網走そしてオホーツク人
あわただしく、網走へいってみた。
ねらいは、これ。
7世紀から10世紀、こつ然と現れ消えて行った「オホーツク人」の痕跡を理解したいためだ。
それを知ったのはこの本である。
- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 1997/01/01
- メディア: 文庫
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これを含めて、歴史本に書かれていないのは、なぜアジアで7世紀に大移動なのか、である。
日本では、飛鳥、奈良、そして平安時代へとつながる時だ。
そのころ日本へは仏教が伝わっている。アジアの騒乱のためか、百済から大量の移民が日本へ入って来たのだ。
その時に、北では、樺太から大量の移民が南下したのだ。
その理由は、どこの歴史本にも書かれてはいない。
しかし、私はグローバルな気候変動とそれに駆動された社会の不安定化がそれらの民を押し出した、グローバル現象ではないかと思う。
しかし、いまだその科学的検証はない。
北方圏を全体として俯瞰し、その中にアイヌ民族もオホーツ人も見ようという、グローバルな視点の明確なすばらしい博物館だ。
人寄せのためのマンモスの展示もあるが、
そして、その後、網走の街中の郷土博物館へ行った。
昭和11年という、日本でも先駆けの、外観に重みのある博物館である。
網走は大変な文化的街であったのだ。
入館料120円。
客は誰もいない。
「これでは、受付の人件費も出ないな~」
入ると、ツンと鼻をつく樟脳と板張りの床の油の匂い。
それだけで、突然タイムスリップである。博物館そのものも「博物館」なのだ。
ギシギシときしむ階段をのぼって2階へ。
ステンドグラス。
戦前の網走では、とてつもない近代文化施設であったに違いない。
レリーフの地図がまた、古いままでいい!
これを見て、「いまどこにいる?」を理解したのだ。
壁を見ると、
「あれ!これ私の書いた図じゃないか!」
引用は書いていないのだが、いまから20年も前に私が北海道新聞の連載にかき、その後本「北海道創世記」になった北海道とヒマラヤ山脈を結んだ図だ。
この網走にも、北海道の大地の話に関心を持っていただける方がいたのだ。
「この話も、博物ものだな〜」
なんて一人でにが笑い。
この馬ソリ、どこにでもあったな〜。乗るのが楽しくて。シャンシャンと鈴の音も軽やかに。
発掘された土器類を眺めながら、
「なるほど!擦文とは違うね~」
そして、足をモヨロ貝塚まで伸ばした。
網走川のほとりの段丘の上にある。
強い潮のかおりと、隣接する水産工場の音が響き渡る横にある。
雑草の中に埋もれた窪地。
そして、その縦穴を使ったかつて網走在住のギリヤーク人によって復元された家。
看板も朽ち果てそうだ。
そして、実際の貝塚の断面を保存した建物へ。
ここにも誰一人客がいない。
¥120
受付の職員は、本当に暇そうである。
観光客は、「網走番外地」へ行ってしまうのか?
世界でこの地にしかない重要な文化遺産、学問的価値はまぎれもなく、このオホーツク人の痕跡であるのに、この現状はなんとも嘆かわしい。
日本人の知的レベルがーー、
まだ貧しくて、勉強する事も出来なかった頃、皆、こういうところへ押し寄せたのは、今は昔なのかもしれない。