2004年10月4日(月) 神戸ルーテル神学校 2004年度日本福音主義神学校総会 開会礼拝 『 こういうわけでーチャプレン・コースのなぜといかにー 』 Ⅰコリント10章30、31節

2004年10月4日(月) 神戸ルーテル神学校
2004年度日本福音主義神学校総会 開会礼拝

『 こういうわけでーチャプレン・コースのなぜといかにー 』

Ⅰコリント10章30、31節
[1]序
(1)Ⅰコリント10章30、31節における「こういうわけで」の位置と意味
 名詞と動詞のみに基盤を置く神学ではなく、論理語や時を表す数字などの重要性に意を注ぐ、ひらがな神学を。参照沢田充茂、『論理と思想構造』(講談社学術文庫)
(2)Ⅱテモテ1章7節、「慎みの神学」の提唱、参照拙稿「臆病の霊ではなく慎みの霊」、私はできない、私でもできる、私しかできない。私も我が校も。

[2]チャプレン・コース、なぜ
(1)今年春の伊江島中高キャンプ講師、菅野憲太郎チャプレン。拙稿、『恵みから恵みへ』21

(2)山川兄との出会いと総合葬祭 やもとのチャプレンへの道順、参照名刺

[3]チャプレン・コース、いかに
学校に学生を合わせるのでなく、学生ひとりひとりに学校が合わせる。その根底は、MAN TO MAN,ひとりひとりを大切に。豊かな聖書に基盤をおく神学は、本来豊かなもので、志をもって聴従する者に、全能の父なる神のご意志を示す。私たちの主日礼拝でのメッセージが、どのような人の一週間の歩みに対しても指針となるように。志の教育、参照拙稿、『命にもまさる恵み』

[4]結び
(1)もっと恵みをではなく
もっと恵みをではなく、恵みの無駄使いをしないように。パウロの神学と実践の基盤、Ⅰコリント15章10節に聴従。
もっと入学者をではなく、目前の一人の学生に全力を注ぐ。何と言っても教育とは、結局のところ、いのちといのちのやり取り。一人の学生のために、悪いこと以外何でもする覚悟と実践、参照拙稿 『元手をかける』

(2)チャプレン・コースの卒業生のため、弁護士事務所に対応する場の備え、例えば主僕チャプレン事務所の設立。
カトリックにおける修道会のあり方から学ぶべきところが多いと予測される。

(3)神学教育者としての自戒、話したことは自分で実行する、実行しないことは話さない。神学教育に従事する者として、神学教育の現場においても、神の栄光を表すことを目指す僕なかま、『ほふられた子羊のみを拝む』

「聖書の豊かさ−生きて働く神のことば−」

福音主義とは何か その1

「聖書の豊かさ−生きて働く神のことば−」
★地域教会週刊誌『礼拝の生活』に、青梅キリスト教会の兄姉を直接の対称としている作業を続けている中で、対称の異なる人々に向けて書く機会が与えられました。

 当時クリスチャン新聞が、『福音主義とは何か』とのシリーズを企画したのです。
日本福音主義神学会の発足と深く関わる企画であることは、明らかです。
10回のシリーズのうち、先輩の先生方の末席に連なって、3回書く機会を与えて下さったのです。いかが1回目のものです。                         

「聖書の豊かさ−生きて働く神のことば−」

「神に聞き従う
 聖書には、一貫して流れる主張があります。唯一の生ける神が語り、神の民はこの語りかけに聞き従って生きよ、という主張です。
 
たとえば、万軍の主イスラエルの神は、預言者エレミヤを通して、「ただわたしはこの戒めを彼らに与えて言った、『わたしの声に聞きしたがいなさい。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。わたしがあなたに命じるすべての道を歩んで幸を得なさい』」(エレミヤ7章23)と宣言します。
 中心点は、はっきりしています。イスラエルが、神の民となり、神の民として祝福の中に歩み続けうるのは、ただ神の声に聞き従う決断を通してのみだと主張されているのです。神の声に聞き従うことと、たんに宗教習慣、宗教儀式を守ることとは別のこととされています。そして、この区別の中に、聖書の信仰、キリスト信仰の本質を理解する鍵があります。
 
私たちが、神の民、キリストの生ける体である教会の一員となるのは、ある宗教習慣、儀式からキリスト教という宗教習慣、儀式に移ったということを意味しません。キリスト者になるとは、何であるよりもまず、神のことばに聞き従う者とされるということです。
 ここで、大切なことは、神のことばは、聞き従う神の民の中に、現実に豊かな働きをなし続けるという事実です。
 神のことばの豊かな働きの中の二つに限って、考えてみたいと思います。


神のことばの働き
 第一は、列王記下22章に実例をみる神のことばの働きです。ここには、主の宮の破れを繕うとしたヨシア王が、破れた主の宮で見つかった律法の書によって、みことばに聞き従う者とされた様が生き生きと描かれています。
 みことばは生きて働きます。主の宮の破れを繕うとするヨシア王の心の中に、みことばは悔改めとへりくだりを生ぜしめ、衣を裂く具体的な自己否定を通して、自己満足から解放します。
 次に、神のことばの第二の働きについてはイザヤ書40章に見ます。
ここには、
「人はみな草だ。
その麗しさは、すべて野の花のようだ。
主の息がその上を吹けば、
草は枯れ、花はしぼむ。
たしかに人は草だ。
草は枯れ、花はしぼむ。」(40・6〜8)
と、枯れるもの、しぼむものとしての空しさが、あからさまに描かれています。


虚無からの課題
 すべての飾りが取り除かれたとき、人は枯れるもの、しぼむものとしての自己の姿を深く意識せざるをえません。この枯れるもの、しぼむものとしての空しさ、虚無から逃避することなく、何物かに酔うことなくして、人は耐えうるのでしょうか。
何物かに逃避する、何物かに酔う。宗教に逃避、宗教に酔うことを含めて、これが、枯れるもの、しぼむものとしての自己に目覚めてしまった人間の取りうるべき唯一の道なのでしょうか。
ところがイザヤは、
「たしかに人は草だ。
草は枯れ、花はしぼむ。
しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変わることはない」
と、続けます。
とこしえに変わることのない神のことばによってのみ、枯れるもの、しぼれるものとしての自己を知られたものが、逃避する事なく、酔うこともなく、虚無から解放されると示されています。
 
自己満足を虚無から解放される事なくして、人は、本来の人として生きることができません。唯一の生ける神の栄光を顕し、永遠に神を喜ぶために、本来の人となるために、神のことばによる以外ないというのです。
まことに「人はパンだけで生きるものではなく、その口からでる一つ一つの言で生きるもの」(マタイ4章4)です。

福音主義とは何か その2 「教会の一致をめぐって  課題は歴史的自覚」                           宮村 武夫

福音主義とは何か その2

「教会の一致をめぐって  課題は歴史的自覚」
                          宮村 武夫


 教会の一致という課題に、原理的に、また具体的に取り組む場合、教会を教会とするものは一体何かという一点を追求し続ける必要があります。しかし、ここでは、教会一致のセンス、洞察がどこから生まれてくるかにだけ問題を限定して、少し考えてみたいと思います。
 まず何より重視すべきは、旧新約聖書を通して、教会一致のセンスが与えられる事実です。背景となる時代と場所の相違にもかかわらず、唯一の、生ける、真の神と神の民イスラエルとの、また新しいイスラエルであるキリストの体としての教会との関係(神と神の民との恵みの関係)こそ、終始一貫した聖書の中心テーマです。ですから、それぞれの時代や場所の豊かな多様性と共に、時と場所を超越した神の民としての統一、一致が聖書の中にはっきりと姿を現わしています。
 この神の民としての一体性には、少なくとも二面があります。まず神を父と呼ぶ愛を基とした兄弟愛に生きるものとしての一致です。次に、神を主と呼ぶ使命を基とした僕仲間(黙示録22・9)としての一致です。以上のような二面を持つ、神の民の一体性こそ、教会一致のセンスの、最も根元的な源です。旧新約聖書の豊かな背景の中で、ヨハネ福音書17章全体に示されている、私たちの大祭司主イエスの祈りの言葉の深さを感じ取りたいものです。さらに、エペソ人への手紙4章13節の宣言などに示されている、常に成長、発達し続ける生けるキリストの生ける体としての教会の現在と未来の真の姿を見定める必要があります。
 次に、教会一致の洞察のために大切なのは、二千年の歴史を通して、教会が聖書をどのように告白し、どのように戦いをなし続けてきたかの学び(教会史、特に信条の学び)を通して、私たちが自らの歴史的位置を自覚する事です。信条の学びを通して、それぞれの教団・教派が、単に数年の、また、数十年の歴史を持つばかりでなく、キリストの体である全教会の歴史を背景として生かされているという強い確信を与えられます。キリストの体なる教会は、あらゆる時代のあらゆる場所において、その現実の姿を現わしてきましたし、また現わしています。そして、二十世紀の後半、この日本の地で、それぞれの群れを通しても、キリストの体・教会の豊かさの一部分が現わされています。このように歴史を持ち、歴史の中に生かされているという歴史的自覚こそ、教会一致の課題に私たちを目覚めさすものです。
 さらに、歴史という時、それは単に過去を意味するだけではありません。諸国民の間に伝えられ、世界の中で信じられるキリスト(第一テモテ2・16)の体としての教会は、苦難を通して、望みに生かされつつ、常に成長し、発展し続けます。それ故、教会一致に目覚めさせられた私たちの目は、常に、未来に、世界に向けられるのです。
 第三に、教会の一致についてのセンスを与えるものは、現時点に生かされているとの自覚です。この時代に生かされているものとして、共通の答えによる一致ばかりでなく、共通の問題意識による実質的な一致が問題とされてきます。過去の一時点において必然的であった故に生まれた教団教派の枠の中にだけ閉じこもって、答えを繰り返すのでなく、どのような時代的問題意識に立って、その答えをなすかが、より重要な教会の一致のセンスの源となってきます。
 狭義の福音主義と呼ばれる立場に立つ者の現在と将来は、教会の一致が単に方策として取り上げられる事ばかりでなく、教会の一致のセンス、洞察が問題となることによって、さらに豊かなものにされていくと言えるでしょう。

福音主義とは何か その3 「終末論をめぐるパウロの雄大な万物観」

福音主義とは何か その3

「終末論をめぐるパウロ雄大な万物観」
                          
★1970年代の初め、クリスチャン新聞が、日本福音主義神学会の発足と深く関わる企画、『福音主義とは何か』とのシリーズを企画した際、先輩の先生方の末席に連なって、3回書く機会を与えられたのです。

第1回目が聖書について、
第2回目が教会について、そして最後が、
第3回目が、以下の「終末論をめぐるパウロ雄大な万物観」です。
 『礼拝の生活』を、青梅キリスト教会の現場にあって書き続ける中での営みです。
 あれから、やがて半世紀後の今、組織・有機神学を書くとしたら、間違いなく出発、基盤です。                         


「終末論をめぐって パウロ雄大な万物観」

 ローマ人への手紙の中心聖句
使徒パウロの立場で福音主義を考える場合「ローマ人への手紙」を開かないわけにはいきません。福音主義とは、ローマ人への手紙の中で中心的課題とされているものを、いつでもなく1970年、どこでもなく日本で深く理解し、その理解に従って戦いつつ生きていくことにほかならないともいえます。
 
豊かな内容をもったローマ人への手紙の中心聖句を一つ選ぶのは、困難な仕事です。
しかしこの困難な課題に、向う見ずに答えることが許されるなら、11章36節を選びたい。「すべてのことが神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」
この短い讃美、礼拝の言葉は、ローマ人への手紙、いや聖書全体の中心メッセージを実にはっきりと表現しています。唯一の・生ける・真の神との関係で、すべてのこと・万物を位置づけています。すべてのこと・万物は、その始原(神から発し)、現在の保持(神によって成り)、終末的目標(神に至る)を、唯一の・生ける・真の神の中にのみ持つと、パウロは宣言しています。


万物の始原と終末
これこそ徹底的な神中心の思想と生活の基盤です。
人生の主なる目的であり、最上の幸福なのです。
神を崇め、神との関係で、すべてのこと・万物を見るのでなければ、私たちの状態は野獣よりも不幸になってしまいます(ジュネーブ教会 信仰問答、問1、3、4、6を参照)。
以上のように、11章36節で、唯一の・生ける真の神との関係で万物を見る場合、現在の保持ばかりでなく、始原と終末的目標の両方からも見ている点をとくに注意する必要があります。

次に、パウロにとって終末的展望がいかに大切であったかを知る有力な手掛りとして、8章18節から25節を取り上げたいのです。8章17節までと、27節以下では、救いとは、父、御子、御霊の愛の交わりの中に入れられることであり、イエス・キリストのゆえに、御霊によって、神を「アパ、父よ」と呼ぶ特別な立場に生かされることだとパウロは明示しています。
ですから、18節から25節までは、ポンと割り込んで書かれています。
しかしこれは、事柄の重要性を示しています。
すなわち、神を「アパ、父よ」と呼ぶ恵みの事実が、被造物全体との係わりや終末論的観点で実に雄大なスケールの展望において宣言されている重ねての恵みの事実です。

パウロは、「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています」(22節)と断言しています。
さらに、「そればかりではなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくことを、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」(23節)と続けます。これから明らかなように、キリスト者は、被造物自体の産みの苦しみの背景の中で、うめく者として、つまり途上にあるものとしての歩みを続けているのです。
ですから、キリスト者には政治的、宗教的、あらゆる意味での自己満足との戦いがあります。


キリスト者の戦い
しかも、それは、待ち望む者としての戦いです。
そうです。望みし神の恵みの事実に生きる者として、いかなる種類の虚無とも、キリスト者は戦うのです。
 
以上見てきたように、パウロは、神を「アパ、父よ」と呼ぶ救いの事実を述べている間に、被造物全体(すべてのこと・万物)の課題を終末的展望を割り込ませるようにして書くことにより、自己満足と虚無との戦いをはっきり打出しています。ここで大切なことは周囲(宇宙、世界、文化)との係わりにおいて、救いが考えられている事実です。

70年代への姿勢
 また終末的展望とは、目に見える事実以外のより根元的な現実、つまり神の恵みの事実にたいする望みを意味します。それゆえ神の恵みの事実からの断絶によって生じる虚無、これらも徹底的に戦わねばなりません。
 
結局、福音主義とはあらゆる種類の自己満足と虚無にたいして、パウロの理解し主張する意味での望み(道の光、戦略)と忍耐(足のともしび、戦術)をもって、1970年日本で生き戦うこと、底に徹して、事の本質を見抜き、神の恵みの事実を見据えて、いかなる一時的現象にも左右されずに戦いつつ生きることにほかならないと確信します。