病める風間サク姉を覚えて送った、坂本姉、宇都宮キリスト集会の兄姉への便り

病める風間サク姉を覚えて送った、坂本姉、宇都宮キリスト集会の兄姉への便り

沖縄からご挨拶を送ります。
 メール受け取りました。感謝します。

 サク姉の予断を許さない現状と坂本姉の看護の日々を読み思い巡らしながら、ヨハネ福音書、とくに2箇所が心に訴えてきます。

 最初は、11章1節以下、マリヤ、マルタ、そしてラザロ、サク姉のお子さんと同じ男一人と女二人の、ベタニヤ村の記事です。
 私は、この記事が大好きです。
 その結びに記されている、主イエスの深い愛から溢れ来る信仰の挑戦は、
55年前キリスト信仰に導かれた時以来、心の奥深く刻まれています。
11章40節です・

「イエスは彼女に言われた。
『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、
とわたしは言ったではありませんか。』」

今、宇都宮キリスト集会牧師として、私に求められているのは、信仰・信じる一事、神の栄光を見るほどの信仰!
あの当時用いていた、また暗誦していた文語訳、―今でも記憶していますー、力強い表現で、大好きです。

「イエス言ひ給ふ『われ汝に、もし信ぜば神の榮光を見んと言ひしにあらずや』」

この聖句を、何回心のなかで、また実際ことばに出して繰り返したか分かりません・
今、皆さんと心を一つにして、主イエスのことばを聴き、応答しましょう。

「イエス言ひ給ふ
『われ汝に、もし信ぜば神の榮光を見んと言ひしにあらずや』」 
心を一つにして一緒に、アーメン、アーメン、アーメン。

もう一箇所は、ヨハネ20章19節以下。
御前神父様が送ってくださった、『松ヶ崎教会会報』にも引用されている、21-23節。
22,23節を引用します。

「イエスはもう一度、彼らに言われた。
平安があなたがたにあるように。
父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

そして、こう言われると、
彼らに息を吹きかけて言われた。
聖霊を受けなさい。」 

今、この時、主イエスは、宇都宮キリスト集会の一同に、全く同じことばを語りかけてくださっています。

「平安があなたがたにあるように」
「平安なんじらにあれ」
主の平安です。

聖霊を受けなさい」
聖霊をうけよ」
この命令・約束どおり弟子たちは、聖霊を受けたのです。
そうです。
サク姉も、私たちも聖霊を受けたのです・
そうでなければ、Ⅰコリント12章3節に教えられているとおりです。
聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」
主イエスを信じている事実は、私たちが聖霊を受けている何よりの証拠です。

サク姉のからだは、「土の器」のような弱さを覚えています。
その弱さの前に、娘である坂本姉も医療従事者も、手の施しようがない状態であること認めざるを得ません。

しかしそれだけではありません。
土の器に宝・聖霊をもてり。

多くの医療従事者が認めることの出来ない、この恵みの事実を坂本姉妹は、今こそ、しっかりと見据える必要があります。
宇都宮キリスト集会の各自も、御言葉にたち、しっかりと見抜き信仰のこくはくをするのです。

童話】星のかけら(3)冒険のはじまり・その3、星のかけら(4)冒険のはじまり・その4、星のかけら(5)クリスマス・その1、星のかけら(6)クリスマス・その2、星のかけら(7)クリスマス・その3 

【童話】星のかけら(3)冒険のはじまり・その3、星のかけら(4)冒険のはじまり・その4、星のかけら(5)クリスマス・その1、星のかけら(6)クリスマス・その2、星のかけら(7)クリスマス・その3 

クリスマスが近づきました。ケンタはお父さんから月山さんがレインボー・ホームに入ったことを聞きました。ケンタのお父さんはこのホームでお年よりのお世話をする仕事をしています。お年よりが毎日お泊まりをしてくらす老人ホームが上の階にあり、1階にはデイケアといって、朝夕車で送りむかえをしてもらって通ってくる人たちがいる、そういう所なのです。
月山さんは奥さんが亡くなって1人ぐらしをしていましたが、具合が悪くなりしばらく入院をしていました。たい院してまた1人でくらすのは大変なので、ホームに入ることになったのです。
ケンタは月山さんに会ったことがありません。でも、夏休みに3人で冒険したあの日に、月山さんのためにお祈りしたことをわすれたことがありませんでした。牧師夫人から聞いた不思議なお話もよく覚えていました。
ですから、クラスメートのシュンスケに月山さんのことを話すと、ユキトもいっしょに月山さんのお見まいに行こうよという話になりました。
冬休みにまた、ユキトが牧師館に来ていて、3人はクリスマス劇(げき)の練習をいっしょにしていたからでした。
月山さんはベッドの中で眠(ねむ)っているようでした。ケンタは月山さんに声をかけたらいいのかどうか、まよっていました。すると、シュンスケがトントンとかたをたたきました。ベッドの横のテーブルを指さして、ネッというような顔をしています。かざってあったのはイースターの卵でした。
ユキトは大たんに手に取っています。「これ、焼き物のようだよ」。シュンスケもケンタも手にとってながめました。
ビタエが石に変えたあの卵に似(に)ているような気がしました。でも、ここにあるのは似ているけれど別のものにちがいないと、ケンタは思いました。あの卵はバケツに入れて全部ビタエにわたしたはずでしたから。それにかざり物の卵は少しでこぼこしていて、ユリの花の絵がかいてあるだけの、あっさりしたものでしたから。
月山さんは軽い認知症(にんちしょう)だから、言っていることが分からないかもしれないよと、ケンタはお父さんに聞いていました。認知症というのはお年よりの病気なのだそうです。朝ご飯を食べたことをわすれて、ご飯はまだですかと聞いたり、自分の家族に向かって、どなたですかと聞いたりするのだそうです。
月山さんが目を覚ましたら、なんて言ったらいいのだろうとケンタは思いました。でも、月山さんはよく眠っていて、なかなか目を覚ましそうにありませんでした。
「月山さん、絵がうまいんだよ。自分で絵をかいた紙芝居を教会学校でしてくれた。ろうそくがなみだを流すお話」
「面白そうだね。どんな話」「ええっ、わすれちゃった。そこだけ覚えてる」
シュンスケとユキトのやりとりを聞いているうちにケンタはいいことを思いつきました。
「ねえ、クリスマスの歌を歌おうよ。月山さん、きっと喜ぶよ」
子どもたちは劇の中で歌うクリスマスの歌を歌いました。
「うれしい、うれしい、クリスマス。かん、かん、かん、かん、かねのおと。子どものすきなイエスさまの...」
すると、月山さんがうっすら目を開けて、うれしそうに笑いました。そして、いっしょに歌い出したのです。「たのしい、たのしい、クリスマス」って。
子どもたちもいっしょに歌いました。「りん、りん、りん、りん、すずのおと。サンタクロースのおじいさん、よい子をたずねて、そりのたび...」
「月山さん、ぼくたち、お見まいに来ました。これ、プレゼントです」。ケンタのプレゼントは、金色の星のついたクリスマスツリー。シュンスケのプレゼントは、赤いリボンのついたリース、そしてユキトのプレゼントは、ふわふわの白いわたのついた長ぐつでした。どれも折り紙で作ったものでしたけど、月山さんはにこにこして一つ一つ手にとって、「ホー、君たちが作ってくれたんか」と言って、喜んでくれました。
そして、「もうクリスマスか」って、少しウルウルした目をして、つぶやくと、目をとじて、また眠ってしまいました。
その晩、月山さんは夢を見ました。子どものころの月山さんが、絵かきのおじさんのアトリエに遊びに行った夢でした。昔、昔のことでしたのに、まるで昨日のことのように思えました。
おじさんのアトリエには地下室があって、せまい階段を下りると、下は物置になっていましたけど、その一すみに、小人の家族が住んでいました。おじさんは時々パンや水を、この小人たちに分けてあげていました。月山さんはぐうぜん小人の一家を見つけてしまい、びっくりしておじさんに話しました。
「だれにもナイショだよ。お父さんやお母さんにもだまってるんだよ。あの人たちは数が少なくなって、かくれてくらしているんだから」。おじさんは言いました。
「小人は長生きだけど、なかなか子どもができない。でもあの家族には子どもがいて、命をつないでいくことができる。幸せな家族だけど、ほかの小人たちとなかなか出会うことができずにいるから、何とかして助けてあげたいと、ぼくは思っている。つねくん、君も仲間になってくれるかい」
つねくんというのは月山さんの子どものころのよび名でした。
月山常雄(つきやま・つねお)というのが、本当の名前でしたけどね。(つづく)和泉糸子

★【童話】星のかけら(4)冒険のはじまり・その4  
「人の子たちよ」と、その不思議な人がよびかけました。その人は小人だったのです。お話の絵本に出てくるような曲がった鼻もしていませんし、赤黒い顔もしていません。白いひげも生えていません。両手の親指を合わせてまっすぐのばしたより少し大きい位の、小さな男の人ですが、きりりとした顔立ちをしています。
小人って本当にいるのだなあ。びっくりした。お話の中に出てくるだけかと思っていたのに。ユキトは、その人になんと言っていいのか分かりません。でも、よびかけられたのだから、返事をしなくては失礼になるかなあと思いました。シュンスケもケンタも声が出ません。
だまったままで子どもたちが顔を見合わせ、どうしようかとなやんでいますと、「人の子たちよ、わたしたちを助けてはくれまいか。正しい心と勇気を持つならば」と、その人が重々しい声で言ったのです。
小人の声は体のわりには大きなひびく声でした。塔のてっぺんは音のひびきがいいのかもしれませんけどね。
正しい心、勇気・・ぼくたちにあるだろうか。お化けがこわくて、悪魔が出てきたらどうしようと思っていたのに、小人に会うなんて。夢(ゆめ)を見ているのだろうかと、子どもたちは思いました。
「なにかおこまりなのですか」。ユキトはせいいっぱいていねいな言葉を使って、勇気を出して、小人にたずねました。「ぼくたちにできることですか」。シュンスケが言うと、「勇気がなくてもいいのかなあ。ぼくはこわがりだし」。ケンタも言いました。「それに正しい心を持っているかどうか、分からないし」。ユキトも心の中でつぶやきました。
鐘の音がだんだん大きくなり、そして、あたりがボオッと明るくなり、一すじの道が見えてきました。にじのように七色ではないけれど、空にかかった橋のようなやわらかい色をした道です。
「人の子たちよ、この道を通って来てください。わたしの後について」
小人が言うと、「行きます。でも、ぼくたちは人の子ではなく、ちゃんと名前があります。ぼくはユキト、そして」と言いかけると、シュンスケもケンタも自分の名前を言いました。
小人は笑って言いました。「ではユキト、シュンスケ、ケンタ。わたしの後について来てください。わたしの名前はビタエと言います」
そして、「いいですか、この道は選ばれた者にしか見えない道です。あなたがたにはこの道が見えますね」と3人に聞きました。
「見えます」「きれいな色の道ですね」「どこまで続いているのですか」。口ぐちに言うと、「それならば、あなたがたは選ばれた者なのです。そして、この道は正しい心と勇気を持った者しか通ることのできない道なのです」と、ビタエと名乗った小人は重々しく言いました。
そうやって、3人は小人の国に来ました。あの道が見えて、通れたのですから、小人のビタエが学校の先生でしたら、君たちは正しい心と勇気を持っていますと二重丸をつけてくれたことでしょう。でも、本当にぼくたちは正しい心を持っていて、勇気もあるのだろうかと3人とも自信がありませんでした。
算数の計算なら答えがあっていると自信を持てても、読書感想文を書くときには、これでいいのだとは思えませんね。それ以上に全然自信がないことでした。
3人は、おそるおそる周りを見回しました。こわい動物が出てきたらどうしよう。お化けが出てきたらどうしよう。でも、ちょっと見たところ、大きな動物はいないようです。犬やねこもいないし、小鳥さえいません。
背の低い木が生えていますし、花も咲いています。ちょうちょが花の上をひらりひらりと飛びまわっているのがただ1つ見かけた生き物でした。空には雲もありました。でも夜のはずなのに月も星もなく、少しも暗くないのです。それに、ほかの小人たちはかくれているのか姿(すがた)を見せません。小さな家はあちこちに見えるのに。
きょろきょろ見回していると、「ここです。この大きな池の水をくみ出してほしいのです。わたしたちには大きすぎて、やっても、やっても無理でした。あなたたちの力が必要なのです。助けてください」というビタエの声がしました。
それは池というよりも、保育園(ほいくえん)の庭に置いて遊ぶ大きめのビニールプールくらいでしたけれど、くみ出し始めると底が深いことが分かりました。
3人はお砂遊びのバケツのような小さなバケツに水を入れては、ビタエに教えられた場所まで運んでせっせと水をまきました。
いつの間にかビタエの姿は見えなくなり、木のかげになんだか動いている姿のようなものが見えかくれしていました。
そうやって、ようやく池の底が見えてきますと、そこにはいろんな絵がかいてある卵(たまご)がぎっしりとつまっていたのです。(つづく)

★【童話】星のかけら(4)冒険のはじまり・その4 和泉糸子

「あっ、イースターの卵だよ。教会のお庭にかくして卵さがしをやったのに、1つも見つからなかったんだ」「こんなところにあったなんて」。シュンスケとケンタは口ぐちに言いました。イースターは4月でしたから、もう4カ月もたっているはずですのに、イースターの卵はいやなにおいもせず、きれいなままでした。おまけに持ってみると重いのです。
「これ、ゆで卵じゃない。焼き物みたいだ」
「だけど、ぼくたちが作ったのとそっくりだよ」
「変だねえ」
口ぐちに言っていますと、だれかが近づいて来ました。
なんと、それは子どもの小人、3人の男の子たちでした。
「ごめんなさい。ぼくたち、いたずらをして、卵をかくしたの」
「持って帰るのとても重かったけど、おし車にのせて運んだんだよ」
「でも、途中(とちゅう)で落としちゃったの」
「ビタエ様が、石に変えてくださったの。くさるとばいきんが広がって病気になるかもしれないでしょ」
「でも、水の底にしずんで取り出せなくなってしまったの」
「外に出ちゃいけないってビタエ様に言われたんだけど、気になって見に来ちゃった。でも、もう行かなくちゃ、見つかったらしかられるから」
「ありがとう、ええっと」
「ぼくはユキト」「ぼくシュンスケ」「ケンタだよ」
「君たちは?」
「アルム」「ブラン」「グリー」
「また会えるかな」
「きっといつか」
あく手した手の中に、小さな貝がらのようなかけらが入っていたのを見つけて、3人の子どもたちはポケットの中にそっとしまいました。
そして、もとの仕事にもどり、バケツの中に卵を入れ終わると、池はすっかり消えてしまいました。「終わったね」。子どもたちが一息ついていますと、いつの間にかビタエがそばに立っていました。
「ありがとう。本当に助かりました。今日のことはどうぞ秘密(ひみつ)にしてください。お礼に差し上げたいものがあります。受け取ってください。ユキトさまには赤いかけらを、シュンスケさまには青いかけらを、ケンタさまには緑のかけらを差し上げます。これを大切にして、わたしたちのことを時々思い出してください。でも、だれにも話さないでください、指きりげんまんですよ」
3人がそれぞれのプレゼントを受け取ると、また鐘の音が聞こえ始め、気がつくと3人は塔の部屋にもどっていました。夢ではないしょうこに、3人はそれぞれにきれいな色の星のかけらのような石を手ににぎりしめていました。
それからどうしたでしょうか。3人はもと来た道を通って礼拝堂にもどり、いすにすわってお祈(いの)りをしました。
「神様、ぼくを正しく、勇気のある子にしてください」
「月山のおじいさんを元気にしてください」
「また小人の国に行けますように」
こんなお祈りをして、最後に「イエス様のお名前によって、お祈りします。アーメン」といっしょに声を合わせて言いました。教会学校でお祈りを習っても、今まではなかなかお祈りしなかったのに、どういうわけだか、真夜中の礼拝堂で子どもたちはお祈りをして、そっと電気を消して、牧師館の廊下に来ると、ドアをしめてかぎもかけて、廊下の電気とほかの部屋の電気も消して、おふとんの中にもぐりこみました。お部屋の電気はみんなの顔が見えるていどに、豆球だけは灯したのですけどね。
翌(よく)朝、目が覚めると、月山のおじいさんはかなり良くなったよと、おじさんが言いました。3人でよくお留守番してくれましたねと、おばさんもにこにこしました。
「不思議なことがあったのよ。あんなにいいお天気だったのに、急に雨がふってきて、しばらくしたら、月山さんがねごとを言われたの。イースターの卵を運んでくれって。そして、のどにつまりかけていたたんが取れて、大きく息をされたのね。それから急に良くなってこられたので、安心して帰ってきたのよ」
小人のビタエとの約束です。正しく勇気のある子どもになりたい3人は、秘密を守りました。
ぼくたちのしたことは、小人を助け、また月山さんを助けるお手伝いだったのだろうか。ふってきた雨は、ぼくらのかき出した池の水だったのだろうか。
ビタエというのは魔法使いなんだろうか。
あのアルム、ブラン、グリーという小人の子どもたちにまた会えるだろうか。もっと話ができたらよかったなあ。
あの塔のてっぺんの部屋には、小人の国への入り口があるのだろうか。
3人は、こんなことを夏の間中、会うたびに何度も話し合いました。
分からないことだらけです。でも分かったことは、神様があの晩(ばん)のお祈りを聞いてくださったことと、世の中には不思議なことがあるという2つのことでした。
そして、小人のくれた赤いかけらは、もしかしたら、勇気をなくしそうになるときに、大丈夫だよと声をかけ、はげましてくれる星のかけらにちがいないと、ユキトは思ったのでした。(つづく)

【童話】星のかけら(5)クリスマス・その1 和泉糸子

クリスマスが近づきました。ケンタはお父さんから月山さんがレインボー・ホームに入ったことを聞きました。ケンタのお父さんはこのホームでお年よりのお世話をする仕事をしています。お年よりが毎日お泊まりをしてくらす老人ホームが上の階にあり、1階にはデイケアといって、朝夕車で送りむかえをしてもらって通ってくる人たちがいる、そういう所なのです。
月山さんは奥さんが亡くなって1人ぐらしをしていましたが、具合が悪くなりしばらく入院をしていました。たい院してまた1人でくらすのは大変なので、ホームに入ることになったのです。
ケンタは月山さんに会ったことがありません。でも、夏休みに3人で冒険したあの日に、月山さんのためにお祈りしたことをわすれたことがありませんでした。牧師夫人から聞いた不思議なお話もよく覚えていました。
ですから、クラスメートのシュンスケに月山さんのことを話すと、ユキトもいっしょに月山さんのお見まいに行こうよという話になりました。
冬休みにまた、ユキトが牧師館に来ていて、3人はクリスマス劇(げき)の練習をいっしょにしていたからでした。
月山さんはベッドの中で眠(ねむ)っているようでした。ケンタは月山さんに声をかけたらいいのかどうか、まよっていました。すると、シュンスケがトントンとかたをたたきました。ベッドの横のテーブルを指さして、ネッというような顔をしています。かざってあったのはイースターの卵でした。
ユキトは大たんに手に取っています。「これ、焼き物のようだよ」。シュンスケもケンタも手にとってながめました。
ビタエが石に変えたあの卵に似(に)ているような気がしました。でも、ここにあるのは似ているけれど別のものにちがいないと、ケンタは思いました。あの卵はバケツに入れて全部ビタエにわたしたはずでしたから。それにかざり物の卵は少しでこぼこしていて、ユリの花の絵がかいてあるだけの、あっさりしたものでしたから。
月山さんは軽い認知症(にんちしょう)だから、言っていることが分からないかもしれないよと、ケンタはお父さんに聞いていました。認知症というのはお年よりの病気なのだそうです。朝ご飯を食べたことをわすれて、ご飯はまだですかと聞いたり、自分の家族に向かって、どなたですかと聞いたりするのだそうです。
月山さんが目を覚ましたら、なんて言ったらいいのだろうとケンタは思いました。でも、月山さんはよく眠っていて、なかなか目を覚ましそうにありませんでした。
「月山さん、絵がうまいんだよ。自分で絵をかいた紙芝居を教会学校でしてくれた。ろうそくがなみだを流すお話」
「面白そうだね。どんな話」「ええっ、わすれちゃった。そこだけ覚えてる」
シュンスケとユキトのやりとりを聞いているうちにケンタはいいことを思いつきました。
「ねえ、クリスマスの歌を歌おうよ。月山さん、きっと喜ぶよ」
子どもたちは劇の中で歌うクリスマスの歌を歌いました。
「うれしい、うれしい、クリスマス。かん、かん、かん、かん、かねのおと。子どものすきなイエスさまの...」
すると、月山さんがうっすら目を開けて、うれしそうに笑いました。そして、いっしょに歌い出したのです。「たのしい、たのしい、クリスマス」って。
子どもたちもいっしょに歌いました。「りん、りん、りん、りん、すずのおと。サンタクロースのおじいさん、よい子をたずねて、そりのたび...」
「月山さん、ぼくたち、お見まいに来ました。これ、プレゼントです」。ケンタのプレゼントは、金色の星のついたクリスマスツリー。シュンスケのプレゼントは、赤いリボンのついたリース、そしてユキトのプレゼントは、ふわふわの白いわたのついた長ぐつでした。どれも折り紙で作ったものでしたけど、月山さんはにこにこして一つ一つ手にとって、「ホー、君たちが作ってくれたんか」と言って、喜んでくれました。
そして、「もうクリスマスか」って、少しウルウルした目をして、つぶやくと、目をとじて、また眠ってしまいました。
その晩、月山さんは夢を見ました。子どものころの月山さんが、絵かきのおじさんのアトリエに遊びに行った夢でした。昔、昔のことでしたのに、まるで昨日のことのように思えました。
おじさんのアトリエには地下室があって、せまい階段を下りると、下は物置になっていましたけど、その一すみに、小人の家族が住んでいました。おじさんは時々パンや水を、この小人たちに分けてあげていました。月山さんはぐうぜん小人の一家を見つけてしまい、びっくりしておじさんに話しました。
「だれにもナイショだよ。お父さんやお母さんにもだまってるんだよ。あの人たちは数が少なくなって、かくれてくらしているんだから」。おじさんは言いました。
「小人は長生きだけど、なかなか子どもができない。でもあの家族には子どもがいて、命をつないでいくことができる。幸せな家族だけど、ほかの小人たちとなかなか出会うことができずにいるから、何とかして助けてあげたいと、ぼくは思っている。つねくん、君も仲間になってくれるかい」
つねくんというのは月山さんの子どものころのよび名でした。
月山常雄(つきやま・つねお)というのが、本当の名前でしたけどね。(つづく)

★【童話】星のかけら(6)クリスマス・その2
月山さんもわすれてしまいました。
けれど、どういうわけか、その夜は、切れ切れに、そんなことを夢の中で思い出しました。でも、目覚めると何もかもわすれてしまいます。
けれど、子どもたちのプレゼントがテーブルの上においてありました。
「クリスマスか」。もうすぐクリスマスかと、月山さんは思いました。なんだか、あったかいものが体の中をめぐっているようで、くすぐったいような感じがしました。
「あら、月山さん、今日は顔色がいいですね」。体温計をもって回ってきた看護師(かんごし)さんが、声をかけました。
それから間もなくの日曜日のこと。クリスマス礼拝が終わって、みんなでお祝いの会をするじゅんびをしていました。
12月25日ではなく、25日より前の一番近い日曜日に教会のクリスマス礼拝はあるので、まだ、シュンスケもケンタもサンタさんのプレゼントはもらっていませんでした。イブの夜に、ベッドのそばにくつ下をつるして、サンタさんがとどけてくれるのを待っているからです。
でも、ユキトはサンタさんのプレゼントを、もうもらいました。サンタさんがユキトの家に、特別に速達便でとどけてくれたんだよと言って、ママが持ってきてくれたからです。
「いいなあ、ぼくんちにも速達便でとどけてくれるようにサンタさんに頼んでもらおう」。ケンタが言うと、「ぼくはイブの夜にねないで、サンタさんに会うんだ」とシュンスケが言いました。
婦人(ふじん)会のおばさんたちが作ったごちそうがならびました。お食事が終わる頃に子どもたちの劇が始まるので、少しきんちょうしながらも、3人はお料理をたくさん食べました。
劇は教会学校の子どもたち全員でするのです。でも、全員といっても7人だけですから、一人一人の覚えなければならないセリフもたくさんありましたし、パパやママやおじいちゃん、おばあちゃんまで見に来ているので、ちょっと上がり気味です。
3人の博士が赤ちゃんイエス様をたずねるクリスマス劇です。ユキトはイエス様に黄金をささげる博士の役、シュンスケはにゅうこうを、ケンタはもつやくをささげる博士の役です。小さなリクくんは赤ちゃんイエス様の役。ベッドの代わりに2つならべて置いたいすの上で横になっています。わらの代わりにいすにはクッションがしかれ、黄色い毛布(もうふ)がかけてあります。
「あの毛布、プーさんの絵がかいてあるよ」ってだれかが言いましたけど、そんなこと関係なし。リクくんのお気に入りなんですから。
マリア様の役は1年生のマリちゃん。ヨセフさんは2年生のダイスケくんです。5年生のヒカルさんはナレーターです。
これで7人全員ですから、このシーンが終わると、早変わりをして天使さんと羊かいになるので、いそがしいのです。教会学校の先生も天使の役と星を持つ係に加わります。
「おほしがひかる、ピカピカ、ふしぎにあかく、ピカピカ、なにが、なにがあるのか、おほしがひかる、ピカピカ」
そんな、子どもさんびかを歌って、最後に「うれしい、うれしい、クリスマス」を歌うと大きなはくしゅが起こりました。
子どもたちはほっぺを少し赤くしながら、おじぎをしました。
すると、とつぜん、白いおひげを生やして、背中を曲げた、サンタクロースのおじいさんが、よろよろしながら登場して「ズドゥラースト・ビーチェ」と言いながら、子どもたち一人一人にふくろから出したプレゼントをくれました。
「なに言ってんのか分からないね」「すごい年よりだね」
びっくりしながらも「ありがとうございました」とお礼を言うと「スパシーバ」「スパシーバ」と、おじいさんが言いました。
「遠いロシアの国から、はるばるサンタクロースのおじいさんが来てくれて、とてもくたびれているけれど、君たちにプレゼントを無事にとどけられてうれしい」と言っておられますと、祝会の司会をしていた藤田さんが言いました。
プレゼントの箱を開けたリクくんが泣きだしました。
「サンタさんにお願いしてたのは、これじゃないのに」
藤田さんが、もじょもじょと、サンタさんの耳元で何か言うと、サンタさんがまた、分からない言葉で、何か言いました。
「リク君、このサンタさんは教会のよい子にプレゼントをとどける係のサンタさんなんだって。みんなのお家に行くのはまた別のサンタさんだから、大丈夫。リクくんの家にもイブの夜にサンタさんが来てくれるよ」
みんながもう一度「ありがとうございました」とお礼を言うと「ダ・スヴィダーニア」「スパシーバ」と言いながら、おじいさんは、またよろよろと転びそうになりながら、ドアの外に出て行きました。
トナカイがどこにつないであるのか、見たいなあとケンタは思いましたが、ママがオルガンをひき始めたので、またみんなでクリスマスの歌を歌いました。
「アンコール」「アンコール」という声がかかったからです。
「おじいさん、無事に帰れたかなあ」「すごい年よりだったね」「ぜったい100さい以上だよ」
子どもたちはしばらくの間、このお年よりのサンタさんの話題で盛り上がっていました。ほんとうのところは、教会のおじさんがサンタさんのかっこうをしていたのですけど、あまりにも上手だったので、子どもたちはロシアからサンタさんが自分たちのところに来てくれたのだと、信じていました。わけのわからない言葉を話すサンタさんなんて、ほかには、どこにでもいるはずがないですものね。(つづく)

★【童話】星のかけら(7)クリスマス・その3 
クリスマスイブの夕べになりました。少し暗くなると、外の大きな木につけたイルミネーションがキラキラかがやき出しました。昼の間お日さまの光をためたライトは、あたりが暗くなるとひとりでに光り出すのだそうです。
6時になるとイブ礼拝が始まりました。教会堂の電気は消えていますが、長いすの前の机には、1本ずつろうそくが用意され、ほのかな光の中でさんびかを歌ったりお祈りをしたり、牧師先生のお話も、とてもわかりやすいやさしいお話ですし、いつもより短いので、子どもたちもたいくつしません。
きよしこの夜」を歌って、ほかの何曲かむずかしい歌を聞いて、最後に大きな声で「もろびとこぞりて」を歌いました。
ケンタは教会学校の先生に「もろびとって、どこの国の人ですか」と聞いて、「世界中の人みんなという意味だよ」と教えてもらって、そうなのかと新しい知しきを得たばかりでしたので、大きな声で「もーろびと こぞりて」と歌いました。
礼拝が終わって、電気がついた会堂の中は、ふき消したろうそくのけむりで、のどがイガイガしましたけれど、大人の人たちがすぐに窓を開けてくれ、紅茶(こうちゃ)とチョコレートとクッキーをもらいましたので、満足でした。
いつもは、夜、紅茶なんて飲まないのに、大人になったような気分でした。おまけに今から、クリスマスのキャロリングに行くのです。聖歌隊(せいかたい)の大人に交じって、3人組も出かけることがゆるされたからです。
行き先はレインボー・ホーム。ケンタのパパのつとめさきで、月山さんがいる老人ホームです。ケンタのパパやママ、シュンスケのパパやママ、それにユキトのママもいっしょに行きました。
最近はイブのキャロルも音がうるさいと言われて、昔のようにみんなの家を回れなくなったそうです。レインボー・ホームは1階の部屋の中で歌ってもいいとゆるしてもらえたけど、さわいじゃだめだよって、子どもたちは言われていました。
でも、夜、大人に交じってクリスマスの歌を歌うなんて、大こうふんでした。何人かのお年よりの中に月山さんがいました。車いすにすわった月山さんは元気そうでした。
クリスマスの歌を何曲か歌って、「メリークリスマス、メリークリスマス、メリークリスマス、ツーユー、メリークリスマス、メリークリスマス、メリークリスマス、ツーオール」と最後に短く歌い、みんなで「クリスマスおめでとうございます」とあいさつをしました。プレゼントを一人一人に配って、それから牧師さんが月山さんとあく手して、いろんな人が月山さんに声をかけ、最後に子どもたちも月山さんのそばに行きました。
「ああ、きみたちか」。月山さんは覚えていてくれました。そして、「プレゼントのお返しだよ」と言って、紙に包んだプレゼントを3人に1つずつ、わたしてくれたのです。
その翌日、3人は教会に集まりました。大人の人たちが後かたづけをしています。子どもたちは庭のすみっこで秘密会議をしています。ケンタのもらったプレゼントは緑のかけら、シュンスケのは青いかけら、ユキトのは赤いかけらでした。
おまけに小人のビタエからもらったプレゼントに重ねると、ぴったり合ってきれいな丸い玉になったからです。
「月山さん、ビタエに会ったことがあるんじゃないかな」
「どうして3つもかけらをもっていたんだろうか。どうしてぼくたちのもらったかけらの色がわかったんだろうか」
「こりゃあ、どうしても、もう一度月山さんに会わなきゃならないなあ。でも月山さん、認知症なんだよ。日によって具合のいい時と悪い時があるんだって。眠っている時もあるし」
「それに、今日の夕方、家に帰らなきゃならないし」とユキトが言うと、「じゃあ、今から行こうよ」「月山さんにプレゼントのお礼を言いに行くって、ことわって来るから」とケンタが言って、かけ出していきました。
「行ってもいいけど、車に気をつけなさいよって言われた」と聞くなり、子どもたちはレインボー・ホーム目指して、歩き出しました。ホームまでは20分くらいの道中でした。いいお天気で良かったですね。
月山さんはつかれて眠っていました。子どもたちは紙に「ありがとうございました」と大きな字で書きました。「ぼくの赤いかけらと、前にもらったかけらと合わせると赤い玉になりました・・ユキト」「青いかけらも同じです・・シュンスケ」「緑のかけらも玉になりました・・ケンタ」と、その下に書いて、「小人に会うにはどうしたらいいでしょうか」と、付け加えました。
まもなく正月になり、学校がまた始まって、ふつうの毎日が続きました。月山さんからは何の連絡(れんらく)もありませんでした。

パリの日本人画家・Tomoko OBER-KAZAMA とのメイル交換、あのこと、この人 その1

パリの日本人画家・Tomoko OBER-KAZAMA とのメイル交換、あのこと、この人 その1

Tomoko OBER-KAZAMA姉→宮村
「お元気ですか?
既に2回、9月23日に動画、10月2日に’喜びカタツムリの便り42号’を送っていただきました。
ありがとうございます。忙しく過ごしていてお礼のお返事できませんでした、すみません。

今回家族も知らない思い出話をあなたに聞いて頂きたく、思い出しながら書いてみます。
これは現在の私を形成する血肉になったと思います。

私は新潟に生まれ6歳までそこで過ごしました。両親は東京の外れから空襲が始まるので母の実家がある所に疎開し、そこで私たち3人が生まれたのです。祖父母の所へよく両親又は母に連れられて行きました。
祖父母の家は米屋で当時町の中心にあり、前が神社でした。その小さな神社の建物の横の木製壁面に’地獄図'が描かれており、私は小さいながらも怖さより色彩の美しさに感動したのです。世の中にこの様な色があるのか、と。極彩色で特にオレンジがかった赤と沈んだ緑の組み合わせは素晴らしく、今でも眼に焼きついています。これがたぶん5歳-6歳と思います。

その後足利に父の牧師としての働きのため、引越しし、貧しい家庭でしたので大した玩具はなく、私は週報と一緒に何冊か置いてある本を手に取りましたが、よく読めず分からずでした。しかし1冊衝撃を受けた本がありました。それはバンヤンの’天路暦程’でそれは素晴らしい版画で印刷してありました。こんなすごい本があるなんて、と多分10歳くらいだったと思いますが、子供心に陶酔したのです。

それでは又書きますね。
偕子」

宮村→Tomoko OBER-KAZAMA
「お忙しい日々の中からメール感謝します。
メールを読みながら、母典子を思い出しました。
母は、実践女学校を卒業後、京都で日本画の修行をし画家の道を歩みたい願いを持っていたそうです。
 しかし両親が早くなくなり、長兄がエリート職業軍人と家を離れており、三人の妹のいる身で、とても個人の願いを押し通すことは出来なかったのです。
 貸本屋の剣豪講談と家庭教師の影響でスノーの『中国の赤い星』などとアンバランスな乱読から、その母から、中学に入って、『大地』や『風と共に去りぬ』の世界へ導かれたのです。
 高校生になりキリスト信仰に導かれ、教会の高校生会で、雑誌『のぞみ』を出したのです。その時、母が表紙の絵を描いてくれたのです。叔母をはじめ幾人かの方々が、「さすが」と言って下さりうれしかったです。

 母親つながりで、お母様・風間姉の葬儀の時、沖縄から送った説教を添付します。
日々祝福が豊かにありますように。
忍耐と希望(ローマ8:25)
宮村武夫・君代」

10月6日(金)ヨハネ8章の味い、その23 神田岩本町クリスチャントゥデイ事務所へ

10月6日(金)ヨハネ8章の味い、その23
神田岩本町クリスチャントゥデイ事務所へ
 
https://youtu.be/kEy6R8y7fp4
    ヨハネ8:29

風間サク姉召天記念宣教 『二つの事実、そのいずれも』 −静かで穏やか、勇敢で高尚な生涯に学ぶ−

風間サク姉召天記念宣教
『二つの事実、そのいずれも』
−静かで穏やか、勇敢で高尚な生涯に学ぶ−

[1]序
 本日私たちは、風間サクさんの召天記念の集いのために、この特別な場所に集まっております。ご家族をはじめ、長年の友人や知人など様々な背景で風間サクさんと人生の歩みを共にする特権に与った一同が、サクさんを記念する一つ思いを持って集っているのです。
今、私の心にある思いは、「ここに人あり、その名は、風間サク」の一事であります。
 聖書で、そうです、風間サクさんを母の胎内に奇しく美しい奇跡の存在としてかたち造り最後の息を充実感に満たされながら引き取る瞬間まで生涯を導き支えくださった、生ける、真の神ご自身のことばである聖書(イザヤ46章3,4節)を目がねとして、風間サクさんの生涯とその頂点であり花道である死の尊さの事実を深く豊かに読み解きたいのです。

 この目的のため選びましたのは、新約聖書ヘブル11章20−22節。その中でも、特に20節に焦点をあわせます。
 まずヘブル11章20節を私たちそれぞれが「私の風間サクさん」を覚えながらゆっくりお読みします。
「信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブエサウを祝福しました。」
イサクは、今から約4千年前、イスラエルで生涯の営みを重ね、死に臨んだ人物です。

[2]風間サクさんの誕生
 お手元の故人略歴に簡潔に紹介されています。
風間サクさんは、1920年、つまり大正9年、新潟県の現南魚沼市で、篠田ご夫妻の長女として誕生なさったのです。そうです、実に大正、昭和、さらに平成を生き抜いてこられたのです。この一事からだけでも、私たちは風間サクさんに敬意を払い、心の中で拍手を送りたい思いです。いや心の中だけでなく、キリストの花嫁として結婚式場を退場、新しい復活のいのちに与る人生の頂点を思えば、実際に拍手をしたいほどではありませんか。

ところで1920年、大正9年誕生の時代背景は、ただ事ではありません。
1920年、大正9年は、どんな年だったのでしょうか。ごく簡単な年表にも、
「世界大戦後の恐慌・大不景気来る、取り付け、休業銀行、169銀行にのぼる」と記しています。
世界大戦と言っても、1945年に終結した私たちがよく知っている第二次世界大戦ではないのです。
1914年から1918年までの5年間、ヨーロッパを中心に吹き荒れた第一次世界大戦です。 
日本はと言えば、戦闘地域から遠く離れた安全地帯で、生産したものをどんどんヨーロッパの国々に輸出でき、好景気にわきあちこちに戦争成金が生まれたのです。
 ところが1920年には、好景気は一転、大変な不景気が日本全体を襲いました。
しかもサクさん誕生当時の日本では、不作やさらに飢きんさえ珍しくなく、人々の生活を苦しめていました。
 ところがサクさんが誕生した年は、新潟では不作の後の豊作で、ご両親は、その喜びを、長女誕生の大きな喜びと重ねて、ほうさくのさくをとって、長女の名前となさったと聞いております。暗闇の中にも、なお光輝くと、長女誕生を祝われたご両親の心意気が伝わってくるではありませんか。

[3]静かに祈り続けた激動の生涯
 再び個人略歴に意を注ぎたいのです。
生涯
「1944年 六日町中学校教師風間正富と結婚。一男二女の母となる。
 その後キリスト教の洗礼を受ける。牧師となった夫と共に各地の教会に赴任。」
  
そうです。風間サクさんは、1944.昭和19年中学教師・正富先生と結婚なさったのです。そして正富先生を通してキリスト信仰に導かれ、キリスト教の洗礼を受けました。厳しい戦時下とは言え、若き中学教師ご夫妻の新婚生活が目に浮かびます。
ところがです。正富先生は、中学教師から牧師に転じたのです。まず家庭にあって正富先生は、妻サクさんに神の祝福の約束をしっかりと教え、サクさんもまた伝えられた神の祝福をしっかり受け継がれました。
お二人のご家庭は、最高の教会であり、この上ない学校で一男二女3人のお子様が生まれ、成長し続けたのです。
しかし同時に、風間サクさんは、中学教師夫人としてのそれなりに安定した生活から牧師夫人の厳しい生活への激変を経験なさったのです。
戦時下、キリスト教は敵国の宗教だとの大きな誤解を受ける中でも、ひたすら伝道に専念する夫・正富牧師を助け、家庭生活の実際面すべてを支えるサクさんのご苦労はどれ程のものであったでしょうか。しかも郷里を離れ栃木の各地の教会に赴任する、その事実の意味するところは私たちの想像にかたくありません。

しかもそれだけではないのです。
「1967 年 夫の設立した社会福祉法人弥生会を夫の召天後に継承。
 保育園園長に従事し後に理事長に就任。
2000 年 社会福祉法人弥生会理事長を退任」
1967年、未だ壮年の正富先生が突然召天なさった後、夫の設立した社会福祉法人弥生会を継承、保育園長に従事し、後には理事長に就任されたのです。
そうです。家庭を守り、三人の子弟を守り養育、教会に仕え続ける生活に加え、齢(よわい)47歳にして、大きな社会的責任を新しく直接に担われるに到ったのです。

最初にヘブル11章20節の朗読を通して紹介いたしました、イサクはどちらかと言えば地味な人です。しかし彼は信仰の人でした。旧約聖書創世記25章20節によると、イサクがリベカと結婚したとき、彼は40歳でした。
創世記25章26節によれば、エソウとヤコブが生まれたとき、イサクは60歳に達していたとありますから、不妊の妻リベカのために、彼は20年にわたって祈り続けたのです。
そうです、一事のため、20年にわたりイサクは祈り続けたのです。比較的目立たない人物とは言え、イサクはこのような生き方をした人でした。

私たちの風間サクさんもどちらかと言えば地味な方です。しかし同時に信仰の人でした。ひとりの人のため、ひとつのことのため、20年静かに祈り続けた方なのです。
2000年理事長を退任するまで20年、30年、そして退任後も生涯にわたって静かに祈り続けた方なのです。

[4]旅立ちの床で
略歴の最後、生涯の頂点、復活の希望への花道です。
「子ども3人、孫5人、ひ孫1人に見守られ、生涯を終え天に召される。」 

風間サクさんは、正富先生との家庭と教会において神の約束を聞き学んだだけではありません。飢饉という自然の猛威にも比較できる困難のなかで、神から直接祝福の約束を受けたのです。また在留外国人として受ける仕打ちを思わせる苦しみを受け続けた後も、風間サクさんは神の約束のことばに堅く立ったのです。こうしたイサクの生涯を思い巡らしながら、創世記26章25節のことばを通し風間サクさんの生涯・死の深さを味わいたいのです。
「イサクはそこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。」
これこそ、世俗のただ中で、主なる神にある家庭、教会が建てられていくあり様です。
風間サクさんもご自身の天幕を建てる必要があり、それなりの苦労があったのです。飢饉や人々の圧迫という現実の生活を通して、主なる神から直接祝福の約束を聞き、その約束に立つ者として祭壇を築きイサクもそして風間サクさんも祈るのです。このとき初めて自分なりの天幕を張ることができるのです。平凡で地味に見える風間サクさんも死の陰の谷を歩み続けて来られたのです。その厳しい現実のただ中で、自分だけでなく、子孫への神の祝福の約束を直接聞き取っていったのです。 
そのような生涯の歩みの裏づけがあって初めて、その結実としてのヘブル11章20節が生涯の頂点に置いて現実となっているのです。
 ヘブル11章20節を、もう一度ゆっくりお読みいたします。
「 信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブエサウを祝福しました。」

パリから駆けつけた長女を含め一男二女、孫5人、さらにはひ孫一人にさえ見守られ支えられた日々。それは、風間サクさんの激動の人生の頂点としての病床に於ける静かな日々でした。確かにこれは誰でもが認める一つの事実です。
しかしもう一つの確かな事実があり、今、私たちはその事実をはっきり見抜く必要があります。まさにそのための記念会なのです。
そうです。サクさんも、イサクと同様に、ご家族一同の未だ来らず、将に来らんとしている今後の日々のため祝福を祈っておられたのです。
 このサクさんの祝福の祈りが今後のご家族一同を支えます、必ず支えます。支えられていたサクさんが、実は、旅立ちの床で、ご家族の未来をすでに支えておられたのです。
 風間サクさんの生涯、それは静かで穏やかでありながら、しかし同時に実に勇敢で高尚な生涯です。
二つの事実、そのいずれをも見抜く風間サクさんの洞察力。二つの事実に耐えて身に受けるサクさんの率直さ、賢さ。
 私たちも、物事の一面だけでなく両面を。一部だけでなく全体を見抜く修練を重ねたい。汗と涙を流しながら、サクさんのように、持ち場・立場に踏みとどまりつつ風間サクさんのような生涯を送り、また死を迎えたい。静かで穏やか、同時に真に勇敢で高尚な生涯と死を迎えたいではありませんか。
 それこそ、「ここに人あり、その名は、風間サク」を記念することになるのです
最後に、風間サクさんの愛読聖箇所を、心を込めてお読みします。
これこそ、風間サクさんの生涯と死の基盤であり、死の彼方の希望の土台なのです。
繰り返される「しかし」の前と後の鋭い比較に注意し、二つの事実のいずれも認め、その上で「しかし」以下の恵みの事実に心注ぐのです。

コリント人の手紙 第二 4章8−10節(一部宮村の訳し換えで)
「:私たちは、四方八方から苦しめられます。しかし窮することはありません。
途方にくれています。しかし行きづまることはありません。
迫害されています。しかし見捨てられることはありません。
倒されます。しかし滅びません。」
いつでもイエスの死をこの身に帯びています。
それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」

お祈りします。
 風間サクさんを、母の胎内で奇しく美しい存在として形造られ・創造なさった、生ける真の神よ。
 風間サクさんが祈られたように、ご遺族一人一人の将来を祝福し、守り支えてください。
またこの記念会に参加した私たちの未来を祝福ください。
 主イエス・キリストの御名によって、アーメン。

聖書をメガネに 童話「星のかけら」の著者・和泉糸子さんの思い出 宮村武夫

聖書をメガネに 童話「星のかけら」の著者・和泉糸子さんの思い出 宮村武夫


 7月17日早朝、携帯に電話がありました。看護師である和泉糸子さんの次女からの「母が緊急入院しており、お祈りを願っています」とのメッセージでした。とても状態がよくないので、短くと強調されました。糸子さんのやっと聞き取れる願いに応えて、短く心を込め、確信を込めて祈りました。
糸子さんはその晩、主のもとに召され、7月19日、和泉ご夫妻が牧会した日本基督教団孫子教会で葬儀が持たれました。

 糸子さんに初めてお会いしたのは、1967年のことです。1963年から67年までの留学生活から戻った直後、埼玉県の寄居から東京西荻の古本屋「待晨堂(たいしんどう)」に行き、西荻の駅に向かい、踏切を渡るか渡らないかのところで、背後で「宮村さ〜ん」と大きな声で呼ぶ声に振り向くと、背の高い和泉侃治(かんじ)兄が自転車を押しながら近づいてきました。「いつ帰ってきたの」との問いで始まる対話が始まったばかりだというのに、「結婚式の司式をしてくれない?」「ええっ」。

 私が日本クリスチャンカレッジに入ったのは1958年、2年後に入学した侃治兄はとても体格のいい朗らかで元気な人でした。いつも「宮村さん、宮村さん」と言って親しく話し掛けてくれました。お互いに20歳前後の、極端なことを考えたりする時期ではありましたが、計算抜き、損得抜きに1人の人間と人間、気心が分かる、気が合う交わりでした。

 ですから、大学紛争下の東京神学大学大学院2年を中退した侃治兄の突然の申し出に、何も背景を聞くことなく、結婚式の司式を引き受けました。4年間、留学中の私のため、祈り続けてくださった小さな教会の教会員も、宮村先生の友人の願いというだけで、皆さん一生懸命結婚式の準備をしてくださいました。かくして、私にとっては初めての結婚式の司式、教会にとっても初めての結婚式、そうです、結婚式の中心、それが花嫁・糸子さんでした。
 和泉夫妻と私たち夫婦、それぞれの70年代を経過、私どもは1986年4月、沖縄へ移住しても、文通を中心とした交流が継続しました。

 ところが2005年3月30日、和泉侃治先生が膵臓がんのため召されたのです。前年9月に手術のできない進行がんであることが分かりましたが、キリスト信仰による希望を持って生活を続け、新会堂建築が続けられる中で、礼拝使信(説教)を取り次ぎ続けました。侃治先生の召天後1年して、最期に語った使信が糸子さんの編集により、『ヨハネの手紙一による使信―喜びが満ちあふれる』(キリスト新聞社)として出版されました。

 2008年6月1日、日本基督教団孫子教会の主日礼拝で、テモテへの手紙二3章14〜17節に基づき、「聖書はすべて」との主題で、私に宣教を担当する恵みの機会が与えられました。
 さらに、午後の特別集会では、「和泉侃治牧師の説教集に対する喜びの応答」との題で、文字通り深い喜びに満たされて和泉侃治牧師の聖書の読み方、読み従いつつ生活する生き方、そして、死の迎え方を確認しました。それは、「宮村さん、宮村さん」「かんちゃん、かんちゃん」と呼び合った20代に、心の内に焼き付けられた聖書を通しての恵みとそれへの応答にほかなりません。

 2011年、私どもが沖縄から関東へ戻って以来、安孫子教会の牧師である糸子先生や安孫子教会との交わりが深められ続けました。そうした中で、忘れがたい恵みの時があります。神田岩本町の病院で治療を受けた帰りの糸子先生が、クリスチャントゥデイの事務所に寄ってくださったのです。お孫さんを直接な読者と想定しながら、教会学校の現状の中でなお、将来を見つめて書き続けられた童話の出版について、相談を受けたのです。

 私の応答は、単純であり、素朴です。その童話「星のかけら」をインターネット新聞クリスチャントゥデイに掲載していただき、今すぐにでも読者の手に手渡すことができないかとの提案です。その掲載を通して、読者からの応答と祈りを含めて、紙の本としての出版を実現するように祈り期待したい、と二段構えです。
 この素朴な提案に、糸子先生は丁寧に答えてくださり、全17回の掲載がなされました。私にとって特別に意味深いのは、最後に書かれたあとがきです。この中には、インターネットを利用できない方々への配慮と、そうした制約を越えてなお、将来の子どもたちへの福音伝達の思いがにじみ出ていると理解します。糸子先生の思い出として、ご一緒に読んでいただければうれしいです。

■ <あとがき>童話「星のかけら」連載を終えて 和泉糸子
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◇1939年東京深川生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学新約聖書学)、上智大学神学部(組織神学)修了。宇都宮キリスト集会牧師、沖縄名護チャペル協力宣教師。2014年4月からクリスチャントゥデイ編集長、17年4月から同論説主幹。

<あとがき>童話「星のかけら」連載を終えて 和泉糸子

<あとがき>童話「星のかけら」連載を終えて 和泉糸子

 8月から12月まで17回にわたって、童話「星のかけら」を連載していただきました。一通り出来上がっていた作品を、話のつながり具合や1回分の長さなどのバランスを考えて、上手に編集していただいて、毎週火曜日に掲載という形になりましたので、お忙しい中で、時間を割いて文体を整えたり、誤字、脱字の訂正をしてくださったり、編集者のお骨折り、本当に感謝です。ありがとうございました。

 教会の友や、遠くにいる友人、知人からも「読んでいますよ」という励ましの声を頂きました。ただ、インターネットができない方もかなりおられ、プリントアウトして回覧したりもしましたが、高齢者の多い教会では、難しいところもあるとも感じました。お顔を見たこともない方々、読んでいただいてありがとうございました。とても励まされました。クリスチャントゥデイの輪の中に加えられて幸いでした。

 もともと、本を読むのが苦手な孫のため、9歳の誕生日のプレゼントとして書き始めた童話です。最初の読者は家族だけでした。教会が遠くて、親も働いていてなかなか出席しにくい。教会学校の生徒も少なくなり、現実の教会では独りぼっちに近い。そういう子どもは孫だけではないでしょう。教会学校で友達に出会って仲良くなり、一緒に冒険をする。そういうお話を書きたいと思いました。

 ファンタジーの舞台は、外国ならお城やお屋敷や古い教会が似合うかもしれません。日本では、神社やお寺は舞台になるかもしれません。でも、教会はどうでしょう。あまり見当たりませんね。
 100年以上の歴史がある田舎の古い教会なら、小人の出てくる舞台になるかもしれない。そう思いました。子どもたちが小人と初めに出会う古い田舎の教会は、夫が短期間奉仕していた房総にある教会がモデルになりました。塔はないものの、植物園のような広い庭があり、敷地のど真ん中に会堂が建っている。

 月山常雄さんのモデルにさせていただいた方は、「神様の名前は不思議というのですね」というのが口癖でした。士師記13章18節の言葉ですが、不思議という名前の神様が不思議なことをしてくださる。だから「ああ、祈りましょう」と、そういう祈りの人でした。小人と親友になってテレパシーで交流できると思えるような方でした。

 クリスマス祝会に登場するサンタクロースは、長くロシアに赴任しておられた教会員の方がモデルです。小さい頃、孫は本当にロシアから来た100歳のおじいさんだと思っていたようです。今はもう分かってるぞと言っていますが。
 侃斎(かんさい)さんのモデルは亡き夫です。おチカさんのモデルは夫の母です。田舎の家はいつも近所の人たちでにぎわっていました。お金を入れるマッサージチェアまであり、まさに私設老人いこいの家でした。夫はUFOや不思議なものに興味を持っていましたし、2人とも小人の保護者になれる柔らかい資質を持っていたと思います。和歌山の出身ですので、夏休みに強引に、和歌山にみんなを連れて行きました。

 小人のビタエさんの名前は「いのち」、アルムのお父さんのノードという名前は、創世記4章の「エデンの東、ノド(さすらい)の地」から付けました。
さて、このお話を書いた後、私は時々どこからか、小人がひょっこり出てくるような気がする、そういう思いを持つことがあるのです。

 クリスチャントゥデイの事務所は岩本町にありますが、たまたまなのですが、私は月に2回ほど岩本町のクリニックに通っています。
そのクリニックのすぐ近くに金山神社という神社があります。周りはビルやマンション。それなのに、神社があるのです。鍛冶に関係する神様を祭った神社でふいご祭りというお祭りなどもあるそうです。お正月前には神社に竹が運ばれて、門松が作られます。近所のビルの前にその門松が飾られる。地域に根差している感じです。けれど歴史のある神社かと思ったら、そうでもないようなのです。

 昭和初期にできた神社のようですが、鍛冶、ふいご、ということで「星のかけら」にちょっと出てきます鉱山資料館やタタラとも関係がありそうで、通りがかりに中をのぞくと、ずんぐりした頑固そうな小人が隠れているような、そんな気がして、ビタエさんに教えてあげたいような気がしたりします。
アドベンチャー、冒険を子どもたちと一緒にしました。とどまっていないで、
 
 次の冒険に出ていきたいと思います。
「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい・・』アブラムは、主の言葉に従って旅立った」(創世記12章1節以下)
冒険、アドベンチャーは、神様が共にいてくださるから、安心してできるのだと思います。
お読みいただいてありがとうございました。
■ 【童話】星のかけら(1)冒険のはじまり・その1 和泉糸子
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◇1944年生まれ、福岡市出身。1965年、福岡バプテスト教会で受洗、のちに日本基督教団の教会に転入し、Cコースで補教師試験に合格。1996年より我孫子教会担任教師、2005年より主任担任教師となり、20年間在職。現在日本基督教団隠退教師。

 九州大学文学部卒業。東京都庁に勤務後、1978年より2002年まで、船橋市で夫と共にモンテッソリー教育を取り入れた幼児教育や、小中学生対象の教えない教育という、やや風変わりな私塾(レインボースクール)を運営。
童話「星のかけら」は、小学生の孫のために書いたものですが、教会学校の子どもたちが少なくなっている今、お話を通して教会や神様に少しでも出会える場が与えられればうれしいです。

【童話】星のかけら(1)冒険のはじまり・その1、その2 和泉糸子

【童話】星のかけら(1)冒険のはじまり・その1、その2 和泉糸子

ある暑い夏の夜のことでした。
ユキトはシュンスケとケンタといっしょに、留守番(るすばん)をすることになりました。
ほんとは、その日おじさんの家にお泊(とま)りをして、もちろんおばさんもいて、子どもたちだけで夜をすごすなんていう予定じゃなかったのに。
まだ9歳(さい)になったばかりのユキトやシュンスケ、あと3カ月たたないと9歳の誕生日(たんじょうび)がこないケンタの小学3年生3人組には大冒険の夜になりそうでした。
パパとママの仕事がいそがしいので、ユキトは夏休みの間、おじさんの家にお世話になっていました。そしてシュンスケやケンタと仲よくなりました。
ユキトは背(せ)が高くて運動が好きな少年。シュンスケは色白で本を読むのが大好き。そして、ケンタは小がらで日に焼けた男の子です。見かけはちがうけれど、何となく気が合うのです。
ところで、ユキトのおじさんの仕事はちょっとかわっていて教会の牧師(ぼくし)さんなのです。ですからお家は教会のしきちの中にありました。古いいなかの教会ですから、ふつうの家の10けん分ぐらいもある広いお庭の中に、いろんな木がうわっていて、教会堂はまるで植物園の中にたてられているようでした。
秋には真っ赤になるモミジが3本もあります。黄色のひらひらする葉っぱをいっぱいつけるイチョウの大木もあります。冬に実をつける大きなゆずの木もあるし、その横には、背の高いロウバイもあります。バラの木もたくさんあります。
まだ夏なので、今は分からないけど、きせつ、きせつにそりゃあ、とても見事なのよというおばさんの言葉を聞いて、ユキトはノートに名前を書きとめました。アジサイやボケ、ハギやススキ、コスモス、キク、チューリップやクロッカス、ポリアンサスイセンやユリ、きせつごとにいろんな草花がわすれずに顔を出します。おばさんの話ですけどね。
教会堂のうら手におじさんの家はありました。牧師さんの住む家ですから、牧師館と呼ばれていますけれど、新しくたてなおされたので少しもかわったところはありません。どこにでもあるふつうの家です。窓(まど)の下には朝顔がうえてあり、ユキトは水やりの係をまかせられました。
門から入ると右側にコンクリートでほそうされた駐車場(ちゅうしゃじょう)もありますから、古い教会にしては、きちんと整えられていますけれど、教会堂だけは昔のままなのです。足の不自由な人が入りやすいような平らな入り口ではありません。神様をおがむ神聖(しんせい)な場所だから高い所にある方がいいと、昔たてた人たちは考えたのでしょう。
バリアフリーにしたくても無理なんだよ。県の文化ざいだから勝手に改ちくもできないし」。お年よりの方が、階段(かいだん)を上がるのを見ながら、いつもおじさんは申しわけないなあと思うのだそうです。
入り口に石の階段があって、階段を上がるとがっしりしたとびらがあります。日曜日にはこのとびらは開いていますが、いつもはしまっています。中に入ると受け付けの小部屋があり、その奥(おく)にドアがあって、100人も入れそうな広い礼拝(れいはい)堂に長いすがならんでいます。でも20人くらいしか礼拝に来る人はいないのです。
右の横側にも引き戸で仕切られた部屋が2つありますが、1階にはそんなに面白い場所はありません。礼拝堂のつき当たりの左手にオルガンが置かれていて、その奥に倉庫があります。講壇(こうだん)は木の階段を3段上るくらいの高さです。
講壇というのは、牧師さんが話をする舞台みたいなところで、その真ん中に説教壇があり、せいさん台もあります。説教壇とせいさん台にはぶどうのちょうこくがついています。講壇の右側の奥にはドアがあって、ドアを開けると階段があり、上ると2階の部屋があり、その上は塔(とう)につながっているのです。
この階段を上って、自分たちだけで塔のてっぺんまで行けたらいいなと、子どもたちは思っていましたけれど、夜はあぶないからやめなさいと言われるだろうと分かっていました。そして牧師館からは廊下を通って教会堂のうら側につながるドアがありますので、そこから出入りできるつくりになっていました。
教会には大人だけでなく子どもたちも集まります。日曜の朝、大人の礼拝の前に、教会学校という子どもたちの礼拝もあります。シュンスケのパパは教会学校の校長先生です。ケンタのママは幼稚園(ようちえん)の先生で、ピアノが上手なので、大人の礼拝や子どもの礼拝のオルガンをひいています。そういうわけで2人は教会学校の生徒なのです。教会の学校なので、英語でチャーチ・スクール、りゃくしてCSと言います。
ユキトの家は車で2時間もはなれた場所にあるので、いつもは来られないけれど、この夏はCSに出席し2人と仲よくなりました。CS礼拝が終わると、わきの小さな部屋で、絵をかいたり、本を読んだり、庭に出て遊んだりします。でも、今日は特別に牧師館で、3人だけのお泊り会をしてもいいということになり、みんなワクワクしていました。
夕ご飯も終わり、お風呂(ふろ)にも入って、さあ何をして遊ぼうかと、本当はゲーム機で遊びたかったのですが、今日はだめと言われていたので、考えていたところに電話がかかってきました。(つづく)
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◇1944年生まれ、福岡市出身。1965年、福岡バプテスト教会で受洗、のちに日本基督教団の教会に転入し、Cコースで補教師試験に合格。1996年より我孫子教会担任教師、2005年より主任担任教師となり、20年間在職。現在日本基督教団隠退教師。
九州大学文学部卒業。東京都庁に勤務後、1978年より2002年まで、船橋市で夫と共にモンテッソリー教育を取り入れた幼児教育や、小中学生対象の教えない教育という、やや風変わりな私塾(レインボースクール)を運営。
童話「星のかけら」は、小学生の孫のために書いたものですが、教会学校の子どもたちが少なくなっている今、お話を通して教会や神様に少しでも出会える場が与えられればうれしいです。

【童話】星のかけら(2)冒険のはじまり・その2 和泉糸子
コラムニスト : 和泉糸子
 
 教会のお年よりが急に具合が悪くなって、もしかしたら亡(な)くなるかもしれないので、出かけるけれど、君たち3人だけで留守番しても大丈夫(だいじょうぶ)かと聞かれて、大丈夫、大丈夫と3人は答えたのです。
あわただしく牧師さんたちは車で出かけていきました。
月山のおじいさん、大丈夫かなあとシュンスケは心配になりました。小さいころからよく知っている人が亡くなるかもしれないというのは、不安になりドキドキすることだからです。
ケンタは引っこしてきて1年くらいなので、月山さんのことをよく知りません。体の具合が悪くてずっと教会を休んでいたからです。
ユキトもその人のことは知りませんが、死ぬってどんなことだろう、ぼくはまだ死にたくないなあと思いました。大人になってずっとたって、おじいさんになってから死ぬのは仕方ないけど、おじいさんになっても、死ぬのはこわいかなあと思いました。
でも3人ともこれからの冒険を考えると、だんだんとワクワクの気持ちの方が強くなりました。
「夜の教会をたんけんしてみようよ」と、ユキトが言いだすと、みんなはパジャマのままで、立ち上がりました。台所から懐中電灯(かいちゅうでんとう)を見つけて来て、手に持って教会の方に移動(いどう)しました。暗いのはいやなので、部屋の電気も廊下の電気もつけたままです。
教会につながるドアは開けたままにしておきました。帰れなくなったら大変ですからね。こういうように3人はとてもしんちょうに事を運んだのです。
懐中電灯をつけて、礼拝堂の壁(かべ)をさぐるとスイッチがありました。「もっと懐中電灯があればいいけど」と、ユキトが言うと、「まかしとけ」と言って倉庫の中からシュンスケがペンライトを持ってきました。
「これ、クリスマス会の時に使ったんだ。後かたづけを手伝ったから入れてある場所が分かった」「おてがら、おてがら」。みんなはペンライトを2本ずつ持って・・・。ユキトは大きな懐中電灯を持っていますから、ペンライトは1本にしましたけどね。階段を上って、2階に行きました。
そこは7、8人が会議できるくらいの部屋で、大きな分あつい本が本だなにならべられ、壁には昔の牧師さんの写真がかざってあり、窓には赤や青や黄色の花もようのきれいなステンドグラスがはめてあります。真ん中に大きなテーブルと折りたたみいすが置かれ、すみっこに古いひじかけいすと小さな机(つくえ)もあります。
電気をつけても、かなり暗いので、お化けでも出てきそうな気がして、びくびくします。何しろ、壁のがくぶちに入った大きな写真は白黒写真で、ひげを生やして着物を着た人や、丸いメガネをかけてしせいをピンとした昔の人たちが、にこりともしないで写っているし。おまけになんだか光っているものがゆらゆらしています。「キャー」っと、ケンタがさけびました。「お化けが出た!」。
「びっくりしたなあ。光るパジャマなんか着てるのだれだよ」と、シュンスケが言います。
「教会にはお化けは出ないよ、きっと」とユキトは小さな声で言いました。実はヒーローの絵のついた光るパジャマは、お気に入りでしたけど、なんだか間(ま)が悪いなあと思いました。そうしたら、「でも、もしかしたら、悪魔(あくま)が出てくるかもしれないじゃないか」とシュンスケがおどかしました。「イエス様は悪魔に勝ったんだよ」、こわがりのケンタも負けずに言います。教会学校のお話で「あらののゆうわく」というのを聞いたことがあったからですが、もしも悪魔が出てきたらどうしようと思って、ぞっとしたからです。
その時、小さな鐘(かね)の音のようにも、すずの音のようにも聞こえる音がしたのです。どうやら、上から聞こえてきます。3人は顔を見合わせて、どうしようと、目で相談しました。こわい時って、声が出ないものですね。でも、目で相談し合うことはできるのです。
「行こうか」「上へ行くの」「なんかこわい」。そんな声にならない声で3人は相談して、でも、とうとう、階段を上ることにしました。シュンスケとケンタは初めてのけいけんです。ユキトはおじさんに頼(たの)んで一度だけ、階段を上ったことがありました。「ここから先は電気がないよ」「わかった。ペンライト」
少し曲がった階段。途中(とちゅう)におどり場があって、そこには窓があります。窓から、月の光が少しだけさしているようです。そうしてもう少し上ると、もう一つおどり場があります。壁の中についている階段ですので、冷たい風はふいて来ませんし、雨の日でも平気でしょうが、今は夏ですし、天気も悪くありません。コウモリに出会うこともなく、階段の行き止まりまできました。
入り口にはドアがないのでそのまま入ると、その先は小部屋になっていて、天じょうに鐘がつるしてありました。壁には小さな丸いガラスがはまっていますので、のぞけば外の景色が見えるはずです。でも子どもたちは、景色を見るよゆうもなく、目をまんまるにして鐘のある場所を見ていました。
すんだ音色の、小さな鐘の音がしています。そして、そこには今まで見たこともない不思議な人がいたのです。(つづく)