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2017/07/11 (火)

〈北〉のおはなし――〈それ以外〉の日本ということ

東北」でも「北海道」でもなく、ただ〈北〉である、ということ。そんな足場を最近特に考えるようになっています。

 いま、わたしたちが普通にイメージする「日本」というのは、概ね西南日本、少なくとも中部地方より西の地域に根ざしたさまざまなもの見方や感じ方などをベースに成り立ってきたもののようです。水稲耕作前提の「農」やその上に作られてきた「里山」的なムラのありよう、それらに規定される感受性自然観、などなど、いわゆる「日本文化を語るもの言いは、良くも悪くもそのような西南日本由来の要素によって組み立てられてきている。そんな「日本からすれば北の地はひとまず〈それ以外〉、現実的にも、また意識の上でも、その視野の中心に置かれるようなことはまずなかったと言っていいでしょう。それはご当地北海道言わずもがな、ざっくり「東北」と今ではくくられるその中身にしても、そのような「日本」のあたりまえからは良くも悪くも意識しなくていいようになっていますし、まただからこそ、その「日本」というフィルターを介したイメージとしての「東北」や「北海道」はいつも穏やかに美しく、絶好の「観光」素材として扱われるようにもなってきています。

 けれども、そんな「観光」素材のようなイメージとしての「東北」や「北海道」がもたらす不自由というのもある。

 エミシが、平泉藤原三代が、三内丸山遺跡が、あるいはあの義経伝説キリストの墓など出自来歴のあやしげな「おはなし」に至るまで、いずれそれら「東北」のこれまでの歴史の懐に宿った“もの”や“こと”たちが、一律「観光」の素材に変換されていることで、なしくずしに「縄文」と一緒くたにされたり、時に「アイヌ」などともつき混ぜられて、さまざまな「ロマン」(これが実に曲者で厄介です) の媒介として、好き勝手に使い回されることが多くなってきていて、現にその地に棲んでいるあたしたちはというと、その好き勝手な「日本」に対する違和感を抱くこともなくなっている。

たとえば、今ある普通に思われているような「東北」でも「北海道」でもなく、とりあえずただ〈北〉というくくり方にとどめてみることで、今ある「日本」のあたりまえの〈それ以外〉の側からの違う見え方を発見してゆくことも、また可能かも知れません。


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  そんな〈それ以外〉としての〈北〉でくくってみる試みとして、眼前の不思議ひとつ

青森津軽一帯から南部の一部、岩手にかかるあたりも含めて、「馬力」と呼ばれる輓馬草競馬が行われています。津軽海峡から北、ご当地北海道でも初夏から秋にかけて、各地で行われている草競馬ですが、しかしこの東北の「馬力競馬北海道のそれと少し様子が違う。

 まず、コースは概ね馬蹄型、障害となるヤマも一カ所だけ。今も帯広競馬場(ばんえい十勝)で行われている正規の、競馬法統制下の輓曳競馬コースは直線200mのセパレート、障害も二個所というのが定型になっていますが、資料などによると、むしろこの馬蹄型の方が古いらしい。さらにもうひとつ輓馬を扱う人間が、馬の曳くソリに乗る騎手(ドライバー)だけでなく、馬の口を取って誘導する口取りの先駆けが別にひとりつく。つまり、一頭の馬に人間ふたりついて走らせることになります。これは明治時代の馬車曳きなどと同じ、少なくとも近代以前からのわれら日本人の、馬という生きもの制御するやり方のようです。

 それだけじゃない、これは現地に通って写真を撮ったりしているうちに気がついたのですが、青森の草輓馬のその口取りは、人が馬の首の左側でなく右側に寄り添っている。これは今の馬の扱い方、競走馬であれ何であれ、欧米の馬扱いが入ってきてこのかたの約束ごとからするとまるで逆。どうしてこうなったのか、タオル鉢巻きに日焼けした地元の人がたに尋ねてみても「昔からこうだから」といった程度以上の答は返ってきません。世界的に見てこのように馬の右側について馬を扱う地域があるのかどうか、あれこれ調べてみたら、ロシアツングーストナカイの扱いがまさにそうらしいということを知りました。ならばさて、どうして?

 眼前の事実、〈いま・ここ〉の“もの”や“こと”から遡るようにして「むかし」の気配を探ろうとする民俗学作法からすれば、間違いない史実、確かに証明できる事実としての歴史という考え方は苦手というか守備範囲外。気宇壮大な大文字文化論や文明論を繰り広げるのもガクモンでしょうが、それはそれとしてまずそういう遠いところの一致が〈いま・ここ〉にある、その眼前の事実そのものを素朴におもしろく、興味深く感じてみることから、知らぬ間に「日本」にひとくくりにされているようなところもあるこの〈北〉のそもそも〈それ以外〉でしかない手ざわりについて、もう一度取り戻せる糸口になるはずだと思っています。

2017/05/23 (火) iRONNA

マンガの「危機」について

*1

マンガ危機? そんなもん20年も前から言われとりますがな。

少年ジャンプ』がとうとう200万部を切った、確かに四半世紀ほど前の全盛時600万部と言われとった頃からすりゃ三分の一以下、雑誌のみならず単行本も長期低落が止まらず確かにえらいことではあるんですが、まあでも、いずれそれらは紙の媒体のこと、何もマンガに限らず週刊誌にせよ月刊誌にせよ、あるいは新聞なども含めていわゆる旧来の紙媒体の落日はもはや構造的なものマンガとて、紙媒体が売れなくなることはとうに予想されていたことで、もちろんそれで喰ってる業界当事者の人がたも予測の上、電子書籍化その他あれこれジタバタしてきとらすわけで、このニュース自体は今さら何を、という感じは否めません。

ただ、そういう「マンガはもうダメかも知れん」的危機論にまつわって、案外まだきちんと問題にされてないらしいことを、ここはひとつだけ。 マンガを「読む」という習慣、 もはや国民的規模であたりまえになったかのように思っているその習い性自体が、実は静かにそのありようを変えてゆきつつあるらしい、そのことです。

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かつて子どもの頃、退屈しのぎのそれこそ「おもちゃ」としてマンガを与えられることからマンガを「読む」作法を身につけた人がたの多くは、オトナになってゆく過程自然マンガから離れてゆき、実際には読まなくなるものでした。その中で一部、10代も半ばを過ぎてもなお、マンガを読む人がたが一定の量で出現し始めたのはおおむね60年代半ば、いわゆる団塊の世代がそれら青年期にさしかかるようになった頃でした。それに見合って、それまで子ども向けの少年誌少女しかなかったマンガ専門誌に『ビッグ・コミック』など青年向けの媒体も生まれ始める。オトナになってもマンガを読む人がたが増えてゆき、またそのような人がたの「読む」に耐え得るマンガ作品が求められるようにもなり、かくて戦後ニッポンマンガ市場はこのような経緯で、その読者層の成長と共に大きく拡がるようになってゆきました。アニメ(当初は「テレビ漫画」でした)にしても、子どもだけでなく青年若者のものに、さらにはオトナのものにもなってゆく過程もまた、それらマンガ市場の拡大と概ね軌を一にしていました。今の日本人、概ね60代から下の世代ならばおおよそ誰もがマンガを「読む」ことができる、そういうリテラシー実装するようになっている背景には、すでにそのような「歴史」の過程が横たわっています

もちろん、昨今の青年若者もまたあたりまえにマンガを「読む」ことができる。それは確かなのですが、ただ、だからと言って、少し前までの青年若者たちが読んでいたように「読む」のかというと、どうやらそうでもないらしい。その「読む」の内実が変わってきていると共に、それ以前にまず習慣としてマンガに接する機会自体が少なくなってきているようでもあります

半径身の丈の見聞に限ってみても、親がマンガを読み、お気に入りマンガ本を揃えているような環境に育った若い衆は早くからマンガを読むようになる、それも親から勧められた昔の作品なども糸口にしながらマンガリテラシー実装している印象があります。彼らは「読む」だけでなく自分自身で「描く」ことにも開かれている。マンガを(というかビジュアル表現を)実際に描く技術の進展とその広汎な拡がりは、紙媒体マンガが売れなくなっていったこの20年ほどの間に、逆にそれまでと違う能力若い世代の間に与えてもきたようです。このへんは商品音楽の聴き方、受容の仕方などとも共通している面がある同時代現象でもあるでしょう。

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ただ、そんな彼ら彼女らいまどきの青年若者は、マンガ「だけ」を切実に読んでいるわけでは全くない。生まれた時からアニメがありゲームもあり、それら新たに出現したメディアと共にそれまでと異なる情報環境に育って社会化してきた彼らにとっては、マンガもまたそれら情報環境における多様化したメディアコンテンツひとつに過ぎません。マンガ「も」読めるし、機会があれば読むけれども、だからと言ってマンガ特別ものとして読むわけでもない。また、何よりもかつてのような「教養」として、活字文字自明の前提として成り立っていたような「文化」として受け取る素地自体、すでに希薄になっています。近年「マンガはもうダメかも知れん」論を深刻に語る人がたの口吻には、この「かつて切実な表現としてマンガを読んできた」世代感覚ならではの、どこか「教養」や「文化」として活字文字の補助線を自明の前提にしながら解釈しようとしてきた、その習い性ゆえの現状に対する根深違和感みたいなものがどこか必ず含まれているような印象があります

かつてマンガ青年に、さらにオトナになっても読むような習慣を身につけ始めた世代が育った情報環境は、活字文字が良くも悪くも中心になり立っていました。当時、ラジオはすでにあり、その他おおぜいの世間(つまり「マス」)を直接相手取ることのできる新しいメディアとしてテレビが出現するようになってきてはいものの、それでもやはり情報環境における第一次的なメディアは良くも悪くも活字文字であるという現実が、それを支える価値観約束ごとと共に厳然として生きている環境でした。だから、それら活字文字を「読む」ことこそが、彼ら彼女らにとっての「読む」という作法の根幹を形成してきたところがありました。「視聴覚教育」などと言われ、大衆社会化と共に活字文字「でない」〈それ以外〉の媒体がその社会的意味と共に意識されるようになっていったのも概ねその頃。いわゆる映像画像系「ビジュアル情報についての意味が、それまで標準設定とされてきた活字文字との関係で改めて問い直され始めるようになったのも、思えばようやくそ時代からだったわけで、マンガを「読む」こともまた、それが「読む」という動詞と共に人々に意識されるようになっていったことに象徴されているように、やはり活字文字の「読む」を前提に身につき、かつ社会的に浸透していったと考えていいでしょう。

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けれども、そのような活字文字前提の「読む」習い性自体が昨今、もう決してあたりまえのものではなくなってきていますマンガに限ってみても、自分で描いた作品同人誌も含めた紙媒体でなくweb経由の発表手段一般化してゆく中、そちらから読者を獲得してゆく事態はそれなりに起こってきていますし、そこから媒体へと「進出」してゆくことも珍しくない。先日、第21回手塚治虫文化賞(短編賞)を受賞した『夜廻り猫』(作・深谷かおる)や、web経由で読者を獲得し自費出版までこぎつけたweb『巻きシッポ帝国』(作・熊谷杯人)など、すでにプロの描き手として実績ある作家同人作家や駆け出しのアマチュア作家などと等しく、同じ土俵作品を発表して広く世間に問うてゆくことができる、そういう「開かれた」環境が準備されるようになってきていることの恩恵は大きいわけですが、同時にまた、それら新たな環境経由で生まれてくるマンガ作品には、これまでのマンガを「読む」作法からはなじみにくい、活字文字前提の「読む」とは別のところで成り立っているような質のものも静かに増えてきているように思えます

このへんの問題、限られたこの場で大きく展開するわけにもいかないのでざっくり要点だけ示しておきますが、これまでの活字文字前提の「読む」にとって自明だったはずの「文脈」がそれほど重要でない、言い換えれば「おはなし」についてのリテラシー活字文字前提で成り立ってきていた近代このかたのありようが、ここにきてむしろ近代以前、話しことば的な意味での「非」活字文字的ありように立ち戻りつつあるような、そういう「読む」を想定しないことにはうまく受け取れない、少なくとも活字文字前提の「読む」で生きてきたわれわれにはそういう敷居の高さが厳然とある作品が眼につくようになってきています。思えば、マンガアニメゲームにしても今やソシャゲなども含めた状況になっていて、そこに以前からのその他キャラクター商品群など、「マンガ」とひとくくりにする現象が成り立っている商品市場環境自体、初手から複合的なものになってすでに久しいわけで、それは当然、そのような環境でそれらメディアコンテンツと接して社会化してきた世代にとってはまた別のリテラシー、異なる質の「おはなし」の作法要求してきているのでしょう。読み手であり消費者であり、いずれそのようなメディアコンテンツとしての「マンガ」とつきあい、そこから何か〈いま・ここ〉なりの切実な何ものかを受け取っているはずのいまどきの青年若者若い衆にとっての「教養」というのもまた、われわれの既存のことばやすでに貯えられてきている道具立ての向こう側に、すでにたたずみ始めているのかも知れない、そう感じています*2

*3



*1:ちとあれこれあって掲載されたのはこんな感じに(´・ω・)つ「少年ジャンプ200万部割れ」を深刻に語るオトナたちへの違和感 - オピニオンサイトiRONNA http://ironna.jp/article/6644 #iRONNA 比べていただければそれはそれでまた一興かと。

*2:末尾部分、担当編集とのやりとりで手入れました、こんな感じで………「このへんの問題、限られたこの場で大きく展開するわけにもいかないのでざっくり要点だけ示しておきますが、たとえば、これまでの活字を「読む」作法にとって重要だったはずの「文脈」に配慮しない読み方でないと対応しにくいだろう、単なる場面(シーン)を漠然と並べただけのような作品がどうやら確実にひとつの流れになってきているらしい。そこで立ち動く登場人物たちも、それらをいきいきとした存在に感じるための要素のはずの生い立ちや生活背景その他の書き込みや設定が希薄で、いまどきのもの言いで言うところの「キャラ」としてだけ存在している印象。こういう傾向はマンガに限らず、ラノベ(ライトノベル)などによりあからさまなのですが、敢えて言えばかつての歌舞伎のような、かつての虚構のありようが紙の上の「おはなし」表現に、この21世紀の眼前の事実として立ち現れているかのようにすら感じます。つまり、「おはなし」を受け取る上での、これまで活字を前提として蓄積されてきた近代常識がここにきて役立たずになり始めていて、むしろ近代以前、話しことば的な情報環境でのありように立ち戻りつつあるような、少なくともそういう「読む」を想定しないことにはうまく受け取れないであろう作品が、マンガであれラノベであれ、若い世代の支持を得ているジャンル表現に眼につくようになってきています。思えば、マンガだけではなく、アニメゲームにしても今やweb環境介したソシャゲなども含めた状況になっていて、そこに以前からのその他キャラクター商品群など、「マンガ」とひとくくりにする現象が成り立っている商品市場環境自体、複合的なものになってすでに久しいわけで、それは当然、そのような環境でそれらメディアコンテンツと接して社会化してきた世代にとっては、これまでとはまた別のリテラシー、異なる質の「おはなし」の作法要求してきているのでしょう。読み手であり消費者であり、いずれそのようなメディアコンテンツとしての「マンガ」とつきあい、そこから何か〈いま・ここ〉なりの切実な何ものかを受け取っているはずのいまどきの若者たちにとっての「教養」というのもまた、われわれが抱えている既存のことばやすでに貯えられてきている道具立ての向こう側に、すでにたたずみ始めているのかも知れない、そう感じています。」

*3:結局、手を入れたバージョンも間に合わなかったようであります( ノД`)

匿名希望匿名希望 2017/06/27 09:21 「まんが」って、何だったのかなー、と今考えています。
地元の田植え歌保存会に入って85歳超の人と話してると、「村芝居」というのが昔はやってきて、村中の大人も子供も見たからそのセリフとか真似してすごく盛り上がったそうな。
「まんが」を雑誌連載で読むのと単行本で読むのはまったく意味が違うってのはそういうことかな、なんて。
あと、ぼーっと考えてるのは『キャンディ・キャンディ』が絶対に再版されないのは美容整形業界、コスメティック業界、ファッション業界の陰謀ではないか?ってのと、なんで少女漫画家は新興宗教の教祖っぽくなる人が多いのか、ってのと、そもそも『女性の創作者』ってのは何か、ってこと。
中学のころ友達のうちで『フィフティーンラブ』というまんがを読ませてもらったけどその作者が「真人」→「夏子」に変わってショックを受けた記憶が。
あれはなぜ変わったのか。小説家だと考えられない気がするんですが…または割とありがちなのだったら例を知りたいです。
気になります。
…結局、まんがとジェンダー、みたいな話になるのかな。
今はあんまりかわいくない子が力強く生きていく糧になるまんが、あるんですかね。
ナンシー関さんはどんなまんががお好きだったのかな。
『あさりちゃん』が終わっちゃったらほんとにどうすんのか、ちょっと心配です。
取り留めなく失礼しました。
では。

2017/05/07 (日) 宗教問題

「国際化」と「グローバル化」の裏腹

「国際化」というもの言いが無条件に通りの良い、誰もが逆らえないような響きを持つようになったのはさて、いつ頃からだったでしょうか。

昨今だと「グローバル化」などとカタカナ表記に置き換えられたりしてますが、でも、ざっくり同じような脈絡で使われているわけで、いずれにせよ「小さな」「島国」このニッポンという認識を前提にそれを否定的に引っ繰り返してゆく足場のようなもの言いとして、日々使われることばに加えられてきたらしいのは間違いない。

振り返ってみると、たとえばあれは高度成長期でしょうか、当時のレジャーブームの一環でゴルフ場がそこここにできていった、その看板に「●●国際」ゴルフ場なりカントリークラブなり、そういう表記が眼につくようになっていた記憶があります。あるいは、同じくその頃街なかに増えていったパチンコスナックなど、いわゆる水商売系の稼業から宅地造成や開発関連の仕事事務所会社などの名前にも「国際」という冠がつけられるようになっていたような。その後、年月を経て90年代私大バブルの頃には、大学学部表記にもこの「国際」が大安売りになったりしてました。他でもない今いる職場なんかまさにそう。

海の向こう、ふだん意識もしないような現実をあらわすことばは、それまで「世界」や「海外」「外国」程度で概ね間に合っていました。そこに「国際」(化)という新たなもの言いが割り込んでいったのにはそれなりの理由があるはずです。敢えて理屈を言えば、それまでの語彙が指し示す海の向こうは当たり前に人ごとであったのに対して、「国際」(化)は何かどうしても自分ごとにしなければならない、そう考えることが必要だと思わせるような押しつけがましさのようなものがまつわっています

昨今、日本人が内向きになった、特に若い衆たちが海外旅行にも留学にも眼を向けなくなった、などと言われます。単なる印象だけでなく、統計などもそれを裏打ちしている。なのに、なぜかこの「国際化」「グローバル化」というかけ声、スローガンだけは相も変わらず、いやもしかしたらここにきてまた一段と、その押しつけがましさを増してきているように感じます

かつて、多くの人がたにとってまだ国という意識もおぼろげだった時代には、平然と海の向こうに出かける同胞がたくさんいた。明治維新間もない頃でもすでに、南方でも大陸でもシベリアでさえも、身ひとつで稼ぎに出かけていた日本人の姿は当たり前に見られたことは、記録に山ほど残されています。いま、「国際化」「グローバル化」というもの言いをそんなに金科玉条にしたいのなら、どうしてそのかつての同胞、われらのご先祖たちがそこまでうっかり「世界」「海外」へ出かけてゆけたのか、そのうっかり加減も含めてどのように失われていったのか、そういう「歴史」をちゃんともう一度、〈いま・ここ〉の自分ごととして振り返ってみることこそが必要なようです。

2017/02/14 (火) 札幌国際大学紀要

隼おきんbyジロリンタン

「不良」の共同性について――「隼おきん」を糸口に

*1

「僕はその頃十六であつた。丸く黒く、焼けすぎた食パンの頭みたいな顔をして、臙脂色のジヤケツを着て、ポケットに手を突つこんで、毎日街を歩いてゐた。」*2

「こういう、一体なにが本業だかわからないで、なんとなく喰えている男が、ひところ、浅草の楽屋にはゴロゴロしていたものだが、一定の職も持たぬのに(あいつァ気分がイイから)と、酒を呑ませ、メシを喰わせ……つまり、なんとなく生きてゆかせてくれるから、浅草はアリガタイところ。昔も今も浅草なればこそだろう。が、これをあまりイイ気分――ではない当然のように思い、イイ気になっていると、こんどはピシリ!とトドメを刺されてしまう。誰からも相手にされない。浅草というところは、そういう冷たさ、というか、厳しさがあるところだ。」*3

● はじめに

「隼おきんの貞操」、という文章があります。小説ではない。ゆるい随筆というかエッセイというか、それでいて「おはなし」の味わいも含んだ短い読みものでもあるような、そんなちょっと不思議な小品です。*4

書かれたのは昭和初年、おそらく昭和5年から6年頃にかけての時期。作者はサトウ・ハチロー。抒情詩人であり、童謡作者であり、流行歌作詞家であり、軽みのあるユーモア小説や随筆などを縦横に書きまくり、戦後はラジオテレビなどマスメディアの舞台の常連としても活躍した、言わばタレント作家・文化人のはしりと言ってもいいでしょう。

彼自身、十代の半ばから二十代にかけて、浅草界隈の不良少年のひとりとして暮らしていた時期があり、その頃の実体験や見聞を素材に売文市場に打って出てきた、そんな初期の彼の一連の「不良少年もの」とでも言うべき作品のひとつです。決してうまくまとまっているとは言えないものの、彼自身の、そして彼のその見聞を介した当時の不良少年たちのありようや、彼らがその生身を伴って確かに生きていた「時代」のたたずまいなどが、期せずして反映されたものになっています。

この小品に描かれている「隼おきん」と呼ばれる当時の不良少女の形象を糸口に、作者サトウ・ハチローの生身を介して眼に映じたかつての浅草界隈の不良少年たちの感覚、殊に彼らがどのように「仲間」であり、その「仲間」がまたどのようにその頃の東京は浅草界隈という「場」に根ざしていたのかについて考えてみます。当時、同時代の想像力の銀幕に新たに結像し始めていた「不良少女」というイメージを背景に、いくつかの異なるテキストに語り直されてゆく「隼おきん」という形象を、そのような彼らの「仲間」のありようを投影する言わば鏡としながらの道行き。とりあえず焦点となるのは、ホモソーシャルな共同性に抱かれながら未だ「個」としての輪郭が整い切らない曖昧な時期にある彼ら不良少年たちにとって、異なる性を生身に孕んだ存在をどのように彼らの側から対象化し認識してゆくのか、そのためにはどのような「おはなし」の枠組みを必要とし、また彼らの内側から産み出すものなのか、といったあたりの問いになります。


● 「隼おきん」とは

まず、「隼おきんの貞操」とはこんな話です。

大正時代の半ば、東京は浅草界隈に跋扈するようになった「不良少年」たち。彼らの仲間にひとり「隼おきん」と呼ばれる少女がいました。歳は16歳、「色こそちょつと黒いが、八重歯があるあたり、いつもいささか腫れぼったい目をして、前の晩のことを思はせるあたりが水谷八重子にそつくりだ。本所の、大きな下駄屋の一人娘に生れながら、生みのお袋に生き別れ、まゝ母にいぢめぬかれて、それが辛らさに家を飛び出したのが十四の年、それから二年。十六のいまでは立派な不良少女。」今日も今日とて、不良少年たちは浅草は観音堂の裏にたむろして、そろそろ暖かくなってきた時節柄、いつものように悪だくみの相談をしながら、それぞれの仕事へと散って行く。「彼等が去ると、××稲荷の鳥居の中から首を出した女がある。女と云っても少女だ。少女だけれども身體のこなし、肩の線、目の色などすつかり男を知つた女だ。」*5 このおきん、女だてらに立派に不良少年仲間のひとりであり、言わば紅一点的な存在らしい。

ある日、「仕事」を終えてたまり場に戻って来た少年たちに向って、彼女はこう宣言します。「昔からエンコの(公園のさかさま、浅草のことを彼等はこう呼ぶ)空気を吸ってるものは悪いことをしても、恥かしいことをしたことはないと相場が決まっているでせう。(…)殊に、破廉恥罪といふやつは、エンコではあつたことがないでせう。浅草々々と世間では罪悪の巣みたいにいふけれど、エンコの中ぢや、未だ一度だつて暴行なんかないでせう。(…)このエンコの名誉をいつまでも保つてゐなくてはいけないと思ふわ。」 でも、と彼女は続ける。「皆んなだつて男なんだから、何かかうモヤモヤする時があるでせう……」そんな時、うっかり世間の娘さんたちに間違いが起きてはいけない。そういう「性に関する犯罪を起こさせない為めに、いつでも自分の身體を犠牲にするといふのだ。」*6 つまり、不良少年仲間の性のはけ口として自ら望んで身を投げ出す、という思い切った提案。仲間の少年たちは、彼女がそうする理由について半ば訝りながらも、この提案を受け入れます。

それからしばらくして、なぜか彼らの仲間たちが次から次へと警察に捕まるようになった。悪さの現行犯ならいざ知らず、仲間うちでしめしあわせた待ち合わせ場所、いざこざの始末の果たし合いの約束などがなぜか不思議に警察にバレている。なぜだ、どうしてなんだ、と彼ら不良少年たちの間に疑心暗鬼の輪が拡がり、仲間たちが互いを疑うようにもなり始めた。

そんな時、留置場に放り込まれていた仲間のひとりが出てきて断言する。おれはわかった、スパイはおきんだ、と。そう考えれば全部辻褄があう、寝物語に語ったことが筒抜けなのも道理だ、野郎、女だからって許しちゃおけねえ。そうか、そういうことか、といきり立った彼らは、早速おきんを呼び出し問い詰める。彼女は疑惑を潔く認め、不良少年たちの暴力的な制裁を甘んじて受けます。傷だらけになりながら苦しい息の下、おきんが切ってみせたのはこんなタンカでした。

「妾つくづく不良少年仲間がいやになつたのよ。いやになつたから行きがけの駄賃にこんな事したのよ。(…)あたしねほんとはこの世の中から不良少年といふものを失くさうと思つたのよ。失くすと言つたつて殺すわけにはいかないでせう。だからあたしスパイになつて邪魔したのよ。仕事がみんな失敗すればだんだん皆さんも止すと思つたからよ。何だかつくづく世の中がいやなの。こゝにこれだけお金があるわ帰りにのんでちやうだい。あたしはもうこれでお別れだわ」*7

ざっとこのような話です。他愛のないと言えば他愛のない、そもそもこのおきんの設定自体、いまどきの感覚からすれば何とご都合主義な、と呆れるようなものでもある。若い時期に特有の性的に放縦な若い女の子に対して、同年代の男たちの側から投げかけられる視線のある定型の表現としても、まずは陳腐と言えるようなものです。ただし、そのように陳腐な定型だからこそ、その向こう側に宿っていた何ものかについて考えようとする糸口として好適な条件が整っているかも知れない。

● 繰り返し書き留められる「おきん」

このおきんについての挿話を、これ以前にも彼サトウ・ハチローはいくつか書き留めています。この「隼おきん」という形象は、陳腐ではあるけれども繰り返し記されておく必要があるという程度に、何らかの見聞、体験などを背景に彼「サトハチ」サトウ・ハチローの胸中に輪郭確かに、それも間歇的に継続して浮かび上がっていたものらしいのです。たとえば、こんな風に。

「下駄屋のおきんが出て来てから誰れも彼れも助けられた。おきんは誰にでも×××。(伏字……引用者註、以下同様)×××××××××××××れば必つと×××。おきんは可愛いらしかつた。おさげにして矢飛白の雨合羽を着て塗下駄を履いて、片岡鐵兵さんのやうに目をぱちぱちさせて、『兄いさん、もう夜よ』と、奥山で逢ふと言つた。(…)こんな風におきんは自分の方から僕達の女郎買代を助けるやうに仕向けてくれた。おきんは一種の色情狂だつたに違ひない。が、おきんが彼等の心をいつもやはらかにしてゐたのはたしかだ。彼等が女の子に一度も暴行を働いたことがないのは、おきんが平等に彼等に身體を分けあたへてゐたからだ。」*8

筆者サトハチ自身もその中にまぎれこんでいたような当時の浅草の不良少年たちの間で、彼女おきんは言わば仲間の「共通の彼女」であり、俗なもの言いで言えば「公衆便所」であり「おさせ」であった。とは言え、先の「隼おきんの貞操」ではそういう立場に自ら志願したことになっていましたが、この断片ではそのような提案をした彼女の動機にまでは立ち入ってはいない。事実として彼らに遍く身体を与えてくれた、ということを言い、その結果として彼らが暴力的に女性を襲うようなことはなかった、おかげで「破廉恥罪」に至らずにすんだ、ということを彼自身の解釈として述べているだけです。

現実に、当時の彼ら不良少年たちの性的衝動の一般的なはけ口は、どのような形であり得たのか。以下、サトハチ自身の証言。

「僕達の時代には玉の井に行くのに一圓五十銭こつきり持つて白鬚を渡つたもんだ。橋銭を取られるのがつらいので(金高は一銭だが)橋番小屋の五六間手前で足駄を帯にくゝりつけて裸足でよく馳けぬけたつけ。」*9

「キツスだけなら富士館の女給でふんだんにさせてくれるのがゐたし、本所には五十銭のいんばい屋があつた。なん派から分けてもらへる女の子はあつたし、時々は柄になく女の子五重塔の下あたりから拾へたし」*10

安い私娼を「買う」か、同じ不良少女とおぼしき名も知らぬ素人との行きずりの行為ですますか、いずれにせよ顔と名前を伴う「個」として互いに対峙しない、する必要もないその場限りの関係における「処理」のようです。別の言い方をすれば、「仲間」とは別の〈それ以外〉だからこそ、そのようなはけ口を求めることができている。*11

これに対して、おきんの場合はその対象が「仲間」であり、その提案は性的衝動のはけ口を身内に対して持たせることになるものでした。と言って「個」として互いに対峙するわけでもなく、あくまでも「仲間」の共同性を後ろ楯にした「共通の彼女」として、という縛りがかけられてきます。この場合、彼らの性的衝動は個々の生身の個体に属するものであっても、その意味づけはあくまで「仲間」の共同性から離れることはできません。しかもそのような関係を、ひとまずは同じ「仲間」であるはずのおきんの側から提案された、ということは、それまで良くも悪くもホモソーシャルな共同性の内側で「仲間」であることを安定的に維持してきた彼ら不良少年たちの意識に、個としても集団としても、それまでと異なる新たな亀裂が芽生えさせられることになる。それまでは〈それ以外〉にだけ向いていて、またそうすることが当たり前で、だからこそわざわざ意識しなくてもすんでいたような自分たちの性的衝動のベクトルが、これによって一気に自分たちの共同性の側に鋭く向わざるを得なくなる。「仲間」そのものがうっかりと性的なものになってゆき、それに伴い集団だけでなく自分たちひとりひとりのありようもまた、それまでと異なる様相をみるみるうちに見せ始める。そのような経緯で「仲間」の共同性に危機が訪れます。そういう意味で、「仲間」を裏切る「スパイ」としてのおきん、という結末は、そのような結末を招来する、せざるを得ない想像力の理路も含めて、この危機に対する共同性の側からの処方箋のひとつだったと言っていいでしょう。*12

思えば、そもそも当初のおきんの提案自体が「エンコ(浅草)のために」という、いささか大文字の言挙げを踏み台にしたものでした。それは自分たち「仲間」が依拠している「場」「土地」を背負っての言挙げであり、また確かに、そのような感覚は彼ら当時の不良少年たちの共同性を支えるひとつの柱になってはいたのでしょう。しかし、それを「紅一点」の異物である彼女が敢えて持ち出しながら、「仲間」に対する性的なはけ口として自ら身を挺することを提案し、実行するということは、彼女自身の内側で、「仲間」の一員であることと「仲間」とは異なる性的存在であらざるを得ない自分自身との間の矛盾や葛藤を鋭く自覚していないと成り立たないことのはずです。なおかつ、その提案が「仲間」の共同性を結果的に破壊してゆくであろうことについても、どうやら彼女はわかっていたらしい。こう考えてくると、彼女のその提案自体、現実には想定しにくいものにならざるを得なくなります。

何より、現実問題として考えた場合、「仲間」を破壊することに彼女の実利はないはずです。たとえば、その「仲間」のうちの誰かひとりと性的存在としての部分も含めて「個」として向き合うために、障害となるその「仲間」の桎梏を振りほどく、といった目的の下にならば、少しはあり得るかも知れない。ただ、その場合の現実的な処方箋は、それが穏便な承認かそれとも「仲間」からの放逐になるのかはともかく、いずれ「仲間」の共同性からの離脱を介した独立の方向になるのが自然でしょう。なのに、ここでのおきんは最後まで、異なる性的領域を抱えた「個」として、「仲間」自体を忌むべきものとして破壊したいという意思を表明しています。このあたりが、作者サトハチのバイアスが明確にかかってきているところなのだろう、と解釈せざるを得ません。*13

これに関連する「破廉恥罪だけは出していない」というおきんの言挙げ、つまり浅草に婦女暴行や強姦沙汰の類が「ない」ということ、これは明らかに事実に反します。浅草は「商品化された性」と切り離せない土地として世間的にイメージされてきましたし、不良少年や淫売婦、乞食に至るまでそれら「性」の問題と無縁ではいられなかった。虚構という意味なら、そもそもこの部分自体、現実とはまるで違うと批判することは、おそらく容易ではあります。

ただし、たとえ事実ではなくても、いやだからこそ、かも知れませんが、「破廉恥罪だけは出していない」というその認識は彼らの「仲間」においてのひとつの約束ごとであり、それら約束ごとを支えていただろう矜持や誇りなどと共に、彼らの共同性を支える「おはなし」の一部となっていた、その程度の〈リアル〉はまた同時に想定しておくべきでしょう。実際にそのような性犯罪はいくらでもあり得たし、それが「盛り場」としての浅草の特性でもあっただろうけれども、しかし、まただからこそ、そこを生きる「場」として棲息する彼ら「不良」仲間の共通意識としては、それら「汚れた」現実から自らを囲い込んでおける約束ごと≒「おはなし」を必要としていた、そういう留保をひとまずしておきたいと思います。

ユースカルチュアとしての、そしてその限りにおいてサブカルチュアとしての「不良」の仲間意識にとって、彼らの「仲間」の内輪の外に拡がる世間はいずれ「汚れた大人」のものとして受け取られていました。それは「学校」文化の中の、当時の中等教育からさらに上位の教育課程に進んだ若者たちの間に醸成された意識や感覚とも、どこか地続きの同時代性を伴っていたようです。人の意識、それも一律にめんどくさい「個」や「自分」などをそう尖鋭に形成することのない、その必要もない程度の其の他おおぜいな生身たちの共同性に宿る意識というのは、そのような「ウソ」を敢えて「おはなし」として使い回すことで、「自分たち」という輪郭を確認してゆくこともまた、現実にあるらしいのです。

こういう矜持を伴った「仲間」意識のありよう自体、明治期以来の「硬派」系不良少年正義感価値観をひきずっています。それはたとえば、敗戦後、RAAの募集に応じた当時の女性たちの意識にあった「カタギの娘さんたち」に対する「性の防波堤として」という自分たちの役割意識の表明や、自分たちの現状への自己正当化の語りなどにも共通しています。*14

そこで想定されていた「カタギ」とはどのようなものか。言い換えれば、そのような〈それ以外〉の立場の者たちが想定し幻視する「世間」――時にそれは「銃後」になり「日本」にまで拡大されるモメントを孕んでいたものでもありました――とはどのような手ざわりを伴っていたのか。それらを守るために自ら望んで犠牲になる、という「民俗」的な水準も含めた草の根の英雄主義は、性別や階層、年齢などを問わず、どこか一定の水位を保ちながら共通するものだったようです。彼ら不良少年たちの間に、殊に「硬派」と称されていた意識のありようとしてはなおのこと、それら英雄主義的精神がその正義感価値観と共に介在していたのは何も不思議ではない。ただ、それが現実の生身の「隼おきん」の側に本当にこのように共有されていたかどうかについては、また別にいろいろな留保が必要でしょう。その程度にこの「隼おきんの貞操」でのおきんという形象は相当にファンタジーの領域に滲み出したものであり、そのような意味で「虚構」の度合いの強いものと言っていいものです。*15


● 変わりゆく「不良少年

明治末から大正初期にかけての時期、不良少年たちのあり方は変わり始めていました。それまで、明治期の不良は明らかに「硬派」であり、そしてまた幕末からの気風が濃厚に引きずられていました。いわゆる喧嘩沙汰が中心の荒っぽいものであり、そしてそれを支えるだけの安定したホモソーシャルな共同性に裏打ちされたものでもありました。たとえば、「喧嘩買い」という言い方で、その硬派専業時代の不良少年たちのありようが語られています。

「喧嘩買ひなるものは、今日の不良少年とは聊か、其の趣きを異にしております。即ち今日の不良少年と異なる點は、第一年齢に制限がない。第二「さい」の目を教えてゐたこと。第三曖昧屋女の周旋をしてゐたこと等で、其の他は今日の不良少年と、略ぼ同一であります。(…) 明治時代に於ける遊人の喧嘩買ひは、今日の不良少年の祖先とも言ふべきものです。少なくとも大正時代に於ける硬派の不良少年の手口は、遊人の喧嘩買ひの手口をすつくり似ねたもので、其の、手段方法が殆んど同じです。」*16

「浅草の不良、浮浪者達は、酒(キス)と女(ナホスケ)には困らないと云ふが、浅草の少年達は一體に早熟である。映畫、浪花節、講談等を好み、喫煙も公園内の吸殻を拾つて歩けば、一日分は困らないとの事である。(…)娯楽として、賭博又は類似の勝負事は盛んである、花札、サイコロ使用の外に、一銭銅貨を弾いて、手早く伏せ裏か表か、俗にナミカタと云ふ、簡単な賭博をやる。學生其他の不良に比して、一般に低級であると思ふ。」*17

彼ら「不良」たちは、それらを取締り、善導する立場からはその行いと所属階層によって、?「学生の不良行為」?「労働に従事する少年の不良行為」?「その他の不良行為」の三種類に概ね分けられていたようです。サトハチなどはひとまず学生の、それも言うまでもなく裕福な家庭の子弟ですが、下駄屋の娘だったというおきんなどは地元の小さな商家の子どもで、浅草以外から流入してくる層とも違う、言わば「地回り」の不良と言っていいでしょう。「学生」は、主に当時の中学校の生徒たちだったようですが、彼らはそれまでの不良と異なり、それなりの文化資本を背景にした新たな風儀をもたらしていったらしい。また、それらから下方に脱落していった先、?にあたる「その他の不良行為」には、グレやツブなどと呼ばれる「宿無し」で、実態としては若年層の「乞食」に近い浮浪性の高い存在として認識されていたようで、これらの角度からは「街頭少年」という総称も使われることがありました。」*18

その頃から、従来の「硬派」だけでなく、いわゆる「軟派」と呼ばれる流派がはっきり見えるようになり、同時にいわゆる美人局の手口が流行り始めたとも言われています。つまり、不良少年と不良少女がそれぞれ別の団体、グループを組んで活動していた状況から、男女混成の不良行為が目につくようになってきた。それも仲間の女の子の性的な魅力を自分たちの〈それ以外〉に向けて差し出すことで実利を得る、金品を取ろうとすることなどを意識的にやり始めたらしい。たとえ、不良少女たちでも「硬派」であることが当たり前だった状況から、性的存在としての自分たちへの自覚が漠然とであれ宿り始めて、自分たちとは別の〈それ以外〉からの視線に対して、それまでと少し違う性的領域も含めての身構え方をするようになってくる。そうすると、その〈それ以外〉に向っての共同性の提示の仕方にも、性的領域を介した新たなありようが生まれてきます。

性的存在としての自分たちに気づいて/気づかされて、それを足場に具体的な行動に移すについては、同じ不良でも少年よりも少女たちが先行していたようです。それに対して、そんな彼女たちの見張りや監視を行ない、時を見て姿を現わし因縁をつけるという、利害を伴う共同作業として不良少年たちが関わってゆくようになる。おそらくこれらはあらかじめ意識的に計画されて始まったものというより、半ば自然発生的に行なわれるようになった過程と考える方が自然でしょう。*19そして、そんな不良少年少女たちの世間の変貌の中に、十代半ばの彼、サトウ・ハチローも身を置いていました。

関東大震災の後、大正末年あたりから、そのような「不良少年」であったということを売り物にして、彼はメディアの舞台に姿を現わし始めます。すでに高名な大作家であった父、佐藤紅緑の札付きのドラ息子として家出を繰り返し、自称中学中退8回、勘当されること数知れずとうそぶいていたような、当時のまずは絵に描いたような「不良少年」としての経歴と見聞を肥やしにして、震災後の復興過程で新たな拡大を見せ始めていたジャーナリズムの売文市場の片隅に登場してきていた。*20「隼おきん」の挿話は、現実に照らし合わせるなら、彼の記述などから逆算して大正半ば、彼が立教中学に在学していた頃のこと、父紅緑が金竜山瓦町18番地の蔵のある邸宅に引っ越してきてそこに同居するようになった時期のものと推測されます。具体的には大正8年から9年頃でしょうか。ちょうど第一次世界大戦後、大戦景気で日本の経済状況も活気づいていた一方、戦後恐慌が現実のものになり始めた頃です。

「隼おきんの貞操」の下敷きになったとおぼしき断片に現れていた「下駄屋のおきん」について、その末尾で彼はこんな呼びかけをしています。「……それにしてもおきん!若しもこれを讀んだら僕のところへ飛んで来い。」*21そしてその翌月、どうやらおきんから連絡があったらしい。「おきんから手紙が来た。隼おきんから手紙が来た。下駄屋のおきんから手紙が来た。「文藝市場」気付で来て梅原(北明……引用者註)が郵税不足で廻送してよこした。」*22それによれば、おきんは今、伊豆の下田のあいまい屋にいるという。そこから、彼女についての回想が始まるのですが、それは概略、先の「隼おきんの貞操」のプロットにほぼ重なるものになっています。

ただ、結末は違っている。最後、おきんが不良少年仲間から制裁を加えられそうになる、その相談をしている場から、彼サトハチはひとり抜けてその制裁を止めようとする、そんな流れになっています。もっとも、はっきり止めたとは書かれていない、止めようと決心した、までで筆はほのめかし気味に留まっていて、それをおきんへの返信代わりにする、と言明するところで結ばれています。

「だが僕だけは残った。どうしてあの可愛らしいおきんが。又あいつが売つたとしたつて撲るのはいけない。どうしてもいけない。みんなに頼まう。おきんにも真偽を正さう。僕は僕のものを全部を金にして皆と一緒に呑まう。おきんを許して貰はう。」*23

一応は少年めいた、その限りですがすがしげな正義感の表明ではあります。ありますが、しかし、先の「隼おきんの貞操」では「仲間」から明確に制裁を加えられ、痛めつけられるおきんのくだりも描いていたのと考え併せると、その制裁の話も彼サトハチがその場で実際に見聞したものかどうか疑わしくなってもきます。おそらく、彼の性格からすると、その場に加わらないように「逃げた」可能性が高いのではないか。だとすると、おきんを実際に守れなかったある種の後ろめたさからの贖罪意識が、この最後のほのめかしに反映されていると解釈できなくもない。

一方の不良少年たちの側には、このサトハチのような少年的な正義感はなかったでしょう。彼らに先行していたのは「仲間」を「裏切った」という意識であり、そこに「女のくせに」という異なる性的存在としてのおきんのありようが、事態をきっかけに一気に前景化してしまったことが重なっての暴発だったはずです。これに対するサトハチのこの少年めいた正義感は、おきんの属性である「女の子」という部分を彼の「個」の文脈で特別に意味づけることで成り立つようなものですが、しかし、それが同じ仲間たちを説得する根拠にならないだろうことも彼は十分わかっていたはずです。そのように同じ不良少年仲間としてつるみながら、彼サトハチがやはりどこか「違う」存在だったらしいことは、他の場所で彼自身、正統派の「硬派」としての不良少年の隊列から落伍した自覚をなにげなく表明していることなどからも、推測できます。こんな具合に。*24

カフェー言いがかりをつけてのタカリをしくじって相棒が警察に捕まったのに、彼はひとり逃げおおせた。逃げる途中で苦し紛れに飛び込んだしもた家の女にはまって居続けた。

「仲間の規則としては、二人ゐたうちの一人が捕まつた場合は、よほどの事情がない限り、翌日なり翌々日なりに、「わたしもどうかご一緒に!」と、進んで出て行つて、共に幾らかでも軽く拘留をすませてくるのが定法になつてるのだ。その定法なんて、どうでもよかつた。たつた一晩で、そんなになるものかと自分でも不思議に思へた。(…) 浅草で爪はじきされた。拘留を終つて帰つて来た長太郎は、七郎の卑怯な振舞を怒つてゐた。逢ひ次第野郎のどてッ腹に、風穴をあけるぞといふ噂が耳に入つた。「仕方が無えや」七郎は寂しさうに笑つて、女の許へ通つてゐた。かうして七郎は硬派の堂々たる(不良少年に堂々たるもをかしいが)よた者から、仲間からは一番ばかにされてゐる小鳥打ちへと落ちて行つてしまつたのである。」*25

「僕は、喧嘩は弱いので救護係りの方にまはされてゐた。ホウタイやオキシフール、傷薬りなどを入れた小型の鞄をかゝへて、「今夜は、はたしあひはないのかね」と、浅草の公園中を、聞きまはつたむかしがなつかしい。兇器ケイタイはやかましいので、玉ころがしや、煙草をとしのネエちゃん達に、あづかつてもらつてゐたが……」*26

何のことはない、当時の気風としてまだあった折り目正しい「硬派」の不良に紛れ込んでも、そこにも安住することはできずに放逐されたらしい。その寄る辺なさや疎外感は、叙情詩人としての資質と共鳴しながら、その後の彼の見聞やその出力の質を整えてゆくことになっていったようです。

同時に、サトハチ自身、性欲は人一倍強かったらしい。加えて、腹違いの妹にあたる佐藤愛子によればそれらを自制できないという佐藤家の「血脈」のせいもあって、女性関係の乱脈ぶりは十代の頃から周囲を悩ませていたことも彼自身繰り返し書いていますし、まわりの人たちからも、さまざまに書き留められています。

「僕は有名なボロツ買ひになつてしまつた。何でもさがしまはつた。女であればいゝと思つた。事實又それでよかつた。」*27

「一軒の妓楼の玄関脇で一人の女郎と話をしている男。頭の毛は洋画家ルンペンそっくりの長髪で、手にマンドリンをひっさげ、いささか酩酊のていたらくでふらふらしなから妓に支えられている格好は、どうも見覚えがあるので立ち止まった。」*28

「曲馬團のトランペット吹きになつて、團長の娘に失戀し、電氣館の見習辯士になつて「泰西の實寫」を説明し、オペラの王國金龍館にとぐろを巻いて踊子に戀し、吉原不夜城は××楼の遊君に六百餘日を通ひつめ、伊太八は、尾上は、浦里は、外記は、綾衣は、次郎左衛門は八ツ橋はと、遠くこまちゃくれた感慨をはせたりなんて、まだはたち前後ぢやなかつたか、八ツちゃん!」*29

「隼おきん」という形象が期せずして示していたファンタジーとしての、「虚構」としての属性は、そのようなサトウ・ハチロー自身の、ホモソーシャルな「仲間」の共同性に安心して抱かれることをしながらも、性的存在としての「個」はそのような共同性の側に重ね合わせて眠らせて「処理」してしまうことをし切れない、そんな生身のめんどくささが期せずしてつむぎ出したものだったように見えてきます。

● さまざまに語り換えられてゆく「隼おきん」

とは言え、「虚構」は単につくりごとでもなく、現実と無関係なままでいられるわけでもない。「隼おきん」という名前は、単にサトハチ自身の記憶に鮮烈な印象を残していただけでなく、当時の浅草界隈の不良少年たちの間でも有名だった、ということも、彼はほのめかしてもいます。

はる坊は不良少女である。その昔エンコで鳴らした隼おきん程の人気はないが、おきんよりも灰汁がない、ほがらかである。」*30

「おきん」というその名前自体は、当時すでに広く知られていたという名物乞食「ゴウカイヤのお金」「土手のお金」と同じものです。もっとも、この「土手のお金」は「隼おきん」とは世代もずれているし、何より属性も性格もだいぶ異なります。*31ただ、そのものでなくても、「隼おきん」とよく似た不良少女の形象ならば、確かに他にも散見される。 たとえば、川端康成の『浅草紅団』の中の、主人公にあたる弓子との会話の一節。

「そのね、おしんっていうと、例の(からたちおしん)の、何代目かにあたるのかしら」

「あら、そんなことどこで憶えてらしたの。」

「不良少女史の英雄だらう。名前くらゐは知ってるさ。――十三四の頃にはやぶさ團といふ不良少女團を組織して、團長となり、二三十人の部下を従へ、深川八幡を根城にして、十六までに百五十人の男と――ざっとこれで、歴史の答案として、どうだ。」

*32

この「からたちおしん」という名前は、東京区裁判所検事で少年係主任だった鈴木賀一郎の記述に出てきます。もっとも、こちらでは仮名ということになっていますが、素直に比べてみるとその記述自体、川端が「引用」に近い形で引き写したことが推測できるものなっています。*33

「現にK・T子といふ少女に、綽名をからたちおしん(假名)といつて、十三四歳の頃からはやぶさ團といふ不良少年團を組織して、その團長となり、数十人の部下を有し、十六歳の時までに百五十人の男子と關係し、数千圓の金を捲き上げて、豪奢を極めて居たことは、苟も不良の字を附けらるる程の仲間では、東京中で知らぬもののない位に公知の事實であります。」*34

はやぶさ團(少女團) 所在地 深川區 團長 からたちおしん事K・T子(十七歳)部下 二三十人 活動地 深川八幡附近」*35

さらにもうひとつ、この「からたちおしん」とよく似た背景や経歴を持つ「隼おせん」という存在も、別の記述に残っています。これは警視庁知能犯係長という肩書きを持つ前田誠考という人の書いたもの。彼女は、行きずりの商人に一夜の宿をねだって共に泊まっておきながら、翌朝にはその紙入れを盗んで姿を消すという手口の犯罪を犯したかどで捜査されていたところ、逮捕されたらしい。

「怪しい小娘の正體は、まもなく象潟署に擧げられた。それが、深川の不良團でも有名な「隼おせん」と綽名のある小川せん(二〇)と判つた時、始めて商人の謎は解かれた。」*36

この「隼おせん」の生い立ちは、まさに「隼おきん」のそれとかなりよく似たものです。

「やがて、彼女は自ら不良仲間を糾合して一つの団體をつくつた。女ながらもその頭領となつたおせんは、常に仲間の男女十数名を率ゐて、深川界隈の縁日、活動小屋などを押し歩いた。部下の不良少年少女は、彼女の命令に従つて盛んに掻つ浚ひや窃盗を働く。脅迫、略奪――あらゆる手段によつて捲きあげられた、金の一部分は、必ずおせんへ捧げねばならなかつた。(…)比較的小柄に、そして美貌にうみつけられたおせんは、ときどき浅草へ現はれては異性を誘惑した。幼々しい小娘を粧ふ彼女の前に、大概の男は脆くも跪くのであつた。」*37

もちろん、この「隼おせん」こと「小川せん」が、果して本当に鈴木や川端の触れていた「からたちおしん」なのかどうか、そしてそれが、サトハチが繰り返し書き留めてきたあの「隼おきん」と、どこまで現実に重なるのか重ならないのか、確かなことはわかりません。なるほど、経歴その他の細部に重なるところは多いですが、その一方でK・T子という名前が違っていたりする。ただ、いずれにせよ、ひとつ言えることは、これは当時の「不良少女」の形象としてある普遍性を「おはなし」の水準も含めて持ち得るようなものであったらしいこと、だからこそこのように繰り返し異なる書き手を介してさえも記録され、語り直されるものになっていただろうということです。そしてその意味で、これらの形象の向こう側に当時、一定の振幅で生身の個別具体の事実としての、匿名の不良少女たちが群れとして存在していたこともまた、留保しておかねばならないことのはずです。

さらに、この「隼おきん」のイメージに重なるものとしては、「おりきと僕」と題された別の断片も、サトハチにはあります。

先の「隼おきんの貞操」よりさらにずっと短い、AからCまでの三部構成の断片であり、どこか詩のような調子もある小品。おりきという女の子との邂逅が異なる場所、異なる時間の設定でスケッチされています。ある意味、当時サトハチが関わり始めていた浅草のレヴューの構成に近いような印象もある。おそらくは掲載誌の傾向の違いなどもあったのでしょう、モダンナンセンス、ないしはバラエティ的な仕上がりにもなっています。

まず最初の出会いは雨の日の浅草、ほとんど文無しのまま彷徨していた「僕」に、「もし、もし」と声をかけてきた「矢飛白の雨合羽でおさげ女の子だ。これが僕がおりきにあつた初めである。」「「どこへ行くの」「トロだ」「そこは ねむれるの」よせやいと言いたくなる、吉原へ行つてねないで床の番でもしてゐるやうな面に見えたのかな。「あたし、今夜ねるところがないの」と、蛇の目の中で水谷八重子セコンドハンドのやうな八重歯を出して、甘えて言った。「よくある手だ」と思ったが、長靴に、はさんである一枚の五圓ですむなら、どつちでもいゝと思つた。」*38

二回目は、上野松坂屋の裏の一杯呑み屋にて。「早いところ二升をかたづけて次の一升にとりかゝつたとき、女がはいつて来た。おりきだ。「あたいは枡でね」髪をたばねて、素足でゐる。僕の方をじろりみて一寸首をふつた。僕もふつた。」そのまま酔っぱらって仲御徒町の彼女の家、古道具屋の二階へ。押し入れから取り出した一升壜に残っていた泡盛を、注射器で三つ分、肩のつけ根のところへ注射された。

最後はそれから一年後、さらに落魄した「僕」は「有名なボロツ買ひになつてしまつた。何でもさがしまはつた。女であればいゝと思つた。事實又それでよかつた。」そんな時に、「廣小路の夜店でバッタリおりきに逢った。いつの間にか髪をきつてボブにしてゐる。短いスカートをはいてオレンヂ色の靴をはいてゐる。」亭主持ちになったと言いつつ、その亭主はスリで喰らい込んで今いない、今夜どうにかしてくれない、と誘われてまたもや彼女のもとに。「あたしねえ、圓タク・ガールしてゐるのよ。」*39

そして、この「おりき」という形象もそれから十数年後、先の「隼おきん」の挿話や断片と共に、敗戦後に書かれた彼の長めの自伝的小説「青春風物詩」の中に再度織り込まれ、中の挿話の一編として、「おはなし」としてもう少しまとまったものになっていました。ここでは「隼のおきん」が「隼のおりき」になり、通り名のみならず「山村りき」という具体的な名前まで伴って登場してきますが、挿話の成り立ちや描かれる「おりき」のキャラクターなどから、それまでの「隼のおきん」譚を下敷きに、それらの要素や断片を年月を経てさらに発酵させたものと考えていいでしょう。

吉原の遊郭にずるずる居候のような形で寄宿し、おいらんの手紙の代筆などするようになっていた「僕」は、そこの駒子というおいらんに「姉がサトウさんのことをよく存じていて…」とある相談を打ち明けられる。はて誰だろう、と訝りながらその駒子の顔をじっと見ているうちに、あっ、おりきが、と思い当たる。駒子はおりきの妹で、おりきがナルコポン・スコポラミンの中毒になっているのでその薬を調達してもらえないだろうか、サトウさんなら頼めるはず、と言われてきたという。かつてのおりき(隼おきん)の姿が、彼女との思い出と共に彼の脳裏によみがえります。

「初対面から、ボクはすっかりお力(ママ)にいかれてた。勝負にならないほど軽くあしらわれてた。だがボクはお力が好きだった。話してるうちに、お力の糸切歯が目についた。奥歯とか犬歯とかいうのだろう。日本人によくある八重歯という奴だ。ボクは水谷八重子を好きなのも、この八重歯のせいなのだ。(…) お力はクキンだ。クキンというのは笑い方だ。(…) 肩を上にちょッとすくめて、クキンとくる。このクキンが糸切歯のあたりから出てくるのだ。ああ、あばたもエクボ。クキンも魅力。」*40

さっそく彼は知り合いで医者の林躁(木々高太郎)のもとへ行くが不首尾、次にこれまた年配の知り合い真山青果の処へ行きカネを無心、浅草へとって返します。そこで、レヴューの楽屋仲間のダンサー、歌川るり子と出喰わすのですが、実は彼女もナルコポン中毒なのを思い出すと、彼女のハンドバッグから注射器と薬をくすねて勇躍、おりきの住まいへ。ところが、二階におりきのパトロンらしき瘤のある老人がいたので、おりきと差し向かいになることもできず、いまひとつ居心地の良くないままにすすめられるウイスキーをがぶ呑みして不貞寝、というまでがざっとひと段落です。

とは言え、書き手としてのサトウ・ハチローの「おはなし」の手癖は、この「青春風物詩」の「おりき」≒「隼おきん」譚の前後、特にそのあとの展開で、彼の裡にくぐもっていたであろうある本質を、見事にむき出しにしてゆくかに見えます。こんな具合に。

おりきとの再会からの焼けぼっくいに火が、的想いが再燃するも、彼女には面倒を見る旦那がついていることを思い知らされて屈託するサトハチに、さらに追い討ちを掛けるように、カネに困っている彼のためにおりきは、男妾のような仕事を紹介してくれました。背に腹は代えられず、是非もなくお石という婆さんのまるでツバメのような境遇に、あわれサトハチは追いやられます。

ひょんなことから再会することになり、思い出と共にあった幻想としてのおりきのもとから放逐され、しかもたとえ善意からであってもおのれの性的領域を「売り物」にさせられてしまう屈辱と、それをしも甘んじて受け容れねばならない自分の情けない現状についての屈託鬱屈のこじれた二重苦三重苦。そんな時、お石婆さんの命で「馬の脳みそ」を買いにやらされた「牛豚馬のトサツ人頭の家」でサトハチは、かつて「花錨」というしこ名で一緒に草相撲の土俵にあがっていた頃の仲間の親分格、「雪の花」こと雪島花之丞とばったり再会します。偶然の邂逅を喜ぶ花之丞は、ただちにかつての相撲仲間を呼び出しますが、当のサトハチから彼の今置かれている境遇を聞かされた彼らはみな、涙を禁じ得ない。「お主が、そんなことをするなんて……」「おもいなおせ、おもいなおせ、なアおもいなおせよ」「なんたるこッちゃい、貴公が、出世するのを、わしが待っとったんだぞ、ああそれなのにそれなのに」「おれが、お前に、借金のさいそくもなにもしないのには、何のためだと思う、お前を色キチガイばばァの、ねどこの係りにさせるためじゃないぞ」「わかってくれただろうな。おい、花錨、わかってくれただろうな」……*41

「雪の花」だけではない、いなりずし屋の「篠田山」、酒屋の「杉の樽」などかつての相撲仲間が入れ替わり立ち替わり、サトハチをかき口説き、説得しにかかります。浅草の巷を彷徨していた先行き見えない少年だった頃、彼らはサトハチを年若い「仲間」として受け入れ、面倒を見てくれた。飲み食いに連れていってもくれた。「出世払いでコップ酒をあおったことは、数えても数え切れない。一ぺんだって払ったことはないし、請求されたこともない。うぬぼれじゃなくボクは、愛されていたのだ。」かつての「仲間」の共同性に再びやわらかく抱かれたサトハチは「すまん、すまん、すまなかった」と彼らに、今の自分が陥るに至った情けない境遇を、そしておそらくはそのような境遇に陥る理由のひとつとなっただろう自分の「個」のめんどくささをも、一切合切ひっくるめて懺悔します。

「「おお」と、五人の口から、この叫び声が、いっせいにとび出し、十本の手と五つの酒くさい顔がボクの首のところににとりつき、肩や胸や膝や襟には、なまあたたかい液体が、次から次へと、ひたたり落ちた。「祝いじゃ、祝いじゃ」雪島花之丞が、すっくと立ち上ったかと思うと、「祝いに、一丁、みんなで角力をとろうぞ」と胸を叩いてシコをふんだ。」

*42

まわしひとつになってシコを踏み、庭にしつらえられてある土俵にあがって相撲をとりあう男たちと、そこに立ち交じって狂ったように取り組みを続ける「ボク」。「正直に言って、一生のうちで、ボクがこれほど強かったことはない。これ以後もないし、これ以前にもない。六人総あたりで、一度も負けなかったのだから、われながらおどろきだ。」その雄姿は、かつて不良少年の共同性に抱かれながらも、結局なじみ切ることのできなかった自身の、「個」としてのうしろめたさを一気に解放するかのように躍動し、奔流し、朗々と何ものかをうたっているかのようにも見えます。

「もう何もない。何もいうことはない。涙なんか、どこかへ、すっとんで行ってしまった。ボクのカラダと心からサトウハチローなどという名も影も、すっかり消えてしまって。やぐら太鼓に、ふと目をさまし――の、力士花錨になってしまったのである。」*43

取り組みでひと汗かいた後は、「風呂だ」と花之丞の号令。

「どなったと同時に、一糸まとわずの形になり、男性のシンボルを、空中におどらせて、尻っぺたをペチャペチャとたたきながら、走りだしたのには、めんくらった。ところが、あとの四人が、これを手本として、同じような形で同じようにペチャペチャリズムを奏でながら、そのうしろにしたがったのだ。ボクは、つきあいのよい点では、人後に落ちないと前に申しあげてある。まことにその通りだ。めんくらいながらも直ちに、みんなと同じをたどり、しんがりなるが故に、みんなより一層ハデな音を、尻から発して、風呂場へと突進したのである。」*44

風呂から上がった後、感興措く能わずといった風で、またも「めでてぇなあ」「くりこむか」という雪之丞の号令一下、ああ、なんとそのまま吉原にみんなして意気揚々と繰り込んでゆくその顛末。あげく、この相撲仲間たちはサトハチが捕らわれているお石婆さんのところに押しかけて、彼をそこから解き放って逃がしてくれる手助けまでやってのけてくれたのですから。

ホモソーシャルな「仲間」の共同性に抱かれて、ひとまず寄る辺ない身を支えるに十分なほどの安心と解放感を得ながらも、しかし彼らとはどこかで異なる性的領分を抱えた「異性」の存在に対する幻想も同時に「個」の内側に否応なく孕んでしまっていることを自覚せざるを得ない、だからこそ「仲間」に対する甘えのベクトルがそのまま〈それ以外〉の方にも折り重ねられてゆき、共同性と個との関係がそれとはっきり区分けされないまま、当時すでに一部の階層にとって支配的モードになりつつあった「恋愛」という枠組みの押し型で〈それ以外〉を認識しようと七転八倒する。ホモソーシャルな共同性の後ろ楯はしぶとくもずるく手放さないまま、しかし「個」としての性的領分は存分かつ奔放に〈それ以外〉へと放散されてゆくわけで、これは現実としては非常に厄介な、異性にとってはとりあえず「やさしく」もありながら、しかし「個」としては性的に一方的に放縦かつわがままでもあるという生身が現前化することになります。


● まとめとして

事態はもう明らかでしょう。サトウ・ハチローという生身を介して、彼が期せずしてつむいできた「隼おきん」という形象とそれについての記述を足場に読み重ねてゆくことで現前化された当時の浅草界隈の「不良少年」の共同性とは、「仲間」と「個」とがとりあえずは幸せにホモソーシャルな関係性の内側で溶融しているような状態から、すでに否応なく性的なものへと、そうならざるを得ない時代と社会の変化の中の必然において、実に抗い難く動き始めていたもののようです。それゆえに、あの「隼おきん」という形象は、彼らが「仲間」の共同性をどこかで維持しなければならないのだとしても、それはいずれファンタジーとしての方向に「虚構」を、「おはなし」をドライブしながら、それを介してかろうじてつなぎとめようとするしかないものになっていたらしい。

しかし、その頃、彼らと異なる性と性的領域を抱えた生身としての女性たちは、すでに「女の子」としてうっかりと「仲間」の側に入り込んでくるようになっていた。それに見合って彼らの側もまた、自分たちの性と性的領域について出会い頭に気づかされてしまわざるを得ない局面が、それまで以上に増えてきていたはずです。そのような状況に新たな葛藤や軋轢、逡巡などが起こってくるのは何も不思議ではない。「恋愛」という枠組みを当てて意味づけて処理しようとするのもあり、あるいはさらに「思想」や「哲学」だのを併せ技で塩梅するのもありだったでしょうが、しかしそれらはいずれそのような大文字の概念を振り回す術になじむことのできた側の処方箋に過ぎない。〈それ以外〉の現実にたたずむその他おおぜいの彼らにとっては、事態は常にそのような「ことば」と意味の届かないところでわけのわからないままに推移するものでしかなかったでしょう。

一方で、彼らの側からそれまでとは少し違う「女の子」という呼びかけられ方をするようになり始めた側からもまた、それに見合う「お兄さん」と呼びかけるような内面が芽生え始めていたらしいことは、彼らの共同性と性的存在としての彼らの生身との関係、そしてそれらがどのように「民俗」レベルも含めた文化の位相に向って開かれていたのか、という大きな問いにもつながってゆきます。それらの側も含めた共同性と性的存在としての生身との関係、およびそれらを表出してゆこうとする際のさまざまな現われについては、今後さらに違う角度から、また別の適切な素材を糸口にしながら繰り返し、倦まず弛まずささやかな「読み」を重ねてゆくことを続けるしかないようです。

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◆参考文献

サトウ・ハチロー

不良少年時代(1)〜(4)」、『文藝市場』2月号〜4月号、6月号、1926年

「東京不良少年始末」、『文藝市場』7月号、文藝市場社、1927年、pp.108〜115

「おりきと僕」、『失恋大福帳』所収、素人社、1930年、pp.174〜184

不良少年覚書」、『失恋大福帳』所収、素人社、1930年、pp.259〜275

「不良少女の流行」、『改造』5月号、改造社、1931年、pp125〜133

「浅草十二ヶ月」、『中央公論』12月号、改造社、1931年、pp.315〜323

「レヴューガール悲歌」、『改造』2月号、改造社、1932年、pp.89〜96

「隼おきんの貞操」、『浅草』所収、成光館、1932年、pp.168〜188

「吉原ユモレスク」、『中央公論』10月号、改造社、1934年、pp.321〜329

「夜の友達」、『改造』2月号、改造社、1939年、pp.375〜382

「しなびた糸切歯」、『青春風物詩』所収、東成社、1952年、pp147〜164

前田 誠考

「隼おせん」、『罪の子となるまで』所収、共楽社、1925年、pp.18〜23

石角春之助

『浅草裏譚』文芸市場社、1927年

『乞食裏譚』文人社、1929年

『浅草女裏譚』文人社、1930年

川端 康成   

『浅草紅団』先進社、1930年

今  東光   

「嫖客」、『吉原哀歓』所収、徳間書店1976年、pp.35〜67

サトウ・ハチロー

『失恋大福帳』素人社、1930年

『浅草』成光館、1932年

『男・女』素人社、1936年

『青春相撲日記』杉山書店、1949年

『青春風物詩』東成社、1952年

『落第坊主』日本図書センター1971年

新堀 哲岳   

『問題の街頭少年』章華社、1936年

鈴木賀一郎   

不良少年の研究』大鎧閣、1923年

比留間一成   

『非行問題の軌跡』教育出版1983年

前田 誠考

『罪の子となるまで』共楽社、1925年




◇その他、直接言及等しなかったもの


稲垣恭子+竹内 洋・編

        『不良・ヒーロー・左傾――教育と逸脱の社会学人文書院2002年

大宅 壮一 『モダン層とモダン相』大鳳閣書房、1930年

金子 光晴   『詩人 金子光晴自伝』平凡社1957年

        『人非人伝』ペップ出版1985年

草間八十雄   『不良児』玄林社、1936年

        『闇の実話』玄林社、1937年

酒井 真人 『カフェ通』四六書店、1929年

斎藤美奈子 『紅一点論――アニメ・特撮・伝記のヒロイン像』筑摩書房2001年

佐藤 愛子   『花はくれない―小説佐藤紅緑講談社1967年

 『血脈 (上中下)』文藝春秋2001年

高橋 康雄    『断髪する女たち――モダンガールの風景』教育出版1999年

高見 順・編 『浅草――その黄金時代のはなし』新評社、1978年

玉川しんめい  『ぼくは浅草の不良少年―実録サトウ・ハチロー伝』作品社1991年

野一色幹夫   『浅草紳士録』朋文社、1956年

平山亜佐子 『明治大正昭和 不良少女伝――莫連女と少女ギャング団』河出書房新社2009年

平野威馬雄   『懐かしの銀座・浅草』毎日新聞社1977年

        『平野威馬雄20世紀』大和書房、1980年

堀切 直人    『浅草』栞文庫、2004年 

        『浅草 江戸明治編』右文書院2005年

        『浅草 大正編』右文書院2005年

        『浅草 戦後編』右文書院2005年

南 博・編 『近代庶民生活誌? 人間世間』三一書房1983年

『近代庶民生活誌? 盛り場・裏街』三一書房1984年

宮中 雲子   『うたうヒポポタマスサトウハチローの詩と人生』主婦の友社1983年

柳田 国男   「妹の力」、『婦人公論』10月号、婦人公論社、1925年

老警子     『浅草風景』警察思潮社1935年

*1:ここしばらくずっと執着してるサトウ・ハチロー関連のお題のひとつとして。「不良少女」の語られ方やその変遷から見える何ものか、というのは、「無法松的なるもの」としての「男らしさ」の変遷とも突き合わせながら、もう少し大きな何ものかの輪郭を明確にしようとしてゆく時の割と頼りになる足場になるはず、と思っていたり。関連ご参考(´・ω・)つ「恐妻」とその周辺・ノート  - king-biscuit WORKS http://d.hatena.ne.jp/king-biscuit/20151224/p1 書評 サトウハチロー『僕の東京地図』 (1936年 有恒社) - king-biscuit WORKS http://d.hatena.ne.jp/king-biscuit/20160301/p1

*2サトウ・ハチロー不良少年時代の僕」『浅草』所収、成光館、1932年、p.127。

*3:野一色幹夫「トニー谷とお祭りの辰――“馬ッ鹿じゃなかろうか”にからまる浅草哀史」『浅草紳士録』所収、1956年、朋文社、p.62。

*4サトウ・ハチロー「隼おきんの貞操」『浅草』所収、成光館、1932年、pp.168〜188。初出が現状不詳なのだが、彼の随筆やエッセイの類を集めた最初の単行本『失恋大福帳』がその前、昭和5年に出ているので、時期的には昭和5年から6年頃にかけての初出と思われる。単行本収録の挿絵に描かれている「隼おきん」は図1(吉邨二郎・絵)。同書は装幀も吉邨二郎の手による。後に「ジロリンタン物語」のモデルとしてサトハチに描かれることになる、彼の盟友のひとり。

*5:サトウ、註3)に同じ、pp.170〜171。

*6: サトウ、註3)に同じ、p.175。

*7:サトウ、註3)に同じ、p.187。

*8サトウ・ハチロー不良少年覚書?」『文藝市場』2-4、文藝市場社、1926年、p.92『失恋大福帳』所収、素人社、1930年、p.267。

*9:サトウ、註7)に同じ、p.92。『失恋大福帳』所収、素人社、1930年、p.267。

*10:サトウ、註7)に同じ、p.92。『失恋大福帳』所収、素人社、1930年、p.269。

*11:このあたり、とりあえずの一般論としておさえておくなら、民俗社会におけるいわゆる「ムラ」の内側の年齢階梯制度としての若者組と娘組の間で、どのように性的な関係を結んでゆくか、という問いにも通じている。同じ「ムラ」の中の顔なじみ同士でいきなり「個」として性的な関係を結ぶことに対する半ば禁忌に近い感覚は、近世末期から近代にかけて、民俗社会レベルでは比較的広い範囲に共有されてきていた。それは、「ムラ」だけでなく「マチ」におけるそれら性的領域も含めた若い世代のコミュニティの共同性と性的領域の関係においても、基本的に同様のあり方を示していたようだ。

*12:学校内の部活動サークルなど、いずれホモソーシャルな色彩の強い若い世代の集団において、性的領域の属性を異にする「異物」としてのいわゆる「紅一点」的な存在が、何らかの条件が整うことでそのサークルの共同性に亀裂を与えて結果として破壊してゆくことは、現在も〈いま・ここ〉眼前の事象として観察できる。それらに対してある時期「サークル内恋愛禁止」といった処方箋が示されていたり、あるいはそのような「異物」に対して近年では「サークルクラッシャー」とより明示的に認識されるようになっていることなども含めて、「民俗」レベルも含めた歴史性においてなお包括的に考察されるべきものだろう。

*13:幕切れの部分、おきんのセリフはこのようなモノローグめいたものになっている。「「これで不良少年とのつきあひもおしまひさ。今度はもつと大きなものにとりかゝらう」おきんはさう言つて例の八重歯をニタリとさせた……」この「もつと大きなもの」というのが不明瞭だが、自身そこに属していたはずの不良少年という「仲間」を破壊した上での「もつと大きなもの」というからには、何か社会的な不正義に対する破壊をほのめかしていると、ひとまず考えられなくもない。いわゆるプロレタリア文学の隆盛期であり、彼サトハチの当時の交友範囲などを考え併せてみても、どこかマルクス主義的な脈絡での反抗や破壊といったイメージをそこに漂わせようとしていた可能性は推察できる。もっとも、だとしてもここはかなりとってつけたような印象が正直、強いし、何よりサトハチ自身にそのような思想的傾きはその後を通じて良くも悪くも稀薄で、むしろそのような生硬で性急な思想沙汰については嫌悪感を示して距離を置くようなところがあった。このへんは父、佐藤紅緑にも通じる感覚という部分もあるかも知れない。

*14:このような意識は何も戦後に限ったことでもなく、戦時中の前線のいわゆる慰安婦たちなどにも見られたことは記録に残っているし、俗に言う「玄人」の女性たち一般に当時は共有され得たような、普段はそうと自覚しないまでもどこかでふと顔を出す、そんな「民俗」レベルの意識のありようとして認識しておくべきだろう。

*15:作家であり詩人でもある書き手サトウ・ハチローという意味において考えるなら、このようなファンタジー方向での虚構性への志向は、もともとの資質としてあったものが、戦前よりもむしろ敗戦後の時期にこそ、一気に開花し、自身にとっても自覚的に使い回されるものになっていったように思える。特に女性という形象に関してのそのような志向性は、戦後彼を一気に国民的な有名人にした「おかあさん」シリーズの一連の詩作などにおいて、存分に滋養を与えることになったのだろう。

*16:石角春之助『乞食裏譚』文人社、1929年、pp.150〜153。

*17: 新堀哲岳『問題の街頭少年』章華社、1936年、pp.126〜127。

*18:「不良少年とは犯罪行為なし、または犯罪行為をする虞れのある少年と、不道徳行為を慣行したり、また不道徳な行為をする虞れのあるものをさしている。不道徳少年には、慣行的不道徳があることを必要とする。(…)不良少年にも本人の生活状態、家庭の監護能力で、学生、労働に従事する少年、その他の少年の三種を考えて分類していた。」(比留間一成『非行問題の軌跡』教育出版1983年、pp.11〜12)「街頭少年とは即ち時代の副産物である。現在の社會に於て生活戦上に活動して居る数十萬の少年労働者、ジヤズに踊る小遊藝人、生活否生きることのみに汲々として居る浮浪児、其他家庭より實社會に或者は家庭なき為め、或は家庭の破壊による犠牲者として、街頭に進出し現實生活を體験しつゝある少年少女達が如何に多く續出し来れるかを見よ!(…)所謂不良少年少女――それはよい言葉ではないからとて、非行少年、問題の子ども、嵐の子ども、要保護少年等の名前もあるけれど――此外成人の乞食或は行商に同伴される子どもカンカン蟲(船舶の錆落し等に従事する者)ヤンコ(船乗り業見習)等傳統的に、地方的に特殊生活を営む者もある。(…)兎に角此等の街頭少年は、其素質や環境に於ても相當問題になる事が多く、其生活が不規律、不安定であると共に放縦であり早熟である。」(新堀、註16)に同じ、pp.13〜15)

*19:このような美人局的な金品その他を奪う手口は、乞食の間で半ば自然発生的に始まっていたようで、それらが同性的な共同性によって集団を作っていた不良少年・少女の間に移行していったと思われる。関連して、大正期に見られるようになった現象として、少女が不良少年たちを率いる集団の存在があげられている。ここで糸口にしている「隼おきん」の語られ方がそうだし、その下敷きにされたとおぼしい「隼おせん」の事例でも、彼女は男女含めた部下を統率していたことになっている。その他、男顔負けの戦闘力と統率力を発揮し「直ぐ附近の天祖神社境内で、十四五人からの不良少年を向ふに廻して、きつつ、はつゝのチヤンバラをやってのけた」「大塚の時計屋の娘のキイ公」(石角、註15)に同じ、p.154)なども当時の記録に散見される。これらはそれまでの「硬派」系身振りが少女の側にも宿ったという形で語られているわけだが、ただ同時に、その彼女たちが美人局的仕掛けとして働くようにもなり始めていたらしいことは注意しておかねばならないだろう。その頃のサトハチが盛んに描いてみせている不良少女の「女の子」たちの多くが、そのような「硬派」「軟派」的な二分法をあらかじめ超越したところに跳梁しているかのようなありようを示しているのも、生身の彼女たちのある〈リアル〉を察知した記述だったはずだ。

*20サトウ・ハチローが書き手としてメディアの舞台に姿を現わすのは、まずは大正15年、新進の抒情詩人として詩集『爪色の雨』を、当時末席に連なっていた雑誌『文党』などの関係で今東光らの肝煎りで出版した頃からだが、それ以前、紅緑の放蕩息子としてさまざまな年上先輩たちの間を右往左往しながら可愛がられていた時期、福士幸次郎西条八十に詩人としての資質を見出されていたし、また先の今東光金子光晴平野威馬雄、さらに東郷青児横山隆一、吉田謙吉に菊田一夫といった、文学から芸術、舞台、後には音楽や映画関係などまで含めた年格好の近い仲間たちとの交流も幅広くあったのは、彼自身の人なつっこさや磊落さなどの性格もさることながら、佐藤紅緑の息子として生まれ育った環境のなせる部分がやはり大きかっただろう。その後、短い雑文や断片、随筆の類の注文も少しずつ増え始め、 『文藝市場』や『譚海』から『新青年』『改造』『中央公論』などの比較的大きな雑誌にまでも執筆機会が与えられてゆく。とは言え、真正面からの小説や論説を張るようなことはなかったし、またジャーナリズムでの扱われ方も「ユーモア」「ナンセンス」「モダン」系の軽い読みものやコラムエッセイ的な原稿を期待される、言わば「色もの」的なものだった。

*21:サトウ、註7)に同じ、p.92。『失恋大福帳』所収、素人社、1930年、p.267。

*22サトウ・ハチロー不良少年覚書?」『文藝市場』2-6、文藝市場社、1926年、p.102。『失恋大福帳』所収、素人社、1930年、p.269。梅原北明が手がけていた雑誌『文藝市場』は、梅原自身がサトハチの「不良少年もの」に早くから眼をつけていたようで、この時期まだそれほど有名になっていなかった彼の原稿をマメに掲載している。ただし、この後雑誌が急激に政治化思想化してゆくと、サトハチの名前はフェイド・アウトしている。

*23:サトウ、註21)に同じ、p.103。『失恋大福帳』所収、素人社、1930年、p.272。

*24:サトハチは、異性としての女性を「女の子」と呼びかけるような記述を早い時期からしている。「女」ではなく「女の子」と呼ぶのは、生身の年齢が彼より年下の若い女性に対してということだけでなく、そのように呼ぶことでその「女の子」との関係において彼自身を「お兄さん」と位置づける効果をもたらしていたはずだ。実際、初期のカジノ・フォーリーの楽屋において、楽屋を訪れるファンなり後援者といった立場の男性に対して踊り子たちが「お兄さん」と呼ぶことが一般的だったことが言われている。同じ時期、柳田國男が「妹の力」で示唆していたような、大正期あたりから見てとれるようになっていた「兄と妹」の関係の微妙な変化にも通じるような、ある種の性的領域も含めた生身の表現のありかたの変貌が、この「女の子」と「お兄さん」という互いの呼びかけ方を必要としていたのだろうと推測している。このあたり、先に触れた「硬派」「軟派」の二分法をあらかじめ越えたところで表出されるようになっていた当時の「不良少女」のありようを考える上でも、周囲を固めて今後、もう少し深めて考えてゆかねばならない。

*25サトウ・ハチロー不良少年懺悔録」『浅草』所収、成光館、1932年、p.159。

*26サトウ・ハチロー「僕の浅草」『浅草』所収、成光館、1932年、pp.25〜26。

*27サトウ・ハチロー「おりきと僕」『失恋大福帳』所収、素人社、1930年、p.181。

*28今東光「嫖客」『嫖客』所収、徳間書店1976年、p.46。

*29:眞野律太「浅草に寄する」『浅草』前書き、成光館、1932年。眞野は博文館の編集者で『譚海』などを担当、戦後は落魄して『宝石』編集部で校正を手がけていたようで、小林信彦の小説「隅の老人」のモデルとも言われているが、この時期のサトハチとどのような関係があったのかなどは今後の課題のひとつになる。

*30: サトウ、註25)に同じ、 p.23

*31:「浅草に多少でも興味を持つてゐる人なら、土堤のお金と言へば、「あゝ、あの飲んだくれの乞食淫賣が」と首肯くであらう。それ程お金は有名で、而も非常な酒好きである。だから金があると、たらふく飲んで、時々往来等に轉がり変態見世物ではないが木戸なしに有りがたい所を拝まして呉れると言ふまでにのた打ち返へり「矢でも鉄砲でも持つて来やがれ、己れを何んと思つてやがるんだ、馬鹿野郎」と、全く男のそれのように、毒々しい啖呵を切り、群衆達を罵倒するが、誰れ一人それを聞咎める者もなく皆一様に、嬉し気に高らかと笑つてゐる。」(石角、註15)に同じ、p.80……イタリック部分は版面では欠落しているのだが、手もとにある版では手書きの青インクにてこの個所がこのように記入されていた。)「お金は十六で川越へ酌婦に賣られた。旗本が明治維新で落ちぶれたのだ。川越を振り出しに浮草だ。そして、明治三十年頃、三十一で東京へ舞ひ戻つたのだ。吉原土手の銘酒屋だ。酒亂と、前科と――「土手のお金」の名が高くなった。しかし、五十に近くなると、彼女はもう街に男の袖を引いて、木賃宿を渡り歩くよりしかたがない。それもやがて六十が近くなつては、物かげで稼がなければならなくなつたのだ。(…)相手がたいてい浮浪者だからだ。六十にでのたれ死にしたのは、お金のせめてもの死花だつたのだ。死ぬまで女として働いたからだ。ツブやダイガラまで落ちずにすんだからだ。酔つぱらつて啖呵が切れたからだ。」(川端康成『浅草紅團』先進社、1930年、p.195) その他、「土手(堤)のお金」については草間八十雄その他、複数の言及がある。草間については「ゴウカイヤの強か者土手のお金」(『犯罪科学』1-2、1930年)、「土手のお金は生きてゐる!」(『犯罪科学』2-5、1931年)、「売笑生活四十年(土手のお金遂に●る)」(『犯罪科学』3-4、1933年)などを参照のこと。

*32川端康成『浅草紅團』先進社、1930年、PP.26〜27。

*33:「浅草紅団」に記されている当時の浅草やその界隈での「見聞」や「体験」という体裁を取った細部やディテール、あるいは挿話の類の中には、このようなその他の記録や記述を下敷きにしたとおぼしきものが多くあり、書き手である川端がそれらを巧妙に散りばめ、配置してゆきながら独特の作品世界を構築していることは、いわゆる文学研究や文芸批評といった領域のみならず、すでにさまざまな角度から論じられ、指摘されているが、文芸作品などの引用や参照関係とは別に、このような不良少年・少女や乞食、芸人などにまつわるそれら細部や挿話の類にも、当時のジャーナリズムに流通していた書物や記録などから引き写したとおぼしきものは少なくない。この「からたちおしん」や先の「土手のお金」がそうだが、その他「銀猫梅公」の挿話の主人公梅吉の話なども、「猫取り伊三公」(鈴木賀一郎『不良少年の研究』大鎧閣、1923年、pp.176〜182)に依拠しているのがわかる。ちなみに、他でもないサトウ・ハチローもまた、「アサクサ・サクサア」(『恋愛大福帳』所収)からの冒頭の一節が引用されつつ、「浅草通の佐藤八郎さんは、「東京猟奇座談会」といふものに出席して、開口一番、「不良少年も食へなくなりました。」それかあらぬか「腕」はすたつて、美しい少女を團長にいただくことが、近頃のはやりであるといふ。」として言及されている。(川端、註31)に同じ、p.202)

*34:鈴木賀一郎『不良少年の研究』大鎧閣、1923年、P.83。

*35:鈴木、註33)に同じ、p.119。

*36:前田誠考「隼おせん」『罪の子となるまで』所収、共楽社、1925年、p.20。

*37:前田、註36)に同じ、pp.22〜3。

*38:サトウ、註26)に同じ、pp.174〜176。

*39:サトウ、註26)に同じ、p.183。

*40サトウ・ハチロー『青春風物詩』東成社、1952年、p.156。

*41:サトウ、註39)に同じ、pp.184〜185。

*42:サトウ、註39)に同じ、pp.186〜187。

*43:サトウ、註39)に同じ、p.189。

*44: サトウ、註39)に同じ、p.190〜191。このしんがりから同じようにペチャペチャと、「しかししんがりなるが故に、みんなより一層ハデな音を」立てる、そうしてしまうし、せざるを得ないのが彼サトハチの、「仲間」のホモソーシャルな共同性に抱かれるその抱かれ方だったのだろう、良くも悪くも。そして、このような記述このような描写をうっかりと、このようになめらかな呂律を伴い、まさに「うたう」ように現実のものにしてしまう、その程度にやはり彼の叙情詩人としての資質は、どこかで「民俗」レベルと下方に通底するような構造を持っていたらしい。

2017/01/30 (月) 宗教問題

リベラルにとっての悪夢の現前化

トランプ現象に学ぶべきこと

 話題沸騰、就任早々自らの選挙公約に沿った大統領令を立て続けに署名アメリカのみならず世界に予想以上の大きな波紋を投げかけ始めているトランプ大統領。彼の出現は、われわれ日本人は果してそのアメリカについてどれだけのことを知っていたのか、そのことを改めて振り返ることを求めています

 大統領選下馬評ではとにかくヒラリー圧勝、その後もつれた戦況になってきたことが伝えられても「それでも民主党代表されるリベラル勢力が勝つのが当たり前だし、それがアメリカの、ひいては世界良識」といったおおまかな認識で片づけていたのが、わが日本マスコミ以下メディアの「報道姿勢でした。

 社会的タテマエとしての「リベラル」、わかりやすく言い換えれば「民主的」「良心的」な考え方や価値観などがタテマエとして許容されなくなった。いや、前々からなんだかなぁ」とは思い、感じながらそれ以上の態度表明は控えてきた、控えざるを得ないような空気の中で生きてきたその他おおぜい普通の人たちがはっきりと、その「なんだかなぁ」を形に表わしてしまった、トランプ当選という事態は実にそういうことだった面は否めないようです。

 われわれの知り、かつそういうものだと思ってきたアメリカとは、西海岸ロサンゼルスサンフランシスコ東海岸ニューヨークワシントン限定アメリカだったらしい。海外旅行にホイホイ出かけられるようになっても、あの広大な大陸の大部分で暮らしているその他おおぜい普通アメリカ人が日々どんな仕事をし、どんなものを喰い、何を感じて生きているのか、そういう具体的な背景については残念ながら、ほとんどろくに知ることがないままだったらしい。情報社会と呼ばれweb介して自由自在世界中のあれこれが手もとの端末に送られてくるような世の中になっても。いや、もしかしてそういう世の中になったからこそ、かも知れませんが。

 「アメリカニズムとは何ぞや? それは自動車であらう、飛行機でもあらう、映画でありラヂオであり、スポーツ、ヂャッズ、トラスト金融資本等々、今日アメリカの高速度機械文化代表するものは、幾色もあるが、そのすべてに浸潤し、すべてを著色して、すべてに勝って、一層アメリカアメリカならしめてゐものはその独自ジャーナリズムである。(…)アメリカニズムジャーナリズム――現代が生みだしたこの二つの姉妹語、否同意語の意義を掴むものこそ、時代の鍵を握るものであるといはねばならぬ。」

 1929年というから、今から90年近く前の「アメリカ」についての認識です。筆者は、当時新進気鋭の書き手として縦横無尽活躍をし始めていた若き日の大宅壮一第一次大戦後の世界で荒廃したヨーロッパを尻目に、無傷だった新興工業国としてのアドバンテージを存分に発揮できるようになったアメリカが、その工業力を前提にした生産物だけでなく、大衆文化の側面でも世界存在感を示すようになってきた。映画ジャズは当時、その象徴として受け取られ始めていたようです。それは当時の東京大阪などごく一部の都市部の、それも限られた層にとってのアメリカだったにせよ、でもこの数年後、頭上にB29介して焼夷弾爆弾を雨あられと落とすアメリカについての大方の同胞にとってもそれ以上の情報はなかった。今もなお、同じことは単に日本アメリカの間だけでなく、足もとの日本国内東京象徴される「マチ」とそれ以外についても、メディアを介した情報流通と受容の構造として健在のようにあたしには思えます

2016/12/22 (木) IZA! (産経新聞web版)

橋本善吉とヒカリデュール

 有馬記念 2016年

 有馬記念は、スタンド右斜めうしろから夕陽と、黄色く枯れた芝の色だ。今みたいな洋芝の、管理万全行き届いた馬場でなく、11月にゃもう見事に枯れちまう昔の芝馬場に、釣瓶落としの暮れの陽がさしている。

 スタートはほぼ正面からの迎え陽に始まり四角あたりまで、いい感じの陽の光を浴びて馬たちが駆けてゆく。1周目スタンド前で日陰に入る。それまで光の中にいた馬たちは一瞬、毛色もわからないほどのアンダー気味の一群となって駆けてゆく。着ぶくれたろくでなしたちから拍手と歓声、そして思い思いの怒声やかけ声の祝福も共に投げかけられて、もう一周の旅に。再びの向こう正面から二周目三角過ぎあたりから出入りが激しくなって、一気に競馬競馬になる。さっきより気持ち深くなった、その分鈍い琥珀色にもなった斜陽の中、勝負どころの四角から直線、中山のあの深い坂下、見る位置によっては馬群が見えなくなるかとさえ思うそのわずかな時間の後に、年の瀬英雄たちはスタンド前の日陰の中に次から次へと姿を現わす、その光と影とのコントラストに煽られるのが、気分だ。

 あとはもうどうでもいい、贔屓の馬、目当てのノリヤクめがけて息を詰めたまんま、あるいは丸めた予想紙を片手に振りかざし、あるいは両手拳を握りしめ、いずれ精一杯、渾身の応援をしてやる数十秒の至福。ああ年末最後の大勝負有馬記念は「グランプリ」の光景とは、いつの年も概ねこんな感じで記憶の銀幕に再生されることになっていた。

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 ヒカリデュール、という馬がいた。

 当時「マル地」とシルシつけられた地方競馬出身の豪傑。母系サラ系、そこまで目立った戦績でもなかったものの、大井から名古屋は土古経由で中央入り。見立て通りに芝馬場があったらしく、後方待機からの眼のさめるような差し脚を繰り出し頭角を現わし、始まって2年目のジャパンカップでも勝ったハーフアイスからコンマ3秒差の5着入線は前年第一回、浦和ゴールドスペンサーに続く日本馬最先着で、僚馬カズシゲの6着と共に「マル地」二頭のまずは大殊勲。同じ河内鞍上に、そのまま1982年は暮れの有馬へと矛先を向けた。

 あの年の有馬は雨だったか、降ってなくてもガチの重馬場。ただでさえ暗い暮れの中山がほんとにとっぷり暗かったという印象がある。レース出遅れ最後方追走、それでも最後最後、あれは確か渋谷新宿の場外のモニター越しだったけれども、ほんとに一瞬何が起こったかからないくらいの末脚でゴール前、一気に飛び込んできたのが真っ黒なその一頭。内側ラチ沿いでほぼ勝ちを手にしていた当時の最強馬アンバーシャダイを、きっちりアタマだけ差しきっていた。ああ、平日真っ昼間っから開催してる地方競馬ってやつにゃ、実にこういうとんでもない馬がうっかりひそんでるんだ、ということを、泥まみれの赤と黄色橋本善吉氏の服色と共に、満天下に思い知らせてくれたものだ。地方競馬通いにより深く、足踏み入れるようになった頃の、今となってはもう昔話。

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 今年は、キタサンブラック。父はディープインパクトの全兄とは言え、ぶっちゃけ愚兄賢弟なブラックタイド。生まれも天下の社台サマご一統ではなく、日高新冠福満のヤナガワ牧場。前走ジャパンカップでの逃げ切り完勝は、鞍上ユタカの腕もさることながら、馬自体が間違いなく力をつけていることの改めての証明だった。ここはもちろん人気になるし標的にもなる、馬券的にも展開的にもおもしろくないけれども、しかし敢えて、敢えてあの「サブちゃん」のこの馬に期待したい。地方競馬も含め、どれだけ競馬が好きで、好きな分どれだけマジメにこれまで損をしてきたか、その片鱗くらいははばかりながらこちとらとて見聞きしてきている。紅白引退たかも知れないが、なんのその分、暮れの中山でもう一度、あの「祭」を聴いてみたいってもんじゃいか

 セントサイモンの首ざしだよなあ、とこれは先日、日高のある馬喰がしたたか酔っぱらっての回らぬ呂律で、ふともらしたひとこと。え、なんでまたセントサイモンなのよ、と首ひねっていると、いや、ジャパンカップでな、と濁った眼を向けてきた。あの時の、パドックじゃなくゲート前での輪乗りの様子を見ていて、ああ、ほんとにこれは素晴らしい競馬ウマになったなあ、タネ馬になってもひと勝負預けたくなるような馬だなあ、ヤナガワさんきっちり権利持っといて欲しいなあ。

 かつて昭和の終わり、世のバブル任せに競馬もまた天井知らずうかれていた時期に、その最先端修羅場で見るべきものを見てきた百戦錬磨、老いたりとは言えど未だ手練れのうまやもんの一言。いいや、最後背中押されたんだ、乗ってみる。

 相手は、同じく前めにつけての勝負もできる馬たち。中山だとあとひと脚伸びてくれそうなゴールドアクター、ここに来て充実著しい伸び盛りシュヴァルグランに、牝馬ながら気楽に乗れれば一発ありそうなマリアライト、万一、先行勢が削りあうような乱戦での伏兵アルバートあたりの突っ込みまで考えておきたい。話題若武者サトノダイヤモンドは年明けて以降が本領と見てここは着まで、キタサンに2連敗中の人気者サウンズオブアースも、勝負づけはすんでいる、と共に敢えて判断、ここは眼をつぶって軽視しておく。徹底マークで捨て身のつぶしを仕掛けてきそうな馬もいるが、そこはそれ、どうやら巷のろくでなしたちのイメージ以上に強くなってるらしいこの馬の底力世界ユタカの腕前を再度、黙って信頼しよう。

2016/11/04 (金)

 「科学」と忠誠心、あるいは信心

 「論文」という形式がある。いや、あるのはそんなもの知ってるしそれがどうした、なんだが、近年どうにも納得いかないのはその形式に対する忠誠心みたいなものをなんでそこまで要求されにゃならんのだろう、ということだったりする。まあ、一般的に言えば、「科学」の二文字に対する忠誠心と置き換えられるようなもの、では本来あるんだろうが、ただ同時にそれは、自然科学とそれに準じる約束ごとに対する信心深さに裏打ちされた忠誠心の身振り、でもあるわけで、日本語母語とする環境でのいわゆる「人文系」にとってそれはさて、どれほどの重さを持ち得るのか、そのあたりのことが正直、まるでわからんまんまの30年あまり、ではあるのだからして。

 「書く」という営み、書いて文章して何ごとかを表現するということと、その「論文」という形式関係もっと言えばその形式必然的要求してくる言葉もの言い、文体などに至るまでの約束ごとのあれこれまでもが、どうしてそんなに否応なしに必然として押しつけられる世間があるのだろう、という疑問。好き勝手に書けばいいじゃないの、という初発の時点に抱いた感慨が未だにずっと尾を曳いている。

 柳田国男がそういう「論文」という形式に忠誠を表明したものを果してどれだけ書いていたのか、てなことは大昔から言っていた。もちろんほとんど何の反応もないままスルーされてたのだが、玉石混淆汗牛充棟てんこもりのいわゆる柳田研究界隈でも、このへんのことを納得いくように解きほどいてくれたものは、寡聞にして知らない。彼が「科学」なり「学問」というもの言いを使う時におそらく込めていただろう何ものかの、時代を超えてゆけるだけの射程距離というのは、戦後過程自明になった(と思われてきていた)自然科学前提の科学そのままというわけでもなかったのではないか、という疑問は同じくずいぶんと前からわだかまったままになっている。