なぜ生物学者で物理学や数学を嫌いな人がいるのか

理系バカと文系バカ (PHP新書)」を読んで感じたこと。文系理系の距離よりも、理論屋と実験屋の距離の方が遠いかもしれないということです(苦笑)。

理系バカと文系バカ (PHP新書)

理系バカと文系バカ (PHP新書)

理論屋はどちらかというと演繹的な思考を得意として、実験屋はどちらかというと帰納的な思考が得意な人がなるというイメージがあります。それを再度確認させられたのは本書の次の分です。

「物理学」を敬遠するのは文系人間だけではない。理系人間のなかにも「物理学」に拒絶反応を示す人たちがいる。それは「生物学」の人たちだ。「生物学」に進んだ人は生き物が好きな人はもちろんだが、「物理学」と「数学」が嫌いで「生物」を選んだ人が意外と多い。そのため「物理学」や「数学」を毛嫌いしている人も多い。

生物系の人で、「物理学」や「数学」を「嫌い」なタイプって、いくつかあると思いますが、そのひとつは本書の中に書かれているタイプです。

以前、生物学者池田清彦さんのこんなエピソードを聞いたことがある。池田さんも、xが入ってきた時点で数学が分からなくなったそうだ。原因は「x=1というのは何か」というものだ。池田さんは、「イコールというのは同じことだろう。<1=1>は分かる。1が1と同じになりイコールは分かるんだけど、xと1は違うのに、なぜなんだろう?」。ここで分からなくなったそうだ。実は数学は、根源的にものを考える人ほど、分からなくなる。

で、「数学」や「物理学」の授業はというと、「このように考えるものだ」とどちらかというと演繹的に進められていって、その「なぜ」が解消されないまま進んでしまう。それで、「数学」や「物理学」に嫌気がさした人が、観察される現象の「なぜ」をひたすら追求する学問である生物学に流れてきているのでしょう。まあ、とはいっても、「物理学」や「数学」の知識がないと実験データを読めませんから、生物学でも物理学や数学の知識はある程度必要とされるんですけどね。
あと、生物学の場合、実験環境の統制には限界がありますから、統一理論とか綺麗な数理モデルを作ろうとする指向はどちらかといえば弱いですし。綺麗な数理モデルが役に立つ分野は限られていて、ひたすら実験・観察結果から事実を積み上げていくという分野の方が圧倒的に多いですね。そのため、「嫌い」というよりも自分の分野ではあまり使えないと思ってスルー気味のタイプの人も多いかと思います。
そしてこの本を読み終わって感じたこと。著者の竹内さんってどちらかといえば理論屋さんだなあと(苦笑)。

逆基準性の問題と税の直間比率見直し

会計学はこう考える (ちくま新書)」を読んで、逆基準性の問題が日本の法人税論議に与える影響が気になりました。

会計学はこう考える (ちくま新書)

会計学はこう考える (ちくま新書)

「逆基準性の問題」とは、会計上の利益を基準として課税所得を算定する原則に対して、実際には課税所得を基準として会計における利益計算がおこなわれることです。要は、企業は利益を極大化するように経営されるはずが、税金の支払額を最小化するように経営されることです。株式上場企業ではでは配当原資等になる利益が小さくなってしまいますから、利益が小さくなるような経営に対しては株主からの圧力でブレーキがかかるはずです。しかしながら従来の日本企業では経営陣がそのようなジレンマに遭うことが少なく、逆基準性の問題が顕在化していると指摘されています。そうであるとすれば、利益率の国際比較で日本企業の低収益性が問題にされますが、日本企業においては利益率に下方バイアスが存在する可能性がありますね。また、法人税率についても、企業のそのような行動を前提として税率が決められているとすれば、見かけ上高税率に見える可能性がありますね。
選挙の季節で消費税についても触れられていましたが、間接税の比重を上げた方が良いように思えます。直間比率見直し論者の方がよく主張されるように、企業が活動する以上、利益の有無にかかわらず支払わなければいけませんからね。外形標準課税の導入とかは抵抗が強いでしょうし。消費税を上げる代わりにベーシックインカムの導入と、所得税法人税減税とセットなら副作用も少なくてすむと思うんですけど。でも、いまの日本の政治状況からは、消費税の増税はしばらく無理だろうなあ。

コメント欄をゲストコメントに戻しました。

最近、ちょっとした話題だとtwitterに書いてしまうこともあって、ここの更新頻度落ちていますが、「スパムコメント、スパムブログ対策を強化しました - はてなダイアリー日記」という記事をみて、コメント欄の制限をなくしました。まあ、スパムコメントの削除とかが面倒というのもあって、ログインユーザのみにしていたんですが、対策強化されたのならとりあえず解除してみましょうということで。

科学者かそうでないかの見分け方

少し前のエントリーになりますが、まっとうな神経科学者の方々は現在の脳科学ブームにたいしてかなりの危機感を抱いていますね。過大な期待をかけられてブームになって、当然のごとく一般の人の目からは期待はずれに終わって、取り残されたまっとうな研究者が苦労するというのは科学の世界では繰り返されていますから。


ただ、僕がここで強調したいのは「現在のfMRI(のみならず神経科学という学問全体)では出来ません」ということを、現場の研究者が恥じたり臆することなくきちんと世間に向かって表明することの大切さです。基礎科学研究への世間の風当たりが厳しい昨今においては、パトロンたる国や国民(「納税者」ともいう)を納得させられるような研究の「見込まれる成果」や「有用性」をアピールすることが重要であることはいうまでもありません。ですが、一方でそのような風潮は容易に「まだできない」「今は無理」という基礎科学研究の実態を容易に覆い隠してしまいます。
そういった「現在の科学の限界」を隠すことと引き換えにバラ色の未来を約束することで、ニセ科学や「似非脳科学」がつけ入る隙を作り出しているのだとすればこれは実に由々しきことです。そういったまがいものが跋扈し続ければ、いずれは本物の科学そのものの信頼性もまとめて失われることになりかねません(「啓蒙と警鐘:骨相学の教訓に学ぶ」)。たとえ一時的に世間からの期待感を削ぐことになっても、研究者はその誠実さを示すために科学が作り出し得るバラ色の未来像だけでなく「現在の科学の限界」をも勇気を持って示すべきです。

He seems to be a professor of law. While we were chatting, I was shocked in his words.
What he said was
“I heard recent fMRI technology can surely detect who is lying and who is not lying by monitoring brain activity, right ? That is wonderful! We should use that.”.
I expected someone will deny it. But nothing happened. Then, I reluctantly said,
“Sir, that is myth. You should not buy it.”.

どうも世間には、fMRIやNIRSを含む脳機能イメージング装置に対して、なんでも出来る、なんでも分かるというような思い込みがあるような気がしてならない。
現場でそれを使っている人間には、その限界を思い知らされることばかりなので、このギャップには、本当に困惑する。
たしかに、自分の研究を広く知ってもらい、また役に立つ研究だと思ってもらうには、いろいろな方法でアピールすることが重要だとは思うが、今のマスコミの取り上げ方(と、それに便乗する一部の研究者の姿勢)には、問題が多いと思う。
やはり、「分かりやすさ」だけではなく、その「難しさ」についても話すことが、どこかで必要なんじゃないだろうか。
これらのエントリーを見られると、現在の脳科学ブームの危うさがわかるかと思います。昔は測定手段がかなり限られていたこともあってわからないですんでいたことが、測定技術の進歩からいろいろなデータが得られるようになって、逆にデータの解釈をめぐって混乱が起きているような。
結局科学者の見分け方って、できることを語ると同時に、現状できないこと、わからないことを率直に語れるかだと思います。もちろん未知の領域にチャレンジする以上、困難を乗り越えてブレイクスルーするためには夢を抱き語ることは重要です。そうでないと研究費も集まりませんしね(苦笑)。ただ、できることしか語らないとしたら科学者としてはちょっと?と思ってしまいます。

国による規制、懲罰的賠償請求、どちらを選びます?

isologue - by 磯崎哲也事務所: ネットによる「国際的制度アービトラージ」の時代とビジネス」を読んで思ったんですが、自由の裏には責任があるわけで。規制緩和と規制強化、それぞれについて自由と責任の問題について考えてみました。
規制緩和の場合

  • 企業活動は原則自由
  • 政府は直接的に人命に関わる問題など、最低限の範囲で規制するにとどまる
  • 問題を起こした場合には、懲罰的賠償請求をされたり、クラスアクションを起こされたりと、企業がほぼ全面的に責任を負う
  • そのためには大きな法務部門を抱えることになる

規制強化の場合

  • 企業活動は規制の範囲内
  • 幅広い規制をかける以上、政府の監督責任も問われることになる。
  • 問題が起きた場合には、政府と企業とで責任は按分される。その分企業の責任は軽くなる。
  • あまり大きな法務部門を抱える必要がない

規制緩和したのに、司法制度改革の結果「「定員削減」という処方箋への疑問。 - 企業法務戦士の雑感」という問題が起きているということは、規制緩和に向けた制度改革が中途半端なものになってしまい、副作用だけが目立ってしまっているのではないでしょうか。規制緩和されたら企業サイドでも弁護士需要が大きくなると見越して定員拡大したんでしょうから。
結局「国への責任追及」に向かってしまう点では、規制緩和派も規制強化派も変わらないように見えてしまいます。このような問題の分析は社会システム理論が得意とするところだと思うのですが、どうなんでしょ。

不完全な知識のなかで、どのように最善を尽くすのか

生命科学では日々新たな発見が報告されています。そのことを裏返すと我々人間はまだ生命について知らないことが多すぎるということです。薬害、医療事故に合われた方は本当にお気の毒でありますが、そのような限界の中で医療活動がおこなわれている以上、完全に防ぐことは不可能です。それだからこそ、薬害訴訟のニュースを見るにつけ、被害に遭われた方にはもっと公的なサポートを提供すべきであると思っています。
エビデンス主義―統計数値から常識のウソを見抜く (角川SSC新書)」は、最近注目されるようになったEBM(wikipedia:en:Evidence-based medicine)を中心に、不完全な知識の中でデータに基づいて適切な判断をおこなおうと主張するものです。

エビデンス主義自体には賛成ですけど、実施しようとするとデータ集めがなあ…とか私なんかは思ってしまいましたが。米国では医療保険の支払いを少なくするために、保険会社が積極的に支援してくれているために、現実に使えるものになったようですが、日本だとただでさえ財政が厳しい健保連とかが後援してくれるでしょうか。ブログ界では経済論議もよく見かけますが、工学系の方はデータ収集の労力、コストを低く見すぎている傾向を感じています。「帝王の殻 (ハヤカワ文庫JA)」のPABみたいなものが現実化すれば容易になりますが、自己の状態、行動を逐次記録され集計される世界を望む人はほとんどいないでしょ(苦笑)。
帝王の殻 (ハヤカワ文庫JA)

帝王の殻 (ハヤカワ文庫JA)

最近、経済学でも工学メタファーから医学メタファーに人気が移っているようですが、医学には唯一絶対の正解なんかないなかでなにをなすべきかというところを見てもらいたいと思います。