
 ツなどとキ・ケリ・ムの違いは承接最下位かどうかというところではないかと思う。承接最下位の形式はテンス・ムードに関して基体の意味を個別化するグラウンディング形式であろう。それはまさしく類としての事態の名前であるスを個別具体の事態を指すものへと変える。そのように思う。野村先生が調査対象から外したもののうち、承接最下位であるラム・ケムがどうなっているのか、興味がある。
 ところで、シキ・シケリ・シテキ・シタリキ・セム・シテム・シナム・シタラム:ス・シツ・シヌ・シタリ=1325+1398:8136=2723:8136で形態対立をなしているとは思えないが、シキ・シケリ・シテキ・シタリキ・セム・シテム・シナム・シタラム・シツ・シヌ・シタリ:ス=2723+555+1887:5964=5225:5964でかなり良い勝負になる。スは全ての有標形式と対立するものとしてあるのだろう。スはそれ自体、アスペクトに関して無色であり、TMでは既然ではありえず未然でもありえないが、形態対立によって、非完了であるだけでなく、非個別+現在眼前の個別という変な形の領域に追い込まれているのであろう。これは正に仁科明先生が説いていることではないか。
 もちろん、こういう風に数字の比を述べることにおいて、何ら基準が示されていないのが、野村の良くない点である。どのくらいの比であれば形態対立と見なすのかということを、現代語において詳しく見たり、中古語で確実な形態対立(あるのか?)と比べたりして、χ二乗検定くらいはすべきであろう。スルかシテイルか、スかシタリかのクロス表で差があるのかないのか見ないと、形態対立があると見なすのかどうかが恣意的になってしまう。
 他にもこの論文は重要なことが書かれている。進行相が普遍的なものではない点は福沢将樹の指摘(書誌が出てこない。)と平仄を合わせているし、完成相現在を認めるべきというのもすばらしい。

[]喚体 19:22 喚体を含むブックマーク 喚体のブックマークコメント






































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