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喜びカタツムリの歩み

2018-09-21

敬愛する新井明先生の励まし、宮村武夫著作6『主よ、汝の十字架をわれ恥ずまじ ドストエフスキーの神学的考察、他』巻頭言 ひとつ体の中で 新井 明

敬愛する新井明先生の励まし、宮村武夫著作6『主よ、汝の十字架をわれ恥ずまじ ドストエフスキーの神学的考察、他』巻頭言

ひとつ体の中で
新井 明

宮村武夫先生のお名を知ったのは、三十年も前のことである。当時、大妻女子大学にいたわたしに日本女子大学の福田陸太郎教授から突然の電話がはいり、日本女子大学の英文学科へきて、英語の聖書を教えてくれ、とのことであった。福田先生はせっかちなお方で、ただちにわたしの略歴等を送れ、ということであった。否応なしのお求めであった。
 あとで知ったことであるが、それまでは英文学科の渡邊清子教授のご夫君にあたる渡邊公平牧師がその科目の担当者であられた。同牧師がお辞めになるに及んで、学科は一九七八年度からの担当者を探していたらしい。新井は TheNewEnglishBible:ALiterarySelection(オックスフォ ―ド大学出版局、一九七五年)を船戸英夫氏との共編で出版していた。そのことが教授連の耳に入っていたのであろう。しかしわたしの着任の話は無に終わってくれた。そのときに公平牧師先生の愛弟子のお方が来てくださること になったと聞いた。そのお方が宮村武夫先生であった。よかった! と思ったことであった。
 わたし自身もその翌年に、まずは「英文学史」担当の非常勤として、また一九八一年からは正規の教員として目白に勤め始める。宮村先生とは当然顔なじみの間柄となった。先生は生き生きとした授業をしてくださり、学生たちに深い影響をとどめた。(学生たちの様子から、それが分かった。)ことばとしての欽定英訳聖書の面白さは当然として、それがもつ迫力を若い世代に訴えてくださった。その結果、やがては

教会に通う身となる若者たちが生まれてきた。その講義は一九八五年度までつづけられた。学園にとっては恵まれた八年であった。

 新井はその後、沖縄国際大学に集中講義のために何回か呼ばれている。「英文学史」「十七世紀イギリス思想史」「英詩」などの話をそのときどきに依頼された。初めは一九九〇年十一月であった。二回目は一九九三年八月のこと。新井が再度、宜野湾市の大学に呼ばれることは(たぶん島の無教会の方がたからの口から)洩れていて、宮村先生はわたしのために、いろいろ気を使ってくださった。一夕、佐敷の教会へ連れていってくださり、平良修牧師をご紹介くださった。そのあと宮村先生ご自身の首里福音キリスト教会に。西原町幸地の、あの一面のサトウキビ畑を俯瞰する教会での、夜の祈祷会。たしか「主の晩餐の思い出」を語らせていただいた。吉浜よねさん、宮城航一先生ご夫妻ともお会いした。こうして、無教会の面々がふだん宮村牧師のお導きを受けていることを知った。まさに超教派的な雰囲気がここにはあった。
 沖縄の三回目は一九九四年八月であり、このときにも首里福音教会のお招きをうけた。また、一九九九年七月の四度目の訪問のときのことは、とくに忘れられない。七月四日が「第二十四回内村鑑三先生記念キリスト教講演会」の日であり、それは宜野湾市の「沖縄ハイツ」で催された。講師は宮城さゆりさんと新井であった。その前、沖縄国際空港に着くと、他ならぬ宮村先生が宮城さゆりさんと並んで、わたしを出迎えていてくださった。その夜、宮村先生の教会での新井の講話があり、「聖書と私」という題で語らせていただいた。その翌日の内村記念講演会では、わたしは「キリストにある連帯」という題を選んだ。宮村先生が出席、聴講される講演会でのタイトルは、これ以外ではありえなかった。先生に対する感謝の意をこめて語ったことを思い出す。(『ひとつ井戸のもとで』シャローム図書、二〇〇六年所収。
)
 沖縄にはあと二回は行っている。二〇〇〇年八月の「アジア・キリスト者医科連盟」なる国際会議での礼拝説教を、その年度の担当者であった宮城航一氏から依頼されていて、このときも宜野湾市へ行っている。その翌年二〇〇一年八月末から九月初めにかけては、沖縄国際大学での集中講義があり、この折にも那覇聖書研究会に出させていただいた。

 宮村先生が教派を超える宣教者として突き進んでこられたについては、先生の恩師・先輩諸氏からの影響を考えなくてはならない。しかしもう一人の名をあげるとすれば、やや唐突なのであるが、内村鑑三である。先生の若き時の作で、「教育者としての内村鑑三」という力作があり、人格重視の教育の重要さ を説く内村に心酔しておられる。このことをわたしはこの『著作
1』で初めて知った。ご長男・忍望君を無教会系の愛農学園農業高等学校(三重県)にお入れになった理由のひとつも、ここに見出せるように思う。

 ところで無教会内ではかつて中沢洽樹氏指導の下に「無教会史研究会」なるものがあり、『無教会史』全 4巻を新教出版社から出版している(一九九一年〜二〇〇二年)。その第 鹸は矢内原忠雄死去のあとを扱ったものであるが、中沢はその副題を「分散の時代」と決めて譲らなかった。この一連の仕事の後半の編集責任者であったわたしは、一九六〇年代以降の無教会内部の動きを(一種危機意識を背景にしたものではあったろうが)超教派(エキュメニカル)的な動きと見て、この第 鹸の副題を「連帯の時代」と
変えた(中沢は一九九七年に逝去)。研究会全体もこれに同意してくれた。こういう考え方をわたしが懐くにいたったのは、無教会内部の代表的な動向を観察しての結果であるわけだが、ひとつには沖縄の宮村先生のお働きが(他の諸地域の多くの方がたのお働きの具体例とともに)わたしの脳裏に明確に定着していたからにほかならない。

 このたびこの巻頭エッセイを書くにあたって、驚いたことがある。それは本巻の内容を見て、初めて知ったことなのであるが、宮村先生がドストエフスキーに詳しいということである。わたし自身も『悪霊』を再読してみた。この作品には原作者の生きた時代と彼の自伝的側面が濃厚に関与している。貴族で大地主の女主人とその息子ニコライ・スタヴローギンが重要人物である。その女主人のもとで働く農奴の息イワン・シャートフははじめは西欧派の唯物主義者のひとりとして、ある革命組識に属していた。が、やがてスラブ派・ロシア民族主義に傾いたばかりに、革命派の手にかかり、殺される。もうひとり、ニコライの影響をうけたキリーロフは神の存在を、できることなら信じきりたい思いの持ち主でありながら、神の子の復活は信ずることができない。とどのつまりは自裁の道を選ぶ。それを「選ぶ」ところに、人間としての存在意志を示したかったのだという。そしてこの二人に深く関係した当のスタヴローギン自身も生の目的、生の自覚を把握せんとして果たせず、結局は無感動のニヒリストとして自らの生を絶つ。作品の終りちかくで、スタヴローギンはチーホン僧正に尋ねる ― ―、「あなた様はもちろんキリストを信じなさるのでしょうね?」この質問に対する直接の答えは出ず、チーホンはただ上を仰いで、「主よ、汝の十字架をわれ恥ずまじ」と告白する。この静かなる信仰告白は ― ―これこそ本『著作6』そのものタイト
ルなのであるが ーー. 「虚無なるもの」即「悪霊」が跋扈 するこの闇夜に、ドストエフスキーが、いや宮村武夫が掲げることのできた一灯の光であったにちがいない。

 宮村先生。先生のお名前を知ったのは、もう三十年も前のことであった、と書き出しました。しかし今から考えれば、われわれは少年時代に共に東京・江戸川区小岩で育っています。(新井は西小岩国民学校の出身です。)また青年期にキリスト教に接し、わたしは父母の宗教日蓮宗を捨てました。宮村先生もわたしも若きころの何年かをニューイングランドの学園で過ごし、長じては日本女子大学で共に教鞭をとり、わたしも末子を三重県の愛農学園に送り込みました。沖縄では「連帯」の歩みが許されました。これからも「忍耐」と「希望」をもって、「ひとつ体の中で」生きてゆこうではありませんか。
 寅さんスタイルの宮村先生を思いつつ、擱筆いたします。

(元聖学院大学大学院・特任教授)    

二〇一三年五月

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