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2016-12-31 2017年の映画

kimgood2016-12-31

昨年は「アスファルト」のような小品にいい味のものがあった。一昨年の「マジカルガール」でも感じたことだが、阿呆らしい設定なのに、そのふてぶしさに納得がいく、といった作りなのだ。それは背後に根太いユーモアを抱えているからできることである。見ていて企みの深さに納得する。深田晃治の「さようなら」にも、ぼくは強くそれを感じる。考えてみれば大作に良作なし、は昔から変わらないことだが。イーストウッドの「ハドソン川の奇跡」は既述のように、必要なものだけで押し通した迫力の凄さに脱帽した。ぼくは「チェンジリング」や「ミスティックリバー」のような異常な感覚が本来のイーストウッドの世界だと思っているが、趣はまったく違うが、この映画を買う。本道を堂々と歩いているからである。

「シンゴジラ」と「君の名は」が東宝ということで、雑誌あたりで東宝の一人勝ちがいわれ、それは監督主義ではなく、プロデューサー主義が日本に芽生えたからだ、という趣旨で書かれることが多いが、そもそも東宝はそういう大鑑巨砲主義の会社だったはずだ。映画館をたくさん持っているのだから、勝たない方がおかしい。3つの決断が東宝を良くしたと「アエラ」で書いているが、その一つはシネコン化したこと、あとの2つは企画部門を外に出し、あとで本社に戻したことだ、という。つまり1つは外圧、1つは本卦還りで、どこにも新機軸があるわけではない。プロデューサー主義がうまいくのは一時のことで、また次の壁がやってくる(作家主義との兼ね合いが必要だろう)。そもそも怪獣映画とアニメで1位を取って何がめでたいのか。歴代興収20位のうち19本が東宝らしいが、ほぼジブリのアニメとテレビものの映画化である。勝てば官軍だが、それで日本の映画界は明るいのか、といえば、ここにもアメリカ社会のような格差が現れている。2015年の邦画で10億円以上の興収を上げた作品が39本、それが全体の売上74.6%(898億円)を占めている。1億数千万円で作って10数館で封切るという中型作品が作りにくくなっている、と是枝裕和が同誌で語っている。見に行った、楽しかった、で別にいいが、できれば数年経って、じわっと思い出すような、そういう作品にも出合いたい。

本文の記号の意味:T=劇場、S(ストリーミング)=ネット、D=DVD

1 リピーテッド(S)

ニコール・キッドマン作品が続いている。「ドッグヴィル」のころの彼女の美しさよ! 以前ほど熱い思いで見ることはなくなったのは、作品にバラツキがある感じがしたからだ。尖ったのもあれば、シックもある、といったように。この映画はシックの方で、むかしガイ・ピアス主演で記憶が短期にしか保持できない男の話があったが、これは1日で振り出しに戻る。ウェルメイドな感じがするのは、そう描かないと前に進まないからである。コリン・ファースの悪役は無理がある。精神科医を演じたマーク・ストロングは好きな役者である。ラストの化粧を落とし気味の彼女はやはり老けた。


2 ヒッチコックとトリュフォー(T)

浩瀚な2人の対話本があるが、あれをめぐるドキュメントである。ヒッチを救い上げた本ということができる。この本が出た後、ヒッチは3本しか撮っていないらしい。しかも、今までの作風でいいのか、とトリュフォーに相談していたらしい。それにどういう返事をしたかは、この映画では語られない。ぼくは「フレンジー」をどうにかオンタイムで見ている。クラーク・ゲーブルやジェームズ・スチュワートのような古臭いしゃべり方をする俳優を使ったのは、やはり彼の趣味で、ぼくはどうも古風に過ぎて鼻につくが。客が入る入らないに拘るのは、彼のような作品であれば当然で、それにしても「めまい」の偏執狂的な作りは作家性が突出している。スコセッシが「サイコ」のジャネット・リーンの白いブラジャーが変だ、という発言をしている。次のシーンでは黒いそれに変わるのだが、どこが変なのかこの映画では語られないので、妙な疑問だけが残る。ヒッチは映画は映像で語るもので、そういう意味ではサイレントにサウンドが付いたのは間違いだったのでは、と言っている。これは当然の意見であるが、登場人物が声を発したというだけで客が押し寄せたのである。総天然色もそう。いまや特撮に3Dである。ヒッチならどうそれらを使いこなしただろう。3Dを撮ったスコセッシは今度の「沈黙」はフィルムで撮ったそうだ。何がどう変わるのか分からないが、楽しみなことは確かである。


3 ゴースト・バスターズ(T)

最新のやつである。別に言うことなしだが、4人の女性バスターのなかで、男勝りを演じたケイト・マッキノンの切れ方がいい。テレビ畑の人らしいが、久しぶりにいい女優さんを見た。


4 こころに剣士を(T)

フィランドの監督が撮ったエストニア映画である。戦中はドイツ、戦後はソ連の支配下にあった国で、戦前にナチスに荷担した人間が秘密警察に追われる。それが元フェンシングの選手で、田舎の小学校で部を創設し、子どもたちを教えるが、やがて子どもたちが中央の大会に出たいと言い出す。そこに行けば身を拘束されるのは目に見えているが、逃げているばかりではいけないと乗り込むことに。監督クラウス・ハロ、子どもたちがいいが、なかでも年長の男の子が憂愁があって、若きブラッド・ピットのよう。


5 ヴィンセントが教えてくれたこと(S)

ビル・マーレー主演の偏屈爺さん、認知症の妻を老人ホームに定期的に訪れ、医師の振りをして慰める。帰りには汚れ物を持って帰る。カメラはこの認知症の高齢女性をとてもきれいに撮っている。偏屈爺はふだんは博奕に女に酒にと忙しい。その隣に母子が引っ越しをしてくるが、母親は仕事で忙しい。偏屈爺が有料で息子のシッター役を買って出る。その彼が教えるのは喧嘩作法であり、酒場での注文の仕方、馬券の買い方である。アメリカは開拓者の国だ、というのが偏屈爺さんの信条だが、デジャ・ブを超えることはない。母親をメリッサ・マッカーシー、娼婦で妊婦をナオミ・ワッツ、ワッツはメキシカンなのか変な言葉使いで、お腹も大きいというワイルドな役をやっている。その勇気に脱帽。爺さんは“夜の女”のことを、女の中で最も正直に稼ぐ女、と定義している。


6 雲の上団五郎一座(T)

芸達者が揃った、舞台の当たり芸で、それを映画化したものではないか、と調べたら、テレビでやって、それを映画化したものらしい。小林信彦先生はたしか舞台で見ているから、公開放送のようなものを見たのか。エノケンが座長だが、すでに足が悪いのか、動きの場面がない。テレビでは車椅子で演じた、という話である。走る車から降りて、反対側のドアから入ってくる、という珍芸を演じたエノケンの面影がない。しがない旅回り一座が、新機軸を打ち出したいとする演出家に出合い、それが好評を得て、大阪に凱旋するというもの。冒頭、森川信が女装でおかしな動きをするところがあるが、さすがという動きである。こういうときに、森川の演じている題目がすっと出てくるくらいでないとダメだと思うが、素養がないから仕方がない。アチャコが団五郎一座を受け入れる興行主だが、人の良さがよく出ている。エンタツと別れてショックだったというが、結局、彼の方が生き延びた。あと三木のり平が源谷店でお富を訪ねるのにどうしたらいいか、と八波むとしとやりとりをするシーンがおかしい。引き戸を開けようとするが、そのまま外してしまう、というのが笑わせる。八波がセリフをきちんと言えないうらみがあるが。フランキー堺が新演出家をやっているが、うまく収まっている。二代目水谷八重子をきれいだと思ったことがなかったが、この映画では妙に可憐である。


7 南の国に雪が降る(T)

加藤大介の経験からでき上がった映画のはず。ニューギニア西部が舞台。有島一郎が加藤の補助的な役をやって、なかなか渋い。途中からニセ役者として渥美清が出てくるが、周りに森繁、伴淳といると、元気な兄ちゃんにすぎない。緞帳、背景、紙切れの雪、どれを見ても客は内地を思い出して歓喜する。こんなやりやすい舞台もなかっただろう。小林桂樹が見捨てられた部隊の一員を演じるが、一本調子で、味も何もない。


8 特出しヒモ天国(T)

山城新伍が出入りの自動車販売員からストリップ小屋のマネージャーになり、そして踊り子のヒモになる。何度も警察の手入れがあるが、最後にも長いドタバタがあり、うんざりさせられる。川谷拓三が警察官からヒモになった役を演じるが、やはり荷が勝ちすぎた。池玲子が最初から脱ぎっぷりがいい。芹明香はもちろん下手くそである。森崎東という監督は、どうも締まりが悪い映画ばかり撮る。


9 喜劇女の泣きどころ(T)

レズビアンショーで売った2人の女(太地喜和子、中川梨絵)とそのマネージャー(湯原昌幸)となった男の物語で、そこに日本のあちこちの放浪芸を採取して歩く小沢昭一先生が絡む。語りも先生である。2人の女を捨てたのが坂上次郎、ほぼラストに顔を出すが、調子のいい演技を見せて、流石である。小沢が質問し、答えようとすると、楽屋口に人が現れて挨拶をするので、先に進まない。その受け渡しが面白い。太地が死んだ知らせが来たので100万円の香奠を出したというが、実は5万円で、そのウソがバレて、すっと横顔を見せて、立ち去る間のいいこと。太地喜和子がよく脱いで頑張っている。警察官の財津一郎はふだんと違って抑えた演技で、なかなかである。監督は瀬川昌治で、結構、本数を撮っている監督である。全編を見ていることができる。


10 愛のむきだし、ドランゴ危機一発97(D)

「愛のむきだし」は20分で撃沈、「ドラゴン」は15分見て後は早回し。園子温、大丈夫か?!


11 アイヒマンを追え(T)

ナチ関連の映画が続いている。アイヒマン関連でも2つ先行して見ている。今回はその根源にユダヤ人で仲間を売った過去をもつ検事長がいたという話。その人物が同性愛者で、過去に何度かわいせつ罪で捕まっているという人物。彼が使う部下も同じ趣向で、彼はまんまと罠にはまってしまう。政権の官房長官、インテリジェンスのトップあたりもナチの残党らしい。自国で裁きたかったが、国際紛争のもみ合いで、イスラエルでやることに。映画としては何となく中途半端である。


12 コンサルタント(T)

監督ギャビン・オコーナー、未公開が多く、これは本邦初か。どこかの新聞が途中までとラストに溝があると書いていたが、なにを馬鹿な、である。終始はうまくついていて、話がうますぎるぐらいなのである。出来はかなりいい。アクションとドラマが適度に混ぜられながら進行する。財務省長官(「セッション」のJ.K.シモンズ)がなぜ経済犯罪でもないのに、いろいろな犯罪調査に乗り出すか分からない。シモンズはもっと悪のある役者と思ったが、見映えがしなかった。はじめ発達障害の子とそうでない子が出てくるが(じつは兄弟)、途中までどっちが主人公(ベン・アフレック)か分からなかった。2人がどん詰まりに会うという設定はやり過ぎだが、アクションもので兄弟が敵と味方となっていることを知らずにいる、という設定は今まで見たことがないのでOK。ウェルメイドだなと思うのは、アフレックの秘書的な役目の女性が実は小さい時施設で会い、ちょっとしたことで助けてくれた子という設定のところ。ただし、そういう発達障害の子を戦士に育てることは実際に可能なのかどうか、それが分からない。アフレックは監督映画が5月だかにやってくる。楽しみである。女優はアナ・ケンドリックでコメディの人らしい。ぼくはミュージカル「ビッチ・パーフェクト」で見ている。美人でもないが、役どころには合っている。


13 ダークプレイス(S)

シャリーズ・セロン主演、幼児期に家族が惨殺され、兄がその犯人と思い、そう証言したが、冤罪事件を追うアマチュア組織に金欲しさに近づいたことがきっかけで、ようやくにして真実に近づくことに。兄の恋人だが、クロエ・グレース・モレッツが残念な役をやっている。セロンは母が父親を銃で殺した過去を持っているが、この映画の制作陣に加わっている。年に1本ほどのペースで、いまどき珍しい女優さんである。もっと恐い映画にできただろうが、はなからそのつもりはないようだ。よって凡庸に終わってしまった。


14 ロープ(D)

ヒッチの室内劇で、「裏窓」よりもっと動きがない。名門大の出身者4人と寮の舎監、老夫婦、手伝いのおばさん、だけである。動機はよく分からないが、いちおう恋のもつれというところ。2人の男がパーティを開く。ロープで首を絞めて人を殺すところから始まるが、なんだか全然きっちり絞めないので、圧迫があるだけで呼吸困難になる病気の人かと思ったが、やはり絞殺らしい。その死体をチェストの中に仕舞い、その上に燭台、パーティの皿などを置き擬装する。殺された男の恋人がやってくる。もう一人男がやってくるが、その女が前に付き合っていた男である。じつは殺人の2人のうち主導権を握る男も、その女のかつての恋人という設定。勘の鋭い舎監のジェームズ・スチュアートが結局、事件を解決するが、もとはラスコリニコフ風の、優れた者がそうでないものを殺してもいい、という主張の人間。それが実際の殺人を知って、心を入れ換えたという、長い改心のセリフがあるが、付け足しである。殺しを主導した男はスチュアートの感化を受けて、優生思想に囚われているという設定だが、単に女への嫉妬だとしたほうが、もっと面白い映画になったものを。もう一人の殺し手はおどおどする役回りだが、下手くそである。1948年の作品で、ヒッチは停滞期に入っているのかもしれない。


15 特捜部Q(S)

まるでテレビの連続ものを見ているような感じだ。映像が軽く、展開も題材のわりに軽い、種明かしも軽い、といった具合だ。Huluあたりでざっと見てしまう映画である。北欧ノワールの映画化である。


16 ドクターストレンジ(T)

カンバーバッチ主演で観た映画だが、やはりこういう未来もの、SFものはぼくに合わない。宇宙を支配しようとする暗黒世界の王に顔があるというのも笑えるが、師匠のティルトンダストンさえできなかったことを短期間にマスターしたストレンジとは何者なのか。タイトルロールのあとにおまけが付いていたが、意味がよく分からなかったが、予告編みたい。カンバーバッチで見たいのは、ノーブルだが崩れたところもあるテーブルマジシャンかな。


17 絹の靴下(D)

アステア、シド・チャリシーで、ルビッチ「ニノチカ」のミュージカル版である。冴えたルビッチの演出と比ぶべくもない。1957年の作でアステアが58歳、しかし身体はよく動いている。ローックンロールが流行っているのでそれらしい曲も入れてあるが、あくまでそれ風にしたというだけ。映画は成績がよかったそうだが、それはひとへにチャリシーの色気ではないだろうか。カーテンの陰に隠れて絹の靴下を穿き、太ももが透けて見えるネグリジェのようなスカートで出てくるシーンにはびっくりさせられる。かなりきわどいからである。踊りで新規なものはないが、ほかのアステアものでも言えることだが、2人が慣れるまでの準備という段階では、微妙な不一致のようなものがあえて演出されているように思う。手の動きなどに少しだけ統一性がないのである。それはきっと演出である。3人のロシア人が笑わせ役だが、「イースターパレード」で一緒だったジュールス・マンシンがやはり奇妙な味がある。


18 ピッチ・パーフェクト2(S)

前作とほぼ同じ水準でできているのは、すごいことである。その代わり、変わり映えのしない中身である。みんなで頂点を目指すという本筋が動かないから、あとは途中の挫折感をどう入れるかだが、それは残念ながら利いていない。大した仲間割れも起きない。複数集合映画となれば多人種となるのがアメリカ映画だが、どういうわけかこのチームには黒人がいない。難民のチャイニーズという不思議な設定の人物はいるが。


19 沈黙(T)

中だるみのところもあるが、実に正攻法で撮っていて好感である。厚い靄のなかから人が出てくるシーンが何度かあるが、食傷気味である。評判の高いイッセ尾形の演技は、評判通りというしかない。アカデミー賞の助演賞をあげたいくらいの素晴らしい出来だが、アメリカ人にはあの良さは分からないかもしれない。浅野定信も長い英語のセリフが多く、ハリウッドがいかに彼をコケにした使い方をしていたか、これで分かろうというものである。棄教ばかりするキチジローを演じた窪塚は際立って何ということはないが、役柄が儲け役だった。首をはねられて死ぬ加瀬亮は、英語がうますぎるので、せりふがなかった。塚本晋也監督がモキチという役をやっている。

キリスト教を沼のように飲み込んだ日本という風土が分かる映画だが、諸外国はこれを見てどういう感慨を覚えるものだろうか。多少の誤解を避ける意味でも、鎖国という制度について、もうちょっと説明があったほうが良かったのではないか。それはスコセッシの意図とは違ってくるだろうが、公平性からはそうしたほうが良かった。主人公とイッセ尾形との宗教論争があるので、諸外国も日本を単に野蛮の国とはとらないとは思うし、棄教すれば赦しあるのだから、南米に渡って異教徒を皆殺しにしたキリスト教徒とは違うと思ってくれるだろう。江戸に来ても告解を求めるキチジローについ涙してしまった。映画のなかで、日本ではキリストを大日と呼んでいる、と批判的だが、「大日」には唯一神の意味合いがあり、真言宗ではデウスを大日とごく自然に捉えていたという。しかも、ザビエルも大日とイエスの比較については採用していたらしい。だから、リーアム・ニーソンが演じた棄教パードレの、イエス=大日説をとらえて日本人はキリスト教を理解していなかった、とする発言はいかがだろう(ということは、遠藤周作の説は妥当性があるか、ということだが)。


20 マグニフィセント7(T)

いわずと知れた「七人の侍」の翻案である。むかしには「荒野の七人」がある。仲間を集めるところは、後者のほうがわくわくする。緊張感のある映画だが、完全になぞった映画になっていて、先が読めるのが難点である。生き残りは黒人にメキシカンにネイティブである。皮肉な塩梅である。女優はヘイリー・ベネット、この映画の監督アントワン・フークアが撮った「イコライザー」に出ている。同作にはデンゼル・ワシントンも出ていた。女と西部の荒くれといえば、ひと悶着があってしかるべきだが、まったく気配なし。原作映画の清潔感に引きずられたか。


21 ラストミッション(S)

前に見ている気がする。というのはケビン・コスナーの娘役をやった女優(ピッチ・パーフェクト2に出ていたジェイリー・スタインフェルト)に記憶があるからである。しかし、妻役のコニー・ニールソンが少しダイアン・レインに似て、色気があるのである。それに今回気づいたということは、見るのは初めてか? シュミーズ姿の彼女が目の前にいて、コスナーの視線が熱くなると、早すぎる、バカね、という顔をする。彼女は今年だけで5、6本の出演予定である。この映画、内容的に既視感が強いが、ひとつ面白いのは喜劇仕立てになっているのに、全体がアクションとして成立していることである。監督Mcgの手腕のなせる技であろう。テレビ畑の人で、次回作も予定されていない。イタリア系の人のよいおっさんが出てくるが、これがダニー・デビートに似ていて、家族思いだが裏稼業という定番を演じ、コメディを支えている(大した面白くないが)。FBIのタフで、異常で、セクシーなエージェントを演じたのがアンバー・ハード、彼女も今年は出演作が多い。東欧系の不思議な味わいの女優である。なんだか筋と役柄が合ってないのでは? 残念なのは、いくつか脚本に無理がある点である。クラブのトイレで不良どもにいたずらされそうになった娘を豪腕で助ける父親、さて父親の職業は? と娘が疑うシークエンスがない。あるいは、娘が彼氏に夕食をつくって振る舞うという。そこで、捕まえたイタリア男に暴力を振るって、そのついでに携帯で娘に男の母親のとっておきのスパゲティのレシピを教えさせる――さてそんなことのできる父親とはどんな職業? と尋ねる場面がない。親子で車に乗ったときに、後ろで音がする。明らかにコツコツいっているわけだから、人間を積んでいると考えのが普通だろうが、娘はまったく気にしているふうではない。そんな娘で世の中わたっていけるのか、親は真剣に悩むべきである。さらに、追っている敵のパートナーが娘の惚れる若者の父親と分かった後、それについての説明が何もない。あんな暗黒街とつながっているような父親の息子とは付き合うな、とかなんとか。別にこれもスルーされてしまう。まるで劇をちゃんと仕立てていこうという意志が感じられない。喜劇とアクションの融合はいいが、あとはおざなり。残念である。


22 カンバセーションズ(S)

ほぼ2人で終始する室内劇。画面を2つに割り、ときに過去の2人の映像が映し出されるが、大概は対面していても画面は2つを合わせたかたちになっている。最初は戸惑うが、慣れてくると粋な演出という感じがしてくる。むかし半年間だけ夫婦だった2人が15年ぶりに男の妹の結婚式に付き添い人として来場し、一夜を共ににするだけの話である。結局は演技がうまいということになるのだろうが、飽きずに全編を見ていられるのだからすごい。アーロン・エッカートにヘレナ・ボナム=カーター。ぼくはこの女優さんを知らない。


23 たかが世界の終わり(T)

レア・セドゥで観た映画である。死を間近にした脚本家が、まったくごぶさただった家に帰ってくる。母親、妹、兄、その嫁、みんなが彼を中心に動く。それに反発して、調和に向かおうとする動きをことごとく兄が壊していく。結局、彼は何も和解の糸口をつかめずに家を去ることに。心理劇を盛り立てるための強調された演技に飽き飽きする。レア・セドウはやはりミッション・インポシブルのロシア編のときがきれいだった。観客は圧倒的に女性。


24 エクスポーズ 暗闇の迷宮(S)

駄作と呼ぶより怪作と呼んだ方がいいか。途中で投げ出さず最後まで観た自分を褒めたい。というのは、最後にこの映画の絵解きがあるからである。しかし、ぼくのような親切な鑑賞者がそういるとも思えない。キアヌ・リーブスがこういう映画を選ぶのだ、ということだけは記憶しておいていいのかもしれない。ジョン・ウィック2ができるらしいが、確かに喜ばしいが、身体を使ったアクションが予告編では見られない。ファーストで見せた長回しの1発撮りのアクション場面は、明らかに「オールドボーイ」を参考にしていると思われるが、今度も期待したいのだが。


25 ラ・ラ・ランド(T)

「セッション」の監督である。誇張のある監督だが、今回はオーソドクシー。では、なぜ今さらミュージカルを? デイミアン・チャゼルは31歳の俊英、ミュージカルはとっくに死んだジャンルなのに。高速道路の交通渋滞から始めるが、それぞれの車の中からさまざまな音楽が聞こえてくるという設定はOK。しかも、主演女優でない人間が中心になって踊り出す。へえ、自由にやるな、という感じである。ようやく車が動き出すが、エマがのろのろしていいるので、エマの後ろの車のゴスリングが苛ついて、追い抜く。これが2人の出合いである。シーンが切り替わって、映画スタジオ内のデリカテッセン。2つの空いた皿を上から撮して、さっとレジの場面に。鮮やかである。省略でリズムが出てくる。女優志願のエマ・ストーンがまたオーディションに落ちて部屋に帰ってくる。すると女友達3人がなだれ込んで来て、パーティに行こうという。さあダンスだ、と思うと、なかなか踊り出さない。エマを間に挟んで3人がソファに座り、ようやく歌が始まる。ここはグッド。パーティから抜け出し、車が駐禁でなくなり、歩いて帰るときにあるバーから精妙なピアノの音が。それがゴスリングとの再会であるが、ゴスリングは彼女に見向きもしない。しかし、また再会。エマが自分の車を探すためにゴスリングと丘に。ここでもなかなか踊り出さないが、いざ踊り出すと一切の逡巡なしに足が揃って踊り始める。これもグッド。あとはほぼバックステージ物のセオリー通りに進む。残念なのは音楽も踊りもない2人の劇のシーンがいいことである。あとの盛り上がりに欠けるのも仕方ないかもしれない。それにしてもアンハッピーに持ち込んだのはどうだったか。それと、エマをゴスリングは褒めるが、一度も演技のシーンを見ていない。それはおかしいのではないか。口先だけだから別れることになったのではないか。と言いながら、また2人でミュージカルを撮ってほしい。


26 チアダン(T)

どうもこの手の話に弱い。ほぼ予定通りの映画だが不覚にも泣けてくる。実話らしいが、「フラガール」と「パーフェクトピッチ」を合わせたような感じである。若者コメディにあるような劇画的なやり方で行くのかと思ったら、途中から大人しくなった。冒頭の、渚を撮して、大きな音とともにカメラがパンして、カリフォルニアの大会会場を撮すところはアメちゃん的な撮り方で、おおっと期待もしたが、すぐに場所は福井県に移って、まったりの日本映画になってしまった。そういう意味ではバランスが悪い。主人公がチームから外されて自主特訓、晴れて復帰というときに、単に心の声で「頑張ったわね」ですませてしまう無神経さ。これは省略とは言わない。手抜きである。アメリカでの初戦、これも描かれない。順番に描かないと、苦労の甲斐あって優勝という感じになってこない。それに最後にセンターが主人公の岩瀬すずに変わるのも唐突に見えてしまう。話だけ進行させても、感動がこっちに伝わってこない。もっと惜しいのはセンターにしたすずにカメラが寄らないので、コーチの意図がはぐらかされた感じになる。完全な演出の間違いである。仲間割れが起きて、すずと部長と不器用なすとりーとダンサーの3人が踊るシーンは、ミュージカルっぽくてグッド。なんだ日本でもミュージカルができるじゃん、である。東京から来たプロコーチ(?)陽月華というのがばっちりメイクだが、意外に合っている。河合勇人という監督は青春モノを撮っている監督のようだ。こういうのを見ても、「フラガール」や「しこふんじゃった」などはよくできていたのがよく分かる。


27 天使がくれた時間(S)

すれ違いものと呼んでいいだろう。ニコラス・ケイジ、ティア・レオーニがその2人、ドン・チードルが時間の支配をする天使? 野望の男が一人のクリスマスから突然、田舎町のワイフと子ども付きの世界へとワープする。最初、その世界の凡庸さに着いていけないが、その温もりのよさに気づく。ところが、最後はそこを捨てて、野望をもって生きている別のワイフを探し、やり直しを求めるところで終わる。どうも落ち着かない結末である。ティア・レオーニが子どもを早く寝かしつけて、今日はセックスの日よ、といそいそ騒がしい様子がやはり目を引く。


28 ジェーン(S)

ナタリー・ポートマン、ジョエル・エドガー、ユアン・マクレガーによる復讐西部劇。エドガーは恋人ポートマンを置いて南北戦争に向かう。英雄として帰ってくるが、捕虜になっていたこともあって、3年後のことだった。ナタリーは彼が死んだものと思って、漂泊の人となる。そこで出合ったのが悪党のマクレガーである。彼の仲間を殺した夫は、その連中に撃たれて、戻ってくる。追っ手が来るのが目に見えている。そこで元の恋人であるエドガーに救援を頼み、過去のあれこれが語られることに。最後はハッピーエンド。これがなかなかいい。思い諦めたはずのエドガーが、じつは近所に住んでいる、というのはなんだかな、という感じだが。ポートマンが気丈な女を演じてグッド。マクレガーも意外にいい。ダニエル・クレイグみたいだけど。彼女たちが住んでいるのは道路の行き止まりで、後ろは崖。これは敵の来襲を考えてのことだという。そういうふうに西部の人たちは暮らしたのだろうか。


29 アシュラ(T)

ファン・ジョミンが悪徳市長を演じるのは悲しいが、演技は相変わらずグッド。検事役のクァク・ドゥオンもなかなかである。最後の血だらけの惨劇も、もう食傷気味。


30 コクソン(T)

クァク・ドゥオンは何をしたらいいか分かっていない感じだ。ただ口を開けてアワアワ言っている。ソン・ガンホ似だが、到底及ばない。まさかファン・ミョンジョンが祈祷師役で出てくるとは思わなかった。悪霊払いで派手に踊るが、あれは作り事? 韓国の風習? 國村隼はこの役で得したのだろうか。韓国が日本をどう克服するかという暗喩のようだが、結局、異物として抱えるしかないようだ。ゾンビと底の浅い神学と脅かし映像の三位一体映画である。ナ・ホンジ監督は「チェイサー」「哀しき獣」の2作も完成度が低い。「哀しき獣」で悪党社長の情婦はすごく迫力があったが。この監督は、劇をまとめる力がないのでは。


31 スクープ(S)

封切りで見ようとしたが、じっとがまん。福山雅治が頑張ろうとするが、やはり無理がある。劇を引っ張るなどできない。脚本に無理があるのだから、それはごねるべきだ。突然、二階堂にキスしたり、元女房的な羊にもやさぐれ男のようなキスをしたり、こんなのは監督に文句を言うべきである。しかし、あの他人事のような演技は直らない。残念ながら二階堂ふみも、脚本の悪さを越えることができなかった。吉田羊もだれかの真似。滝藤賢一だけが、過剰な演技を抜かせば、しみじみいいところもある。写真週刊誌にも一片の真実があった、というのはホロリと来たが。すべてがデジャブだけど、これでいいのか、大根仁監督(「モテキ」も見ていない)。


32 ライオン

「奇跡がくれた数式」のデブ・パテルが主演、女優はフィンチャーの「ドラゴンタトゥの女」や「キャロル」に出たルーニー・マーラー。グーグルで25年の空白を埋めた男の物語で、意外と失踪に至るまでがていねいに描かれる。孤児を集めた施設では、夜に男児を外に連れ出して行くようなことをしている。主人公のサルーは施設に入る前に優しくしてくれた女性が呼んだある男に、どこかへ売られる(性的なことと思われる)と勘が働き、ぎりぎりで逃げ出している。彼は危機意識が働いたのである。そういうところが、何気なく描かれていて、好感である。サルーはじつはシャレルでライオンの意味であり、生まれた土地の名も少し違っていた。無人車で1300キロも運ばれ、言葉の違う地区まで運ばれる。ヒンズーが通じないベンガル地区? そこからタスマニアまで貰い子される。白人のマミーはニコール・キッドマン、ダッドはデビッド・ウェンハム。キッドマンの母親役とは、隔世の感あり。出生地をグーグルで探る話なので、そう盛り上がらない。


33 マーティンの小径(D)

チャールズ・ロートンという人が主演。1938年の映画である。戦前からずっと活躍した人らしい。寄りの絵のときに目が泳ぐような感じがある。ビビアン・リーが小娘役だが、次第にストリートから劇場内のスターへと駆け上がっていく。ロンドンの劇場のまわりにこういう芸人が屯し、芸能人の供給源になっていたことが分かる。閑話休題。彼女をバックアップしたロートンは相変わらず大道芸から抜けられない。レックス・ハリスンがビビアンを奪う役だが、彼も作曲の才能が枯渇しそうになってビビアンに捨てられる。そして、急にビビアンがロートンに温情を向け、舞台のチャンスを与えるが、大根だということでストリートへ戻る。今度は自分の居場所として覚悟して。ハリスンがこんな時代から歌っていたのかと驚いた。やはりミュージカルに出る理由があったのだ。


34 ガール・オン・ザ・トレイン(S)

主演エミリー・ブラント、「ボダーライン」で見ている。ヘイリー・ベネットは「イコライザー」「マグニフィセントセブン」で見ている。何だかこれとそっくりな映画を観たことがあるような……。よくできているが、ヘイリー・ベネットが脱ぎ役で使われた感じがあって残念。それからいけば「マグニフィセントセブン」の監督は彼女の扱いにリスペクトがあった。思い出したが、ベネットはアン・ヘッシュに似ているのだ。


35 フェンス(S)

デンゼル・ワシントンが監督・主演で、ビオラ・ディビスが妻役。ディビスはこれで何かの賞を取ったが、彼女は「ダウト」で初めて見て、いい役者だなと思ったものである。それに比べれば、今回の演技など朝飯前だろう。主人公の設定が中途半端で、もっと突き放して撮らないと主題が生きてこない。黒人であるがために淡い希望などを捨てた元野球選手。子どもを支配し、老いて外に子をつくる。それを善人のタフガイのように描くのは、やはり主演・監督の甘さだろう。


36 無限の住人(T)

三池崇である。大活劇が冒頭とラストにあるが、さて。ワイヤーロープによる飛び、跳ねを見せられる以上、活劇も活劇として見ることができない。そもそも刀では拳による殴り合いのような迫力は出にくい。残念だが、見る側がスレてしまっている。木村拓也はきっと魅力的なのだろうが、やはりいつもの「って言ってんだろ!!」式の台詞まわしばかり。ぼくはテレビは分からないが、もっとふつうの演技で彼を見てみたいものである。心理劇でもなんでもいいが。ヒロインが弱すぎるのと、現代っ子すぎる。そして単調。荷が重すぎた。綾瀬はるかの座頭市だったか、悪党どもの衣裳がなんだかヨーロッッパ中世のそれみたいで、非常に違和感があったが、今回もざっくりとスリットが入ったチャイナ服のようなものを着た女とか、ミニの着物(これは黒澤でもあったけれど)、黒マスクのおっ立ち頭の男とか、バラバラである。原作が漫画らしく、それに引きずられたか。これはう時代考証は別にいいのか。映画は江戸時代という設定である。そのチャイナ服の女、じつは花魁という設定だが、その衣裳が妙にしょぼいのである。花魁=豪華というのを見事に裏切っている。これも時代考証か? その女が拓也にいざとどめを差そうというときに、突然、自分を差配する男(福士蒼太)のやることに疑問がある、などと言い出す。これはヒドイ。市原隼人という役者は目が生き生きしている。市川海老蔵は、今まで見た映画の中で一番良かった。やたら腕を切り落とすのは品がない。


37 劇場版MOZU(S)

西島秀俊の主人公は線が細く、アクションシーンも迫力不足。長谷川博巳は何か西洋映画の役どころと勘違いしているのではないか。たとえば、バットマンのジョーカーのような。松阪桃李はほかの映画でもこういうキレキレの役を見たが、違和感なしに見ていることができる。老いた「だるま」を蘇生させるために少女誘拐、というのは馬鹿げた設定である。少女の身に何も起こらないと分かっているので、緊張感がまったくない。西島も殺されないのが分かっているので、ちっとも恐くない。予定調和で映画を撮って何が面白いのか。どこで撮影したか知らないが、もっとアジアの混沌のなかに入っていかないと、行った意味がない。ただ舞台を借りただけ。悪いハリウッド趣味がぷんぷん匂う。羽住英一郎という監督で、ぼくは見たことがない。


38 海を渡る座頭市(S)

池広一夫監督、脚本新藤兼人、女優安田道代、悪党山形勲と役者もそろい、いい出来である。ただ冒頭の手首を切り落として、それを見せる演出は要らない。自分を狙う男を殺すと、そいつの馬がてくてく市についてくる。分かれ道で、馬が別の道へ行くので市がついていくと、今度は先後が逆になる。市と道代が川で泳ぐシーンがあるが、ほかの座頭市でもあったようなシーン。「馬糞はらっきょうより嫌い」の台詞があるが、らっきょうをセックスの前に食べない、というのが「駅前旅館」にある。


39 ダンシング・クイーン(S)

ファン・ミョンジョン主演、しがない弁護士が線路に落ちた人を助けた、というのはウソで、後ろから押されてやむなくその仕儀になった男が、市長に立候補。ところが、かつてダンシングクイーンといわれた妻が、自分の人生をやり直すというので猛特訓し、仲間とデビュー。それが「家庭の管理もできない」と敵の材料にされるが、家庭も市も管理するものではない、との名演説で市長に。踊りも、民主義主義もきちんと描かれ、韓国映画は自由だし、日本より民主義主義のよさをしみじみ知っている感じがする。ソウル特別市長の特別が発音できないギャグがあるが、よく意味が分からない。監督イ・ソックンでジョンミンで「ヒマラヤ」を撮っている。


40 裏切りの陰謀(S)

ファン・ジョンミン主演で、ハグレ記者といった役どころ。政府以上の政府が邪魔者を消して、対北脅威を煽る。その陰の策略を暴く、というものだが、緊張感がない。地方出身の記者でスクープを放ち、中央にスカウトされた太った、はげ頭の男は、よく脇で見るが、堂々と準主役をやっている。なかなか愛嬌があっていい。娘が小児がんという設定で、それが分かると、「歳も近いのだから敬語なしで呼べ」と態度がくるっと変わるところがいい。最近、脇役の人が主役の映画も封切りされていている。韓国に違う流れが起きているのかもしれない。


41 スプリット(T)

シャラマン復活というから見に行ったが、またしてもダマされた。これで2回目である。彼は1作目の「シックスセンス」を超えることができないようだ。23人格が3人の若い女性を閉じ込めて、まったく恐くならないのだから、どうしようもない。


42 マンチェスター・バイ・ザ・シー

ケイシー・アフレック主演、監督ケネス・ロナーガン、監督・脚本で1、2本あるようだ。風景がまず美しい。半地下のワンルームの窓に人の脚の影が映るのだが、雪が降り始めるときの感じがいい。夜景もとてもきれいである。あと音楽がつねに鳴っていても違和感がないが、この映画は音は要らないかもしれない。場面転換で時間の流れが自由に表現されるが、一番最初だけちょっと戸惑うが、あとは何ともない。兄が死んだらしい知らせが入り、ボストンから1時間半のマサチューセッツの病院に駆けつける。医者と話をし、次に挟まれたシーンに、ベッドに横たわる男と、向こうには女と老人、こっちに背を見せているのがアフレックらしい。兄が入院したときの場面らしい。その映像を突然入れるのである。いまは配管工事などの便利屋をやっている彼、兄の子の後見人に遺言で指名されるが、その地には辛い思い出が一杯で、それを克服することができない。火事で3人の子を亡くしている。夜中まで自宅の地下で仲間と大声で遊び、妻(ミシェル・ウイリアムズ)の叱声で解散。2階は暖房がないので、薪ストーブに薪を入れ、片道20分の買い物に。帰ってくれば、全焼で子どもが死んでいた。ストーブに蓋をしなかったために、薪が転がり出したらしい。妻はそれを責め、結局は離婚に。兄も、妻がアルコールに溺れ、離婚に(入院時にはいるので、入院中に離婚か)。アフレックの妻、兄の妻、どちらも家庭を持ち、アフレックの妻は赤ん坊までできている。兄の病院まで行くまでに、仕事の様子がきっちり撮され、酔って暴力を振るう癖も描かれる。さみしい映画だが、最後、いまいるシングルルームから移って、一部屋用意しようかな、と洩らす。なんで? と兄の息子が聞くと、おまえがボストンに遊びに来るかも知れない、ボストンの大学に入るかも知れない、という。そこでささやかな和解が描かれる。アメリカ映画にも、こういう映画がまだ撮れるのだ。アフレックは心に残る名演であろう。


43 シカゴ(S)

前に見てぼくはきつかった。しかし、井原高忠が評価が高いので、再見。会話体と歌・踊りを完全分離することで成り立っているのがよく分かった。だけど、ぼくなんざ会話の途中で歌い出したってまったく平気である。これはミュージカルの基礎がないからなのか。そうでもないと思うのは、ずっとアメリカン・ミュージカルは、少なくともon the screen に関して言えば、ずっと不自然だったのである。


44 殺人の追憶(D)

何度目だろうか。今回は少し理屈っぽく語りたい。この映画の冒頭は妙に白っぽい、光が過剰に回ったような映像である。そして、最後も同じ白茶けた映像で終わる。その間は、闇であり、雨であり、森であり、女子校のトイレであり、廃屋のような民家である。城のような屹立したものとして大きな工場が映し出される。犯人と目される、眉目秀麗の、女のような柔らかな手をした青年はそこで事務の仕事をしている。彼は軍隊を退いて、そこの村にやってきた、という設定になっている。話の展開は、冤罪などまったく平気な田舎刑事とソウルからやってきた四大卒業の刑事との確執で展開するが、次第に事件にのめり込んでいくエリート刑事が冤罪でもぶち込んでやりたいとまで言い出す。彼にも旧時代の感覚が拭いがたく刻印されている。田舎刑事には病院の看護婦を辞めた恋人がいて、彼女から事件の行き詰まりに祈祷師を使うようアドバイスされたり、元気になる液体を注射してもらっている。


事件が大きく動くのは、刑事部の女性事務員が事件が起きる日に共通性がある、と言い出したからである。雨の日で、夕方のラジオのリクエスト番組に決まって同じ局がかかるときに、赤い服のきれいな女性が殺されている、という。そこからにわかに犯人像が絞り込まれるのだが、それまで容疑者として引っ張られていたのは、知的遅れのある変態オヤジ、顔に火傷のあとをもつ、これも知恵遅れの青年などだ。そこに端正な顔立ちの、まるで女形のような青年が真犯人として浮かび上がるとこに、この映画の最大の魅力がある。見えない縦糸のように、韓国が軍政だったころの機動隊と学生の乱闘の様なども挟まれる。事件発生の条件が整い、さあ機動隊を呼ぼうとなったときに、大きなデモに対処するために出払って、まんまと犯人に新たな殺人を許してしまう。


泥臭い旧世界と、つるんとした、表面上は美しいが、なかは得たいが知れない新世界。刑事たちの奮闘も、最後はアメリカに依頼したDNA検査で否定される。韓国がまさに変貌しようとしていたその時期をまざまざと描いた映画だったのではないか。それは冒頭とラストの白っぽい映像が如実に物語っている。刑事を辞めた男はいまはパソコンのセールスマンになっているという丁寧な落ちまで付いている。刑事や容疑者のいる闇の世界と近代工場とそこに務める白皙の美青年という光の世界の対比。といっても、その美青年も異様な犯罪を繰り返す存在でもあるのだが。軍隊経験がなにがしかの影響があったのかもしれないが、それを想像させる材料は映画の中にはない。


45 ミセス・ダウト(S)

ようやくにして見た。思いのほか面白かったが、やはり思い描いたままの映画だった。ピアーズ・ブルロスナンがいい男役で出ていて、何も悪いところがないのにミセス・ダウトにいじめられるのは理不尽である。子どもたちもけっこう懐いているのに。女性へと変身するときにシナトラの曲がかかっている。箒を使って遊んだり、楽しげにやっている。昔、自分が振ったブロズナンとの再会後のサリー・フィールドの、自信を取り戻したような表情がいい。


46 メッセージ(T)

ほぼ結末まで分かるような映画だが、最後になって仕組みが分かる構図になっていて、大作なのに考え落ちに入るのはどうかと思う。マグリットのような岩、タコのイメージの宇宙人、そこに蝟集するアメリカ軍、世界12箇所に散らばる宇宙岩など、すべて既視感である。宇宙人が墨文字を書くのには嬉しかったが。しかし、自分のとんでもない能力に気づかない言語学者とは? エイミー・アダムスにジェレミー・レナー、陸軍大将がホィットテイカーなど。監督ドゥニ・ビルヌーブでカナダ人、「ボーダーライン」を撮っている。あれも女性が主人公だった。宇宙人に最初に手を出そうとしたのが中国軍だが、その設定はおかしいのではないか。血気に逸るアメリカが先だろう。


47 20thセンチュリーウマーン(T)

アネット・ベニング主演で、彼女は大恐慌を経験している、と息子に揶揄されている。70年代に50歳半ばという設定である。息子ジェイミーはまだ15歳である。エイズも、ネットもまだ誕生していない時代だと言っている。古い家を買い、それの修理をしてくれている男もそこに住んでいる。ビリー・クラダップで、ぼくは「スポットライト」で見ているのだろうと思う。黙っていてももてるので女性の好みが分からないという。元ヒッピーでヨガをやる。もう一人の同居人は写真家で、かつての手術で子宮頸管に傷があり、子どもができないと医者の診断を受けるが、のちに子どもを2人なしている。彼女はジェイミーにもてる男の像を教えようとし、女の心理なども伝えようとする。トーキングヘッズなどの曲を聴き、下手でも情熱があればいい、とベニングには驚きの見解をもつ。夜な夜なジェイミーの2階の部屋に外から上がって来て、ただベッドに並んで寝るだけのが同級生のエル・ファニングで、この子には妙な気配がある。ジェイミーは彼女とセックスをしたいが、結局はあんたも普通の男と同じと拒絶される。2人は逃避行に及ぶが、結局は逃げ出すことはない。


ベニングが演じた20世紀の女は、調和のとれた音楽を好み、比較的害の少ないと思われるセーラムをヘビィに吸い(それは格好いいedgyと思われたから)、結婚をしないと幸せを掴めない女と思われるのが嫌で結婚したと言い、性的な露骨な言葉を使うことを嫌い、男性とは淡泊で、息子の言動についていけず上記2人の若い女性に訓育を頼み、毎晩ベッドでピターラビットを読み、自動車が火を噴き消火してくれた隊員を家に招き、息子が性から離れている女性の問題点を本を読んで説明すると、自分のことは自分で分かるからいい、と言う女性である。彼女に人生の焦りはない。悩んでいるのは、息子との関係だけである。しかし、息子が学校をさぼることには反対しないし、警官が突然車を止めさせて、職務訊問を始めることに抗議をするというリベラルな様子も見せる。カーターの道徳臭いテレビ演説を一人、素晴らしいと評価する。それが20世紀ウーマンだったというのである。いわゆる60年代以降のフェミニストの露骨さをもたず、自己主張も弱い。しかし、焦り、焦燥感のようなものがなく、ホスピタリティに溢れている。そこに監督は古き良きものを見ているのかもしれない。じっくりと人間関係のなかで、あまり波風立てずに描いていくのは好感である。しつこい感じもあるが、ヨーロッパ風な味わいさえ感じられる。ベニングはその特徴のない女性を見事に演じたという意味では称賛に値する。


48 鬼太鼓座(T)

加藤泰で、美術が横尾忠則、題字が粟津潔、電子音楽が一柳慧という豪華である。ローアングルも極まれりで、ふんどしで太鼓を叩く男の股間を下から撮すのにはまいる。三味線、太鼓だけでいいのに変なキーンという電子音をかぶせるのはナンセンスである。女性が美しくないのは魅力を半減する。

49 瞼の母(T)

江州(滋賀県)馬場の忠太郎は友人(松方弘樹)を助け飯岡の助五郎(千葉県香取郡東庄町)に刀傷を負わせて、5歳ではぐれた母を探しに江戸に出る。そこにも飯岡の手の人間がやってくるが、忠太郎はめっぽう腕が立つ。母は大店の女将(木暮三千代)に収まり、これも大店の嫁におさまる娘の婚儀を待ちかねている。そこに忠太郎が現れたので、最初は金銭欲しさ、つぎは乗っ取りを疑って、実子だと分かりながら忠太郎を拒む。火鉢をはさんで忠太郎がいまにも飛び付きそうな勢いで口説きをするシーンは、ちょっとやりすぎ感がある。しかし、いかにも芝居仕立ての感じが懐かしい。せっかく母や妹やその将来の夫(河原崎長一郎)が忠太郎を追って、名前を呼び叫ぶが、忠太郎は出ていかない。何の説明もないが、自分がいてはいけないところだと悟ったということなのだろう。むかしの人はそんなことは承知で見ていたのだろう。加藤泰監督である。


50 異人たちの夏(S)

大林宣彦監督、風間杜夫、永島敏行、片岡鶴太郎、秋吉久美子など。名取りが夜中に飲みさしのシャンパンをもって風間の部屋に押しかけ、半開きのドアで押し問答するところは、厚かましいけど憎めない感じも出さないといけないという微妙なところで、さすがの演技をしている。なぜ彼女と付き合いはじめたときに亡くなった父母と会うようになったのか、その理由が解き明かされない。3人に会ったことを感謝することで映画は終わるわけだが。異次元への境界超えは、廃線となった地下鉄が眼前を通ることで表現されるが、そのときほかに2人の同行者がいたわけで、彼らとその件に関してひと言も会話がないのはおかしい。一番の問題は名取裕子の正体曝露でオカルトになったことである。せっかくのほんわかした雰囲気が吹き飛んでしまう。


51 リンカーン弁護士(S)

監督ブラッド・ファーマン、ほかに見たことがない。マシュー・マコノヒー主演、彼も顔を知っているぐらい。 ライアン・フィリップという男優が悪役、この人も知らない。マリサ・トメイがマコノヒーの別れた妻、目尻のシワが目立つようになったが、相変わらずきれい。 ウィリアム・H・メイシーはシワが氷河のように顔を刻んでいる。思いもかけずいい映画で、ゆるみなく見ていることができた。残酷な殺人犯が無罪だといって弁護を求めてくるが、探っているうちにかつて自分が無期刑でぶちこんだ男の事件もそいつが引き起こしたものと分かる。しかし、守秘義務の壁で弁護を続けるしかない。それで採った手は? 駄目な弁護士だが、不正は許せない。それがきっと爽快感につながるのだろう。


52 ジョン・ウィック Chapter2(T)

予告編ではヨーロッパが舞台、それに着飾った人間たちの中で撃ち合い――ということで、またアメリカ映画のいつもの2作目の失敗パターンかと思った。やたら筋をややこしく、そして展開を早くして、中身があるように見せる、という手口で、初回にもっていた映画を駆動させる情念みたいなものが吹っ飛んでしまうのである。ジョン・ウイックを戦いに駆り立てるのは、亡き妻への愛情である。それが前作を貫き、統一感を持たせた。それとリタイアした伝説の殺し屋という設定が魅力的だった。今回はそれを何で補完するのか、というのが最大のポイントである。朝日新聞では何か批判的なコメントを掲げ、それでもアクションシーンはいい、などといい加減な映画評を載せていたが、これは2作目としてはここ最近では上出来の部類である。冒頭から車をガンガン走らせるのは常套手段で、そろそろこういう手も飽きてきている。妻との思い出が詰まった車を奪い返す、という設定だが、ここに出てくるロシアマフィアは次に展開する話とは別物である。なんとなくこのつぎはぎスタイルは、MIシリーズに似ている。

この映画を駆動させるのは、仲間の血の契りである。ウイックはそれを破ろうとするが果たせない。最後は組織全体から追われるところでフィニッシュである。柔道の背負い投げがくり返されるのは、前回になかったことではないか。格闘しながら銃を使うのは「レイド」のパクリか。何度も見ていると、ちょっと単調である。もう少しアクションの幅が欲しい。前半の話が一段落して、次のラストに移るまでの弛緩した時間処理をもっと工夫すべきである。これは最近のアクション映画全般に言えることで、冒頭で引っ張るだけ引っ張っておいて、あとの展開に移るまでがダレるのである。映画を30分短くすれば、この悩みは解決するはずだが、最近の映画は2時間を超えるのは平気である。一考あってしかるべきではないか。第3作目を期待したいが、制作陣もそのつもりではないか。


53 哀しき獣(S)

これで4度目である。まだこの映画の構図がよく分からない。投資家兼学者を殺したのは誰か。ラストを見ると、銀行員と結託した妻ということになるが、その学者と組んで悪事を働いていた実業家(?)は、死ぬ間際に学者が自分の愛人と関係を結んでいたからだ、と呟く。主人公は満州に帰る船で死に、捜して死んでいると思った妻はその故郷へと帰ってくる。さて、この「哀しき」獣たちは、なぜ哀しいのか。それは女たちに人生を狂わされたからである。初回から実業家の愛人の裸の迫力に驚いてきたが、実は監督はそこに力を入れたのである。故郷の駅に降り立った女房はあくまで清楚に撮っている。これもたくらみである。それにしても、のちに主役級になる人たちがごろごろ出ている映画である。学者しかり、満州のボスしかり、実業家しかり。主人公の影の薄いこと。


60 ニック・オブ・タイム(S)

in the nick of timeで「間に合って」という意味のようだ。すごいいい加減な映画だが、最後まで見てしまった。なんか前にも見たことがあるような……。素人を知事殺害者に仕立てる話だが、まわりはみんな反知事の人間ばかりで固めているのに、なんでわざわざ素人を雇って殺しをさせる意味があるのか分からない。ジョニー・デップ、クリストファー・ウォーケンが出ている。


61 優雅な世界(S)

監督ハン・ジェリム、主演ソン・ガンホ、彼の幼友達がオ・ダルス、娘がキム・ソウン、やくざの会長がチェ・イルファ、その弟がヨン・ジェムン。のんびり、ゆっくり進みながら、無理なく撮り終わっていて好感である。やくざでしか暮らせない男の哀感が最後に出ている。アメリカに行ってしまった妻、息子、娘の楽しそうな映像が送られてくる。最初はうれしそうに見ているが、途中で「なぜこんなことに」と悔恨に襲われ、食べていた麺の器を床にたたきつける。しかし、一人暮らしで誰も片づける者はいない。ゴミ袋とタオルを持ってきて拭き始めるが、彼の右横にある大きなテレビのスクリーンには相変わらずアメリカの団欒が映っている。皮肉なラストでいい。この監督はあと2作しかないようだが、ちょっと見てみたくなる。


62 ハイドリヒを撃て!(T)

朝日新聞は激評である。さてそうなのか。ぼくは仲間を密告する男がただ懸賞金のためにやったという演出をしているが、あれは史実なのか。その密告男がさんざんいたぶられたうえに犬のように使われる。そこに僕はナチの恐さを見た。ハイドリヒはナチのナンバー3ということだが、戦中で殺された中では序列1位だそうである。襲撃事件より、その後の教会での銃撃戦のほうが劇的である。チェコの愛国の映画をなぜ英語で撮るのか。英語帝国主義は取るに足りないとでも言うのか。


64 クーリンチ少年殺人事件

登場人物が多く、名前も似ているので、途中までよく分からずに見ている。小四、小明、小虎、山東、ハニー、小翠などなど。ハニーが山東に殺されるに及んで、やっと構図が見えてきた。ハニーを殺され、復讐の場面が停電で真っ暗という演出がいい。あるいは、頭を抜かして体だけを撮る方法だとか、馬生に会いに行った小四の場合、まったく小四を撮さず、馬生の動きだけで2人の会話を成り立たせている演出もいい。この映画の背景は、中国からやってきた国民党の本省人への弾圧である。小四の父親が監禁され、しつこく聞かれるのは中国共産党との関連である。小明がヒロインだが、つねに強い男に付く女で、自分にはいつも男が言い寄る、と平気で言う女である。小四は彼女に惚れ、彼女に翻弄される。そして、最後には彼女を殺してしまう。小四は小明および小翠と付き合うが、どちらからも「私を変えようとするのは間違いだ」と指摘される。おそらく、この女性が象徴するのは本省人で、どんな侵略をされようと変わりようがないという暗喩である。好きな女が倫理観などはなから捨ててかかっていたこを知るのはつらい。小四はまったく宗教臭のない男だったが、後半に来てクリスチャンの次姉に親近感を覚えるのは、作劇上の知恵でもある。小四が小明を刺して、「君は生き返られる」と叫ぶのは、その残滓だろう。はしなくも最後に教会の合唱団のコーラスが登場する。1箇所だけユーモアのシーンがあって、末子が母に、母の時計を売ったのは長兄だと告げ口するところ。長女が、なにもできないくせに、告げ口だけはする、といい、末子はぺろっと舌を出す。じつは時計を売ったのは小四で、そのことを次姉は知って、やさしく諫めることで、2人の気持ちが近づき、先のキリスト教への理解へと進むのだ。プレスリーを初めとするアメリカ文化の圧倒的な流入も描かれる。そこで高音の声を出す小さな人物が、とてもいい。彼の友達を思うピュアな気持ちで、この映画が陰惨にならずにすんでいる。映画の撮影所がデートの場所に使われたり、屋根裏から子どもたちが撮影現場を見るシーンがあるが、ある種のオマージュかもしれないが、最後に、小四は監督に「人間のことを分からずに映画を撮るな」と𠮟咤する。これは監督の強いメッセージであろう。最後に、この映画は実話ということらしく、小四は15年の刑を終えて出てきたときは30歳だった、と記される。4時間、身じろぎもせずに見た。まるで映画のなかで呼吸をしているような気になってくる。台湾の複雑な歴史について知りたくなった。


65 7つの贈り物(S)

ウィル・スミスがかなり痩せていて、とてもビューティフルに見える。彼が関わっていく人間たち、安宿に持ち込まれるクラゲ、彼の過去の記憶、それぞれがちょうどいい触れ加減で処理されていく。スミスの演技も見物で、こんな上手な人だったのかと感心した。良質な映画である。ヒロインのロザリオ・ドーソンが活版の印刷機でアートっぽいもの印刷しているのは心に残る。テレビが中心の女優さんらしい。


66 ワンダーウーマン(T)

世界でだいぶヒットしているようだ。荒唐無稽に、少しだけリアルを足したのが、新味になっている。ワンダーウーマンがナチの背後に悪魔を見て、戦いを挑むのである。そうなればただの暴力のインフレーションでしかないが、イギリス議会の描き方など丁寧なのである。それにしても、老人パトリック卿が悪い神というのは、ちょっと寂しい気もする。女優さんガル・ガドッドはイスラエルのモデルらしいが、黒髪が西洋人には神秘的に見えるらしい。どこかスザンヌ・プレシェットに似ている。横顔はあまり美人ではない。クリス・パインが下半身を見られ、アベレッジかと聞かれ、それ以上だと見栄を張るところが面白い。セックス談義をするところも、海外では大受けするのでは。快楽に関して12巻の書物を読み、男は快楽を運ばない、という断言するのには、笑ってしまう。きっと続編は見ないと思う。


67 レッドドラゴン(S)

どういう事情があってこういうモンスターが生まれたのか知らないが、彼は品位の人間として描かれ、一方で人食いでもあれば、残虐な殺人者でもある。そのギャップがこの映画の、基本的な構造を決めている。品位と汚穢である。ハンニバルに恨みを抱く金持ちは、顔をナイフで削いだために、大きな欠損を抱えている。しかし、その振る舞いには上級クラスの品位がある。ここにも2つの反対方向を向いた価値が組み込まれている。それにしても、食人のテーマは思いっきり下品だが。ハンニバル博士は、自分を負う女刑事を、地面に身をたたきつけるまで降下する鳥になぞらえている。ジュリアン・ムーアはよくその役を演じている。胸を強調するドレスを博士は彼女に着せるが、その彼女がつくテーブルには頭蓋骨をカットされて生きている上司が待っている。ここにも気品と下賤があるが、その上司の脳をカットして焼いて食わせるというのは最低である。


68 ハンニバル(S)

今度、ハンニバルは獄中にいて、男性刑事エドワード・ノートンのアドバイザー的な役目を負わされている。外で犯罪を犯すのはレイフ・ファインで、この選択はグッドである。あのジェントルな感じの男が、背中にレッドドラゴンの入れ墨を入れ、それをブンヤさんフィリップ・シーモアに見せるシーンは圧巻である。背中の筋肉を動かすことで、絵図が生きて動いているように見えるのである。彼がマザーコンであるというのは、あまりにも陳腐な絵解きで、安易にすぎる。その唇に三つ口の傷をもつ彼が愛するのが、盲目の女性であるエミリー・ワトソンである。美人でもない彼女をキャスティングしたのも、グッドである。エドワード・ノートン好きとしても、グッドの映画である。よくできている。


69 ラブ・アクチュアリー(S)

2度目である。登場人物が多いのに、情報量の処理が的確である。老歌手が男性マネジャーに恋していた、という箇所はちょっと無理がある。コリン・ファレルの作家がポルトガル人の女性の下着姿を見て、恋心に火が着くというのは、安易に過ぎないか、何歳だか知らないがヒュー・グラントの首相はうぶに過ぎる。何か彼の結婚してこなかった理由付けが要るはずである。ローラ・リニーが心病む弟思いで、自分の恋を諦めるところは泣ける。それにしても、このブログで以前に書いたように、彼女はよく脱ぐ。そして、スクリーンで見なくなったと思っていたら、ネットフリックスの連続物語に出ている。見ようか見まいか迷っている。


70 エイリアン・コベナント(T)

前回の「プロメテウス」の続編というが、前のを覚えていないので、それに関して何かをいうことはできない。1作目と同じくというか、さらにアンドロイドの完全体生命の執着は激しく、それが強調された、アンドロイドのための映画になっている。主人公の女性の魅力のなさを見ても、それが分かる。内容的には、リドリー・スコットよ、自己模倣を止めよ、である。ほぼ新しいことはない。なぜ先になんだか惑星にたどり着いたプロメテウスの方が、訳の分からない形状の宇宙船なのか。そっちの方が、飛ばすのは難しいはずだ。旧アンドロイドが、主人公の女性にかすかな恋心を抱えているのに、なぜ船外でエイリアンと戦っているときに助けに出ないのか、としたらニセものではないか、と僕だって分かる。船員2人のシャワーシーンなどのおまけは必要なのだろうか。流れからいって、下品である。エイリアンにあった、ぬめっとした恐怖感は消え去って、急に襲ってくる恐さだけであり、それは化け物屋敷の恐さと変わらない。あとは肉を突き破るスプラッターも多い。とても残念である。


71 三度の殺人(T)

是枝が社会的なネタを題材にしたのは初めてではなかろうか。新聞評は芳しくないが、篠田正浩はドスエフスキー的テーマを追い、惜しいところで大魚を逃がしたと新聞で語っていた。意中の人物であるゾルゲを撮って駄作しか作れない男にいわれたくないだろう、是枝も。篠田は、途中に神の視点が入ったからだ、というのだが、それが広瀬すずと役所広司の殺害場面を指すとしか考えられないが、あれは弁護士福山雅治の幻想場面ということだろうから、その意見は見当違いである。この映画は、正義を求めない司法のあり方と、供述がころころ変わる被告の、どちらにも荷担しない姿勢で作られているがために、テーマもぼやけたというのが本当だろう。過去にも殺人を犯している被告の生地にまで足を運ぶが、それで何かの結論を見出してくるわけではない。当時の警官からは、まるで殺人好きの人間にさえ思えるような発言がある。しかし、われわれが目にする再びの殺人の被告は、そうは見えない。はるばる北海道留萌まで調べに行った弁護士は、今度の事件とそれを結びつける努力をしない。広瀬と役所は情を通じ合ったということのようだが、それについて追求していくわけではない。この弁護士は、本当はやる気がないのではないか。役所は、生きていてはいけない人間がいる、と言うが、それと同じ台詞を福山も言い、最後の接見の場面ではあざとく2人の顔を並列させることもやっているが、それはちょっと無理な演出というものだろう。冒頭に是枝にしては珍しく俯瞰の絵で、右からタクシーが走ってきて、まさかカメラが寄るのかと思うと、そのまま寄って車内の映像となる。まるでハリウッドの真似である。これできちんと劇が進行するな、と思ったのが間違いであった。


エドワード・ノートンが二重人格を装って弁護士を騙す映画があったが、そう割り切って役所を悪者にすれば、それはそれで分かりやすい映画ができただろう。しかし、是枝が描きたかったのは、芥川の“藪の中”なのだから、ああいう曖昧な映画になるしかないのである。上っ面しか合わそうとしない司法のいい加減さを告発するでもない、被告の虚言癖に振り回される馬鹿さ加減を描くでもない。公判が始まっているのに、突然、被告が殺人をやってない、と言い出し、弁護士は被告信頼しているわけでもないのにその話に乗り、まんまと裁判に負ける。ここがいちばん盛り上がるべきところなのに、まったくその逆。その方針転換は意図的に広瀬すずを守るためにやったのでは? とあとで被告に聞くが、それこそ後の祭りである。テーマがきちんと定まると、監督の意図から離れる、という意味では、厄介な映画を撮ったものである。三度目の殺人の三度目とは、自己処罰という意味を込めているのかどうか。


72 ドリーム(T)

原題はHidden Figures で、これは黒人のことでもあり、NASAの宇宙飛行船開発に必要な数式のことでもあるだろう。本当に露骨な差別をしていたものである。黒人女性のトイレがなく、雨の中を書類を抱えて走らざるをえなくても、誰も助けない。彼女のポットを誰も使わない。最近、留学研修生で来ていたベトナム人(?)だったかが、工事現場で差別され、ペットボトルに入れた小水をかけられ、神経衰弱になった記事が出ていたが、日本でも同じようなことをやっている。


73 ターミナル(S)

トムハンクスが、母国が革命で失われ、ケネディ空港に留め置かれ、その人徳から人々に慕われる、という映画である。父親がジャズ好きで、あるアメリカのクラブに集うジャズメンたちからのサインを集めていたが、あと一人というところで亡くなり、その意思を継ぐためにNYへとやってきたという設定(それは最後に明かされるのだが)。英語が拙いのだが、早口の会話が聞こえるという矛盾もあるが、限られた空間のなかでの様々な工夫が楽しい。最初、空港の所長が寛大な措置をとろうとしても、それに乗ろうとしない。それはなぜなのかは、ちゃんと説明がされない。セタ・ジョーンズのきれいなこと。彼女に振られるのも、少し後味が悪い。


74 おクジラさま(T)

「ハーブ&ドロシー」の監督佐々木芽生の作品である。なんということもない映画。それにしてもイルカを人間に近いと言って、それを殺すことを生業とする太地の人々を殺人者と呼ぶのは常軌を逸している。世界では狐狩りと何だか(失念)は

中止されたと言っていたが、それは遊びとしての狩であって、暮らし生きていくためのものではない。そういういくつかの複合的な視点が示されている映画である。太地に住まうドイツ人ジャーナリストは、太地の発信力の弱さを言っている。シーシャパードたちと雲泥の差があるという。


75 闇金ウシジマくん(S)

山口雅俊監督で、プロデューサーから兼監督になった人のようだ。なかだるみの箇所もあるが、面白く見ていられた。ウシジマは圧倒的に力が強くて、金銭哲学が際立っている。こういう人物はどういう背景から生まれてくるのか。前に勤めていたという青森生まれの女性が訪ねてくるが、そういう人間にも好かれる人物である、という設定がこの映画に膨らみを与えているが、その女性のキャラがもう一つ立っていない。モンスターのような男が出てくるが、アメリカ映画だともっと強烈な暴力男に描くだろう。女たちを焚きつけてウシジマを告訴するイベント男のモノローグが入るようになっているが、これがこの映画を二流にしている理由だろう。もったいないことだ。ウシジマが拘置所でオムレツを食べながら「ケチャップ薄い」と小声で盛らすところなど笑ってしまう。ラストも、子分が人生訓みたいなことをとうとうとしゃべるのを、「もう分かったから、黙っていてくれ」とソフトに制するところも面白い。この監督、ウシジマしか撮っていないようで残念である。主人公はもちろん山田孝夫である。女性社員が1人いるが、それのキャラをもっと立てたら面白いかも。ヒロインの大島優子が堅気に戻り、若い店員に好意をもたれるが、その店員が市原隼人で、手抜きのキャスティングでないところが好感。続編はひどい出来だ。もうファイナルにたどり着けない。


76 ミックス(T)

新垣結衣で見に行ったが、やはりかわいい。意外と背が高く、全体がひょろっとしている。演技はほぼ現代風だが、さらっとしていて、そこが後味を引く感じがある。王道の筋を踏んだ映画で、楽しませてもらいました。ただ、2箇所、変なところがある。瑛太の名が、少年時に全国大会で優勝した子と同じで、その子と勘違いされるシーンがあるが、まったく筋と関係していない。脚本が間違っているのに、なぜ訂正しないのか。もう一つは、新垣がむかしの恋人とよりを戻そうとしたが、気が乗らず故郷へ帰ってくるが、そのことをなぜ瑛太は知っているのか。細部に配慮が足りない。こういうことをごまかす監督は信用がおけない。蒼井優が中華料理屋の変な日本語をしゃべる店員になっているが、頭が下がります。彼女はどこへ行こうとしているのか。新作も期待が大きい。


79 アトミック・ブロンド(T)

シャリーズ・セロンのアクションものは「イオン・フラックス」以来ではないか。「マッドマックス」はテイストが違う。この映画、遊びっぽいタイトルロールから、見なきゃよかったかな、と思ったが、あまり本編では変なことはやっていなかった。ときにアメリカ映画で、前衛を隠して作るものがあるので、要注意なのだが。

ベルリンの壁崩壊当時の話なので、アトミックも分からないわけではないが、やはり古い。例によって、西側スパイのリストがソ連に渡りそうになるという話で、相も変わらずである。Mー16のスパイと思っていたらKGBと二重スパイで、最後はCIAだというのでは、何がなんだから分からない。いったい主人公は誰と戦っていたのか。ジョン・ウイックやイコライザーなどは筋がシンプルで、格闘技が冴えているのでヒットしたのである。それから行くと、この映画、アウト・オブ・デイトである。シヤリーズ・セロンの乳首見せはサービスかも知れないが、別に必要ない。レズのシーンもどうかと思う。2はないと断言できる。


80 ブレードランナー2045(T)

十分に楽しめました。2時間44分、ほとんどまんじりともせず見ていた。前作ははなから名作の香りがしたが、今作も期待以上だった。前作の染み通っていくような哀しみはないが、いくつか新しい映像――レプリカントにイメージの女が重なってセックスに至るところや、難破した小型宇宙船に海水?が降りかかるところを俯瞰で撮ったり――もあって、ほぼ緊張感をもって見ることができた。前作のほうがデスペレイトな未来の感じが出ていたが、今回のは前ほどそうは感じない。退廃のアジアが経済成長著しいことと、核戦争の脅威は以前ほど強くないからではないか。レプリカントが子どもを産むというのが主題だが、そんなことあり? の世界である。武器がナイフというのも、なんだか現世的である。廃墟のイメージはくり返しさまざまな映画で見ているので、ちょっとやそっとではもう驚かない。あと2045年の設定はいくらなんでも近すぎる。過去の懐かしい映像としてシナトラ、モンローが出てくるが、それは今だって懐かしい。町の様子をもっと見てみたかったが、残念ながら前作を超えていない。


81 次郎長三国志・初旅篇(D)

「次郎長売出す」が1作目で、これが2作目。この映画は、茫洋とした次郎長・小堀明男でもっている。ある若い衆の仲裁に入って、赤鬼とかいう親分と果たし合いをすることになり、次郎長が言うのが、「売られた喧嘩、できるかぎりのことをやってみるさ、なあ」である。あるいは、その若い衆が一緒に出奔した女の親父に会いに行くシーン。次郎長が挨拶することになり、「どうかな、まずは、当たってみるずら」と自信なげに言う。それを子分ども、とくに大政(河津清三郎)が、そういう言いながら親分なら大丈夫だ、という顔つきをしている。赤鬼を名前ほどでない親分と分かり、啖呵を切るところは今度、とろとろした感じがなくて、切れのいい台詞回しをする。どうせ切った張ったの世界、たいしたことはないわけだが、そこにきりりとした美学があることを、マキノは知っている。子母沢寛が描いた、背筋がぴんと立ったヤクザの世界が直接的に描かれていると感じる。ほぼ終わり近くに森繁の石松が出てくるが、すごい怪演である。キキツと首をひねったり、口を曲げたり、どもり始めるとさらにその演技が熱を帯びてくる。河原での果たし合いの様子が描かれないことと、それについてあとでまったく触れないことは、おかしい。石松の登場にウエイトをかけたせいだろうとは思うが、いい加減なものである。のちに鶴田浩二が次郎長をやっているが、こののほほんとした小堀の次郎長には敵わない。仁義を切るのに相撲の蹲踞の姿勢をしているが、それが本物か。むかしの映画を役者の身体性から見るのは、ひとつの楽しみ方である。小林信彦御大は、アチャラカは身体の動きで決まるのだとおっしゃっている。それは舞台を見ての感想で、さすがに鋭い。ぼくが三木のり平好きなのは、そのせいである。


82 次郎長と石松(D)

第3話ということになる。石松と追分の三五郎とのあれこれが前半で、後半が次郎長一派が賭博開帳の罪で牢に入ってのいろいろ。石松が惚れる門付けかつ壷振りが久慈あけみで、妖艶である。湯船から立ち上がり、胸の高まりを見せる大サービスもある。これはきっと当時の話題になったことだろう。後年森繁は久慈と社長シリーズの夫婦をやっているが、こんな若いころに一緒に出ていたとは知らなかった。三五郎を演じた小泉博が軽妙で、人非人で、しかも石松思いの細やかさもあって、いい役者である。石松を出し抜いて久慈とくっつこうとしたが、久慈にソデにされ、喧嘩で足に負った傷が痛んで路傍に足を投げ出して坐っているところに廣沢虎造(役名虎吉)が通る。小泉「お兄さん」虎造「若きゃない」小泉「きょうだい」虎造「ふざけんな」小泉「親分」虎造「なにか用事か」――この掛け合いは面白い。

次郎長たちは牢名主にいじめられるが、ニヤニヤして聞いている。いずれ痛い眼にあわせてやる、という魂胆が出ている表情だが、前2作の次郎長のイメージとちょっと違う。もうふてぶてしいのである。あの豆腐のような軟体人間のおかしみが消えている。これは牢内という設定のせいなのか、あるいは演出の間違いか。次作以降を見てみないと分からない。


83 濡れ髪牡丹(D)

雷蔵と京マチ子の恋の鞘当て。京マチ子が3千人の部下をもつやくざの親分、難関の試験を通った人間を婿にするというが、みんな敗退する。雷蔵だけが通るが、諸事万端免許皆伝の男。だけど、試合には負けてやり、また1年後にやってきて、またさらに1年後にやってくる。安部徹が身内から裏切る役で、あれだけ強いとみんなが言っていたのに、女の力じゃ男に敵わないだろうと言い出す始末。大辻士郎が京マチ子の命令で雷蔵の付き人に。なんとも面白みのない役者である。

雷蔵の喜劇だが、ぼくは彼の明るさが生きていて、感服した。京マチ子は薹が立ちすぎている。熟れすぎて新鮮みがないが、刀を振り回したり、頑張っている。女は結局、男にすがる、と堂々と言っているのが、やはり時代である。


84 ゲット・アウト(T)

すごい駄作。朝日の評に釣られたが、あまりにもひどい。道路で突然何かが車にぶつかってきた時点で帰ろうと思ったが、仕方なしに見てしまった。突然、部屋の中を誰かがよぎったり、暗闇の中を走ってきたり、手口が幼稚である。多様性のなかの恐怖、と朝日で柳下毅一郎とかいう評者が書いていたが、白人至上主義以外の何ものでもない。おふざけではない。主人粉を演じた黒人もひどい。口を開けたまま演技をしない。まえも朝日は、韓国映画「コクソン」を“懐柔しえない怪物”と書いていたが、あれは日本を消化仕切れない韓国のジレンマを扱ったものだ。あの國村隼の演技を褒めるのは犯罪的でさえある。


85 女神の見えざる手(T)

原題はMiss Sloneである。ジェシカ・チャスティン主演、マーク・ストロング、ジョン・リスゴーが脇。監督はジョン・マッデン。銃コントローになぜそれほどの熱意を燃やすのか、敏腕ロビストの背景が分からないが、映画は面白い。一人でやるコーンゲームである。おそらくだが、上流に位置する女性で、これだけ強烈でアクティブなタイプが描かれたのは初めてではないか。性の処理のために男娼まで呼んでしまうのだから。アメリカではよく、ある法律を通すために、議員間でさまざまな駆け引きが展開されるようだが、銃規制の問題がここまで伯仲する、というのは驚きである。かつて銃撃事件に巻き込まれたことをTVで告白した女はチャスティンのチームの一員で、再び街中で殺されかけるが、それを阻止した市民マッギルは、直前に、その女性とすぐ近くの建物のロビーでぶつかり、女性は書類などを床に落とす。男は書類を拾うふりをして、何かを手にしたが、あれは何だったのか、いま一つ分からない。マッギルは銃擁護派の回し者という設定ではないのか。映画のなかで、それについて触れられることはない。この映画はもう一度、見る必要がある。それにしても、「ヘルプ」でスノービッシュな白人女を演じたチャスティンが、正当な女性主人公として活躍しているのは、珍しいケースである。彼女の幅の広さを感じる。


86 赤ひげ診療譚(S)

1965年の作で、次が5年後の「どですかでん」である。前に見ているが、仁木照美の狂いの場面以外、ほぼ憶えていない。これは盛り上げ型のドラマツルギーではない、黒澤が円熟期を迎えたような、挿話をつなげるゆったりとした作劇である。死と再生が大きな要因となって青年は成長していく。その先に三船という師夫がいる。この三船は紋切り型で、魅力に欠ける。加山雄三はその下手さ加減がちょうどいい。死は藤原鎌足、山崎努という、誰からも好かれる2人、そして再生は女郎屋から助け出された仁木照美と療養所にかゆなどの盗みに入る小さき泥棒の2人。桑名みゆきは大工の山崎に出会い、結婚することで幸福な暮らしを味わうが、父親に会わせようとしない。それは後で理由が分かるが、彼女には許嫁(いなづけ)的な男がいて、男は桑名の父親にあれこれと援助を続けていて、そのこともあって、好きでもないが、いずれ結婚する相手と思っていた。父親に山崎を会わせると、それが露見してしまう。桑名は山崎と結婚するために、父親の言うことを聞かず、出てきたのである。彼女は、日々の暮らしがあまりにも幸せなので、そんなことが自分にあっていいものかと不安を感じる。地震に遭うことで、やはり不幸がやってきたと、実家に帰り、前から言い寄っていた男の女房になる。しかし、浅草の縁日で山崎に会い、今まで夢の中にいたような思いがしていたが、それが一気に晴れたと言って戻ってくるが、山崎に抱きしめてくれと言ったときには、手に刃を持っていて、腹部を刺して死ぬ。山崎はその一部始終を死の床で長屋の連中に語り、臨終の時を迎える。仁木照美は自分を介抱した加山に思いを寄せるが、加山に女がいることを知り、また固い殻のなかに閉じこもろうとする。しかし、泥棒少年(次作の「どですかでん」の主人公)の窮状に同情することで、彼女の優しい心が発露する。そのことを、三船は読んでいる。

沛然と降る雨、集団の正面図(療養所の連中が自宅へ帰る山崎を送る場面)がもつ迫力、加山と仁木のサイレント的なやりとり、いくつか見どころがある。なかでもかなり続く加山と仁木のサイレント的なやりとりは貴重である。