科学はなぜ弱いのか、そしてなぜ強いのか。

科学は形式主義である。規定の書法に則っていないと議論を始めることも難しい。まず数学など科学向け言語が必須である。補助としても言語を科学向けにアレンジしたものを使う(科学英語や技術英語と日常英語はかなり違う)。叙情などは、良い方にも悪い方にも、評価されない。

あなたが科学を利用しようとする限り、それらの書法を学ばねばならないだろう。もちろん、義務教育の範囲で学べば済むことも大学院修士くらいまで学ばねばならないこともある。この学習コストの高さが科学の弱みである。

しかし、一度学習してしまえば先人の積み上げた成果の上に自分の成果を乗せることが出来る。最終到達点だけを見れば独力では不可能なほどの高みまでたどり着くことも容易だろう。この作業コストの安さが科学の強みである。

このような積み重ねを可能にしている原理の一つが検証容易性である。理論であれば数学などの科学言語で記すことで論証を確認しやすくしているし、実験であればよく制御された実験条件を記すことで追試を可能にしている。重要なのは「追試ができない成果は信頼性が低い、ないものとして扱う」という点である。これにより大きく間違った方向に進むことが少なく、間違いが発見された場合も修正が容易になる(関連する成果をすべて捨てるという修正になることもある)。

この科学の方法論は、少なくとも現代人の能力の範囲内だと、きわめて強力である。一人の天才が独力で積み上げられる高さよりも十人の秀才が協力して積み上げる高さの方が勝っている限り、科学は学問の正攻法であり続けるだろう。

実例。

とりあえずアインシュタインは天才であり、現代の大学生の大多数はそうではないと仮定する。現代の大学生の大半はアインシュタインの業績の一つにも匹敵するものを残していない点で妥当な前提だと思われる。
しかし、現代の大学生の少なからざる人数がそれを理解している。関連する理論物理の院生の数以上、大学で一般相対論の単位を取った人数以下、という程度で推定しても世界で毎年1000人くらいはいるのではないだろうか?まあ、とにかく、アインシュタインには劣る人であっても同等の理解を得ることができる。

余談。

しかし、一人でゼロから積み上げて終わりという状況では科学の方法論もあまり役に立たない。孤独な気持ちで一人作り上げて行くしかない。
芸術や芸能などの分野で珍重されるような「感性」は「一人でゼロから積み上げて終わり」のものだと思われている。少なくともメディア上の演出ではそのように扱われている。でも感性を磨くには、意図的にせよ偶発的にせよ、先人の業績を学ばないとならないのだ。「ああ、あなたの創意工夫は既に先人が通った道だよ」と言われたくなければ。
もちろん、使えるところをすべて盗んだ上でなら先人を批判しようと悪し様に罵ろうと構わない(品の悪さを除けば)。今までの革新的芸術のほとんどはそのような経緯を経て生まれてきたのだから。