平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

切断の原理と肯定――千葉雅也『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』を読む2

 前回の『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)の書評を著者の千葉雅也さんご本人が読んでくださったようだ。おかげでやる気が出たので、続きを書いてみた。
 

 
 誤解のないように最初に断っておくけれども、前回わからないと言ったところは、謙遜でも皮肉でもなく、ほんとうにわからない。考えに考えて、「これはこういうことだろうか?」とそれらしい解釈を思いついたところも、あとで考えなおしてみると、ただわかったと思い込みたいがためにひねり出した屁理屈じゃないかとさえ思えてくる。今回もずっとそのくり返しだ。だが、ただどこがどうわからなかったかを書き連ねているだけの記事でも、著者ご本人が読んでくださるなら、もしかするとどこかでそこのところをわかりやすく説明していただけるかもしれない。それならこの長ったらしい記事も無駄ではないだろう。以下、敬称は省略する。
 
 もちろん、私もただ一人で考え込んでいただけではない。ほかの方の書評はもちろんのこと、千葉と哲学者の清水高志や、批評家の蓮實重彦や、小説家の阿部和重との対談などを読んでみたりしてはいるのである。しかし、それでも一向に理解が深まったという感じがしない。そういえば、「じんぶんや第93講」のエッセイ「切断と接続のスタイル」で、千葉が『動きすぎてはいけない』の要旨を説明しているのも見つけて読んだ。
 

 動きすぎないというのは、自分を他者に関係づけすぎないということです。が、動かないのではない。他所へ、他者へ関心を向けるのをやめて「ひきこもり」に徹しようというのではありません。動かないのではない、「すぎない」くらいに動くのです。関係=接続を過剰化はしない。それは、世界のすべてにつながろうとしないことであり、また、そもそも世界のすべては(潜在的に)つながっているという世界観を放棄することになるでしょう。諸々の関係が、あちこちで「ある程度は」切断される。

【じんぶんや第93講】千葉雅也選『切断と接続のスタイル』 | 本の「今」がわかる 紀伊國屋書店

 
 このような千葉の「わかりやすい」説明のせいか、「動きすぎてはいけない」というテーゼは、「流行っているから」とか「まわりがやっているから」とかいうような理由で、大して興味のないものや無駄なものになんでもかんでも手を出してはならないというたぐいの戒めとして概ね理解されている。もちろんそれは誤解ではないだろう。だが、ほんとうにその程度のことを言いたいだけなのだろうか? それだけのことなら、やましたひでこの『新・片づけ術「断捨離」』(マガジンハウス)とか、近藤麻理恵の『人生がときめく片づけの魔法』(サンマーク出版)のような整理術や節約術を指南する自己啓発書のたぐいを読んだほうが、よほど役に立つアドバイスが得られるだろう。ほんとうにそれだけなら、そこにはなんの新しさも発見もない。というより、それではあたりまえのことしか言っていないではないか!
 

新・片づけ術「断捨離」

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人生がときめく片づけの魔法

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 前回のまとめになるが、本書の最大のオリジナリティは、非意味的切断を「動きすぎないこと」に「善用」するというテーゼにあると私は考えている。大事なところなので、あらためて引用しておこう。
 

 或る時点のTwitterのタイムラインに切りとられた不完全な情報によってふるまいを左右されかねない――掘り下げて調べる気力すらなく――といった痴態。あるいは、SNSのメッセージをひとつ見逃していて――疲労のために――、或る会合への参加を選択できなかったことで、別の行動が可能になること。意志的な選択でもなく、周到な「マス・コントロール」でもなく、私たちの有限性による非意味的切断が、新しい出来事のトリガーになる。ポジティブに言って、私たちは、偶然的な情報の有限化を、意志的な選択(の硬直化)と管理社会の双方から私たちを逃走させてくれる原理として「善用」するしかない。モダンでハードな主体性からも、ポストモダンでソフトな管理からも逃れる中間地帯、いや、中間痴態を肯定するのである。*1

 
 善用に留保のカギカッコがついているのが気にならないこともないが、それによって非意味的切断を利用するという意味まで帳消しにされてはいないはずだ。だいたい、非意味的切断を「動きすぎないこと」に利用しないということは、本書の趣旨からしてありえないだろう。利用しないのなら、なんのためにわざわざ何ページにもわたって非意味的切断を論じたのかという話になる。くり返すが、非意味的切断は、「「すぐれてクリティカルな体験」に劣らず、何らかの「本能」や「共同幻想」とされるものを、ズタズタに破砕する」*2とまで言われる、本書の可能性の中心である。
 
 では、どうやって非意味的切断を「動きすぎないこと」に利用するのか? 私にはそれがさっぱりわからないのだ。だが、そこがわからないと本書の議論はほとんどなにも理解できていないに等しいであろうことはわかる。私以外の読者はそこがわかっているのだろうか? 失礼を承知で言うが、私はほかの論者はこの問題に躓いてさえいないように思える。だれもが、あまりにも安易に不要なものを切断する必要性を再確認することで満足して終わっているように見える。だが、そうかんたんにわかったつもりになってはいけない。「倒れ込んだまま、止まったままでいることのほうが時として困難なのだ、起き上がってもっと遠くへ行くことよりも……」。*3
 

有限性について

 
 千葉の言う非意味的切断とは、私たちの有限性によって意図せず生じるなにかとの関係の断絶、またはなにかとの関係がはじめからまったく生じないことを意味する。したがって、「めんどうだから」とか、「飽きたから」とか、「退屈だから」とか、なんでもいいが、とにかくその理由や意図や目的を本人が説明できるような切断は、千葉の言う意味での非意味的切断ではない。そこには理由や意図や目的があるのだから、有意味的切断である。
 
 前回は、千葉の非意味的切断によって偶然起こる情報の有限化を肯定ないし善用するというテーゼが、なにを言わんとしているかを考察してきた。残念ながら、それはいまのところうまくいっているとは言えないが、とにかくそのテーゼを少しでも明確化するために、今回はまず千葉の言う有限性とはどのような事態を意味するのかを考えてみたい。
 
 本書の第5章「個体化の要請」において、千葉は有限性という事態を次のように説明している。
 

 無限な接続過剰から、部分的な無関係へ、すなわち、有限な接続と切断へ。
 この場合、「有限」というのは、関係しうる範囲がこれっきりに閉じてしまうことをただちに意味してはいない。関係しうる範囲は、様々に広く/狭く、密に/疎に、何度でも=「可能無限」的にリセットされうるが、そのつどの、アドホックな範囲は限られている。*4

 
 千葉によれば、そのときどきに成立している有限な接続の範囲は、「可能無限」的にリセットされうるのだという。これはよくわかる。私たちがなにかと関係しうる範囲は、私たちの能力や、活動できる時間などの条件によっておのずと限られる。そしてその関係の範囲は、私たちの活動にともなって絶えず変化するだろう。ここで千葉はごくあたりまえのことをあたりまえに説明しているだけだ。
 
 むしろ、人間が無限な接続過剰という状況におかれるとはどういうことかをイメージすることのほうがむずかしいのではないだろうか。というか、そもそも人間がそのような状況におかれることなどありえないだろう。インターネットやソーシャルメディアをイメージする人もいるかもしれないが、現実に私たちがつながることができるのは、パソコンやスマートフォンの画面に表示できる範囲だけである。検索エンジンによって検索可能な情報でさえ、私たちは隅々まで把握することはできない。私たちがなにかと関係する範囲がどれほど広がろうと、それはどこまでも有限なものにとどまる。その意味では、千葉の無限の接続過剰という表現は大げさすぎるように思える。
 
 事実として、私たちのなしうることの範囲は有限である。とはいえ、その範囲は何度でも更新されうる。ここまではいい。しかし、この私たちの生におけるたんなる事実にすぎないことがらは、本書末尾の第9章「動物への生成変化」において、なぜか唐突に私たちがめざすべき目標となる。
 

 むしろ、世界を貧しくするべきなのである。生成変化によって世界を貧乏化する。それは、世界の有限化である。この場合、有限化という事態を、私は二つの意味で用いている。(1)世界を構成する要素を少なくすること。(2)世界を構成する要素に対する反省性を削ぐこと、つまり、事物に、痴呆的なしかたで「とらわれ」る、あるいは、中毒的になるということ。換言するなら、(1)フィルタリングないしフレーミングと、(2)アディクションである。*5

 
 どうして世界を貧しくするべきなのか? 千葉によれば、それは貧しさがもたらす無関心によって他者性をより際立たせた他者に応対するためだそうだ。*6ここで千葉の言う他者とは、森のなかで突然ダニを死に追いやる偶然の暴力にたとえられるようなものなのだが、そのような非意味的暴力には、非意味的平和で対抗するのだと千葉は言う。その非意味的平和とは、書くことである……と、ここまで読んでもらえばわかるとおり、私はこのあたりで千葉の言っていることがまるで理解できない。要約としてはまちがってはいないと思うが、ウソだと思われては困るので原文を引用しておこう。
 

 環世界のあいだで書く。それは、非意味的暴力に対し、同じく非意味的である平和によって抗することである。それは、非意味的暴力の交錯のただなかで、それと同じく非意味的である多数の無関心の間隙を、孔を、開けておくことだ。自然史を、多様な〈無関係束〉に生成変化させる。*7

 
 こうして引用してみても、やはりわからないものはわからない。書いている本人はほんとうにわかっているのかと疑いたくなるほどわからない。わからないなりに解釈すると、千葉は「書くことは無関係なもの同士の隔たりをさらに広げることだ」と言っているように思われる。それがどうして非意味的暴力に対抗することになるのかもぜんぜんわからないが、それ以前に、そもそもなぜ書くことが「多数の無関心の間隙」を開けることと同じになるのかがわからない。書くからには当然だれかに読んでもらうことを想定しているはずだと思うのだけれども、ちがうのだろうか? そして当然、読んでもらうためにはまず関心をもってもらわなければいけないはずだ。
 
 千葉の言う「多数の無関心の間隙」というものがなんであれ、それは書かれたものが読まれることによって生じるはずである。読まれること以外に書かれたものが効果を発揮する契機は存在しない。いったい千葉は、どういう読み手に読まれることを想定して書くことを考えているのだろうか?
 

有限化について

 
 だめだ。わからないので戻ろう。一つまえの引用部で千葉は、世界の有限化とは、フィルタリングやフレーミングアディクションのことだと言っている。それらはいずれも私たちがそうすべきものの事例として挙げられている。千葉が区別しているように、(1)のフィルタリングやフレーミングと(2)のアディクションではずいぶん性質が異なるので、それぞれ分けて考えることにしよう。
 
 ではまず(1)のフィルタリングとフレーミングについて。千葉によれば、これは「世界を構成する要素を少なくすること」を意味する。私が冒頭で示した疑問が生じるのはまさにここなのだ! それはすなわち、この世界の構成要素の削減には、非意味的切断を利用するのか、それとも利用しないのかという問題である。
 
 このあたりの箇所ばかりでなく、だいたい本書の中盤あたりから、千葉は切断という言葉を、非意味的切断ではなく、ふつうの意味での切断、すなわち「意図してなにかを切る」という意味で用いているような印象を受ける。あるいは、どこかの段階で「意図されたものではあるが、なんの意味も価値もない切断」が断りもなく非意味的切断に含められている。そうとしか思えない。実際、そう割り切って読めば、本書の後半の論考は私が思っているほど難解なものではないのかもしれない。だが、先ほども言ったように、そうだとすると、本書の冒頭の非意味的切断論と、本書の実践論である生成変化論との接点がなにも見出せなくなってしまう。もちろん、無関係ならそれでもかまわないけれども、おそらくそうではないと私は思うのだ。
 
 とは言うものの、非意味的切断をフィルタリングやフレーミングに利用するのだとすれば、どうやって利用するのだろうか? 私には皆目見当がつかない。フィルタリングとフレーミングという言葉のもともとの意味に従うなら、そこには必要なものと必要でないものを選別するというニュアンスがあるはずだ。だが、その基準がなんであれ、それに照らして不要なものを切り捨てるのであれば、それは有意味的切断である。では、そこに非意味的切断はどのような役割を果たすのだろうか?
 
 私なりにいろいろ考えてみたのだが、たとえば、フィルタリングにかけられる以前に個体に接続されている所与の構成要素の範囲の画定は、非意味的切断によって起こるという考え方はできるかもしれない。そこに集められたアドホックな構成要素の集合は、なにかよいものを選び出すために充分であるとは限らないから、それを中間痴態と呼んでも差し支えないだろう。しかし、それだけでは非意味的切断を「善用」すると言う根拠としては弱いように思える。善用と言うからには、やはりそこにはなんらかの行為が関与していなければおかしいのではないだろうか。
 
 前回もちょっと書いたように、中間痴態の善用を「所与の有限な情報の範囲内でうまくやること」と解釈することはできなくはない。とはいえ、非意味的切断や中間痴態を、生成変化や出来事が起こる以前の所与の条件と理解してしまうと、私たちの有限な生のなかで、非意味的切断や中間痴態でないような状態は一瞬たりとも存在しないことになるだろう。そうではないだろうか? だとすれば、千葉の「私たちの有限性による非意味的切断が、新しい出来事のトリガーになる」という主張は、「人生なにが起こるかわからない」というつまらない一般論となにも変わらなくなってしまう。
 
 言うまでもなく、千葉はそんなことを言いたいのではないと思う。となると、私たちはやはり(1)のフィルタリングとフレーミングには非意味的切断が利用されるという路線で解釈するほかなくなる。それは、もともと有限な情報をさらに有限化するプロセスのどこかで非意味的切断を活用することを意味するが、何度も書いたように、私にはそんなことができるとは思えない。
 
 ある特定の条件からはじまる有限化を考えてみよう。そのプロセスの途中のある時点で偶然非意味的切断が起こったなら、それがそのとき有限化されつつあった構成要素をさらに限定するということは起こりうるだろう。だが、それを非意味的切断の善用と呼ぶのはやはりおかしい。そのとき起こった構成要素の切断をたまたまうまく利用できたとしても、そのこと自体は、たんなる幸運がもたらした状況の好転にすぎない。なにより、それではただ状況に流されているだけで、私たちの側からの事物へのはたらきかけがなにもない。しかも、そのとき起こる構成要素の切断が肯定できるものである保証はどこにもないのだ。もっとも、千葉は失敗する可能性も含めて、そうした変化の契機そのものを肯定することをめざしているようではある。
 

 貧しい個体は、ア・ポステリオリに生成変化することで、新しい力能を――理念的には、無限に――得られるかもしれないが、得られないかもしれないのだ。そのように他者と自分を、いわば〈存在論的に第一次的に諦める〉ことを考えてみるのはどうだろうか。無限に豊かになれるかもしれないという希望――この希望とセットになった、当座の有限性への諦めが、ラカンにおいて象徴的去勢であった――に誘導されることなく、その上でそれでも、新たな関係を求めることはできるだろうか。或る貧しさから別の貧しさへの生成変化を、互いに交錯させる共同性――このことが、ドゥルーズのヒューム主義から誇張的に読みとられる〈存在論的有限性〉の実践的意義である。*8

 
 さて、ここまで私なりに思いつく限りのアプローチで「非意味的切断を善用する」とはどうすることかを解釈してきたのだが、そろそろ万策尽きたようだ。しかし、それでもやはり依然としてわかったという気がまるでしない。ひょっとすると、ここまで試みてきた解釈のなかに当たっているものが含まれているかもしれないけれども、確信がもてないのでなんとも言えない。このまま続けても、おそらく前回のくり返しにしかならないだろう。ほんとうにくやしいが、この問題についての読解はここで断念するしかないようだ。
 
 そろそろ(2)のアディクションの解釈に移るべきタイミングだろうが、ほかに気になることがあるので、先にそちらについて述べておこう。私が気になっているのは、千葉の肯定という語の用法である。
 

肯定について

 
 ここまで読んできて、本書の千葉の論考では、私たちの有限性について一見両立しがたい二つの態度をとることが提案されていることに気づくだろう。すなわち、私たちの有限性ないし中間痴態は、序章においてはそれを「肯定する」*9ことが、第5章においてはそれを「存在論的に第一次的に諦める」*10ことが提案されている。だが、この二つの態度は両立しうるだろうか? 単純に二つをくっつけて、「諦めることを肯定する」ということだろうか? しかし、それでは肯定という語の意味が無化してしまい、ただ「諦める」と言っているのとなにも変わらなくなってしまう。
 
 千葉による肯定という語の用法の理解に近づくために、ここで千葉によるドゥルーズの肯定概念の解説を参照しておこう。本書の第5章において、千葉は『差異と反復』(1968年)におけるドゥルーズ強度=内包性の倫理の第一原理を次のように説明している。
 

 強度=内包性の倫理には、二つの原理しかない――最低のものすら肯定するということ、折り解
 かれ=説明され(すぎ)ないということ[ne pas (trop) s’expliquer]。
 
 第一の原理、「最低のものすら肯定する」というのは、すぐに了解できる。二つの解釈をしておこう。一方で、これは、差異の複層的なカップルを、あらゆるレベルで肯定せよ=実在的であると考えよ、ということである。他方では、常識・良識に照らして「最低」の評価を受けるものごとであっても、必ずやそこに潜在している差異の交響、諸関係=比のネットワークを尊重するべきである、ということだ。*11

 
 まず、一読して明白な些細な解釈の誤りを指摘しなければならない。ドゥルーズの言う「最低のもの」とは、千葉が誤解したように、「常識・良識に照らして「最低」の評価を受けるものごと」ではなく、強度量ないし内包量が最低のものという意味である。この量を測定する基準として常識や良識が利用されることはなくもないが、もちろんそれがすべてではない。たとえば、ニーチェが批判したような禁欲主義の道徳においては、最も力の少ない者が最高の評価を受けることがありうるけれども、ここでドゥルーズが問題にしているのは、明らかにそうした道徳の外部にある基準によって測定された力の量である。それこそが、通俗道徳やイデオロギーを批判する足場となるのだ。
 
 それをふまえた上で、「最低のものすら肯定する」ということの意味を考えてみよう。千葉は「すぐに了解できる」とこともなげに書いているが、これは見かけに反して恐ろしく難解なテーゼである。というのも、最低のものを最低のもの呼ばわりするからには、それをそう評価するだけの十分な理由があるはずだからだ。そうでないのなら、愚かな博愛主義者のように「最低のものなどない」と能天気に唱えていればいい。だがドゥルーズはそうは言っていない。したがって、ドゥルーズのテーゼは、最低のものに対する最低であるという評価を保持したままでそれを肯定するという意味であると理解されなければならない。
 
 まず、それがなんでないかを明確にしておこう。第一にそれは、最低のものを最低のものと軽蔑しつつ、お情けで分不相応に高く評価してやることではない。それは肯定でも尊重でもない。だいたい、なんのためにそんなことをしてやる必要があるのか? 第二に、それは、最低のものの最低なところを無化するほどよい面を最低なもののほかの面に発見することでもない。それはただよいものをよいものとして肯定しているだけであり、最低のものの最低な面から目を背けているだけである。だが、「最低のものすら肯定する」というテーゼは、ほとんどの場合以上の二つの路線で理解されているのではないだろうか? だが、そうではないのだ。
 
 明確にしておかなければならないことはまだある。「最低のものすら肯定する」と言うとき、ドゥルーズはあらゆるものをすべて一様に肯定せよと言っているのだろうか? それとも、個々の対象間の差異に応じて多様に肯定せよと言っているのだろうか? これはどちらの解釈を取っても問題が生じる。前者の「肯定すべき対象をすべて一様に肯定する」とは、対象のあいだの差異とは無関係に肯定するということである。それは、肯定する差異の個々の特徴を、肯定できるかできないかを判断する際に一切考慮しないということだから、事実上、それは個々の差異をないものとして扱うということである。したがってこの場合、個々の対象の差異がもつ価値は無になってしまうだろう。しかし、それでは差異を肯定していることにはならない。
 
 それに対して、後者の「個々の対象間の差異に応じて多様に肯定する」とは、個々の差異に応じて、たとえば強度の量の大小に応じて、大きく肯定したり小さく肯定したりするということである。だがその場合、個々の差異に付け加わる肯定にはいったいなんの意味があるのだろうか? そもそも、それはたんなる現状追認となにがちがうのだろうか? 少なくとも、肯定が付け加わることによって、個々の差異の量に対する評価が変化することはないだろう。では、肯定されることによって、個々の差異の質に対する評価は変化するのだろうか? こちらのほうは確かに変化しそうだ。だが、ここでもまたその変化は一様なものか多様なものかという問題が生じる。一様であるなら先ほどと同様のアポリアに陥るし、多様であるならまた同じ問題のくり返しである。どうしたことだ! まったくわからない!
 
 そろそろソクラテスごっこはいい加減にしてこう。以上の考察から明確になったことがあるとすれば、それは、肯定すべき対象を一様に肯定するにしても多様に肯定するにしても、たんなる現状追認にしかなりそうにないということである。ニーチェ運命愛がそうだったように、遅くとも『ニーチェと哲学』(1962年)以降、私の考えでは晩年まで一貫して「「生を肯定する」という倫理、〈肯定を肯定せよ〉を、本来〈肯定的なものしか存在しない〉という存在論の採用とイコールにしようとしている」*12ドゥルーズ存在論化された肯定の哲学は、けっきょくのところ、肯定という概念を無内容なものにしてしまっただけなのではないだろうか。
 
 同じことは、引用部において千葉が肯定と等価のものとして扱っている尊重という概念についても言える。日本の哲学者が書いた最高の倫理学入門書の一つである、法哲学者の小林和之の『「おろかもの」の正義論』(ちくま新書)では、「人間の尊厳」という概念の意義について次のように論じられている。ちなみに、ここまでの私の考察は同書の強い影響下にある。
 

 生まれや性別で尊厳を否定することはたしかに不当だろう。だが、幼児を性的に虐待するような行為さえ、行為者も人間である以上その尊厳を否定することにならないと考えることは、「尊厳」ということばを無意味にしないだろうか。人間は尊厳をもちうる存在である。そして、自らの行為によって尊厳を失いうる存在である。「尊厳」ということばを空っぽの抽象概念にしないためには、むしろそう考えるべきだろう。*13

 
 千葉の論考に戻ろう。私たちの有限性は、「そうでしかありえないものとして受け入れるしかない」ものである。千葉が、「受け入れる」とか、「引き受ける」とか、「向きあう」とかいう意味で肯定という語を用いているとすれば、たしかにそれは肯定すべきものではある。そこには諦観のニュアンスもある。しかし、それではただの現状追認でしかないではないか! 千葉の言いたいことがそれだけであるはずがない。少なくとも、最初に引用した中間痴態を肯定するというテーゼは価値転換の宣言であったはずだ。いや、その点に注意して読んでみれば、千葉がなにかを「肯定する」と言うとき、そこにはつねに既存の価値観への挑戦を読み取ることができそうだ。
 
 したがって、重要なのは、その価値転換の実質である。それはすなわち、肯定するということが、その対象に対する態度やふるまい方をどう変化させるかということだ。その変化の内実こそが、肯定の本質と呼ぶに値するものだろう。つまり、肯定するとは、どうすることなのか? それが問われなければならない。
 
 日常使われる意味での肯定とは、「これでいい」と思うことである。肯定というものを考えるとき、この「これでいいという思い」はなによりも大切で、これが生じるからこそ私たちはなにかを肯定することが可能になるのだ。この「これでいいという思い」の有無によって、私たちは真の肯定と肯定のフリとを区別することができる。その意味で、「これでいいという思い」とは、肯定の本質である。そしてだれでも知っているように、この「これでいいという思い」は、「これでいいと思おう」と思えばすぐに引き起こせるものではない。肯定は「肯定しよう」と思えばできるものではないのだ。
 
 さらに言えば、肯定とは、開きなおりでも、負け惜しみでも、やせ我慢でもなく、ただ「それでいいと思う」という意味であると理解されなければならない。そうでなければ、それはニーチェの言う意味での奴隷一揆でしかない。ルサンチマンの裏返しでしかない偽物の肯定など、ただの自己欺瞞にすぎないのだ。この点について言えば、中間痴態の肯定について論じる千葉の議論の進め方はおかしいのではないかと思う。肯定は、「これこれこういう理由で、そうするしかない」という議論によって到達できるものではない。肯定は、状況に強いられて「敢えて」、限られた条件のなかで「仕方なく」するものではない。それどころか、「する」ものですらないのだ! 肯定はおのずとそう「なる」ものである。
 
 だから、千葉がなにを肯定すると言っているかも大事だが、それよりも私が知りたいのは、千葉がどうすればそれを肯定できるようになると考えているのかということのほうである。その説明があってはじめて、なにかを肯定しようという千葉の提案に賛成できそうかどうかを検討することもできるようになる。だが、千葉の論考にはその説明がまったくない。それは、有限性や貧しさについて論じる千葉の議論だけでなく、本書でなにかを肯定すると言っている箇所すべてに言えることだ。いや、それ以前に、そもそも私は千葉がなにかを肯定すると言うとき、ここで私が言っているようなニュアンスを含めているのかどうか確信がもてない。しかし、肯定による態度の変化があるとすれば、これ以外にないのではないだろうか? これとセットで考えられてこそ、ドゥルーズセルフエンジョイメントという概念も意味をもつのではないだろうか?
 
 貧しさを脱して豊かさをめざすのではなく、ある貧しさから別の貧しさへ。あるいは、有限化によりさらなる貧しさへ。ここまでたどってきた本書の実践上の提案の当否はひとまずおくとして、そもそも本書における千葉の有限性を肯定するという言明は、「いまのところまだ肯定できてはいないけれども、これから本書における考察をつうじてそれを肯定できるようになりたい」という目標の提示なのだろうか? それとも、「自分はもうすでに肯定できているので、これから読者のみなさんにそれを肯定できるようになる考え方を教えよう」という結果の報告なのだろうか? そうだ、よくよく考えてみれば、それもわからない! やれやれ、いまごろになってなにを言っているのだ私は!
 
 前者であるならば、そもそもなぜ私たちはそれをめざさなければならないのかという当然の疑問が生じる。が、それについては、私には意味がわからなかったものの、たしかにその説明はある。しかし、これは千葉がそう言っているという意味ではないが、一般に、なにかを肯定するかしないかという問題について、「できるかどうかはともかく、とにかくそうするべきだ」というようなことを主張しても意味がない。私たちの生において、肯定できるようになれるものならなったほうがいいことはそれこそ無数にあるけれども、それと実際にそれを肯定できるかどうかは無論まったく別の話である。
 
 では、千葉はみずからの有限性ないし中間痴態を肯定できているのだろうか? それも、奴隷一揆のような仕方ではなく、言うなれば純粋な仕方で。もしほんとうにできているのなら、一般論としてどう考えればそれを肯定できるかではなく、千葉自身はどう考えることによってそれを肯定できるようになったかを示すことはできるはずだ。いや、もしかすると、私が気づかなかっただけで、それを示したのが本書の論考だということなのかもしれない。だとすれば、私のこの長ったらしい読解の試みは、まったくお話にならないレベルのシロモノだったということになるだろう。
 
 気がつくと、すでにWordで12ページにもおよぶ長文になってしまった。にもかかわらず、けっきょく(2)のアディクションの問題には踏み込めなかったけれども、もう私にはこれ以上書く気力がない。これがほんとの非意味的切断である。言いたいことはまだあるので、そのうち続きを書きたいとは思っているが、次がいつになるかはわからない。
 

参考文献

差異と反復〈上〉 (河出文庫)

差異と反復〈上〉 (河出文庫)

差異と反復〈下〉 (河出文庫)

差異と反復〈下〉 (河出文庫)

ニーチェと哲学 (河出文庫)

ニーチェと哲学 (河出文庫)

「おろかもの」の正義論

「おろかもの」の正義論

*1:千葉雅也『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』河出書房新社,2013年,pp.37-38

*2:同前,p.36

*3:同前,p.296

*4:同前,p.231

*5:同前,pp.355-356

*6:同前,p.358

*7:同前,p.359

*8:同前,p.230

*9:同前,p.38

*10:同前,p.230

*11:同前,pp.254-255

*12:同前,p.194

*13:小林和之『「おろかもの」の正義論』ちくま新書,2004年,p.30