2010年の映画

kimgood2010-01-09

去年の収穫は、足を運んで映画を見ることの大事さを改めて知ったことである。「母なる証明」も「シリアの花嫁」「キャラメル」「母のおもかげ」「戦場でワルツを」も印象に残る映画は映画館で見たものが多い。それにタイや中近東、南米あたりの映画に秀作が多く、こういう作品はミニシアターへ行かないと見ることができない。今年は書斎で映画を見るのを減らし(目にヘルペスができるせいもある)、なるべく外に出かけて見るようにしようと思う。自然、本数が減ることになるが、少数精鋭で行きたいものである。


1 小三治(中野ぽれぽれ)
この映画館は去年、若くして亡くなったAV女優へのオマージュを撮った作品を見ようと思い、確か上映時間とうまく噛み合わずそのまま出かけずにいた映画館である。
入って細い階段を地下2階(?)へと降りて行くと、小さなもぎり台があった。小三治はたまたまラジオで馬を扱った話の枕を聞いて、なんて破天荒なことをやる人なんだと思ったのが昨年の11月ぐらい。自分の記憶の中から馬にまつわる、ちょっと悲しい話を拾い出して話すのだが、その尻切れトンボのような話のたびに「別に大した話でもないんですが」と付け加えるのがおかしい。十分過ぎるぐらいの間をとって、悠揚迫らずといった話し方に空恐ろしいものさえ感じた。


映画の冒頭、小三治の背中から着物を着せかける人が「失礼します」と言う。それに小三治が「失礼します、じゃないだろう」と小言を言い、相手が同じく「失礼します」と言い直す。このやりとりの意味が分からない。何か口調のようなものを注意しているのかどうか。
最後に「かじか沢」という話をやるが、そのオチで「ザイモクだから助かった」と言うが、はじめ材木と何を掛けているのか分からなかった。主人公は助かりたくて南無妙と唱えるから、お題目とかけているのだろうが、笑うような落ちではない。周りの観客からは笑いが起こっていたが(あとで林家正蔵で同題を聴いたが、やっぱり面白くない)。
「らくだ」という演題なのか、荒くれの店子が死んで、ほっとしたのも束の間荒くれの兄が現れる。無理な要求を拒んだ大家に死人を担いでかっぽれを踊らせる。この顛末、山田洋次の映画「運が良けりゃ」で使われていた。山田は落語の台本を何本か書いている。


小三治は落語は自分に向いていない、と言う。96点取っても100点じゃないとだめだと言う親の教育から離れたくてこの道に入ったのに、結局、同じことをやっている、と言う。
自分が楽しくないと客も喜ばないと弟子を諭すが、それは自戒で言っているのだとも言う。
舞台にピアノを上げて歌を歌う。15で落語に魅入られるまで歌が好きだったと言う。先生に習うが、うまく歌おうとすると詰まらない歌になる。鼻歌ならそれはそれで聞いていられる出来だと言う。先生は、最初に歌い出したときの感じを大事にして、そのまま歌い続けると、そのうちに調子が出てくるから大丈夫、と教えると、「落語ではいつもそうやっているし、弟子にも言っているのにね」と苦笑い。
何の病気なのか、薬を何十種も飲んでいると言う。好きなバイクも止めている。確かオーディオマニアでもあったと思う。いまはスキーを楽しんでいるらしい。雨のなかを走るバイカーを見ると、あれは俺なんだ、とも思うと言う。薬を飲みながら生きる人生を、「こういう面倒くさいことをしながら生きていく歳になったということだと考えている」と言う。
渋い顔で、近づきがたい。しかし、笑うと邪気がない。弟子との距離の取り方も、まさに都会人そのもの。ベタベタが嫌いなんだろうし、そもそも落語は師匠小さんが言ったように「そいつに成りきればいい」だけのもので、技術を教えるものではない、とも言う。お茶を飲んだりしたあと、目の前のテーブルを布巾で拭くのは「柳家」の伝統そうだ。小さんもそうやっていたが、小三治も知らずにやるようになっていて、人から指摘されて気づくほど自分の癖になっていた、という話も面白い。
吉川潮氏の『戦後落語史』では、小三治の評価はそれほどのものではない。それは、氏が断っているように立川談志フアンだからということもある。みんながみんな褒めるというのは、考えてみれば奇妙なことである。
遅ればせながら、小三治の落語を聴きたし。


2 倫敦から来た男(イメージフォーラム)
タル・ベーラというハンガリーの監督で、「ヴェルクマイスター・ハーモニー」という映画が有名らしい。原作ジョルジュ・シムノンで、メグレ警視シリーズの作家である。
長回しの映像には神経が参る。ティルダ・ウインストンがフランス語を喋り、夫との口論では下唇が内側にまくれて小刻みに震えるような演技をする。犯人を追ってやってくる刑事が高齢で、これがとてもゆっくり喋る英語が夢幻的な気分を誘う。まるでほかで録音して彼の口に合わせて鳴らしたとでも言うような。白黒の映像が美しい。いかにもイメージ・フォーラムでやる映画でした。


3 「悪いやつら」(新文芸座
野村芳太郎監督、清張特集である。開業医のボンボンが次々と女に手を出すが、最後はファッションデザイナーに手玉に取られる、という筋だが、いくら不審死が起きようと警察が動かないし、ファッションデザイナーには悪の素振りもない。鋭利な知性を持つと橋本忍にいわれる野村先生、こんないい加減な映画でいいのでしょうか。
松坂慶子が美しく可憐でもある。片岡孝夫がスマートでよろしい。藤真利子が「オールド・ボーイ」のカン・へジョンに似ている。宮下順子がふっくらとしていて、ぼくが好きだったころとイメージが違う。ほかの女優はベッドシーンでも胸を露わにしないのに彼女だけがそうするのは、いわゆる脱ぎ役を専門に肩代わりしているから。日本の女優は裸にもなれない、と揶揄される昨今だが、その淵源はこういう差別的な構造にあったということ。この種のごまかしは日本映画ではあちこちに散見する(渡哲也の「花と竜」にも、そういう差別がある)。


4 「イースターパレード」(D)
再見である。やはり傑作と呼ぼう。例によって色恋だけの中身だが、いわゆるピグマリオンものは心を動かす(女性には悪いのだが)。踊りのパートナーのためにイースターの買い物をするところから話は始まるが、ウサギのぬいぐるみを子どもの客から取るために楽器を使ったアクロバティックな技を披露するところで、もうこの映画の虜である。それにしても大人げのない奴だなあ。


前にも書いたが、主人公たちが使うレストランのウエイターというかホール主任というかが、やはり抜群に面白い。ニコラス・ケイジを太らせたような役者で、客がスペシャルサラダを求めると、とうとうと先祖から伝わる名品の自慢とその味の成り立ちを説明するところが爆笑ものである。アラビア語だとかフランス語だとか、怪しい言葉を取り混ぜて、身振り手振りおかしくやるのである。テーブルに着く客がいつも何も頼まずに席を立つギャグが2回、そのたびに慇懃な顔で送るのが、これまたおかしい。ジュール・マンシンという喜劇役者で、映画案内などを見ると、これが映画初出演の舞台役者のようだ。もう一人、哲学的な言を吐くバーテンダーも味がある。映画はこういう脇の人物の造型をどこまできっちりやるかで質が決まってくる。


一つ残念なのはアステアとガーランドが相思相愛になり、舞台も好評で迎えられたのに、その当日に昔のパートナーのショーへ出かけるところである。もう一波乱呼び込むための手だが、もうその必要がないくらい二人の関係は近づいている。だから、ここは余計で、何か別の工夫でラストのパレードに持っていくべきだったのではないだろうか。


アステアは当時48歳。「ブルースカイ」で引退を表明して2年。アービン・バーリン作詞・作曲、チャールス・ウォルタース監督、脚本アルバートハケット、フランシス・グッドリッチ、のちにシドニー・シェルダンも加わっている。アステアはジーン・ケリーの代役、パートナーのアン・ミラーはシド・チャリシーの代役、監督ウォルタースはヴィンセント・ミネリの代役、一人最初から決まっていたガーランドは薬でボロボロ。そんな状態でもこれだけできたのだから、ミュージカルの力の底固さを感じる。プロデューサーがMGMミュージカルに一時代を築いたアーサー・フリードである。


5 「フットルース」(D)
1984年のダンスものである。題は「足枷」を意味するらしい。旧弊を固守する田舎町、その支えが狂信的な神父。交通事故で亡くなった息子を遊蕩のせいと考えた神父は、信者に保守的な考えを植え付ける。ところが娘は離反し、逆にチンピラもどきと付き合う。そこへシカゴから、父が離婚でいなくなったレン青年が、母と一緒に叔母のところへやってきて、ひと騒動が起きる。父がいなくなったのは自分のせい、自分は何もできない子どもだ、と落ち込んでいた彼が、あまりの町の保守性に反旗を翻す。そして、人間は喜ぶときも、祝うときも、何するときも常に踊ってきたし、イエス使徒も神の前で踊ってきた、と町の委員会で述べ立て、流れを変え、父と娘、そしてレン青年との和解がある。


映画が大ヒットし、それから舞台に掛けられたという珍しいパターンである。監督ハーバート・ロスは「さよならチップス先生」「ボギー!俺も男だ」「愛と喝采の日々」などを撮っている。主演ケビン・ベーコンが若い。すでにして悪魔的な気配を漂わせている。神父を演じたジョン・リスゴーはこの時点で前額が薄い。有名な曲が何曲もあるらしいが、ぼくには「ヒーロー」ぐらいしか見当がつかない。


歌って踊ってがミュージカルだが、歌い手と踊り手が分離したそもそもの映画って何なんだろう。喜志哲雄先生は、言葉から肉体へ移行してミュージカルはだめになった式のことをお書きでらっしゃる。ぼくは大賛成なのだが、肉体を使った映画も面白いと感じてしまう。


6 「ミレニアム」(シネリーブル池袋)
この映画館はポイントがほかより溜まりやすい気がする。けっこうな観客の数である。サブタイが「ドラゴンタトゥの女」とは興醒めだが、北欧のミステリー映画って興味津々である。原作があり、世界的なベストセラーらしい。映画自体は、もっと面白く撮れるのに勿体ないという出来である。犯人設定があざとい。


スゥエーデンに古い財閥があって、その一族の中に先の大戦ナチスに荷担した人間がいる、という。まさかスゥエーデンにそういう負の歴史があるとは知らず、それが最大の収穫と言っていい。



7 「ファーゴ」(D)
再見である。名作の評価は揺るがないが、以前見たときと比べて小品だな、というイメージである。タイトルロールが白地に青い文字で映し出され、音楽が盛り上がって雪の中をこちらへ車が近づいてくるところから映画が始まる。


ぼくはこの映画をビデオで見た記憶なのだが、今回DVDで見て、いくつか印象が違う場面があった。まずラスト近くの死体の処理場面──血が煙突状のものから噴き出すシーンがあったはずだが、それがない。そして、雪中に隠した大金を探して見つからない、というシークエンスも。駐車場を俯瞰で撮って、そこに車が入ってくるシーンが2箇所あるが、前に見たときは東洋的な絵柄にさえ見えたのが、今回はそれほどの印象がない。


主人公マージを演じるのがフランシス・マクドマンで、監督ジョエル・コーエンの奥さん。彼女が田舎警察署の署長で、夫はそこに勤める部下。その夫のもとへ釣りに使うミミズを持っていくシーンがあるが、紙袋に入ったそれを大写しにし、そのあと二人は平然とハンバーガーにかぶりつく。ここらへんの悪趣味はコーエンならではである。


マージが殺人事件を捜査しているとテレビで知って、大学時代の中国系の友達が電話をかけてくる。レストランで会って話をするが、彼は妻を亡くし、悲嘆にくれる。マージを愛していたとも言う。ところが、あとで女友達にその話をするとまったくウソで、彼は精神的におかしいことが分かる。こういう本筋と深く絡むわけでもないが、ちょっとしたネタを挟むことで、不可思議な人間性を素描し、この映画のテイストが補強される。いい脚本は、こういう遊びを持っている。


8 「マン・オンザ・ムーン」(D)
ジム・キャリーが伝説のパフォーマー、アンディ・カウフマンを演じている。キャリーの映画を好んで見ることはなく、坪内裕三の『文庫福袋』でアンディ・カウフマンの評伝とこの映画についての評があったので、やにわに見たくなった次第。坪内氏いわく、カウフマンは「松本人志ビートたけしを足して4倍したような」芸人らしい。そこからいくと、この映画のジム・キャリーはおとなしすぎるのかもしれない。しかし、実見したかぎりではよく出来ていて、この希代の芸人がいかなる狂気と理性を宿していたかがよく分かる。彼は「サダデーナイト・ライブ」の第1回ゲストであり、デビッド・レターマン・ショーにも呼ばれ、カーネギーホールでショーを行っている。ユーチューブで実像に触れることができるのが嬉しい。


マネージャー役のダニー・デビートは実際のカウフマンを知っていて、この映画では制作も兼ねている。ボブを演じたポール・ジアマッティはさて何の映画で見た俳優だったか。監督はミロシュ・フォアマンで『カッコーの巣の上で』『アマデウス』『ラリーフリント』をぼくは見ている。どれも狂気を孕んだ人物が主人公で、監督はその種の人物に弱いらしい。ぼくらはダスティ・ホフマンで『レニー・ブルース』(1974年、ボブ・フォッシー監督)を見ている世代である。辛辣な世相批判、卑猥語、人種問題に関する発言などで物議を醸した人物で、やはり若くして死んでいる。それと比べると、カウフマンには社会批評の狙いは乏しく、笑いの質を挑戦的に追求した芸人さんというくくりが合っているのではないだろうか。ダウンタウン松本に近いように思う。


9 「トランスアメリカ」(D)
性同一障害のブリーは性器手術の1週間前。そこに息子がクスリと男娼行為で留置所にいることが分かり、キリスト教会のボランティアということで受け出しに。息子の母親、かつての妻は自殺。継父に預けられるが、犯される──それが息子の過去である。


ブリーは元スタンリー、息子を連れて自分の父母のもとへ行くものの、なかなか和解はできないが、最後には了解点に。ブリーの息子は父にインディアンの血が流れていると聞いていたが、実はジューイッシュ。ブリーの母は一人よがりのキリスト教徒で、息子を自分のおもちゃにしないと気がすまないタイプ、一方、父親は下品なユダヤ人。そして、アル中が治った妹。金持ちだが、こちらも負けず劣らず、家庭がガタガタ。


男性から女性への変化を演じたのが女優のフェリシア・カウフマンで、まあややこしい。それにしても、男に見えるから不思議である。女になろうとしている男の属性をよく見抜いて演じている。過剰に可憐であったり、過剰におすましであったり、過剰に落ち着いていたり、なのである。半分女のお父さんに息子が惚れるという設定は、もっとややこしい。息子に女性でなくて男であるとバレるところで、性器を撮す必要はないだろう。立って小用で分かるのだから。それと、地面に座ったときに股を大きく開いて座っても(長いスカートは履いている)、息子が危ぶみもしない、といったシーンがある。あれは演出ミスというより、映画によくあるうっかりである。


途中でズニ族の男がブリーに懸想するシークエンスは、見ていてほんわかしてくる。息子を見てチェロキーの血が流れている、などと言う。このときのボニーがまさに女性に見える可憐さである。何か民族的な懐旧のようなものが、この映画の根っこにあるように思う。それはジェンダーを超えた何かである。ロードムービーという体裁で、その間のやりとりでお互いの心が近づく、という鉄板のような設定である。ヒッピーのような青年を拾い、彼にクルマを盗まれることで、止むえず徒歩旅行に。そこでズニ族のおじさんに出合うのである。


10 「戦争と平和」(シネパトス)
例によって映画館前の飲み屋で時間を潰した。白身魚と野菜の明太子和えは絶品である。映画は山本薩夫特集で、1947年の作。監督の何作目かの作品か知らないが、顔のアップしか無いような、まるでテクニックのない映画である。かえってそれで前衛映画のような雰囲気が出ているのが皮肉である。菅井一郎が戦地から帰って来ると、女房は狂人となった友人の池辺良と夫婦になっていて、戦地に行っているあいだに生まれた自分の子も池辺の子ということになっている。ところが、菅井はふやけた顔で咎めもしない。みんな戦争の犠牲者である、憎いのは支配階級だ、と宣う。時折、うっすらと笑うのが気持ちが悪い。当然キスのシーンなのにしないので、妙な体の姿勢の中途半端さ加減が気になる。それにしても、こうあからさまな反戦映画も珍しいのではないだろうか。タイトルの大きさと中身の小ささが不釣り合いである。この映画と比べると、木下恵介の「大曽根家の朝」が立派に見えてしまう(木下の項で書いたように小林信彦御大は「大曽根」を評価している)。


11 「フローズンリバー」(シネマライズ)
ほぼ半分の入りである。「テルマ&ルイーズ」のような過激な映画を予定していたら、まったく違った。賭け事好きを口やましく言われたためにクリスマス寸前に旦那に逃げられた白人女と、近くの保留地に住むネイティブで、これも旦那に逃げられた女が、カナダからの密入国の手伝いで金儲けをしたり、危ない橋を渡っているうちに気心が通う、という設定である。


どちらの女もトレラーハウスに住んでいて、白人女のほうは家賃の支払いが滞り、ハウス自体を持ち去られてしまう。その金を稼ぎたい、儲かったら新しいトレラーハウスにしたい、というのが彼女の夢である。よく都市の警察ものでも、妻に逃げられた刑事が一人でトレラーハウスに住んでいるという設定があるが、向こうではそういう住まい方をする人びとがいるということなのだろう。中流層以下ということになるのだろうか。刑事の場合は、エキセントリックな性格という設定と絡んでいることかもしれない。


二人の女はもちろん、警官も、白人女の子ども二人も、なかなか好感の持てる人間ばかり。白人女が働く1ドル・ショップの上司だけが非情で、これは対比上必要な設定である。貧乏人の共和国対グローバリズムの手先という対比。
凍った湖を渡って運んでくるのがパキスタン人や中国人。パキスタンの場合、テロをやりやしないかと心配し、彼らのバッグを雪中に捨ててしまうようなことをする。実はそれには赤ん坊が入れてあったことが分かり、救いに戻るが死んでいる。失意のまま引き返そうとするが、赤ん坊がどういうわけか蘇生する。


結局、悪事がばれて、ネイティブがコミッティの審議のうえ警察に差し出されることに。白人は逃げだそうとするが、引っ返し、自分が収監されるから、息子たちをよろしく、と言い置く。


カナダの警官に追いかけられて保留地に逃げると逮捕されない、というのは州境を越えると管轄が違うから犯罪地の警察はそれ以上追ってこないというのと同じである。


12 「ブレードランナー」(D)
2019年11月のお話である。何があってこういう世界が出来上がったのかの説明がない。雨が降り止まないという設定は、空に雲がかかっているということなのか。ハリソンフォードは元ブレードランナーで、臨時再雇用でレプリカント、つまり人間に近いサイボーグで脱出組を追い殺す役目である。妻と別れ、一人住まい、ピアノを弾き、蛇女に探りを入れたときは変な声を出している。妻からは“スシ”と呼ばれていたらしく、冷たい人間だからだそうだ。全編に日本語のささやきが街中に洩れ、強力わかもとの巨大宣伝パネルが光る。自転車の隊列が通り過ぎたり、中華街のような様子など、かなりアジアである。日本脅威論がこの映画の背景にあったものかもしれないが、今や中国が取って替わっているので、チャイニーズバージョンのブレードランナーを撮ってほしい。町行くひとが蛇の目傘を差しているが、その柄の部分がスター・ウォーズライトセーバーに似ている。


目の設計をするおじさんも、何の皮膚かを調べる婆さんも、遺伝子設計のセバスチャンも、みんな街中のしょぼい暮らしをしている。巨大なタイレル社の雇われにしては、どうもおかしい。ピラミッドのようなタイレル社ビルの偉容! その社長とセバスチャンはチェス仲間、お互いに差し手を連絡し合いながらゲームにいそしんでいる。レプリカントはその関係を使い、タイレル社の中枢へと侵入する。なんだかとっても緩いガードだなぁ。
脳に人工の記憶を植え付けることはできるということで、写真が確かなメモリーとして珍重されている。それだって偽造はいくらでもできるわけだが、この映画では写真が重要な意味を持たせられているのは確かである。


ラスト、タイレル社の秘書レイチェル(これもレプリカント)と小型飛行艇に同乗して逃げるわけだが、脱出組のリーダーであるハウザーがハリソンフォードを助けるのと同じく、とても大甘な終わり方である。それが悪いということではないが、違うラストなら何がありえたろうか、と思うのである。ぼくが見たのはディレクターズカット版で、ファイナル版ではないので、確認の必要があるが。


すでに7、8回は見ている映画だが、今回がいちばん身に染みて見ることができた。それはやはり日本が中国にGDPで抜かれることが現実となったことが大きいように思う。この映画の日本への過剰な思い入れが、こそばゆかったのだが、そこで扱われた日本、そしてアジアが単なる風景、過ぎ去った未来図といった一幅の絵に落ち着いたからである。


13 「バンクジョブ」(D)
いい映画である。欧米の先端をいく権力機構(製薬会社、銀行、武器商社など)の横暴を描く映画がいろいろあるが、どれも成功しているとは言い難い。単純にいえば、ごちゃごちゃ複雑に撮りすぎて、権力の怖さが伝わってこないのである。クライブ・オーエン主演のこの映画は、ストーリーを分かりやすくしたぶん、なりふり構わぬグローバルバンクのやりくちが鮮明に伝わってくる。女優はナオミ・ワッツで「イースタンプロミス」で久しぶりに彼女を見て、これで復活すると思った次第。「マルホラン・ドライブ」で彼女を見て、脱ぎっぷりのいい女優だなあと思ったものである。そのあとが「キングコング」だとか出る映画、出る映画ぱっとしないものばかり。ここに来て中年女の味が出てきたように思う。ダイアン・レインと同じく、歳がいってから役が付くのは結構なことである。


巨大銀行は紛争国に武器を売りつけるが、それで儲ける気はなく、覇権を取ったグループからの見返りが報酬である。その悪をインターポリスと米国税局が追うという設定である。巨大銀行は自らに敵対するものは、ことごとく始末する。武器の調達を拒否したイタリアの武器商人を殺し、別のに乗り換える。その商人はイスラエルが最大顧客でミサイルの防御システムを売っている。巨大銀行はイスラエルに敵対するシリア、イランにミサイルを売ろうとしているのだが、いわば敵から無用の長物を調達して売りつけようとしているわけである。先に父親を殺されたイタリアの武器商人が巨大銀行頭取を暗殺し、事件は収束するが、銀行はすぐに後継者を立て、黒字を達成する。なんら世界の構造に変化はない…。あまりにも露骨に敵対者を殺す銀行ってあり? というのがこの映画の最大の欠点だが、まあお話として了としよう。


頭取が息子とボードゲームのようなものをやっているシーンがあるが、カメラが近づくと囲碁をやっているのである。これは宇宙が反映されたゲームだ、みたいなことを親が子に言う。囲碁が神秘的なものとして受け入れられているのが、これでよく分かる。


14 「湖のほとりで」(D)
イタリア映画で、単館から大きく広がった映画だそうである。アンドレア・モライヨーリという監督、主演がトニ・セルビィッロという男優。イタリアで人気の人らしい。


殺人事件が起きる。裸体の死体が湖のほとりで見つかり、首の曲げ方が不自然なのは、犯人が立ち去る背中を見られたくなかったからだ、と刑事は推測する。被害者はアンナ、もとアスリートで、どういうわけか突然、クラブを辞めていた。彼女は脳に病気が見つかり、死を前に人生を整理していた節がある。恋人がいたが、彼女は処女。その理由は映画では問い詰められない。
姉とは腹違いで、父親はアンナを溺愛し、ビデオで彼女の肢体を執拗に追っていたことが分かる。

刑事は娘と一人暮らし、妻は認知症が進行し、彼を認識できない。刑事と娘の関係が、つねにアンナと父の関係と平行して進むように作られている。それと妻の病気とアンナの病気にも関連の糸が引かれていて、静かな映画なのに意外と複雑な内容を盛り込まれているように見せる。さらに、アンナが面倒をみた障害者の少年アンジェロもまた脳の病気で、一日中叫びを止めない。その父親はアンナと付き合ったことがある、と刑事に言う。しかし、性的関係がないことは明白である。アンナという女性が歯車の中心にいて、その写し絵のようにほかの登場人物が配置されている、といった印象の映画である。
最後は、ああそうなのか、そのための繰り返し映像だったのか、と得心がいく締め方をしている。


15 「神坂四郎の犯罪」(新文芸座
森繁特集である。芥川「藪の中」の現代版で、森繁が複数の女をだましたり、会社の金をくすねたり、はてはダイヤモンド欲しさに女と心中をはかって自分だけ助かり、それで罪に問われて、法廷の場面がほぼ全編を覆う。裁判の進行に合わせて、過去の映像が挟まれ、最後に森繁が抗弁して終わりである。「みんな自分に都合のことを言い、真実はどこにもない」などと弁じ立てる


完全に相手によって自分を演じ分けることのできる人物なら、それぞれの人物評がまったく違うということもありえようが、現実には無理としたものである。AがAダッシュになりえても、BやCやDにはなりえない。恩師(滝沢修)、妻(新玉三千代)、会社の部下(高田敏江)、支援した歌手(轟夕起子)、恩師が捨てた若い妾(左幸子)、どの人物も神坂四郎を別様に語る──そのことに無理があるので、どうも作り物という印象がついて回り、映画を楽しむというわけにいかなかった。久松清児監督である。


売れずに困っているときに森繁が助けたのが歌手の轟夕起子、二人が熱海の旅館で落ち合うシーンがいい。森繁が金の無心をするのだが、轟も肩の力が抜けていて、旧知の二人がその濃い付き合いのままじゃれ合っているような、面白い掛け合いになっている。ここはもしかしたらだいぶアドリブが入っているのではないだろうか。この映画、このシーンを見るだけでも十分である。


16 「猫と庄造と二人のをんな」(新文芸座)
谷崎潤一郎の原作、だいぶ前に読んだが内容を忘れていた。55年に「夫婦善哉」を撮り、翌年にこの映画を撮っている。しょうむない長男という役どころは一緒だが、こっちは貧乏な母子家庭、浜近くで荒物を商っている。よく働く女中のような嫁山田五十鈴を追い出し、母の兄のはすっぱ娘香川京子を次の嫁にたっぷりの持参金付きで迎える。山田がおいどが立派になり、体格もどっしり。香川は肌も露わな役で、むっちりした体格、はちきれんばかりの若さである。砂浜で森繁が愛おしそうに香川の太ももを撫でるが、谷崎先生は足フェチ、しかも足裏で踏みつけられ願望である。


出て行った先妻は自分に子もなかったので素直に妹の家に転がり込んだが、次の女がすぐにやってきたと知り、復讐、いや元の家に帰るための画策を始める。夫庄造がまさに猫可愛がりしている猫リリーを自分の部屋に置けば、黙っていても夫が寄ってくる、と思案し、まんまと成功する。玄関先で先妻と現妻が取っ組み合いの喧嘩をするのを放っておいて、庄造はいなくなった猫を捜しに行く。


息子をだしに金の工面を考える浪速千栄子の演技がすばらしい。彼女の何か言ったあとにぼそぼそと付け加えるしゃべり方こそ、森繁が学んだものではないか。金の勘定をしているところへ息子が来て、あわてて座布団の下にお金をしまい込み、天理教の念仏を唱えながら、息子の愚痴や頼み事をいなすシーンは絶品。息子は立ち上がり、「おかあちゃん、お金、見えてるで」と言い残す。浪速も何かごちゃごちゃ言う。この間合いもいい。


猫のリリーが狂言回しだが、それは一家の主人が愛しているからである。おんなたちは自分が一番ではないことが苛立たしいのである。不甲斐ない、財産も甲斐性もない男が、長男というだけで上部に祭られる昔だからありえた話である。しかし、この宿六のような男が実は猫以上に猫で、けっして女に完全に入れ揚げることはない。自分の機嫌のいいときだけ猫撫で声を出すが、そうじゃないときは寄りつきもしない。それが女を不安にし、愛情を募らせもするのである。先妻は、自分を追い出した義母は憎いが、夫は憎くないと言う。まさに庄造はそういう男なのである。だからタイトルは「庄造(猫)と二人のをんな」が正しいのである。監督、名匠豊田四郎。取り立てて大きな流れなどない、ささいないざこざの繰り返しを追うような映画を、よくぞここまでいじっくり破綻なく、ユーモアをまじえて撮り切るものである。名匠の名をやはり奉りたくなる。ちなみに監督、ホモだそうで、二人の女をいたぶって、さぞや快感だったのではないだろうか。


山田の転居先が妹夫妻の下宿で、妹の夫を山茶花究が演じている。哲学好きの勤め人だが、“実存”がどうしたと言うのが口癖である。空き部屋を求めて下見にやってきた男も哲学好きで、やはり“実存”を言う。山茶花は舞台では名を成していたコメディアンだったが、映画では森繁の推挙で「夫婦善哉」に抜擢され、あとは大活躍。山茶花ファンとしては慶賀に堪えない。


17 「女、生きてます」(新文芸座)
森崎東監督で71年の作、森繁に左幸子が新宿芸能社というお座敷ストリップの会社社長夫婦。そこにいろいろな事情の女がうごめいて劇が展開する。
冒頭から、森繁の演技が違うのである。相手を選ばず、普遍的な演技をする印象の森繁が、実にこまやかな反応をするのである。この森繁は生きている、とぼくなどは思う。女たちに囲まれて、何の構えも要らない、ということなのか。安田道代、久里千春吉田日出子、佐々木梨里、久万里由香が森繁を囲む。安田は孤児院育ちで、そこで“お兄ちゃん”と読んでいた橋本功が出所してきたのを縁に夫婦に。この男、嫉妬のかたまりで、女房の商売をことごとくぶち壊す。アホの悲しさが伝わってくる。


話自体はたわいのないもので、わやわや言っているうちに終わってしまう。しかし、その雑然とした、まとまりのなさが迫力として伝わってくる、という映画である。短大出で社会問題にうるさい吉田日出子が、子持ちの独り身藤岡琢也と契りを結ぶ一場は、笑える。


ぼくは森繁を同時代で面白いと思った世代ではない。見ているのはせいぜい10本内外の映画の本数だろう。何を見ても、心から面白いと言い得なかったが、この映画で間尺がぴたっと合った気がする。それは、森繁が受けの演技に徹しているからである。この人はそもそもがそういうタイプなのだが、この映画ではそれが非常にうまくいっている。森崎が森繁を見抜いた結果なのだろうが、三木のり平や伴淳といった芸達者と常に競わざるをえない環境とはまったく違ったことで、彼のいちばんやりやすい演技が現れたということではないだろうか。


18 「アメリカン・グラフティ」(D)
73年の作で、扱っているのは50年代であろう。アメリカの片田舎の話なのに、若者はみなクルマを乗り回し、ハンバーガーショップにたむろし、ダンスに興じる。ところが、このアメリカの風景も、71年作の「ラストショー」になるとすでに過去のものとなり、荒廃した町の風景が映し出される。60年代にはすでにベトナム介入を始めるなど、黄金のアメリカにも影が差し込んでいたわけで、ルーカスはそういう現実を見ながら、過去へと視線を戻したのだ。


ジョージ・ルーカス監督、コッポラ制作である。ルーカス2作目の作品で、映画会社に売り込むも敵わず、有名な俳優かプロデューサーを掴まえろ、と言われ、「ゴッドファーザー」で当てていたコッポラに申し出て快諾。有名な俳優が一人も出ていない、話が地味、複数の筋が同時進行する、全編にロックロールが絶え間なく流れる、グラフティという言葉が通じない、などが映画会社の御意に適わなかったようである(おまけ映像による)。ルーカスはこの映画を「前衛映画」と読んでいる。しかし、過去へのノスタルジーを語った映画が前衛なわけがない。映画作法が新しく、テーマは古典、これがやはり売れる条件であろう。ルーカスは「スターウォーズ」もヒットするとは思わなかったと述べているが、前記条件をこの映画も備えていたわけである(ルーカスは「一人の旅立ち」が自分のテーマだと述べている)。


ウイキペディアによると、ルーカスはコッポラが自作映画に何かれと介入するのを防ぐために、秘蔵の作品「地獄の黙示録」のアイデアを渡したという。あの作品を温めていたルーカスとは何者なのか。そっちのほうが俄然、興味が沸く。


この映画は、カートとスティーブの2人の青年が東部の大学へ旅立つ前日の話を扱っている。リチャード・フォレイファスが演じるカートはまだ踏ん切りがつかない。ロン・ハワード演じるスティーブはカートの妹と付き合っているのだが、もう離ればなれになるのだから、お互いに自由に相手を選んでデートをするようにしよう、と提案し、彼女の怒りを買い、結局は翻心する。ロン・ハワードはテレビで活躍し、もう10代の終わりでピークを過ぎていたような印象があったらしい(のちに監督として大成する)。カートは一夜のさまざまな経験で急速に“大人”の世界へのイニシエーションを果たし、ごく自然な感じで翌朝、東部へと旅立っていく。


カートのイニシエーションとは何か。豪華なシルバーのクルマをゆったりと乗り回す幻の女を見かけたこと(人はプロの女だという)。その女からのアクセスをウルフマン・ジャックに頼み、叶えられたこと。ポリのクルマにいたずらしたり、ゲーム屋でコインをかっぱらったりで、町のチンピラ集団に加盟できる条件を得たこと。一度、別れた彼女と自然な感じでキスをしたこと。ケネディを尊敬し、政治家になるのが夢と語っていた前途有望な青年の経験するものとしては、マイナスの符号が付きそうななものばかり。彼はやっとこれでし残したものはなくなったのだ、少なくとも自分の田舎町では。かわりにスティーブは恋人との未練が残り、それはそのまま自分のローカルへの帰順を肯ったということである。


ほかに2人、走り屋のミルナ、もてないテリーがダチ公である。ミルナはハリソン・フォードと張り合い、フォードが負ける。フォードは俳優業で浮かばれず、2人の子を抱え大工の仕事をしていたのだが、ルーカスに誘われて、この映画に出たらしい。夜の撮影が朝まで続き、それをほぼひと月かけて撮ったらしい。照明が足りず、町のショーウインドーを点けてもらったり、クルマのフロントランプの明かりを使ったり、街路灯の明度をぐっと上げたり、さまざまな工夫をして夜の町を撮ったらしい。アドリブを重視し、いい表情、絵が撮れればテークワンでもOKだし、それが撮れなければ自然な表情が撮れるまで何度も撮り直すのだという。そのたびに「いい絵が撮れた」と言いながら。


ラストに彼ら4人の未来が語られる。カートは作家に、スティーブは生命保険外交員、テリーはベトナムで行方不明、ミルナは自動車事故に巻き込まれ死亡。なんだか後味の悪い割り振りの仕方だが、これがルーカスの卑俗なところ、大衆受けする理由だろう。


19 「俺たちに明日はない」(D)
もう10回は見ている映画である。いくつか気づくことがあったので、それについて触れたい。銀行強盗のクライドは不能という設定である。なのに相棒のボニーは官能的な女である。冒頭から裸で、クライドが自分の家のクルマを盗もうとしているのを2階の自室から見ているわけだが、声をかけられてクライドが見上げると、磨りガラスの向こうに裸体がある、という設定である。クライドの目線もやや下に向かう。
二人で町へコーラを飲みに行くが、ボニーはクライドの素性を知ってもビクともしない。クライドは彼女に「女優か」と訊き、女はまさかと笑う。「じゃ工員か」と言うと、女は怒った顔になる。そこで「ウエイトレスか」と的が当たると、女は神妙な顔で返事をしない。このあたりのやりとりは「カーディナル・ノレッジ」でニコルソンがアン・マーガレットに年を訊くシーンで生かされている。
クライドが素性を明かすのに拳銃を見せられると、ボニーは変な手つきでそれを触り、実際に使えるのかと挑発する。最初の強盗に興奮し、逃げるクルマのなかでボニーが盛んに絡み出す。たまらずクライドがクルマを止め、俺は女が苦手だ、と言う。ボニーはさっさと立ち去ろうとするが、クライドは熱を込めて「お前はまた田舎でくすぶるのか。そんなしけたタマじゃない」と煽り、二人はギャング道を突っ走る。


途中で仲間に入れたモスの不手際で銀行員を一人殺すことになり、クライドはボニーに逃げろ、ここで別れようと安ホテルで切り出す。ボニーは嫌だと言い、クライドは慰めようとして何か下半身の変化を感じる。その顔がアップで写される。顔のアップはほかに2カ所あって、モスがブランチ(クライドの兄の嫁)と買い物に行った際に、保安官が腰の拳銃に気がつく。その顔がアップ。3つめは有名なラスト、警官に囲まれたことに気づく二人の顔がアップ、アップで撮られ、それから乱射が始まる。
性的な兆しのあったクライドはしかし実行ができない。ボニーは顔を胸から下へ移動させるが、それでもクライドは乗らない。明らかにフェラチオに移るところを撮ったものである。


兄も死に、義姉もつかまり、二人も撃たれモスの実家に居候をすることに。ボニーがまた二人のストーリーを詩にする。それがいたく気に入り、クライドはまたその気に。ところが、シーンは町中でモスの父親が、執念深く二人を追うテキサスレンジャーと何やらひそひそ話をしているところへ行く。話が終わって父親が店から出たあとで、こっちに顔を向けて横たわるボニーへと絵が移り、クライドの明るい声がかぶさる。彼の顔は晴れやかで、はだけたワイシャツのボタンを直すところである。ボニーに「どうだった」と訊き、女として味わう最初の喜びだったかと尋ねる。ボニーは完璧だったと答え、クライドは大喜び。


その夜のベッド、ボニーは夢を語る。別の場所に住んで、もし警察がまったく追って来なかったら何をしたい? とクライドに訊く。しばらく答えが出ず、あげくに言うのが「定住し、たまに外でまた仕事(つまり強盗)をやろう」である。それを聞いたときのボニーの顔が次第に諦めが広がり、言い得ぬやさしさも感じられる体のもので、絶品であろう。


始めは大恐慌の時代背景が映画の支えになっている点が目に付いたが、今回は性的なレベルでこの映画が同時代に与えたインパクトが大きかったのではないか、と思った次第である。フェイ・ダナウェイは1作目でグラマー女優として打ち出し失敗、この2作目でもその匂いは濃厚に残っているが、演技派へと転換。とくに、自分の母親に会いに行くシーン。紗のかかった粗い画面で、まるでハンドカメラで撮ったような味わい。ほとんどセリフがない。唯一、クライドがウソをついてでも彼女の母親を安心させようとして「不況が終わったら二人で住む」とかなだめるが、そのときのダナウェイの千変万化する表情がすごい。
このシーンに移る前に、ボニーが母親に会えないなら仲間から抜けると言い出す。麦の枯れた畑で二人が抱き合うと、さーっと雲が流れる。その雲の流れを受けて、次のシーンも雲が流れ、母親との再会の場面へと転換する。


先に不自然なアップシーンについて触れたが、ビスコンティの「地獄に堕ちた勇者ども」でも頻繁に繰り返されるアップ映像に、へえ巨匠がこんなドキュメントなことをと思ったことがあるが、何か今とアップシーンのとらえ方の違いがあるのかもしれない。どうにもいまの視点でいえば奇妙なのである。


兄を演じたジーン・ハックマンは遊び人のはずなのに牧師の娘のブランチと一緒になっている奇妙さ。ここにバーロウ家の奇っ怪な血が現れているような気がする。それと、悪に勤しむことに何のためらいもない血。「ショット・イン・ザ・ハート」というノンフィションには、そういう血の家族が描かれているが、原因としては父親の過度の虐待がある。それがバーロウ家にもあるのかどうかは、この映画では一切触れていない。そういうアウトローな人間たちの中に入ったブランチが、言ってみればこの映画の哀れさの極みかもしれない。何も荷担しないのに分け前をねだったり、警官に囲まれると簡単に裏切ったり、彼女を通してふつうの人間の悪もきっちり描かれるわけだが、強盗集団にあっては彼女の方が異常なのである。


誰だったかハリウッドの監督がスコセッシの「タクシードライバー」を指して、初めてアメリカの生の感じを芸術的に撮る方法を学んだ、と言っているが、このアーサー・ペンの映画もそういう賞賛を得ることのできる映画ではないか、という気がする。ギャング物でありながらスタイリッシュで芸術的、しかもエロティックで社会性もある。それらが過不足無く盛り込まれた映画である。



20 「トランスポーター3」(D)
1作目のスタイリッシュな感じが2作目で落ちて、3作目はどうなるかと思っていたが、満腹である。話が大きく、美女ともできて、スタイリッシュな会話もあって、ほとんど007である。もともとそれが狙いだったのか、と得心した次第。できれば10作までいってほしい。それにしてもベッソン、奇妙な女優を見つけたものである。ナタリー・ルダコワ、旧ソ連出身。ほとんど蛇である。肉体は「ソードフィッシュ」のハル・ベリーである。
ベッソンは「タクシー」以来、自動車物で当てているが、「やまかし」の世界が「アルティメット」に生かされているようである。いかに最新の機械が登場しようと、肉体の凄さを忘れないのがベッソンである(建物から建物へ飛び移ったり、壁を垂直に登ったり、これをパルクールと言うらしく、日本にもやる人がいるらしい。運動能力を競う「SASUKE」に出ている)。
宮崎哲弥氏はステイサムの「アドレナリン」を評価するが、ぼくは買わない。話が単線で、設定があざといからである。あと映像が騒がしいのが堪えられない。それに比べてこっちのステイサムは人間臭いし、死が常に隣り合わせという設定は似ているが、どこか余裕がある。友達の老刑事がどんどんいい味を出しているのも結構なことである。ラストで二人がのんびり釣りをしている後ろから女が身を起こすところなど、やはり狙いは007である。



21 「アルティメット2」(D)
この映画もそうだが、こういうのをDVDで見ているようではダメだと思う。わくわくしながら、大きなスクリーンで楽しむようでなければ。
だが、出来はあまりよくない。ぼくは「ヤマカシ」の二番煎じにしか見えない。それも、「マッドマックス」も真似てみましたという感じである。
それにしてもプロデューサー・ベッソンは、なぜこうも自己模倣を繰り返すのか。経営のため? 「レオン」を撮った監督が悲しいじゃないか。


22 「素晴らしき日曜日」(D)
言わずと知れた黒澤映画、46年の作である。ぼくはこの手のタイトルが付いていると、もう見る気がしない。彼の傑作といわれる「生きる」だって見ていないのだから。
生誕100年ということもあって、雑誌あたりで黒澤特集が組まれるようになってきている。その一つで彼の周囲への気配りのこまやかさに触れたものがあって、ああやっぱりそういうひとだったのか、と思ったのが、この映画を見るきっかけである。ヒューマンが彼の骨絡みということであれば、映画の見方も変わってくるかもしれない──というわけである。


そして、やはり大変な収穫である。面白いのである。二人あわせて35円しかない恋人同士が、日がな1日をどう過ごすかというだけの話だが、男は希望を失い、女はけなげに男を奮い立たせる。その繰り返しで1日が更けていくあいだに、世相を巧妙に挟み込んである、という設定である。


最初、駅に電車が滑り込んでくる。止まって、太った女がドアのガラスに引っ付いているのが見える。なだれのようにひとが出てきて、我先にと階段に向かう。そこにもちらっとその女が映るが、まさかその女がこの映画の主人公の一人とは予想もできない。太りすぎだからである。


外で人待ち顔の男。誰が捨てたか足許の吸いさしのタバコを拾って口にしようとしたときに、止める女がさっきの女である。二人で35円でどこにも行けない、第一、女に奢ってもらうのは沽券にかかわる、と男が言うのを、女は説得してまず住宅展示場へ。この設定が皮肉である。女は大家族で暮らし、男は友人と狭い一間に暮らしているからである。展示場は新宿一丁目で、物件は和風A型で15坪10万円。とうてい手が出る額じゃない。縁側に座った男は、女の靴に穴が明き、爪先も割れているのに気がつく。男は腐り、ひとが見ていないことをいいことに、女にキスをしようとするが、女は肯んじない。キャバレー勤め風の女と金持ちパトロンのような男(藤原釜足)が入ってきて、さっきの貸間はひどかった式のことを言うのを聞いて、二人はその場所を聞き出し、走ってアパートへ向かう。管理人らしき男が七輪で鍋を沸かしながら、あそこは1日陽が差さない、などと悪条件ばかり言う。自分は部屋代が払えないので風呂場に移され、ここで管理人もさせられている、と嘆く。そこにアパートの経営者が顔を覗かせると、急に事務口調になって、ひと月いくら、保証人3人、などとやり出す。いなくなると、また愚痴が始まる。また大家が出てくる、といったひとしきりのギャグのあと、二人は空き地らしきところで地面に計算を書いて、溜め息をつく。とうてい家賃は払えないし、権利金も払えない、と。そこへ野球のボールが飛んで来て、男は急にバットを振らせてくれと子どもたちに頼む。意外な大当たりで、球は団子屋へ。2つダメにしたので1つおまけに付けて買わされて、1つは泣いている子に上げて、あとは二人で放置されている土管のなかで食べる。男が名刺を取り出して、キャバレーを開いている軍隊の同僚がいると言うと、女は覗いて見たい、と言う。そこで出かけるが、汚い身なりに店のマネジャーたちは男を社長である友人に取り次がず、階下の厨房脇の変な部屋へ通す。そこには先約がいて、ビールを飲んでいる。これが渡辺篤で、目線がどこにあるのか分からない演技だが、たかり屋の先輩の感じは十分に出ている。男にもビールが出るが、そこはたかり屋を飲ませて食わせて帰す部屋らしい。男はマネジャーが渡した金を先約の男に残し、店を出る。玄関に看板が立っていて、バレンタインデーパーティーと書いてある。外で待っている女には、友達はいなかったと告げる。いよいよ行き場がなくなって、ふと目にしたのが動物園のマーク。あれだ、というので駆け足で行くと、檻のなかの動物のほうが立派な家に住んでいる、高そうな毛皮を着ている、とこのあたりの皮肉なユーモアはスケッチ風な運びで面白い。


動物にもバカさにされた気分の男。もう帰る、うちに来ないか、と誘うが、女は嫌だと言う。男の魂胆が見えるからである。それで、音楽会へ行こう、と言い出す。初めての二人のランデブー(と中で言っている)も音楽会で、未完成交響楽を聞いた、と言う。男は、帝響だって寄せ集めで本物ではない、と乗り気でないが、女が励まし、気分が回復して電車で現地へ。雨が降り出していて、二人は会場へ走る。その移動撮影は、溌剌としている。会場に着くと、すでにひとが列を作っている。二人の前にちょっと違った雰囲気の男がいるが、案の定、ダフ屋で安い方のチケットをまとめて買ったせいで、彼らはお金が足りず聞くことができない。男は怒り、ダフ屋を殴るが、仲間が来てこてんぱんに。とうとう男の挫折感は深まり、一人で家に帰る、と言う。女は仕方なく付いていくが、部屋に戻っても男の気分は戻らない。とうとう男は行動に出るが、女は拒絶して外へ。男は部屋のなかをかなり長い間、うろうろし、やっと女が布のバッグを忘れていったことに気づく。そして、そのなかに可愛い小熊の人形を発見し、女の愛らしい気持ちに気づく。そこへ女がびしょ濡れで戻ってきて、後ろ向きで少しずつ脱いでいくようなことをする。しかし、コートを脱ごうとしたところで泣き出し、男も「いいんだ、いいんだ」と慰める。気持ちの戻った男は、また町へ行こうと言い出す。今度はコーヒー店。二人並んで幸せそう。男が「なぜ黙っているんだ」と言うと、「私、幸せだと黙るの」と女。いざ勘定というときに、コーヒーではなくコーヒーミルクにされ10円多くなっていたことに気づく。男はコートを預けて、明日、取りに来る、と言い置く。
そして、空き地。すでに雨は止んでいて、戦争で破壊された様子の場所(これが溝口の「夜の女」の折檻シーンのセットと似ているのである。妙な立像があって、遠くに町の灯が少しだけ見える。はっきり書き割りと分かるんだから、完璧主義者の黒澤も始めは違ったということだ)で、二人の夢であった大衆喫茶「ヒヤシンス」のことを男を言い出す。女が客になって、演じあう。「ただしミルクは無料」と息もぴったり。周りに見物人が集まってきたのが分かり、逃げ出すことに。今度、たどり着いたのが野外音楽堂、男は未完成交響曲を聴かせる、と言い出す。指揮棒を上げるたびに、風が吹いて落ち葉が舞い、曲が始められない。そこで女が演説を始める、みなさん若者に拍手を、未来を、と。真っ正面から光を当てて、まさに“演説”として撮る演出は旧時代のものなので、我慢するしかない。二度挫けた男がまた盛り返し、指揮棒を振ろうとすると、すでに音合わせをする様子が聞こえてくる。そして、彼のタクト、実は女の編み棒が振り下ろされると、未完成交響楽が鳴り響く。音に合わせて枯れ葉が舞う様子は、古典的なアイデアなのか。女は感極まって男とキスを。そして、最後は駅のホーム、また来週の日曜日と言って、女が乗り込む。男は足元にタバコの吸い殻を見つけるが、今度は拾おうとしないで、ジ・エンドである。


こうつらつらと書いてきても、実に脚本がよく出来ている。男には二つの苛立ちがあって、1つは自分の惨めさへの、1つは女が肉体的に受け入れないことへの。後者が変則的なかたちで満たされたことで、彼は自らの惨めさへも叛旗を翻す勇気が出たのである。そこに至るまでの細工が、いろいろと効いている。それにしても、出征前から恋仲だった二人が、ずっと性的な交わりがなかったという設定は、そもそもありなのか。黒澤のピュアな精神性を思わずにいられない(彼の家族は、彼を大きな子どもとして見ていた)。それにしても、主演の沼沢勲という役者、長身で、顔の感じも黒澤に似ている。
その恋人をやった中根千枝子は脇役のイメージだが、まあほんとにころころに太っていたものである。野性的な、筋肉質の女性が好きそうな黒澤にしては珍しいのではないか。


23 「シャーロック・ホームズ」(T)
これは無茶苦茶面白い。ホームズが格闘好きという設定は抜群、それも理論的に相手の弱点を見抜いてから、それを即座にイメージ通りに実行し、相手を倒すのだからすごい。彼には二度も騙されながら、今でも愛している女悪党がいる。ワトソンは婚約間際で、こちらは夫と死別したばかりの女。それぞれにモテ男という設定も、目新しい。


ロンドン、産業革命を成し遂げた大英帝国の首都で、黒魔術の帝王が死して復活する。近代の権化であるホームズは、その謎を解かずにおかない。全編、サスペンスに満ちて、スリリング。次回作の悪党もすでに登場していて、このシリーズは大傑作シリーズになるに違いない。


ロバート・ダウニーJrは「アイアンマン」で初見だったが、色気のある役者である。こちらも2がやってくる。非常に楽しみである。ジュード・ロウが額の生え際が後退したような印象があるのは、見間違いだろうか。小柄な役者のイメージだったが、Jrのほうが背が低いのが意外だった。途中で、これは建設中のロンドンブリッジが最後の場面になるぞ、と読んだが、まさに的中。気分はホームズである。



24 「渇き」(T)
パク・チャヌク監督だが、本当に血が好きな監督だ。ついにバンパイアである。主役ソン・ガンホが痩せて、引き締まり、セックスシーンを演じるから驚きである。女優がかわいい。でも、どうでもいい映画だね。ガンホが太い木の笛で吹く曲は何だろう。「オールドボーイ」で「シャコンヌ」や「四季」をアレンジしたチャヌクである。サントラを買うかどうか思案中。



25 「NINE」(T)
ロブ・マーシャル監督にソフィア・ローレンニコール・キッドマン、ペネロペ・クロスなどの女優陣が参加してミュージカルである。主演はダニエル・デイ・ルイスで、「ゼア・ウイル・ビー・ブラッド」「ギャング・オブ・ニューヨーク」などを見ているぼくとしては、そのダンディぶりにいささか驚いた。タイトルはきっとフェリーニの「8 1/2」から取っていると思われる。


前作2作がコケて、新しい脚本が書けず苦悩する映画監督の話だが、テーマがありきたり(ボブ・フォッシーの『オール・ザッツ・ジャズ』を思い出す)で、しかもバックステージ物なのが気にくわない。もう内輪ミュージカルは要らないのではないか。かの名作『キャバレー』を撮った監督なんだから、もっと社会性を入れて、頑張ってほしい。


曲はどれも魅力的で、とくにケイト・ハドソンの歌う「シネマ・イタリアーノ」は心に響く。あとキッドマンの歌もいい。ファギーが「ビー・イタリアン」を歌うときに、砂を小道具に使う演出があるが、それが美しい。


26 「ゴールドフィンガー」(D)
まず冒頭に短い一編があって、次に本編が始まる、という豪華なスタイルを確立した映画である。その最初に、アクション、エロス、ダンディ、豪華、など007に欠かせない要素が煮詰めた状態で出てくる。


アメリカの金塊が集めるフォートノックスを核汚染し、自分の集めた金塊の値を上げようというのが「グランドスラム」計画である。この命名はテニスのそれから来ているのかどうか。けっこうふざけたネーミングをしていてボンドの上司Mの秘書がマネーペニーで、ゴールドフィンガーの手下で女性飛行隊のボスがプッシー・ガロアという危ない名前である。


ゴールドフィンガーがマフィア連を集めて、グランドスラム無計画を説明するくだりは、何度見ても快感である。中学生でこの映画を見て以来、もう10回は見ているかもしれないが、このシーンには毎回やられる。たかが襲撃計画を語るのに、壁いっぱいの写真や、床全面の模型など、いかにもやり過ぎなのだが、ぼくはこのやり過ぎに参ってしまう。「ドクターNO」のセットを作った男がキューブリックに見初められ、「博士の異常な愛情」に招かれたそうである。その男がこの映画のセットもやっている。


どうも残念なのは、実際の襲撃場面がチンケなことである。上空からガスを撒き、兵隊を殺してしまう、という設定がゆるいのである。絵的に面白くない。もしリメイクするときは、ここを直してほしいと思う。


プッシーちゃんはレズという設定だが、ボンドの手ほどきでノーマルなほうもいけるようになり、彼女の通報で兵隊たちは本当はガスにやられていないという設定である。なんだかなぁ、である。


ゴールドフィンガーの手先や兵隊は、すべて中国人という設定である。ほかのボンド映画でもそういう設定があるかと思うが、ではなぜ中国人なのか。全体主義的な怖さをもった人間たちだから、唯々諾々と悪事に走るのは当然ということなのだろうか。アメリカ人にとって中国はつねに自らの願望や絶望を投射するミラーイメージである、と言う評論家がいるが、この映画の時点での中国はけっして肯定的な要素が加わっていない。ボンド映画を見るときに、“悪”のイメージがどう変遷したかというのは刺激的な題材のように思う。それと美女の系譜を探るのも面白い。ハル・ベリーが出たときには、とうとう黒人のボンドガールかと思ったものである。


27 「ハートロッカー」(T)
キャスリン・ビグロー監督で、彼女はだいぶ前に1本撮ったきりのようである。小林御大は文春で、キレのいい映画だったので今回も見た、とお書きでらっしゃった。

Heart Lockerだが、ぼくはRockerかとも思って見ていた。「魂を閉ざす人」か「魂を揺さぶる人」かでは180度違う? と思いきや、この映画を見る限りどっちでもあり、である。兵隊の俗語で「棺桶」らしいが。


小林先生は、これは“小隊もの”であると言う。小隊は本隊から離れることで不安定になり、個々の決断、判断の重さが増してくる。よって映画的な題材としてグッドである。しかも、戦場はどこから弾が飛んでくるか分からないし、突然、大きな音が出せるから、観客を飽きさせない、あるいは脅かすには材料に事欠かない。「チェ」が凄かったのは、兵士が突然、死ぬことである。ちょっとでも油断すると、死が待っている。戦争映画はほとんど見ないが、戦争を扱いながら、兵士って偶然のように死んでいくんだなぁ、という実感を、「チェ」を見るまで持ったことがなかった。映画はきっと戦場のリアルに近づいているのだと思う。


戦場のリアルで行くと、そこには悪も善もない。やるか、やられるか、それだけに終始した映画である。いちおうこのアメリカ軍は不正は働いていないようだが、敵は民衆の胴体に爆弾を巻き、それを鉄で固定させて、敵軍、つまりアメリカ軍に救いを求めさせて、結局自縛テロとしたり、少年の腹を裂いて爆弾を仕込んだり、やりたいことをやっている。学校の廃虚で少年の赤むけの遺体を見つけるが、それがなぜ放置されているのかよく分からない。


主人公はヒロイックでもマッドでもなく、まして自殺願望でもない。なのに爆弾処理の危険な作業に身を乗り出していくような人物である。この人物像は新しいが、しかし戦場から戻り、赤ん坊をあやしながら、大人になると子どものときに好きだったものはすべて忘れる、自分には1つしかそういうものは残っていない、と言った次の場面がまた戦場である。彼はまた戦地に志願して戻ったのである。としたら、やはり狂気の人間としか思えないのだが。彼の仕事は、自軍のためでもあり、そこに住む人びとのためでもあると考えると、それほど崇高な仕事は少なくとも母国にはない、ということで、まったく狂気とは別物ということなのだろうか。


小林老は、帰還し、スーパーでふんだんにあるシリアルのコーナーで主人公が呆然とするシーンを、映画史上(あるいは戦争映画史上だったか忘れたが)
記念すべきシーンであるとしたためておいでである。そうかなぁ。現地人の強制自縛事件のあと、帰りの車中で軍曹が「戦場には死か生しかないのに、みんな知らないふりをしている」と言い、主人公である班長は「あまりそういうことを考えたことがない」式のことを言う。少なくとも哲学的な人間ではないことは確かである。その会話、つまり生死の二者択一しかない世界の次の場面がシリアルコーナーである。取るにたりない食品の選択肢はたくさんあるのに、昨日までの戦場には生死しかない、という対比で描かれているわけで、映像的に美しいわけではない、考えオチのシーンだから高く買わないのである。あれだけドキュメントに撮ってきたのに、車中でまとめの会話か、だけどうまく切り抜けたな、と思ったらシリアルである。この監督、もっと我慢して撮るべきだったのでは。


小林大兄は、兵士の向こうにいる現地人のまなざしを撮った戦争映画はない、とも書いている。そういえば、全編、向こうからの視線がきつい。しかし、それは爆弾処理班という仕事のせいでもある。仕掛けたやつがどこに潜んでいるか分からないから、緊張感が続くのである。映画の冒頭に店で携帯を持った商人が、それを起爆に使うシーンがあるが、つねに爆弾班は現地人の目にさらされているのである。しかし、それ以上でも以下でもないのは確かだ。ベトナムで湿地と丈の高い草の向こうから覗く目と何が違うと言うのだろう。


ぼくには後味の悪い映画になった。戦場には善悪はないのに、あえてかつての映画はそのドラマツルギーを持ち込んだ。無差別に現地人を殺し、レイプする兵士と、それを嫌悪し、苦悩する兵士。ところが、この映画のアメリカ軍にはまったく善人しかいないのである。あるいは普通の人間しか映っていないのである。これがアカデミー賞を取ったのは、そういう免罪どころか脱罪の映画で、まるで観客に倫理的な重荷を背負わせないからではなかろうか。主人公は現地の子どもにシンパシーを持つが、赤むけに殺された少年をその彼と勘違いしたあと、実際の少年がサッカーをしようと近づいても相手にもしない。倫理的な感情が湧き上がるようなものには、もう近づかないということである。これはこの映画の姿勢をよく表している。

*新聞でアメリカ在住のジャーナリスト青木冨美子さんが、ぼくと同趣旨のことを書いていたが、結論はまったく逆で、この映画にアメリカの希望を見たとなっている。冷静に自分たちを見つめた映画だから、ということらしい。さて、本当にそうなのか。


28 「パルプ・フィクション」(D)
何度目になるだろう。最初の衝撃以来、この映画は円環する構造の映画と思って見てきて、前回あたりから、いや、と思うようになった。とうとう今回謎が解けて、この映画は冒頭とお尻が繋がっているだけで、時間はふつうに流れていることが分かった。初回の驚きで目くらましになっていたのかしれない。


ボスの女を預かりデートするときに、女が指で空中に四角を描き、それが点線で示されるシーンは、何度も言うが秀逸である。死体現場処理のプロ、ハーベイ・カイテルの演技が素晴らしい。冒頭とラストに出ているティム・ロス、この映画が最初ぐらいではないか。


タランティーノの音楽使いのいい加減さ、言い換えれば適当に合っていればそれでいい、といったような使い方はここでも発揮されている。第一、タイトルロールで曲調ががらっと変わるのである。おそらく昔の映画の盛り上げ調の使い方でいいんだ、と決めているように思う。黒澤の、緊迫したシーンには、かえってのんびりした曲をかけるというような細かいことは関係ないようだ。


29 「第9地区」(T)
タイトルの「地区」を入力しようとしたところ畜産の蓄に変換されてしまった。まあ、この映画らしいことである。不思議な映画だが、構造はいたってシンプルで、クラシカルである。差別される側に思い入れをしているうちに、それに荷担し、愛と苦悩を覚える式の映画である。そこに巨大な宇宙船や機動戦士ガンダムやゾンビ、エイリアン(オマージュのシーンがある)など、がちゃがちゃと絡め、しかもドキュメント風に撮ったからややこしくなったが、従来型の映画である。グロテスクなので場合によっては途中で席を立とうと思ったが、最後まで見てしまった。戦闘シーンが迫力あるからである。


次第に宇宙人へと変身する主人公、それを奇妙とも思わず、彼のパワーの凄さを欲しがるギャング団のボスがキャラクターとしては面白く、この人物がいることでこの映画は深みを増した。“えび”と呼ばれるエイリアン親子が、次第に愛嬌ある様子に見えてくるのが、監督の狙いで、意図は達している。


30 「潮騒」(シネパトス)
三島由紀夫特集である。途中で前に見た映画だと気づいた。吉永小百合と浜田光男が主演である。神島という知多半島の先の島で、野性味(?)溢れる、混じりっけのない男女が恋をする。それを遮るものもさしてない設定で、それでも劇は進行する、という不思議な映画である。


三島が目指したのはギリシャ的な明朗さであり、それを具体的な人間に落とし込むと、ごく当たり前の健康な男女が出来上がる。三島作品を映像化する場合の難しさであろう。


31 「愛の渇き」(同上)
作品を読んだ記憶があるが、映画を見ても内容が思い出せない。あんなに三島作品に入れ込んだのに。若尾文子主演で、富豪の息子に嫁いだが、いまは未亡人。使用人の若い男(石立鉄男)に恋慕するが、相手はまったく観念的な生き物ではない。若尾がさまざまに迫るが、それは観念での遊戯であり、庭男には通じない。三島のアイロニーは、ここでも空振りである。


冒頭のシーンがショッキングで、木の幹に止まる蝉を写し、カメラが下にいくと若尾が半腰で立っていて、その腕の先にナイフがあって、籐椅子に座る義父、富豪の中村伸郎の顎に伸びている。これだけでドキドキものである。あるいは、屋外で風が吹いて、若尾の差していた唐傘が風に舗装道路に叩きつけられ、すっと転がるシーン。
あるいは、空を飛ぶヘリコプターから下を見た目線がそのまま室内に移動し、シャデリアの下で繰り広げられる食事風景になる。
藤原惟繕監督で、裕次郎映画や「南極物語」の監督であるが、こういう前衛的な撮り方をしていたこともあったのね、と感心しきり。


32 「ある監督の生涯」(新文芸座)
二度目である。溝口の軌跡を新藤兼人が追うもので、前と同じところで感動したのは、弟子である増村保造の回顧談で、「楊貴妃」のような自分の理解できないテーマに取り組んだときに、スタッフに無理難題をふっかけたり、子供じみたジタバタをするのだという。みんなそれが分かっているから、しんどいとは思いながら、付き従うのだという。苦しみ抜いて失敗する、それがまた天才たるゆえんか、と増村は言う。


主演女優を何度も務めた田中絹代には、頭も上がらないほど惚れながら、仕事になると鬼のようになるのだという。だから、田中は「映画のなかの役柄」に惚れていたのでは? と言う。第一、仕事を抜けば溝口はつまらない男、みたいなことを田中は言う。このあたりも印象に残る映画である。


新藤がぬけぬけしているのは、一瞬だけ、カメラを覗く自分の顔を写すところである。ぼくは彼の作品は数えるほどしか見ていないが、必ずこういう要らぬことをする。溝口の抑制された演出から何も学ばなかったのか?


33 「マンハッタンの2人の男」(新文芸座)
1958年の作品で、監督はジャン・ピエール・メルビル。ヌーベル・バーグに大きな影響を与えた監督だそうだ。それは取りも直さず、アメリカ映画礼賛でもある。


冒頭からジャズが鳴り響き、NYを流れる車を写しながら、紙をクシャクシャと破いたような三角形にキャストの名前が印字されている。国連ビルが映り、そこで小事件が起きたと説明文字が入る。フランス代表が欠席したのである。その理由をフランスの新聞記者が追う話である。


と書いたのはいいが、上映前に酒を飲んだのが利いて冒頭20分ほどで沈没、最後30分ほどは目覚めていたが、途中が飛んでいる。モノクロの映像が濡れたようできれいで、ジャズが不必要にうるさい、という印象の映画である。映像のキレもあったように思うが、それはアメリカ映画を意識したものではないかという気がする。冒頭の車がしきりに流れるシーンは、「タクシードライバー」を思い起こさせる。近親関係にあるかどうか。


34 96時間(D)

リーアム・ニールソン主演で、パリで誘拐された娘を救う元特殊戦闘員(?)の話である。ニールソンでアクションという結びつけようがスゴイ。しかし、見事にハマっています。監督はピエール・モレルで、脚本・製作のリュック・ベンソンの秘蔵っ子のようで、ベッソン絡みのいろいろな映画に関係し、初監督は「アルティメット」である。


いくつか面白いなと思った場面がある。娘が誘拐されそうになったときに、携帯で侵入者の特徴を分かるかぎり言わせていることである。こちらで言葉も録音していて、あとでアルバニア語だと分かる。腕の入れ墨から、若い女性の旅行者を拉致し、売春婦として売る組織の一員だと分かる。
あるいは、ニールソンがパリに付いてすぐに、娘が掠われた友達のマンションでデジカメを見つけ、そのメモリーから彼女に声をかけた男の姿を割り出し、すぐに空港でその男を見つけ、追跡するシーンも珍しい。ハイテクが進むと、劇の展開も早い。ニールソンが町中のどこかで、まるでJRの券売機のような機械にメモリーチップを差し込んでデジカメの映像を見るのだが、さてその装置とは? 少なくともぼくは日本で見たことがない。


なんだかこの映画、続編が作られそうな気がする。


35 プレシャス(東宝シャンテ)

話題の映画らしい。見終わったあとに、そう言えば、主人公の女の子、朝日新聞でインタビュー記事があったな、と気づいた次第。インセストで父親の子を2人産み、やがてHIVにかかり、それでも前向きに生きる黒人の女の子が主人公という、ものすごく暗い設定だが、すぐ憧れの夢のシーンに飛ぶ子なので、暗い一方にならない。ぼくは「アメリ」のテイストを思い出した。こんなどん底なのにエンタメにするとは! この映画をマネする輩が増えそうである。監督はリー・ダニエルズで、自分の製作会社を持ち、「チョコレート」を製作している。ミズ・レビン役のポーラ・ハットンが美しい。「最後の恋の始め方」に出ているようだ。


36 フェイク(D)

ジョニー・デップとアル・パシーノ共演、若い警官が偽装でマフィアの元に潜入。パシーノはうだつの上がらない中間管理職みたいなものだが、どういうわけがデップを気に入り、仲間に引き入れる。よくできた映画だが、デップとパシーノが深く関わり合う動機がいまひとつ見えないために、映画が転がっていかない恨みがある。それと、パシーノが生彩のない役回りなので、どうもしっくりこない。彼が主演で、その冴えないマフィア役を演じきったら面白かったのに。奇矯な映画ばかり出るデップにも、こういう演技があったのね、という新発見できるフィルムである。


37 青葉、繁れる(シネパトス)

すっかりおなじみのシネパトスである。秋吉久美子特集で、15日には本人が来るらしく、すぐに予約は一杯である。井上ひさし先生が亡くなって、ちょうど記念となった上映である。下半身に頭の中身が支配された男どもが繰り広げる物語だが、日本では珍しい設定かもしれない。アメリカにはごまんとこの種のお馬鹿映画があるが。


秋吉はマドンナ役で、ほとんど何も演技をしないうちにいなくなる──という不思議な映画である。東京・日比谷からの転校生が草刈正雄で、イケメン振りが爽やかでさえある。ハナ肇がおいしい役をやっていて、非常に懐の深い校長役である、しかも、飲み屋の若女将十朱幸子に惚れられるという設定である。十朱は草刈の姉役である。


女子高生をレイプしようと男子学生。ところが、パンツを2枚取ったさきにあったのは海水パンツ。女子校から抗議に来るが、ハナ校長は詭弁のような正論を言い立てる。男女が二人で山に行くときは、セックスするかしないか、である。その決断をするのが人間の成長であって、パンツ2枚に海水着まで用意するのは過保護で、女子の育成にマイナスである。だから、今回はイーブンに、という理屈である。この映画の時点では、これは正論という扱いになっている。


岡本喜八監督で、1974年の作である。可もなし不可もなしの作品だが、前述のように下半身肥大症のバカさ加減を一気に最後まで持ち込んだ手腕は買いである。途中、女性医学大全めいた本のセクスの画像を瞬きの瞬間の速さで差し挟む手法は、サブリミナルの先駆者か。


38 北北西に進路をとれ(D)
言わずと知れたヒッチ映画だが、識者のアンケートでは彼の作品のベストに挙げるひとが多い。ぼくは断然「サイコ」で、次が「鳥」である。「フレンジー」がやっとヒッチを同時代で見た映画である。


女優は最初シド・チャリシーの予定だったのを、ヒッチの好みでエバー・マリー・セイントに決まったらしい。ブロンドで気品があって、それでグラマラスがヒッチ好みで、映画でいたぶって快感を感じていたらしい。彼女は芸歴が長く、最近の映画にも顔を出しているようだ。ヒッチの目が正しかったということか。
役者がそろっていて、ジェイムズ・メイスンマーティン・ランドー(スパイ大作戦の変装の専門家)が悪役、FBIだかの老練な刑事にレオ・G・キャロル。主人公のケーリー・グラントがイモなので、周りを固めたというわけか。


変なシーンがいくつかあって、その一つがグラントとセイントの列車のコンパートメントのキスシーン。妙に長く、それでいて一向に激しく燃えてこない。何のつもりであんなシーンを撮ったのだろう。もう一つ、グラントが騙されてバスで辺鄙な荒野に降りてからが長い。車が何台か行き過ぎ、とうとう道路の向かいに男が来るが、意中の人間と違う。その男が、さっきから飛行機が何もないところに何かを撒いている、と変なことを言う。その男がバスに乗っていなくなると、そのくだんの飛行機がやってきて、グラントを襲い始める。このシークエンスが間延びしているのである。


なんでこの映画がベストワンなの? である。


39 春雪仕掛け人(T)
池波正太郎特集である。1974年の作で、監督貞永方久。活劇あり、エロありで、74年にしてもう裸路線に行ってたのね。残忍な盗賊団の首領が岩下志麻で、梅安は初恋の相手。彼に振られて悪の道に入ったというが、さて本当か? 父親が流れ大工だと思っていたのが盗賊で、それを知ったことが転身の理由ではないか。いまは叔父の花沢徳衛といっしょに住んでいるが、この叔父は昔気質の盗賊で、いっさい人殺しはやらない。姪がむごい悪事を働いていることを知り、仕掛け人に彼女と仲間の殺害を依頼。


岩下の多彩に変わる表情を追っているだけで、映画が終わってしまったような印象である。盗賊の首領としての顔、叔父に見せる姪の顔、梅安に見せる女としての顔。右腕が夏八木勲で、この人でこの映画は締まった感じである。同衾した岩下をほどけた帯で殺そうとするが、岩下は「おまえに組はまとめられない」と冷たく言い放つ。


梅安役を緒方拳、頭領役を山村聡。役者が揃って、それなりの筋だから、最後まで楽しむことができる。裸なんて余計だけど。


40 雲霧仁左衛門
78年の作で、監督五社英雄。これも役者が揃っていて、しかもそれぞれのキャラクターをきちんと描き分ける熱意に感心する。映画に深みが出るのは、そのせいである。


濡れ衣で父母を亡くし、恋人を藩主に取られた雲霧。世の中の法を犯すことで復讐だという。仲代達也で、その第一の子分が長門裕之、さらに色仕掛けで大店に潜り込むのが岩下志麻、つねに側に付いている夏八木勲、血気に逸るあおい輝彦、そして、倍賞美津子、盗賊と通じる役人が山城信吾、その女が宮下順子。雲霧の兄が松本幸四郎で、盗賊を追う火盗改めが市川染五郎、親子共演である。松坂慶子は雲霧のかつての恋人役で、いまは藩主夫人で、子をもうけている(これは雲霧の子)。


これもやはり活劇とエロで、岩下が胸を露わにするシーンは誰かの吹き替えである。それにしても、大きな胸の代役である。岩下の所望か。風呂場で倍賞と宮下が映るシーンがあるが、倍賞は胸を押さえ、宮下は出したまま。こんなことをやっているから、日本映画はダメになったのだ。


染五郎の顔が黒く、サルのようなのがすごい。ほかの役者はそれなりに洗練されているが、梨園のプリンスがいちばんワイルドというのが、この映画のいちばんの見どころではないか。例によって、岩下の表情の千変万化に翻弄された感じ。


41 未来を写した子どもたち(D)
いい映画である。インド・カルカッタの赤線地帯に住む子どもたちが、白人女性ザラから写真の撮り方を学び、自己の可能性を見出していく(or潰していく)過程を描いているドキュメントである。


売春が2代も3代にもわたって家業であるような子どもたち。その子どもたちの発する言葉を見よ。
「お金持ちになりたいとは思わない。つらいことも悲しいことも人生だから受け入れないとだめだ」
「教育を受けないと未来はない」
「ママのような大人になるのが恐い」
「写真で自分を説明することの重要さを学んだ」


アヴィジッドという子はとくに才能が豊かで、ザラは彼をオランダ留学に行かせようと奔走するが、なかなかビザが下りない。彼は未来を諦めようとするが、道が開かれる。その後、アメリカの大学に行くことになるが、次のようなセリフを言うまでになる。
アメリカへ3年。でも、どこへ行ってもいいこと、悪いことがある」
彼は映画監督を目指し、この映画のおまけ映像は彼が撮影している。
ザラは次のように言う。
「子どもにとっては、大事なのは物ではなく、世界を見ることです」
この言葉を得るだけでも、この映画には深い価値がある。
子どもたちを援助するNPOもできているらしい。
wwww.bornintobrothels.com


42 アルティメット(D)

2を見たので遡って1を。主人公2人が敵対していたとは。基本的にアンダーグラウンド世界を政府が陰謀で破壊しようとするのは同じ。何かフランスの移民政策に手詰まりがあって、その鬱憤晴らししているような感じがしてくる。


43 バッド・ルーテナント(新文芸座)

ニコラス・ケイジ主演で、ヘロイン、コカインにやられた悪徳警官の話。幻覚でイグワナが出てきて、それを下から仰ぎ見るような映像が繰り返される。前衛映画じゃないんだから、あまり変なことをしないでよ、である。ケイジはどこまでも墜ちていく感じがうまい俳優である。額が禿げ上がるほどにエレジーの度が増す。


42 クロッシング(シネパトス)

客が入っていると一柳のオヤジが言っていた。たしかによく入っている。弱冠女性が多いような気がする。かつてなら男性しか見なかった映画ではないだろうか。


よくできた映画で、セリフ、映像、演技、風景、どれを取っても間然するところがない。キム・テギュン監督、主演チャ・インビョ。


栄養失調で結核にかかった妊婦の妻を助けるために、かつてワールドカップ出場選手だった父親は豆満江を渡る。瀋陽のドイツ大使館へなだれ込み、そして韓国で働くことに(これは2002年の実話らしい)。だが、その間に妻は死に、父のあとを追った子は川を渡りきれず、収容所送りとなる。ようやく父からの助けの手が伸びるが、逃走経路のモンゴルの砂漠で息子は死んでしまう。この子どもの表情が実にいい。


父親はソウルで結核の薬を求め薬局に行くが、処方箋がないとダメだ、と断られる。しかし、韓国では結核の薬は「無料だ」といわれ愕然とする。
妻の死を知って嘆く男に、彼が働く工場の長は、神に救いを求めよ、と諭すが、なぜ北朝鮮には神はいないのだ、と反論する。これら細部が緊密に結び合わされて一編の映画が出来上がっている。


ラスト、ネームが出るところで回想シーンがセピア色で、スローモーションで流される。亡くなった息子、仲の良かった近所の女の子ミソン、そして妻──いったいどこの平和な国の話かと思うくらい幸せそうな村人たちの遊興の様が映される。政治の悪を制御仕切れなかった国の不幸を思う。しかし、その惨たる国を放っておく世界のメカニズムもおぞましい。中国共産党金王朝世襲を認めないという説を言う人があるが、ではあの国はどうなるのか。