いいぞ吉枝!

いいぞ吉枝!

 祈っているだけではだめだ。ときどき聞く正当な意見に聞こえます。
しかし、これが祈りの火を消す可能性があります。
 
 1957年、開成聖書研究会で吉枝隆邦君と出会い開始し、愚直に継続してきたのは、祈り聖書をともに味読・身読することです。
 クリスチャントゥデイ事務所で、2個月に一度継続する、ペンケン祈祷会神田の集いも、恵みの波紋の広がりの一つと理解します。
   
 吉枝君は、この祈祷会に1度も出席出来ないで来ました。今、清瀬救世軍病院で、話も出来ない状態の中、周囲の方々が、すごーいと認める祈りの継続。キリスト信仰の歩みの頂点・人生の頂点。新たな始まりのスタート直前、いいぞ吉枝!

平和の祈り

平和の祈り

沖縄からの祈り:2000年、沖縄での日本伝道会議の中から
沖縄への祈り:2017年、普天間バプテスト教会、苦悩と喜びをもって牧会する、敬意する神谷牧師を覚えて

平和の祈り
 
天地の造り主なる神よ。
20世紀を平和の君・キリストに従わず、
戦争の世紀にしてしまった私たちの罪をお赦し下さい。
私たちは主キリストを王座から降ろして、
人間中心、民族・国家中心の思想に惑わされ、
神の国と神の義を第一に求めなかった罪を悔い改めます。

平和の神よ。
21世紀を前に、私たちを聖霊ご自身で満たし、
和解の福音の使者として、
遣わされた処で平和を造り出す者とならせて下さい。

愛の神よ。
私たちを戦争の根源である憎しみ、差別、偏見、劣等感や高慢から解き放ち、
隣人愛で満たして下さい。
またご自身から賜った家庭を御名を崇め、
人々に仕える平和な家庭として形成させ、
世界を神の家庭とする祈りと祈りに導いて下さい。

義なる神よ。
私たちをこの国が真に祝福されるために祈る預言者的祭司となし、
天皇を再び現人神となし生ける神の怒りに触れるぬよう導きください。
21世紀を真に平和の世紀とするため、
平和の君・歴史の主なるキリストを日々仰ぎ、
今、ここでも和解の福音を実践するため苦悩と喜びの両立を生き、死ぬ者と、
私たちを導き下さい。
主イエスの御名によって祈ります、アーメン。

懐かしい菊池良一先生との対話、フェイスブックならでは

懐かしい菊池良一先生との対話、フェイスブックならでは

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★菊池良一先生→宮村武夫
宮村先生、ご無沙汰しております。
 串田孫一の名を見つけました。高校生時代、佐渡島で母からフランス文学者串田先生の本をプレゼントされ、随筆文章の豊かさに少年ながら感動しました。自然散策から哲学まで幅広く、「野兎の目」「愛の断想」他、何冊も買い求めました。渡辺先生の「敗戦日記」、探して求めます。ありがとうございました。
 新約解釈の宮村先生の講義はいつも転寝をしていた愚学生でした。ミミズ這いの筆跡ノートは大切にしております。寒中、お体ご自愛ください。
 吉枝先生のためにお祈りしております。

☆宮村 武夫→ 菊池ご夫妻
驚き、喜びのコメントです。
串田孫一の名を見つけました。
高校生時代、佐渡島で母からフランス文学者串田先生の本をプレゼントされ、随筆文章の豊かさに少年ながら感動しました。
自然散策から哲学まで幅広く、「野兎の目」「愛の断想」他、何冊も買い求めました。
渡辺先生の「敗戦日記」、探して求めます。」
自由詩の様に私の心にしみて来ます。

私は、残念ながら、佐渡を訪問したことがありません。
しかしTCCで出会った佐渡出身の兄姉が、私の佐渡です。
何より、沖縄での25年間は、聖書に見る島の意味の心への決定的な掘り込みの期間でした。
忍耐と希望(ローマ8:25)
宮村武夫・君代

★ー聖書に見る島々ー
[1]序.
 聖書が時,時間,歴史を大切にしていることは明らかです.ですから聖書を読みつつ生き,生活・生涯を通して聖書を読む恵みを与えられている私たちが歴史的(時,時間)的センスを身に着けて行くのは自然なことです.そして歴史的センスと言うとき,時や時代と共に,場所や地理的センスを当然含みます.
 地理的センスにこだわるのは,個人的な経験とも関係するかもしれません.最初に仕えることを許された教会は関東平野の北西の端,次の教会は東京の西の端に所在.そして首里福音教会.沖縄は日本の南の端だと位置ずけられます(首里福音教会の講壇中央にある十字架の下にある地球儀はそんなこと少しも示していませんが).

[2]聖書に見る地理的センス,神のみ旨・計画における「島々」. 沖縄の諸教会にとって,離島伝道は教会のあり方そのものに深くかかわると自覚し,家庭集会の一つではイザヤ書を読み進めながら離島の一つ伊江島宣教のため祈り続けています.離島伝道に目を据えて見通す限り,沖縄宣教は戦後後退しています.
(1)聖書に見る,「島々」.
 イザヤ書後半に繰り返し言及される,島々.
 イザヤ42章10,12節など,メシヤ預言の中で「島々」について言及している意味.
 初代教会の福音宣教,教会形成における,「島々」の位置.
☆クレテ島.テトスの手紙1章5節(一つの島に複数の教会,その一致と協力),1章12節(島の歴史文化の徹底した学び),3章12節から15節(人と手紙による生き生きとした交流).
キプロス島使徒の働き11章19,20,21節(海を越え,文化人種の壁を越える福音の広がり,国外宣教の原点).
 教会の歴史における,島々の役割.
☆中世ヨーロッパ宣教におけるアイスランドの役割.
カトリック教会の沖縄宣教.まず奄美大島,そして沖縄へ(安齊伸著,『南島におけるキリスト教の受容』,第一書房).
 島国日本などとはは,今日ほとんど言われないし,その意識も薄いのではないか.これはやはり危険なことではないでしょうか.

[3]ヨハネの黙示録に見る視点.
 聖書に見る「島」と言えば,ヨハネが「神のことばとあかしとのゆえに」(ヨハネの黙示1章9節),流刑の地として礼拝の生活をおくったパトモスを見逃すことができません.
(1)南北約16キロ,東西9キロのパトモスにあって,ヨハネは,主イエス・キリストの主権(参照1:8,21:6,22:13参照)について,徹底的に教えられます.
(2)「御霊に感じ」
 ヨハネ聖霊ご自身の導きにより,パトモスにいて小アジアの七つの教会それぞれの個性と戦いを見分け,同時に一つの地域にある七つの教会を全体として一つの教会のように見,ヨハネはそれぞれの教会に手紙を書くのです.
 しかしそれだけではありません.「御霊に感じ」て,天からすべてを見る視点と視野を与えられます(黙示録4:1,2参照).
 さらにヨハネ聖霊ご自身の導きにより,荒野の教会の姿,つまり戦闘の教会のあり方を悟り(黙示録17:3以下参照),同時に勝利の教会についての洞察します(黙示録21:10以下参照). 聖霊ご自身の導かれ,ヨハネは主イエス・キリストについて徹底した信仰の告白へ導かれ,キリストのからだである教会の豊かさについて理解を与えられます.
 私たちも,基本的に同じ道を進むべきです.聖書に従い聖霊ご自身についてどれ程強調しても強調し過ぎることはないのです.しかしそれが,パウロが大事なこととする新しい創造(ガラテヤ6:15参照)の視座,つまり創造論,キリスト論,教会論などとの有機的なそして雄大なかかわりからなされていないなら,聖書の教えとは似て否なるものとなる危険があります.