kimgood[今日もシネマの幕が開く]

2017-11-27 2017〜2018

kimgood2017-11-27

87 ギフテッド(T)

中身を見ないでも分かる映画なので、見なくてもいいのだが、ほんわか映画が少ないので見ることに。すべてがデジャブだが、見ていることができる。エリート主義を否定しているようで、じつは完全にそれに依拠した映画。ダコタ・ファニング、ジョエル・オスメント、マコーレ・カルキン、ベンジャミン・キンボール・スミスなど名子役は多いが、そこに今作のマッケナ・グレイスが加わった。お父さん代わりのクリス・エバンスはおいしい役どころ。人のいい隣人を「ドリーム」のオクタビア・スペンサーが演じている。もう一つ彼女の人の良さが伝わってこない。彼女の来歴が紹介されないからだ。


88 奇跡の2000マイル(S)

オーストラリアの砂漠地帯3200キロをラクダ4頭と犬1匹とで歩き、西の海までたどり着いた一人の若き女性の映画である。途中に出合うのは、ヘビ、野生のラクダ、1人でぽつんと暮らす男、2人でぽつんと暮らす老夫婦、アボリジニ、そして野次馬ぐらいのもの。たまに写真を撮りにやってくるナショナル・ジオグラフィックのカメラマン、彼と恋人の仲になるのだが。ほぼ日本の北から南まで全部砂漠のなかを歩いた計算になる。なんということもないが、自然の厳しさがひしひしと伝わってくる。一度、方向を失い、途方に暮れたときに、go home と愛犬に命令して、ようやく仮泊の場所に戻ることができた。そのときの周章狼狽の様よ。母を少女期に亡くし、父とも離れた経験の持ち主で、飼い犬との別れもそのときに経験しているが、この破天荒な旅でも彼女は黒い愛犬を亡くしてしまう。疲れるのか、どこでもすぐ横になって寝てしまう犬である。暑くて葉っぱも落ちた小さな木の下に隠れようとすると、彼女は腰に巻いた布を取って、その木にかけてやる。その犬が過って、捨てられていたストリキニーネの入った空き缶を舐めてしまったのである。最後、ラクダと一緒に澄んだ海に入るシーンが美しい。


89 ノクターナル・アニマル(T)

ごく単純な筋立てである。将来がないと見放した元夫から暴力的なテーマの小説が届き、心を動かされる。いまの夫の不倫に気づき、前夫との関係を戻せるかと思うが、最後に裏切られる。そもそも彼女が心を動かされる小説は単なるバイオレンスもの、それもまったく何の工夫もない駄作。そういう暴力的な小説を書けるようになった夫を見直した、という設定かも知れないが、三文小説なのは疑いようがない。エイミー・アダムズの胸の強調は相変わらず、元夫はジェイク・ギレンホール。


90 天才スペヴェット(S)

この映画、傑作である。きれいに筋が通っていて、細部が際立っていて、絵がきれいで、人物yの造形がとてもくっきりしていて、台詞もいい。フェアリーティルかと思いきや、ある種の重さも抱えている。それをお伽噺とは違う手際で処理してしまうのである。子役も見事。モンタナの田舎から貨車に無賃乗車でシカゴまで出て、ヒッチハイクでNYのスミソニアン博物館まで連れて行ってもらう。彼の発明による永久運動装置の科学賞受賞のスピーチがあるからである。その間に会う人々がみんな魅力的である。同じ無賃乗車の老人は傷ついた雀と松の話をしてくれ、途中駅のハンバーガーショップのおばさんは少年をお尋ね者と知りながら見逃してくれる、シカゴで追いかけてくる太っちょ警官は人がいい、少年を乗せた長距離トラックの運ちゃんも記念撮影好きの人柄のいい男。貨車に積まれたトレーラーが少年の隠れ家だが、そこでもいろいろなアイデアで観客を楽しませる。お見事である。少年の双子のきょうだいが銃の暴発で、家族みんながそれに触れない習慣が生まれる。タピオカという犬さえバケツに齧り付くことで、その死をやりすごそうとする。少年の姉が見かねて丘の上に連れて行き、1人と1匹でじっと風景を眺めているうちに、彼らは無二の親友になる――という動物にまで均等な視線を向けるところがすごい。監督ジャン・ピエール・ジュネ、「アメリ」「デリカテッセン」を撮っている。「アメリ」も傑作であるが、その小ネタを積み重ねていく手法がこの映画でも発揮されている。すごい監督もいるものである。よくもこれだけの斬新なアイデアを無理なく詰め込むものである。最後のタイトルロールでも、実写のイラスト版が出てきて、ますますグッドである。もっとシリアスな設定のものを撮ったらどういう仕上がりの映画になるのか見てみたいものである。



91 否定と肯定(T)

土曜の夕方で観客が一杯である。映画もよろし。ホロコースト否定論者はイギリスで裁判を起こす。それは、被告側に立証責任があるからだ。それに陪審制でやると、えてしてパフォーマンスが過ぎて、事実に真摯に向き合えない、という見解も被告側弁護士から洩らされる。被告となったアメリカの女性学者は、「一人で裁くのか」と不安げである。英米の司法観が見えて面白い。被告はアウシュビッツで虐殺はあった、と証明しなくてはならない。もともとは虐殺あり派だった男が原告だが、ガス室をコレラ菌駆除のためだという。しかし、柱が地上にまで抜けていたのはなぜか説明ができない。シアン化合物(?)が検出されたと指摘すると、別の理由を言い出し、その矛盾を指摘される。残念ながら強敵とは言えない、言ってみれば雑魚だが、見ている分には少しもの足りないだけだ。裁判劇は見応えがある。南京や慰安婦でちゃんとした、見応えのある映画を作れないものか。


2018



1 最後のジェダイ(T)

見る気もなく見てしまった映画である。第1作(第1回上映作といえばいいのか。この順番の入れ換えのために、ぼくはこの作品を追うことを止めた)にも、超未来のなかに宇宙酒場などのクラシカルな場面があったが、今回はそこらじゅうがノスタルジックだった。場面転換のために画面が一点に収束するところなど典型である。複数の話が一緒に進むのも、いまでは見なくなった進行方法である。テーマはもともと父子関係が主で、それも相変わらず輻湊されるテーマである。戦闘場面はもう目新しさよりは古ささえ感じさせる。遠い未来で人間が宇宙船や戦闘機を操作していること自体がアナクロである。敵から守るのに塹壕に兵隊が並ぶのなど、恐ろしいくらい発想が古い。作中でヒーローという言葉が使われるが、すべてがシステム化されたなかで、英雄に残されたものは、向こう見ずな勇気しかないとしたら寂しい。ぼくは未来を見ているのか過去を見ているのか分からなくなった。


2 エル(T)

昨年評判になった映画である。期待したが、妙な気分が残っただけだった。フランス人は病んでいるな、である。家内で強姦魔に襲われても、警察に届けない。過去に警察に不信感をもち、マスコミに追いまくられて苦労したからだ、という。父親が精神錯乱なのか子どもを含めた近所の人間を殺したときに、彼女は少女だったという。その経験が警察に行かせない理由である。強姦魔が誰かがわかったあとも物語は続き、結局はハッピーエンドで終わる。もって回ったけれど、どの仕掛けも利いていなかった手品のようなもの。


3 ヒトラーへの285枚の葉書(T) 

エマ・トンプソン、ブレンダン・グリーソン主演、実話が基になっているようだ。息子を戦争で亡くした職工長が体制批判の葉書をあちこちのビルに置く。それに妻も手を貸す、という話である。「ユダヤ人を救った動物園」でゲシュタポをやったダニエル・ブリュールがここでも悪いナチを演じている。ヒトラーものの小品である。


4 シークレット・アイズ(S)

役者が揃ったものの中身がないという残念な映画。どうなっているんでしょうか。キウェテル・イジョフォーがもて役である。ニコール・キッドマン、ジュリア・ロバーツが脇を固めるが、さて? ジュリアが老けて、太って、生彩がない。よくこういう役を引き受けるものだと思う。いい年で「食べて、祈って、恋をして」よりはマシか(同作はなかなか面白かったが)。イジョフォーが過去の事件を蒸し返し、空振りに終わるが、なんともはや。彼の「キンキーブーツ」は強烈だったが。ジュリアには難しい演技は期待しないほうがいい。ニコール・キッドマンは相変わらず妖艶だが、どこかマシンのような冷たさがある。きれい過ぎるからか。


5 デトロイト(T)

なぜいまこの映画なのか、というのが最初の感慨である。ドキュメントの映像を随所に挟みながら、ドラマとしてある安宿での白人警官による殺害を扱っている。その映像も既視感が強い。警官のなかで主導権を発揮する童顔の、眉の細い、目のつり上がって、口がとんがっている、キューピー髪の男は、黒人差別、レイシストを描くときのまさに定番の顔をしている。ほかの映画でも、黒人差別主義者の白人にはなにかいつも共通のものがある。それはイコンとして定着していて、その潜在意識に合わせるかたちで、それらしい役者が選ばれているのだ。ぼくはまず最初に「夜の大捜査線」の白人レイシストでそれを感じた次第。いかにも黒人を差別しそうな顔をしているのである。その伝でいけば、ゲイの役をやりアメチャンにも定型ある。のぺっとして、女っぽい要素が感じられる男優を配するのである。閑話休題。本作に戻ると、3人の警官が告訴され、うち2人は自白をするが、任意性がないということで否定され、陪審員は無罪を選ぶ。裁判所の外では黒人と白人のデモが起き、黒人を排斥する白髪の老婦人もまた“典型的”な顔と服装をしている。これもまた既視感の一翼となっている。


6 凍る牙(S)

前に見た映画だったが、最後まで見てしまった。主演ソン・ガンホ、そしてイ・ナヨンは目力がすごい。ソン・ガンホがいまいち際立つ個性がなくものたりないが、イ・ナヨンでもっている。韓国映画は脇がいい。ガンホと同年だが先に出世した男もいいし、次に班長に昇った、ことあるごとにイ・ナヨンに辛く当たる男もいい。


7 CINEMA FIGHTER(T)

川瀬なおみの名前で見てしまった映画である。短編の集合で、エグザイルというグループ関連の楽曲が最後に使われる、いってみれば宣伝映画である。短編と記憶に残るのは、川瀬ともう一つ倍賞美津子が出たやつである。川瀬のは往時の恋愛を想起する話だが、最初に荒廃した部屋が映される。そこは天文学教室だったらしいのだが、日付が書かれている。その時点で時が止まった、ということのようだが、日付を忘れたので、そこが何を指しているのか分からない。中身はふつうの恋愛もので、山田孝夫が高校生の役をやっていて、それらしく見えるからすごい。もう一つは、冷凍保存された恋人が起きてみたら、彼女が老けていた、という話。その老婆を倍賞が演じるのだが、もうちょっと“若さ”のようなものを残したほうが良かった気がする。老いを強調する意味もあったのだろうが、やりすぎである。そのあと倍賞が凍り付けになって、時間を追いかけるところは、短編の味が出ている。ほかの作品はただ映像を撮りました、という感じ。プロデューサーに別所哲也の名が出ていたが、その道に進もうということなのか。


8 スリービルボード(T)

よくお客さんが入ってました。できも良くて、きっと今年のアカデミー賞作品賞を受賞でしょう。味わいはコーエン兄弟です。余裕しゃくしゃくで進みながら、必要なことは全部、描かれている、という稀有なことをしている。主人公がなぜ娘レープ死9か月で、いつも通っている道路わきに警察の怠慢を告発する広告を出したのか分からないが、まあそれは良しとしておこう。小人に警察署への放火を見逃してもらい、デートに誘われたら、「強制的だった」と差別的なことを言う不完全な女であることもきちんと描かれているから、文句は言うまい。レイシストの警察官が退職させられ、ひょんなことから事件を解きそうになり、主人公にその情報を伝えに行ったときに、国語が弱いけどメキシコに住むよりいい、などと間抜けな話をするシーンがいい。あと、主人公が友人がパクられたので、その間、店の守番をするが、そこに不気味に脅す男が現れる。ここの威圧的で、肝っ玉がすわった狂気を見せる男の感じもいい。事件を解決に導くかと思われた警察署長がすい臓がんで自殺する、というアクシデントの入れ方はちょっと驚きである。その署長が、事件はまったく手掛かりがないが、ムショに入っているような男がほとぼりが冷めたころに、ふと俺がやったんだ、と漏らすことがある、と予言的なことを言い、それがあとで効いてくる。結局、署長の遺書で、レイシストの退職警官が、お前は本来いいやつなんだから頑張れと勇気づけられ、身を持ち直す、という設定がいい。最後主人公と2人で、実は真犯人ではないという男を殺しに行くシーン、本当にやるか途中で考えよう、で終わるが、これもやられた、である。ほとんど映画を撮っていない監督で、マーティン・マクドナー、注目株だろう。


9 キングスマン・ゴールデンサークル(T)

サービス過剰だが、面白い。ファーストを超えているかもしれない。どの映画もいまは、冒頭からとんでもないアクションシーンで観客を引っ張るが、この映画もそれ。ただ、アイデアが満載なのでOKである。悪のジュリアン・ムーアがはまっている。古きよきアメリカの町を再現しながらも、そこにロボット犬、ロボットメイドなどを配するところが心憎い。ただ人間をミンチにして、その肉でハンバーガーを食べるというのは悪趣味。「キックアス」はその悪趣味にはまって、ダメになった。敵の居場所を探し出すため、探知機を女性の※※にしまい込むが、かなりきわどい映像である。断崖の雪山のロープウエイで主人公が逃げるところで、大きく俯瞰のショットに切り換わると、おお、ジェーイムス・ボンドの世界である。ぼくらはこの大きな映像にやられてきたのである。キングスマンはボンドの現代版なのだ。洒落ていて、スマートで、粋で、かっこよくて、スピーディで。しかし、難をいえば、もう少しボンドのような皮肉の効いたユーモアの会話が欲しい。そしてエロスも。中身てんこ盛りで、2時間半。ちょっと長すぎるかもしれない。


10 アバウト・レイ(T)

原題はthree generations で、こっちを邦題にしてもよかったかも。娘が17歳にして男になろうと決意するが、父母の了解がいる。母は迷い、別れた夫(戸籍上はただの元恋人)も迷う。2人が別れたのは、夫の弟と情事をもったから。それを知った娘は自暴自棄になるが、母と父の翻意で、彼女はハッピーに。最後は、みんなで和食を食べてワイワイガヤガヤ。娘をエル・ファニング、母をナオミ・ワッツ(よく仕事をしている)、レズビアンの祖母をスーザン・サランドン、その相手をリンダ・エモンド。エル・ファニングには好きな子がいるが、そこをもう少し描いたら、もっとせつなくて良かったのではないか。あとナオミ・ワッツにレズビアンであることを告白したときの祖母の様子なども知りたい。ワッツは「マルホランランド」で見事に脱いでいたので、そっちの方向に行く人かと思ったら、どんどん芸域を広げている。あとはスマートアクションと大悲恋ものか。


11 悪女(T)

韓国アクションだが、冒頭のシーンを朝日新聞が褒めていたが、ウソをつけ、である。アクションを手もとだけで撮っては意味がない。肉体があってこそのアクションである。このシークエンスは部屋に入ってから肉体が登場するから、その焦らしとして手もと撮影をしたと弁解もできるが、結局、以降も手もと撮影に終始し、しまいには拳銃パンパン、散弾銃バンバンである。この監督、女性アクションは客が来ないから、ではやってやる、と思ったらしいが、何も分かっていない。冒頭は「オールドボーイ」のワンカット撮影のまね、結婚式途中のスナイパーは「ニキータ」のまね。本当はオマージュと言いたいが、そんなレベルではない。自分の父親を殺した男がアジャシ(おじさん)だったと分かったあとで、娘と旦那が爆破で殺される前、なぜアジャシは女を救ったのか。あとで殺し合いになるのに。いい加減なことをするものである。主人公の旦那となるソン・ジュンという役者がいい。テレビが中心の役者らしいが、誠実な人柄がよく出ている。


12 ミッドナイト・バス(T)

40代後半(?)ぐらいの長距離バス(池袋〜新潟)の運転手とその息子、娘、別れた妻、恋人(30代沫)、元妻の父という登場人物の映画。ちょうど深夜バスの運行が画面の切り換えになる。自分と一緒にいると将来がだめになる、と恋人と別れるが、家族がバラバラになると、また女に戻ろうとするところで映画は終わる。いい加減なものである。新潟新聞150周年協賛ということもあって、夏祭りを映し出したり、サービスに務めている。娘が地元アイドルグループを作り、会社組織にすると宣言した後、長々とコンサート風景を映すが、必然性がない。もう一つ、最後のほうで、四隅から絵が丸くなって1点に集中し、場面転換になる、という古臭い手法を使っているが、それもそこだけの使用だから、違和感がある。義理の祖父の、父親は家族という扇の要だ、という発言は、なんだかなぁ、である。もうそんな時代ではない。それに、原田泰造のキャラとそれは似つかわしくないのではないか。長塚京三の出のシーンは、なにか平仄が合ってない。しかし、それ以後は問題なし。いわゆる知識人型の初期痴呆症の人間を演じている。その醒めた態度が好感だが、父親が扇の中心発言はいただけない。泰造は無事に演技を務めているが、息子、娘が上手で、かえってそっちが目立つ。とくに息子が達者です。


13 グレイテスト・ショーマン(T)

「ラ・ラ・ランド」の制作陣が作り出したミュージカルで、ぼくは趣味的にはこっちのほうがいい。みんなが「ラ・ラ・ランド」を褒める。ぼくは冒頭のシーン以外で、心に残ったところはない。今作は、ヒュー・ジャックマンが会話途中の歌い出しを小さな声で、途切れがちにやるところなど、工夫が見える。ただ、それも回数が重なると飽きが来るが、そのへんは仕方ないかもしれない。クィアな人々を見世物にして興行するというのは、大道といえば大道。ぼくらは小さいとき、ヘビ女やカッパ人間、小人など(寺山修司を見よ)を見て育ってきているわけで、キワモノこそ客を呼ぶ原点である。それが次第に郊外に移り、サーカス(浮かれ騒ぎ)という大がかりなものへと変化していく。虚のものを大げさに演出することで、客は夢見心地になる。そこに倫理も、モラルも、社会通念などは要らないのである。その意味で、このミュージカルはまさに真っ当なのである。空中ブランコをやるゼンディヤがとてもきれいだが、病院にザック・エフロンを見舞うところは、あまりきれいではない。撮し方の問題のようである。サーカスを扱ったミュージカルで思い出すのは、チャールトン・ヘストンの「地上最大のショー」である。1952年の作で、ヘストンとしてもデビュー後すぐぐらいの作品である。鉄鎖や監禁箱から脱出したフーディーニの短い伝記を読んだことがあるが、彼もまたバーナムと同じ才長けた興行師である。


14 15時17分、パリ行き(T)

イーストウッドともあろうものが、こういうごまかしの映画を撮ってはいけない。ほんの数分で終わる劇を、登場人物たちの過去を追って埋めるなど、観客をバカにし過ぎている。前半もじっくり描写している、などと寝ぼけた評が新聞に出ているが、媚びを売りすぎである。と言いながらも、田舎の子たちがいかにして兵隊となっていくかがよく見えた。小さい時からモデルガンでシューティングゲームをしている子たちだが、それはごく普通のことなのだろう、と思う。命を惜しまない正義感の男がそこから発生してくる、と監督は言いたいらしい。


15 羊の木(T)

もっとも正常そうな人間が異常だった、という映画だが、次第に恐くなる演出が足りない。ぼくでも見ていることができる。松田龍平もこれではやりようがなかっただろう。恋人をクルマのなかで襲うような、そうでもないような仕草をするが、その中途半端さがこの映画をよく表している。優香は上手な役者だと思っていたが、今回は残念感が深い。彼女がなぜ障害をもった老人に惚れたのか、よく分からない。北村一輝という役者は初めて見たが、はまり役だったのでは? 床屋のオヤジで元受刑者の中村有志がいい。そこに雇われた男が祭りの日に酒をがぶ飲みして大暴れするが、その後のいきさつがまったく触れられない。この映画には誠意がない。


16 トレイン・ミッション(T)

設定ではリアム・ニールソンは60歳、それにしては老けている。重要な人間がまったく写されない、というのは、いかがなものか、というよりずるい。閉じ込め系の映画だが、やはり無理があちこちに。まして、真犯人も、ああやっぱりな、では、せっかくの工夫も台無しである。ニールソンを嚆矢として楽しんできた老いぼれアクションも終わりかもしれない。いま読んでいる後期高齢者退職刑事ものは、パンチをくり出すと、かえって手首がおかしくなる、という設定で泣けてくる。原題はThe Commuter で、座席の角に行き先をパンチしたチケットを立てるのが、この映画の一つの仕掛けになっている。


17 ペンタゴン・ペーパー(T)

やっとスピルバーグが人間を描いたと評判だが、それはトム・ハンクスとメリル・ストリープに助けられたからと言っていい。一箇所、ストリープが群衆のなかで一人浮き立つ映像があるが、それはミスカットだろうと思う。難をいえば、お嬢様経営者のキャサリン(映画ではテイトと愛称で呼ばれている)が政府機密文書を載せた新聞を刷る、と決断する、その転換点が、見えにくい。何が彼女を雄々しく変えたのか。彼女に聞こえよがしに彼女の経営の才のないことを論じる経営委員会の男たちへの反感か? 株の値上がりにしか興味のないはすっぱな連中か? 法律論しか語らない法律屋のたわごとか? なにかに鋭く反応するキャサリンを描くだけでも、だいぶ印象が違うのだが。あるいはそれらが寄ってたかって彼女を正義へと追い込んでいく感じがあれば、印象が映画的にはだいぶ違うのだが。マクナマラが、キッシンジャーを指して、何でもやるクソ男だ、と言うシーンがあるが、これは軍歴詐称を隠し通したブッシュ息子も同じで、権力者はあらゆる手を使ってスキャンダルをもみ消そうとする。原題はThe Post である。


18 レッド・スパロー(T)

なんだこりゃである。エロもの、キワモノに近い。女性スパイで、アクションではなく、色仕掛けが得意というわけ。だから、ジェニファー・ローレンスの裸が拝める、というわけだが、それがなにか? アメリカは仲間だけは裏切らない、には笑うどころか、心胆を寒からしめるものがあった。シャーロット・ランプリングが出ているが、残念な役どころで、彼女の晩節を汚した。


19 バンコクナイツ(T)

期待した映画だが、40分ほどで沈没。素人に芸をさせてダラダラとカメラを回してるだけでは映画にならない。


20 チャーチル(T)

この特殊メイクには恐れ入る。チャーチルのなかに時折ゲイリー・オールドマンの眼が見えるのである。ゲイリーにチャーチルがいるのではない。ナチスに武力対抗するかを悩み電車に乗って庶民の意思を確認する場面があるが、ここだけがお伽噺めいて残念である。もっと実写的に撮っていいのでは? それにしても、ペンタゴン・ペーパーとこの作品、いずれも勇ましい展開に入る前の段階の、意思決定の話である。それだけ政治、マスコミのなかに、自分たちのあり方に内省的な眼を向ける理由があるということである。ジャスティスを追いかけていたはずがフェイクと言われ、国民の良識を信じて国民投票をすれば意外な選択がなされる、といったようなことがいろいろ重なっている。社会派映画が撮られることは嬉しいことだが、そう手放しで喜べない、もっと事は複雑だ、ということである。


21 いのちぼうにふろう(T)

小林正樹監督、71年の作。冒頭、地図を見ながら、密輸入で稼ぐ島のことを話題にする八丁堀の役人。そこに安楽亭というやくざ者が巣くう建物がある。地図の絵のあとに、その建物が違った俯瞰の角度でパンパンと映し出されて、この映画が動き出す。見事なものである。役者が豪華で、仲代達矢、中村翫右衛門、佐藤慶、岸田森、山谷初男、栗原小巻(ここまでが安楽亭の住人、小巻を抜かして悪党ども)、山本圭、酒井和歌子(この2人が恋人同士だが、和歌子が借金の形に女郎に)、神山繁、中谷一郎(この2人が同心)、滝田裕介(裏切りの商人)、勝新太郎(飲んだくれ、じつは金のために妻子を亡くした職人)。山本圭と酒井和歌子が湖を背景に、板をつないだだけの細長い橋の上で話すシーンがある。オヤジさんが飲んだくれて酒井和歌子が身売りされる、と山本に打ち明ける。まず2人が右から歩いてくるのを無音で撮って、次に寄りで会話が始まり、また中景のカットで音と絵が離れた感じで撮る。この絶妙なカット割りがにくい。思い出すのは、65年の黒澤「赤ひげ」によく似た設定(幼なじみ、貧乏による別れ)およびシーンがある。おそらく小林監督がパクったのだろう。愛する女を失った山本が安楽亭に連れてこられたのが、運命の変転の始まりである。人外に生きる悪党どもにも温かい血が流れ始める。勝の温情で50両を貰いながら、すぐに女(酒井)のもとへ行かないで安楽亭に戻るのは不自然である。ラストは、闇夜の大捕物から一転露出オーバーの安楽亭への橋の上――こういう転換なら、安楽亭の悪党どもと夜の修羅場を一緒に過ごす必然性はない。みんなが死に絶えたあとの朝の風景でいいではないか。一心同体を表現したかったのかもしれないが、前に山本の自殺未遂のシーンがあるのだから、そこまでやる必要がない。それにしてもこの映画、名作とは言わないが、いいできだ。ラストにいびつな10体の地蔵の上に白抜きのタイトルが出てエンドである。それも見事。音楽は当時流行ったメリハリの利いた現代音楽である。武満徹のそれがぴたっとはまっているから不思議である。


22 Raqqa is Being Slaughtered Silently(T)

ドキュメントでシリア・ラッカでISが勢力を伸ばし、公開処刑などを行いはじめ、報道など不可能な状況のなかで、スマホを使いながら外部に発信し、それを国外に逃亡した仲間が世界に拡散させた。頭文字を取ってRBSSというらしい。原題はCity of Ghost だが、ブラジルの暴力に駆られた子どもたちを描いたCity of God を思い出させる。反政府組織が立ち上がり、アサド政権を激しく突き上げたとき、政治的な空白が生まれ、そこにISが入り込んできて、急速に勢力を伸ばす。結局はドイツへと逃げた国外班は、現地での排外主義の高潮に遭遇する。世界はいまとてつもなく息苦しい。しかし、ロシアとアサドによってISと反政府軍が駆逐されたシリアに、彼らは戻ることが可能なのだろうか。2千人いるといわれる米軍の撤退も近い。IS以上に深刻な事態が訪れようとしているのではないか。


23 タクシー運転手(T)

光州事件を扱ったもので、よく客が入っている。シネ・マート新宿はそう客の来る劇場ではない。映画の冒頭に、曲がかかり、主演のソン・ガンホがそれに合わせて歌う。チョー・ヨンピルのヒット曲だが、名前が思い出せない。ガンホは、体型も、肌の感じも、少しも変わらない。リズムの悪い部分のある映画で、ガンホが光州の同業者と初顔合わせのシーンで、間が持たない。さすがのガンホもぶらぶらしているだけだ。ドイツ人の記者がヘボ役者なので、全体にメリハリが付いてこない。最大の問題は、金浦空港から日本へ飛び立とうというときに、すでに当局に彼の情報は把握されているらしいのに、何もハラハラドキドキがない。まんまと逃げ出してしまうのである。チャン・フン監督、ぼくはこの人の映画を見たことがない。こういう陰惨な事件から民主主義をつくった韓国に敬意を表する。


24 太陽がいっぱい(T)

久しぶりに見る。ほぼ印象に違いのない映画で、それはそれですごい。冒頭に宗教画のイコン(じつはハガキに印刷されたもの)を写し、そこに高い声の女性の歌がかぶさるのだが、何か気高いものを感じさせる。そのままカメラが移動していくと、ギターをつまびくマリー・ラフォレの大写しとなる。一つだけ前見たのとの印象の違いを言えば、モーリス・ロネが早い段階でエイッと殺されていることである。ロネはサンフランシスコの富豪の放蕩息子だが、まるでアメリカ人ではない。フィリップという名で、姓がグリーンリーフである。それをトム・リプリーという名のアラン・ドロンが、ロネの父親から賞金を餌にアメリカから連れ戻しにやってきた、という設定である。もちろんまったくアメリケンの匂いはしない。盲人から大枚の金で杖を貰い受け、今度はそれを使ってタクシー待ちの女に誘いをかけて、まんまと3人で無害車の上でさんざんに戯れる。このシーンはやけに鮮明に覚えている。きっと金持ちの自堕落な感じがよく出ていたからである。ロネはドロンが自分の預金残高を調べていることに気づく。船に恋人のマルジュ、つまりマリー・ラフォレを呼んで3人で船出する。ドロンの魚の食べ方やナイフの持ち方がおかしい、金持ちぶろうとすることが卑しい式のことを言うだけで、それほどドロンを貶めるわけではない。ドロンを小舟に乗せて、親船につないでいたはずが切れて漂流する。情事のあとにルネが気がついて、探しに船を回す。しかし、これが決定的な動機というわけでもない。2件の殺人事件を犯して「太陽がいっぱい」と至福の時間を過ごすことのできる若者に動機などない。あるとすれば、なにか知れない、下層階級のじれったいもがき――簡単に人の稼ぎなど吹き飛ばしてしまう(アメリカに帰ろうとしないから、ドロンには報酬の5千ドルが入らない)金持ちへの嫉妬。それらが言葉にならない次元でリプリーに巣くっている、というのは、味気ない解釈である。彼は殺し、女と金を奪い、幸せそうだ、でいいのである。ロネが姿をくらまして、自殺する、というのは、知人たちであれば、まっさきにありえない、と思うようなものだろう。そのあたり、映画的には無理を感じるが、原作はどうなんだろう。ドロンの眼差しは妖艶だが、その肉体には小さな筋肉がたくさん付いていて、それは若さではあろうが、なにかもっと精妙な生き物のような身体をしている。途中、ラフォレがルネに手紙を書いているあいだ、ドロンが魚市場を見て歩くシーンが結構長い。そこは実写的な撮り方で、ルネ・クレマン監督は何をしようとしたのだろう。音楽はニノ・ロータ。この映画、音楽の使い方が少し雑な感じがする。原作者パトリシア・ハイスミスは「キャロル(原題the price of salt)」「ライク・ア・キラー」など多数の映画に素材を提供している。


25 ありがとう、トニ・エルドマン(D)

2016年の映画である。ドイツ語の世界から英語の世界へと知らぬ間に転換する。おそらくルーマニアがEUに加盟して、急速度に資本主義化する世界を描いていると思われる。少なくともアッパーな世界では英語がふつうに使われている。石油会社をクライアントにもつコンサル会社に勤めるハードワーキングな娘のことが心配で、父親がドイツから娘のいるルーマニアにやってくる。彼女は会社側の代わりに馘首のプランを推し進めようとしている。娘はその交渉事や社内的な問題などで、ストレスフルな毎日を送っている。娘の窮状を見かねてやってきた父親だが、娘のすげない対応に一度はドイツに戻るが、今度は別人として変なかつらまで被ってやってくる。タイトルにある名前はその擬装の名前である。全編、無理だらけの映画だが、そこを楽しむ映画でもある。この種の映画がヨーロッパの映画にはあり、どれも出来がいい。

独特な“間”が印象的である。アメリカ映画にはこの間がない。娘と乗り込んだ、人で一杯のエレベーターの中、娘がモンスターに変装した父親を公園まで追いかけるところなど、無音で、しかも効果的である。そこには言葉が一杯詰まっている。「おまえは幸せか」と父は問い、娘は「パパは何のために生きているの?」と問い返す。父親はそのときに答えることができないが、あとでこう答える。「君が初めて自転車に乗れたとき、バスで君を学校に迎えに行ったとき、そのときは何とも思わなかったが、今となれば掛けがえのないものだったと気づく」。娘は最後、転職し、シンガポール(?)だかに行く。そのまえに祖母の葬儀に立ち会うのだが、父親と2人で裏庭で話をしたときに、先の父親の返答が披露されるのである。何かを取りに室内に戻った父親を待つ間、娘は父親が変装のときにはめる入れ歯を自分もはめてみる。ときおり口の端を曲げて、据わりが悪そうな表情をするのがおかしい。父親がなかなか帰ってこない、というところでプツンと映画が終わる。見事である。監督がマーレン・アデ、女性である。プロデューサー業が先である。主役がペーター・ジモニシェック、娘がザンドラ・ヒューラー。いずれも舞台出身。



26 トランボ(D)

アメリカにとってマッカーシーとは何だったのか。民主主義が死んだ時代としてくり返し呼び出される。本編はハリウッドテンと呼ばれた男たち――明らかに共産党という者もいれば、民主党支持という者もいる――を扱っている。なかでも不屈かつ柔軟に荒波に対処した脚本家トランボに焦点を当てている。彼らは仲間の裏切りなどで仕事を失い(ギャングスターのエドワードGロビンソンが裏切りの代表としてスポットが当てられる)、この映画の主人公のように投獄された者までいる。脚本家リリアン・ヘルマンの夫ダシール・ハミット(作家)も服役をしているが、それとダブってくる。トランボは出所後はB級映画会社で易い値段で脚本の仕事を受け、仲間たちと共同で量産に励む。その映画会社の社長がジョン・グッドマン。それらの映画にはすべて偽名がクレジットされる。なかで1本、「黒い雄牛」がアカデミー賞を獲ってしまう。そのときの偽名はロバート・リッチ。トランボはイアンMハンマーの名で「ローマの休日」の脚本を書き、それもアカデミー賞に輝いている。カーク・ダグラスが「スパルタカス」で初めてトランボの名をクレジットし、続いてオットー・プレミンジャーが「栄光への脱出」でまたしてもトランボをクレジットし、ようやくマッカーシーの時代は終わるが、ケネディが「スパルタカス」を見たニュース映像が流れ、それが大きな影響があったことが触れられている。50年代初頭から1975年まで、じつに20年近く、非米活動委員会は猛威を振るったわけだが、そのなかにはローゼンバーグ夫妻の死刑まである。リリアン・ヘルマンはその時代を「悪党どもの時代」と呼んでいる。主人公をブライアン・クランストンという男優が演じているが、ぼくはこの人を知らない。奥さん役をダイアン・レイン、これが強く、美しく、けなげな女性を演じてgood。2000万人の読者を持つと豪語し、LGメイヤーを脅し、ハリウッドテンの放逐を強いたのがヘッダ・ホッパー、その嫌な役をヘレン・ミレンが演じている。ホッパーと一緒に赤狩りをするのがジョン・ウエインである。


27 アイ、トーニャ(T)

ヒールを演じざるをえなかったスケート選手トーニャ・ハーディング。マーゴット・ロビーが演じているが、彼女はプロデューサーにも名を連ねている。子役は「ギフテッド」で見た子である。母親(アリソン・ジャネ)はレストラン勤めで、2回離婚、汚い言葉を吐き、娘を支配し、スケートに駆り立てる。お金がないから、トーニャは衣裳も自前で作る。審査員は彼女の醸し出す雰囲気が許せない。かける曲もハードロック調。3回転半という偉業を成し遂げても、白眼視は続く。トーニャの暴力夫は、妻の競争相手を手紙で脅し、演技に圧力を加えることを思いつき、だち公に頼むが、これがまったくの阿呆のデブ。自分は秘密諜報員で、対テロの活動もしている、と言い、脅しの手紙のかわりに男2人に競合相手を襲うことを依頼する。男は女の脚に傷を負わせるが、犯罪の証拠をあちこちに残し、すぐに逮捕される。阿呆のデブは、あの事件はおれがやった、と吹聴してまわり、これもすぐに捕まる。夫は手紙の脅しだけだから、微罪に終わるが、トーニャも脅しを知っていたと強弁し、結局、トーニャはスケート界から追放される。裁判官に、私は学校も行ってないから何も分からない、スケートしかないから奪わないで、と哀願するが聞き届けられない。トーニャはその後、女子プロセスに転身する。アメリカはつねに敵を作り出す衝動に駆られている、自分はその餌食になった、とトーニャは考える。最後に実写が映るが、実際のトーニャは映画のそれよりこじんまりした感じに見える。阿呆のデブが、劇中とまったく同じ発言をしている映像が流れる。この平凡な狂気を抱えた人物像が一番記憶に残る。トーニャのコーチ役のジュリアン・ニコルソンはシャリー・マクレーンに似て美しい。残念ながら、テレビが中心の女優さんである。最近、登場人物が観客に向かって語りかける設定を見かけるようになったが、これはむかし流行ったやり方で、以前のほうが映画は自由だったような気がする。


28 オールザッツジャズ(T)

これで何回目になるだろうか。ただし劇場で見るのは今回が初めてではないだろうか。ミュージカルは、われわれに身体の動きのすごさ、美しさを見せてくれる。それがカタストロフィーを呼ぶわけだが(かえって抑制することでエキサイティングになる「パルプフィクション」のトラボルタとユマ・サーマンのダンスがある)、ボブ・フォッシーのミュージカルはもう末期の症状を呈していて、全然踊りが楽しくない。唯一、恋人と娘が拙いながらも自宅で見せてくれる一連のシークエンスは見ていて楽しい(その娘のその後を調べてみたが、まったく映画、テレビに出ていないようだ。なぜなんだろう)。なんだか「レオン」でのナタリー・ポートマンのチャップリンやモンローを思い出してしまった。狭心症で病院に入ってからが長くて、矢継ぎ早に踊りと歌が披露される。前半は練習風景なので、ここでまとめて見せてしまえ、ということなのだが、やはりもっと早めにこういうものを見たい。死の間際に歌うのがガーファンクルのBye Bye Loveとは皮肉である。ロイ・シャイダーがとてもスローに歌う。サヨウナラ人生、サヨウナラ幸福と。結局、公演は中止となるわけだが、そのほうが保険が下りて初期投資も賄って大きな黒字だという。まるで「プロデューサー」と同じである。ロイ・シャイダーはとても活躍した役者だが、ぼくは「ブルーサンダー」ぐらいしかすぐには思い出せない。


29 ロスト・バケーション(S)

劇場で見ようか迷った映画である。登場人物はほぼ1人と1匹と1羽、あとはスマホ画面を大きく映し出す工夫が面白い。俯瞰の絵がものすごく大きく、いい感じである。ところどころ岩なのか藻なのが、黒く見えるところがあって、それが鮫に見えたりするから恐い。最後まで緊張して見たので肩が凝る。シャークをやっつけるシーンは、唸らせる。主人公はテキサスに戻るが、後年、テキサスの海に行くところで映画が終わる。えっ、テキサスに海があるのか?! というのですぐに調べたが、たしかに東南部はまったく海に面している。佐幕のイメージしかなかったので、意外や意外。


30 コロンビアーナ(S)

復讐劇だが、とてもよく出来ている。ぼくは2回目。監督オリビア・メガトン、96時間シリーズの2を撮っている。主役はゾエ・サルダーナだが、インフィニティ・ウォーに出ているらしいが、もうその種の映画を見ないので、彼女のその後は分からない。最後の小ボスとの格闘シーンは、カット割りだが、見応えがある。恋愛も絡めているが、ほどよい処理をしている。甘くならず、それでいて情感も感じさせる演出である。CIAの悪党に何も処罰がないのが、ひとつだけの不満である。


31 孤狼の血(T)

柚木裕子という人が原作だが、東映やくざ映画好きからこの作品を書いたということらしいが、原作が読みたくなる。映画は、予告篇で「傑作」とうたう馬鹿さ加減がすごい。傑作かどうかはこちらが決める話である。お客さんは、いつもは映画はご覧になってらっしゃんないだろうなというようなお方ばかりで、東映ってほんとにもう、とほくそ笑んだ。ストップモーションに語り入り、と「仁義なき」を踏襲している。頭から指を切ったり、豚の**を人間に食べさせたりえげつない。「仁義なき」はこんなはしたないことはしない。エンコ切りにしても、にわとりに突かせてユーモアにしている。芸が違うのである。

主役の役所広司の声が押さえが利かない声で、どうも頼りない。それに比べて尾谷組の若頭をやった江口洋介のほうが声がいいし、姿もいい。惚れ惚れする。彼が主役だと客が入らない? 尾谷組に話をつけて、3日で加古村との調整をすることになった役所。尾谷組は期限が過ぎたら戦争だ、と言ったが、結局、劇の最後まで事を起こさない。これでは、燃える男のやくざ映画にならないではないか。

あと、初めて役所が加古組の事務所に交渉に行くシーン。役所なのか、誰かが台詞をひとつ抜いたような変な間がある。それに、そんなに面子が揃って何も起きない。このシーンはいったい何のために撮ったのか。

主人公の役所が突然、姿を隠す。結局は殺されていたわけだが、伏線が用意されていない。危ないバランスの上にいるんだ、と役所にいわせるだけで、事がすむと思う演出家はダメなんじゃないのか。流れからいって、役所的な役柄を引き受けると思った新人松阪桃李は、ウソをついて両組を一網打尽にする。あれれ、である。それって、東映映画のやることなのか。

真木ようこが売れっ子ママだが、その男が尾谷組の息子という設定だが、あまりにも青二才で、しかも魅力がない。ママの人を見る目に狂いあり、という感じである。鉄砲玉のように死ぬ役柄だから、そういう青い男にしたのかもしれないが、ちょっとちゃうやろ、である。松坂を誘い込む役が阿部純子という女優で、達者な感じがあって、蒼井優に雰囲気が似ている。最後の種明かしのところが、よく分からなかった。役所の手引きで松坂に近づいた、ということなのかもしれないが、何のために? という疑問が残る。ナレーションの方、まさか「仁義なき」のときの方ではないでしょうね。


32 ゲティ家の身代金(T)

ケビン・スペイシーがMe too騒ぎで急に降板、それをクリストファー・プラマーが交替し、ものすごいスピードで撮り直したという。それがなぜできるかといえば、この映画には何の癖もないからである。金持ち一家の孫が殺されました、けちくさ爺が金を払わないと言いました、誘拐犯は怒って耳をそぎました……てな進行である。どうもアメリカにはこの手の映画が圧倒的に多くなっているような気がする。ヨーロッパの小品に目が引かれるのは、いろいろな企みでできているからである。誘拐犯の良心派を演じたロマン・デュリスが印象に残る。マイケル・ウォーバーグが警備から手を引く、といったときに、なぜ大富豪は動揺するのか。ここがよく分からない。それが結局、死に結びつくのだが。


33 さよなら、コダクローム(S)

エド・ハリスが出ている。息子役はキーファ・サザーランドに似ている。既視感いっぱいの映画。


34 捜査官X(S)

これは映像が第一にきれいで、中身もまあまあしっかりしている。こういう娯楽映画で中国映画の出来は知れているが、よくできている。新シャーロック・ホームズなどの技法を使っているが(体内映像や事件際再現スローモーション)、違和感がない。久しぶりに金城武を見たが、落ち着いたいい感じを出している。ドニー・チェンが西夏族の超能力者の一族という設定で、その魔王的な父親から逃げて、僻村で妻を娶り、子も生まれて平和でいるところに、ある事件の捜査で金城が訪れることから、物語が始まる。その謎解きが主だが、ドニー・チェンの過去の探索が絡んで来る。アクションが少ないのが不満だが、景色がとてもきれいで、とくに小川を写すと、たまらなく美しい。あと田舎の習俗などもきちんと描かれている。監督はピーター・チャンで、「最愛の子」「ウォーロード」「ウインターソング」など撮っていて、後ろ2作は金城が出ている。注目の監督である。撮影ジェイク・ポロック、ライ・イウファイで、美しい映像は前者か?


35 ファントム・スレッド(T)

ポール・トーマス・アンダースンはおそろく全部、観ている。ハードエイト、ブギーナイツ、マグノリア、パンチドランク・ラブ、ゼア・ウィル・ビー・ブラッド 、ザ・マスター、インヒアレント・ヴァイスで、いいなあと思ったのはハードエイツ、ブギーナイツ、ザ・マスターである。よくやるよ、というのがマグノリアにインヒアレント・バイスである。今度のファントム・スレッドに似たテイストがあるとすれば、ザ・マスターかもしれない。一方は妻が手淫を手伝うカリスマ、一方は性的交渉さえ自己管理しようとする発達障害のカリスマが主人公である。いわゆるファム・ファタールものである。毒キノコと承知して夫が食べるのは、自分のエゴに飽いているからである。ただし、妻がそれを、生気を取り戻すための儀式だというのは、映画の筋として分かるが、ちょっと唐突である。もう少し事前の準備が要る。音楽が美しい。室内映画なので、美しく撮らないと散々であるが、そこはPTA(監督名の略語)の本領発揮か。


36 万引き家族(T)

最後にどどっと急展開するのだが、よく分からない部分がある。役者の発音が悪いのでよけいに理解しにくい。お婆さん(樹木希林)に夫婦2人(リリー・フランキーに安藤さくら)、姉とおぼしき大人(松岡茉優)、息子(役名翔太)がひとり。そこに近所の小さな女の子(役名ジュリ、親から虐待を受けていた)が加わり、話は始まる。翔太がじつは本当の子ではないことは、かなり早い段階で明かされる。どこかで拾ってきた子である。姉と見えた茉優はじつは、お婆さんの関係者と言えなくはない。お婆さんの夫は亡くなっていて、お婆さんの後釜として主婦の座に坐った女の息子夫婦の子が茉優で、オーストラリアに留学しているはずの子である。彼女は風俗で働いている。年に一度お婆さんは亡夫の家に線香を上げに行き、3万円を貰って帰ってくる。その部屋に飾ってあった写真で、茉優がそういう存在の子であることが分かる。どうやってお婆さんの家に転がり込んだかは分からない。安藤さくらとリリー・フランキーの夫婦はお婆さんとは赤の他人で、偶然転がり込んだという設定。この2人が、どっちかの相方を殺しているらしい。それでリリーには前科があるらしい。ここらあたりがよく分からない。


お婆さんの樹木希林が死ぬが、葬式を出す金がないからといって、庭に埋めることに。その時の落ち着き払った安藤の様子は見物である。翔太がわざと万引きが見つかるようにして警察に捕まることが発端で、虚構の家族の様子が徐々に知れていく。近所の女の子も、虐待親のところに戻る。家族は選べないが、この2人の子たちは、少なくとも自分で親を選べただけ幸せではないか、と安藤が言うシーンがある。施設に入った翔太が、リリーのところに遊びに来て泊まっていく。「ぼくを置いて逃げるつもりだった?」と聞くと、リリーはそうだと答える。「もう俺は父ちゃんではなくオジサンでいい」と翔太に言う。翌日、翔太はバスで帰るが、リリーが追っても視線を送らない。しばらく経って後ろを眺めるが、翔太はもう二度とリリーとは会わないのではないか。それは、リリーが万引きではなく、駐車場で車上荒らしをするのを見たことが契機となったのではないか。


リリーが仕事に出かけようとして、靴の中に切った爪が入っていた、という細かい演出をしている。みんなで行った海水浴場の砂浜で、樹木が安藤の顔をじっと見て、「きれいに見える」としみじみ言うシーンも印象に残る。見えない隅田の花火を縁台からみんなで見上げ、それを俯瞰で撮るシーンは、絵柄として絶対にやりたかったというものであろう(意図が見え見えなので、このシーンは買わない)。刑務所に入った安藤は堂々とした、さっぱりしたもので、一見の価値あり、である。すべての罪をひっかぶったという設定。死体遺棄、子ども誘拐がそれぞれ減刑されて5年の刑期ということか。最後に、じゅりがアパートの通路で遊びながら、蛇腹のフェンスから少し背伸びして下界に視線をやるところで映画は終わる。それでも多少の未来はあるということか。


この映画の白眉は、リリーがシャワーを浴びている最中に安藤が風呂場に入り、2人が冷めた会話をす交わすシーンである。この夫婦の不気味なつながりが露呈してくるようで恐い。西葛西に戻って、また「あれをやれないいじゃないか。おまえだって、まだやれる」などという台詞もあるから、彼らは売春的なことをやっていたのでは。そのときに、翔太を拾ったのではないか。リリーがもっと恐い面を見せたら、この映画、もっとしんどくて、面白いものになったのではないか。疑似家族のなかで一番ふらふらしているように見えたのはリリーである。


ぼくはこの映画をカンヌ受賞と知らずに見たかった。映画評は、「三度目の殺人」と家族を追ってきたそれまでのテーマとの総合だ、と書き立てた。「三度目の殺人」も今度の映画も、是枝監督自身が、自分の映画の総合だ、と発言したのが悪かった。彼にはまるで司法のあり方などに興味がない。人のために殺人を犯したり、万引きで疑似家族を保とうとする人間に興味があるだけなのだ。ぼくは「歩いてもなお」で家族のあり方に、戦慄を覚えた。この映画はそれを超えていない。家族は偽装では保ちえない、としたら、次はどこへ行くのか? 役者を揃えることで客を呼んで、作品の質と興行的価値のバランスをとった小津のあとを追っている是枝の戦略は、いまのところ当たっているのだが。家族を描き続けるのも小津的ではあるのだが。


37 イコライザー(S)

もう何回目になるだろう。この映画には言うことがない。あるとすれば、クロエ・グレース・モレッツをもっと出せ、だけである。今風にいえば“痛い役柄”だが、こういう挑戦もいいのである。この映画、アメリカのテレビドラマの映画版だそうだ。なぜ2作目が来ないのか! アントワン・フークアという監督で、「マグイフィセントセブン」「トレーニングディ」「極大射程」を見ている。質のバラツキがある監督らしい。「キングアーサー」などというのも撮っている。


38 監獄の首領(S)

韓国映画で、監獄から外の世界を操作する悪党がいて、潜入刑事がそいつを追いつめる、という内容。主役は大鶴義丹のような顔した役者で魅力がない。その悪党の首領をやったのがハン・ソッキュ、これがいい。あまり彼を見てないが、ベテランらしい。「ベルリンファイル」は見ているが、記憶にない。しかし、要チェックである。小柄だけど十分に貫禄がある。外の世界をどう牛耳っているか、もっと丁寧にやってくれると面白いのだが。冒頭の殺害シーンをあとでうまく絡めていない。でも、この映画、十分に見ていられる。アメリカには監獄内ものがあるが(TVシリーズの「プリズン・ブレイク」「アルカトラス」など多数)、それをうまく翻案した感じである。あまりハリウッドを意識した韓国映画は好きではないが、これはよくこなれている。


39 空飛ぶタイヤ(T)

池井戸作品はほぼ全部読んでいるが、その感動とはだいぶ違う。おそらく脚本家が池井戸作品の核心を掴んでいないからだ。「半沢直樹」もそうだが、中小企業の怨念のようなものが描かれないと、池井戸作品にはなってこない。池井戸さんは元銀行員だが、大田区とかその先の横浜とかが舞台になることが多く、それも運送屋を扱った作品がほかにもある(BT63)。そういう顧客を相手にしていたのだろうか。主人公を長瀬智之が演じているが、無難にやっているが、なぜ彼でないといけないのかが分からない。同じような事故に遭った同業中小企業を訪ねて、ある一社にやはり自動車メーカーの不具合を疑った人間がいて、会いに行き、彼の掴んだ資料を貰ってくる。そのときの長瀬はほぼノーリアクションである。もっと何かがあってしかるべきではないか。


ディーン・フジオカという人を初めて見たが、魅力的である。高橋一生も初めてだが、抑制的な演技が印象に残る。小池栄子を久しぶりに見たが、まえほど熱狂的な感じで見ていることができない。いい役者さんだと思うのだが。岸部一徳が巨大自動車会社の常務で、これが悪の総本山だが、部屋がしょぼいし、何だか町工場みたいな標語が飾ってあったり、ちょっと違うのではないか。ディーン・フジオカのいる部屋も、やたら広いのに、社員がごちゃごちゃといる(時代設定か?)。岸辺は頭の毛が少ないのにパーマをかけていて、そんなの財閥系大企業でありなのか? フジオカたちが密談をする飲み屋もこじゃれているが、なんだかうまそうではない。知らない役者だが、フジオカの昇進をからかって、大声を上げるシーンがあるが、密談の場でそれはないだろう。岸辺と親元銀行のお偉方が会食する料亭も、自分で小鍋に具材を入れたりしてしょぼい。密談だから人払いした、という設定なのかもしれないけれど。池井戸作品ではぼくはやっぱり「花咲舞」である。あるいは、「ようこそ、わが家へ」の古参経理女子もいい。とっても強い。だれだろう、それをやれるのは? 杏がテレビでやったようだが、ぼくは見ていない。イメチェンで小雪あたり?(といっても、「オールウェイズ」しか知らないが) ぼくの好きな佐藤仁美?(ぜひ見てみたい!)


40 プリティウーマン(S)

何回目になるだろう。定番の映画ばかり見るようになったら老いぼれた証拠である。でも、やはり見てしまうのである。ジュリア・ロバーツの演技が飽きない。リチャード・ギアが大学院を出ている、と言うと、「きっと両親自慢の子だったのね」と言うシーンの表情がすごい。常識にのっとって褒めながら、実は真心もこもっていて、しかもろくに高校も出ていない人間がそれを言ってしまう場違いな感じもよく出ている。それは複雑な表情なのである。ギアが椅子に座って書類を読み、その前の床に腹ばいになり、たしか「ルーシー・ショー」のコントに笑い転げるジュリア。ここの弾ける笑いもいい。徐々にそのシークエンスは、オーラルセックスへと至るのだが。さらに、企業買収の相手とのディナーに同伴を頼まれ、慣れない高級レストランでの一つひとつの仕草が、ほどよい笑いに収まるように抑制されている。これはジュリアの演技の勘のよさと、監督の演出のなせる技かもしれない。ギアがホテルの酒場でピアノを弾いて部屋に帰ってこない。そこに下りていって、結局、二人でいたすことになるのだが、鍵盤が身体の動かし方で微妙な鳴り方をするのだが、それがよく計算されている。これは演出側の完全勝利。王道の映画でもっと大味に作られていると思うと大間違いで、じつに細かい配慮がなされれている。1週間の借り切りのあとに、高級アパートを譲る、という申し出を断るジュリア。今までそういう措置で女を囲い、捨ててきた、その例には入らないぞ、という意思表示である。かわいくて強い。そこを見ないと、この映画は甘くなる。ドラッグをやり、ジュリアの部屋代をそれに使ってしまうようなルームメイトの女性も、なかなかキュートで、この女性も自然な上昇志向を持っている。最近のジュリアの生彩のなさは、年のせいなのか。それほど期待もしていないが、残念感があるのも確か。


41 焼肉ドラゴン(T)

「月はどっちに出ている」脚本家の鄭義信の監督・脚本・原作である。芝居で当てたものの映画化らしい、彼には脚本「愛を乞うひと」もある。本作は既視感がいっぱい。「月はどっちに」で見せた鋭敏な時代感覚はどこへ?


42 アメリカン・ドリーマー(S)

石油卸業者が真っ当なビジネスで販路を急速に伸ばしたことで、同業者からの嫌がらせが続く。組合長はドライバーが危険だから銃を持たせろ、と言うが、正直一路で行くと決めた主人公はそれを拒否。自衛で銃をもった運転手が事を起こし、そもそも十幾つの罪で訴訟を起こされていた主人公は窮地に。重要な土地の取得に手付金を払っているが、全額を払う期限が迫るが銀行が手を引く。結局、高利で仲間内から金を借りるが、妻が不正で少しずつ金を貯めていて、最初はその使用を断るが、結局は支払いに充てることに。どうにか夢が叶うところで映画が終わるが、ドンパチもない、きわめて静かな映画である。それでも、暴力に訴えない、合理性と倫理性でビジネスを展開する主人公に、つい肩入れして見てしまう。妻がジェシカ・ジャスティンで、ギャングの娘。主人公をオスカー・アイザック、グアテマラの出身らしい。Xメンとかスターウォーズとか出ているようだが、見ていないので分からない。


43 チャーリンググロス街84番地

1986年の作で、アン・バンクロフト、アンソニー・ホプキンス、ジュデイ・デンチなどが出ている。ヘレン・ハンフというライター兼脚本家、といってもなかなか舞台では採用されず、テレビ放映が始まって脚本を使ってもらえるようになったという人のようだ。コロンビア大の学生スト(「いちご白書」で有名)に賛成し、警察に拘引される映像がテレビに流れるところを見ると、左翼系の人ということになる。あまりその辺が立ち入って描かれるわけではない。アメリカのそういう女性が古本で趣味のいいものをNYで探すととても高い。それでたまたま雑誌で見たイギリスの古書店に手紙で希望を出すと信じられないくらい安価で、テイストのいい本を送ってくる。そういうやりとりを20年近く続けたが、古書店主がガンで死んで交際は途絶えた。彼女はそれを小説にしベストセラー、そして舞台化、映画化された。アン・バンクロフト55歳の作品である。若づくりをして演技するのが痛々しい。もっと若作りが似合う女優はいなかったのか。ぼくはあのふてぶてしいミセス・ロビンソンにやられた口だが、そのとき彼女は36歳である! どう見ても50歳を超えている感じである。アンソニー・ホプキンスはまったく変わらず。ジュデイ・デンチがそれなりに痩せている。ウエル・メイドとはいわないが、手紙のやりとりと画面の分割でちゃんと進んで行く。映像と筋があれば映画はもつ、という証拠みたいなもの。イギリスがまだ戦争から立ち直れず、肉などの食料も手に入らない。それで、デンマークから缶詰やハムなどの食料品を送る、いまと変わらないことをやっている。そこでぐっと彼女と古書店のみんなとの連帯感が深まり、個人的な事柄までやりとりするのである。こんな豊かな時代があったのだと、感慨ひとしおの映画である。


44 マーシャル(S)

昨年の作品、評判も聞かなかったが、とてもいい。黒人地位向上委員会に属して、冤罪事件ばかりを扱ったThurgood Marshalが主人公である。実在の人物で、連邦判事まで登り詰めている。黒人としては初の快挙らしい。早速、彼の自伝をアマゾンで購入、そして彼の仲間として登場するラングストン・ヒューズの詩集も(前にいろいろなアメリカ詩人のアンソロジーを読んだことがあり、そこにヒューズも出ていた記憶がある)。詩がよければ、彼のエッセイなども読んでみたい。主人公を演じたチャドウイック・ボーズマンはとても印象のいい、意志の強く、それでいて易しい人柄がよく出ている。陪審員を選ぶときに、こちらに好意を寄せているか、検事に反感をもっているか、といった目線で選んでいる。相棒として抱き込んだユダヤ人の、民事専門の男にある女性陪審員候補が好意を寄せるが、本人が気づかず、サーグッドマンが教えるシーンがある。検事の鼻持ちならないエスタブリッシュに反感を持ち、あんたが話し出したら、メガネを外して身体を前に傾けたではないか、と。実際、彼女は陪審員のリーダーになり、議論を引っ張った形跡がある。事件は金持ちの婦人が、黒人お雇い運転手がレイプしたと訴えたが、実は和姦したことが恐くなって、狂言で彼を訴えたのである。彼にしても正直にいえば、保守性の強い地域だから虐殺に遭うのは目に見えていてので、ウソをついて、無実なのに刑期を短くすることを考えている。それをサーグッドマンが、先祖が血みどろになって勝ち得た自由を手放すのか、と諭し、検事の取引には応じさせない。結局、裁判に勝つのだが、相棒に抱き込んだジューイッシュへの偏見も根強く、それが当初は嫌々だったケースにのめり込むきっかけとなった。神さんも、やはり保守の地域で孤立することを怖れたが、母親が、誰それがメイドを辞めさせた、彼女は悪くないが訳の分からない親戚など出てきたら、幼い子どもが何をされるか分からない、という理由だったという。それを聞いて彼女は翻意し、夫を支える側に回る。ヨーロッパではヒトラーが虎口の声を挙げ、妻の欧州にいる親戚も虐殺に遭っている。そういう状況のなかでの黒人冤罪事件である。こおれが日本で劇場公開されなかったわけだが、そりゃ客は入らないだろうが、こういう映画は単館でもやってほしいものだ。


45 スピード(S)

見る映画がないときに何を見ているか、というのはとても重要な問題である。ゴッドファーザー、レオン、殺人の追憶、オールド・ボーイぐらいになると14,5回は優に超えているわけで、最近、やはり見るものがなくて「エイリアン3」の何度目かの視聴をし、そして楽しんでしまっている。あの映画は1(ワン)ですべてが終わっているのに、くり返しそのシチュエーションが見たいがために、最新作まで見てしまってはがっかりしているわけである。やはりシガーニー・ウィーバーなくしてエイリアンなしである。ということで、もう10回は見ているスピードだが、ぼくはサンドラ・ジュリアンの良さをうまく表現できない。2枚目半だが、どこかこの世のものではない感じがある。心ここにあらず、といった雰囲気なのである。宇宙でひっくり返った映画ではこっちが眩暈がして気持ちが悪くなったが、地球に帰って海から上がってきたときの姿態の完璧さには脱帽した。彼女はインディペンデントだけど協調性もある、おどけているが利発でもある。運動神経までは分からないが、よさそうな感じがしない。できれば、年に2本は新作が来てほしい。


46 クロッシング(S)

イーサン・ホーク、ドン・チードルといい役者が揃い、そこにリチャード・ギアを絡ませるひどさ。3人が警官で、イーサンは女房の叔母の黴の生えた家から脱出したくてギャングの金を盗もうとする警官、チードルは潜入捜査からダチを裏切られず抗争相手を殺す警官、そしてギアがただ年金を楽しみにしているダメ警官、これが最後に手柄を立てる。いやはや。クロッシングには何の意味もなく、不思議な縁を感じさせる仕組みは何もない。


















































 



















 

2016-12-31 2017年の映画

kimgood2016-12-31

昨年は「アスファルト」のような小品にいい味のものがあった。一昨年の「マジカルガール」でも感じたことだが、阿呆らしい設定なのに、そのふてぶしさに納得がいく、といった作りなのだ。それは背後に根太いユーモアを抱えているからできることである。見ていて企みの深さに納得する。深田晃治の「さようなら」にも、ぼくは強くそれを感じる。考えてみれば大作に良作なし、は昔から変わらないことだが。イーストウッドの「ハドソン川の奇跡」は既述のように、必要なものだけで押し通した迫力の凄さに脱帽した。ぼくは「チェンジリング」や「ミスティックリバー」のような異常な感覚が本来のイーストウッドの世界だと思っているが、趣はまったく違うが、この映画を買う。本道を堂々と歩いているからである。

「シンゴジラ」と「君の名は」が東宝ということで、雑誌あたりで東宝の一人勝ちがいわれ、それは監督主義ではなく、プロデューサー主義が日本に芽生えたからだ、という趣旨で書かれることが多いが、そもそも東宝はそういう大鑑巨砲主義の会社だったはずだ。映画館をたくさん持っているのだから、勝たない方がおかしい。3つの決断が東宝を良くしたと「アエラ」で書いているが、その一つはシネコン化したこと、あとの2つは企画部門を外に出し、あとで本社に戻したことだ、という。つまり1つは外圧、1つは本卦還りで、どこにも新機軸があるわけではない。プロデューサー主義がうまいくのは一時のことで、また次の壁がやってくる(作家主義との兼ね合いが必要だろう)。そもそも怪獣映画とアニメで1位を取って何がめでたいのか。歴代興収20位のうち19本が東宝らしいが、ほぼジブリのアニメとテレビものの映画化である。勝てば官軍だが、それで日本の映画界は明るいのか、といえば、ここにもアメリカ社会のような格差が現れている。2015年の邦画で10億円以上の興収を上げた作品が39本、それが全体の売上74.6%(898億円)を占めている。1億数千万円で作って10数館で封切るという中型作品が作りにくくなっている、と是枝裕和が同誌で語っている。見に行った、楽しかった、で別にいいが、できれば数年経って、じわっと思い出すような、そういう作品にも出合いたい。

本文の記号の意味:T=劇場、S(ストリーミング)=ネット、D=DVD

1 リピーテッド(S)

ニコール・キッドマン作品が続いている。「ドッグヴィル」のころの彼女の美しさよ! 以前ほど熱い思いで見ることはなくなったのは、作品にバラツキがある感じがしたからだ。尖ったのもあれば、シックもある、といったように。この映画はシックの方で、むかしガイ・ピアス主演で記憶が短期にしか保持できない男の話があったが、これは1日で振り出しに戻る。ウェルメイドな感じがするのは、そう描かないと前に進まないからである。コリン・ファースの悪役は無理がある。精神科医を演じたマーク・ストロングは好きな役者である。ラストの化粧を落とし気味の彼女はやはり老けた。


2 ヒッチコックとトリュフォー(T)

浩瀚な2人の対話本があるが、あれをめぐるドキュメントである。ヒッチを救い上げた本ということができる。この本が出た後、ヒッチは3本しか撮っていないらしい。しかも、今までの作風でいいのか、とトリュフォーに相談していたらしい。それにどういう返事をしたかは、この映画では語られない。ぼくは「フレンジー」をどうにかオンタイムで見ている。クラーク・ゲーブルやジェームズ・スチュワートのような古臭いしゃべり方をする俳優を使ったのは、やはり彼の趣味で、ぼくはどうも古風に過ぎて鼻につくが。客が入る入らないに拘るのは、彼のような作品であれば当然で、それにしても「めまい」の偏執狂的な作りは作家性が突出している。スコセッシが「サイコ」のジャネット・リーンの白いブラジャーが変だ、という発言をしている。次のシーンでは黒いそれに変わるのだが、どこが変なのかこの映画では語られないので、妙な疑問だけが残る。ヒッチは映画は映像で語るもので、そういう意味ではサイレントにサウンドが付いたのは間違いだったのでは、と言っている。これは当然の意見であるが、登場人物が声を発したというだけで客が押し寄せたのである。総天然色もそう。いまや特撮に3Dである。ヒッチならどうそれらを使いこなしただろう。3Dを撮ったスコセッシは今度の「沈黙」はフィルムで撮ったそうだ。何がどう変わるのか分からないが、楽しみなことは確かである。


3 ゴースト・バスターズ(T)

最新のやつである。別に言うことなしだが、4人の女性バスターのなかで、男勝りを演じたケイト・マッキノンの切れ方がいい。テレビ畑の人らしいが、久しぶりにいい女優さんを見た。


4 こころに剣士を(T)

フィランドの監督が撮ったエストニア映画である。戦中はドイツ、戦後はソ連の支配下にあった国で、戦前にナチスに荷担した人間が秘密警察に追われる。それが元フェンシングの選手で、田舎の小学校で部を創設し、子どもたちを教えるが、やがて子どもたちが中央の大会に出たいと言い出す。そこに行けば身を拘束されるのは目に見えているが、逃げているばかりではいけないと乗り込むことに。監督クラウス・ハロ、子どもたちがいいが、なかでも年長の男の子が憂愁があって、若きブラッド・ピットのよう。


5 ヴィンセントが教えてくれたこと(S)

ビル・マーレー主演の偏屈爺さん、認知症の妻を老人ホームに定期的に訪れ、医師の振りをして慰める。帰りには汚れ物を持って帰る。カメラはこの認知症の高齢女性をとてもきれいに撮っている。偏屈爺はふだんは博奕に女に酒にと忙しい。その隣に母子が引っ越しをしてくるが、母親は仕事で忙しい。偏屈爺が有料で息子のシッター役を買って出る。その彼が教えるのは喧嘩作法であり、酒場での注文の仕方、馬券の買い方である。アメリカは開拓者の国だ、というのが偏屈爺さんの信条だが、デジャ・ブを超えることはない。母親をメリッサ・マッカーシー、娼婦で妊婦をナオミ・ワッツ、ワッツはメキシカンなのか変な言葉使いで、お腹も大きいというワイルドな役をやっている。その勇気に脱帽。爺さんは“夜の女”のことを、女の中で最も正直に稼ぐ女、と定義している。


6 雲の上団五郎一座(T)

芸達者が揃った、舞台の当たり芸で、それを映画化したものではないか、と調べたら、テレビでやって、それを映画化したものらしい。小林信彦先生はたしか舞台で見ているから、公開放送のようなものを見たのか。エノケンが座長だが、すでに足が悪いのか、動きの場面がない。テレビでは車椅子で演じた、という話である。走る車から降りて、反対側のドアから入ってくる、という珍芸を演じたエノケンの面影がない。しがない旅回り一座が、新機軸を打ち出したいとする演出家に出合い、それが好評を得て、大阪に凱旋するというもの。冒頭、森川信が女装でおかしな動きをするところがあるが、さすがという動きである。こういうときに、森川の演じている題目がすっと出てくるくらいでないとダメだと思うが、素養がないから仕方がない。アチャコが団五郎一座を受け入れる興行主だが、人の良さがよく出ている。エンタツと別れてショックだったというが、結局、彼の方が生き延びた。あと三木のり平が源谷店でお富を訪ねるのにどうしたらいいか、と八波むとしとやりとりをするシーンがおかしい。引き戸を開けようとするが、そのまま外してしまう、というのが笑わせる。八波がセリフをきちんと言えないうらみがあるが。フランキー堺が新演出家をやっているが、うまく収まっている。二代目水谷八重子をきれいだと思ったことがなかったが、この映画では妙に可憐である。


7 南の国に雪が降る(T)

加藤大介の経験からでき上がった映画のはず。ニューギニア西部が舞台。有島一郎が加藤の補助的な役をやって、なかなか渋い。途中からニセ役者として渥美清が出てくるが、周りに森繁、伴淳といると、元気な兄ちゃんにすぎない。緞帳、背景、紙切れの雪、どれを見ても客は内地を思い出して歓喜する。こんなやりやすい舞台もなかっただろう。小林桂樹が見捨てられた部隊の一員を演じるが、一本調子で、味も何もない。


8 特出しヒモ天国(T)

山城新伍が出入りの自動車販売員からストリップ小屋のマネージャーになり、そして踊り子のヒモになる。何度も警察の手入れがあるが、最後にも長いドタバタがあり、うんざりさせられる。川谷拓三が警察官からヒモになった役を演じるが、やはり荷が勝ちすぎた。池玲子が最初から脱ぎっぷりがいい。芹明香はもちろん下手くそである。森崎東という監督は、どうも締まりが悪い映画ばかり撮る。


9 喜劇女の泣きどころ(T)

レズビアンショーで売った2人の女(太地喜和子、中川梨絵)とそのマネージャー(湯原昌幸)となった男の物語で、そこに日本のあちこちの放浪芸を採取して歩く小沢昭一先生が絡む。語りも先生である。2人の女を捨てたのが坂上次郎、ほぼラストに顔を出すが、調子のいい演技を見せて、流石である。小沢が質問し、答えようとすると、楽屋口に人が現れて挨拶をするので、先に進まない。その受け渡しが面白い。太地が死んだ知らせが来たので100万円の香奠を出したというが、実は5万円で、そのウソがバレて、すっと横顔を見せて、立ち去る間のいいこと。太地喜和子がよく脱いで頑張っている。警察官の財津一郎はふだんと違って抑えた演技で、なかなかである。監督は瀬川昌治で、結構、本数を撮っている監督である。全編を見ていることができる。


10 愛のむきだし、ドランゴ危機一発97(D)

「愛のむきだし」は20分で撃沈、「ドラゴン」は15分見て後は早回し。園子温、大丈夫か?!


11 アイヒマンを追え(T)

ナチ関連の映画が続いている。アイヒマン関連でも2つ先行して見ている。今回はその根源にユダヤ人で仲間を売った過去をもつ検事長がいたという話。その人物が同性愛者で、過去に何度かわいせつ罪で捕まっているという人物。彼が使う部下も同じ趣向で、彼はまんまと罠にはまってしまう。政権の官房長官、インテリジェンスのトップあたりもナチの残党らしい。自国で裁きたかったが、国際紛争のもみ合いで、イスラエルでやることに。映画としては何となく中途半端である。


12 コンサルタント(T)

監督ギャビン・オコーナー、未公開が多く、これは本邦初か。どこかの新聞が途中までとラストに溝があると書いていたが、なにを馬鹿な、である。終始はうまくついていて、話がうますぎるぐらいなのである。出来はかなりいい。アクションとドラマが適度に混ぜられながら進行する。財務省長官(「セッション」のJ.K.シモンズ)がなぜ経済犯罪でもないのに、いろいろな犯罪調査に乗り出すか分からない。シモンズはもっと悪のある役者と思ったが、見映えがしなかった。はじめ発達障害の子とそうでない子が出てくるが(じつは兄弟)、途中までどっちが主人公(ベン・アフレック)か分からなかった。2人がどん詰まりに会うという設定はやり過ぎだが、アクションもので兄弟が敵と味方となっていることを知らずにいる、という設定は今まで見たことがないのでOK。ウェルメイドだなと思うのは、アフレックの秘書的な役目の女性が実は小さい時施設で会い、ちょっとしたことで助けてくれた子という設定のところ。ただし、そういう発達障害の子を戦士に育てることは実際に可能なのかどうか、それが分からない。アフレックは監督映画が5月だかにやってくる。楽しみである。女優はアナ・ケンドリックでコメディの人らしい。ぼくはミュージカル「ビッチ・パーフェクト」で見ている。美人でもないが、役どころには合っている。


13 ダークプレイス(S)

シャリーズ・セロン主演、幼児期に家族が惨殺され、兄がその犯人と思い、そう証言したが、冤罪事件を追うアマチュア組織に金欲しさに近づいたことがきっかけで、ようやくにして真実に近づくことに。兄の恋人だが、クロエ・グレース・モレッツが残念な役をやっている。セロンは母が父親を銃で殺した過去を持っているが、この映画の制作陣に加わっている。年に1本ほどのペースで、いまどき珍しい女優さんである。もっと恐い映画にできただろうが、はなからそのつもりはないようだ。よって凡庸に終わってしまった。


14 ロープ(D)

ヒッチの室内劇で、「裏窓」よりもっと動きがない。名門大の出身者4人と寮の舎監、老夫婦、手伝いのおばさん、だけである。動機はよく分からないが、いちおう恋のもつれというところ。2人の男がパーティを開く。ロープで首を絞めて人を殺すところから始まるが、なんだか全然きっちり絞めないので、圧迫があるだけで呼吸困難になる病気の人かと思ったが、やはり絞殺らしい。その死体をチェストの中に仕舞い、その上に燭台、パーティの皿などを置き擬装する。殺された男の恋人がやってくる。もう一人男がやってくるが、その女が前に付き合っていた男である。じつは殺人の2人のうち主導権を握る男も、その女のかつての恋人という設定。勘の鋭い舎監のジェームズ・スチュアートが結局、事件を解決するが、もとはラスコリニコフ風の、優れた者がそうでないものを殺してもいい、という主張の人間。それが実際の殺人を知って、心を入れ換えたという、長い改心のセリフがあるが、付け足しである。殺しを主導した男はスチュアートの感化を受けて、優生思想に囚われているという設定だが、単に女への嫉妬だとしたほうが、もっと面白い映画になったものを。もう一人の殺し手はおどおどする役回りだが、下手くそである。1948年の作品で、ヒッチは停滞期に入っているのかもしれない。


15 特捜部Q(S)

まるでテレビの連続ものを見ているような感じだ。映像が軽く、展開も題材のわりに軽い、種明かしも軽い、といった具合だ。Huluあたりでざっと見てしまう映画である。北欧ノワールの映画化である。


16 ドクターストレンジ(T)

カンバーバッチ主演で観た映画だが、やはりこういう未来もの、SFものはぼくに合わない。宇宙を支配しようとする暗黒世界の王に顔があるというのも笑えるが、師匠のティルトンダストンさえできなかったことを短期間にマスターしたストレンジとは何者なのか。タイトルロールのあとにおまけが付いていたが、意味がよく分からなかったが、予告編みたい。カンバーバッチで見たいのは、ノーブルだが崩れたところもあるテーブルマジシャンかな。


17 絹の靴下(D)

アステア、シド・チャリシーで、ルビッチ「ニノチカ」のミュージカル版である。冴えたルビッチの演出と比ぶべくもない。1957年の作でアステアが58歳、しかし身体はよく動いている。ローックンロールが流行っているのでそれらしい曲も入れてあるが、あくまでそれ風にしたというだけ。映画は成績がよかったそうだが、それはひとへにチャリシーの色気ではないだろうか。カーテンの陰に隠れて絹の靴下を穿き、太ももが透けて見えるネグリジェのようなスカートで出てくるシーンにはびっくりさせられる。かなりきわどいからである。踊りで新規なものはないが、ほかのアステアものでも言えることだが、2人が慣れるまでの準備という段階では、微妙な不一致のようなものがあえて演出されているように思う。手の動きなどに少しだけ統一性がないのである。それはきっと演出である。3人のロシア人が笑わせ役だが、「イースターパレード」で一緒だったジュールス・マンシンがやはり奇妙な味がある。


18 ピッチ・パーフェクト2(S)

前作とほぼ同じ水準でできているのは、すごいことである。その代わり、変わり映えのしない中身である。みんなで頂点を目指すという本筋が動かないから、あとは途中の挫折感をどう入れるかだが、それは残念ながら利いていない。大した仲間割れも起きない。複数集合映画となれば多人種となるのがアメリカ映画だが、どういうわけかこのチームには黒人がいない。難民のチャイニーズという不思議な設定の人物はいるが。


19 沈黙(T)

中だるみのところもあるが、実に正攻法で撮っていて好感である。厚い靄のなかから人が出てくるシーンが何度かあるが、食傷気味である。評判の高いイッセ尾形の演技は、評判通りというしかない。アカデミー賞の助演賞をあげたいくらいの素晴らしい出来だが、アメリカ人にはあの良さは分からないかもしれない。浅野定信も長い英語のセリフが多く、ハリウッドがいかに彼をコケにした使い方をしていたか、これで分かろうというものである。棄教ばかりするキチジローを演じた窪塚は際立って何ということはないが、役柄が儲け役だった。首をはねられて死ぬ加瀬亮は、英語がうますぎるので、せりふがなかった。塚本晋也監督がモキチという役をやっている。

キリスト教を沼のように飲み込んだ日本という風土が分かる映画だが、諸外国はこれを見てどういう感慨を覚えるものだろうか。多少の誤解を避ける意味でも、鎖国という制度について、もうちょっと説明があったほうが良かったのではないか。それはスコセッシの意図とは違ってくるだろうが、公平性からはそうしたほうが良かった。主人公とイッセ尾形との宗教論争があるので、諸外国も日本を単に野蛮の国とはとらないとは思うし、棄教すれば赦しあるのだから、南米に渡って異教徒を皆殺しにしたキリスト教徒とは違うと思ってくれるだろう。江戸に来ても告解を求めるキチジローについ涙してしまった。映画のなかで、日本ではキリストを大日と呼んでいる、と批判的だが、「大日」には唯一神の意味合いがあり、真言宗ではデウスを大日とごく自然に捉えていたという。しかも、ザビエルも大日とイエスの比較については採用していたらしい。だから、リーアム・ニーソンが演じた棄教パードレの、イエス=大日説をとらえて日本人はキリスト教を理解していなかった、とする発言はいかがだろう(ということは、遠藤周作の説は妥当性があるか、ということだが)。


20 マグニフィセント7(T)

いわずと知れた「七人の侍」の翻案である。むかしには「荒野の七人」がある。仲間を集めるところは、後者のほうがわくわくする。緊張感のある映画だが、完全になぞった映画になっていて、先が読めるのが難点である。生き残りは黒人にメキシカンにネイティブである。皮肉な塩梅である。女優はヘイリー・ベネット、この映画の監督アントワン・フークアが撮った「イコライザー」に出ている。同作にはデンゼル・ワシントンも出ていた。女と西部の荒くれといえば、ひと悶着があってしかるべきだが、まったく気配なし。原作映画の清潔感に引きずられたか。


21 ラストミッション(S)

前に見ている気がする。というのはケビン・コスナーの娘役をやった女優(ピッチ・パーフェクト2に出ていたジェイリー・スタインフェルト)に記憶があるからである。しかし、妻役のコニー・ニールソンが少しダイアン・レインに似て、色気があるのである。それに今回気づいたということは、見るのは初めてか? シュミーズ姿の彼女が目の前にいて、コスナーの視線が熱くなると、早すぎる、バカね、という顔をする。彼女は今年だけで5、6本の出演予定である。この映画、内容的に既視感が強いが、ひとつ面白いのは喜劇仕立てになっているのに、全体がアクションとして成立していることである。監督Mcgの手腕のなせる技であろう。テレビ畑の人で、次回作も予定されていない。イタリア系の人のよいおっさんが出てくるが、これがダニー・デビートに似ていて、家族思いだが裏稼業という定番を演じ、コメディを支えている(大した面白くないが)。FBIのタフで、異常で、セクシーなエージェントを演じたのがアンバー・ハード、彼女も今年は出演作が多い。東欧系の不思議な味わいの女優である。なんだか筋と役柄が合ってないのでは? 残念なのは、いくつか脚本に無理がある点である。クラブのトイレで不良どもにいたずらされそうになった娘を豪腕で助ける父親、さて父親の職業は? と娘が疑うシークエンスがない。あるいは、娘が彼氏に夕食をつくって振る舞うという。そこで、捕まえたイタリア男に暴力を振るって、そのついでに携帯で娘に男の母親のとっておきのスパゲティのレシピを教えさせる――さてそんなことのできる父親とはどんな職業? と尋ねる場面がない。親子で車に乗ったときに、後ろで音がする。明らかにコツコツいっているわけだから、人間を積んでいると考えのが普通だろうが、娘はまったく気にしているふうではない。そんな娘で世の中わたっていけるのか、親は真剣に悩むべきである。さらに、追っている敵のパートナーが娘の惚れる若者の父親と分かった後、それについての説明が何もない。あんな暗黒街とつながっているような父親の息子とは付き合うな、とかなんとか。別にこれもスルーされてしまう。まるで劇をちゃんと仕立てていこうという意志が感じられない。喜劇とアクションの融合はいいが、あとはおざなり。残念である。


22 カンバセーションズ(S)

ほぼ2人で終始する室内劇。画面を2つに割り、ときに過去の2人の映像が映し出されるが、大概は対面していても画面は2つを合わせたかたちになっている。最初は戸惑うが、慣れてくると粋な演出という感じがしてくる。むかし半年間だけ夫婦だった2人が15年ぶりに男の妹の結婚式に付き添い人として来場し、一夜を共ににするだけの話である。結局は演技がうまいということになるのだろうが、飽きずに全編を見ていられるのだからすごい。アーロン・エッカートにヘレナ・ボナム=カーター。ぼくはこの女優さんを知らない。


23 たかが世界の終わり(T)

レア・セドゥで観た映画である。死を間近にした脚本家が、まったくごぶさただった家に帰ってくる。母親、妹、兄、その嫁、みんなが彼を中心に動く。それに反発して、調和に向かおうとする動きをことごとく兄が壊していく。結局、彼は何も和解の糸口をつかめずに家を去ることに。心理劇を盛り立てるための強調された演技に飽き飽きする。レア・セドウはやはりミッション・インポシブルのロシア編のときがきれいだった。観客は圧倒的に女性。


24 エクスポーズ 暗闇の迷宮(S)

駄作と呼ぶより怪作と呼んだ方がいいか。途中で投げ出さず最後まで観た自分を褒めたい。というのは、最後にこの映画の絵解きがあるからである。しかし、ぼくのような親切な鑑賞者がそういるとも思えない。キアヌ・リーブスがこういう映画を選ぶのだ、ということだけは記憶しておいていいのかもしれない。ジョン・ウィック2ができるらしいが、確かに喜ばしいが、身体を使ったアクションが予告編では見られない。ファーストで見せた長回しの1発撮りのアクション場面は、明らかに「オールドボーイ」を参考にしていると思われるが、今度も期待したいのだが。


25 ラ・ラ・ランド(T)

「セッション」の監督である。誇張のある監督だが、今回はオーソドクシー。では、なぜ今さらミュージカルを? デイミアン・チャゼルは31歳の俊英、ミュージカルはとっくに死んだジャンルなのに。高速道路の交通渋滞から始めるが、それぞれの車の中からさまざまな音楽が聞こえてくるという設定はOK。しかも、主演女優でない人間が中心になって踊り出す。へえ、自由にやるな、という感じである。ようやく車が動き出すが、エマがのろのろしていいるので、エマの後ろの車のゴスリングが苛ついて、追い抜く。これが2人の出合いである。シーンが切り替わって、映画スタジオ内のデリカテッセン。2つの空いた皿を上から撮して、さっとレジの場面に。鮮やかである。省略でリズムが出てくる。女優志願のエマ・ストーンがまたオーディションに落ちて部屋に帰ってくる。すると女友達3人がなだれ込んで来て、パーティに行こうという。さあダンスだ、と思うと、なかなか踊り出さない。エマを間に挟んで3人がソファに座り、ようやく歌が始まる。ここはグッド。パーティから抜け出し、車が駐禁でなくなり、歩いて帰るときにあるバーから精妙なピアノの音が。それがゴスリングとの再会であるが、ゴスリングは彼女に見向きもしない。しかし、また再会。エマが自分の車を探すためにゴスリングと丘に。ここでもなかなか踊り出さないが、いざ踊り出すと一切の逡巡なしに足が揃って踊り始める。これもグッド。あとはほぼバックステージ物のセオリー通りに進む。残念なのは音楽も踊りもない2人の劇のシーンがいいことである。あとの盛り上がりに欠けるのも仕方ないかもしれない。それにしてもアンハッピーに持ち込んだのはどうだったか。それと、エマをゴスリングは褒めるが、一度も演技のシーンを見ていない。それはおかしいのではないか。口先だけだから別れることになったのではないか。と言いながら、また2人でミュージカルを撮ってほしい。


26 チアダン(T)

どうもこの手の話に弱い。ほぼ予定通りの映画だが不覚にも泣けてくる。実話らしいが、「フラガール」と「パーフェクトピッチ」を合わせたような感じである。若者コメディにあるような劇画的なやり方で行くのかと思ったら、途中から大人しくなった。冒頭の、渚を撮して、大きな音とともにカメラがパンして、カリフォルニアの大会会場を撮すところはアメちゃん的な撮り方で、おおっと期待もしたが、すぐに場所は福井県に移って、まったりの日本映画になってしまった。そういう意味ではバランスが悪い。主人公がチームから外されて自主特訓、晴れて復帰というときに、単に心の声で「頑張ったわね」ですませてしまう無神経さ。これは省略とは言わない。手抜きである。アメリカでの初戦、これも描かれない。順番に描かないと、苦労の甲斐あって優勝という感じになってこない。それに最後にセンターが主人公の岩瀬すずに変わるのも唐突に見えてしまう。話だけ進行させても、感動がこっちに伝わってこない。もっと惜しいのはセンターにしたすずにカメラが寄らないので、コーチの意図がはぐらかされた感じになる。完全な演出の間違いである。仲間割れが起きて、すずと部長と不器用なすとりーとダンサーの3人が踊るシーンは、ミュージカルっぽくてグッド。なんだ日本でもミュージカルができるじゃん、である。東京から来たプロコーチ(?)陽月華というのがばっちりメイクだが、意外に合っている。河合勇人という監督は青春モノを撮っている監督のようだ。こういうのを見ても、「フラガール」や「しこふんじゃった」などはよくできていたのがよく分かる。


27 天使がくれた時間(S)

すれ違いものと呼んでいいだろう。ニコラス・ケイジ、ティア・レオーニがその2人、ドン・チードルが時間の支配をする天使? 野望の男が一人のクリスマスから突然、田舎町のワイフと子ども付きの世界へとワープする。最初、その世界の凡庸さに着いていけないが、その温もりのよさに気づく。ところが、最後はそこを捨てて、野望をもって生きている別のワイフを探し、やり直しを求めるところで終わる。どうも落ち着かない結末である。ティア・レオーニが子どもを早く寝かしつけて、今日はセックスの日よ、といそいそ騒がしい様子がやはり目を引く。


28 ジェーン(S)

ナタリー・ポートマン、ジョエル・エドガー、ユアン・マクレガーによる復讐西部劇。エドガーは恋人ポートマンを置いて南北戦争に向かう。英雄として帰ってくるが、捕虜になっていたこともあって、3年後のことだった。ナタリーは彼が死んだものと思って、漂泊の人となる。そこで出合ったのが悪党のマクレガーである。彼の仲間を殺した夫は、その連中に撃たれて、戻ってくる。追っ手が来るのが目に見えている。そこで元の恋人であるエドガーに救援を頼み、過去のあれこれが語られることに。最後はハッピーエンド。これがなかなかいい。思い諦めたはずのエドガーが、じつは近所に住んでいる、というのはなんだかな、という感じだが。ポートマンが気丈な女を演じてグッド。マクレガーも意外にいい。ダニエル・クレイグみたいだけど。彼女たちが住んでいるのは道路の行き止まりで、後ろは崖。これは敵の来襲を考えてのことだという。そういうふうに西部の人たちは暮らしたのだろうか。


29 アシュラ(T)

ファン・ジョミンが悪徳市長を演じるのは悲しいが、演技は相変わらずグッド。検事役のクァク・ドゥオンもなかなかである。最後の血だらけの惨劇も、もう食傷気味。


30 コクソン(T)

クァク・ドゥオンは何をしたらいいか分かっていない感じだ。ただ口を開けてアワアワ言っている。ソン・ガンホ似だが、到底及ばない。まさかファン・ミョンジョンが祈祷師役で出てくるとは思わなかった。悪霊払いで派手に踊るが、あれは作り事? 韓国の風習? 國村隼はこの役で得したのだろうか。韓国が日本をどう克服するかという暗喩のようだが、結局、異物として抱えるしかないようだ。ゾンビと底の浅い神学と脅かし映像の三位一体映画である。ナ・ホンジ監督は「チェイサー」「哀しき獣」の2作も完成度が低い。「哀しき獣」で悪党社長の情婦はすごく迫力があったが。この監督は、劇をまとめる力がないのでは。


31 スクープ(S)

封切りで見ようとしたが、じっとがまん。福山雅治が頑張ろうとするが、やはり無理がある。劇を引っ張るなどできない。脚本に無理があるのだから、それはごねるべきだ。突然、二階堂にキスしたり、元女房的な羊にもやさぐれ男のようなキスをしたり、こんなのは監督に文句を言うべきである。しかし、あの他人事のような演技は直らない。残念ながら二階堂ふみも、脚本の悪さを越えることができなかった。吉田羊もだれかの真似。滝藤賢一だけが、過剰な演技を抜かせば、しみじみいいところもある。写真週刊誌にも一片の真実があった、というのはホロリと来たが。すべてがデジャブだけど、これでいいのか、大根仁監督(「モテキ」も見ていない)。


32 ライオン

「奇跡がくれた数式」のデブ・パテルが主演、女優はフィンチャーの「ドラゴンタトゥの女」や「キャロル」に出たルーニー・マーラー。グーグルで25年の空白を埋めた男の物語で、意外と失踪に至るまでがていねいに描かれる。孤児を集めた施設では、夜に男児を外に連れ出して行くようなことをしている。主人公のサルーは施設に入る前に優しくしてくれた女性が呼んだある男に、どこかへ売られる(性的なことと思われる)と勘が働き、ぎりぎりで逃げ出している。彼は危機意識が働いたのである。そういうところが、何気なく描かれていて、好感である。サルーはじつはシャレルでライオンの意味であり、生まれた土地の名も少し違っていた。無人車で1300キロも運ばれ、言葉の違う地区まで運ばれる。ヒンズーが通じないベンガル地区? そこからタスマニアまで貰い子される。白人のマミーはニコール・キッドマン、ダッドはデビッド・ウェンハム。キッドマンの母親役とは、隔世の感あり。出生地をグーグルで探る話なので、そう盛り上がらない。


33 マーティンの小径(D)

チャールズ・ロートンという人が主演。1938年の映画である。戦前からずっと活躍した人らしい。寄りの絵のときに目が泳ぐような感じがある。ビビアン・リーが小娘役だが、次第にストリートから劇場内のスターへと駆け上がっていく。ロンドンの劇場のまわりにこういう芸人が屯し、芸能人の供給源になっていたことが分かる。閑話休題。彼女をバックアップしたロートンは相変わらず大道芸から抜けられない。レックス・ハリスンがビビアンを奪う役だが、彼も作曲の才能が枯渇しそうになってビビアンに捨てられる。そして、急にビビアンがロートンに温情を向け、舞台のチャンスを与えるが、大根だということでストリートへ戻る。今度は自分の居場所として覚悟して。ハリスンがこんな時代から歌っていたのかと驚いた。やはりミュージカルに出る理由があったのだ。


34 ガール・オン・ザ・トレイン(S)

主演エミリー・ブラント、「ボダーライン」で見ている。ヘイリー・ベネットは「イコライザー」「マグニフィセントセブン」で見ている。何だかこれとそっくりな映画を観たことがあるような……。よくできているが、ヘイリー・ベネットが脱ぎ役で使われた感じがあって残念。それからいけば「マグニフィセントセブン」の監督は彼女の扱いにリスペクトがあった。思い出したが、ベネットはアン・ヘッシュに似ているのだ。


35 フェンス(S)

デンゼル・ワシントンが監督・主演で、ビオラ・ディビスが妻役。ディビスはこれで何かの賞を取ったが、彼女は「ダウト」で初めて見て、いい役者だなと思ったものである。それに比べれば、今回の演技など朝飯前だろう。主人公の設定が中途半端で、もっと突き放して撮らないと主題が生きてこない。黒人であるがために淡い希望などを捨てた元野球選手。子どもを支配し、老いて外に子をつくる。それを善人のタフガイのように描くのは、やはり主演・監督の甘さだろう。


36 無限の住人(T)

三池崇である。大活劇が冒頭とラストにあるが、さて。ワイヤーロープによる飛び、跳ねを見せられる以上、活劇も活劇として見ることができない。そもそも刀では拳による殴り合いのような迫力は出にくい。残念だが、見る側がスレてしまっている。木村拓也はきっと魅力的なのだろうが、やはりいつもの「って言ってんだろ!!」式の台詞まわしばかり。ぼくはテレビは分からないが、もっとふつうの演技で彼を見てみたいものである。心理劇でもなんでもいいが。ヒロインが弱すぎるのと、現代っ子すぎる。そして単調。荷が重すぎた。綾瀬はるかの座頭市だったか、悪党どもの衣裳がなんだかヨーロッッパ中世のそれみたいで、非常に違和感があったが、今回もざっくりとスリットが入ったチャイナ服のようなものを着た女とか、ミニの着物(これは黒澤でもあったけれど)、黒マスクのおっ立ち頭の男とか、バラバラである。原作が漫画らしく、それに引きずられたか。これはう時代考証は別にいいのか。映画は江戸時代という設定である。そのチャイナ服の女、じつは花魁という設定だが、その衣裳が妙にしょぼいのである。花魁=豪華というのを見事に裏切っている。これも時代考証か? その女が拓也にいざとどめを差そうというときに、突然、自分を差配する男(福士蒼太)のやることに疑問がある、などと言い出す。これはヒドイ。市原隼人という役者は目が生き生きしている。市川海老蔵は、今まで見た映画の中で一番良かった。やたら腕を切り落とすのは品がない。


37 劇場版MOZU(S)

西島秀俊の主人公は線が細く、アクションシーンも迫力不足。長谷川博巳は何か西洋映画の役どころと勘違いしているのではないか。たとえば、バットマンのジョーカーのような。松阪桃李はほかの映画でもこういうキレキレの役を見たが、違和感なしに見ていることができる。老いた「だるま」を蘇生させるために少女誘拐、というのは馬鹿げた設定である。少女の身に何も起こらないと分かっているので、緊張感がまったくない。西島も殺されないのが分かっているので、ちっとも恐くない。予定調和で映画を撮って何が面白いのか。どこで撮影したか知らないが、もっとアジアの混沌のなかに入っていかないと、行った意味がない。ただ舞台を借りただけ。悪いハリウッド趣味がぷんぷん匂う。羽住英一郎という監督で、ぼくは見たことがない。


38 海を渡る座頭市(S)

池広一夫監督、脚本新藤兼人、女優安田道代、悪党山形勲と役者もそろい、いい出来である。ただ冒頭の手首を切り落として、それを見せる演出は要らない。自分を狙う男を殺すと、そいつの馬がてくてく市についてくる。分かれ道で、馬が別の道へ行くので市がついていくと、今度は先後が逆になる。市と道代が川で泳ぐシーンがあるが、ほかの座頭市でもあったようなシーン。「馬糞はらっきょうより嫌い」の台詞があるが、らっきょうをセックスの前に食べない、というのが「駅前旅館」にある。


39 ダンシング・クイーン(S)

ファン・ミョンジョン主演、しがない弁護士が線路に落ちた人を助けた、というのはウソで、後ろから押されてやむなくその仕儀になった男が、市長に立候補。ところが、かつてダンシングクイーンといわれた妻が、自分の人生をやり直すというので猛特訓し、仲間とデビュー。それが「家庭の管理もできない」と敵の材料にされるが、家庭も市も管理するものではない、との名演説で市長に。踊りも、民主義主義もきちんと描かれ、韓国映画は自由だし、日本より民主義主義のよさをしみじみ知っている感じがする。ソウル特別市長の特別が発音できないギャグがあるが、よく意味が分からない。監督イ・ソックンでジョンミンで「ヒマラヤ」を撮っている。


40 裏切りの陰謀(S)

ファン・ジョンミン主演で、ハグレ記者といった役どころ。政府以上の政府が邪魔者を消して、対北脅威を煽る。その陰の策略を暴く、というものだが、緊張感がない。地方出身の記者でスクープを放ち、中央にスカウトされた太った、はげ頭の男は、よく脇で見るが、堂々と準主役をやっている。なかなか愛嬌があっていい。娘が小児がんという設定で、それが分かると、「歳も近いのだから敬語なしで呼べ」と態度がくるっと変わるところがいい。最近、脇役の人が主役の映画も封切りされていている。韓国に違う流れが起きているのかもしれない。


41 スプリット(T)

シャラマン復活というから見に行ったが、またしてもダマされた。これで2回目である。彼は1作目の「シックスセンス」を超えることができないようだ。23人格が3人の若い女性を閉じ込めて、まったく恐くならないのだから、どうしようもない。


42 マンチェスター・バイ・ザ・シー

ケイシー・アフレック主演、監督ケネス・ロナーガン、監督・脚本で1、2本あるようだ。風景がまず美しい。半地下のワンルームの窓に人の脚の影が映るのだが、雪が降り始めるときの感じがいい。夜景もとてもきれいである。あと音楽がつねに鳴っていても違和感がないが、この映画は音は要らないかもしれない。場面転換で時間の流れが自由に表現されるが、一番最初だけちょっと戸惑うが、あとは何ともない。兄が死んだらしい知らせが入り、ボストンから1時間半のマサチューセッツの病院に駆けつける。医者と話をし、次に挟まれたシーンに、ベッドに横たわる男と、向こうには女と老人、こっちに背を見せているのがアフレックらしい。兄が入院したときの場面らしい。その映像を突然入れるのである。いまは配管工事などの便利屋をやっている彼、兄の子の後見人に遺言で指名されるが、その地には辛い思い出が一杯で、それを克服することができない。火事で3人の子を亡くしている。夜中まで自宅の地下で仲間と大声で遊び、妻(ミシェル・ウイリアムズ)の叱声で解散。2階は暖房がないので、薪ストーブに薪を入れ、片道20分の買い物に。帰ってくれば、全焼で子どもが死んでいた。ストーブに蓋をしなかったために、薪が転がり出したらしい。妻はそれを責め、結局は離婚に。兄も、妻がアルコールに溺れ、離婚に(入院時にはいるので、入院中に離婚か)。アフレックの妻、兄の妻、どちらも家庭を持ち、アフレックの妻は赤ん坊までできている。兄の病院まで行くまでに、仕事の様子がきっちり撮され、酔って暴力を振るう癖も描かれる。さみしい映画だが、最後、いまいるシングルルームから移って、一部屋用意しようかな、と洩らす。なんで? と兄の息子が聞くと、おまえがボストンに遊びに来るかも知れない、ボストンの大学に入るかも知れない、という。そこでささやかな和解が描かれる。アメリカ映画にも、こういう映画がまだ撮れるのだ。アフレックは心に残る名演であろう。


43 シカゴ(S)

前に見てぼくはきつかった。しかし、井原高忠が評価が高いので、再見。会話体と歌・踊りを完全分離することで成り立っているのがよく分かった。だけど、ぼくなんざ会話の途中で歌い出したってまったく平気である。これはミュージカルの基礎がないからなのか。そうでもないと思うのは、ずっとアメリカン・ミュージカルは、少なくともon the screen に関して言えば、ずっと不自然だったのである。


44 殺人の追憶(D)

何度目だろうか。今回は少し理屈っぽく語りたい。この映画の冒頭は妙に白っぽい、光が過剰に回ったような映像である。そして、最後も同じ白茶けた映像で終わる。その間は、闇であり、雨であり、森であり、女子校のトイレであり、廃屋のような民家である。城のような屹立したものとして大きな工場が映し出される。犯人と目される、眉目秀麗の、女のような柔らかな手をした青年はそこで事務の仕事をしている。彼は軍隊を退いて、そこの村にやってきた、という設定になっている。話の展開は、冤罪などまったく平気な田舎刑事とソウルからやってきた四大卒業の刑事との確執で展開するが、次第に事件にのめり込んでいくエリート刑事が冤罪でもぶち込んでやりたいとまで言い出す。彼にも旧時代の感覚が拭いがたく刻印されている。田舎刑事には病院の看護婦を辞めた恋人がいて、彼女から事件の行き詰まりに祈祷師を使うようアドバイスされたり、元気になる液体を注射してもらっている。


事件が大きく動くのは、刑事部の女性事務員が事件が起きる日に共通性がある、と言い出したからである。雨の日で、夕方のラジオのリクエスト番組に決まって同じ局がかかるときに、赤い服のきれいな女性が殺されている、という。そこからにわかに犯人像が絞り込まれるのだが、それまで容疑者として引っ張られていたのは、知的遅れのある変態オヤジ、顔に火傷のあとをもつ、これも知恵遅れの青年などだ。そこに端正な顔立ちの、まるで女形のような青年が真犯人として浮かび上がるとこに、この映画の最大の魅力がある。見えない縦糸のように、韓国が軍政だったころの機動隊と学生の乱闘の様なども挟まれる。事件発生の条件が整い、さあ機動隊を呼ぼうとなったときに、大きなデモに対処するために出払って、まんまと犯人に新たな殺人を許してしまう。


泥臭い旧世界と、つるんとした、表面上は美しいが、なかは得たいが知れない新世界。刑事たちの奮闘も、最後はアメリカに依頼したDNA検査で否定される。韓国がまさに変貌しようとしていたその時期をまざまざと描いた映画だったのではないか。それは冒頭とラストの白っぽい映像が如実に物語っている。刑事を辞めた男はいまはパソコンのセールスマンになっているという丁寧な落ちまで付いている。刑事や容疑者のいる闇の世界と近代工場とそこに務める白皙の美青年という光の世界の対比。といっても、その美青年も異様な犯罪を繰り返す存在でもあるのだが。軍隊経験がなにがしかの影響があったのかもしれないが、それを想像させる材料は映画の中にはない。


45 ミセス・ダウト(S)

ようやくにして見た。思いのほか面白かったが、やはり思い描いたままの映画だった。ピアーズ・ブルロスナンがいい男役で出ていて、何も悪いところがないのにミセス・ダウトにいじめられるのは理不尽である。子どもたちもけっこう懐いているのに。女性へと変身するときにシナトラの曲がかかっている。箒を使って遊んだり、楽しげにやっている。昔、自分が振ったブロズナンとの再会後のサリー・フィールドの、自信を取り戻したような表情がいい。


46 メッセージ(T)

ほぼ結末まで分かるような映画だが、最後になって仕組みが分かる構図になっていて、大作なのに考え落ちに入るのはどうかと思う。マグリットのような岩、タコのイメージの宇宙人、そこに蝟集するアメリカ軍、世界12箇所に散らばる宇宙岩など、すべて既視感である。宇宙人が墨文字を書くのには嬉しかったが。しかし、自分のとんでもない能力に気づかない言語学者とは? エイミー・アダムスにジェレミー・レナー、陸軍大将がホィットテイカーなど。監督ドゥニ・ビルヌーブでカナダ人、「ボーダーライン」を撮っている。あれも女性が主人公だった。宇宙人に最初に手を出そうとしたのが中国軍だが、その設定はおかしいのではないか。血気に逸るアメリカが先だろう。


47 20thセンチュリーウマーン(T)

アネット・ベニング主演で、彼女は大恐慌を経験している、と息子に揶揄されている。70年代に50歳半ばという設定である。息子ジェイミーはまだ15歳である。エイズも、ネットもまだ誕生していない時代だと言っている。古い家を買い、それの修理をしてくれている男もそこに住んでいる。ビリー・クラダップで、ぼくは「スポットライト」で見ているのだろうと思う。黙っていてももてるので女性の好みが分からないという。元ヒッピーでヨガをやる。もう一人の同居人は写真家で、かつての手術で子宮頸管に傷があり、子どもができないと医者の診断を受けるが、のちに子どもを2人なしている。彼女はジェイミーにもてる男の像を教えようとし、女の心理なども伝えようとする。トーキングヘッズなどの曲を聴き、下手でも情熱があればいい、とベニングには驚きの見解をもつ。夜な夜なジェイミーの2階の部屋に外から上がって来て、ただベッドに並んで寝るだけのが同級生のエル・ファニングで、この子には妙な気配がある。ジェイミーは彼女とセックスをしたいが、結局はあんたも普通の男と同じと拒絶される。2人は逃避行に及ぶが、結局は逃げ出すことはない。


ベニングが演じた20世紀の女は、調和のとれた音楽を好み、比較的害の少ないと思われるセーラムをヘビィに吸い(それは格好いいedgyと思われたから)、結婚をしないと幸せを掴めない女と思われるのが嫌で結婚したと言い、性的な露骨な言葉を使うことを嫌い、男性とは淡泊で、息子の言動についていけず上記2人の若い女性に訓育を頼み、毎晩ベッドでピターラビットを読み、自動車が火を噴き消火してくれた隊員を家に招き、息子が性から離れている女性の問題点を本を読んで説明すると、自分のことは自分で分かるからいい、と言う女性である。彼女に人生の焦りはない。悩んでいるのは、息子との関係だけである。しかし、息子が学校をさぼることには反対しないし、警官が突然車を止めさせて、職務訊問を始めることに抗議をするというリベラルな様子も見せる。カーターの道徳臭いテレビ演説を一人、素晴らしいと評価する。それが20世紀ウーマンだったというのである。いわゆる60年代以降のフェミニストの露骨さをもたず、自己主張も弱い。しかし、焦り、焦燥感のようなものがなく、ホスピタリティに溢れている。そこに監督は古き良きものを見ているのかもしれない。じっくりと人間関係のなかで、あまり波風立てずに描いていくのは好感である。しつこい感じもあるが、ヨーロッパ風な味わいさえ感じられる。ベニングはその特徴のない女性を見事に演じたという意味では称賛に値する。


48 鬼太鼓座(T)

加藤泰で、美術が横尾忠則、題字が粟津潔、電子音楽が一柳慧という豪華である。ローアングルも極まれりで、ふんどしで太鼓を叩く男の股間を下から撮すのにはまいる。三味線、太鼓だけでいいのに変なキーンという電子音をかぶせるのはナンセンスである。女性が美しくないのは魅力を半減する。

49 瞼の母(T)

江州(滋賀県)馬場の忠太郎は友人(松方弘樹)を助け飯岡の助五郎(千葉県香取郡東庄町)に刀傷を負わせて、5歳ではぐれた母を探しに江戸に出る。そこにも飯岡の手の人間がやってくるが、忠太郎はめっぽう腕が立つ。母は大店の女将(木暮三千代)に収まり、これも大店の嫁におさまる娘の婚儀を待ちかねている。そこに忠太郎が現れたので、最初は金銭欲しさ、つぎは乗っ取りを疑って、実子だと分かりながら忠太郎を拒む。火鉢をはさんで忠太郎がいまにも飛び付きそうな勢いで口説きをするシーンは、ちょっとやりすぎ感がある。しかし、いかにも芝居仕立ての感じが懐かしい。せっかく母や妹やその将来の夫(河原崎長一郎)が忠太郎を追って、名前を呼び叫ぶが、忠太郎は出ていかない。何の説明もないが、自分がいてはいけないところだと悟ったということなのだろう。むかしの人はそんなことは承知で見ていたのだろう。加藤泰監督である。


50 異人たちの夏(S)

大林宣彦監督、風間杜夫、永島敏行、片岡鶴太郎、秋吉久美子など。名取りが夜中に飲みさしのシャンパンをもって風間の部屋に押しかけ、半開きのドアで押し問答するところは、厚かましいけど憎めない感じも出さないといけないという微妙なところで、さすがの演技をしている。なぜ彼女と付き合いはじめたときに亡くなった父母と会うようになったのか、その理由が解き明かされない。3人に会ったことを感謝することで映画は終わるわけだが。異次元への境界超えは、廃線となった地下鉄が眼前を通ることで表現されるが、そのときほかに2人の同行者がいたわけで、彼らとその件に関してひと言も会話がないのはおかしい。一番の問題は名取裕子の正体曝露でオカルトになったことである。せっかくのほんわかした雰囲気が吹き飛んでしまう。


51 リンカーン弁護士(S)

監督ブラッド・ファーマン、ほかに見たことがない。マシュー・マコノヒー主演、彼も顔を知っているぐらい。 ライアン・フィリップという男優が悪役、この人も知らない。マリサ・トメイがマコノヒーの別れた妻、目尻のシワが目立つようになったが、相変わらずきれい。 ウィリアム・H・メイシーはシワが氷河のように顔を刻んでいる。思いもかけずいい映画で、ゆるみなく見ていることができた。残酷な殺人犯が無罪だといって弁護を求めてくるが、探っているうちにかつて自分が無期刑でぶちこんだ男の事件もそいつが引き起こしたものと分かる。しかし、守秘義務の壁で弁護を続けるしかない。それで採った手は? 駄目な弁護士だが、不正は許せない。それがきっと爽快感につながるのだろう。


52 ジョン・ウィック Chapter2(T)

予告編ではヨーロッパが舞台、それに着飾った人間たちの中で撃ち合い――ということで、またアメリカ映画のいつもの2作目の失敗パターンかと思った。やたら筋をややこしく、そして展開を早くして、中身があるように見せる、という手口で、初回にもっていた映画を駆動させる情念みたいなものが吹っ飛んでしまうのである。ジョン・ウイックを戦いに駆り立てるのは、亡き妻への愛情である。それが前作を貫き、統一感を持たせた。それとリタイアした伝説の殺し屋という設定が魅力的だった。今回はそれを何で補完するのか、というのが最大のポイントである。朝日新聞では何か批判的なコメントを掲げ、それでもアクションシーンはいい、などといい加減な映画評を載せていたが、これは2作目としてはここ最近では上出来の部類である。冒頭から車をガンガン走らせるのは常套手段で、そろそろこういう手も飽きてきている。妻との思い出が詰まった車を奪い返す、という設定だが、ここに出てくるロシアマフィアは次に展開する話とは別物である。なんとなくこのつぎはぎスタイルは、MIシリーズに似ている。

この映画を駆動させるのは、仲間の血の契りである。ウイックはそれを破ろうとするが果たせない。最後は組織全体から追われるところでフィニッシュである。柔道の背負い投げがくり返されるのは、前回になかったことではないか。格闘しながら銃を使うのは「レイド」のパクリか。何度も見ていると、ちょっと単調である。もう少しアクションの幅が欲しい。前半の話が一段落して、次のラストに移るまでの弛緩した時間処理をもっと工夫すべきである。これは最近のアクション映画全般に言えることで、冒頭で引っ張るだけ引っ張っておいて、あとの展開に移るまでがダレるのである。映画を30分短くすれば、この悩みは解決するはずだが、最近の映画は2時間を超えるのは平気である。一考あってしかるべきではないか。第3作目を期待したいが、制作陣もそのつもりではないか。


53 哀しき獣(S)

これで4度目である。まだこの映画の構図がよく分からない。投資家兼学者を殺したのは誰か。ラストを見ると、銀行員と結託した妻ということになるが、その学者と組んで悪事を働いていた実業家(?)は、死ぬ間際に学者が自分の愛人と関係を結んでいたからだ、と呟く。主人公は満州に帰る船で死に、捜して死んでいると思った妻はその故郷へと帰ってくる。さて、この「哀しき」獣たちは、なぜ哀しいのか。それは女たちに人生を狂わされたからである。初回から実業家の愛人の裸の迫力に驚いてきたが、実は監督はそこに力を入れたのである。故郷の駅に降り立った女房はあくまで清楚に撮っている。これもたくらみである。それにしても、のちに主役級になる人たちがごろごろ出ている映画である。学者しかり、満州のボスしかり、実業家しかり。主人公の影の薄いこと。


60 ニック・オブ・タイム(S)

in the nick of timeで「間に合って」という意味のようだ。すごいいい加減な映画だが、最後まで見てしまった。なんか前にも見たことがあるような……。素人を知事殺害者に仕立てる話だが、まわりはみんな反知事の人間ばかりで固めているのに、なんでわざわざ素人を雇って殺しをさせる意味があるのか分からない。ジョニー・デップ、クリストファー・ウォーケンが出ている。


61 優雅な世界(S)

監督ハン・ジェリム、主演ソン・ガンホ、彼の幼友達がオ・ダルス、娘がキム・ソウン、やくざの会長がチェ・イルファ、その弟がヨン・ジェムン。のんびり、ゆっくり進みながら、無理なく撮り終わっていて好感である。やくざでしか暮らせない男の哀感が最後に出ている。アメリカに行ってしまった妻、息子、娘の楽しそうな映像が送られてくる。最初はうれしそうに見ているが、途中で「なぜこんなことに」と悔恨に襲われ、食べていた麺の器を床にたたきつける。しかし、一人暮らしで誰も片づける者はいない。ゴミ袋とタオルを持ってきて拭き始めるが、彼の右横にある大きなテレビのスクリーンには相変わらずアメリカの団欒が映っている。皮肉なラストでいい。この監督はあと2作しかないようだが、ちょっと見てみたくなる。


62 ハイドリヒを撃て!(T)

朝日新聞は激評である。さてそうなのか。ぼくは仲間を密告する男がただ懸賞金のためにやったという演出をしているが、あれは史実なのか。その密告男がさんざんいたぶられたうえに犬のように使われる。そこに僕はナチの恐さを見た。ハイドリヒはナチのナンバー3ということだが、戦中で殺された中では序列1位だそうである。襲撃事件より、その後の教会での銃撃戦のほうが劇的である。チェコの愛国の映画をなぜ英語で撮るのか。英語帝国主義は取るに足りないとでも言うのか。


64 クーリンチ少年殺人事件

登場人物が多く、名前も似ているので、途中までよく分からずに見ている。小四、小明、小虎、山東、ハニー、小翠などなど。ハニーが山東に殺されるに及んで、やっと構図が見えてきた。ハニーを殺され、復讐の場面が停電で真っ暗という演出がいい。あるいは、頭を抜かして体だけを撮る方法だとか、馬生に会いに行った小四の場合、まったく小四を撮さず、馬生の動きだけで2人の会話を成り立たせている演出もいい。この映画の背景は、中国からやってきた国民党の本省人への弾圧である。小四の父親が監禁され、しつこく聞かれるのは中国共産党との関連である。小明がヒロインだが、つねに強い男に付く女で、自分にはいつも男が言い寄る、と平気で言う女である。小四は彼女に惚れ、彼女に翻弄される。そして、最後には彼女を殺してしまう。小四は小明および小翠と付き合うが、どちらからも「私を変えようとするのは間違いだ」と指摘される。おそらく、この女性が象徴するのは本省人で、どんな侵略をされようと変わりようがないという暗喩である。好きな女が倫理観などはなから捨ててかかっていたこを知るのはつらい。小四はまったく宗教臭のない男だったが、後半に来てクリスチャンの次姉に親近感を覚えるのは、作劇上の知恵でもある。小四が小明を刺して、「君は生き返られる」と叫ぶのは、その残滓だろう。はしなくも最後に教会の合唱団のコーラスが登場する。1箇所だけユーモアのシーンがあって、末子が母に、母の時計を売ったのは長兄だと告げ口するところ。長女が、なにもできないくせに、告げ口だけはする、といい、末子はぺろっと舌を出す。じつは時計を売ったのは小四で、そのことを次姉は知って、やさしく諫めることで、2人の気持ちが近づき、先のキリスト教への理解へと進むのだ。プレスリーを初めとするアメリカ文化の圧倒的な流入も描かれる。そこで高音の声を出す小さな人物が、とてもいい。彼の友達を思うピュアな気持ちで、この映画が陰惨にならずにすんでいる。映画の撮影所がデートの場所に使われたり、屋根裏から子どもたちが撮影現場を見るシーンがあるが、ある種のオマージュかもしれないが、最後に、小四は監督に「人間のことを分からずに映画を撮るな」と𠮟咤する。これは監督の強いメッセージであろう。最後に、この映画は実話ということらしく、小四は15年の刑を終えて出てきたときは30歳だった、と記される。4時間、身じろぎもせずに見た。まるで映画のなかで呼吸をしているような気になってくる。台湾の複雑な歴史について知りたくなった。


65 7つの贈り物(S)

ウィル・スミスがかなり痩せていて、とてもビューティフルに見える。彼が関わっていく人間たち、安宿に持ち込まれるクラゲ、彼の過去の記憶、それぞれがちょうどいい触れ加減で処理されていく。スミスの演技も見物で、こんな上手な人だったのかと感心した。良質な映画である。ヒロインのロザリオ・ドーソンが活版の印刷機でアートっぽいもの印刷しているのは心に残る。テレビが中心の女優さんらしい。


66 ワンダーウーマン(T)

世界でだいぶヒットしているようだ。荒唐無稽に、少しだけリアルを足したのが、新味になっている。ワンダーウーマンがナチの背後に悪魔を見て、戦いを挑むのである。そうなればただの暴力のインフレーションでしかないが、イギリス議会の描き方など丁寧なのである。それにしても、老人パトリック卿が悪い神というのは、ちょっと寂しい気もする。女優さんガル・ガドッドはイスラエルのモデルらしいが、黒髪が西洋人には神秘的に見えるらしい。どこかスザンヌ・プレシェットに似ている。横顔はあまり美人ではない。クリス・パインが下半身を見られ、アベレッジかと聞かれ、それ以上だと見栄を張るところが面白い。セックス談義をするところも、海外では大受けするのでは。快楽に関して12巻の書物を読み、男は快楽を運ばない、という断言するのには、笑ってしまう。きっと続編は見ないと思う。


67 レッドドラゴン(S)

どういう事情があってこういうモンスターが生まれたのか知らないが、彼は品位の人間として描かれ、一方で人食いでもあれば、残虐な殺人者でもある。そのギャップがこの映画の、基本的な構造を決めている。品位と汚穢である。ハンニバルに恨みを抱く金持ちは、顔をナイフで削いだために、大きな欠損を抱えている。しかし、その振る舞いには上級クラスの品位がある。ここにも2つの反対方向を向いた価値が組み込まれている。それにしても、食人のテーマは思いっきり下品だが。ハンニバル博士は、自分を負う女刑事を、地面に身をたたきつけるまで降下する鳥になぞらえている。ジュリアン・ムーアはよくその役を演じている。胸を強調するドレスを博士は彼女に着せるが、その彼女がつくテーブルには頭蓋骨をカットされて生きている上司が待っている。ここにも気品と下賤があるが、その上司の脳をカットして焼いて食わせるというのは最低である。


68 ハンニバル(S)

今度、ハンニバルは獄中にいて、男性刑事エドワード・ノートンのアドバイザー的な役目を負わされている。外で犯罪を犯すのはレイフ・ファインで、この選択はグッドである。あのジェントルな感じの男が、背中にレッドドラゴンの入れ墨を入れ、それをブンヤさんフィリップ・シーモアに見せるシーンは圧巻である。背中の筋肉を動かすことで、絵図が生きて動いているように見えるのである。彼がマザーコンであるというのは、あまりにも陳腐な絵解きで、安易にすぎる。その唇に三つ口の傷をもつ彼が愛するのが、盲目の女性であるエミリー・ワトソンである。美人でもない彼女をキャスティングしたのも、グッドである。エドワード・ノートン好きとしても、グッドの映画である。よくできている。


69 ラブ・アクチュアリー(S)

2度目である。登場人物が多いのに、情報量の処理が的確である。老歌手が男性マネジャーに恋していた、という箇所はちょっと無理がある。コリン・ファレルの作家がポルトガル人の女性の下着姿を見て、恋心に火が着くというのは、安易に過ぎないか、何歳だか知らないがヒュー・グラントの首相はうぶに過ぎる。何か彼の結婚してこなかった理由付けが要るはずである。ローラ・リニーが心病む弟思いで、自分の恋を諦めるところは泣ける。それにしても、このブログで以前に書いたように、彼女はよく脱ぐ。そして、スクリーンで見なくなったと思っていたら、ネットフリックスの連続物語に出ている。見ようか見まいか迷っている。


70 エイリアン・コベナント(T)

前回の「プロメテウス」の続編というが、前のを覚えていないので、それに関して何かをいうことはできない。1作目と同じくというか、さらにアンドロイドの完全体生命の執着は激しく、それが強調された、アンドロイドのための映画になっている。主人公の女性の魅力のなさを見ても、それが分かる。内容的には、リドリー・スコットよ、自己模倣を止めよ、である。ほぼ新しいことはない。なぜ先になんだか惑星にたどり着いたプロメテウスの方が、訳の分からない形状の宇宙船なのか。そっちの方が、飛ばすのは難しいはずだ。旧アンドロイドが、主人公の女性にかすかな恋心を抱えているのに、なぜ船外でエイリアンと戦っているときに助けに出ないのか、としたらニセものではないか、と僕だって分かる。船員2人のシャワーシーンなどのおまけは必要なのだろうか。流れからいって、下品である。エイリアンにあった、ぬめっとした恐怖感は消え去って、急に襲ってくる恐さだけであり、それは化け物屋敷の恐さと変わらない。あとは肉を突き破るスプラッターも多い。とても残念である。


71 三度の殺人(T)

是枝が社会的なネタを題材にしたのは初めてではなかろうか。新聞評は芳しくないが、篠田正浩はドスエフスキー的テーマを追い、惜しいところで大魚を逃がしたと新聞で語っていた。意中の人物であるゾルゲを撮って駄作しか作れない男にいわれたくないだろう、是枝も。篠田は、途中に神の視点が入ったからだ、というのだが、それが広瀬すずと役所広司の殺害場面を指すとしか考えられないが、あれは弁護士福山雅治の幻想場面ということだろうから、その意見は見当違いである。この映画は、正義を求めない司法のあり方と、供述がころころ変わる被告の、どちらにも荷担しない姿勢で作られているがために、テーマもぼやけたというのが本当だろう。過去にも殺人を犯している被告の生地にまで足を運ぶが、それで何かの結論を見出してくるわけではない。当時の警官からは、まるで殺人好きの人間にさえ思えるような発言がある。しかし、われわれが目にする再びの殺人の被告は、そうは見えない。はるばる北海道留萌まで調べに行った弁護士は、今度の事件とそれを結びつける努力をしない。広瀬と役所は情を通じ合ったということのようだが、それについて追求していくわけではない。この弁護士は、本当はやる気がないのではないか。役所は、生きていてはいけない人間がいる、と言うが、それと同じ台詞を福山も言い、最後の接見の場面ではあざとく2人の顔を並列させることもやっているが、それはちょっと無理な演出というものだろう。冒頭に是枝にしては珍しく俯瞰の絵で、右からタクシーが走ってきて、まさかカメラが寄るのかと思うと、そのまま寄って車内の映像となる。まるでハリウッドの真似である。これできちんと劇が進行するな、と思ったのが間違いであった。


エドワード・ノートンが二重人格を装って弁護士を騙す映画があったが、そう割り切って役所を悪者にすれば、それはそれで分かりやすい映画ができただろう。しかし、是枝が描きたかったのは、芥川の“藪の中”なのだから、ああいう曖昧な映画になるしかないのである。上っ面しか合わそうとしない司法のいい加減さを告発するでもない、被告の虚言癖に振り回される馬鹿さ加減を描くでもない。公判が始まっているのに、突然、被告が殺人をやってない、と言い出し、弁護士は被告信頼しているわけでもないのにその話に乗り、まんまと裁判に負ける。ここがいちばん盛り上がるべきところなのに、まったくその逆。その方針転換は意図的に広瀬すずを守るためにやったのでは? とあとで被告に聞くが、それこそ後の祭りである。テーマがきちんと定まると、監督の意図から離れる、という意味では、厄介な映画を撮ったものである。三度目の殺人の三度目とは、自己処罰という意味を込めているのかどうか。


72 ドリーム(T)

原題はHidden Figures で、これは黒人のことでもあり、NASAの宇宙飛行船開発に必要な数式のことでもあるだろう。本当に露骨な差別をしていたものである。黒人女性のトイレがなく、雨の中を書類を抱えて走らざるをえなくても、誰も助けない。彼女のポットを誰も使わない。最近、留学研修生で来ていたベトナム人(?)だったかが、工事現場で差別され、ペットボトルに入れた小水をかけられ、神経衰弱になった記事が出ていたが、日本でも同じようなことをやっている。


73 ターミナル(S)

トムハンクスが、母国が革命で失われ、ケネディ空港に留め置かれ、その人徳から人々に慕われる、という映画である。父親がジャズ好きで、あるアメリカのクラブに集うジャズメンたちからのサインを集めていたが、あと一人というところで亡くなり、その意思を継ぐためにNYへとやってきたという設定(それは最後に明かされるのだが)。英語が拙いのだが、早口の会話が聞こえるという矛盾もあるが、限られた空間のなかでの様々な工夫が楽しい。最初、空港の所長が寛大な措置をとろうとしても、それに乗ろうとしない。それはなぜなのかは、ちゃんと説明がされない。セタ・ジョーンズのきれいなこと。彼女に振られるのも、少し後味が悪い。


74 おクジラさま(T)

「ハーブ&ドロシー」の監督佐々木芽生の作品である。なんということもない映画。それにしてもイルカを人間に近いと言って、それを殺すことを生業とする太地の人々を殺人者と呼ぶのは常軌を逸している。世界では狐狩りと何だか(失念)は

中止されたと言っていたが、それは遊びとしての狩であって、暮らし生きていくためのものではない。そういういくつかの複合的な視点が示されている映画である。太地に住まうドイツ人ジャーナリストは、太地の発信力の弱さを言っている。シーシャパードたちと雲泥の差があるという。


75 闇金ウシジマくん(S)

山口雅俊監督で、プロデューサーから兼監督になった人のようだ。なかだるみの箇所もあるが、面白く見ていられた。ウシジマは圧倒的に力が強くて、金銭哲学が際立っている。こういう人物はどういう背景から生まれてくるのか。前に勤めていたという青森生まれの女性が訪ねてくるが、そういう人間にも好かれる人物である、という設定がこの映画に膨らみを与えているが、その女性のキャラがもう一つ立っていない。モンスターのような男が出てくるが、アメリカ映画だともっと強烈な暴力男に描くだろう。女たちを焚きつけてウシジマを告訴するイベント男のモノローグが入るようになっているが、これがこの映画を二流にしている理由だろう。もったいないことだ。ウシジマが拘置所でオムレツを食べながら「ケチャップ薄い」と小声で盛らすところなど笑ってしまう。ラストも、子分が人生訓みたいなことをとうとうとしゃべるのを、「もう分かったから、黙っていてくれ」とソフトに制するところも面白い。この監督、ウシジマしか撮っていないようで残念である。主人公はもちろん山田孝夫である。女性社員が1人いるが、それのキャラをもっと立てたら面白いかも。ヒロインの大島優子が堅気に戻り、若い店員に好意をもたれるが、その店員が市原隼人で、手抜きのキャスティングでないところが好感。続編はひどい出来だ。もうファイナルにたどり着けない。


76 ミックス(T)

新垣結衣で見に行ったが、やはりかわいい。意外と背が高く、全体がひょろっとしている。演技はほぼ現代風だが、さらっとしていて、そこが後味を引く感じがある。王道の筋を踏んだ映画で、楽しませてもらいました。ただ、2箇所、変なところがある。瑛太の名が、少年時に全国大会で優勝した子と同じで、その子と勘違いされるシーンがあるが、まったく筋と関係していない。脚本が間違っているのに、なぜ訂正しないのか。もう一つは、新垣がむかしの恋人とよりを戻そうとしたが、気が乗らず故郷へ帰ってくるが、そのことをなぜ瑛太は知っているのか。細部に配慮が足りない。こういうことをごまかす監督は信用がおけない。蒼井優が中華料理屋の変な日本語をしゃべる店員になっているが、頭が下がります。彼女はどこへ行こうとしているのか。新作も期待が大きい。


79 アトミック・ブロンド(T)

シャリーズ・セロンのアクションものは「イオン・フラックス」以来ではないか。「マッドマックス」はテイストが違う。この映画、遊びっぽいタイトルロールから、見なきゃよかったかな、と思ったが、あまり本編では変なことはやっていなかった。ときにアメリカ映画で、前衛を隠して作るものがあるので、要注意なのだが。

ベルリンの壁崩壊当時の話なので、アトミックも分からないわけではないが、やはり古い。例によって、西側スパイのリストがソ連に渡りそうになるという話で、相も変わらずである。Mー16のスパイと思っていたらKGBと二重スパイで、最後はCIAだというのでは、何がなんだから分からない。いったい主人公は誰と戦っていたのか。ジョン・ウイックやイコライザーなどは筋がシンプルで、格闘技が冴えているのでヒットしたのである。それから行くと、この映画、アウト・オブ・デイトである。シヤリーズ・セロンの乳首見せはサービスかも知れないが、別に必要ない。レズのシーンもどうかと思う。2はないと断言できる。


80 ブレードランナー2045(T)

十分に楽しめました。2時間44分、ほとんどまんじりともせず見ていた。前作ははなから名作の香りがしたが、今作も期待以上だった。前作の染み通っていくような哀しみはないが、いくつか新しい映像――レプリカントにイメージの女が重なってセックスに至るところや、難破した小型宇宙船に海水?が降りかかるところを俯瞰で撮ったり――もあって、ほぼ緊張感をもって見ることができた。前作のほうがデスペレイトな未来の感じが出ていたが、今回のは前ほどそうは感じない。退廃のアジアが経済成長著しいことと、核戦争の脅威は以前ほど強くないからではないか。レプリカントが子どもを産むというのが主題だが、そんなことあり? の世界である。武器がナイフというのも、なんだか現世的である。廃墟のイメージはくり返しさまざまな映画で見ているので、ちょっとやそっとではもう驚かない。あと2045年の設定はいくらなんでも近すぎる。過去の懐かしい映像としてシナトラ、モンローが出てくるが、それは今だって懐かしい。町の様子をもっと見てみたかったが、残念ながら前作を超えていない。


81 次郎長三国志・初旅篇(D)

「次郎長売出す」が1作目で、これが2作目。この映画は、茫洋とした次郎長・小堀明男でもっている。ある若い衆の仲裁に入って、赤鬼とかいう親分と果たし合いをすることになり、次郎長が言うのが、「売られた喧嘩、できるかぎりのことをやってみるさ、なあ」である。あるいは、その若い衆が一緒に出奔した女の親父に会いに行くシーン。次郎長が挨拶することになり、「どうかな、まずは、当たってみるずら」と自信なげに言う。それを子分ども、とくに大政(河津清三郎)が、そういう言いながら親分なら大丈夫だ、という顔つきをしている。赤鬼を名前ほどでない親分と分かり、啖呵を切るところは今度、とろとろした感じがなくて、切れのいい台詞回しをする。どうせ切った張ったの世界、たいしたことはないわけだが、そこにきりりとした美学があることを、マキノは知っている。子母沢寛が描いた、背筋がぴんと立ったヤクザの世界が直接的に描かれていると感じる。ほぼ終わり近くに森繁の石松が出てくるが、すごい怪演である。キキツと首をひねったり、口を曲げたり、どもり始めるとさらにその演技が熱を帯びてくる。河原での果たし合いの様子が描かれないことと、それについてあとでまったく触れないことは、おかしい。石松の登場にウエイトをかけたせいだろうとは思うが、いい加減なものである。のちに鶴田浩二が次郎長をやっているが、こののほほんとした小堀の次郎長には敵わない。仁義を切るのに相撲の蹲踞の姿勢をしているが、それが本物か。むかしの映画を役者の身体性から見るのは、ひとつの楽しみ方である。小林信彦御大は、アチャラカは身体の動きで決まるのだとおっしゃっている。それは舞台を見ての感想で、さすがに鋭い。ぼくが三木のり平好きなのは、そのせいである。


82 次郎長と石松(D)

第3話ということになる。石松と追分の三五郎とのあれこれが前半で、後半が次郎長一派が賭博開帳の罪で牢に入ってのいろいろ。石松が惚れる門付けかつ壷振りが久慈あけみで、妖艶である。湯船から立ち上がり、胸の高まりを見せる大サービスもある。これはきっと当時の話題になったことだろう。後年森繁は久慈と社長シリーズの夫婦をやっているが、こんな若いころに一緒に出ていたとは知らなかった。三五郎を演じた小泉博が軽妙で、人非人で、しかも石松思いの細やかさもあって、いい役者である。石松を出し抜いて久慈とくっつこうとしたが、久慈にソデにされ、喧嘩で足に負った傷が痛んで路傍に足を投げ出して坐っているところに廣沢虎造(役名虎吉)が通る。小泉「お兄さん」虎造「若きゃない」小泉「きょうだい」虎造「ふざけんな」小泉「親分」虎造「なにか用事か」――この掛け合いは面白い。

次郎長たちは牢名主にいじめられるが、ニヤニヤして聞いている。いずれ痛い眼にあわせてやる、という魂胆が出ている表情だが、前2作の次郎長のイメージとちょっと違う。もうふてぶてしいのである。あの豆腐のような軟体人間のおかしみが消えている。これは牢内という設定のせいなのか、あるいは演出の間違いか。次作以降を見てみないと分からない。


83 濡れ髪牡丹(D)

雷蔵と京マチ子の恋の鞘当て。京マチ子が3千人の部下をもつやくざの親分、難関の試験を通った人間を婿にするというが、みんな敗退する。雷蔵だけが通るが、諸事万端免許皆伝の男。だけど、試合には負けてやり、また1年後にやってきて、またさらに1年後にやってくる。安部徹が身内から裏切る役で、あれだけ強いとみんなが言っていたのに、女の力じゃ男に敵わないだろうと言い出す始末。大辻士郎が京マチ子の命令で雷蔵の付き人に。なんとも面白みのない役者である。

雷蔵の喜劇だが、ぼくは彼の明るさが生きていて、感服した。京マチ子は薹が立ちすぎている。熟れすぎて新鮮みがないが、刀を振り回したり、頑張っている。女は結局、男にすがる、と堂々と言っているのが、やはり時代である。


84 ゲット・アウト(T)

すごい駄作。朝日の評に釣られたが、あまりにもひどい。道路で突然何かが車にぶつかってきた時点で帰ろうと思ったが、仕方なしに見てしまった。突然、部屋の中を誰かがよぎったり、暗闇の中を走ってきたり、手口が幼稚である。多様性のなかの恐怖、と朝日で柳下毅一郎とかいう評者が書いていたが、白人至上主義以外の何ものでもない。おふざけではない。主人粉を演じた黒人もひどい。口を開けたまま演技をしない。まえも朝日は、韓国映画「コクソン」を“懐柔しえない怪物”と書いていたが、あれは日本を消化仕切れない韓国のジレンマを扱ったものだ。あの國村隼の演技を褒めるのは犯罪的でさえある。


85 女神の見えざる手(T)

原題はMiss Sloneである。ジェシカ・チャスティン主演、マーク・ストロング、ジョン・リスゴーが脇。監督はジョン・マッデン。銃コントローになぜそれほどの熱意を燃やすのか、敏腕ロビストの背景が分からないが、映画は面白い。一人でやるコーンゲームである。おそらくだが、上流に位置する女性で、これだけ強烈でアクティブなタイプが描かれたのは初めてではないか。性の処理のために男娼まで呼んでしまうのだから。アメリカではよく、ある法律を通すために、議員間でさまざまな駆け引きが展開されるようだが、銃規制の問題がここまで伯仲する、というのは驚きである。かつて銃撃事件に巻き込まれたことをTVで告白した女はチャスティンのチームの一員で、再び街中で殺されかけるが、それを阻止した市民マッギルは、直前に、その女性とすぐ近くの建物のロビーでぶつかり、女性は書類などを床に落とす。男は書類を拾うふりをして、何かを手にしたが、あれは何だったのか、いま一つ分からない。マッギルは銃擁護派の回し者という設定ではないのか。映画のなかで、それについて触れられることはない。この映画はもう一度、見る必要がある。それにしても、「ヘルプ」でスノービッシュな白人女を演じたチャスティンが、正当な女性主人公として活躍しているのは、珍しいケースである。彼女の幅の広さを感じる。


86 赤ひげ診療譚(S)

1965年の作で、次が5年後の「どですかでん」である。前に見ているが、仁木照美の狂いの場面以外、ほぼ憶えていない。これは盛り上げ型のドラマツルギーではない、黒澤が円熟期を迎えたような、挿話をつなげるゆったりとした作劇である。死と再生が大きな要因となって青年は成長していく。その先に三船という師夫がいる。この三船は紋切り型で、魅力に欠ける。加山雄三はその下手さ加減がちょうどいい。死は藤原鎌足、山崎努という、誰からも好かれる2人、そして再生は女郎屋から助け出された仁木照美と療養所にかゆなどの盗みに入る小さき泥棒の2人。桑名みゆきは大工の山崎に出会い、結婚することで幸福な暮らしを味わうが、父親に会わせようとしない。それは後で理由が分かるが、彼女には許嫁(いなづけ)的な男がいて、男は桑名の父親にあれこれと援助を続けていて、そのこともあって、好きでもないが、いずれ結婚する相手と思っていた。父親に山崎を会わせると、それが露見してしまう。桑名は山崎と結婚するために、父親の言うことを聞かず、出てきたのである。彼女は、日々の暮らしがあまりにも幸せなので、そんなことが自分にあっていいものかと不安を感じる。地震に遭うことで、やはり不幸がやってきたと、実家に帰り、前から言い寄っていた男の女房になる。しかし、浅草の縁日で山崎に会い、今まで夢の中にいたような思いがしていたが、それが一気に晴れたと言って戻ってくるが、山崎に抱きしめてくれと言ったときには、手に刃を持っていて、腹部を刺して死ぬ。山崎はその一部始終を死の床で長屋の連中に語り、臨終の時を迎える。仁木照美は自分を介抱した加山に思いを寄せるが、加山に女がいることを知り、また固い殻のなかに閉じこもろうとする。しかし、泥棒少年(次作の「どですかでん」の主人公)の窮状に同情することで、彼女の優しい心が発露する。そのことを、三船は読んでいる。

沛然と降る雨、集団の正面図(療養所の連中が自宅へ帰る山崎を送る場面)がもつ迫力、加山と仁木のサイレント的なやりとり、いくつか見どころがある。なかでもかなり続く加山と仁木のサイレント的なやりとりは貴重である。

2016-08-12 2016年の下半期

kimgood2016-08-12

87 柴又より愛をこめて(S)

栗原小巻が式根島の学校の先生で、24の瞳に憧れてやってきたが、年々歳々、若者は巣立っていき、自分を独身のまま取りのこされた感じが濃くなる。そんなときに、タコ社長の娘(美保純)が夫をほっぽらかして出奔する。寅さんに会いたい、というので、寅は下田にやってきて、さらに二人で式根島に渡る。小巻は亡くなった友人の夫(川谷拓三)から求婚され、それに応ずることに。なんとも寂しい話で、全体に映画も盛り上がらない。小巻が寅屋に来て居間でみんなと話すシーン、寅が何か古い話(あるときは何々、あるときは何々、という多羅尾伴内)にもっていこうとするが、調子が出ないのか、あっさりさくらにおしまいにされてしまう。珍しいシーンである。本来であれば、、ひとくさりあってしかるべきシーンである。寅と美保純の掛け合いは面白く、美保純が楽に演じているのが好感である。島の男に言い寄られ、人妻です、と柴又に戻るが、そのあとの言動は夫をさして「あんな男、どうでもいい」式のことを言うので、てっきり島に戻るかと思いきや、そういう展開にもならない。小巻と寅が、小巻の好きな場所というところで話をするシーン。寅が手をかけた長椅子の木材のクギが外れていたのか、すっと浮き上がる。あわてて、寅は小巻に抱きつき、パッと離れ、まるでペンギンのように右左に跳ねる。それがチャップリンの動きなのである。さすが浅草で鍛えてきた人だ。



88 FAKE(T)

人(新垣)に作曲させながら、それを自曲として発表し続けた佐村河内を扱った森達也のドキュメントである。なぜに佐村河内に興味をもったのかは語られない。見ていれば、ほぼ新垣との共作だったのか、という思いに傾斜する。絵画の世界では弟子が先生の名で発表することなどいくらでもある。作家では川端康成はかなりいい加減だったようだ。音楽では、交響楽などでは各パーツの譜面を書くのが煩雑なので、弟子に書かせることはやるようだが、そういう次元の話ではない。思想、構成を佐村河内が考え、細部を新垣が作るということらしい。テープを渡すこともあったようだ。佐村河内の弁護士は、新垣は著作権では争っていない、という。ということは曲は佐村河内に帰属し、テープも何本か弁護士が所持しているようだ。

本作はほぼ佐村河内は耳が聞こえる、聞こえない、に集中した作品といえるだろう。この映画では、かなり聞き取りの難しいレベルだという気がする。医者の診断書では障害者扱いはできないが、難聴の部類(専門用語を失念)というものらしい。マスコミはその診断書の1p目だけ、つまり障害者として扱えず、のところだけだという。しかし、耳が聞こえない、それも長じてから聴覚を失ったことと、音楽の創造性に何が問題があるか分からない。彼らの頭のなかに作品は鳴っているいるのであって、それを譜面に落とせない作曲家という部分が最大の問題である。外国の雑誌(新聞?)社から2人取材に来るが、録音テープはないか、なぜ採譜の習練を積まなかった、と聞いているが正当な質問である。録音テープは弁護士が持っています、と答えればすむと思うのだが、そういう発言を佐村河内はしない。後者の質問には、新垣がいたことで頼ってしまったという意味のことを答えている。やはり、それでは弱い。


雑誌の報道では、障害をもった少女を利用したとか、NHK特集では空から曲が降りてきた的な映像を撮ったことなどについて触れていたが、まったくそのことは出てこない。それと、NHKの特集の前に、米メディア(NYタイムス?)が「現代のベートーベン(?)」という記事を流したことが、この騒ぎの発端にあることではないかと思うが、なぜ海外イメディアがそういう記事を流したかのか、それも知りたいところである。新垣氏は現代音楽の作曲家として知る人は知る存在だったらしいが、発表会をしても集まる人数も知れていて、CDを出すことも叶わない人間が、佐村河内のゴーストとはいえ、自分が創った曲が世に出て行くことには快感をもっていたろうと思う。齟齬はなぜに生じたか。佐村河内は、自分はずっと下積みだった、という。彼もにわかに脚光を浴びて、舞い上がったのかもしれないが、それが新垣に世間にバレるという恐怖を生じさせた原因でもあったのではないか。ぼくは金銭的なものが大きかったのではないか、と思っていたが、本編では“指導料(教導料だったか?)”は「高いなあ」と思うくらい払っていた、と言っている。としたら、やはり急に世間に出たことの恐さが、2人の破綻の直接の原因ではないか。しかし、なぜに新垣が、佐村河内はほぼ耳が聞こえる、などというウソをついたのか、それは闇の中にある。年末テレビ特番に出てほしい、ついては佐村河内の主張の線で進める、と明言したフジテレビの番組責任者は、彼の拒否に遭うと、新垣に代えて番組を作っている。どの面下げて人を説得するのか、と思うが、森達也にいわせれば、彼らに主張があるわけではなく、出演した人間を面白く撮れればそれでいいのだという。すべてが消費されていくなかにあって、やはり真摯にドキュメントが作られていく必要性がある。かつてはそれはテレビのなかにもあったのだが。


87 ロングトレイル(T)

アパラチアロード3800キロを踏破しようと初老の男2人が挑戦するも、途中で投げ出す。2人の和解の映画だと思えば、目的は達している。ロバート・レッドフォードが原作者を、その友人をニック・ノルティが演じている。レッド・フォードは昔の貴公子の面影はつゆもない。東京では渋谷ヒューマントラストが一軒だけの封切り、さみしいといえばさみしい。それでも、100人ぐらいの席で7割は入っていたか。客は初老を過ぎたような人ばかりだったが。


88 ナイトクローラー(S)

ギレンホールである。だいぶダイエットしたらしく、頬がこけ、目が異様にでかい。弁の立つかっぱらいが事件を追うフリーのビデオ屋になる。社員を雇うが、始終、働き方の心得を諭す。短期経営講座で学んだことを鵜呑みに突き進む。死体を動かし、犯人を泳がし、好き放題のことをやってのし上がるという筋である。その割りに面白くないのは、彼の異様さが際立つ演出がされていないからである。レネ・ルッソのような年上の女性にモーションをかける男である。


89 国際市場で会いましょう(S)

ファン・ミョンジョンの映画である。朝鮮分断、ドイツ炭鉱への出稼ぎ、ベトナムへの出稼ぎなど大まかな歴史を振り返り、一人の男が家族を支えてきた戦後を描いたもの、ということになる。韓国の古い世代を讃える映画であり、ある種の成熟を思わせる。ファン・ミョンジョンのもつ悲喜劇性は相変わらずだが、そう破天荒な人物を演じるわけにはいかないので、やはりもの足りない。


90 スパイ(S)

ボンド風の始まりで期待を抱かせるが、あとは面白くもない喜劇。ステイサムがただ怒るだけの演技で浮いている。喜劇なんかに出ちゃだめだろう。「バッド・バディ」のメリッサ・マッカーシー、その仲間がミランダ・ハート、ジュード・ロウが冒頭のボンド風を演じている。


91 ほとりの朔子(D)

監督深田晃司、いい映画である。次第に登場人物の闇が濃くなっていく感じが恐い。変わらないのは主人公の二階堂ふみ、ガリ勉タイプだが、滑り止めを含めて受けた大学をすべて落ちたという子と、福島の惨禍から逃れてきた不登校の青年太賀。それでも二階堂は新たに予備校に入ろうと最後には変身する。ひと夏で何かを経験したということなのだろう。二人が家出をし、喫茶店で時間を潰しているときに、突然、暗黒舞踏的な踊りが始まるが、この趣味はOKである。違和感がない。サラリーマン風の初老の男が涙を流し、それを呆然と眺める二人ということで、客観視されているからである。少女誘拐じつは少女との逃避行を描いた映画にも、突然、暗黒舞踏が始まるシーンがある。二階堂と太賀が長々と埒もない話をしながら歩くシーンがあるが、これがいい。西洋美術史の先生と女生徒がクルマのなかで、やはり意味があるようでないような話を続けるシーンも長いが、これもいい。独特な監督である。二階堂と太賀が家出を止めて、ぞれぞれが家に帰る。その切り替わりのシーンで、ヨコから撮ったショットで、椅子から半分ずれ落ちそうな二階堂が写される。この体型の選択がいい。監督の演出だろうか。二階堂、その叔母(鶴田真由)、その恋人(西洋美術史の教師)、叔母の元恋人でラブホの支配人(古舘寛治)、その娘が宴会をするシーン。古舘親子がかなり西洋美術教師をからかう。教師は頭に来て、鶴田に当たる。とうとう帰る、と言い出し、古舘の娘にピシャリと頬を張られる。この一部始終を二階堂は外から眺めている感じだが、最後にニヤッと西洋美術教師の去った方を見る、という演出は場違いである。映像がときに光が回りすぎて、ものの輪郭が弱く感じるときがある。それには違和感がある。


92 岸辺の旅(D)

黒沢清監督、浅野忠信、深津絵理、小松政夫、柄本明、蒼井優などが出ている。是枝の「ディスタンス」を思い出す。まだ邪念が残って成仏できない魂が現世に戻ってあの世へと帰還するチャンスを探っている。そのことにとても意識的なののが浅野が演じた「ユースケ」である。彼は3年前に失踪し、本人が言うにはすでに死んでいるという。一緒に2人は旅に出て、ユースケがお世話になったという人を訪ねる。誰が亡霊で、誰がそうでないか、という恐れと、その人物がどういう過去をもち、どういう本当の死を死ぬのかというのが、この映画を見続ける動力となっている。あの世とこの世の出し入れはほぼうまく行っているので、途中からはそれほどの緊張感をもたずに見ていることができる。ユースケがパソコンを直したり、餃子を包んだり、宇宙論を話したりするが、彼のもとの職業とは何だったのかは明らかにされない。私、この土地に住みたい、と深津が言った土地でも、やはり人々のなかには煩悶や苦しみがある。そのことを知ってなのかどうか分からないが、また次の目的地へと二人は旅立っていく。こういうはっきりと事を清算しないで、雰囲気でもっていくのは、ラストのところにもあって、深津はもうユースケの世界に行ってもいいぐらいに思っているが、彼が消える前夜にセックスを共にしたことで吹っ切れたのか、もうそのことを言い出さない。またも、雰囲気である。別にそれで映画は進むから問題はないが、もう少し論理的であってもいいのでは、とは思う。柄本明の息子と嫁、息子は亡霊だが、彼は妻から離れられない。ユースケはそれを引き留めようと追いかける。そして、森でのシーンは、その息子の演技のまずさもあって、ちょっと学芸会っぽい出来になってしまっている。この映画で不満があるのは、そこだけだ。蒼井優が浅野の不倫相手だが、深津が会いに行くと、すでにほかの男と結婚している。悪びれたところが一切ない、ある意味ふてぶてしい女で、不思議な存在感を醸し出している。さすが、である。黒澤監督の映画は数本しか見ていないが、なかなか手練れのお人と見た。


93 CURE(D)

黒沢清監督で、見る決心がつくまでにしばらくかかった。本当に恐かったら、その時点で見るのを止めようと思った。しかし、それは杞憂に終わった。萩原聖人は記憶喪失を装いながら、相手に「おまえだれだ」「ここはどこだ」を繰り返し、次第に催眠術的環境へと誘い込んでいく。そのプロセスを見せたのが女医を対象にしたときで、彼女の側に座っていた萩原が壁際に立っていき、蛇口からコップに水を受け、そのコップをこぼしてしまう。水が生き物のように床を移動する。それを目で追ううちに女医はすでに催眠の入口にいて、「俺の中のものは全部、外へ出て行く。だから、先生の中のものは全部見える」という萩原の言葉にそっちを見ようとすると「見るな」と止められる。「女の癖にあんたは頑張ってきた」「女の癖に?」と顔を上げようとすると、もう目の前にいて、その女医の頭を押さえつけている。この演出が素晴らしい。

もう一つ、役所公司が萩原の廃棄工場のなかの部屋を見に行き、そこで乾燥したサルが紐で四方に引っ張られて空中に浮いたのを見かける。そとに出たところでフラッシュバックが起き、「ハト→サルの乾物→妻の顔」とつながって、慌てて役所は家に戻る。すると、妻が首を吊っていて、役所は慟哭するが、それは幻影で妻は「大丈夫?」と声をかける。この連続のシーンはさすが、という感じ。映画の筋からいえば、もうここで役所も催眠術にかかっていることになる。というのは、あとで逃亡した萩原を見つけたとき、「どうしたの? 手が震えているよ。死んだ奥さんを見たろ」と言うからである。


うじきつよしが警察の精神科医という設定なのか、彼も催眠にかかって自分で胸から首にかけてXを描いて死ぬことになるが、これは設定が無理。いくら催眠がかかっていても、自分で見事なXを描いて死ねるものかどうか。それと、役所もかかっていたという設定だが、催眠をかけてからの時間が長い。ほかの事件はもっと短時間で起きているから、不自然である。妻を殺し、いつもの食堂で食事をする役所、その注文を受けるウエイトレまでも催眠にかかっていて、包丁をもってどこかへ向かうシーンで映画は終わるが、これは蛇足である。


役所がクリーニングを取りに行き、隣に立つ男が独り言を言う。「ふざけんなよ、俺には俺のやり方があるんだ」と声を出す。ところが、店主が「お待たせしました」と持ってくると、にこやかにそれを受け取って出ていく。人間の狂気の突然の噴出を描くわけだが、このシーンは忘れがたい。しかし、こういうバランスの悪い人間が大概で、これを狂気とするのは映画の筋として必要だからである。ぼくは居酒屋である男を目の前にした。1人前のイカの刺身に味の素をかけ、その隣にあるイカに塩をかけ、つまみのダイコンにも塩をかけ、もちろん醤油用のイカも端に残っていて、そのぼくの目の前の男は1時間ほどかけて、その3種の味のイカ刺しを交互に食べていた。そして、トマト缶を頼んで、キープしてある焼酎を割り、それを飲みながらまた残っているイカを食べ続けた。ふつうに食べれば5分もかからず食べきる量である。その間、その男は儀式のようにそれを続けていたが、ぼくは大概の人はこういう人なのだという意識が強い。



100 座頭市千両首(S)

若山富三郎、島田正吾、坪内キミ子など。旅の途中でやむなく人を殺めた市がその弔いに村にやってくるが、村はちょうど代官に千両の上納金を納める最中。それを盗まれるわけだが、市は転がってきた千両箱の上に腰掛け、それを取ろうとするやくざをパパッと叩っ切る。次に場面が変わって、村の祝祭。市はそこへ行くが、この人が千両箱を盗んだ、と証言する坪内ミキ子、実は市が旅の空で殺した男の妹。しかし、あの強い市がなぜ尻の下にあった千両箱をみすみす取られてしまったのか。あるいは、それと知らず、その場を立ち去った? 最大の謎をほったらかしなので、この映画、とても座りが悪い。池宏一夫監督、撮影宮川一夫で、夜の底を光の玉となって藩の追っ手が移動するシーンなど、さすがである。やくざが左から右へ市に寄っていく。それを下から撮っていて、市に近づくとカメラが少し回り込んだ感じで上の斬り合いを捉えるシーンもいい。若山富三郎は好演である。市は妙に言葉を途切らせたり、わざとらしさが目立つ。島田正吾が国定忠治をやっていて、重心がずんと下にある感じがいい。市の温情にすっと手を出し、市の手を握る速さは、お決まりとはいえ、手慣れたものである。妙につっぱらかった顔は、ぼくの知人にすごく似た人がいる。


101 萌の朱雀(D)

前に挫折した映画の再見である。今度は難なく見通すことができた。老婆、男(家長)、女、男の子ども、幼児、という組み合わせだが、どういう繋がりだか見えないので、妙な緊張感がある。見終わってもまだ、自分の解釈が合っているのか、自信がない。男女は夫婦で、幼児はその男女の子で、男の子どもは家長の兄弟(姉妹?)の子であるらしい(家長のことをオイチャンと呼ぶ)。男女はきょうだいとも見え、二人が同室で寝るので、近親相姦の恐れがある。男の子どもと幼児は長じて、ほとんど恋人のような関係に見える。高校生となった幼児は、青年になった男の子に実際恋心をもち、悩む。突然、家長である男(國村隼)が自殺する。理由は定かではないが、類推させるようにはなっている。しかし、理由らしい理由でも無いので、ここでは触れない。結局、女とその子どもは家を出て、実家に帰ることになる。青年は街の旅館勤めなのだが、老婆と一緒に街に住まうことに。2回、村の人々の顔を映すが、このフィクションは実在の村と地続きだということをいいたいのか。違和感がないから、たぶんそうだろう。この映画、もう少し説明しれくれないと、しんどい。


102 女と按摩(D)

清水宏監督、高峰三枝子、佐分利信、徳市・徳大寺伸、福市・目守新一、旅館の主人坂本武。山道を2人の按摩が会話をしながら歩いている。「いい景色だ」「今日は17人、追い越した。按摩じゃないとこの気持ちは分からない」「ただ、学生4人組に抜かされたのはしゃくだ」など、ユーモラスなやりとりをする。その2人を追い越していく馬車に、佐分利信と高峰三枝子、そして子どもが乗っていて、御者が「あの按摩は季節になるとやってくる。今日は何人抜いたと自慢する」と解説する。


温泉場に着き、徳市は高峰のいる宿屋へ、福市は佐分利のいる宿へ。高峰の肩を揉みながら、「奥様」というと「違う」というので「お嬢様?」と言い直すと高峰は笑って黙っている。次の客の所へ行くと、さっき抜かれた4人組、力任せにうんうん揉むと、翌日、学生たちは脚が痛くて歩けないほど。途中で宿に引き返してくる。一方、福市は女学生たち、そして佐分利のところへ。佐分利は、「最近は墓参りに行っても、田舎らしくない。かえってこういうのんびりした場所のほうが田舎みたいだ」などという。徳市が宿の主人相手に、海岸では女の按摩が出始めているし、東京では職業婦人が進出して、男の仕事がなくなるかもしれない、などという。


徳市は高峰に惚れたらしい。その高峰が佐分利と近づきになるのを快く思わない。高峰と佐分利を結びつけるのが、佐分利の連れて来た子どもで、自分の姉(?)の遺した子を預かったらしい。佐分利は高峰に引かれるものがあって、東京に帰るのを1日延ばしにする。子どもはかまってもらえず、帰ろうよ、を繰り返す。とうとう佐分利と子どもは東京へと行ってしまう。温泉場に泥棒が出たという情報に、徳市はもしかしたら高峰が怪しいと踏む。一緒に逃げましょう、というと、高峰は正体を明かす。囲い者の身で、旦那から逃げてきた、という。またどこかへ逃げるしかない、という。最後は高峰を乗せた馬車の後ろ姿で終わる。


短編小説を読むような味わいである。会話がいきいきしている。高峰に番傘を差させて、渓流の岩の上に立たせて、少しアップで撮った絵など、静止画のきれいさである。たしか清水宏は子どもの扱いのうまい監督ということになっていたかと思うが、その片鱗を伺うことができた。佳作である。


103 ザ・クライアント(S)

スーザン・サランドン、トミーリー・ジョーンズのほかにも脇役であの人が、この人が、とたくさん出ている。主演の男の子がちょっと出来すぎで、大人の言うことを聞かないという役回りだが、それにしてもこまっしゃくれている。その母親役の女優が、下層階級の話し言葉なのか、やけに聞きづらい。ほかの人間と好対照である。マフィアが殺した議員の死体を発見するのはいいが、覆いを破って腐乱状態を見せるのは野暮である。テンポの悪い映画だが、サランドンはなぜ主役が張れるのか、これはひとつの謎である。


104 アスファルト(T)

いい映画である。サミュエル・ベンシェトリ監督、フランス映画。自動マラソン器の上で寝ちゃった男が脚を悪くして車椅子に。エレベーター改修費を出さない、と言った手前、人のいない夜中に使って、近くの(?)病院の自販機でビスケットなどを買う。そこで知り合った看護婦の写真を撮らせてくれ、という。彼が自動マラソン器で寝ている間、宇宙船の中なのか男がやはり動く床方式でランニングのトレーニング中。それが地球に帰ってきたところ、計算外の場所に。車椅子男のいる公団で、そこのアラブ人のお婆さんの家にNASAの迎えがくるまで泊めてもらうことに。そのお婆さんの息子は刑務所にいて、彼女はよく面会に行く。またそのマンションには青年が住んでいて、廊下を隔てた反対側の部屋に元女優が引っ越してきて、いろいろと関係していく。彼女の出た映画を見せてもらったり、むかし出た芝居にもう一度役を得て挑戦したい、という彼女にハンドカメラを向けて、ホン読みまで手伝う青年。彼女は15歳の少女の役をやりたいが、青年は老婆の役をやるべきだ、と主張し、それを彼女は受け入れる。車椅子男は撮影当日、エレベーターが故障で、やっと抜け出したものの椅子なしで歩いて行く。時間にはまったく間に合わず、女はいない。朝まで待って、帰宅しようとする女に声をかける。女に「笑って」というが、笑えない。男に笑わせてくれ、と頼むと、男は「おれはプロのカメラマンでもないし、世界のあちこちに行ったこともない」と言って女を笑わせる。男と女は口づける。宇宙飛行士はアラブのお婆ちゃんにクスクスを作ってもらったり、いろいろと世話になる。情が移るが、迎えに来ると、クルマに乗り込んでいなくなる。ずっと話の進行の間、恐竜の鳴き声のようなものが聞こえていたが、それは放置された鉄製の倉庫で、開いた重い扉が風でギシギシ鳴いていたのである。映画はそこで終わる。不思議な味わいを意図しているが既視感があって、それほど不思議とも思えない。独特なのは、監督のユーモアの感覚である。宇宙飛行士とアラブの老婆の出合いにそれが典型的に表れている。それと、世界を旅する写真家と偽った手前、証拠を持って行かざるをえなくなり、テレビにカメラを向けて、ピラミッドやら何やら写するのもユーモアです。この映画は、三者三様の「出合い」を描いたということになる。なぜ「アスファルト」というタイトルなのか分からない。



105 オーバーフェンス(T)

山下敦弘監督で、佐藤泰志の函館を舞台にした小説を映画化したもので、ほかに2作、別の監督が佐藤の作品を演出したものがある。オダギリジョー、蒼井優、松田翔太などが出ている。これは優柔不断の男の再生の物語ということなのだろうが、蒼井優が演じたスナックの女は異常である。彼女とは一度は離れるが、またくっつき、また突然切れる。すべて彼女の気紛れで行われる。いけすかない女で、それを演じた蒼井優を褒めるのはかわいそうだ。彼女はまったく綺麗でない(「岸辺の旅」にちょい役で出ているが、したたかな女を演じて、グッドである)。優香がオダギリのかみさん役で出ているが、中年女性のはまり役で、途中まで彼女とは気づかなかった。こういう目立たない脇できちんと仕事ができる人は偉い。最後に草野球でホームラン、オーバーフェンスとは情けないオチである。


106 健さん(T)

みんなで健さんを褒める映画。ぼくは何度泣いただろう。1人だけ、健さんは疑り深いという人間がいるが、あとは仏様のような扱い。マイケル・ダグラス、ポール・シュレーダー、スコッセッシも讃仰。ダグラスが「ブラックレイン」でそばを食うシーンを印象的に語るが、そばですかね。あの映画は健さんをバカにした映画にしかぼくには思えないけど。


107 ビートルズ(T)

監督ロン・ハワード。ほぼ知っているビートルズをなぞるだけだが、米南部のコンサート会場が人種隔離と知り、彼らは平等であるべきだ、と筋を通した、というのは初耳である。それ以来、南部の大きな劇場にはセグレーションはなくなったという。4人はいつも話し合いで何事も決めていたといい、この一件もそうだったという。日本は武道館だが、右翼が騒いだことは知っていたが、実際に街宣車の映像を見たのは初めてである。赤尾敏先生の姿が見えた。浅井愼平がコメントを喋っていたが、論理が通っていない日本語をそのまま英語に直していたので、訳の分からない英語になっていた。いやはや。横尾忠則も会場にいたらしいが、ビートルズの演奏は30分ほどだったらしい。欧米の熱狂のあとに武道館を見ると、たしかに日本の観客は世界で一番マナーがいいかもしれない。彼らは観客の絶叫で自分の声、演奏が聞こえない状態でパフォーマンスをしないといけない。リンゴはポールとレノンの身体の動きを見て、ドラムを叩いていたという。


108 紳士協定(D)

エリア・カザン監督、ザナックのプロデュース。Gentlemen's Agreement とは、ユダヤ人問題は公言しないで暗々裡に処理する、という意味である。ホテルによっては、Restricted といって、ジューイッシュと分かると、満室とか偽って部屋を貸さないようなことをやる。それが「非開放」で、差別が表に出ると問題にされるので、これも内々にやるわけである。作家であるグレゴリー・ペックが雑誌社の依頼でユダヤ問題を扱おうとするが、行き詰まり、自分をユダヤと偽って起こる様々な問題を折り込もうと考える。それを編集幹部会で話しただけで、すぐに噂が広がる。その雑誌社自体が、ユダヤ人を使用していなかったことも判明する。雑誌社社長の姪が恋人で、その仲もうまくいかず、子どももいじめられる。軍人の竹馬の友がユダヤ人で、子どものいじめが一番つらい、とペックに語る。最後はハッピー大団円なのは、この時代の映画の趨勢としては仕方がない。過去に浮浪者や炭鉱夫になりすまして取材したことがあるというが、今回はユダヤ人と名のっただけで、取材環境ができ上がる。ユダヤ人の中にも、貧しいユダヤ人を排斥する者がいたり、ユダヤ人というものは科学的に存在しないと言い出すユダヤ人科学者が出てきたり、なかなか複雑な仕込みをやっている。1947年、戦後すぐにこういう映画を撮っているアメリカというのはすごい。


109 ハドソン川の奇跡(T)

太い流れが淀みなく最後まで突き通るような映画である。それは強引とも思える編集によって成し遂げられたもので、結構、忙しく過去と現在の時間の行き来をやっているのだが、無理がない。あるとすれば一箇所だけ、制服を着た3人の男がどこかの簡易事務所みたいなところにいるのを撮す。プロ野球チームなどの話をしているが、この男たちが誰だか分からない。しばらく経つと、ヘリコプターによる救助隊員たちだと分かる。あとは、ごく初歩的な映像のつなぎ方、つまりテレビを見ている現在のシーンから過去のそれに移るといったもので、時制の交換をやっている。こんなのはイーストウッドにとって手もないことだろう。「アメリカンスナイパー」でも感じたことだが、どんどん装飾をふりほどいて、大きな本流だけで映画を作ろうとしているのが分かる。


航空審査委員会というのがすぐに開かれ、そこでコンピューターによるシミュレーション、ボイスレコーダーの聴取、操縦士への質問などが行われ、たとえ英雄とマスコミが騒ごうが、真実に迫ろうとする姿勢には心底驚かされる。機長は人間による誤差を考慮に入れていないと反駁し、30秒だけ逡巡の時間が加味される。すると、他の空港への回避は不可能なことが分かる。それに、左のエンジンには多少の推力があった、という調査結果が伝えられていたが、機長は2つのエンジンが完全にやられていた、と証言する。のちに機長の証言が正しかったことが証明される。この映画、一面ではコンピュータと人間との戦いでもある。機長はかつても故障の軍機を、パラシュートで脱出せずに着陸させた実績のある人物だった。アーロン・エッカートの副操縦士は抑えた演技で好感である。懐かしのローラ・リニーは老けたが、それなりの味がある。かつての鋭い目つきはなくなったが。イーストウッドで「ミスティックリバー」に出ていた。


110 メカニック2(T)

ひさびさのステイサム度一杯の映画である。冒頭の敵から逃れるシーンは何かで見たことがある。たしか彼の作品のどれかである。ラスト、時間を置いて女のもとに姿を現しニカッと笑うのは、ボーンシリーズにある。しかし、別にそんなことは構わない。ジェシカ・アルバがヒロインだが、ぼくは彼女の映画を観たような気がするのだが、フィルモグラフィを見てもひっかかってこない。いわゆるモデルさんタイプで、ちょっと映画には合わないのではないか、というような印象がある。あくがないのである。美人だけど。せっかく人質に取ったのだから、悪党もきちんとそれを利用しないといけない。中途半端にリリースしては、緊張感が続かない。難攻不落の守りを破って2件の殺しをやり、最後の1件はトミーリー・ジョーンズ。まあ荒稼ぎしている感じ。不思議な中国人みたいな様子で、さすがに軽い演技で大物感というか奇妙なキャラクターの悪党の感じを出している。さてステイサム兄貴はどこまで突っ走るか。これから、ジェイソン・ボーンも、ジャック・アーチャーも帰ってくる。意外とアクション系の生き残り競争は激しいかも。もしかしたら、キアヌ・リーブスのもセカンドがあるかもしれない。あの一発撮りをもう一度、見てみたい。そして、ニーアム・ニールソンもドシッと控えている。ステイサムは勝ち残れるか?


111 平手造酒(D)

1951年の作で、監督並木鏡太、脚本橋本忍、主演山村聡、客演月形龍之介、田中春男、女優花井蘭子。この5年後に「七人の侍」ができていることを思えば、作劇法がいかに黒沢によって革新されたかがわかる。戦いの場面を撮さず、斬られたあとのワァーッと倒れるところばかりをやるのは、細かい殺陣を仕込んでいないのと、その撮影法が分からないからではないか。カット割りを含めて、かなり細かいことをやらないと斬り合いの場面はできない。造酒が千葉道場で師範代として実力を上げるが、仕官を含めて世間的な名誉が得られず煩悶し、次第に酒に溺れ、苦界の女と馴染みになるまで、一言もせりふがない。演出なのだろうが、そこまでうっ屈した様子は山村聡からは窺い知れない。江戸を捨て女と出奔し、笹川と飯岡というやくざ者の争いの場に身を置くことになる。造酒は笹川派だが、反対派のやはり雇われ浪人が、自分より上手が現れて職を失ったことを造酒に言い、おまえも直にそうなる、と言う。造酒はせっかく断っていた酒に戻り、病が深くなる。飯岡が突然笹川を襲い、造酒は病を押して戦いの場に出向き、殺される。最後は戸板で運ばれる俯瞰の図で、顔が2重になる映像には驚かされる。勝新の「不知火検校」のラストはこれと似ている(2重撮しはないが)。


113 ニュースの真相(T)

CBSの60minnutesのメンバーはダン・ラザーを中心にして固く結束している。プロデューサーのメリー・メイプス(ケイト・ブランシェットがいい)は虐待を受けて育った子で、泣けば父親の軍門に降ると思って暴力を加えられても泣かなかった人物である。そのgutが圧力がかかる様々な局面で生きてくる。彼女はラザーを父親のように思っている。子ブッシュの兵役拒否疑惑は彼女たちのチームが暴いたもので、結局は、証拠が原資料ではなくコピーだったこと(サインの筆跡鑑定はポジティブ)、情報提供者民主党大統領候補とを会わせていること(これは提供者の関わるボランティアに関することで、実際、候補者とはその話しかしていないらしい)などを、CBSが設けた内部審査委員会(とは言いながら、弱いリベラル色の委員は1人だけ)に問われて、チームも上司も辞職させられる。この報道の前に、同チームはアグレブ刑務所の捕虜虐待を報じていて、政権からは目の敵になっていた。ケイト・ブランシェットは意志の強い女を演じてグッドである。ダン・ラザーのレッドフォードはやはり痛々しい。アカデミー賞を獲ったグローブ紙の映画より格段に面白い。メイプスはtruthという本を書いていて、それが基になっているらしい。その本をすぐにamazonに申し込んでしまった。


114 ジェイソン・ボーン(T)

このボーンシリーズももう終わりかもしれない。愛国者としてCIAに戻る可能性さえ見せたら、もう終わりと思うしかない。やり手女が登場するが、何がやり手なのか分からない。上司であるトミー・リー・ジョーンズをもう古いと切って捨て、あげくは殺してしまうが、その言い訳はどうやってつけたのか。間違って撃ちました? ボーンの父親が我が息子をはめたのか、それだけが新味で、あとは逃げる、逃げる、である。あまり戦いの場面がない。それの辻褄合わせなのか、ドッグファイトのような殴り合いシーンが2箇所、用意されている。そこでボーンが金を稼いでいる、ということなのか、いま一つ分からない。このシリーズ、カーチェイスやアクションのすごさで見ていたように思うのだが、もう飽きが来てしまったのか。ジャック・アーチャーでも、ジョン・ウィックでも、ロバート・マッコール(「イコライザー」)でも、肉体的な技の場面が強く印象に残る。そこからいえば、ボーンにはその要素が少なすぎる。


115 Mrホームズ(S)

変な映画である。最終の事件の解明に失敗し、田舎に籠もること30年(不確か)。記憶も衰え、どうにしかしてその事件の真相について下記の残しておきたいとホームズは考える。わざわざ日本まで渡航し、記憶力回復にいいという山椒を求めるが、あまり効かない。一面焼け野原の広島のその焦土で山椒を見つけるのだが、放射能は大丈夫か。その導きをするのが真田真大で、ホームズが降り立った場所(広島? それにしては立派な建物がある)はどう見ても日本の風景ではない。真田が歓待する料理屋も天井の高い中国料理屋で、なんだかなあ、である。いつまでこんなことが続くのだろうか。ホームズは思い出すのだが、彼は依頼人の妻に恋慕に近いものを感じ、その妻からも突然のごとく二人で出奔しようといった意味のことを言われるが、決断ができない。ワトソンはそのあたりの事情を隠して、別の話として仕立てた、ということらしい。しかし、ワトソンが失敗の話を作りあげるわけもないし、最終の事件が失敗に終わったというのは単なるホームズの歩思い違いだったのだろうか。なんだかよく分からない映画である。一人暮らしの彼を支える家政婦がローラ・リニーで、妙にぼってりとして重量感がある。その息子が利発で、彼に刺激を受けてホームズは回顧録を書き続けるという設定である。イギリスの田舎の風景が実に美しい。


116 アジョシ(S)

またアジョシである。ときおり韓国映画を観たくなるが、その条件がほぼ揃っているのだ。暗い暗い設定、あくまで濃い色、際立った悪党――できればそこにキレのいいアクションがあれば申し分ない。この映画は前にも指摘したが、おそらくレオンが下敷きになっている。今回気づいたのは、全編が終わって、そこに英語の主題歌が流れるところまで一緒である。もう一つ、主人公は特殊部隊の優等生で、悪党の恨みを買って、妊娠したばかりの妻を殺されるわけだが、一応、その殺人者はその場で射殺されるが、背景に黒幕や大きな陰謀がなかったのか。ないことにして映画は始まるわけだが、本来の韓国映画では、隠された敵を暴き立てていくほうが自然である。そこを省いたこの映画は、かなり特殊だと言うことができる。


117 ザ・インターネット(S)

サンドラ・ブロック主演で、やはり彼女の映画はハズレなしである。コンピュータプログラムのバグを見つける仕事しているが、クライアントから謎のファイルが送られてくる。それは国内の司法のセキュリティを私企業が一手に引き受けるために仕組んだあれこれのデータが収められたものだった。銀行、空港などでハッカーによる事件と見せかけて、こういう事態に陥らないためにうちのシステムを導入しろ、とその企業は公的機関などに迫っていく。サンドラはその悪事に気づき、犯罪を暴き立てる。小さな恋もあり、水着姿もあり、ハラハラドキドキもあり、全編飽きさせることがない。彼女を追いかける悪党がもっと怖いともっとよかったのだが。


118 淵に立つ(T)

深田晃治監督で、黒沢清の「岸辺の旅」のテイストを思い出した。少しずつ人生の陰の部分が明るみに出てくるので、ゆるい進行ながら、緊張をもって見ることができる。そこが似ているのである。浅野忠信が共通の主役をやっている。彼が昼食を外の公園でひとりで取っていると、やや離れた木々のなかでセックスをしているのが見える。雇ってくれている親友のもとへ帰ろうとしたとき、その親友が逆方向に歩いて行くのが見え、浅野は白いつなぎの工員服の上を急に脱いで、ベルトにはめると、真っ赤なTシャツが現れる。その時点で、前に小さな川にハイキングに行ったときに、親友の妻とキスをした流れで、浅野は女を求めるだろうというのが分かる。この赤いTシャツは効いている。それまで真っ白のYシャツで襟のボタンもきっちりととめ、工員服で過ごしていた彼が変身を見せるシーンである。それらしい前奏はやはり川でのハイキングにあって、親友から「おまえ、妻に刑務所にいたことをしゃべったんだってな」と言われ、それまでの改まった感じが一変して、「小せぇ野郎だな。俺がおまえのことをしゃべるとでも思っているのか。俺が9年も食らっているときに、女とセックスして、子どもまで作りやがって。俺がおまえの代わりだってありえたんだ……うそだよ、これはおまえの考えていることを言っただけだよ。もう昔のことは何とも思わない」というセリフがある。もう浅野の人格に暗雲が差している。そこで赤いシャツになって、親友のいない家に入り、台所でコメをとぐ女に抱きつき、セックスを迫ろうとする。しかし、女に拒否され、浅野は家を出て歩いていると、親友の子どもを見かける。次のシーンは子どもを探す親友のシーン。公園に頭から血を出して子どもが横たわり、浅野が立っている。何が起きたのか。浅野はその後、ゆくえをくらましてしまう。


深田監督は『ほとりの朔子』で福島の避難者といえば同情の目で見ることのおかしさを指摘していたが、この映画では親友の妻がプロテスタントで、子と一緒に食事のときは神に礼を捧げ、日曜教会にも出かけている。教会に一緒に付いていった浅野のあくまで白いシャツはいかにもその場に似合っている。彼は帰りの喫茶店で、親友の妻に、自分の過去を物語る。何よりも正義をと幼少のころから求められ、それを第一としてきたから、人を殺めても、どこか自分は正しいことをしたんだという意識がある。だから、裁判で不利になるようなことも話した。しかし、殺された側の母親は浅野を責めるどころか、法廷で泣き出し、自分の頬を右手で打つようなことをした。それを見て、浅野は、俺は何ということをしたのだ、と思ったと告白する。ここにもウソはないように思えるが、人殺しからは直接的に悔悟の念が浮かばなかった異様さが、いまだに彼の内部に居座っているとも言えなくもない。浅野の罪の告白を聞いた妻は、夫に「私を見くびらないで」と言う。それは罪ある者に愛を注ぐ専門家だとでも言いたい風情であるが、すでにこれまでのいきさつで浅野は悪党ではないという刷り込みができているからの発言であろう。親友の子を動けない身体にしたのは、浅野の本来持っている犯罪性が噴き出したから、と考えるのが自然である。深田監督は、社会的な視点を入れるのが特徴かと思ったのだが、今回は宗教的な赦しのようなものがテーマになっている。娘が車椅子に座り動けないという映像は、深田監督の『さようなら』に登場するレイナというロボットを想起させる。それについては、次の項で関連を述べていきたいが、この映画は強い倫理性を感じさせるのは確かである。


ラストシーンで、入水自殺した母子、娘を助けようとして死んだ青年(実は浅野の私生児)、そして夫が並んで天を見る映像は、途中、河原のキャンプで母子、夫、浅野の4人で撮したものの投影である。こうい小技ぐらい、この監督ならいくらでもできるのではないか。



119 さようなら(D)

深田監督である。福島の被災地近くを扱っているのだろう、国外への避難者を募る話が出てくる。主人公は南アフリカから6歳のときに黒人による殺戮の恐怖から逃げてきたターニャで、日本語が少し怪しい。彼女の家には彼氏(新井浩文)と友達の女性がやってくるだけ。家にいるのはロボットのレオナで、足が悪くて電動車椅子に乗っている。人間のターニャよりロボットのレオナの方が言葉が流暢という逆転が起きている。レオナは感情絡みの質問には素直に「分かりません」と答え、日本語の習練を積んでいるので、しきりに「すいません」を言う。


ターニャは何かの病気らしく、最後は居間の窓際のソファで死に、そのまま骸骨化する。彼女が死の前に裸になったのはなぜか。必然性は、その骸骨化する過程を見せたかったから? レオナはその経過を見つめ、自分も髪がほどけて、衣服も汚れ、左の頬には穴が空いているようにも見える。ターニャの彼氏はクジに当たって家族で突然、避難することになる。彼は在日で、南アで政権をとった黒人が4千人以上の白人を殺したとターニャが言うと、信じられないという様子。本当にそんなことがあったのか、と。ターニャは言う、私たちは加害者なのか、被害者なのか。彼氏は急に帰ってしまう。彼の琴線に触れるものがあったという設定である。在日と南アフリカか……しかし、あざとい感じはしない。その数日前、2人でセックスのあと散歩をし、疲れた彼女を背負った彼氏に向かって、「こんなときに、申し訳ないのですが、私と結婚してください」とターニャが言い、彼氏はちょっと時間を置いて「いいよ。したいんだったら」と答える一幕があった。ターニャのただ一人の女性の友人は、下の子をネグレクトで殺している、と告白する(ちょっと都合が良すぎるような……)。上の子は父親と一緒で、クジに当たって、インドネシアへ避難するという。お盆の夜の狂躁のあと、火を付けられた小屋に彼女は飛び込んで死ぬ。


なぜロボットなのか。それも福島に。ロボットには時制がないということが大きいのではないか。悲しむべき未来もないから、未来が閉ざされた福島の被災地には一番耐性があるだろう。感情は少しずつご主人であるターニャから学んでいるという。ロボットである彼女が、いまの気分に合った詩を、とターニャから求められるという矛盾。どういう選択でそれが出てくるのかレオナは説明をしないが、谷川俊太郎「さようなら」「とおく」、ランボー「酩酊船」、カール・ブッセ「山のあなた」を読み上げる。ターニャが「あなたは私をどっちに連れて行く? 寂しさのない国か、幸せをくれる国か」と尋ねると、ロボットは「分かりません。でも、寂しさがなくなれば、幸せになるのでは?」と言う。ターニャも頷く。ターニャは寝入るまで詩を読んで、と言い残したまま死に、骸骨化した。その主人の骸骨の頬を撫で、レオナは電動車椅子で外に出て、どこかへ向かう。小さな坂でスピードを出し、わざと転倒し、這って竹林に向かう。それはターニャと話をした林で、竹は100年に一度花を咲かせる、という話をターニャの父親がしたという。レオナの目の前に赤い、大きめの花がところどころに咲いている。そこで映画は終わる。


独特の間をもった映画で、ヨーロッパ的という印象を持った。日本映画の小津の作品などに見る間も外国人には相当長く感じるだろうが、この映画の間はもっと長い。実験映画のせいではなく、主人公を外国人にしているところからも、意図的な間の取り方だろうと思う。あと人体が次第に骸骨となっていく様を撮していくというのも日本のやり方ではない。ロボットを持ち込んだアイデアに敬服する。福島を扱って、これを超えるのは難しいのではないか。


120 奇跡がくれた数式(T)

インド人の天才数学者ラマヌジャン(デブ・パテルが演じる)と彼をケンブリッジに呼んだハーディとの友情の物語といっていい。孤独で、無神論者で、自由主義者のハーディがラマヌジャンの才能に惚れるが、数式が天から降ってくるようなものだから、それの証明が必要である。ラマヌジャンは、神の意志(ヒンドゥの神)に従っていない数式に何の意味があるか、とハーディに言う。ラマヌジャンには当初証明の必要性が分からないが、次第にそれがなければ通用しないことを学んでいく。ハーディは自らの研究ではなく、ラマヌジャンの数式の解明に力を注ぎ、ついには王立協会の会員にまで彼を押し上げる。しかし、過労、寒気、食事(菜食主義なので大学の食堂で食べる物がないのと戦時なので食糧不足)のせいなどで肺結核になり、インドに戻って1年で死亡。皮肉屋のバートランド・ラッセル(「ネット」でサンドラ・ブロックを追いかけ回したジェレミー・ノーサムが演じて重厚で軽いのがいい)が登場し、ハーディの差別的な振る舞いを批判させる役目を担っている。気のいい共同研究者リトルウッドをトビー・ジョーンズが演じ、好感の演技を見せる。ラマンジャンの奥さん(デヴィカ・ピセ)がどこか日本的で、そのういういしさを含めて、とてもグッド。この映画が都内で2、3館でしか封切られないという状況をどう考えればいいのか。ぼくはとてもウェルメイドな感じを受けた。


121 おしどり囃子(D)

佐々木康監督、美空ひばり、大川橋蔵である。橋蔵が神楽の舞師、ひばりが料亭の娘、橋蔵の母は武家の女中で殿様の子を産んでそれが彼、という設定。父親が何かの組の新入が決まるが、その宴席でほかの侍にいじめられる。本当の獅子舞が見たいという悪ボスの依頼に、本来、他家のワザを舞ってはいけないことになっているのに、橋蔵は父のためと獅子舞を舞う。それで破門となり、地方へと。父親はその悪ボスの不正流用の罪を着せられ自害。ひばりはそれを知らせに、橋蔵を探し回る。いわゆるすれ違いものである。白黒映画で、どうという中身もないが、さすがに橋蔵が舞うときちんとした感じが伝わってくる。


122 残菊物語(D)

溝口で、前に見ている。いわゆる芸道もので、5代目菊五郎の養子菊之助が、芸の中身がないのに、名家の出ということでちやほやされる。しかし、弟の乳母であるお徳だけが真実を言って励ましてくれる。菊之助とお徳の仲はだれが見ても恋人である。菊五郎が別れろというと、菊之助とお徳は出奔する。大阪などで地方廻りを覚えるが、錦を飾るのは夢の夢。弟の福之助が大阪に巡業に来たのを幸いにお徳は役を与えて見てやってくれと頼み込む。成功したら凱旋させてほしい、そのときは自分は身を引く、との言葉に出演が決まり、菊之助は大喝采を浴び、帰郷し、東京でも名を挙げ、大阪に乗り込みでやってくる。すでにお徳は病に冒されている。父親の許しを得てお徳に会いに行く菊之助。お徳にいわれて乗り込みへと急ぐが、その間にお徳は死んでしまう。ぼくは、ああ見たな、と思い出したのは、お徳が赤ん坊をあやして土手を歩いているところに菊之助が通りかかり、2人で土手を左から右へ歩くのに、土手の下からずっと撮ったような映像が続いたときである。のちに、帰郷するのにお徳が見当たらず、列車の外から中に問い合わせ、最初は左から右へ、そして右から左へと菊之助が移動するのを、こっち側からカメラで移動しながら撮っていく映像もある。菊之助が布団に入っているお徳にかぶさるようにして話をするシーンは、上から撮って、ずっとカメラは動かない。このあたり、溝口の特長としてあげられるものだろう。ぼくは主演の花柳章太郎という人が、とても純朴、まっすぐな性格の人間を演じて、小気味がいいくらいである。こういう性格で芸が深まるのかと心配になるが、それなりに人格を陶冶していくようである。山中貞男の映画にも、こういうタイプの役者さんが出ていた。戦後、とんと見かけなくなった人物像ではないだろうか。


123 スピード2(S)

悪党がウィリアム・デフォーである。何か病気にかかっていて、ヒルに身体の血を吸わせるのだが、平気でデォー演技していて、参りました。サンドラ・ブロックの相手がキアヌ・リーブスより大根で、リアクションの演技ができない。何かの裏事情でアクションスターでも作ろうと思ったのだろうが、こいつには無理である。ヤン・デボン監督で、大きな船がセットの港に突っ込んで行くのには驚きました。実スケールである。


124 二つ星料理人(S)

いやあ面白い。役者が揃っている。主演がブラッドリー・クーパー、「ハングオーバー」「世界にひとつのプレイブック」「アメリカンスナイパー」などに出ている。彼が演じるアダム・ジョーンズは実在の人物らしい。女優のシェナ・ミラーは魅力溢れる気の強い女性を演じている。「アメリカンスナイパー」に出ているらしいが、記憶にない。ほかの作品を当たってみようと思う。アダムの元同僚で、彼を裏切るのがオマール・シーで、「最強のふたり」の黒人である。アダムに店を任せるのがダニエル・ブリュール、気の弱い、しかしこのサービス業が好きだ、という感じがよく出ている。彼は「グッバイ、レーニン」「ラッシュ」で見ている。濡れたような目をしたリッカルド・スカマルチョは雰囲気がいい。アダムの精神科医がエマ・トンプソンで脇できっちり存在感がある。ちょっと衣裳がタブつき過ぎ。

ミシュランの星を3つにするために、男はアメリカ・ルイジアナからロンドンへと足場を移す。そこで有為な人材を集め出す。「映画は『七人の侍』が好きだ」というセリフを聞いたとたん、じゅわんと涙が。しかし、志村喬が演じた訳知りのリーダーとはまったく逆である。怒鳴り散らし、すべてを支配しようとする。ほかの人間とまかないご飯も食べようとしない、孤高の人間である。さあミシュランの調査員が来た! となると、緊張が走る。オマール・シーの裏切りに遭うが、幸運にもそれはミシュランのマネをしたセールスマンだと分かる。後日、正式の調査員がやってきて、その結果は……というところで映画は終わる。星の増減に料理人たちは必死である。中村勝宏の本にもそのへんのことが詳細に書かれている。恐ろしきはミシュランの権威である。


125 ジャック・リーチ(T)

出だしはこけおどしだが、正統派である。前に世話になった(何の?)女性少佐に会いに行くと、スパイ容疑で収監されている。彼女の椅子に座っている男が民間軍事会社の犯罪に荷担している。その悪を暴くのだが、リーチの娘と称するのが出てきて筋を膨らませる(?)が、本当の娘だかなんだか分からない。最後にはそうではないと分かるのだが、全体に進行がおざなりである。あとは逃げて、追いかけてで、敵のボスはほとんど出てこず、刺客が勝手に行動する。これってありか? Never comes back というタイトルだが、もう次作はないという意味だろう。


126 フォックスキャッチャー(D)

シェナ・ミラーを見るために「GIジョー」を借りたが、10分も見ていられず断念。それで本作へ。これが実にいい映画である。まったく予想もしなかった。実話だろうと思うが、かのデュポン家の惣領が貴族的な母親(バネッサ・レッドグレーブ)への対抗心からレスリングチームを作る。そこに呼んだのがロス五輪の金メダリスト(チャニング・テータム)。本当は兄(金メダリスト、マーク・ラファロ)も欲しかったが、生活の場を移したくなかったために断ってきた。弟はデュポンに取り込まれ、コカイン、飲酒などに耽るようになる。結局、兄を呼ぶが、全米大会では優勝するが、ソウル五輪で逃す。弟はデュポンのもとを去り、兄は残るが、日曜日にも練習しろと言われて、兄は今日は休み、と答え、それが反感を呼んだのか、デュポンに射殺される。ラストのシーンにずっと流れるのがアルボ・ペルトの「フュア・アリーナ」で、かなり平板な演奏だが、音を消したシーンにはすごく合っている。ぼくはこの曲はガス・ヴァン・サント「マイ・プライベート・アイダホ」でも聴いたことがある。デュポンを演じたスティーブ・カレルがすごい。ぼくは「マネーショート」で、へえ、こんな役者がいるんだ、主役級じゃん、と思ったのだが、こんな映画に出ていたとは。メイクもすごい。監督のベネット・ミラ−は「カポーティ」「マネーボール」を見ているが、この監督は才能があるのに、なぜこれだけなのか。


127 聖の青春(T)

羽生善治に挑んだ関西棋士は頂点を極めず病で死亡。坂田三吉のような破天荒の人生ではないから、将棋の精進の過程を酷烈に描くぐらいしかやることはないが、そこを描かないから平板なストーリーで終わってしまった。原作がどうなっているか分からないが、やはり戦いの場面にこそ演出の腕を振るうべきだったろう。


128 砂の器(S)

何度目になるだろう、こんなに駄作だったのかと思うほどに、歳月の力は大きい。主人公のピアニストが癩病を隠すことの苦悩が表現されていない。あれほど人情味の厚かった元巡査が、父親のもとへ見舞いに行け、と言うのは、何も世間にそれをバラすためではないのは明かである。それなのに彼はなぜ殺したのか。そこがまったく解明されないで、周辺だけの情報で、彼の人物像を作り上げていくことの弱さ。それに甘い映像と音楽。加藤剛の指の太さと、実際に鍵盤に下ろされる指の太さが明らかに違っている。加藤は何を思うのか、しきりに虚空を睨む無様な演技をする。若い森田健作の演技は浮ついている。彼はいまピアノの中にしか現実はないのだ、と訳の分からない抽象的なセリフを言わせられる丹波哲郎がかわいそうだ。橋本忍プロダクション第1回作品なので、成功させなくてはならない、という攻めが、こういう興行的な受けの良さそうな脚本にしたのではないか。


129 西鶴一代女(D)

御所に勤めに出ている女(田中絹代)ということなのか、貴族ではないと思うが、それが身分の低い男と情を交わしたというだけで洛外追放、男は斬首である。その優男を三船が演じている。次は松平様というのが、世継ぎがないため、好みの女を捜しに京へ使いを出す。商人近藤英太郎がその世話をし、たまたま京で流行っているという舞い踊りを見たら、そこに田中がいて選考基準に合ったからといって連れて帰り、まんまと子を産ませるが、殿様が彼女に入れ揚げて体力を消耗したとかで、暇を出される。次は島原の太夫になるが、そこでは贋金造りの男に見初められるが、露見して男は引っ立てられる。次は近藤のところに奉公するものの、近藤が手を出す。実家に戻るが篤実な扇屋に女房にといわれ、幸せな家庭を築けるかと思った矢先に、追いはぎに夫が殺される。尼になろうとするが、そこに近藤のもとにいた手代(大泉洸)がやってきて、店から盗んだ金で助けてくれるが、それもバレて、談判に来た男に襲われ(?)、尼さんに破門だれ、手代と2人で逃げるが、途中で手代が捕まる。路上で三味線を弾くまで堕ちるが、仲間が助けてくれて、夜鷹になる。息子がそのうちに殿様となり、会いたいと言ってきたので会いに行くが、会話を交わすことはできない。円環構造になっていて、たくさんの羅漢がある庫裏で回想が始まり、そこで終わる。3つ展開点があって、1つは松平の嫁探しがそれまでと比べて滑稽味が出てくる。2つは、島原から商人近藤のシークエンスになると、金がすべてだ、という西鶴的な価値観が出てくる。近藤は、これでただで傾城買いができる、などと露骨なことを言う。3つは子との再会だが、音楽が劇的なものに変わって、親子でありながら面と向かって会えない悲しみが増す。疑問があるのは、子が生まれて、殿様が執心しただけで、ろくな慰謝料もわたさずに実家に帰すか、ということである。そんなことをすれば名家の名折れだろうし、民間から人をピックアップすることが難しくなるだろうから、他藩からの批判を惹起するのではないか。


124 教授のおかしな妄想殺人(S)

ウッディ・アレンとは知らずに見ていた。ホアキン・フェニックス、エマ・ストーンが出ていたので見たのだが、人生に絶望する哲学者が殺人を思い立って実行するのが不自然でないのは、どこか浮き世離れした作風が影響しているだろうと思う。ホアキンは「ザ・マスター」「ウォーク・ザ・ライン」の演技に惚れ惚れした。エマ・ストーンはウッディ映画で「マジック・イン・ムーンライト」を撮っている。脚がきれいで、それが強調されている。小話風の粋な作品づくりにどんどん磨きがかかっているウッディ・アレンはやはりすごい。何でも映画にできる、という気がする。


125 シークレット・オブ・モンスター(T)

この映画の圧倒的な音楽がすごい。ウォーカーブラザースのスコット・ウォーカーが音楽である。監督はブラディ・コーペットという人で、これが長編第1作らしい。女優がベレニス・ベジョで「アーティスト」の女優である。意図も分かるし、絵もきれいだが、この映画は無理がある。あんな幼少期でヒトラーの出現を予言するなんておこがましい。


126 フレンチ・コネクション(S)

もう3、4回目になるかもしれない。やはりラストが不満である。敵にあれほど接近していて、あの執念深いポパイが敵の大将を逃すわけがない。セカンドを作るつもり見え見え(といっても、撮ってないのがすごい)。市警に割り込んでくるFBI(?)、ダメな主人公、など後に踏襲されたものも多いのでは。「ゴッドファーザー」に先行して封切られた映画で、「ゴッドファーザー」のラッシュ(?)を観た関係者は、のろい、暗い、ということで、「フレンチコネクション」との違いに失敗を予見したという。映画人は冷静に自分の映画を観ることができないらしい。


127 サンセット通り(D)

2度目である。ウィリアム・ホールデンが色気のある俳優であることが分かる。サイレントの女優グロリア・スワンソンに古臭い演技をさせて、その現代とのミスマッチを強調しているが、もっと普通でもこの恐さは表現できるのではないか。それはコロンボ警部の一編で見ているから言えるのである。スワンソンは50歳の老婆という設定である。時代を強く感じる。召使いエリク・フォン・シュトロハイムは彼女の最初の夫で、当時期待された3人の若手監督の一人だったという。ほかの2人は、この映画にも出ているセシル・B・デミル、そしてグリフィスである。彼女が往年の友達を呼んでトランプをするが、その3人のなかにバスター・キートンがいるのが嬉しい。ホールデンが彼女の束縛を嫌って、屋敷から逃げ出そうとすとき、ドアノブにタキシードの紐が引っかかる。これは演出だろうか? その足で友達の脚本家が開くパーティに行き、そこから屋敷に電話を入れるシーン。彼が受話器に手を伸ばすと、肘の下辺りに手があって、まるで老婆のそれのように見えるが、さっと引き抜かれると、ソファに座っている若い女の手と分かる。この演出はすごく恐い。途中でデミルが登場するということで、この映画は、現実と仮想を混ぜて撮ってしまおうとしたのが、よくわかる。冒頭から急迫の音楽が鳴り響き、ラストもそれである。見たばかりのシークレット・オブ・モンスターもそれをやっていたので、もしかして刺激を受けているかも、と邪推。最初に「死体」があるという設定は、『アメリカンビューティ』でも使われている。最後まで謎解きが低奏としてあるから、劇に緊張感が通る。ビリー・ワイルダーはシチュエーション・コメディの大家という印象だが(シチュエーションコメディをどう定義するかは難しい)、それは彼の中盤以降の作品にいえることなのかもしれない。初期には『失われた週末』という奇妙な映画もある。


128 ナチュラル(S)

バーリィ・レビンソンという監督である。原作がマラマッドで、彼が野球好きとは知らなかった。フィリップ・ロスには「素敵なアメリカ野球」があるけれど。アップダイクもたしか野球好きだったような。レッドフォード主演で、奇妙な映画である。田舎から出てきた天才野球青年が列車で出合ったと女に呼び出され、そのホテルの部屋に入ると、女は黒装束。黒いレースを下げて目を覆ったと思うと、ズドンとやってしまう。それからは16年後の話で、なぞの中年おじさんが大リーグに挑み、再起する、という話だが、まるっきりその銃撃の理由については触れないで進行する。なんだろう、である。その突然の凶行に走る女は神秘的で、魅力的である。田舎を出る前、恋人を一夜のちぎりをするが、それで女性は妊娠し、むかしの傷のせいで成績が振るわないときに、我が子のことを知り奮起する。都合がいい話だが、楽しんで見ることができた。レッドフォードはとうとう役者稼業から足を洗うらしいが、やはり昔は美男である。


129 最後の家族

アンジェイ・ワイダ特集なので、彼の作品だと思って見ていたが、若々しくて、エネルギッシュでもあり、やはりすごいなと感心たのだが、あとでパンフレットを見るとポーランド特集をやっていて、ヤンP・マトゥシンスキーという30代の監督の映画だった。扱っているのは実在したスジスロフ・ベクシンスキーという幻想の画家の一家のことで、冒頭はインタビューの様子から始まる。だれだろう、こいつ、と思って見ていると、18歳の女性に博士号を6つ与えて自分とつり合う感じしておいて、ある日、真裸にムチをもってやってきて、何時間も顔の上に跨がって自分を窒息死させてくれるのが夢だ、と語る。なんという男だろう、と思っていると、彼にはごくふつうの妻とその母、そして自分の母と同居し、同じ団地の違うところに住んでいるらしい自殺願望の息子もいる。息子は英語ができるので映画の英語を翻訳したり、新しいロック曲の解説DJなどもやっているが、彼は女性との距離感が分からず、いつも自殺未遂で病院に担ぎ込まれる。画家である父親はカメラ好きだが、途中からビデオを買って、それで妻を写したり、死んでゆく母を撮ったりする。息子の生きづらさと父親のビデオ狂いがほぼ映画の中身で、2人の母と妻、そして息子の死を経験した画家は、冒頭のインタビューシーンに戻り、女性を強姦したかったが、そうはしなかったと彼の絵を買ってくれるパトロンに向かって話す。最後、知り合いの息子らしいのが入って来て、台所でがちゃがちゃやったり、トイレに入ったりするが、結局画家を殺してしまう。日常のすぐそばで狂気を飼い慣らした男がいて、家族はみんなその男の収入に依存している、という不思議な構図になっている。彼は自分が息子を殴らなかったのはサディストになりたくなかったからだ、と言っている。息子は父親の夢を肩代わりするように、サドの女にいたぶられる性技を行おうとするが無理がある。11年ぶりに現れた女と抱き合うシーンでは、息子は真裸、女は黒い下着をつけて、部屋の中で抱き合って突っ立っているシーンがなまなましい。パトロンの男が画家の伝記を本にするが、妻はそれを見て、息子の扱いがひどすぎる、あの男を家に入れないで、と怒るが、画家はまるで気にしていない。妻が死んだら、早速、そのパトロンを家に呼んでいる。合間合間に少しずつ画家の異常性が描かれているが、それに焦点を当てるということではなく、生活の中に溶け込んだものとして描かれるので、それほど目立ってこない。しかし、部屋にかけられている絵は日常の絵としてはまったくふさわしくない。まず先に母や妻の死体をビデオに収める神経は、やはりおかしいといわざるをえない。


130 狂い咲きサンダーロード(T)

40分で沈没。


131 ボーン・トゥビー・ブルー(T)

トランペット吹きでジャンキーのチェット・ベーカーの再起の物語だが、後味が悪い。イーサン・ホークがはかなげな男を演じてグッド。ポスターを見ると、ジョージ・Cスコットを思い出させる。彼を守るディックというプロデュサーが味がある。テレビ畑のようだが、カラム・キース・レニー。恋人役がカルメン・イジョゴで、キング牧師の妻を演じているらしいが、記憶にない。可憐な感じが出ている。監督・脚本ロバート・バドロー。


132 裏窓(S)

前に見ているのに実に新鮮である。取材で足を怪我してギプスをはめたジェームス・スチュワートがあと1週間の我慢というところで、ある異様なものを目撃する。軍隊時代の友人で刑事に訴えるが鼻もひっかけない。たしかに一番肝心なところを彼は居眠りして見ていなかったのだ。いわゆるバックヤードの様子が彼の部屋の窓から眺められる。年老いた陶芸家(?)の世話焼き婆さん、架空の男を迎えて晩餐をふるまうふりをするミセス・ロンリー、涼を取るためにバルコニーで寝る夫婦、売れない作曲家、売り出し中のダンサー、結婚したばかりの若夫婦、そして問題の夫婦、男は大男で、妻はベッドに横たわっていることが多いが病気ではないらしい。その男が夜中の3時に大きな鞄を持って3回も部屋を出入りする。妻は旅行に出たというが、結婚指輪を置いていったことが、スチュワートが双眼鏡で確認をしている。ふつう既婚女性はそういうこをしないのだという。のこぎりに長刀を新聞紙に包む男、何回も長距離電話をかけている。


ただ部屋から眺めるだけでは話が持たないということもあって、先の人間たちの観察も差し込まれるが、サイレントの寸劇を見ているようで、ヒッチコックも明らかにそういう演出をしているのが分かる。とくにミセス・ロンリーの仕草などにそれが典型的である。部屋には看護師で訳知りのお婆さん、恋人のグレース・ケリーもやってくる。金持ちのグレースは結婚を迫っているが、スチュワートはしがないカメラマン稼業を続けたがっていて、できれば恋人の関係のままでいようと言う。主に会話はこの3人の間で交わすもので、なかなかリズムがあって、小味が利いている。そうでないと、場が持たないので、余計にそうである。そこに事件が起きて、2人は彼の説に最初は半信半疑だったが、結婚指輪の件などで確信を抱き、劇もかなり終盤になってから、グレースは果敢な行動を起こし、劇中最大の危機が彼に迫ってくる。最後、もう1本の足も怪我した彼と、その近くのベッドで横になって女性雑誌を読んでいる平和な風景で映画は終わる。


サイレントの映像を生かすこと、それと善意の人びとばかりの中で一室だけ邪悪な企みが進行しているがゆえに誰もその事件性を疑わないこと、この2つがヒッチの狙いである。スチュワートはギプスで足がかゆいが、石膏のために思うようにいかない。その隔靴掻痒の感じが、そのまま事件解明が進まないことのアナロジーになっている。これも狙いの一つであろう。あと有名な美人女優いじめをいえば、絶世の美女で大金持ちであってもなびかない男がいる、というのはヒッチの屈折した欲望を表していよう。さらに、彼女を結婚させないことで自分のものにするという隠された喜びもあるかもしれない。グレースを大根役者と思っていたが、どうしてどうして細かい表情に、細かい演技を披露している。才能ある彼女が王妃として去って、ヒッチの落胆はいかほどであっただろう。


133 泥棒成金(S)

ヒッチコックもつまらない映画を撮ったものである。ただ南欧を舞台に華やかな金持ちの世界を描きたかっただけではないか。グレース・ケリーが美しくない。ケーリー・グラントが色が黒い。彼を追うポリスたちも間抜けである。


134 リベンジ(T)

ファン・ジョンミン主演、濡れ衣の検察官が獄中から復讐を果たす。その手先になるのが若い詐欺師、いくら何でもなりすましで、エリート検察官を騙すのは無理がある。最後は法廷劇だが、やはりアメリカ映画のようにはいかない。ジョンミンは腹に傷を負って出廷したのに、あまり痛そうでもない。しかも、囚人なのに検察官の役回りを演じる。なんだかなあ、である。

































































 







 

2016-01-07 2016年の映画(上期)

kimgood2016-01-07

1 グランドイリュージョン(S)

この種の映画を再見して、前より好印象ということはごく少ないのだが、初見でがちゃがちゃと詰め込んだものが、二度目だと余裕をもって見ることができ、なかなか楽しむことができた。それにしても、日本にこの種の“コンゲーム”といわれる映画がほとんどないのは、知的な遊びの少なさばかりか、やはりまじめな国民性が影響しているのではないか。犯罪を行うものは悪、となったら、この種の映画は成立しない。欧米ではスマートな、知的な犯罪者に敬意を抱く習慣があるようである。「オーケストラ」で目覚ましい登場の仕方をしたメラニー・ロランが少し線が細いのが残念である。主人公とも言うべき刑事マーク・ラファロは顔つきには似合わずタイトな身体をしている。


2 ストレイト・アウタ・コンプトン(T)

コンプトンを出てまっしぐら、ぐらいの意味だろうか。カリフォルニアの伝説のヒップホップグループN.W.A(レーベルも立ち上げruthless「容赦なし」という名である)の軌跡を扱ったもので、お決まりの仲間割れ、そして再結成を誓うもリーダーがエイズで死んでしまう。1992年のロドニー・キング事件が描かれるので、その前からの話ということになる。ラッパーというのはNYから出てきたものだと思っていたので、意外な感に打たれたが、ロサンゼルスの暴動を思えば、さもありなん、である。Fuck the police という曲ではFBIに目を付けられている。乱交の場に女を探しにやくざまがいの男が3人尋ねてくると、全員で拳銃やら何やら持ち出して追い払う連中である。昨年、ナルコリードというメヒコ・ギャングを讃えるミュージシャンを扱った映画があったが、まったく迫力が違う。ジョージ・オーウェルは英米では暴力の肯定の仕方が違う、と言っているが、アメリカに匹敵できる国ってISぐらいではないのか。ポール・ジオマッティが髪の色を変えて、プロデューサーの役をやっている。よくいろいろな映画に出る人だ。それにしても、客質の悪い映画館だった(右でも左でも携帯を持ち出す)。


3 チャイルド44(S)

劇場公開を見逃した映画である。スターリンの密告政治がはびこるなかで、楽園であるソ連に殺人はありえないということで、少年連続殺害が封印されたままであった。それをMGBという監視組織の一員である主人公が、スパイを疑われた妻を擁護したかどで地方に飛ばされ、そこで目覚めて真相解明に動きだす、という話である。みんなが疑心暗鬼で生きる窒息するような社会がよく描かれている。上司(主人公)にないがしろにされたと逆恨みする部下に、「キリング」「ラン・オールナイト」のジョエル・キナマンが冷たい、官僚的な軍人を演じてグッド。あとゲイリー・オールドマンがローカルな町の警察署長のような役。「ドラゴンタトゥ」のノオミ・ラパスが主人公の妻役で出ている。みなさんロシアなまりの英語を喋るという変な映画である。製作にリドリー・スコット、監督がダニエル・エスピノーザで、ぼくは一本も見ていない。


4 ベトナムの風に吹かれて(T)

途中何度も出ようと思ったが、とうとう最後まで見てしまった。それが悔しい。大森一樹という監督はもしかして一本も見てないのではないか。この作品を見る限り、ほかのには手は出ない。松阪慶子、草村礼子が主演。脇に奥田瑛二、吉川晃司。絵のつなぎが悪いので、松阪は目の焦点をぼかして、ごまかしていた。「シャルウィーダンス」でかわいいおばあちゃんを演じた草村が本当のおばあちゃんになっていて悲しい。



5 寅次郎頑張れ!(S)

電気工事の青年中村雅俊が虎屋に居候、その独身の姉が平戸に住む藤村志保。この映画の寅さんはちょっといただけない。分別めかした説教ばかり、反対に自分が説教されると怒り出す。それに青年に独身の姉がいると聞くと、平戸をくさしてばかりいたのに色めき立って家に厄介になることに。寅さんはそんなに好色な人間だったろうか。青年が惚れる秋田の女の子が大竹しのぶで、羞じらいながら強い目線を送る演技は彼女独特のもの。島の渡し船の船長が石井均。伊東四朗、財津一郎と石井均一座を起こした人である。小さいころ、藤村志保ってきれいだな、と思って見ていたものだ。たしか今は踊りの師匠を専一にしているはずだ。以前、行ったことのある平戸の町の様子が懐かしい。


6 恋人たち(T)

橋口亮輔監督、話題の映画である。予定調和的に作っているので、残念感が強い。もっと深く、あるいは弾けてもいいのでは。3人の主人公を扱うが、共感を覚えるのが難しい。彼らは最後、それなりのハッピーにたどり着くわけだが、それは彼らが自分の恥部をモノローグで語ることによってである。妻を通り魔で亡くした男は殺人も自死もできない自分が悔しいと泣く。浮気をした主婦は、OL時代の無能さを独りごち、上司であった旦那の善意に触れる。若い男の弁護士はすでに切れた電話の相手(同性)に向かって、大学時代から好きだった、と言い続ける。これがそれぞれのカタルシスだが、非常に低位の熱量である。弁護士の男が漫才師アンガールズの片割れとそっくりの耳障りな話し方をする。


7 ヤクザと憲法(T)

ドキュメントで、東海テレビの冤罪ものをいくつか見ている。今回は、ヤクザの事務所にカメラが入った、というだけの映画である。山口組の顧問弁護士が尾羽うち枯らしている現状には、意外な感がある。ひところは5人の人を雇っていたというから、それなりの実入りはあったのだろうが、いまはお婆ちゃん事務員が一人いるだけ。月10万の顧問料を貰っているだけで、個別の弁護料も大した額にはならないようだ。警察に睨まれ、器物損壊教唆で執行猶予付き懲役3年の判決を食らうが、本当であれば罰金刑ぐらいなものらしい。前にも警察に挙げられたが、そのときは無罪ですんでいる。このドキュメントで取り上げる大阪西成のある組の組長は、ヤクザというだけで子どもがいじめにあい、銀行口座もつくれず、生命保険も断られ、自動車事故を起こせば強請りと勘違いされる、それは人権侵害だという。カメラを回す側(東海テレビ)が、ではなぜヤクザを止めないのか、と聞くと、誰が俺たちを拾ってくれるのか、と反論される。暴対法成立までの歴史がかいつまんで説明されるが。、以前はテキヤなどで稼ぎを出していた、というのは違うのではないか。テキヤとヤクザは別物のはずである。


8 アリスのままに(T)

若年性アルツハイマーで、家族性といわれる遺伝子系の病に冒されたアリス、ジュリアン・ムーアが主人公。旦那がアレック・ボールドウイン。アリスはコロンビア大学の音韻学の教授で、そのキャリアを失うことになる。彼女がある会にゲストで呼ばれて、エリザベス・ビショップのthe art of loosing という詩を朗読する。ぼくの好きな詩で、ちょっとびっくり。ビショップのうたった喪失は記憶のそれではなく、愛するものを次第に失っていくことだったのだが。アリスはまだ意識がはっきりしているうちに、自らに伝言を残す。どう服毒自殺するかという手順を教える画像だが、彼女はそれを完遂することができない。アルツハイマーとは人間の尊厳の問題である、ということがよく分かる。



9 マッドマックス 怒りのデス・ロード(S)

「駅馬車」の翻案であろう。攻め来る敵をバッタバッタと投げ散らす、という風である。矮軀、異形の者たちが支配者側であり、そこから逃走をはかる正義の者は見目麗しいという分かりやすい設定である。その中間に位置する女大将(シャリーズ・セロン)は額に痣があり、左腕の肘から下がない。ウォーターボーイは死んで名誉を貰えるという設定で、日本の特攻を思い出させる。逃亡の一群は一直線に“緑の大地”に向かうが、そこが不毛の地となっていることを知り、矢印を元に戻るという不思議な構図になっている。この映画を「ロードムービー」だというお馬鹿な意見がある。マックスをトム・ハーディ。粗野だが甘い、というメル・ギブソンが放っていた匂いがする。はるかな昔、このシリーズは神話的な影を背負った映画であった。荒々しい撮影現場で死者が何人も出た、という話がまことしやかに囁かれた。我々はそれを真に受けながらスクリーンに向かったのである。今度はデジタル処理と分かっているので、まったく余裕で見ていることができた。


10 微笑みをもう一度(S)

なんだかラブロマンスのようなパッケージだが、じつは離婚シングルマザーの再起のお話である。サンドラ・ブロックの役柄の幅の広さはさすがである。テレビのワイドショーで親友から夫と不倫をしていると告白され、みんなが周知のこととなり、傷心のまま故郷へ娘と一緒に。そこはかつて高校のクイーンとして迷いなく生きていた場所。少しずつ自分の拠って立つものは何かを探りはじめ、そこに高校生のときに彼女に憧れをもっていた男性も現れる。訳知りの母親との交情が彼女の一番の支えとなっていく。娘が学校でいじめを受けるが、そっちももうちょっと描いていれば、もっと深みのある映画になったことだろう。


11 ブラック・スキャンダル(T)

ジョニー・デップがアイルランド系のギャングで、ボストンの南を仕切る。ジョエル・エドガートンは同じ南部の出身でFBI捜査官。なんだか判で押したような演技で、変化がない。ベネディクト・カンバーバッチはデップの弟で上院議員。出演シーンは少ないが、重厚ないい味を出している。やはりこの役者はできる。主に前2者が組んで、北のイタリア系マフィアの利権を奪う。しかし、悪事がばれて、デップは逃走し、12年後に捕まる。カンバーバッチは引責辞任し、マサチューセッツ大学の総長に収まるが、兄に電話していたことがばれて、また辞職に追い込まれる。エドガートンは刑務所に。デップが額を剃って、まるでお人形さんのようなつくりものめいた顔になっている。ちっとも恐くない。ほぼ拳銃ではなく首締めで人を殺す。


12 ひばりの石松(D)

沢島忠監督、次郎長は若山富三郎。金比羅代参にかこつけて、清水で落ち合った丸亀藩の盲目の千姫を届ける(それにしても、どこから逃げてきたのだ?)、という設定である。四国に渡る船が実際にかなり大きなものを作っていて驚かされる。その船中で有名な「鮨食いねぇ、江戸っ子だってねぇ」の一幕がある。その相手が堺駿二で、なかなか小気味のいい科白回しである。ひばりが声を割ったような発音をし、まるで錦之介の演じる石松のようである。四国に着いて遊技場でボーリングをやるのには呆れてしまった。最初と最後が現代(?)の茶摘みのシーンで、ミュージカル仕立てである。茶摘みの子が列をなしているのだが、交互に前向き、後ろ向きが並んで、踊りのリズムを出している。冒頭の、大きな富士山をバックにした茶摘みのシーンとまったく同じものをほかの映画で見ているが、さて、それはなに? 


13 味園ユニバース(D)

また見てしまいました。これで3度目。けっこうどん底っぽい生活の中で屈託なく生きる主人公を演じる二階堂ふみがいい。相手役の男優(ほんとは歌手)渋谷みのるがちょっと重いが感じがするので、見直すのに少し決意がいるが、しだいに慣れてきた。その渋谷が代役する少しオカマっぽい役者がいい。これは実際の赤犬というグループのボーカリストでタカ・タカアキというらしい。脇でコーラスをつけるひげ面の男もいい。女医で鈴木紗理奈が出ている。無事にこなしたという感じだが、歌い手でもあるようだ。中で一曲、歌わせたらどうだったのだろう。


14 チャルラータ,ビッグシティ(T)

サタジット・レイの1963年と64年の映画である。早稲田松竹がほぼ一杯である。「チャルラータ」はウェス・アンダースンが好きな映画に挙げているらしいが、最初の30分はほとんど夢うつつ。間が悪いのと展開がほとんどないからである。意味のある間であればいくらでも見ていることができるが、この映画の間は中身のなさを糊塗する間である。「劇」がないので、見ているのがつらい。作劇法が古く(1960年代にしても)、たとえば従兄弟がいなくなって動揺したときに、外に強風の気配があって、窓から突風が吹き込んで、主人公がどっと泣き伏すシーンがある。ちょっとね、である。一方、翌年に撮った「ビッグシテイ」はまったく普通の映画である。ということは前者の間の悪さは意図的に撮ったということだが、それに何の意味があるのか。貞淑な妻が経済的な理由から働きに出るが、彼女のブラジャーは外からはっきり透けて見える。リップスティックやサングラスがダメで、これはいい、という文化コードの違いが面白い。ヒンドゥー語なのだろうが、時折英語っぽい音が入るのが印象的だった。熱い煮魚を右手だけで食べるのも不思議である。ベンガル人の男優陣のなかにまるで西洋人かと思える人がいる。「チャルラータ」が1800年代のインド、「ビッグシティ」が1960年代のインド、不思議なことだが前者のほうが古臭く見えない。電車のパンタグラフを撮したり、風俗や流行や先端技術に身を寄せると、こういうことになる。小津にしても競馬場や野球場のシーンなど、とても古臭く見える。ラーメン屋やパチンコ屋がそうは見えないのは、風俗としてそれを撮っていないからである。


15 フエィクシティ(D)

相変わらず警察の不正で、警視正が悪党というパターンである。判で押したような筋がなぜいつまでも作られるのか。キアヌ・リーブスもジョン・ウイックとは違って抜けた感じがしない。悪党上司がフォレスト・ウイテカー、内務調査部部長がTVドラマ「ドクター」のヒュー・ローリーで映画にすると線が細い。黒い髪で後ろが禿げているという米国人には珍しいタイプ。「エージェント」で嫌な男を演じていたジェイ・モーアが相変わらず嫌な男を演じている。日本でもそうだが、善玉、悪役はほぼ決まっていて、容姿に何かそういう区別を誘うものがあるということなのだろう。しかし、喜劇人だけは別ではないか。渥美清なぞ、ときにとても冷たい顔をすることがある。そのままそれを悪役で使えば十分に成り立っていく。ロビン・ウイリアムズがストーカーを演じたのがあるが、印象の余りいい映画ではないし、彼の脚本チョイスのまずさを感じたが、喜劇人の酷薄さはよく出ていた。


16 競輪上人行状記(D)

いい映画である。葬式仏教の内幕といえば大仰だが、小さく貧しい寺がどう生き延びていくか、関係者の人間模様もきっちり描きながら、説得性をもって語られる。1963年の作で、小沢昭一主演、今村昌平の「エロ事師」が1966年だから、その前に撮られた映画である。西村昭五郎監督、いろいろ撮っているが、後半はポルノ系が多い。大宮駅の古いコンコースの映像から始まる。そこで青梅から家出してきた娘を保護する教師が小沢である。ブラック婆(武智豊子)というのが風俗に連れ込もうとするが、小沢が引き留める。その娘はじつは義父の子を孕んでいた。少し頭が足りないふうな子である。何度も家出をし、小沢の厄介になり、最後は2人で漂泊の旅に出る。小沢は破れ寺の次男で、兄が死んで寺に戻ることに。それには兄嫁(南田洋子)の存在が大きく、以前から恋心を抱いていた。父親は糖尿病で床に伏しているが、寺の将来を考え、勝手に息子の退職願を学校に送りつけていた。小沢はひょんなことから競輪にはまり、本堂再建の金などを使い込むが、父親はそれを責めない。昔、悩みを抱えた人間は寺に来たが、いまは競輪場に行く、と面白いことを言う。遺言にも、寺は小沢の好きなようにせい、と言い残す。彼は一念発起して京都で修業をし、寺を引き継ぐ決心をするが、兄嫁に結婚を申し込んで、実は子どもはあなたの父親の子である、と告白されて、追い出すことに。また荒れた生活を始め、ノミ屋にはまり、かなりの借金を重ね、暴力で返済を迫られる。最後の賭で儲けて、寺を買い戻し、兄嫁に譲り、自分は教え子と一緒に旅に出て、競輪場で説法をしながら、「法然様は、我々は汚れたままで往生できると言った。競輪をやることに何の負い目があろうか。券を買って税金も払っているのだから、堂々と買えばいい。ただし一点買い、私の言った目だけ買えばいい」と迫力のある弁舌をくり広げる。それがラストシーンである。


兄嫁の南田が醸す色気は相当なものである。しぶとく生きる庶民の代表のような人で、寺の儲けがないからといって、犬の供養まで引きうける。小沢の注意も何のその、生活のためだから、と聞かない。寺の仕事を手伝う芳順(高原駿雄)は万事如才なく、貧しい檀家の回向に行ったときに、「人の死でご飯を食べる人間もいる」ときつい皮肉をいわれても平気で、出された膳にがつがつ食らいつく。小沢は箸が出ない。芳順の女は小さなホルモン串焼き屋の女将(初井言栄)で、インテリで正論しかいわない小沢に手厳しい。いかに自分の男が寺のために奉公しているか、と言い立てる。あんたが喰っている串も、犬を潰したものだ、と言うと、小沢は吐き戻す。芳順はあとで小沢の寺を買収する。僧の資格がないので、別の新興宗教から手に入れる。加藤武が出入りの葬祭業者で、小沢のノミ屋仲間でもある。これが、「日照り続きだから、いい大きな仕事がある」と言うのは、仏様が出る、という意味である。随所にそういう細かいリアリティある描写があって、原作寺内大吉の良さが生かされている。脚本は大西信行、今村昌平である。


17 めぐり逢い(S)

デボラ・カーとケーリー・グラント、監督がレオ・マクゲェリイ。どちらも結婚前提の相手がいるのに船上で出合って気持ちが通い合い、とうとう半年後にエンパイアステートビルの上で再会しようと誓う。それまでのシチュエーションの積み上げた方が見事で、ほぼ会話で無理なく運んでいく。決定的なのは、二階から下りてくるハシゴに男のズボンが見え、次にスカートが見える。男の足が止まり、スカートの足も止まる。足が後ろを向き、少し昇り、スカートの足に近づく。キスシーンをそういう演出で見せる。二人が他の乗客の噂に上るようになり、レストランのシーン。背中合わせに座り2人は気づかない。こちらには客がいっぱいて、2人を見て笑いさんざめく。がまんできず2人はレストランから逃げ出す。


警戒心のあった彼女の心がほどけたのは、途中で寄った彼の祖母の屋敷でのこと。非常に優しく、敬虔でさえある彼を見届けることで、浮き名を流すばかりの軽薄な男でないことを知る。男が祖母にバースディプレゼントに持ってきたのが亡き祖父の肖像。彼に絵の才能があることがここで示され、あとで彼が自立する手立ての先触れになる。いよいよ再会の日に彼女は交通事故にあって目的を達せられない。しばらくして彼が彼女の元に訪れ、ぼくはあの日は行けなかったが君に待ちぼうけを喰わせて悪かった、とかまをかける。画廊に自分が描いた絵を預けておいたが、その絵を欲しいという貧しい女性が現れたが……と言ったところで、彼は隣の部屋に駆け込み、そこに飾られた自らの絵を発見する。


彼女が事故ったことをグラントが知っているのか演技からは読み取れない。それに言葉の途中で隣の部屋に駆け込むのも、はたと気づいた、という表情がないので、演技が平板で盛り上がりに欠ける。グラントは角度によって額に瘤があるように見えることがある。メイクで消せなかったのか。このとき、グラント54歳で、みんなが知っているモテ男としては、いささか年が行きすぎているのではないか。それでもやはり設定が粋である。再会の場をエンパイアステートビルに決めるのは、船が港に近づいたときに、突然、視界にそれが飛び込んできたからである。この急な、偶然な感じがいい。これとそっくりな設定の映画を見たことがあるが、まさか前にもこの映画を見たことがある? しかし、デボラ・カーの印象がないから、見ていないと思うのだが……と思って調べたら、ウォーレン・ビーティとアン・ベネットで「めぐり逢えたら」というタイトルでリメイクされていた。


18 キャロル(T)

ケイト・ブランシェット、ルーニー・マーラー主演、監督が「エデンより彼方に」のトッド・ヘインズ。ブランシェットと監督は「アイム・ナット・ゼア」で組んでいる。彼女がボブ・ディランに扮した映画である。「エデンより〜」も同性愛を扱った映画だが、本編は女性のそれ。ごく当たり前の恋愛映画である。離婚調停中に不道徳なことがあったとして親権を取られる取られないの問題が発生する。それを放棄して新恋人を選ぶという設定なのだが、そこの切り換えが今ひとつはっきりと描かれていない。だから、マーラーが最後に翻意してブランシェットの元に戻る心理もいま一つ鮮やかではない。ブランシェットが中年の、ねっとりとしたオヤジみたいで、まったく綺麗ではない。年をとって容色が衰えたのではないか。マーラーは、ミア・ファーロー、キーラ・ナイトレイを思い出させる。


19 ザ・ガンマン(T)

ショーペンがアクションである。それだけでは、ということでアフリカ・コンゴでの不正と自らの脳病を重ねている。病気だから敵と戦っていても頭が痛いし、目がかすむ。その演技を挟みながらアクションはさすが名優、てなわけにはいかない。まだるっこしい。それにコンゴで不正を働いたのは、民間の建設会社社員でありながら、しかも反政府軍に武器を渡す会社のスナイパーって、そもそもただの悪人ではないか。いくらショーペンでもそのハンディを翻すことはできないはずなのに、罪滅ぼしにNGOで井戸掘削をやるのは完全な欺瞞である。慎重にホンは選べ、名優なんだから。敵に撃たれたときに、マタドールに刺される闘牛の映像をかぶせるのは、とっても恥ずかしい。監督は「96時間」の人だそうだ。古手の再利用、そうはリーアム・ニールソンのようにはいかない。顔のでかいハビエル・バルデムは何だか使い方を間違ったのではないか。こっちをボスにすればよかったのに。


20 誘拐の掟(S)

リーアム・ニールソンで、静かな展開でなかなかいいぞ、という感じだったのだが、ラストに来ると、急速に力を失ってしまう。異常犯罪者が2人で組むなんてケースが実際にあるのだろうか。図書館で夜を過ごすみなし児は、ふだんはどうやって食を贖っているんだろう。なぜ彼を哲学的な隠者として描くのだろう? ニールソンは彼を養子にするだろうか?


21 いとこのビニー(S)

ジョー・ペシ主演、その彼女がマリサ・トメイで、むちゃ若く、ピチピチしている。最初から2の線は走っていなかったようだ。超B級だが、まったくど素人の弁護士が最後に逆転劇を演じるのが分かっているので、どうしても最後まで見てしまうことになる。保守的な田舎の判事とのやりとりは、ちょっと面白い。ペシが、検察側の証言が続くあいだ、手持ち無沙汰そうで、なんか演技しろよ、といいたくなるが、まあ、いいか、である。なんせB級だから。泊まる宿がどこも朝早くに騒音で寝られない、というネタは面白い。最後、トメイが自動車おたくであることがカギになる。演技もぴっちり決まって、やはりヌケた感じがある。カラテキッドの彼が出ていて、懐かしいが、もうオジサン化している。



22 寅次郎夢枕(S)

八千草薫がマドンナで、10作目。東大の物理の先生で、さしずめインテリの米倉斉加根が出ている。始めから快調で、寅は寅屋に入りにくくて、工場裏から回るという念の入ったことをする。寅屋の連中も、寅ほどいい奴はいない、などと聞こえよがしにいって、寅をいい気持ちにさせる。幼なじみの八千草は寅と結婚してもいいというが、へなへなと寅はくずおれる。ちょっと話が出来すぎているが、中にはこれぐらいのものがないと、シリーズは続かないかもしれない。東大の大教室に紛れ込んで、諸君、勉強しろよ、といって寅が姿を消してから、爆笑が起きるが、あれはハプニングで撮ったのか? 

それにしても、なぜ寅が帰ってくると、毎回、大騒ぎになるのか。口では、いまごろ何してんだろ、と心配しているのに、本人が顔を出すと、すぐに緊張が走る。寅も久しぶりの帰りだが、何年もご無沙汰というほどではない。年に2回は帰っていそうな感じである。だから、ふつうの顔で帰ればいいのだが、そうはいかないらしい。距離感がお互いに掴めないところに、この原因がありそうだ。寅ももっと間遠にかえってくるようにするか、そうでないならあっさり入ってくる。迎える方も、2年目だ、3年目だというなら、大手を振って迎える。年に2回だ、3回だ、というなら、ああ帰ったんだね、ぐらいで収める。

なかなかそうは定式化できないのは、下町の人の付き合いの近さ、濃さみたいなものが影響しているのではないか。それは、迎える側にもあるし、帰る側にもある。ふだんから顔を合わせていれば、このクソババアみたいな、いつもの付き合い方ができるのに、中途半端に帰ってくるので、親しみの向け方が分からないのだ。だから、一度、カミシモを脱いで、ということは一回喧嘩で爆発して、それからいつもの近接した関係に入る、という過程を踏む必要があるのではないか。田舎の人間のほうが、もっと上手い、逆に言えば冷たい付き合い方をしている、と言えるのだろうが。



23 顔のないヒトラー(T)

なぜ、この映画を見ていなかったのだろう。恥ずかしいかぎりである。扱われるのは、まだアイヒマンが捕まっていないときのドイツだ。ドイツの戦争犯罪を裁くニュールンベルク裁判で決着している、アウシュビッツなど今さら掘り起こすな、という圧倒的な世相の中で、ひとりの検事が膨大な資料を読み込みながら、何食わぬ顔で生きている虐殺者たちを暴いていく。自らの父親もナチだったことを知って気持ちが揺らぐが、また復帰する。検事総長がユダヤ人であることが大きい。本来であれば、アイヒマンはドイツで裁きたかったが、イスラエルの協力を仰いだことで、エルサレムでの裁判となる。医師でありながら残虐行為を繰り返したメンゲルは、南米にいたが、何度もドイツに偽名で戻ってきている。政治的な配慮で、野放しになっていたのだ。イスラエルも小国ゆえに余りしつこく追えない、国連もうるさい、ということで、メンゲルはパラグアイで死亡する。アーレントがアイヒマンは特別ではない、といったとき、大変な批判を浴びたが、これにもやはり一般人は強いられてナチに荷担したのであって、アイヒマンとは一緒にするな、というのが背景にあったのだろう。アーレントは、アイヒマンをbrainless と表現している。あの過去を反省するドイツにしてこうだったのか、結局は、どんな大きな事も個人から動きが始まるのだ、ということを思い知らされる映画である。かつて、アメリカにサリドマイド被害が広がらなかったのが、一人の女性の疑心からだったように。


24 シャーロックホームズ 忌まわしき花嫁(T)

本編の前に、いかに舞台装置が精巧か、という説明篇がある。そして、映画が始まるが、時間を行ったり来たり、それに訳の分からない、宿敵といった感じの男が突然出てきたり、これは前作などを知らないと意味が取れないのではないか。イギリスでテレビ放映され、それを劇場版にしたらしい。謎解きもほとんどホームズではなく、ワトソンの彼女がやってしまう、といった中途半端さである。本編のあとにおまけが付いているが、10分そこそこで見るのを止めた。


25 マイ・ファニー・レディ(T)

ピーター・ボグダノビッチ監督の7年ぶりの映画らしい。彼の「ラストショー」「ペーパームーン」は名作である。今度のは喜劇で、それも古い匂いをさせた良質なコメディにしようとしたものと思える。タイトル文字から、そういう遊びをやっている。しかし、映画をややこしくし過ぎたようだ。コールガールを主人公にした劇に応募してきた女が元コールガールで、審査する演出家がそれこそ彼女のお客で、3万ドル上げるから今の商売から足を洗え、と奇特な提案をしてくれた男で、その言葉で奮起して彼女はオーディションに臨んだのである。しかし、3万ドルを譲られたのは彼女ばかりではなく、デパートに行ってもいるし、そもそも娼婦連の胴元の女も、もとは演出家から貰った3万ドルが資金になっている。そのことが妻(キャスリーン・ハーン)にばれ、その妻に言い寄る男優も演出家と同じく娼婦好きで、と輪廻は回るのである。精神科医を演じたジェニファー・アニストンが太ったのが残念、彼女にはああはなってほしくなかった。コールガールは彼女の患者の一人で、元彼氏が劇の脚本家である。コールガールの母親がシェリル・シェパードで、容色の衰えは隠しきれない。「タクシードライバー」で見せた高慢ちきで、スノービッシュな彼女が最高だった。娼婦好きの男優がリス・エバンスで、スパイダーマンで爬虫類に変身した博士を演じていた。この優男がなかなかいい。コールガールがイモーゲン・プーツ、しゃべり方、歩き方、妙な間抜け感があって、面白い。エイミー・アダムスに似てるかも。彼女にぞっこんの判事をオーステイン・ペンデルトンという老優がやっているが、右肩を上げるようにして、腕がきちんと伸びないで、不明確な発音をする。この人は味がある。ほかで見た記憶がないのだが。ラストにタランティーノが出てくるのはお愛想である。ボグダノビッチは今年、新作予定が目白押しである。


26 日々ロック(S)

二階堂ふみで見た映画で、よく途中で投げ出さなかったものだ。彼女がアイドルとして歌うシーンはとてもかわいい(何だかTVーCMでも踊っている?)。前は宮崎あおいに似ていると思ったが、もうそうは感じなくなった。主人公のロッカーがつねに前傾姿勢で、ほとんど言葉をしゃべることができない、という演出は面白い。若者向け映画で、こういった奇妙なテイストで仕上げるものが多いように思う。予告編でしか見ないが。それにしても、それで客が入っているとも見えないのだが。病室で横たわる二階堂は不憫というより、当たり前の映像になっているので、かえってつまらない。


27 スティーブン・ジョブズ(T)

ファスビンダーとは配役の妙である。ほぼ室内劇で、スラム$ドッグを撮った監督ならお手の物であろう。フォーカスしたのは、すべてジョブズの新作発表会。その裏で、家族の問題、アップルからの追い出し劇、過去のガレージの映像などが挟まれていき、さてジョブズの勇姿が見られるぞ、と思うと、次の発表会へと移っていく。少なからずストレスが溜まっていく。それにしても、言葉、言葉、言葉である。よくボクシングのように戦わすというが、たしかにお互いに血を流すほどに言い合っている。それなのに、和解の道がまだ残されている、という不思議。ジョブズ入門としてはほんの表層をなぞったものだが、きっちり時間内は楽しませてもらった。それにしても、彼がプレゼンで押しだしたアインシュタイン、ボブ・ディラン、ジョン・レノン、モハメッド・アリ、キング牧師、ピカソ、どれもまあ分かりやすいイコンばかり。パソコンは芸術だというジョブズの底は意外と浅いか。


28 ディバイナー(T)

有楽町の映画館で、ここで見るのは2回目である。divinerって何だろう、である。両手に細い鍵型のものを持って、2つのクロスしたところに水脈がある、ということを占う卜者のことである。オーストラリアの農夫はそうやって水を探すのだろうか。彼は勘のはたらく人らしく、戦地のトルコで死んだ3人の息子を探しに行き、見事に埋まっている場所を突きとめる。そのときは道具は使わないが。ときは第一次世界大戦、なぜトルコにオーストラリア軍が出張ったのか調べていないので分からない。戦争が止んでいるのだが、ギリシャ軍が押し込んできたり、イギリス軍が居座っていたり、トルコという国は一次世界大戦後、大変な苦難の道を歩んだようなのだ。主人公をラッセル・クロウ、彼が監督もやっている。ドンパチあり、恋あり、家族愛あり、(息子を殺した側の軍幹部との)友情あり、喧嘩あり、音楽あり、必要なものはすべて、しかし無理なく処理されていて、ラッセルおじさん、なかなかやるな、という出来である。旦那が戦死している宿屋兼民家の主婦は、007「慰めの報酬」に出たオルガー・キュリレンコである。ウクライナ生まれである。終わってタイトルが流れると、突然、アメリカンポップスに切り替わるのは止めたほうがいいのでは。中東の音楽でいいではないか。


29 Dear.ダニー(S)

アネット・ベニングで見た映画である。アル・パシーノが汚い感じの爺さんになっていて、見ていて辛い。昔、彼宛にジョン・レノンが書いた手紙を雑誌編集長が渡さず、高値で売ってしまい、ようやくウン十歳のパシーノに届く。クスリと酒に溺れる男が一大変心、ほったらかしだった息子に会いに行く、という話。ベニングは田舎のホテル長という立場、スーツを着て、メガネをかけて、ちょっと堅いレディを演じている。懐メロ歌手として生きているダニー、さてウン十年も書いていなかった曲が書けるのか、書いてもそれを発表できるのか。ベニングは今年はどれだけの映画が来るのか、怖いくらいである。


30 カンフージャングル(T)

ドニー・チェン主演、最後の20分くらいか、高速道(?) のうえで繰り広げられる戦いは迫力がある。途中途中でワイヤーアクションが露骨なところがあって残念である。久しぶりの香港映画で、間の抜けた、明るい広東語(?)が懐かしい。女刑事(警部?)をみんながイエス・マダムとうるさいほど口にする。


31 マネーショート(T)

原題はthe big short だから大損みたいな感じだろうか。誰が損をするのかといえばお金もないのにサブプライムなどとおだてられて家を買った人々である。細かく債権を証券化して、政府お墨付きの格付けをすれば、いつまでもみんなが潤っていられる――などといったまやかしを誰もが信じていたらしいし、考案したスマートヘッドたちも自信過剰なくらいにその楼閣を疑わない。だからこそリーマン150億ドルの損失といったばかげた事態にまで立ち至るのだ。アメリカから欧州に波及し、日本は埒外かと思っていたら、グローバルに組み込まれた以上、知らぬ顔を続けることはできなかった。


変な映画で、3つのチームがサブプライムはバブルに陥っていると喝破し、逆張りを始める。サブプライム関連株が下がったら儲かるという方に賭けたのだ。一人は独立系の投資家、これをクリスチャン・ベイルが演じている。彼は室内から何時間も出ずに、バブル崩壊のシナリオを投資家に向けて発信し、資金を募る。もう一人はリーマン傘下の投資家集団だが、資本主義の悪に愛想を尽かしている男スティーブ・カレルが演じている。彼を下げ相場に誘惑するのが、投資会社に勤務するライアン・ゴズリングで、切れ味鋭い演技を見せる。そして、お金持ちになりたい2人組が謎の資産家ブラッド・ピットと組んで、やはり下げ相場に投資をする。実はこれら3チームが組んで事が進むというのではなく、勝手にそれぞれが崩壊する経済の中でうごめき回るのを繋いでいくのである。話が経済の話だし、3つも別のストーリーが展開するという荒技の映画だが、楽しんで見ることができた。ただ、やはりなぜサブプライム信仰があれだけ強固だったのか、図を入れてでも説明が欲しかった。登場人物が観客、つまり我々に語りかける古臭いスタイルは、たしか「アーティスト」でやっていたのではなかった。ややこしい話のときに有効な感じがする。


32 トランスポーター・イグニッション(S)

ステイサムの新作が来ないと思っていると人気シリーズの役者替えである。ラッセル・クロウ似のお父さんが出てくるが、うーんアクションものでお父さんね、である。まあ元スパイのお父さんだから、2回、拉致されるだけで、足手まといにならないけれど(笑)。主人公の顔がいかにも冷たいヨーロッパ人で、なじめない。体型も少し細い感じがする。敵の船に移ってからは、ほぼ迷路に入り込んだような筋のなさ。これはもう続編はないのでは。クルマにいろいろな仕掛けはボンドでたくさん。


33 ゴッドファーザー(S)

何度目になるだろう。今回はダイアン・キートンの起用とシチリア娘との対比を考えたい。パシーノ演じるマイケルはいつも身体をはすかいに保ち、しゃべるときも人に身を寄せて小声でしゃべる男である。小柄であることを隠そうともしない。しかし、決断したときは非情であり、所期の目的を貫徹する。その彼が選んだのはシチリアのおぼこ娘である。初見でマイケルは結婚を申し込んでいる。そうでないと、彼女の父親に許しを貰えないからである。その情熱的な彼女が爆殺されてNYへ戻った彼がキートンに結婚を迫る。音沙汰なしに放っておいた女に、である。シチリアの女と正反対といっていい女である。教師であり、理性の人のように見える。この女性をもっと強い女性に描く手はなかったのか。そうすれば、シチリア女との違いが際立つし、新しいマフィア家族の前途多難ぶりが予想できて面白いのではないか。キートンのフィルモグラフィでは、この映画が2作目ある。彼女を見つけてきた目利きがいるのである。


34 リリーのすべて(T)

トム・フーパー監督、「英国王のスピーチ」「レミゼラブル」を撮っている。主演エディ・レッドメン、「博士と彼女のセオリー」でホーキングを演じた役者さんである。007スカイフォールで若きQを演じたベン・ウインショーが同性愛者の役で出ている。1920年頃に性転換を望んで、2回目の手術で死んだリリー・エルベ(エルベ川から採っている)を扱っている。夫婦共々、オランダの画家で、夫は生まれ育った地ヴァイレだったかの地の4本すくっと並んだ川辺の木をいつも題材にしている。妻の絵は画商の気を引かないが、夫に女装させて描いた絵が評判を呼ぶようになる。その一方で、夫の女性性が目覚めてくる――という話である。そのヴァイレだかの風景が圧倒的に美しい。北欧とか北英などの風景は寒々として、本当にきれいである。ラストシーンで、川を見下ろす絶壁の上に妻が立ち、長いスカーフが風に飛ばされ、まるで凧のように舞う様子をじっくり撮すのはグッドである。初めて女装で外に出るところ、肩が張って、大柄なので、やはり男性性はぬぐい難い。劇が進行すればさして気にならなくなるが、男性であったときの方が美しいのではないか。その怪しさはただものではない。妻の描く絵がモダンで、もっと写実的であればいいのにな、と思った。それでは画商は買わないのだろうが。


35 100円の恋(S)

武政晴という監督で「イン・ザ・ヒーロー」というのを撮っている。エンタメ映画らしいが、この100円もそう。典型的な進行で、家で邪魔者になって諍いが絶えない女は「てめぇこの野郎」などという言葉を使う。働くコンビニではほとんど会話もしないで押し黙った女で、愛する男の前ではおどおどする女である。それが、部屋から男が出て行ったことで、ボクシングを始める。ぼーっと太った身体からキレのある身体への移行をスッとやるところがこの映画のミソである。実は前兆はあって、離れて立つ男に100円玉を渡すところで意外と動きが速いのである。冒頭にのたのたと自転車を漕いでいた女とは思えない。さて試合ではぼこぼこにされた女は、先のバラバラの3タイプの女をどうまとめていくのか。自立した女? いや分からない。この監督、周防正行並のでき上がりのいい作品を量産してほしい。


36 ルーム(T)

先のアカデミー賞で何か賞を取っている。主演女優賞と何か。17歳で誘拐、監禁された女性が24歳になって、5歳の子の誕生日を機に脱出を図り成功する。子どもは意外と下界に慣れるのが早いが、大人は逆に心理的なブレーキがかかる。離婚した両親、孫の顔を見ようとしない祖父、周囲の気遣い、逃した青春……しかし、またしても彼女を子どもが救うことに。異常な設定で始まりながら、あとは意外と収まるところに収まった映画で、期待外れのところもある。女優がプリー・ラーソン、祖父がウイリアム・H・メイシー。監督がレニー・アブラハムソン、脚本が原作者(『部屋』)のエマ・ドナヒュー。


37 ボーダーライン(T)

メキシコの無法地帯にCIAがあるミッションを展開し、それにFBIの2人の捜査官(?)が選ばれる。途中まではそのミッションの真意が分からない。静かな謎の南米風男は誰か? かなり経って、謎の男が前の麻薬の支配者で、自分の妻子を殺された復讐で部隊に加わっていることが分かる。現時点のボスを殺せば、旧の秩序立った支配に戻ることになる。それがCIAの狙いである。この時点で、この映画のリアルな緊張感がなくなってしまう。ウソごとの世界に入ると、謎の男はスーパーマン的な働きをする。しかし、謎の男ベニチオ・デル・トロは魅力的である。白目が多く、声がソフト。またオファーが増えるのではないか。女優が「砂漠でサーモン・フィッシング」「アジャストメント」などで見ているエミリー・ブラント、そして野性味のジョシュ・ブローリンである。監督がドゥニ・ビルヌーブでカナダ人、『ブレードランナー』の続編を撮っている、というのは本当か。


38 マジカルガール(T)

話題の映画、というか話題先行の映画である。いわく、映画的な快楽に満ちている、すべては少女のマジックだった、などと。どれもアテが外れている。いい加減で、おざなりで筋が進むが、頭とお尻だけは帳尻を合わせている、という不思議な映画で、きっといい加減さもおざなりも計算づくなんだろう。少女、および少女の友達3人は日本名を持っていて、少女はなんだか知らないが日本の女性歌手のポップスで踊りを踊っているし、セーラームーンのファンでもある。ある意味、ラストなどは残酷な映画で、すべての基になるバルバラという女はいったいどれほど魔性の女なのか。そして、彼女の踏み込んだヘビの部屋には何が。別に監督は何も考えておらず、ヘビの部屋は恐ろしいという記号さえ届けばいいのである。ふてぶてしい監督である。それにしても、高齢の殺し屋の、らしからぬ違和感。それも計算づくか。


40 王将(S)

1963年、伊藤大輔監督、主演三國連太郎、妻小春淡島千景、宿敵関根名人平幹二朗、娘三田佳子など。この映画、傑作ではないのか。関根7段にブラフの手で勝ったものの、娘に恥ずかしくないかと痛いところを突かれ激怒するも、自分は修業が足らん、とそれまで邪険にしていた女房の妙見信仰に目覚め、海の波に腰まで浸かりながら「南無妙法蓮華経」と唱え太鼓を鳴らすシーンが必要以上に長い。しかし、迫力がある。最後、女房が危篤の床にある。一方、坂田は関根の名人就位式に東京に挨拶に出かけていて、その会場に娘から電話がかかってきて妻の症状を知らされる。坂田は電話を母親の方に向けろ、と娘に言い、一心に南無妙法蓮華経を唱える。またこのシーンが長いが、やはり迫力がある。坂田は草鞋づくりが仕事だが、生来の将棋好き、大会参戦には参加料が要るが、もう将棋は二度としませんと妻に誓いながら、妙見さんの厨子まで質屋に入れるような男である。小春はとうとう夫の好きなようにさせよう、そのかわりプロの将棋指しとなって名を挙げよ、と坂田を引き締めていた手綱を弛める。ここまでの展開も鮮やかで、女房なしに人生を渡れない男が、魔が差したように将棋にのめり込む様子がテンポよく描かれる。実力では坂田が上、しかし風格、識見は関東の関根が上、名人を関根にという声が高いが、関西は二人名人を画策する。坂田は将棋に意見を聞く、と言って盤から目を離さない。そして、とうとう自ら関根に軍配を上げる。文字も読めない坂田に実力と人格が備わった瞬間である。巻頭に祭りを俯瞰で撮った映像で始まるが、ほんの瞬間丹波哲郎が映る。そのあと、霧が立ちこめたような映像に変わるが、それは機関車の上げる煙で、ラストも坂田がこの煙に巻かれるところでエンドとなる。伊藤監督は48年にも同題の映画を撮っているが、それが阪妻で、映画のセットは同じではないか。確かめた訳ではないが、右に低地にある長屋、奥の行き止まりが崖なのか、下の方に機関車が通るらしい、その感じもどうも以前に見たことがある、と思ったが、きっと阪妻の映画で見ているからではないだろうか。


41 スポットライト(T)

ボストングループのスポットライトという調査報道のチーム4人が聖職者の性的虐待を暴く過程を描いている。ひと頃アメリカでよく聖職者のその種のニュースが多いな、と思っていたが、発端がグルーブだとは知らなかった。淡々と進む映画で、事実に余りにも忠実だったために面白みに欠ける。ユダヤ人の局長をリーブ・シュレイバー、部長をマイケル・キートン、部員をマーク・ラファロ、ブライアン・ダーシー・ジェイムズ、レチェル・マクアダムズ。今年の作品賞、脚本賞である。6%にあたる聖職者が性的な虐待を犯している、という恐るべき事実。それを長く隠蔽してきた宗教界、マスコミ、司法、そして一般の人々。いかにマスコミの役割が大きいかが分かる。


42 さらば冬のかもめ(D)

原題はThe Last Detailesで、たった40ドルを盗もうとした若き海兵隊員をノーフォークからポーツマスまで護送する話である。男は18歳で、福祉好きの隊長夫人が設置したポリオ障害児のためのボックスから金を盗もうとしただけなのに、8年の懲役とその後の除隊が課せられた。選ばれた2人の男、一人はジャック・ニコルソン、一人は黒人で、どちらも長く海軍に勤めようと思っている。次第に3人に妙な友情が芽生えるが、最後、男が逃亡しようとしたときに、必死に2人は止めて、結局は目的地にまで連れて行く。班長を「ハンチョー」と言ったり、途中で創価学会に集う人々の「南無妙法蓮華経」を男が真似てみたり、変なジャポニスムが入っている。ハル・アシュビーという監督である。


43 さざなみ(T)

久しぶりにシャーロット・ランプリングの映画を観た。もしかして「スイミング・プール」以来かもしれない。今度の映画、よく客が入っている。映画評がたくさん出たからだろう。イギリスの静かな片田舎で暮らす、結婚45年目の夫婦。あと1週間で盛大な祝いのパーティが開かれる。本当は40年でやるはずが、心臓病で胸を開いたので延期になっていた。そこに一通の手紙が届き、夫の若き日の恋人がスイスの氷河に氷り漬けになったまま見つかったという。2人で登山をしたときに遭難にあった、ということらしい。それが冷凍保存されて見つかった、という。夫は見に行きたい、と言う。実際に旅行会社に相談に行っているが、妻は反対する。そして、次第に2人の親密な、あるいは停滞した世界に別の要素が忍び込む。夫への不信という消しがたいシミが広がっていく。夫は夜中に起き出して屋根裏部屋で何かをしているらしい。それを確かめに行く妻。そこで見つけたのはポジ写真とその映写機で、映し出されたのは妊娠している一人の女性。彼女とは友達として一緒に旅行していただけで、彼女のしていた指輪は何かの木でこさえたもの、との夫の言葉には裏切りがあったことになる。パーティの日、2人は結婚式で踊ったのと同じ曲で踊る。しかし、次第に妻の表情は曇りを増し、最後にはピンと夫の手を放してしまう。そこで映画はエンドである。このラストシーンのランプリングの表情の変化は見物で、恐ろしいシーンである。彼女は70歳だという。監督アンドリュー・ヘイ。


44 海街ダイアリー(S)

緩い映画で、それが観客を呼んだ理由かも知れない。緩いを安定感がある、と言ってもいい。一応、女と逃げた父の死、長女と次女の失恋、父が出奔してつくった4女の落ち込み、12年も会わなかった母の一時的な帰還、いつも行く食堂の女将の病死、といった波乱はあるが、さして大きな波を起こすわけではない。それは、仮の家父長である長女によってすべてが統率されているから、ということになるのか、あるいは監督がそもそもそういうエネルギーの映画を撮るつもりだった、ということなのか。一方で、日本の家族もここまで崩壊したのか、という感慨もある。もう小津が危惧した段階は明らかに越えている。


冒頭、女の足指の見える映像から始まる。その足があまりきれいに見えない。カメラが身体を這い上がって2人の人間の顔を捉える。その右側の壁に淡彩の、女性が両手を緩く上げている絵がかかっている。なかなか趣味がいい(しかし、後で分かるように、その部屋の持ち主である若者はやくざに銀行口座を解約させられるような男で、そういう絵を掛ける人間には見えない。女が買ってきてあげた? しかし、その女にもそういう趣味がなさそうなことは、後で分かる)。その女が恋人に投げキスをして外に出たところで、海とその脇の、低い壁に守られた道路が見え、タイトルが映し出され、情緒的な音楽が流れる。もうだいたいそこで映画の気分が伝わってくる。女は3人姉妹の次女で、古い造りの2階屋の家に朝帰りである。玄関を入ってすぐに竹を細工した生け花差しが据えられているのが見える。その左壁には抽象画のような小さな花の絵が掛かっている。正面には何か人物面が掛かり、台所(風呂場?)へ行く廊下の上には違うタッチの絵が掛かっている。もちろん居間に行けば、また違う絵が掛かっている、とうい具合に、あちこちに意匠が凝らされているが、この古風な趣味を支えているのは誰なのか、判然としない。絵は両親、あるいは祖父母(これも父方なのか母方なのか判然としない)のそれかもしれないが、どちらも教師で絵を買うような趣味があったのか。あるいは、日曜画家という設定か。では、古風に花を活けたのは誰か。


山形鰺ヶ沢で父が3人目の妻の傍らで死んだ、という知らせが来て、次女と3女が葬式に出かける。そこで4女に会うが、実にしっかりした子である。来れないはずの長女もやってきて、別れの電車で突然、うちに来ないか、と長女が申し出る。長女はすぐに返事をし、嬉しそうに両手を振り上げて去って行く姉たちを見送る。その途中の会話で、父親の3人目の妻はろくな介護をしていない、病院に来ても10分といなかった、と言う。どこからの情報かと思うと、次女が「さすができる看護師」みたいな言い方をする。長女の邪推のようだ。長女は4女に向かって、あなたが介護を尽くしてくれたのね、とこれも憶測で断定する。いったい何だろう、この緩さは。


箸の上げ下げまでうるさい長女に綾瀬はるかという異色な取り合わせだが、これが何とも違和感がない。さすが、と言うべきか。その長女の脇で、膝を立てて食事をする次女に注意を与えない。何か科白の演出との絡みなのか、何拍か遅れるかたちで長女が注意を与える。ここも、緩い。長女が恋人(堤真一、妻あり)の部屋でポテ皿を作り、テーブルに持ってくる。そのテーブルが不釣り合いに背が高く、堤の脇の下ぐらいまで机の上面が来る。かたや綾瀬は座布団に正座するので違和感がない。このサイズ間違いのテーブルのセッティングは何の意図があってやっているのか。


ぼくは谷崎の「細雪」を知らない。映像が少し頭にあるだけだが、何かそういったものを下敷きにしながら撮っている安定感を感じる。特に、ラストの海辺のシーン、4人姉妹がタテに並んで砂浜を下るシーンなどにそれを感じる(小津的な構図でもある)。こういう絵を撮りたかったのね、である。華やかな4人姉妹、その細やかな感情の起伏を追って、1編の映画に仕立てていく。ある種、是枝の成熟した姿がここにある。蛇足だが、「奇跡」に出ていたまえだまえだの弟が4女に思いを寄せる男子として出ている。


45 曲がれ、スプーン(S)

監督本広克行、湾岸警察などを撮っているが、ひどい。長澤まさみ主演。


46 ハスラー(D)

何度目になるだろう。いくつか新たに気が付いたことを。ポール・ニューマンはミネソタ・ファッツという難敵に挑むが、「シンシナティキッド」でマックイーンはE.Gロビンソンと戦う。どちらも闇の世界のエスタブリッシュメントである。ニューマンの愛するのは年上の女で脚が悪い。大学に通う女で、小説を書いている。アウトサイダーの男に知的な女を配するのは常道と言っていい。ぼくは「波止場」あたりを思い出す。ジョージCスコットが名演で、彼に「生まれついての負け犬」と言われたニューマンが、その言葉をそっくりスコットに返すシーンがある。俺は女を心から愛していたが、おまえにはそれはない、だからおまえこそが負け犬さ、と言うのだが、そんな柔な言葉が通じる相手ではないはずだ。


47 バウンスコギャル(D)

これも何度目になるだろう? やはり名作の名に値するだろう。佐藤仁恵という、奥歯がずれたような、音と口の動きがシンクロしない女優が、やはり抜群にいい。


48 眠狂四郎 無頼控(D)

三隅研二監督、音楽伊福部昭、脚本伊藤大輔、客演藤村志保、すべての造作を固い鼻筋に集めたような顔が懐かしい。この人と藤純子に魅入った我が幼少期よ。大塩平八郎の乱を鎮めた水野忠邦を残党が殺戮しようと企む。その首魁が天知茂で、どういうわけか円月殺法を使う。水野の弟は油屋と結託して新潟の油をせしめようとする。その弟にだまされ、精製の絵図を盗む片棒を担がせられたのが藤村志保である。その弟はいまは油屋の娘と結婚しようとしている。藤村はその恨みを晴らそうと暗躍している、という設定である。男は女性の胎内から生まれる、その女性を責める輩は許さん、と狂四郎はむちゃ原理フェミニストである。


49 花笠若衆(D)

佐伯清監督、主演ひばり、客演大川橋蔵、大河内傳次郎。またしても、ひばり二役で、双子の姫君の一人とお嬢吉三を演じる。なぜ貴賤の二役なのか、は以前に考察したが、為政者に世情を知ったうえでまつりごとをやってほしい、という願望が生んだものだろう。それと、女子に男子をやらせることで匂ってくる色気を楽しんだ、ということもあるのではないか。歌舞伎で女形に慣れているから、この逆転変身譚は無理がない。手塚の「リボンの騎士」を持ち出すまでもない。大河内のむごむごとしたしゃべくりの悪さ、語尾に摩擦音がある訛りなど、有声映画ではマイナスのはずが、庶民に愛されたのだから不思議である。橋蔵の明るさには錦之介も敵わない。錦之介にどこか哀愁が添っているのだが、橋蔵にそのかけらもない。「けっこー、コケッコー」とうるさく繰り返すひばりの手下の名は何と言うんだろう。


50 アイヒマンショー(T)

「スポットライト」に賞をやるなら、こっちにやるべきではないか。米マッカーシーで追われたディレクターレーがアイヒマン裁判の一部始終を撮そうとするが、どんなむごい証言にもピクリともしない人間に苛立ちを覚える。彼が人間的な反応をすれば、われわれ凡人もまた同じモンスター的犯罪をおかす可能性がある、と証明することになる。それがディレクターの狙いだが、アイヒマンはついに非人間的であり続ける。アーレントが言った「凡庸なる者の罪」とこのディレクターの意図は重なりあっている。ちょっとした演出のメリハリの違いなのだが、この映画には劇があり、「スポットライト」にはそれはない。事実に忠実ということで褒めるなら、ドキュメントにすればいいのである。


51 巨星ジーグフェルド(D)

有名な興行師の栄華と没落を描いた映画である。スペクタルというのか、大仕掛けで、大人数の歌あり、踊りありの舞台である。スターで持たせるというより集団舞踊で引き付けるという感じか。バーレスクからも引き抜くが、一つ下のクラスという扱いである。1936年の作品で、のちにミネリ監督、アステア、ジンジャー・ロジャーズでジーグフェルド・フォリーズという名で撮られている。スペクタクルの部分が長く、かえって退屈という出来になっている。不倫関係をあからさまに扱っているのが、この時代としては異色かもしれない。


52 ラブアゲイン(S)

突然離婚を告げられた男がバーで見かけたナンパ男から手ほどきを受け変身するが、やはり分かれた女房に未練がある。女房も出来心で浮気しただけ。ナンパ男もある女を真剣に愛することに……ということで、最後は無理矢理感のあるオチに。不倫妻ジュリアン・ムーアがよく出ている。ナンパ男がゴスリング、その相手が顔の半分が目玉のエマ・ストーン、寝取られ男がスティーブ・カレル(マネーショートで主役)。


53 傷だらけの二人(S)

ファン・ジョンミンがいい。「ベテラン」での軽く、しかも温情熱い男をよく演じていたが、今回も同じキャラクターである。取り立て屋が仕事先で知り合った女に惚れ、借金を肩代わりする。けんもほろろだった女が次第に心を寄せていく様子を丁寧に撮っている。せっかく二人でお店まで持とうとしたときに、暴力事件で刑務所に。どうもその後の処理がうまくいってないので、前半の面白さがなくなっていく。ほかにも彼は良さそうな映画に出ているので、探して観てみようと思う。


54 寅さん・木の実ナナ(S)

さくらの幼なじみが木の実でSKDという設定、たしか倍賞自身がその出身のはず。武田鉄矢が「黄色いハンカチ」と同じようなキャラクターで出ている。地方に行くと寅は先生扱いにされることが多いが、寅には短期間であれば人にそう思わせるものがある、ということだろうか。一方で、素朴な地方人をバカにしている、と言えなくもない。なにしろ東京柴又のちゃきちゃきという設定である。木の実にどこかで聞いたような歌を歌わせたり、ちょっとサービスしすぎではないだろうか。


55,56 晩菊、あらくれ

成瀬なのでその項に譲る。


59 マンガをはみだした男赤塚不二夫(T)

アシスタントをたくさん雇ってマンガを量産(?)した赤塚は、「レッツラ・ゴン」のあと、弟子達が巣立ちしたこともあって、マンガに精魂を込めることができなくなった。テレビに出たり、変なパフォーマンスを繰り返したり、それこそマンガのような人生を歩み始める。ぼくは、アル中になった彼のことを記事で読んだぐらいの知識しか持っていない。ぼくは「少年マガジン」派なので、彼の作品に触れる機会はほとんどなかった。他誌の「おそ松くん」を覗いても、一度も笑ったことがない。少年マガジンには「まるでダメ男」があったので、それで十分だった。このドキュメンタリーは、録音が悪く、インタビューの中身がよく聞こえなかった。それと、ときおり赤塚の声も流されるのだが、それも聞こえが悪く、やんちゃなオジサンがいたんだ、ぐらいの感じである。残念だが、そうとしか言えない。


60 ワイルドギャンブル(S)

賭場で出会った男2人が妙に気が合って、大金を稼ぎに旅を続ける。男が幸運の女神という異な設定である。若い男は小さい頃、芝刈り機で過って妹の指を3本落としてしまう。父親はその仕返しに1本の指を切った。そういう過去を持った男である。年輩者は博打のせいなのか、妻子と別れている。そういういわくのある2人が幸運を掴めるか、という話である。ライアン・レイノルズは「そしてあなたは私のムコになる」に出ていた。もう片方のシェナ・ミラーは上唇を少し噛んだような発音が記憶にあるが、映画は思い出せない。


61 アメリカンプレジデント(S)

アネット・ベニングが環境派NGOの人間、彼女に一目惚れするのが独り身の大統領マイケル・ダグラス。ダグラスはしんどいなあと思ったのだが、なかなか堂に入っていた。補佐官だかにマーティン・シーン、政策担当なのかマイケル・ZJホックス。ベニングには見とれてしまう。


62 ヘイル、シーザー(T)

大きな映画館で観客1人、初めての経験である。小さいところでは「オールドボーイ」で経験している。コーエン兄弟の新作、久しぶりだが、楽しめました(「インサイド・ルーウィン・ディビス」以来)。なんだかウッディ・アレンの映画を見ているような感じである。キリストを扱った映画が進行しながら、その主役のローマ軍の将軍(ジョージ・クルーニー)が誘拐される。コミュニストの脚本家たちが犯人で、身代金をソ連に貢ごうとする。スカーレット・ヨハンセンは身の下の緩い女優で、またしても婚外子をつくる。このだらしないヨハンセンは見物である。西部劇の主役から室内劇のシックな映画に転用された俳優はなかなか巻き舌の発音が直らず、監督に理性を失わせる。そういうトラブル処理一切を仕切っているのがジョシュ・ブローリングで、彼自身は手腕を買われて大手航空会社からの引き抜きの話がある。いつも相手と会うのは、背景に金魚槽に金魚が動く日本料理屋(?)である。彼は結局、愛すべき屑どものハリウッドを選択するのである。ソ連の潜水艦が出てきたり、ヨハンセンの水泳映画では海中の撮影ありで、贅沢である。ハリウッドを否定的に描いたものでは初期の「バートン・フィンク」があるが、今回はそんな気配などまったくない。何か西部劇への郷愁のようなものが感じられる。


63 ファーゴ(D)

やはり名作である。映像がきれいなのはもちろんだが、話の端折り方がスマートなのである。ブシュミとピーター・ストーメアの悪党がモーテルで映らないテレビを見ていると、場面転換でベッドで昆虫のTV画像を見るマクダマン夫妻へと転換する。マクダマン夫妻がレストランで食事をし、口をもぐもぐやると、ウイリアム・M・マーシーの義父の顧問弁護士の口もぐもぐに転換する――といったことをいろいろやっている。雪の降り積んだ駐車場にクルマが入ってくるところは、相変わらず美しい。カリグラフである。カメラはロジャー・ディーキンである。残酷な殺しと美的な映像、そして食べ物。夫婦2人が警察署のオフィスでハンバーガーを食べるところでは、マクダマンが夫の釣りのために買ってきたミミズののたうつ様まで写す。コーエン初期の作品だが、この完成度は驚異である。


64 サウスポー(T)

冒頭から圧倒的である。殴られないと燃えてこないボクサーがどう変身していくのか。たった1試合に負けただけで、なぜすべての財産がなくなるのか、よく分からないが、養護施設に預けられた娘のために再起を誓う。覚えたのはディフェンスのボクシングと、とどめのサウスポーである。ギレンホールは「ムーンライトスマイル」が最初だったと思うが、繊細な青年が筋骨隆々のボクサーとなっては、驚くばかりである。妻がレイチェル・マクアダムズ、「スポットライト」の女性記者で、セクシーな姿態を見せる。ウィテカーがしがないジムを経営しているが、彼は頭脳派トレイナーでもある。その助力を仰いで、もう一度、リングに戻るのである。「ミリオンダラーベイビー」のイーストウッドの引き写しである。ボクシングを頭脳的にやる名コーチである。しかし、身を守ることを第一に考えるので、チャンピオンをつくることができない。この映画、長く語り継がれることになりそうだ。


65 マイケル・ムーアの世界侵略(T)

アメリカに無いものを求めてイタリア、フランス、アイスランド、ノルウエー、フィンランド、スロベキア、チュニジア、ポルトガルなどへ出かけて、いいち知恵を“侵略の成果”として持ち帰る。ノルウエーでは囚人に一個の家を持たせている。ポルトガルはドラッグや覚醒剤で罪にならない。チュニジアは女性が民主革命を導き、その後も権利獲得に力を発揮した。アイスランドはリーマンショックで大打撃を受けたが、女性の経営する銀行だけが生き残った。世界で最初の首相も生んでいる。スロベキアは大学は外国人でも無料である。フィンランドは宿題がなく、昼食は4種の料理が出て豪華。イタリア、フランスは有給休暇、産休など手当てが充実し、経営者もその方が生産性が上がる、と言う。はてさて、ムーアがこの日本に来たら、何を侵略してくれるだろう?


66 女諜報員アレックス(T)

007の「慰めの報酬」に出ていたオルガ・キリレンコがアクションに挑む。既視感が強い。キリレンコのキャラクターも、知的な悪党(だが魅力がある)も、仕掛けも。それにしても、CIAを辞めて泥棒をしている女が諜報員だろうか? いちばんの黒幕(モーガン・フリーマン)を倒さないでどうする? である。拙い英語の女性がアクションの主役を張る。これは新しい。


67 マネーモンスター(T)

これも既視感が強い。番組が始まるまでの騒々しさと気の利いた掛け合い、ビルから立ち退く人々の映像、迫真のテレビ画面を見つめる人々(それを繰り返し写す。観衆の代表というわけである)、キャスター(ジョージ・クルーニー)と犯人との中途半端なやりとり。落ちた株価を上げてみせると言ったものの、さして人々の共感を得られなかったあとのクルーニーの演技が平坦すぎる。ここはもっと何かあるべきだろう。最大の欠陥は、仕組まれた経済犯罪だとまったく知らないキャスターが瞬く間に裏事情まで知った人間に変身することである。耳にイヤホンをはめたのは、テレビ会社から出て証券取引委員会ビルへと歩く途中であり、一切、局内で交わされている捜査の内実を知らなかったはずである。監督ジョディ・フォスター。番組ディレクターがジュリア・ロバーツ。この映画もまたバーニー・サンダースが出現した意味を教えてくれる。


68 ランナウェイズ(S)

女子ロックバンドが成功して仲間割れする。もともとの言い出しっぺはまたチームを組んで、どこでも断られた曲を自作で出し大ヒットする。実在のグループを扱った映画である。映画自体は起伏のない平凡なものである。


69 プリティウーマン(S)

ジュリア・ロバーツの顔が一回り小さい気がする。シンデレラ物語で、金持ちのリチャード・ギアなどいい気なものである。娼婦はキスしないというのは本当か。ホテルのフロア長(?)が味があっていい。何かの映画で悪党をやっていた人ではないか。ヘクター・エリゾンドという名前である。


70 10クローバーフィールドレーン(T)

室内劇+宇宙侵略もの? ほぼ4分の3は室内、ジョージ・グッドマンが異常なのか善の人なのか。中も地獄、外も地獄で、結構簡単に主人公の女は敵を打ち倒す。前作があるようだが、こういうこけおどしものか。登場人物が4人だから、ほかに金を使える。でもなあ……。


71 ランナー、ランナー(S)

日本未公開らしいが、いい作品である。何に出ていたか思い出せないが、ジャスティン・ティンバーレイク主演、それにベン・アフレックが出ているが、なかなか存在感のある悪党を演じている。バーチャルカジノに不正がある、というのが発端だが、アメリカでは本当にこんなことが起こっているのだろうか。


72 レジェンド(T)

トム・ハーディが2役をやっているが、まったくどうやって合成しているのか分からない。ロンドンを支配するギャングスターが双子で、一人は頭が切れ、一人は頭が切れすぎて病院に入るタイプ。ハリウッドでもジョニー・ディップとカンバーバッジ兄弟の血の濃さを扱ったギャングの内幕物があったが、やはりアングロサクソンの血は争えない。ドンパチとは違う泥臭い殺し合いの映画に移りつつある。それはアジア映画の明かな影響であろう。


73極秘捜査、74鬼はさまよう

「極秘捜査」は「哀しき獣」で圧倒的なモンスター役で印象を残したキム・ユンソクが善良で切れる刑事役を、「鬼はさまよう」は「殺人の追憶」で都会派の若き刑事だったキム・サンギョンが殺された妹のために奔走する刑事を演じている。シネマート新宿で「韓国ノワール特集」だが、もうあの暗いユーモアに溢れた韓国映画は帰ってこない。映画の色も違う。闇の深さが違う。演出が利いていない。「鬼はさまよう」で連続殺人鬼を演じたパク・ソンウンは「新しき世界」で見ている。なかなかいい。獄中で彼を殺そうとする元ヤクザの親分も味がある。


75 ペーパームーン(D)

もう何度目になるだろう。やはり間然するところがない。母親が死んで、唯一の遠い親戚に行かざるをえない少女、その葬儀の場に「顎の線が似た」男が現れる。男は足もとの花を手に取って、それを咄嗟の手向けの花にするような男である。冒頭のこのシーンでほぼ男の底が割れている。死亡欄を見て聖書を売り歩く男の渡世の技がいくつか披露されるが、このディティルは絶対に欠かせない。釣り銭のごまかし方、5ドル札を20ドル札に替える方法、密造酒の売人との駆け引き……。移動カーニバルで見つけた、エジプト踊りをおどる女は金のために寝るはすっぱな女だが、男はそれに気付くことができない。そういう下層の人間なのである(『タクシードライバー』で彼女との初デートにポルノ映画に行ったトラビスのように)。この女のメイド役の黒人娘がいい。二人で示し合わせて、男に女の不貞現場に踏み込ませるシークエンスは溌剌としている。芸達者なティータム・オニールが二度、ベタな演技をするのがおかしい。黒人娘とのやりとりが、それほど自然だったということであろう。紙の月でも信じればそれは本物の月、まさに親子と信じれば、ウソでも親子になるという、見事な出来の映画である。ボグダノビッチは今年、来年と多作の年を迎えそうである。


76 葛城事件(T)

いろいろ考えさせられる映画である。一家の主をもっとモンスターにしたほうがよかったのではないか、死刑反対派の女を登場させないで別の方法はなかったのか、平凡な家族が崩壊するより、そもそもすでに崩壊したものとして家族を描いたほうがいいのではないか……。なぜ通り魔をする人間たちは、家族関係に厳しいものがありながら、その大魔王というべき父親殺しをしないのか。だから、父親が最後に首吊りなどという粉飾的結末を用意しないといけなくなる。映画的な快楽は、長男が朝家を出るのに、ドアの前で家族の「行ってらっしゃい」を待つシーンで、朝に似ず大きな、淡い影がドアに映るところである。これはあとでもう一度繰り返されるが、1回でいいのでは。それと、電源は見せないほうがいい。もう一つは、妻と次女が家を出て、そこを見つけた長男がやっきて、みんなで最後の晩餐に食べたい物は何か、という話をするシーン。母と長男が何かを言い、促されて次男がうな重と答える。いやそれはカツ丼だろう、などと兄が突っ込む。この食事のシーンは、おそらく日本映画の中でも特異なシーンとして残っていくだろうと思われる。三浦友和の暴力男もまあまあだが、『共喰い』の父親光石研には敵わない。資質の問題であろう。


77 帰ってきたヒトラー(T)

ヒトラーが大男となって生き返ってきて、人々はその言行を芝居と勘違いしながら、しだいに以前と同じく取り込まれていく、という過程を追った映画であるが、最近のドイツにおける風潮にヒトラーを容認するものがある、ということである。ヒトラーを引き回してあちこちでインタビューを重ねていく部分は退屈である。テレビ局で番組を持ち始めてからやや生彩を帯びるが、それでも意想外に出るものではない。ほぼ結末も予想できるもので、映画的、つもり映像的に面白いというものもない。


78 駅前弁天(D)

シリーズ14作目、佐伯幸三監督。コメディを期待してコメディのない映画はつらい。伴淳の不倫を森繁の裁きで白黒つける、というシーン。フランキーが不倫相手の女役、伴淳との絡みで、これは面白い掛け合いが見られるぞ、と期待するがまったく笑えない。恰好の場面で為す術がないなど、喜劇人として羞じるべきだろう。藤田まことが野川由美子の情夫で、森繁にセックスを強要されたと脅しに来る。そこに森繁の義弟のフランキーが現れ、藤田と大学の同窓で、歌舞伎研究会にオーケストラ仲間ということで、脅迫の切っ先が突然鈍る。歌舞伎の一景で、フランキーが語り、そこに女形となってしなだれかかる藤田、この動きが素晴らしい。藤田が馬面のネタを松山英太郎(森繁のそば屋の店員)と重ねるが、あまり馬面に見えないから、いまの観客が見ても何の意味かさっぱり分からないだろう。この松山が明るく、声がはっきりしていて、リアクションもよく、なかなか好演である。あとでテレビで活躍した人だったと思うが、いい役者さんである。



79 ボディガード(S)

見たような気でいたが、見ていなかった。それにしてもひどい。レーガン暗殺未遂のときに祖母の葬儀で非番だったことが悔やまれ、シークレットサービスを辞め個人事業に、という設定だが、?である。自分の責任でレーガンが撃たれたのなら分かるが、そうではないのになぜそれほど過剰に責任を感じるのか。クライアントからデートに誘われ、その日にセックスをしておきながら、翌朝、公私混同してしまった、これかぎりにしてくれ、と言ってしまう男とは何なのか? 父親のいるどこか辺地の湖辺にクライアント母子を隠しても犯人は探し当ててくるのだが、それはなぜか、と問うこともしなければ、その執拗な犯人の恐さを描くこともしない。監督もひどいが、コスナーの無表情はやりきれない。


80 あぶない刑事(S)

途中で断念。舘ひろしも柴田恭兵もへたっぴで、見ていられない。アメリカの相棒刑事ものを学んだのだろうが、あっちは反目しながら気持ちは一致する、というところに妙味があるのである。こう仲がよくっちゃ映画がしまらない。浅野温子の出番がほとんどないが、これでいいんでしょうか?


81 完全なるチェック・メイト(S)

原題がPAWN SACRIFICE である。チェスの何かの手のことだろう。スパイダーマンのトミー・マグガイアが天才チェッカー(?)、報奨金を上げろ、カメラを呼ぶな、観客を遠ざけろ、何でも好き放題である。米ロの国家間の争いの象徴として使われる。当人たちもその気なので何の問題もないが、いまや王者がAIに負けるのだから、うたた牧歌的な時代よ、と思わされる。頭がおかしくなりながら、だいぶ後年まで生きたようだ。対戦相手のリーブ・シュライバーは最近「スポットライト」でこれまた冷静な新任局長を演じていた。その沈着な彼さえも、座っている椅子がおかしい、などと言い出す。日本の囲碁、将棋のタイトル戦で一般の客をあれほど入れて公開で対戦させるなど考えられない。その重圧たるや推して知るべし、である。ただ、冷静なはずの人間が狂い出したときの演出がいま一つ足りない。それと、拘りに拘って地下卓球場に対戦場所を移したのに、1勝を上げたあとは元に戻す、というのはなぜなのか。細部を作り込んでいるようで、都合の悪いところは省く。ハリウッドならではのいい加減さである。


82 危(ヤバ)いことなら銭になる(D)

中平康監督、主題歌作詞谷川俊太郎。宍戸錠が小さな二人乗りのクルマを乗り回す。長門裕之、草薙幸二郎が客演、女優は浅丘ルリ子で、なんだかまだ田舎娘のような印象が残る。妙なふくれっつらをしたり、柔道・合気道ができるというので変な構えをするなど、ハツラツとしていてgood。浅丘にこの路線があったとは、である。小林信彦御大は宍戸錠をえらく高く買うが、その理由が多少は分かった気になる。演技がものすごく軽いのである。日活ものなので非現実的な設定が生きていることもあるが、宍戸のキャクラターがどこにも引っかからない。粘液がひとつもなく、湿り気もまったくない。何かあるとすぐ天を仰ぐような仕草をして、意味を帳消しにする。たとえば、ルリ子と一緒に事務所でひと晩明かす設定で、彼は机の上に、ルリ子はソファに寝袋を敷いてその中に。「変なことをしたら合気道だからね」に「分かりやした」で終わりである。彼の周囲には空っ風が吹いている、という印象である。


83 ペレ(T)

どうもこの種の映画に弱い。涙が止まらないのだ。ブラジルが母国開催の1950年杯の決勝で、ウルグアイに屈辱の負けを味わって(「マラカナンの悲劇」といわれる)、自らの戦法を放棄し、ヨーロッパ型に移行しようとするもののうまくいかない。そこにペレという存在が出現してきた、ということらしい。ポルトガル人がアフリカからブラジルに奴隷を連れて来て、その軛から逃れて森で戦闘技ジンガ(いまはカポネイラとして引き継がれている)を磨き、それがサッカーに流れ込んでいるのだという。ペレは欧州型になじめず、サッカーを捨てて故郷に帰ることまで考えるが、彼を拾った人物(サントスのマネジャー?)から意志を貫けと諭される。自分は欧州人になりたかったという、いかにも見た目もそう見える男はペレの宿年のライバルだが、彼も欧州大会に来て、みずからの出自に目覚める。監督は自分の采配を謝り、ジンガで行こうと選手たちに宣言する。そこから、ペレたちの反撃が始まり、スウェーデンW杯(1958年)で優勝する。父親と母親が人柄がよく出た配役になっている。子ども時代の仲間のキャスティングもいい。プレイをコマ落としのように編集してあって、素人には見やすい効果がある。ペレがスウェーデンのホテルでちょっと顔を出している。


84 拳銃(コルト)は俺のパスポート(D)

全編、ほとんど会話を抑えたハールドボイドタッチで、なかなか成功している。67年の作。銃を組み立てたり、時限爆弾をつくったりの細かいディテールがこの沈黙劇に生きている。この時代の映画にテンポを求めても無理だが、もしちょっとでもそれを意識すれば、もっと面白くなったのでは。監督は野村孝。港の曖昧ホテルに武智豊子、小林千登勢、殺される親分でひと言も台詞がないのが嵐寛寿郎、敵方の親分に佐々木孝丸、マンションの管理人に中村是好、宍戸錠の相方がジェリー藤尾。ジェリーを助ける交換条件が決闘、というのは、おかしな話。港湾労働者を治外法権のような人物として扱っている。曖昧ホテルの武智智子は、訳知りの女の役回りだが、小林千登勢に「あんなやくざ者は危ない」式の言葉を吐く。宍戸が殺した親分の組と、仕事を頼まれた組がどういうわけか仲直りして、一緒になって宍戸を追う設定がよく分からない。突っ込みどころ満載だが、まあいいか、である。


85 スター誕生(S)

バーブラ・ストライサンドクリス・クリストファーソンで、A Star is Bornが原題、ひとりのスターが生まれる、という感じ。往年のスター誕生と骨組みは一緒、落ち目のスターが次のスターを見つけ、夫婦となるが、片方がどんどん売れていくのに、自分は取り残され、自暴自棄になる、というストーリーである。あくまで女性は邪念がなく、一本気に男を愛するが、男がねじまがっていく。この映画では、男は大きなコンサートをすっぽかしたり、の前歴が重なり、やむをえない部分が大きい。最後はアルコール飲酒による交通事故死。ストライザンドの歌のうまさは、やはり特筆ものである。胸の開きの大きい服をつねに着ているが、自慢だったのか。彼女が可愛く見えるから不思議である。尻がカワイイとクリストファーソンは言うが、言われてみればそうかもしれない。クリストファーソンの声がシブい。


86 Amy(T)

結末が分かっているだけに、見ているのがつらい。パーソナルビデオとコンサートあるいは録音ビデオで成り立っている映画で、関係者証言はかなり限られている。もう一つ彼女の人間性が見えてこない感じがある。歌詞に私的な思いを綴ったらしいので、歌詞から推測するという変な見方の映画になった。トニー・ベネットを尊敬し、自分で聞く曲がなくなったから、自分で歌い出した式のことをいっている。キャロル・リングも先行者としてリスペクトしている。イギリス出身者がグラミー賞を取っている。

2015-06-24 2015年後半の映画

kimgood2015-06-24

58 激戦(DL)

劇場で見るのを忘れていた香港映画で、監督林超賢(ダンテ・ラム)、主演張家輝(ニック・チョン)、膨于曇(エディ・ポン)、女優が梅婷(メイ・ティン)、子役が李馨巧(クリスタル・リー)。まず役者がいい。とくにその目が。主演のニック・チョンは悲しい陰影を見せる。メイ・ティンは二重瞼の憂いのある瞳で、少し夏目雅子を思い出す。子役がずば抜けてうまく、それでも嫌みがないのが、さらにすごい。


いくつかの筋を並行で走らせて無理がないし、俗な設定だが(落ちぶれた親を励ます、不幸な母子家庭をかばう)、中心に戦いがあるので、求心力が付いている。若いファイターが途中で敗れ、次に老ファイターが立つ、という設定は新しいが、筋の流れからいって無理はない。


残念なのは、過去を振り返る映像になると、途端にソフトフォーカスになって、音楽も甘くなるところ。あるいは、大雨のなか、倒れた小さな木をニック・チョンとメイ・ティンが土で根元を固めるところでも、甘い音楽が流れる。テレビ出身の監督らしいが、変な癖が付いているようだ。しかし、次作への期待は大きい。


59 奇跡のひと(T)

かつてアン・バンクロフトが教師、パティ・デュークがヘレン・ケラーで同題の映画があったが、これは舞台は19世紀の修道女館。三重苦の子が、愛玩用に持っていたナイフをきっかけに文字の世界へ、人倫の世界へと進んでいく。それを後押しするのが病弱なナニーで、彼女は早く身罷る。世界に開眼した弟子は、同じような境遇の子を助けながら、たしか30代半ばで死んでいく。こういった宗教施設が重い障害をもった子の救いの場所だったことが分かる。あるいは、教育法や言語教授法のようなものも、そういった場から学問の場へと応用されていったということはないのだろうか。


60 アドバンスト・スタイル(T)

NY市内を歩く先進スタイルのおばあちゃまたちを撮ったブログから本が生まれ、彼女たちにもファッションショーなどの機会が訪れるドキュメント。最高齢95歳はファッションショーの観覧のあいだに息を引き取る。デザイナー、雑誌編集者、画家、ダンサーといった商売のひとが多く取り扱われているが、この人たちは今に始まってトンガっていたわけではなく、ずっとそういう生き方の人だったのではないか。お客さんがよく入っていて、よく反応しているので、楽しい観劇となった。でも、ぼくのほかに男性はあと1人、高齢のビシッとスタイルを決めたお方で、柔らかい色の帽子にきれいな赤の線が入っていて、ドレッシッブルである。


61 ジャッジ(DL)

ダウニーJrが元判事の父親ロバート・デュバルの弁護に回る。確執のあった親子が法廷でのやりとりから和解に至るという面白い構図になっている。デュバルは髪の毛も乏しく、肌も衰え、役柄そのもののふけ方をしている。マックイーンのブリットでちょいやくのタクシー運転手をしていたが、そのときにすでに頭が禿げていた。やはり彼は「ゴッドファーザー」で注目された役者ではなかっただろうか。暴力的な兄弟たちのなかで養子である彼だけが知的で異質、それをうまく演じていた。


62 泣く男(DL)

チャン・ドンゴン主演、監督は「アジョシ」のイ・ジョンボム。女優に表情がないため、彼女のシーンになると、全体に動きが止まったような間抜けな感じになる。ドンゴンのアメリカ時代からの仲間は日本人のような風貌で、味がある。戦いのシーンはさすがに迫力があるが、ドンゴン自体が白目を剥いて、口をポカンとするだけの役者なので、どうにも盛り上がってこない。ラストにあれだけ泣けるのだから、もうちょっと何かしてよ、である。


63 フェイス・オブ・ラブ(DL)

ダウンロードしていたエル・トポをほぼ5分で見るのを止めた。この種の、監督のかってのままに作った映画に付き合う気はない。それでアネット・ベニングのこの映画、年をとってもとても美しい。タイトルは愛の肖像と訳すらしいが、内容からいって「愛の表層」あたりが含まれている。死んだ夫とそっくりの画家の男を美術館で見かけて、まんまと恋に落ちるが、相手を夫の名で呼んだり奇妙なことが起きる。最後は別れて、彼女と彼の肖像が残るという仕掛けである。しゃれているし、落ちもいいし、佳品といっておこう。アネットのきれいさに加点である。エドワード・ホッパーばりの絵を見せられてもな、というのはあるが。


64 ハード・パニシャー(DL)

アフガンで拷問の巧者として鳴らした戦士が父母の殺害者に復讐をする話である。口にセメントを詰めたり、一つひとつに工夫がある。ふだんはだぼらなのにこの事件には色めき立って警視への出世の手がかりになると逸る現場警部。とろこが防衛省なのか、戦士の属する特殊部隊の管轄省のトップが警視総監にストップをかける。それでも現場は彼を追撃する手をゆるめないが、市民の安全を保障できない警察に代わって、戦争のプロが地元ギャングを次々殺していくという倒立した世界になっている。法は存在しない。最後には、出世願望男は仲間のスワット隊にも見放される。たしかにロクでもない男だが、兵士が警察権を奪取した状態とはなんとおぞましい世界か。これをたとえフィクションでも許容するものが、イギリス国内にあるのだろうか。


65 ダラスの暑い日々(DL)

監督デビッド・ミラー、脚本ダルトン・トランボ、主演バート・ランカスター、客演ウィル・ギア(大物政治家)、ロバート・ライアン(大統領殺害計画管理者)、1973年。事件10年後に撮られたもので、殺害側から捉えたものである。当時、ケネディ兄弟が人気で、政権を彼らのあいだでたらい回しにする可能性が示唆されている。なおかつ石油事業への合併規制、陸軍基地の国内52箇所、国外25箇所の閉鎖を進めると公言していた。さらに、黒人との融和、ベトナム撤退、ソ連との核実験停止条約と、保守派にとって都合の悪い施策が並んでいる。最後は、ベトナム撤退の意志を確認して、殺害のOKを老政治家が出す。オズワルドを犯人に仕立て、そののちに殺害。3箇所から狙い撃ちし、そのために時速30キロを20キロに落とさせている。国防省、情報局(?)などの電話回線が一時不通にされる。事件終了後3年以内に18人(映画ではこの数字。ほかに16人という説もある)の証人が死亡している。その確率は10京分の1といわれる。それぞれの人物の肩書きがよく分からないのが、残念だ。おそらく特定の人物なのだろうと推測するが。



66 卒業(D)

この映画をリバイバルで見たのが高校生の頃だったろうか。ベッドのシ−ン(ホテルのベッドと自宅のそれ)とプールのシーンが繋がっていたり、潜水服の主人公がプールの底に貼り付いいたり、よく分からないなあという感じだった。しかし、映画は感動もので、いまだに繰り返しこの映画を見ているわけである。何か新しい表現を理解するにはある種の成熟や習練が必要だということが分かる。いまでは違和感なしにこの映画を見ているからである。それはキューブリックの「2001年」の再見にも言えることで、あの難解とも思えた映像がなんともふつうに見ていることができる。タル・べーラの「倫敦から来た男」なども楽しみながら見られるのだろうか。


今回、印象に残ったのは、その細部の積み上げの入念さである。ミセス・ロビンソンの誘いの駆け引きの言葉の巧妙さ(レディとしてベンジャミンに様々なことを要求する)、話しながら高いスツールの上で脚を開き加減にする仕草、胸を触られたときの無反応と脱いだ服の汚れをもみしだく世帯じみた演技、待ち合わせのホテルのドアを開けようとすると老夫婦の一団が出てきて、次に若い結婚カップル数組に先を越されるところ、カウンターで「シングルマンズ・パーティか」と訊かれ、会場に入ると「シングルマン家のパーティ」と気づくところ、ホテルのポーターとのコメディタッチのやりとり、部屋を予約したあとのベンジャミンの電話での部屋番号の言い忘れ、部屋に入って夫人に「ハンガーを」と言われて、木製と鉄製とどっちがいいと訊くところ、木製といわれるが取れなくて鉄製を持って行くシーン、あとでエレインと同じホテルに行ったときにグラッドストーンや違う名前でホテルの人間から挨拶されるコント、父親が何度も「我が子」と言ったあとに青年と言い換えるなど……本当に細かい演出がそこらじゅうにある。ベンジャミンの母親のミドル階級の代表みたいな服装と態度、それに似合いの、小さな会社(?)の共同経営者でも父親の俗物性なども、よく練り込まれている。しかし、ベンジャミンと夫人の力関係が決定的に決まったのは、やはり冒頭の出会いのシーン、車で家に送ってほしい、と言ってわざと水槽にキーを投げ入れるところである。有無をいわせぬ切り換えがある。


これらの演出の細やかさは驚異である。あるいは、こういう細やかさ、ディテールこそが必要な映画なのである。ある種の家庭持ちや社会的な地位の定まった人間が持っている強固な保守性を描くには、である。ロビンソン夫人はかつては美術を専攻し、できちゃった婚で家庭に入り、あるときにはアルコール依存症でもあったと言う。おそらくベンジャミンを誘った人は、どっしりとした保守性から落ち零れた人であったのだ。その心理的不安はまだ続いていて、ベンジャミンを誘い込んだのには、そういう背景があったのではないか。一度は、ベンジャミンはエレインに相応しくないと彼女は言ったが、2人が近づくことに異常な拒否感を持っている。なにか娘のなかに自分と似たなにか、ベンジャミンのようなものを求める指向性を感じ取っていたのではないか。ベンジャミン的ななにか? 制度的な囲いのなかで優秀であることにまったく価値をおかない、いみじくもエレインに言ったごとく、「違った人間になりたい」人ベンジャミンは、やはり魅力的な人間なのである。性的に、社会人として奥手だとしても。数カ月もすれば、夫人にセックス以外のことを求める男に急成長するのがベンジャミンなのである。


驚くべきはこのときアン・バンクロフトが36歳だということ。設定ではベンジャミン(21歳)の2倍以上となっているので、そう離れた年齢ではない。それにしても、50歳は超えている感じがある。ベンジャミンは20歳で成績優秀で奨学金が貰える青年だが、大学院に進むとか、就職はどうする、みたいな話が出てくる。アメリカは20歳で卒業なんてことがあるのだろうか。いまなら飛び級も考えられることだが。


ベンジャミンが寄宿したバークレーのアパートメント(まるで学生寮のように見える)の家主は、彼を運動のアジテーターと疑う。鼻をグスッとする癖があって、ギョロっとした目とともに、ベンジャミンの浮き草的なあり方につねに疑心を抱いている。この映画は67年の作で、撮されるバークレー大学は平穏そのもの。まだ学生運動の嵐が吹き込んできていない。その前兆がある、ということなのであろう。3年後に「いちご白書」が公開されるが、こちらは運動の渦中にあって女の子に夢中な、本来はノンポリの青年を描いているが、ベンジャミンとそう差異があるわけではない。


67 べらんめえ芸者(D)

1959年、小石栄一監督。なかなかよくできた話で、ひばりの歌も聴けて、志村喬の渋い演技も見られて、殿山泰治の社長役などという稀有なものも出てきて、清川虹子のドスの利いた声もあって、十分に楽しめた。脚本、笠原良三、笠原和夫。出足から気っ風のいい台詞が聞かれる。「お父っつぁんに引き立ててもらいながら、いくら時節が変わったからといって、右から左に手の内を返せるもんかい?」もう一つ、「お父っつぁん、それで日限のほうは大丈夫なのかい?」言葉がちゃんと生きていた時代の映画である。ひばりの演技はふわふわしたもので、足が地に着いたものではない危なっかしさがある。それは藤純子もそうで、おそらく発音のせいではないかと思うのだが……(ひばりは心ここにないという喋りり方をし、藤純子はあまりにも正確に言葉を発音しすぎる)。その意味では、この映画、啖呵を切ることで、こっちの気持ちが落ち着くところがある。


68 ギャンブラー(DL)

マイケル・ウォーバーグ主演で、大学教授でありながら賭け事でやくざから26万ドルの借金。それをどう返すかだが、最終日になるまで結論が見えない。母親との関係、自分の才能との折り合いの付け方、教える学生との問題など、実は描きたかったのはそっちではなかったのか、という感じ。ウォーバーグが授業で抽象的な理論を振りかざすところは、?マークが点灯。キャラクターが違うのではないか。最後は、ジョン・グッドマンから借りた金をルーレットの黒に全額賭けて一打逆転となったが、それまではほぼギャンブルとは無縁の話が続く。教え子の女の子と付き合いはじめるが、この子は不思議な存在感がある。


69 心の旅(D)

マイク・ニコルズ監督、主演ハリソン・フォード、女優がアネット・ベニング。原題はRegarding Henryである。悪徳あるいは敏腕弁護士が夜に煙草を買いに行き、強盗に遭い、頭などに銃弾をぶち込まれる。それによって記憶を失う。賢明なリハビリで少しずつ自分をとり戻すが、かつての自分に嫌悪を抱き、弁護士を辞める。妻と子と生きていこうと決める。ビル・ナンというセラピストをやった黒人がいい。もとアメフトの選手が事故で選手生命を絶たれ、リハビリに。そこでその仕事と出合い、転身をはかった人物。誰にでも声をかけ、明るく振る舞う。アネット・ベニングは確かにきれいだが、彼女は年を食ってからきれいになるタイプかもしれない。出演作が目白押しなのが、それを物語っている。それにしても、脳がダメージを受けるぐらいでないと人生を変えられない、というのも厳しい話である。みそっかすの子どもが覇気がなくていい。親子三人で抱き合っている足もとで犬が自分も参加しようとして背伸びを何回も繰り返すラストはグッド。


70 殺人の追憶(D)

何度目になるか、やはりこの映画は圧倒的である。都会からやってきた頭脳派の刑事が最後には暴力性を剥き出しにする。それを抑えるのが、もともと力のによる捜査しかできなかった田舎刑事。犯人を美男の優男にしたのが、この映画の勝利の核心であろう。いつも同じことしか書けないのは、この映画には必要なことはすべて映像として語られているから。ひとつ意外だったのは、2人目の死体が見つかった休耕畠で人が、警察が集まってくるところを俯瞰で撮っていた記憶だったのが、それほど高い位置のカメラでなかったこと。ポン・ジュノ監督は寡作で、ぼくは「グエムル」「母なる証明」しか見ていない。もっとたくさん撮ってほしい。


71 麻雀放浪記(D)

これで何度目になるだろう。博打に人生を打ち込んで悔いない男たちを描いて、これ以上の映画はないのではないか。いんちきを働いたのが後でバレても、途中で見抜けない奴があほだ、という世界。女は女郎屋に売られる寸前で助かるが、女郎屋に堕ちたって好いた男のためならかまわないと言う世界。和田誠さんのあの端正な絵からは想像もできないアナーキーな世界への傾斜が憧れをもって描かれている。鹿賀丈史が大竹しのぶに女郎の件を持ち出したくだり、大きな蛾が飛びまわって加賀が恐怖に固まって動けない。しのぶが言う、「逃げちゃえばいいのに」。おそらくこの台詞がこの映画の核にあるものだろう。誰も目の前の奈落から目をそらさないのである。いつも同じ感想になるが、鹿賀丈史という役者を見つけたのが成功の秘密だろう。それと、ヒロポンを打ちながら牌に向かう出目徳の高品格、和田さん、いい役者をみつけたもんだなあ。焼け跡の町の様子も立派で、大きなセットを組んだものだと思う。いつも残念に思うのは、坊やと加賀まりこが一緒に大きな川、隅田川だろうと思うが、それを背景に歩くシーン。せっかく豪華なセットを見た目には、書き割りの薄っぺらな感じがどうもいただけない。


72 駅馬車(D)

馬車に乗り込むのは、善良な薬売り、飲んだくれの医者、顧客の金をくすねたバンカー、中尉の夫を訪ねる夫人、その夫人を恋慕するギャンブラー、そして途中から乗ってくる脱獄囚、これはいずれ悪党3兄弟との決闘が控えている。あまり性格描写がはっきりしているわけではないし、狭い室内で確執がくり広げられるというものでもない。スピード感のあるアパッチの襲撃シーンが有名だが、もちろん撃った弾が当たって倒れるときは合成である。宿場が近づくたびに音楽が明るくなるのが愛嬌である。夫に出合えたはずの夫人の様子が描かれない、など不備はいくつかある。出演者のネームでは娼婦(ダラス)役のクレマー・トレバーがトップで、それからジョン・ウェインである。彼はこの映画でトップスターに名乗りを上げたわけである。


73 HERO(T)

こんなに全体が喜劇調だったかしら。「トリック」もそうだったが、何か日本の喜劇の伝統がこういうところに流れているのか。みんなが話し合いをしているそばのテレビで健康グッズの通販番組が流れていて、ある瞬間、みんなが携帯でその商品を注文するというギャグには思わず笑ってしまった。ネウストリヤとかいう外国と貿易交渉している欧州局長(佐藤浩一)が、その国の人気競技を知らなかったり、国民が人気ソーセージを1日に食べる量を知らなかったりって、あることなのか? そんなやつが外交交渉は熾烈な戦いだ、と口にする。脚本が間違っているのではないか。キムタクの即座の返し言葉が踏襲されているが、あれは彼の日常の口調を映画にも持ち込んでいるのか、あるいは彼はどの作品をやってもそれを演技として通しているのか。いずれにしても、彼のその口調をもとに脚本家は宛て書きをしていることになる。


74 セルラー(DL)

キム・ベイジンガー主演、冒頭10分で投げそうになった。テンポが悪すぎるのである。それでも2回に分けて我慢して見たら、残り30分ぐらいは見ていられる。アクションシーンがあるからである。前半部にも何か動きのある絵をもっと入れれば、面白くなったはず。最後の映像を見る限り、そうテクニックがないわけではないのだから。


75 日本でいちばん長い日(T)

時折、声が聞こえなかったり、早口で何をしゃべっているのか分からなかったり、時代背景や政治や軍の有り様が分からないので、かなりの部分を理解できずに終わる映画であろう。僕のとなりに中学生のような若者が大きなポップコーンを抱えながら座っていたが、彼はどういう動機があって、この映画にやったきたのか。よく理解はできたのか。小さなスクリーンに5割方、入っている感じで、若いカップルも1、2組いたようだが、中心は初老の夫婦といったところ。新規だったのは、天皇のまわりにいる付き人たちが、まるでお公家様みたいな浮き世離れした感じだったことだ。これは本当のことなのか。鈴木貫太郎の息子(農商務省)、のちに秘書官になる男が、「あなん」と聞いて「阿南」を思いつかないなどということがあるのだろうか。東条英機が若手将校の集まる場に来て、大音声を挙げ、もし天皇に過ちがあればそれを諫めるのも陸軍のやることだ、と言い放つが、臣東条がそんな不敬の言を吐くのだろうか。阿南惟幾が臣天皇で、最後まで過激派将校を引き付けながら、土壇場で和平に転ぶことで終戦の準備をした、という評価のようだ。天皇の聖断で戦争を終えることができた、ありがたや、という映画だが、「ポツダム受諾のまえに、もっと成果を上げられないか」と言ってムダに降伏の日にちを遅らせ、広島、長崎の惨禍を招いたのは誰か(もちろんこれは映画では描かれない)。1975年に、広島の原爆は仕方なかったと言ったのは誰か。本土決戦すれば必ずや勝つなどという世迷い言を、なぜ最後まで放っておいたのか。天皇は我が身の危険を感じたこともあったというが(2・26の後のこと)、身命を賭してでも国民を早期に救うべきだったのではないか。誰もが無責任に暴走し、それを利用する輩が根を張り、それがまた暴力装置として機能して、反対意見を圧殺していく。この構図は相変わらずだ。監督原真人は「クライマーズハイ」でとびきりの群衆操作を見せた。今回もご苦労様と言いたくなる。映像は深みがあって、きれいである。


76 新しき世界(D)

3分の2は人事劇で、最後に少しアクションがある。映像が安手の感じがするのと、冒頭の兄弟分の車中での会話が長く、ダルい。エレベーターのなかでシャカシャカ包丁で切り合うシーンは怖い。バットも登場する。全世界、暴力映画は刃物と素手に移行している。兄貴分を演じたファン・ジョンミンは心の広い、ユーモアのある、いい役柄である。憎めない風貌をしている。


77 悪童日記(D)

ポーランドが舞台と思われるが、ようやく父が帰還したものの、ドイツ軍の侵攻から逃れて、双子の兄弟は母方の祖母に預けられる。母と父はそれから姿を見せず、母は二人に必ず迎えに来るから、その間勉強を欠かさないようにと言い残す。二人は日記をつけはじめ、そこには文字ばかりか写真、イラストなどが差し挟まれる。祖母は、働かざる者食うべからずで、双子に厳しく当たる。夫を毒殺した疑いをもたれ、魔女とも呼ばれる。一方、彼女は双子のことを「メス豚の子ども」と呼び続ける。彼らの住まいのすぐ近くに収容所がある。隣家に男色家の将校が泊まり込むが、彼は首に矯正具のようなものを嵌めている。少年たちは、お互いを殴ったり、ベルトで打ったり、4日間断食をしたり、強くなるための訓練を欠かさない。あるとき、森で脱走兵を見つけ、翌朝、食糧を持って行くと、彫像のように氷で固まっている。彼の銃と爆薬を手に入れ、隠す。彼らは、近所に住む三つ口の女の子と悪さをしたり、世話になった靴職人をナチスに売った司祭館勤めの女を爆死させたり、三つ口の女の子の秘部を見て金を払った司祭を強請ったり、悪童ぶりを発揮するが、どれも正義のために行われている。まったく便りがなかった母親が赤子を抱えて、見知らぬ男とやってきて、一緒に行こう、と言うが、双子は祖母のところを離れない、と言う。母の愛人は逃げだし、母は赤子共々爆撃にやられてしまう。やがて戦争が終わるが、ソ連軍が侵攻してくる。歓迎の意を表した三つ口の子は兵士に輪姦され、死ぬことに。捕虜となっていたという父親が姿を現し、国境を越えて逃げる、という。なぜかと聞いても、返事が返ってこない。国境の緩衝帯には地雷が埋まっている。大股に歩けば助かる、と双子に知恵を付けられた父親が爆死し、その死体を踏んで、双子の一人が国境を越える。一人はこちらに残り「最後の訓練 別れ」が遂行された。


原作アゴタ・クリストフはたしか数年前に亡くなった記事を読んだことがある。ナチとソ連にやられた国ポーランド。いま自ら収容所に入り、外にその内部の情報を流し、収容所解体目的の手引きをしたピレツキという男の本を読んでいるが、彼は結局、収容所脱出後、コミュニスト政府に捕まり、処刑をされている。なんという酷い話だろう。


なぜ主人公は双子なのか。人間不信、人間破壊がうずまく世界で、言葉も不必要なほどにお互いをわかり合う関係など、稀有なものである。彼らは、一人では生きていけない、という。世界の暴力につり合うもの、それが完全なるコミュニケーションができる双子ではなかったのか。ようやく姿を見せた母ではなく、因業な祖母を選んだのは、なぜか。おそらく、二人の生きた厳しい世界にフィットする、リアルな存在が祖母ではなかったのか。それに比べて、新しい愛人の赤子を抱く母は、フィクショナルとはいわないまでも、現実味に欠けている。おそらく、自分たちの生死を賭けるに値しない、と彼らの直観が選択させたのではないか。


78 この国の空(T)

荒木晴彦監督、脚本である。戦時中のこの国の空にあるのは敵機とただの人工的な青、それにしても芸がなさすぎる。隣の中年男に二階堂ふみが惚れるわけだが、まったくその男に魅力がない。なにかキャスティングに間違いがあるのでは? 二階堂が男と話していて、男が上陸した米兵に殺される話ばかりするので、死なないで、死なないで、と男の太ももを叩くシーンがあるが、どうもそこには感情がない。彼女の平板な話し方が、この映画には合っていないのではないか。最後に茨木のりこの詩を読むが、それも無感情でやるので、あのいい詩が殺されてしまった。それなら、音声だけでなくて、文字でも詩は出すべきだった。戦争が終わって、中年男には疎開した妻と子が戻ってくる。ゆえに二階堂にとって「これからが戦争である」とわざわざ文字が出てくるが、それは要らないだろう。高井有一の原作がどういう作りになっているか知らないが、戦時のわりない恋と戦争および戦後はどう結びついているのか。この映画からはその必然性は見えない。母親役の工藤夕貴、叔母さんを富田靖子、かつてのアイドル的な二人が老け役をやっていて、これがなかなかいい。ちょっと工藤が若すぎる感じもするが。低予算映画で、ほぼ家の中か二階堂の勤める事務所、あとは神社の境内だけである。別にそれでもかまわないが、その小さな世界で濃密なものが生まれてこないと、観客はつらい。


79 バターフィールド8(DL)

監督ダニエル・マン、主演リズ、男優がローレンス・ハーベイ、エディ・フィッシャー。13歳のときに母の恋人に悪徳を教えられた少女は高級娼婦として過ごす日々に。そこで知り合ったリゲットという、金持ちの娘と結婚したが、うだつが上がらず劣等感を抱く男と知り合い、ようやくにして人を愛することを覚えたが、ちょっとした行き違いから喧嘩をし、クルマの事故で死んでしまう。男いわく、彼女はずっと人間の尊厳が欲しくて足掻いていた、つねに希望を捨てずに、と。それは彼自身のことでもある。彼も再出発を誓い、もし尊厳を取り戻せたら、妻のもとに帰る、と言って家を出て行く。リズはこの映画の前に「焼けたトタン屋根のうえの猫」で主演女優賞を逃し、これで初の主演女優賞を取り、6年後にはまた「ヴァージニア・ウルフなんか怖くない」で再受賞している。タイトルのバターフィールド8は彼女への伝言を受け取るところで、なぜだかそういう仕組みにしている。彼女の母親は痩せた、そして知的な感じの人で、ぼくは「俺たちに明日はない」のフェイ・ダナウェイの母親役をはしなくも思い出す。奇しくもリズはクリスチャンからユダヤ教に改宗している。


80 ローグネーション(T)

今までで一番面白いインポシブルではないか。イギリスのスパイの女性が合っているのもしれない。ただ、お尻の贅肉が震えるのはいただけない。アリババがスポンサーに付いている映画を初めて見た。なかにオペラを挿入いしているが、そが何か中国を題材にしたものである。こういうところでサービスをするのか、である。次は、チャイナガールがお相手に選ばれることだろう。


81 天空の蜂(T)

東野圭吾が原発に疑問をもって記した作品が原作。しかし、高速増殖炉をテロで狙う、というそもそもの設定がおかしい。あれは実験装置であって、狙うなら稼働中の原発だろう、それも出力の大きいものを、と思うが、高速増殖炉でも巨大な被害が起きる、という想定で映画は進んでいく。途中、本木雅弘が増殖炉の説明をし、ウランは稀少だが、そこから生まれるプルトニウムは無限にエネルギーを生み出すことができる、という説明をする。しかし、この実験は世界では見放され、日本だけで行われているクレイジーなもので、それにトラブル続きでまともに動いたことがない。ナトリウムを冷却剤に使っていて、これが非常に不安定なものだからである。そしてこの増殖炉は巨大な金喰い虫である。それらが一切触れられない。

案の定と言うべきか、犯人が掴まり、その犯人がテロの意図を明かす。増殖炉を狙ったのはプルトニウムがほかと比べて少なく、かなり奥の方に保管されているので、攻撃にも強いからだ、と説明する。火薬も10キロしかないという。単に脅しが目的で、実際に爆発しても大事故にならないところを選んだ、というわけである。さて、映画の冒頭から専門家が相当数、対策チームとして集められる。専門家であればただちに犯人の意図を見破るはずである。この犯人は本気ではないのではないか、と。しかし、そんなことを言い出す人間が一人もいないで進んでいく。観客をバカにしているというよりも、作家の知性の程度を疑ってしまう。


江口洋二が主演だが、妻が彼をなじり、家族は血みどろに戦って維持されるものだ、と言うのには笑ってしまった。夫が仕事に注力しているあいだ、妻は何をやっていたのか。血みどろに戦ったのか。何という名の役者か分からないが、魅力がなさ過ぎる。原発屋といわれる本木が、息子がそれを理由にいじめられ、自殺したことが原因で、増殖炉を狙う計画を立てるという筋書きだが、その息子をいじめたのが反原発の運動家の子という設定なのは無理はないか。原発労働者の綾野剛にナイフを向けられ、手でそれを握るなど、ちょっとね、である。愛知県警の奇妙な発音の刑事と、やたら高飛車な女警察官、なぜこの二人しかいないのか。柄本明と若い刑事のコンビが息が合ってOKである。余りにも定型な描き方に笑ってしまうぐらいだけど。若者が買ってきたパンのクリームに、柄本が生クリームは嫌だ、というシーンなどがそれ。芸がなさすぎる。


新型ヘリは本物(?)で、迫力があった。最後の墜落シーンもいい。タイトルバックに何か黒い光沢のものが写されるが、それが機械的な冷たさを見せてグッドである。映画の終わりに、それが犯人の部屋から見つかった、といって増殖炉に設けられた対策本部に持ち込まれるが、結局、なんの代物なのかよく分からずじまい。こういうのは丁寧にやってほしい。


82 キングスマン(T)

キック・アスの監督マシュー・ブォーンが撮っている。主演は新人のタロン・エガートン、脇にマイケル・ケイン、コリン・ファース、マーク・ストロングなど。女優はソフィー・クックソンで、「ナイト・イン・パリス」「ミッション・インポシブル ゴースト・プロコル」のリー・セイドゥに似た感じの女優である。世界を良くすることに飽いた男が、人口減を互いの殺戮で達成しようとする。それと戦うラインと、一人の勇者が育つ過程が複合的に進んでいくが、まったく無理がない。おしゃれだし、粋だし、往年の007を思い出す。汚い画面になるところはアニメ化するなど遊び心が横溢している。スカンジナビアのプリンセスが、私を助けてくれたら、後ろの*を使わせてあげる、というのは下品である。イギリスではここまで言わないとすまないのだろうか。続編がつくられているそうで、待ち遠しい。


83 マッドマックス(DL)

こんなに忍耐映画だとは思わなかった。迫力シーンに目を奪われて、そこまで関心がいっていなかったのだ。無法者がバイクに乗って、仲間の弔いにやってきて、マックスの同僚、妻子を殺す。途中では、ここままだとただの暴走族と変わらなくなってしまう、警察を辞める、と言い出す。上司は、バケーションをやるから頭を冷やしてこい、という。そこで、惨劇が起き、マックスは復讐に燃えるのである。メル・ギブソンにはまだふてぶてしさが現れていない。


84 君の生きた証(DL)

ウィリアム・H・メイシー、あの情けない顔の俳優さんが監督である。主演はビリー・クラダップという人で、いろいろ出ているのだが、記憶にない。最後にちょっとした仕掛けのある映画で、少しこちらの態度も変わる。


85 はじまりの歌(DL)

原題をBigin Againという。Onceを撮った監督ジョン・カーニーが舞台をニューヨークへ移して、失意のアマチュア歌手と伴走しながら、失意のプロデューサーが育てていく過程を描いている。キーラ・ナイトレイにはときおり計算外の奇妙な表情が浮かぶが、あれは顔の表情筋に問題があるのか。落魄のプロデューサーをマーク・ラファロ。二人が、自分のフェバリットソングをスマホで聞き合うシーンで、ナイトレイお勧めのサッチモの曲を聴きながらラファロがいう、「音楽は魔法だ。いつもの風景がまったく違って見える」。自転車を乗り回す少年たち、イスラム風の衣裳を着た二人の男、異様に背の高い細身の青年……そのいつもの街が輝いて見える。おそらくカメラマンがいいのだろうが、素敵なシーンである。


86 デビルズ・ノット(DL)

幼い子3人が自転車で森の奥へ行き、手足を縛られ、沼の中に沈められる。同日、ダイナーのトイレに頭から血を流した黒人が、下半身を泥に濡らした状態で見つけられるが、警察が来る前にいなくなる。一人の少年が犯行現場を見たと証言したことで3人の青年が逮捕され、一人は知能の後れがひどく、彼の証言は警察のいいように誘導される。残り二人のうちの一人はカルト教に凝っていると噂される子で、悪魔の所業をなしたのは彼だという世論が沸騰する。彼の法廷証言を見る限りは、知的で、シニシスムに傾斜した一青年に過ぎない。殺された少年の義父の毛が、その少年を縛った紐から検出されているのに、警察はそれを無くしたという。裁判官は警察の筋書き通りに事を運ぶことしか考えていない。法廷証言をした女の子たちは、悪ふざけのように青年二人を殺人者だと言う。死刑判決が下りてから、殺害の場面を見たことは、全部でたらめだったと言い出す。真相はどこにあるかまったく分からない。


という極めてまじめな映画なのだが、冒頭のカメラはまるでスリラーのような撮し方で、森の木を舐めるように写していく。まずそこから間違っている。さらに主人公の調査員を演じたコリン・ファースは疲れた、目に隈のできた役を演じているが、裁判に直接関われるわけではないし、弁護士を引き回す権限もない。ということで、何やら劇の中をふらふらするだけで終わってしまう。アメリカ映画にでも出ておこうか、といったところだろうか。イギリス訛りを押さえているが、端々に出るのは致し方ないか。殺される少年が、「エージェント」に出ていたガキのように可愛い。彼は祖父から貰ったナイフを肌身離さず持っていて、それを持って森にも行ったはずだが、家の道具箱にナイフがあることを母親が見つける。彼女は彼を疑い、別に住まうことは決意する。「キリング」で主役をやっていた女性が、性悪女の役で出ている。彼女はたしか舞台女優ではなかったか。もっと役を選ばないといけない。それと、その同じドラマで、彼女の上司の役をやった男も出ている。彼女と捜査に歩き回る若き警部も、「ランオールナイト」で頑張っていた。みんな「キリング」にやられたのである。


87 フェア・ゲーム(DL)

イランに核開発の疑惑があるということで米軍の侵攻があるわけだが、そのフレームアップを否定した夫婦がいて、妻はCIAで、夫は元外交官。イランには核開発などする余裕はなく、核開発の証拠とされたアルミ管はその薄さからいって、おもちゃのようなものなのに、動かぬ証拠に仕立てられていく。最後は、彼ら夫婦の証言が国家委員会でも取り上げられる、というところで映画は終わるが、最後に実在の人物が出てくる。ハリウッドが信用できるのが、こういう映画をきちんと作っておくからである。主演ショーン・ペン、ナオミ・ワッツ。


88 ピッチ・パーフェクト(DL)

ミュージカルものだが、テレビドラマ「グリー」の劇場版といったところか。おさだまりの設定だが、やっぱりこのあたりの映画を作らせたら、ハリウッドでしょ、という出来。存分に楽しめたが、ファッツ・エミーにはもっと活躍の場を上げてほしい。もうすぐ2がやってくるが、今度はアカペラ世界大会である。硬直したリーダー女がゲロするシーンは一回でいいのでは。キックアスにもそういうシーンが何度か登場するが、いやはや、である。


89 マイ・インターン(T)

デニーロ、アン・ハサウェイである。元印刷会社勤務で、部長まで務めた人がいまリタイアで、時間潰しが大変。そこで見つけたアルバイト先が、もと自分がいた工場。床の傾き方まで知っている。雇い主は、ネットで服を注文するシステムを作りあげたハサウェイ、彼女はデニーロの有能さ、人間性の深さに気づくが、最初はobservantと警戒する。目ざとすぎる、というのである。ハサウェイが離婚の騒ぎで、泣き叫びながら、墓場に一人で入るのは嫌、みたいなことを言うのだが、アメリカ人、それも若い女性にこんな意識があるのだろうか。それが、意外である。デニーロは、うちの墓に入れば、とあくまで優しい。ぼくは彼をCEOに据えるのかと思ったが、やはりそれはないか。デニーロが笑ったり、むずという顔をしたりすると、久しぶりに「タクシードライバー」のときの顔が二重になって見える。


90 プリズナー(DL)

ばかな話だが、本当にラスト近くになって、この映画を以前に見たことがあるのを思い出した。ギレンホールが田舎の警察から、州警察へ腕の良さを買われて這い上がれそうになったそのとき、この幼女2人の失踪事件が起きる。100で触れた「デビルズ・ノット」と同じように、宗教的な狂信性がここでも問題になっている。ここでいう「prisoner」は囚人ではなく「、囚われの身ということ。


91 図書館戦争2(T)

ほとんど3分の2ぐらいまで、死者が出ない戦争がくり広げられる。けっこう撃たれても、たいがいの人間は死なない。お互いに法律を元に限定戦争をするという設定だが、かたや「倫理強化委員会」、かたや「図書防衛隊(?)」ということになっている。最初、自衛隊礼賛かと思いきや、そうでもない。自由の抑圧を描いていないので、緊迫感がまったくない。おざなりの、書き割りの自由があるだけ。その象徴が図書館法だかが記された法律書(?)だかで、それを奪ったからといって、法律がなくなるわけもない。国会の承認がいる。ちゃちだし、デタラメである。図書館の敷地を出たら、武器の携行ができない、というのは、はて、なんじゃ? 市民は無関心というが、そりゃそうだろう、という対戦の仕方である。ただし、ここに盛られている「怠惰な国民」「平和ぼけの国民」という認識は、広範に認められる日本の気分ではないのか。こんな世界を生みたくて、何百万もの英霊は死んでいったのか、と右翼は言うだろう。しかし、平和ぼけにならない平和など中途半端なものだ、とぼくなどは思うのだが。茨城県近代美術館が舞台になっているが、それはどんな事情が? 岡田准一演じる上官はまったく何十年前のキャラクターだというぐらいに古い、栄倉奈々はやはりいつもの演技で、これがいつまで通じるのか。ラストの喫茶店の映像がしょぼい。


92 ダイバージェント(T)

また荒廃の未来で、NYは廃墟となり、人々は原始生活に戻ったような様子だ。都市の向こうにはフェンスがあって、何物かから隔離されている。都市を支配しているのは独裁で、つねにグループに分けられた市民はつねに監視されている。無欲、勇気、博学、異端、などといったグループがあり、訳ではダーバージェント(多様性)を異端としている。それでは、映画の筋が見えにくい、と思うのだが。ほぼこの世界観はハンガーゲームの世界で、「きっと星のせいじゃない」のシャイ・ウッドリーの売り出し映画であろう。「セッション」のマイルズ・テラーが弟役、「きっと星のせいじゃない」で共演したセル・エルゴートという青年も出ている。ナオミ・ワッツが化粧が濃くて、残念。ケイト・ウインスレットが悪玉の親分だが、なんだか悪の程度が全然足りなくて、簡単に反乱軍に掴まったりしちゃう。もともと脚本が悪いのだろうが、途中で何度出ようかと思ったほどだ。繰り返し描かれる未来の荒廃都市というイメージは、もしかしたら現実のアメリカではないのか、という気がする。貧富の格差、民族差別、政治の固定化などの不安が反映されたものが、この種の映画の背景にあるものではないか。としたら、ダイバージェントしか救いはないだろうと思う。


93 コール(DL)

ハル・ベリー主演で、緊急電話係が実際の殺人を止めることができなかったが、また数カ月後、同じ犯人に襲われる女の子を助ける。誘拐された子が持っているのがプリペイド携帯なので位置確認ができない、というのがミソで、犯人のトランクに閉じ込められた彼女にいろいろな指示を出して、今度は救おうと必死である。最後、二人は犯人にひどいことをするが、なんでそこまで、それに警察にバレるでしょ、ということをやる。せっかくの緊迫の映画も台無しである。さすがにあのハル・ベリーにも多少の衰えが見える。彼女を「ソードフィッシュ」で見かけたときの驚きを忘れることができない。


94 レッドライト(DL)

デニーロの力が抜けた感じが詐欺師に似合っている。シガニー・ウイバーは年をとり、太ってしまった。それに、途中でいなくなる。異常現象捜査官が、異常能力保持者だったというオチがつくとは。それにしてもデニーロ、老いてなお出まくっている。


95 ジョン・ウィック(T)

キアヌ・リーブス主演で、ほとんど女っ気なし。相変わらず長髪で薄汚いイメージは変わらない。妻が病気で死に、彼女が残してくれたイヌを殺され、愛車も盗まれて、怒りの火が点る。連続何十人という殺しのシーンは圧巻である。やや似たような殺し方を2、3繰り返すのが特徴で、ほかの映画のアクションでは見かけないやり方だ。ジョンの癖ということなのだろう。たとえば、ヨコから出てきた人間の腕を掴んで振り回し、空いている右手で前方の人間を撃つ。あるいは、柱を挟んだ敵には、柱から即座に回り込みながら至近距離で撃つ。デーゼルワシントンも引退したような殺人マシーンの役をやっていたが、やや衰え掛けたスターたちの復活方式の一つなのだろうか。それにしても、アメリカ映画はこういう暴力映画を撮らせたら、一流である。


96 メイズランナー 砂漠の迷宮(T)

やはりなあ、1作目の面白さはほぼ失って、ゾンビ映画になってしまった。「ダイバージェント」と同じで、善意の女統領が仕切っている。これはヒラリー・クリントン大統領を予見している?


97 ミリオンダラーベイビー(DL)

前に見たときは、スワンクが頸椎にダメージを受けたあとの展開は不要と思ったが、それは大きな間違いだった。イーストウッド演じるボクシングジム経営者兼セコンドは、つねに選手の危険回避を旨としてきた人物で、それはジム住まいのモーガン・フリーマンしかり、黒人の売り出し中の選手しかり、そしてスワンクも、である。あまりにも自分が抑制的であることを反省して、スワンクには意外と早めに大舞台を用意するのだが、それが彼女の再起不能を呼び込むことになる。冒頭から始まるフリーマンのナレーションの中身は凄絶である。骨まで届く傷は、ときによって出血が止まらないことがある、とかなんとか。イーストウッドはギリシャ語を読み、イエーツの詩に親しむインテリという設定になっている。目に一丁字もないフリーマンとは好対照である。


イーストウッドにはアイルランド、スコットランド、イングランドなどの4つの血が混じっているらしい。スワンクのガウンの背に縫い取られた文字はゲール語らしく、その文字を見て、ロンドンに住むアイルランド人は熱狂する。そのガウンも、イーストウッドの着るトレイラーも緑、アイルランドの色である。死の間際に彼女に明かされたその文字の意味は、「愛する者よ、おまえは私の血だ」というものである。イーストウッドは毎日欠かさず教会に出かけ、三位一体とは何かとかいった質問をくり出し、神父はうんざり顔でまともに扱わない。しかし、半身不随となったスワンから呼吸装置を外してくれと頼まれ、苦悩し、牧師に相談をすると、あろうことか、神も悪魔も放っておいて、ただ静観するのだ、と諭される。もし彼女を死なせれば、あなたはずっと基盤のないまま揺れ動く、と忠告を受ける。しかし、戦うことで人生を切り開いてきたスワンクは、最後も戦わせてくれと懇願する。ボスに断られると、舌を噛み切ることまでやる。とうとう、イーストウッドは深夜に病室に入り込み、呼吸器を外し、致死量の4倍のナトリウムを注射する。


イーストウッドが家のドアを開けるたびに、ある手紙が届いている。娘からの手紙のようだが、それを開封しない。親子で何があったかは語られない。これも実は仕掛けがあって、フリーマンが娘に父親の近況をその都度、伝えていたのだ。スワンクのロクでもない家族が二度、登場するが、一度目のあと、スワンクがクルマの中でイーストウッドに、私にはあなたしかいない、と言い、イーストウッドも肯定する。これは、疑似親娘の物語でありながら、その親娘は生死を賭けた戦いの同志でもある、という関係である。のちに「人生の特等席」でも親娘問題を扱っているが、イーストウッドにはエディプスコンプレックスのようなものは存在しないようである。



この映画の照明を褒める人がいるが、そういわれれば緑がかった青が基調になっている。スワンクの家族を会って帰りのクルマの中、外は闇に包まれているので、二人の顔も闇に沈んだり、浮かび上がったり、それがごく自然なのである。ほかの映画だと、全体に明るめにして、二人の顔を見せるのだろうが、あくまで闇を殺さない撮影法を採っている。世界チャンピオンになるんだ、と言うことだけは大きくて、まったくリングにも上がろうとしない青年が、この映画の重要なアクセントになっている。臆病な青年で、身体能力もかなり低いのだが、それでもボクシングの魔力に取り付かれている。彼を虚の中心点にして、ボクサーというさまざまな星座が配置されている。



98 私の名前は(T)

近親相姦の娘が家出をする。長距離トラックのおじさんはいい人で、何かで妻と子を亡くしていることを、すぐに彼女に教える。それで心が開くと思ったのか。暗黒演劇のような踊り手が出てきたり、ハンドカメラに切り替わったり、絵を途中で止めて場面を切り換えたり、カメラがビルの屋上の角を撮したり、文字で絵を説明したり、余計なことをやっている。というのも、オン・ザ・ロードでは何も起きないからである。最後に、驚きの映像があるが、運転手の理屈も分からないわけでもないが、それほどの苦悩があると、事前にきちんと描くべきである。


99 ドライビング・ミス・ディジー(DL)

ブルース・ベレスフォードという監督で、「ダブルジョパディ」と「ザ・スナイパー」というのをほかに見ている。主演ジェシカ・タンディ、モーガン・フリーマン、客演ダン・エイクロイド。1989年映画で、タンディが80歳(役は92歳)、モーガンが50歳(役は70歳)、やはり傑作であろう。もう4回目になろうか。舞台はアトランタで、キング牧師が有名になりつつある南部である。タンディはユダヤ人の金持ち、息子は家を継いで、綿糸の工場を手広く営んでいる。頑迷だが差別主義者ではないタンディのもとに、人間の矜持を捨てないフリーマンが雇われ運転手としてやってくる。次第に心を開いていく過程がじっくりと描かれる。叔父の誕生日に長距離を移動、途中で道を間違い、夜も更けてきた。フリーマンが小用をしたいと言うと、我慢して急げという。彼は、70の男が子どもみたいな要求をする気持ちが分からないのか、といって、命令に反して用を足しにいく。すると、社内に独りで閉じ込められたディジーは心細さから彼の名を呼ぶ。そのときのディジーの表情が抜群である。キング牧師の演説会に誘ったのが当日の会場前。なぜあなたはひと月も前に招待状が来ていたのに、いまになって誘うのか、とフリーマンは抗議をする。そういう骨っぽいところにディジーは信頼感を寄せていくのである。認知症になったとき、フリーマンの手を握り、あなただけが友人だ、と呟く。1989年に作られた作品で、いま思えば、老人ものとしては非常に早い時期の作品であろう。アカデミー賞で作品賞を取りながら監督賞を逃したというが、その理由はさて?


100 コードネームアンクル(T)

懐かしのナポレオン・ソロとイリヤ・クリヤキンである。ソロはスーパーマンに似ていて、イリヤはイアン・ゴスリングに似ている。冷戦初期の設定だから、大した秘密兵器は出てこない。ロシアのほうが発達しているというジョークも挟んである。イリヤが海で戦っているときに、ソロがトラックでワインとサンドイッチを見つけ、ラジオでカンツォーネを聴きながら優雅なひとときを過ごす場面がおかしい。彼を真ん中に置いて、イリヤと敵のボートが行ったり来たり、するのである。こういう余裕のギャグがとんと映画から消え失せて久しい。先のキングスマンにそれがあって、ほっとしたのだが。監督はガイ・リッチー、あの「シャーロックホームズ」を撮った監督である(ただし、第1作目)。いよいよ007の「スペクター」がやってくる。レイセドゥが出るので、楽しみである。


101 食べて、祈って、恋をして(DL)

人に勧められて見た映画である。ジュリアー・ロバーツはもう往年の美しさはないと思っていたので敬遠したのだが、なかなか可憐さがあって、グッドである。離婚の傷心を抱えて、イタリア、インド、バリへと自分探しの旅をするライター稼業の女性が彼女で、バリで再会する前歯の抜けた予言師が愛嬌があっていい。東洋の占いやマッサージなどが、違和感なく肯定されているのが、いまどきの感じである。映画にちょくちょく日本のことが普通の感じで出てきて驚くことも増えている。東西の距離がよほど縮まったのだろう。The Sffron Road という世界の尼僧を訪ね歩く本があるが、何か東洋的な宗教に思いを寄せる人々が確かにいるようなのだ。


102 スペクター(T)

期待のボンドだが、残念な出来である。スペクターの親玉が実にあっけなくボンドにやられるのである。前回との続きで、スパイ部局が無くなるかもしれないという設定である。Mも代わり、マネーペニーもQも変わった。ボンドガールのレア・セドウはもう少しきれいに撮れると思うのだが。最後、殺し屋ボンドにはついていけない、と急に言い出していなくなるのは変だ、と思っていると、スペクターに囚われる。そのためにボンドから引き離したわけだが、ずいぶんおざなりである。


103 ベテラン(T)

「ベルリンファイル」「アラハン」を撮った監督リュ・スンワンである。「アラハン」は韓国カンフーで、続編が来ると思ったのだが……。「ベルリンファイル」は別に韓国映画でなくてもいいのでは、と思った。設定は北朝鮮絡みだが、ハリウッド映画を見ている気分である。今作は主演がファン・ジョンミンで「新しき世界」の義兄弟の裏切りと知りながら許す兄貴役をやった俳優である。抜けているのだが気持ちが優しい男を演じてグーであった。今回は暴れん坊だが根は優しい刑事で、ぜひ続編を作ってほしい。笑いが挟まれて、韓国映画の味わいがいい。署長、上司、刑事とみんなが仕事で負った傷を見せ合うシーンには、劇場が爆笑。悪役の財閥御曹司、ただし妾腹の子が嫌らしい悪党で、なかなか存在感がある。「オールドボーイ」の成り上がり社長には敵わないが。財閥企業の給料未払い、突然解雇が事の発端だが、この映画で溜飲を下げた人が多かったのか、韓国では1300万人が見たという。久しぶりに韓国映画を見た、という気分。ただ、深い色の韓国映画が好きな僕とすれば、色の浅さが気になる。


104 インディアン・サマー(D)

韓国映画で、安っぽい映像である。若い弁護士が夫殺人の女に肩入れして無罪を勝ち取るが、では犯人は誰なのか曖昧なままである。それが犯行時に女が着ていた服が見つかったということで、検察控訴で死刑に。女は夫が自殺願望があり、子供を下ろしたことで自暴自棄になって自害したことを打ち明ける。その夫を助けようとして付いた血だという。もう一つ展開の悪い映画で、役者も魅力的ではない。色がテレビ映画のように浅い。


105 独裁者と小さな孫(T)

監督モフセン・マフマルバフ、イランの監督らしい。ほかの作品も見たくなる監督である。寓話のような趣もありながら、リアルでもあるといった味わいの映画である。独裁者がじつはギターがうまく(旅芸人と偽って逃亡を続けるが、都合が良すぎないか)、若い頃は娼婦買いで遊んでいたという過去をもっている(50年も前に通ったと仮定しても、娼婦役の女は異常に若い)。彼が処刑し、あるいは拷問した家族とも逃亡のクルマに乗り合わせる。最後は民衆に掴まるが、途中の旅を一緒にしていた男が、復讐の連鎖からは民主主義は生まれない、と説くが、それで彼の斬首がストップになったのかは分からない。孫が楽しそうに踊るシーンで終わるので、惨殺は無かったということなのだろうが。民衆も兵隊も独裁時には手を貸して、罪なき人も殺したわけで、革命が起きたからといって、掌を返すのはおかしい、と先の男は訴えるのである。たしかに、革命軍が新婦を手込めにするシーンなどが描かれる。獄舎から解放され、愛する妻のもとに戻ったものの、違う男と子をなしていたこを知り、農具で下あごを刺して死んでしまう男も描かれる。だみ声で、ド演歌のような歌を歌う古老が出てくるが、迫力がある。あれはイランの伝統歌唱法なのだろうか。


106 マラビータ(DLは間違いなのでS=スクリーミングに変更)

見る前からスジが分かってしまうような映画なので敬遠していたが、リュック・ベッソンが撮っているので見ることに。やはりそれなりに楽しむことができた。仲間に追われるマフィア一家を助けるのがFBIのトミー・リー・ジョーンズという異な設定である。田舎町に引っ越すが、肩書きが作家という触れ込みのデ・ニーロ、何かあると爆弾を使う妻がミシェル・ファイファー、それに子どもが二人で弟役をやったジョン・デレオがなかなか面白い(あまり活躍していないようだが)。村人たちがアメリカ映画上映会をやるが、そのゲストにデ・ニーロが呼ばれ、そこでかかるのが「グッドフェローズ」というシャレがきつい。


107 杉原千畝(T)

最後の10分は、次の待ち合わせもあって見ずに終わった。チェリン・グラックという監督で、日本で1、2本撮っているようだ。主演唐沢寿明、小雪、どちらも背が高く、外人と見劣りがしない(小雪が適役かというと?だが)。彼が発行したのは正規のビザではないので、ウラジオストックでユダヤ人たちは足止めを食う。それをハルビンで同級生だった領事官が自分の責任で日本渡航を許す。千畝は独ソ条約を破綻を来し、日本の中国進駐はアメリカとの戦争を引き起こし必敗の道を歩む、と的確な読みをしている。残念ながら戦前の日本でそれを取り上げるところがなかった。石原莞爾にしても、先の読める人間は日本の軍隊ではお払い箱になってしまうようだ。


108 黄金のアデーレ(T)

竹橋で琳派を見たときに、クリムトの「裸の真実」がかかっていたのにはびっくりさせられた。日本ではエゴン・シーレが先に来て、のちに師匠のクリムトが入って来た。若き日にはシーレに惹かれ、年をとるとクリムトである。退廃の深さにいかれるのだ。この映画はいたって健全で、家宝の叔母の肖像画を取り戻そうと一個人がオーストリア政府に立ち向かうというものである。しかし、その令夫人(ヘレン・ミレン)は途中で何度か訴訟を止めようと挫けるが、弁護士である友人の息子に励まされて意志を貫徹する。ユダヤ人である自分の家族を殺した土地へ戻る勇気が出ない、とも言う。青年もユダヤ人で、彼はホロコーストの地に赴くことで、もとは絵画奪還を私的な名声を得る手段と考えていたのが、使命感と変わっていく。その土地の醸し出す歴史に触れて変身するところが、この映画の面白さだろう。実際、むかしの虐殺のことなどくどくど取り上げるな、と言ってくる市民もいるのである。ジョン・アービングはその薄い自伝で、オーストリアほど反ユダヤの雰囲気の色濃いところはないと唾棄する調子で書いている。