心優しい後輩の牧師との対話

心優しい後輩の牧師との対話

先生、怒りそのものでなく、何に怒るかが問題と、ある時気が付きました。
怒らなくてよいことに怒ったり、ましてや怒ってならないことに怒るなら問題です。

しかし怒ってよいこともありますし、さらに怒らなければならないことあり、そうです、怒らないこと自体が問題なときもあります。
これは、誇りについても同様です。
こうした実例に対処する方法の一つとして、コンコーダンス・聖書辞典の地味な活用が私にとって助けになりました。
 ご家族の上に祝福が豊かにありますように。

人間パウロ「誇るパウロ」

人間パウロ「誇るパウロ
★怒りの場合、では誇りの場合は。
1986年4月、沖縄へ移住する前に書いたもの。

人間パウロ「誇るパウロ
[1]序
 パウロの手紙を読んで行きますと、「誇り」をめぐり、一見矛盾する二つの力向を示す表現に直面します。一方においては、「これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」(Iコリント一29)のように神の御前に人間が誇ることを強く否定している表現を見ます。他方、パウロ自身が自らの誇りを明言している場合も数少なくありません。特に、「あなたがたも私をみならってください」(Iコリント一一11)とか、『私のようになってください」(ガラテヤ四12)のような、一見高慢とも思われるような表現に直面し、パウロが誇りを否定していると思われる表現と、どのように調和するのか戸惑いを感じます。この現象をどのように理解したらよいのでしょうか。以下において、何を誇らないようにパウロが求め、逆に、何を誇っているのか見て行きたいのてす。特に、主イエスから異邦人への福音宣教を委ねられた、異邦人への使徒としての、パウロの誇りをめぐる意識と主張に注意したいのです。

 [2]誇り—何をいかに—
 (1)否定的表現
 まず、パウロが誇ることを否定している実例を注意したいのです。たとえぱ、コリント教会の誕生の事情を回顧して、この世の取るに足りない者たちや見下げられた者たちが選ばれている事実に注目して、「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(Iコリ一29)、とパウロは理解し、主張しています。人間的基準に従う、この世の知恵、権力、身分などを頼 りとして、神の御前に出ようとすることが拒絶されています。何を誇ってならないか、この点が第一です。
 次に、本来、良いものであり、誇るべきものであっても、いかに誇るべきか、誇り方に問題がある場合があります。たとえば、ローマ人への手紙二章17節以下で指摘されている、ユダヤ人が律法を誇っている場合。ユダヤ人が「律法に頼り、神を誇りとし」(ローマ二17)として人々を教えながら、自分自身を教えようとしない。この一貫性のなさを、パウロは、「あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。」(ローマ二23)と鋭く非難します。
 確かに、パウロは、何を、どのように誇るかをめぐり、戦いをなし続けていた、この側面を、無視出来ません。たとえば、ガラテヤ教会においては、教会のキリスト者の中に、キリストが形造られることを願い苦闘するのではなく、彼らに割礼を受けさせ、その表面的事柄をもって自らの影響力を誇ろうとする人々(ガラテヤ六13)と、戦っています。また、エペソの教会に向かっては、救いが恵みのゆえであり、信仰によることを明言し、神からの賜物であることを確認し、「行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(エフェソ二9)と、誇ってならぬものが何であるかを明らかにしています。

 (2)肯定的表現
 しかし、何を誇ってならないか、どのように誇ってならないかパウロは否定的表現をなしているだけではありません。何を、いかに誇るべきか。積極的に肯定的表現を繰り返し宣べています。パウロが何を一貫して誇っているか。それは明らかです。主イエスにあって、今恵みの立場に導き入れられている事実(ローマ五2「キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ」)です。驚くべき救いに導き入れてくださった神ご自身を誇り、喜んでいるのです。(ローマ五2〜3「、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。」)まさに「誇る者は主を誇れ。」IIコリント一〇17、Iコリント一29)なのです。
 イエス・キリストにある救いを誇るという時、救いの対象となっている、キリスト者・教会を誇ることを含みます。たとえば、コリント教会の人々に対してパウロは信頼と誇りを持ち、同労者に自らの思いを伝え(IIコリント七4「わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています。」、14「わたしたちはあなたがたにすべて真実を語ったように、テトスの前で誇ったことも真実となったのです。」)、コリント教会に対する自らの誇りに、コリント教会の人々が応答してくれるように期待しているのです。
 「だから、あなたがたの愛の証しと、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せてください。」(IIコリント八24)
 しかし何と言っても注目すベきは、使徒として立てられている、自らの立場についてパウロが誇っている事実です。(同一〇8)この場合でも、パウロは自分の働きの領域を弁え(同一〇15〜16)、何か自分の優れた資質、行為などを取り上げて誇っているわけではなく、神ご自身がパウロの中になしたもうた恵みの事実そのものを誇っていることは明らかです。具体的には、「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(IIコリント一一30、一二5「このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。」、9「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」)と、自らの弱さを誇る逆説的宣言をなしています。この誇りをめぐる、逆説的な特徴は、「誇るパウロ」にとってすべての鍵となる重要な点であり、使徒パウロの基盤とも言うべき、ダマスコ途上の経験において明らかに示されています。

[3]ダマスコ途上の経験
 使徒パウロの基点である、ダマスコ途上の経験について、パウロ自身の証言とルカの記述の両力を見たいのです。

 (イ)ガラテヤの信徒への手紙一章15節
 自らの使徒としての立場が人間から出たことでも、人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと父なる神によったことを強調し、パウロは「ガラテヤの信徒への手紙」を書き出しています。(ガラテヤ一1)そして、使徒としての自らの歩みにとり、ダマスコ途上の経験がいかに決定的意味を持つかについて、「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、」(同一15〜16)と明言しています。この表現は、前後関係の中で際立ちます。この直前では、ダマスコ途上での経殿以前の生活を、「わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。」(同一13b)とパウロは述べ、迫害者としての自分の過去を明らかにし、「また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。」(同一14)と、熱心なユダヤ教徒としての歩みを描いています。また、直後の16節後半以下においては、ダマスコ途上での経験後の行勤について、「わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず」と語っています。このように、ガラテヤの信徒への手紙一章13節以下は、パウロが自分自身の経験と「わたしは」と自らを主語として語っている記述です。ところが、15節と16節前半では、「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、」と、神ご自身の先行的な呼びかけを鮮やかに描いています。パウロの地上での水平的な歩みに、垂直な上よりの呼びかけがなされたのです。パウロ使徒として誇るのは、自らの歩みに見る弱さであり、恵みの呼びかけの確かさです。

 (ロ)使徒言行録九章
 パウロのダマスコ途上の経験が、いかに重要な出来事であるとルカが理解し主張していたかは、使徒言行録九章、一二章、一六章で繰り返し描かれている事実からも明らかです。ここでは、使徒言行録九章の記事を見たいのです。
 使徒言行録九章3〜4節に見るように、パウロエルサレム教会を迫害するだけでは満足せず、ダマスコの、主にある人々をも迫害する計画を抱きダマスコヘ進む途上、権威に満ちた、主イエスの呼びかけに圧倒されるのです。使徒言行録九章4節から5節への移行に注目したいのです。パウロの心の中に生じた変化は、5節の「主よ、あなたはどなたですか」との応答の言葉を通し明らかにされています。ここには、自らの限界を認め、「主よ。あなたが中心であり、第一であって私が決定権を持つのではありません」と告白し、この御方に従い進むため、さらにはっきりご自身を明らかにしてくださいと求めるパウロの姿をみます。主イエスは、パウロの求めに答え、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と宣言なさるのです。この宣言は、パウロの心を貫き、主イエスにまったく従う者へと整えるのです。
 「起きて町に入れ。」(使徒九6)と、の具体的な指示に、パウロは答え、先ず立ち上がり、ダマスコヘの第一歩を踏み出すのです。今出来る実際的なことを通し、主イエスに従うとき、「そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」(同6)と、主イエスは約束なさいます。パウロは、一度にすべてを悟るのではないのです。主イエスは、すべてのことを一度に教えるのではないのです。実に忍耐深く、時間を費やし、パウロの歩調に合わせ、一歩一歩導かれるのです。今、ここで主イエスが明らかにしてくださることに全身で応答する。その時、主は次のステップを示し、次の段階へと導いてくださるのです。
 パウロは、主イエスの命令に具体的に従い、地面から立ち上がるのです。そして、「起きて町に入れ。」(同九6)との命令に従おうとするのですが、「目を開けたが、何も見えな」(同九8)いのです。自分一人では進み得ない事態に直面しながら、なおも主イエスの指示に従うためには、当時目の不自由な人々が普通していたように(使徒一三11参照)、他の人に手を引いてもらい進むしかありません。「人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。」(同九8)のです。エルサレムからダマスコヘ向かうパウロ。彼は、一群の人々の先頭を威風堂々と進んでいたに違いありません。それが今や一転して、手を引かれ一歩一歩おぼづかない足取りで、進むのです。自分の手を引いてくれる人々はと言えば、パウロのようにはっきり主イエスの姿を見、主イエスの言葉を理解した人々ではなかったようです。主イエスに選ばれ、異邦人への宣教者として特別な使命を与えられたパウロは使命を果たすために、そうした人々に支えられ、助けを受けながら一歩を踏み出したのです。
 手を引かれて進むパウロ。彼は、手を引かれて連れて行かれたダマスコで、大胆に福音を宣べ伝えます。(使徒九19以下)しかし、その結末は、夜中にかごに乗せられ、町の城壁伝いにつり降されるというものです。この経験を使徒パウロは生涯忘れなかったようです。後年、福音のため労苦する自らの生活、生涯について述べるに際し、このダマスコでの経験について特別に言及しています。
 IIコリント一一章23〜31節の内容を考慮した上で、32節と33節を読むと、一層印象深く響いてきます。「ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、わたしは、窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした。」
 手を引かれるパウロ。あの威風堂々と進むパウロではなく、人に手を引かれるパウロを通し、福音はエルサレムから遂にローマヘと伝えられたのです。人々に手を引かれながら、実は主イエスに手を引かれていたと言えないでしょうか。ここに、自らの弱さを誇る、使徒パウロの姿を見ます。これこそ、使徒としてのパウロの第一歩であり、最後に至るまで一貫した姿です。人々に手を引かれながら一歩一歩ダマスコヘ向かうパウロに、忍耐深い主イエスは、ご自身の福音を委ねておられるのです。

 四、結び
 誇るパウロ。それは一方的な神の恵みによって使徒としての立場を与えられ、手を引かれつつ、その使命を忠実に果し続けている姿に他なりません。このように徹底的に神の恵みに自ら応答し従い生きる者として、パウロは、「あなたがたもわたしのようになってください。」(ガラテヤ四12)と、ガラテヤ教会の人々に大胆に勧めるのです。
 パウロは自ら経験していることを人々に期待し、勧めているのです。それ以上でも、それ以下でもありません。一見高慢とも見えるパウロの勧めは、誇ってはならぬものを誇ることは全く否定し、ただ神の恵みにのみ頼り、手を引かれつつ一歩一歩を踏み進める生涯の中から語られた言葉であると確認させられます。この勧めに励まされ、教えられる限り、今、ここで、主イエスの恵みに応答し、その命令に従い、今、ここで従いつつさらに教えられたいものです。
〔執筆当時・東京基督短期大学助教授〕
(『週間キリスト者』一九八四年六月十七日 八九五号収載)

「入院中は上田光正先生の『日本の伝道を考える』五部作の最後のご著書を讀み終える予定」

「入院中は上田光正先生の『日本の伝道を考える』五部作の最後のご著書を讀み終える予定」

★ペンケン祈祷会祈りの友・結実の80代を歩む先輩のメールに励まされます。

「主のみ名を讃美します。
平素の有形無形のご指導に感謝致します。ただ今病院から連絡があって9/19(火)午前に入院と決まりました。約10日間だそうで退院後も同病院の透析施設に通院することになります。ドクターの指示に従って無事の退院を願い、祈っております。引き続きご加祷頂けると幸甚です。

5/2に東大病院で造設したシャントが使える由で喜んでおります。血管が見事に太くなり血流も勢いがあるそうです。

従って24日の聖日礼拝は残念ながら欠席させて頂きます。入院中は上田光正先生の「日本の伝道を考える」五部作の最後のご著書を讀み終える予定で楽しみにしています。

先生方のご健勝をお祈り致します。ご報告まで。

土肥由長」

恵みと使命は時から時へ、人から人へ

恵みと使命は時から時へ、人から人へ 

1958年日本クリスチャンカレッジ1年生・18歳の秋に、『興文』誌に竹森満佐一先生が引用されたエミール・ブルンナーの文章、「聖書を真ん中に、片方に宗教改革者の書物、他方に無神論者の書物を置き読み進める」を読み、これだと心に響きました。
 次週、カレッジがあった浜田山から吉祥寺教会の聖書研究会に出席、どこの馬の骨もわからない私に、「どこから」と正面に向き合ってくださったのです。「独立教会からです」、「札幌から・・・」、「いや、松山です」。アッセンブリー教団から離れ松山で開拓伝道を始めた万代恒雄先生は、当時は「独立教会」との呼称を使ったのです。
 それから卒業まで3年半、吉祥寺教会の聖書研究会に。4年生の1年間は、月に1度主日礼拝に。
 その間何回か、竹森先生が金沢で宣教する若き日の加藤常昭ご夫妻について話された際の愛のゆるみ顔を忘れられません。
 しかし加藤先生に直接お会いしたのは、2002年の日本福音主義神学会第11回全国研究会議「福音主義神学における牧会」(同名の報告書、2003年、いのちんことば社)においてです。
 同書の「あとがき」において、牧田吉和先生が的確に報告なさっているように、一部の反対を乗り越えて、加藤先生が、研究会議の各セッションの発題をなさり、同時に福音主義神学会からもそれぞれ発題謝を立て応答の講演をなす対話の手法がとられたのです。
 私は、Ⅲセッション「牧会と説教ー愛の業としての説教」を担当。牧田先生は、「宮村講演における聖書神学と牧会的実践に裏打ちされた『愛の業としての説教』の提唱」と紹介してくださっています。
 1958年以来の竹森先生との関係で、優れた兄弟子に稽古をつけてもらう弟弟子一途さ、同時に、沖縄聖書神学校校長として沖縄に支えられる喜び。一寸の虫にも5分の魂です。
 この時が契機となり今日まで加藤先生との文通は継続深められています。
 こうした背景の中から、加藤先生が説教原稿をクリスチャントゥデイに掲載してくださっています、感謝。

ペンケン祈祷会の新しい祈りの課題

ペンケン祈祷会の新しい祈りの課題

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永田町・霞が関において、
(1)あることをないかのようにではなく
(2)ないことをあるかのようにではなく
「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』」(マタイ5章37節)。事実と言葉の一致、言葉の真実を求める、地の塩・世の光的存在となる同窓生が永霞会(永田町・霞が関開成会)から続出するように。