立春と大雪と父の思い出・新しい命

2月4日。北海道から届く連日の大雪、厳寒のニュース。ちょっとプライベートを記しておこう。
1987年の立春2月3日、当時、高松にいた私のところに北海道から緊急連絡。父が危篤だという。

父とはその3ヶ月前に会ったばかり。しかし、それも突然の呼び出し。父が入院したと。
秋も深まった札幌へ。病院で父は満面の笑みで元気な姿を見せた。
体格も大きく、人生は運動とともにあった父である。入院などしたことがない。
病弱な私とは比べようもなく、思い出しても、父が寝込んだ記憶はない。
「いや〜、ちょっと体調を崩してね」
「今、奈井江高島の古老の話をまとめていてね」
父が最初の校長となった北海道のふるさとの記録を残こそうとしている。父が薄給の中で買ったテープレコーダーを持ち歩いて書き残す現役時代からつづいている趣味であった。定年後も続けていた。病院へ持ち込んで続けていた。

でも、医者の説明は違っていた。
「急性白血病です。今は元気に見えますが、輸血のおかげです。余命は3ヶ月でしょうか」
ガーンと頭を打たれたようなショックが走る。でも姉の提案で、母には告げないことにした。あまりにものショックと、それで本人に気づかれてはと本人告知をしないことにしたのだ。
父は、元気に
「来年の夏には、孫も引き連れで皆で帰ってくるの楽しみにしているよ」と。
私は必死でこらえて作り笑い。病院を出てから、こみ上げてくるものを押さえ切れなかった。
覚悟をしなければならないが、どう覚悟すればいいのか分からない。

そしてちょうど3ヶ月。危篤の連絡。
札幌は雪祭り直前。大慌てで、式服も用意し、小さな子供も引き連れて、皆で飛行機を乗り継ぎ飛んだ。
厳冬の札幌は1982年に去って以来のことだった。
滑る足下がおぼつかない。下の子はまだ二歳。
父は、集中治療室の人工心肺で命をつないでいた。
顔は苦渋に満ちている。
「到着したので、よろしいでしょうか?」
静かに医者が告げた。
前夜、父は、姉と母に今日だけは帰らないでくれと懇願したという。そして姉が付き添い泊まり込んだ。
「孫たちに逢いたいな〜」と言っていたと。

父は息を大きく吸うと、吐き出すように最後の時を迎えた。
苦渋に満ちていた顔は急に穏やかとなり、あの笑みさえ浮かんでいる。
そして父は逝った。


最後の夜を共に過ごした。
夜明け間の夢枕に父の無言の笑顔が浮かび、はっと目を覚ましたが、それは夢であったことを思い知らされた。

その時から翌日まで、外は止めどなく雪が降り続いていた。
慌ただしい葬儀の準備の中でも、いとこ同士の子供達は降りしきる雪の中ではしゃいでいる。
大雪の中の葬儀であったが、最後のとき、空の一角にまぶしいばかりの青空が姿を見せ、光り輝くダイアモンドダストの中に父の煙は吸い込まれていった。享年72歳であった。


40歳頃の父

その時からちょうど25年。子から子供が出来たとの連絡が入った。命の巡り合わせの不思議がここにある。