クリスチャン新聞と私ー特に二つの思い出ーその1

クリスチャン新聞と私ー特に二つの思い出ーその1

 この9月27日を中心に、ニューイングランドの母校Gordon Divinity School(合同後Gordon−Conwell Theological Seminary)50周年記念集会が開催。その記念に心を注いで備えている中で、50年前の日々の記憶と共に、11日の「クリスチャン新聞創刊50周年記念シンポジウム」について耳にし、クリスチャン新聞についての忘れがたい二つの思い出を覚え感謝しました。確かに、現在私は、クリスチャン新聞からは、その存在を否定されているクリスチャントゥデイ(同社の『クリスチャン情報ブック2016』では、言及全くなし)の中で存在し活動する奇妙な立場にありますが。

 1967年10月1日、4年間のニューイングランドでの留学を終え、埼玉の寄居に帰り、牧師の歩みに復帰しました。
 それから1969年4月に東京キリスト教短期大学で教鞭をとり始めるまで、教会と教会が属する愛してやまない日本新約教団の働きに専念していました。その期間に、思いを越えたことでしたが、クリスチャン新聞の大型企画に参加するよう招かれたのです。
 参加した企画会議では、数名の私より10前後歳上の方々と、1970年代を生きる教会の在り方について、互いに共鳴し合いながら、心を熱くして話し合ったことを記憶しています。
 その時集った方々とは、その後、1970年の日本福音主義神学会設立やその出来事と並行すように進められた『新聖書注解』(全7巻)の働きにおいて、一番若い同労者として、主の僕仲間(黙示録22:8,9)として歩みを共にさせて頂いたのです。そうです、クリスチャンをはじめ、いのちのことば社との交わりの中で訓練を受け育てて頂いたと自覚しています。
 あの時の区画への私の役割と応答は以下の通りです。

☆「終末論をめぐるパウロ雄大な万物観」
                          
★1970年代の初め、クリスチャン新聞が、日本福音主義神学会の発足と深く関わる企画、『福音主義とは何か』とのシリーズを企画した際、先輩の先生方の末席に連なって、3回書く機会を与えられたのです。

第1回目が聖書について、
第2回目が教会について、そして最後が、
第3回目が、以下の「終末論をめぐるパウロ雄大な万物観」です。
 『礼拝の生活』を、青梅キリスト教会の現場にあって書き続ける中での営みです。
 今、私なりに組織・有機神学を書くとしたら、間違いなく出発、基盤です。                         
「終末論をめぐって パウロ雄大な万物観」

 ローマ人への手紙の中心聖句
使徒パウロの立場で福音主義を考える場合、「ローマ人への手紙」を開かないわけにはいきません。福音主義とは、ローマ人への手紙の中で中心的課題とされているものを、いつでもなく1970年、どこでもなく日本で深く理解し、その理解に従って戦いつつ生きていくことにほかならないのです。
 
 豊かな内容をもったローマ人への手紙の中心聖句を一つ選ぶのは、困難な仕事です。
 しかしこの困難な課題に、向う見ずに答えることが許されるなら、11章36節を選びたい。
「すべてのことが神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」
 この短い讃美、礼拝の言葉は、ローマ人への手紙、いや聖書全体の中心メッセージを実にはっきりと表現しています。唯一の・生ける・真の神との関係で、すべてのこと・万物を位置づけています。すべてのこと・万物は、その始原(神から発し)、現在の保持(神によって成り)、終末的目標(神に至る)を、唯一の・生ける・真の神の中にのみ持つと、パウロは宣言しています。


Ⅰ.万物の始原と終末
これこそ徹底的な神中心の思想と生活の基盤です。
人生の主なる目的であり、最上の幸福なのです。
神を崇め、神との関係で、すべてのこと・万物を見るのでなければ、私たちの状態は野獣よりも不幸になってしまいます(ジュネーブ教会 信仰問答、問1、3、4、6を参照)。
以上のように、11章36節で、唯一の・生ける真の神との関係で万物を見る場合、現在の保持ばかりでなく、始原と終末的目標の両方からも見ている点をとくに注意する必要があります。

Ⅱ.次に、パウロにとって終末的展望がいかに大切であったかを知る有力な手掛りとして、8章18節から25節を取り上げたいのです。8章17節までと、27節以下では、救いとは、父、御子、御霊の愛の交わりの中に入れられることであり、イエス・キリストのゆえに、御霊によって、神を「アパ、父よ」と呼ぶ特別な立場に生かされることだとパウロは明示しています。
ですから、18節から25節までは、ポンと割り込んで書かれています。
しかしこれは、事柄の重要性を示しています。
すなわち、神を「アパ、父よ」と呼ぶ恵みの事実が、被造物全体との係わりや終末論的観点で実に雄大なスケールの展望において宣言されている重ねての恵みの事実です。

パウロは、「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています」(22節)と断言しています。
さらに、「そればかりではなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくことを、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」(23節)と続けます。これから明らかなように、キリスト者は、被造物自体の産みの苦しみの背景の中で、うめく者として、つまり途上にあるものとしての歩みを続けているのです。
ですから、キリスト者には政治的、宗教的、あらゆる意味での自己満足との戦いがあります。


キリスト者の戦い
しかも、それは、待ち望む者としての戦いです。
そうです。望みし神の恵みの事実に生きる者として、いかなる種類の虚無とも、キリスト者は戦うのです。
 
以上見てきたように、パウロは、神を「アパ、父よ」と呼ぶ救いの事実を述べている間に、被造物全体(すべてのこと・万物)の課題を終末的展望を割り込ませるようにして書くことにより、自己満足と虚無との戦いをはっきり打出しています。ここで大切なことは周囲(宇宙、世界、文化)との係わりにおいて、救いが考えられている事実です。

☆70年代への姿勢
 また終末的展望とは、目に見える事実以外のより根元的な現実、つまり神の恵みの事実にたいする望みを意味します。それゆえ神の恵みの事実からの断絶によって生じる虚無、これらも徹底的に戦わねばなりません。
 
 結局、福音主義とはあらゆる種類の自己満足と虚無にたいして、パウロの理解し主張する意味での望み(道の光、戦略)と忍耐(足のともしび、戦術)をもって、1970年日本で生き戦うこと、底に徹して、事の本質を見抜き、神の恵みの事実を見据えて、いかなる一時的現象にも左右されずに戦いつつ生きることにほかならないと確信します。