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2016/09/16 (金) iRONNA

【常民】の顔で

「こち亀」終了に寄せて

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 通称こち亀」。この短く端折った呼ばれ方こそが、今様読み物文芸としてのニッポンマンガ栄光である

 人気マンガ作品がこのように略して呼びならわされるようになったのは、概ね80年代から90年代にかけて。『少年ジャンプ』の600万部以下、週刊誌でのマンガ商品がそのようなとんでもないオーダーで流通し消費されるようになった戦後ニッポンマンガ黄金時代。そういう当時の情報環境があって初めて、「スラダン」「ゴー宣」その他、人気を博したマンガ作品にこのような呼び方があたりまえにされるようになっていた。連載開始以来今年で40年、ということは当時でもすでに20年ほどたっていた、そしてその間必ずしも第一線の人気を維持し続けていたとは言えない作品が「こち亀」と呼ばれるようになったのも、毎週の人気投票で生き残りが決められる最も苛烈な『少年ジャンプ』という場でその時期まで、そしてその後も今日まで、しぶとく粘りに粘って生き残っていたからに他ならない。まずはこのことを、あの両さん以下「こち亀世界の住人たち、そして作者の秋本治さんのために喜びたい。

 とは言え、すでにこの「こち亀」の終了をめぐっては専門家含めていろんな方がそれぞれの視点コメントしている。ここでいまさら屋上屋を架すのも野暮、ということで一点だけ。「こち亀はいま、この時期に自ら幕を閉じてみせることで、マンガが正しく「通俗であることに改めて思い至らせてくれた、このことをちょっと述べておきたい。

 足かけ十数年、のべ140本以上のマンガ作品を取り上げてきたテレビ番組BSマンガ夜話』でも、「こち亀」は扱っていない。何度か候補にあがってはいたけれども、結局流れたのは、分量が多くて出演者がきちんと読み込むのが大変という物理的な制約と共に、やはりどこかで「連載」もの殊にこのような長期連載となったある種国民的規模での「おはなし」が必然的に帯びざるを得ないある種の通俗性に対して、敬して遠ざける意識がどこかで働いていたのかも知れない。そう言えば、「サザエさん」も取り上げていなかった。「ドラえもん」や「ゴルゴ13」は頑張って取り上げたのだけれども。

 「連載」という形式での「おはなし」というのは、何も活字やそれに類する紙に印刷された媒体に限らず、寄席その他の生身の上演や口演における続きものなども含めて、どうやらわれらの社会にある時期以降、宿ってきたものだった。新聞雑誌には連載小説があったし、それらは売り上げを左右する重要コンテンツでもあった。NHKの「朝ドラ」が未だに「連続テレビ小説」と称していることを思い起こしてもらってもいい。それまで月刊だった子ども向け雑誌が週刊になり、活字主体の読み物など他のコンテンツと並べられていたマンガ独立した専門誌になっていったのは高度経済成長の始まる頃。ラジオもまた、戦前はともかく戦後はそれら続きものを主な武器にしてきたし、新しいメディアテレビもまたその習い性に従った。新たな情報環境に宿る「連載」「続きもの」の「おはなし」は、そのようなわれらの日常、日々の暮らしのあたりまえになってゆき、それらを介して浸透してゆく価値観世界観、素朴な道徳や世を生きてゆく上での約束ごとといったものもまた、わざわざそうと意識せずともある種の「教養」として人々に共有されるようになっていった。それはわれらの社会における「意識されざる公教育」でもあったのだ。

 そのように「連載」「続きもの」としての「おはなし」をそれこそまるで空気のように、自然にあたりまえに呼吸する/できる環境にわれわれは生まれ、育ってきたらしい。週刊誌マンガ専門媒体複数林立し、それらが最盛期には数百万部規模での市場を獲得、当然読み手もまたそのオーダーで編成されていった社会、そして時代というのがすでにあった。そのことの意味やとんでもなさについて、おそらく当のわれら日本人自身が未だよく思い至っていない。「サブカルチャー」などという目新し気なもの言いでひとくくりにして事足れりという考えなしが昨今、また事態さら不透明にしてゆき、同情薄い「分析」「解釈」「批評」のひからびたことばの手癖だけが得意げにそれらを後押ししてゆく。

 けれども、確かなことがある。今回の「こち亀」終了をめぐって、メディア舞台の外で、さまざまな人たちがさまざまにその「想い」を語っている。もちろん単行本を全部揃えているという人は少ないだろう。けれども、人生のある時期「こち亀」と出会ってそのことから何かを受け止めていっただろう、国民的規模での「意識されざる公教育」の果実は、全て見通すことはできずとも、間違いなくこの時代の眼前にある。40年という年月、単行本にしてのべ200巻という規模の「おはなし」の集積は、おそらく「研究」や「批評」「評論」の土俵に正当に乗せられるまでにはまだしばらくかかるだろう。だが、そんなことはどうでもいい。マンガは昔も今も、正しく「通俗」であり、「通俗であるがゆえの〈リアル〉を静かに宿しながら眼前にたたずんでいる。「こち亀」がいま、自ら幕引きすることで思い至らせてくれたそのことは、あらゆる知的なことばやもの言いが軒並み煮崩れ、信頼を失いつつあるかに見える〈いま・ここ〉の日本語環境において、それらのことばの失地回復を志す立場にとっての福音にもなるはずだ。

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2016/08/15 (月) 宗教問題

「世俗化」ということ

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 学生時代、と言っても、すでに還暦視野に入ってきた年格好のこと、ざっと30年以上も前のことになってしまいますが、宗教学宗教社会学人類学といった名前講義で「世俗化」ということを繰り返し聞かされました。「聖」と「俗」といった図式と共に、「宗教」という日本語を眼にし、耳にするたび、未だに半ば反射的に想起されるもの言いのひとつです。

 欧米キリスト教を前提にしたそれら「宗教」関連の冠のついたガクモン分野の枠組みは、そのままでわれらのニッポン適用できるものではない、そもそも「聖なるもの自体欧米のそれとは別もので、社会のありようやそこに否応なくまつわる歴史の経緯、それらを貫く文化態様など複雑な要素がからみあって、ひとくちにきれいさっぱり割り切れるものではない、だから世俗化」というのもそのまま教科書めいたリクツ通りに当てはめられるものではない――ざっとこんな議論が当時、盛んだったように覚えています

 宗教学であれ何であれ、そのような現象を「宗教」という枠組みから正面から考えるような仕事をこれまであまりしてこなかった身のこと、その後の斯界の事情はほとんど部外者のままと言っていいのですが、先日たまたま折り目正しい宗教系ガクモンの専門家お話しする機会があった時、この「世俗化」というのは高度経済成長以降、現在眼前のできごとしてニッポン社会に生起している現象相手取ろうとする時にずっと重要課題であり続けている、ということをさらっと聞かされて、ああ、なんだつまりはそういうことだったんだ、とひとり納得するところがありました。

 分野や専門領域の違いなどを超え、いずれとりとめないナマもの現在、目の前で生起しているさまざまな事象現象をどのようにことばにし、手もとで扱えるようにしてゆくか、ということが、日本語環境ものを考えようとする時の同時代的問いであり続けている。そう、問題はつねに「現在」であり〈いま・ここ〉なのであります。それらをなるべく活きた手ざわりのまま、ことばにし素材にしてゆこうとする時に、分野や専門領域の違いなどはひとまずどうでもいい。手にする術語や概念その他道具立ての違いなど以前に、素朴な問題意識としてのそのような「現在」が切実なものとして自分のものにできているかどうか、まずはその一点において信頼できる知性か否かの分岐点があらわになってくる。

 その専門家とはその時、昨今話題の「ポケモンGO!」についての印象などを軽くやりとりして別れましたが、かつて初めて「ポケモン」が世に出てきた時、「ポケットの中の野生」などと当時流行りの美辞麗句でまぶしてそれらをあげつらい、にわかに世の耳目を集めていた「宗教専門家などとはまるで違う、淡々と眼前の〈いま・ここ〉としてそれらの現象を、ただ「そういうもの」としてまずとらえようとしてきた視線が感じられて、あたしなどのガクモ外道にとってもなかなかに心地よい印象を残してくれるものでした。「世俗化」こそが、今のわれらの日常を律する、ある種の規律になっているのかも知れません。

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2016/05/13 (金) 宗教問題

そして「遺骨」は粉になる

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 骨を「処理」するサービスが、また一段とさまざまな形になってきているようです。骨、つまり「遺骨」のことなのですが。

 人が死んで、火葬に付された遺体は遺骨になる。これまでは通常、骨壺に収めてそれを墓地に埋葬するという形が一般的だったわけですが、ミもフタもなく言えばそれはつまり「骨」、犬や猫、あるいは魚などにもある同じ物質、単なるモノであることには変わりないわけで、昨今の墓地不足などともあいまって、これまで墓石の下に埋められるものであったそれら遺骨を取り扱うやり方にも、静かな変化が起こってきているようです。

 「散骨」というのは、以前から話題になってきてはいました。それに伴う法律も含めた制度的な環境整備も行われてきて、これはこれである程度の認知をされた方法にはなっている。この散骨形式が整えられたこと、つまり散骨するためにはそれが人の骨だとわからないような形にしなければならない、という制度的な枠組みができたことがひとつの引き金だったのでしょう。これまでのような「遺骨」という意味づけから離れた、単なるモノと化した骨の「処理」の仕方について、多様な選択肢ビジネスとして提示されるようになっているようです。

 たとえば、遺骨をまず粒の細かな粉末にする。そうしたモノを固めて処理してペンダント指輪など、何かそういう身につけたり身近に置いておくアクセサリー記念品的なモノにする。あるいは、そこまでしなくても、粉末のまま骨壺的でない何か別の容器――ガラス金属を使った、いずれオシャレな形のものが多いようですが、そういう収納の仕方で家の中に置いておく。当然、これまでの墓地や墓はもとより、仏壇などの祀る場所も変わってこざるを得ないわけで、すでにそれらを総称して「手元供養」という呼び方も専門の業者によって使われ始めています。このへんは宗教関係含めて「死」を仕事として扱われている方々などからすれば何をいまさら、なのでしょう。

 気になるのは、「ペットと一緒に」モノにしてゆくことも、なにげに選択肢に入り始めていること。いや、すでにペットと入れる墓地や、供養を受け入れる寺などが出てきていますし、それもまた時代の変化なのでしょうが、ただそれら「遺骨」が単なるモノとしての骨、粉砕され粉末状の骨粉でしかなくなってしまうことが、肝心の「死」の意味、生身のいのちひとつのサイクルを終えるということそれ自体のわれわれの中での位置づけなどにどういう影響をこの先与えてゆくものなのか、そのへんの目算や覚悟もまた、併せて整えてゆかねばならない時代になってきているようです。

 「遺骨」がそのようにただの骨粉になってゆくのなら、それを肥料として自然に戻す、そういう供養すら地続きの未来にはあり得るのかも知れません。

2016/03/22 (火) 正論

「政治」にめざめた「若者」像(´・ω

「SEALDs的なるもの」について

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―――政治とは、単なる政治思想イデオロギー、政策沙汰から党派や派閥離合集散といった要素だけで解釈してしまっていいものでもない。誤解を恐れずに言えば、そんな表象と解釈、さらには芸能の範疇に含まれ得るような領域までまるごとひっくるめて、政治という〈リアル〉は〈いま・ここ〉に埋め込まれている。


 「若者」と「政治」が露出してきている。

 昨年6月、戦後70年ぶりに選挙権年齢を18歳以上に引き下げる公職選挙法等の一部改正が行われた。これは憲法改正が具体的な政治課題として考えられるようになった過程で、それに関する国民投票法その他、各種の既存の法律法規間の整合性をとるための言わば副産物といった経緯で実現した面もあったようだが、それらの経緯はともかく、いずれにせよこの夏に予定されている参議院選挙から、実際に18歳以上の「若者」が新たに選挙権を行使することができるようになった。

 人口統計によれば、18歳19歳の日本人人口は男女あわせて240万人ほど。一方、現在日本有権者数は一説には1億人ちょっと。ここに240万人規模の「若者」が新たに加わっでも有権者数全体からは現状、僅かなものかも知れないが、しかしこの絶賛進行中らしい少子高齢化社会現在、しかも有権者のうち60代以上の高齢者の比率が40%ほどを占めると言われる現状で、現実にこれから先何十年もの間生きてこの国を支えてゆく若い衆世代の240万人というのは、今後の選挙のあり方を考える上で、実際に彼ら彼女らが示すであろう目先の投票行動とは別に射程距離の長い、言わば社会的文化的意味での影響をさまざまにわれわれのこの国この社会に与えてゆく可能性があるだろうこともまた否定できない。世代人口としてはその程度の「票田」でしかないにせよ、いずれ政党政治リアリズムからすれば何らかの手当てを講じねばならないのは必定。若年層の構造的貧困などと共に「若者」をターゲットにした政策的提言玉石混淆保守革新問わずに眼につき始めている。

 と同時に、それらの流れを作り出すメディアの手癖にもまた、合焦しておかねばならない。「若者」と「政治」をめぐってわれわれの社会にすでに刷り込まれてしまっているらしいある意味づけや解釈、それらを下敷きにした語り口が、いまどきの情報環境を介してどこか過剰に演出され、メディア舞台を介して日々のわれわれの意識の銀幕に、見てくれよろしく麗しく、派手にきれいにきらびやかに投映されるようになっている。それはすでにいつの間にやら知らぬ間に眼に馴れ耳になじんだ、その意味では世代を超えて受容される国民的演目のようであり、ゆえにどこか民話のようななつかしささえまとっている上演コンテンツになってもいる。そのことは、おそらくは巷間考えられているよりもずっと切実に、〈いま・ここ〉で「政治」を考えようとする上での重要な焦点のひとつになっている。


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 SEALDsという「若者」団体がある。「政治」に関わっている。20代前半から半ば過ぎ、現役の大学生がとりあえずは表看板として活動しているように見える。そう見せているということも含めて、そういう「若者」ぶりが売りになっている。

 昨年の夏頃から、街頭でのアピール活動やデモの様子がテレビ雑誌新聞などを介してメディア舞台に繰り返し取り上げられるようになっていた。9月には、参院平和安全法制特別委員会安全保障関連法案に関する中央公聴会意見表明する「公述人」として複数のメンバーが招かれ、この時の様子も例によってテレビその他に大きく、概ね好意的に紹介されていた。その後もそういう流れは続いている。

SEALDsシールズ:Students Emergency Action for Liberal Democracy - s)は、自由民主的日本を守るための、学生による緊急アクションです。担い手は10代から20代前半の若い世代です。私たちは思考し、そして行動します。

 私たちは、戦後70年でつくりあげられてきた、この国の自由民主主義伝統を尊重します。そして、その基盤である日本国憲法のもつ価値を守りたいと考えています。この国の平和憲法理念は、いまだ達成されていない未完のプロジェクトです。現在、危機に瀕している日本国憲法を守るために、私たち立憲主義生活保障安全保障の3分野で、明確なヴィジョンを表明します。

                    http://www.sealds.com/ (彼らのホームページから。以下同じ)

 もともとは一昨年、「特定秘密保護法に反対する学生有志の会」として立ち上がったものの由。「ムービー文章による情報共有や、新宿渋谷に集まった学生デモ施行日での官邸前抗議行動など」を行い、その後は「沖縄辺野古基地問題に関するアクション」にも関わってきている。政治的立ち位置としては明らかにいわゆる「左」、昨今よく使い回されているもの言いだと「リベラル」ということになる。事実、彼ら自身そう自認している。

 リベラル勢力の結集にむけて

 私たちは、現政権政治に対抗するために、立憲主義生活保障平和外交といったリベラル価値に基づく野党勢力の結集が必要だと考えます。この野党結集は、市民政治参加を促し、機能不全が嘆かれて久しい代表制を活性化させる、新しい政治文化を創出する試みです。

 「学生」有志の組織と言いながら、短期間で東京大阪沖縄など全国に複数の拠点を展開、中心的な活動メンバーは一説には約400人、それらを中心に各地でさまざまな抗議活動反対運動を迅速機敏に繰り広げられるのには何か背景や後ろ楯があると見るのが自然なわけで、実際に現場には各種既存の政治団体組織の姿が入り交じっているのは政治的立ち位置の如何を問わずこの種の運動のお約束光景。もちろん、webを介した情報環境がここ10年ほどの間にまた一段と異なる様相を呈し始めている分、彼らが具体的にどういう「若者」なのか、出自や背景、生まれ育ちなどは、といったいわゆるゴシップ的で下世話な、しかしだからこそある種本質的な世間の側の興味関心まで含めてリアルタイム匿名性を伴いながら襲いかかるのがいまどきの情報環境。しかも24時間途切れることのない常時接続環境で、ほぼひとり1台と化したスマホ系端末を実装した匿名の「個人」の海が拡がっているわけで、、このSEALDsもみるみるうちに丸裸にされ、昨今「リベラル勢力の結集」を唱える界隈の別働隊、ありていに言ってそのようなオトナたちに踊らされる操り人形であることが、webを中心に露わにされていった。それらの経緯や個々の断片については、この場ではとりあえずどうでもいい。ことが「政治」であれ何であれ、いずれ〈いま・ここ〉の〈リアル〉とはとにかくそういうものになっている、良くも悪くも。

 考えておきたいのは、にも関わらず表のメディア舞台ではそのような背景や事情については見事なまでに「隠されている」、そのことだ。「若者」のやむにやまれぬ問題意識から「自発的に」発生してきた「政治」運動という装いを、まるで何か申し合わせでもあるかのように横並び一律に守った報道に終始している。それは何も「リベラル」界隈だけでない。取り上げ方に濃淡はあれど、政治的立ち位置如何を問わず、「若者」と「政治」の組み合わせがうまく発動できるような事例であれば基本的に一律に発動されてゆく、何かそんな文法や方程式のようなものがメディア舞台に埋め込まれているらしいのだ。


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 それにしても、既視感が強い。それも、「若者」のやることだから、と好意的に前向きに解釈できる余地の乏しい、一瞥するだけで心萎え心象風景としての。とにかく一部始終、見事なまでに可愛げがないのだ、あまりにも。

 個人的な見聞などからは、かつてのピースボートがまず思い浮かぶ。そしてその後の「反原発」運動から天安門事件に際して盛り上がった一連の流れなど、80年代顕在化した当時としては「新しい」「若者」の「政治」的動きが思い起こされる。それらはその後、冷戦構造の崩壊と国内経済のいわゆる「バブル」崩壊などを境にして、オウム真理教のあの騒動などへへともつながっていったものだ。もちろん、もっと引いて見ればそれまでのいわゆる「学生運動」の系譜やそれらと地続きの大衆的な政治運動のあらわれなどにもつながってゆくことは言うまでもないが、しかしとりあえず問題は眼前のこの「SEALDs的なるもの」と、それらを淡々と複写し追認してゆくかのごとき何ものか、だ。

 そのように「若者」を「政治」に導いてゆく道筋はなにも今に始まったことではない。何らかの政治的関心を抱いた「若者」たちが路上に出る、運動に関わる。デモをしアピールし何らかの政治的主張社会に訴える。昨今はさまざまな仮装コスプレ音楽音曲パフォーマンスの類まで「自由」に組み込みながら「イベント」としての融通無碍さを獲得、そういう方向での「親しみやすさ」を前面に押し出すのがひとつの型になってもいる。「若者」と「政治」という組み合わせでそれらを意味づけてゆくメディアの文法も基本的に変わりはない。「若者」の代名詞としての「学生」が「政治」に積極的に発言し行動する、ということ自体が無条件に考えなしに「希望」として良いこととして解釈され意味づけられてゆく過程が、すでに半ば自動的からくりとして稼働して久しい。おおざっぱに言ってそれは「戦後」の過程で、60年安保からその後の全共闘、あるいはベ平連的な「市民運動」などに下地を作られ、その後は先に言ったピースボートなどに連なる同工異曲劣化コピーをたどりながら、いまなお綿々と眼前に繰り広げられている光景ではある。

 「若者」というもの言いが、そのままで何か「未来」「将来」「明日」を表象するものとして通用してきた経緯。「戦後」という時代自体がそもそもそういう経緯をはらんできたし、そしてそれはそれ以前、「戦前」からすでに、たとえばあの学徒出陣から特攻隊に至るまでの空気の中にも胚胎していた。さらにもっと焦点距離を引いてみれば「民俗」レベル、ムラの若衆宿が既存のオトナを凌駕するチカラを持ち始めた近世後期にまで淵源しているのかも知れない。いずれ「若い」ということはそのように、ニッポンの世間に意味づけられる定型が根深くあったらしい

 だが、型としては連続していても、それらの背景となる社会のありよう、時代状況はさまざまに変わっている。たとえば、まずその「学生」の意味が違う。大学への進学率が50%を越えた事実上全入に等しい現状、それでいて奨学金という名の学費ローンを数百万円の単位卒業時に背負わされる者が増え続けている現実。そんな現在を生きる彼らの立場にとつての「政治」とはどのような認識、どのようなことばを介して眼前の社会と、そしてそれらを解釈し理解してゆくためのこれまでの「教養」とつながってゆかねばならないのか、そういう下ごしらえとそのための方法や目算から静かに顧みる必要が「運動」の現場であればなおのこと切実に求められるはずなのだが、しかし当事者である彼ら彼女らはもとより、それらいまどきの「運動」の背景にいる人形遣いたるオトナたちの側からさえそういう見識も失われているらしいことは、他でもない彼らSEALDsのたたずまいや身振り、言動のひとつひとつが何よりも如実に、具体的に証明している。たとえば、こんな具合に。

 日本の政治状況は悪化し続けています。2014年には特定秘密保護法集団的自衛権行使容認などが強行され、憲法理念空洞化しつつあります。貧困や少子高齢化の問題も深刻で、新たな生活保障の枠組みが求められています。緊張を強める東アジアの安定化も大きな課題です。今年7月には集団的自衛権等の安保法整備がされ、来年参議院選挙以降自民党改憲現実のものとしようとしています。私たちは、この1年がこの国の行方を左右する非常に重要な期間である認識しています。

 いまこそ、若い世代こそが政治の問題を真剣に考え、現実的ヴィジョンを打ち出さなければなりません。私たちは、日本自由民主主義伝統を守るために、従来の政治的枠組みを越えたリベラル勢力の結集を求めます。そして何より、この社会に生きるすべての人が、この問題提起を真剣に受け止め、思考し、行動することを願います。私たち一人ひとりの行動こそが、日本自由民主主義を守る盾となるはずです。

 ああ、なんと見事なまでの型通り。大文字政治状況を語るその語り口から平板で無味乾燥で、それらに続いて語られる「私たち」もまた全く変わらぬのっぺらぼう。背後にどんな生身があるのか、どんな生まれ育ちをしてきて何をどう悩み、考え、たとえ舌足らずだったり稚拙だったりしながらもどんな「ことば」を、自前で何とかみつけようとしているのか、そういう気配がきれいさっぱり感じられないまるであらかじめ漂白されたような白々しさ。このようなパッケージ化された「若者」をそのままに受け入れる生身が、これまてそのようなパッケージに梱包された「政治」と紐つけられ、さて、果たしてどんな〈それから先〉があり得るのだろう。

 かつてなら、専従の「運動」家になってゆく道もあるにはあった。労組全盛の頃ならば組合事務専従、そうでなくても食い扶持稼ぎとして大学生協の職員や図書館司書学校事務などに押し込んでもらうといった人生行路はあり得たし、その後も含めて現実政治の過程に学んでゆく可能性も、結果はともかくそれなりにあったはずだ。今、現役で働いている地方の議員や団体職員、公務員などの中に、そのような経緯でひとかどのオトナになってきた人がたは少なからずいるだろう。だが、このSEALDsたちはどうだろう。

 露わにされた断片などから見ると、彼らの親は概ね50代あたり。ということは、かつて「新人類世代」と呼ばれた80年代に「若者」だった者たちの、彼らはその子どもたちにあたる。それこそ、あの辻元清美香山リカ宮台真司の息子や娘であり得るような、そんな「若者」たちなのだ、とりあえず世代的な枠組みとしては。

 少し前「就職氷河期世代」ということが言われた。バブル経済崩壊後から今世紀に入って2000年代半ばに雇用景気が好転するまでの時期に概ね社会に出なければならなくなった、かつて「団塊ジュニア」と名づけられた世代のその後ということになっている。いまの時点での30代前半から40代はじめあたり。この「団塊ジュニア世代」に対して、SEALDsの世代は言わば「新人類ジュニア」ということになる。つまり、今回の新たな選挙制度の下、18歳で選挙権を行使し始めるのは「かつての新人類の子どもたち」ということなのだ。このことの意味についてはまた、もう少し深めてみる必要があるだろう。

 いずれにせよ、眼前の事実、〈いま・ここ〉の事象としてのこの「SEALDs的なるもの」の上演のありようは、好むと好まざるとに関わらず大きく変わってゆかざるを得ないこの国のかたちをこの先、どのようなオトナたちが構想し支えてゆくのか、そしてそのためにどのような後生の育み方をしてゆけるのか、などの課題を静かに考えようとする時、表層のけたたましさや雑駁さなどとは別に、かなり根の深い問いを投げかけていると思う。

思えば、かつて自民党、というのは、正しくオヤジ政党だった。

 オヤジでありイナカであり、地縁血縁であり、義理人情のどうしようもないしがらみであり、ミもフタもない利権共同体であり、土建屋であり不動産屋であり、さらに当たり前だが高度経済成長を具体化させた政策を後ろ盾に突っ走った財界のものであり、何にせよそういう「日本」、少なくとも高度経済成長期までそうであったような一次産業中心、稲作至上の農業基盤、だから当然「百姓」が国民の心性の中核に位置していたような、まずはそんなものを代弁している盤石の何ものか。

 「政権与党」というもの言いにはそういう、うっとうしいけれどもにわかにはさからいがたい、言わば未だに「家長」としての威厳が揺曳しているオヤジ雰囲気がしっかりこってりとまつわっていたのだ、少し前までの、あの「戦後」という空間においては。

 だから野党というのも、イデオロギーとして革新であれ何であれ、常にそういうオヤジに対抗する存在=若者、という属性を引き受けざるを得ないところがあった。冷戦構造下の保守革新という対立構造には、オヤジ若者、という、「戦後」の空間においてデフォルトとして仕込まれてしまった“もうひとつの対立”が必然的に重ね合わされていた。

2016/03/05 (土) イシバシ評論

ご尊顔(´・ω・`)

「年上」ということ――川村邦光さん「退官」に寄せて

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 川村邦光さんは、年上である。年上の、と口にして、さてそのあと何と呼べばいいのだろうとなると、そこでちと立ち止まってしまう。

 学者教員研究者、いずれそんな通り一遍のラベルを貼ってすませるのをはばからせる何ものか、があるらしい。友人というほどのおつきあいがあったわけでもなく、知り合い顔見知りというとただそれだけでもないような、何にせよそういう微妙な何ものか、が間にはさまる、そんな「年上」なのである

 初めてお会いしたのがいつ頃、どんな機会でだったのかは申し訳ない、すでに記憶が定かでない。名のある学会やこれこれこういう研究会の類でご一緒したのがご縁で、などというまっとうな出会いきっかけだったはずもないのだが、何にせよ、いつの間にやら自分の中で、ただの知り合い顔見知りというだけではない「年上」のひとりとして、名前とその仕事とが記憶されるようになっていた。

 『オトメの祈り』を出した頃、というともう20年以上も前のことになるわけだけれども、その頃まわりにいた同じような「年上」界隈に勝手に持ち回り吹聴して歩いた。おもしろいっしょ、ね? ね? という調子の、はた迷惑押し売りみたいなもんだったろうが、それでも中には素朴に素直に「おもしろい」と反応してくれる素朴で気のいい学者稼業というのも、確かにまだかろうじてあり得たのだ、その頃は。お堅い歴史学、それも近代史などという最も脂っこく、かつ剣呑で、あたしなんぞはもうあらゆる意味でつきあいたくない世間にマジメに生きるような人などが、へえ、こんな風な歴史へのアプローチの仕方もあるのね、などと眼をまるくしてたのを覚えている。なんかこちらまで一緒くたにほめられたような気分でうれしくなった。寺山修司なら「うれしくてカレーライスを三杯も」喰うところだ。

 その後、歴博の共同研究をダシに、そんな「年上」の人がたに厚かましくも声をかけ、こちとらまわりの悪童連と共に糾合して「遠足」(今は亡き、そんな「年上」のひとりの命名) 含みの愉快な道行きをやらかしたあたりから、初めて生身を伴う「ひとり」として認識できるような距離でのおつきあいになったらしい。もしかしたら先方、当の川村さんの方がこっちの存在を先に、離れたところから何となく見聞きされていたのかも知れないけれども、そのへんは知らぬが花、なんだろう。

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 「年上」というのは一律ではない。自分を基点にしておよそ10年くらいの間尺のうちに、ちゃんと認めることのできる、輪郭確かな「ひとり」として見ることのできるニンゲン、敢えて言葉にすればそういうニュアンスが含まれてくる。そんな「年上」が、駆け出し若い衆の頃にしっかり視野に入ってこれるかどうか。こちとら捨て育ちの野良もので、そういう「年上」に恵まれたとは正直言えない思えない。学部時代言わずもがな、間違って大学院にまぎれ込んでからも、ゼミ研究室の先輩連ともそんなつきあい方はしてもらえなかったし、またこちら自身が当時からその程度に外道だったんだろう、「研究」というもの言いが昨今のように縛りのきつい呪文になってはいなかった時期だけれども、でもそういうガクモ世間研究沙汰を介した仲の良さ、良い意味での「内輪」のありようをいつもよそごととして感じていた。世間並みの年上、先輩後輩な序列を前提にした関係に背を向けた報いはその後の過程で少しずつ思い知ることにもなる。「年上」とのつきあい方を学びながらこちらもオトナになってゆく、そういう関係をある程度歩留まり良く準備してくれる仕掛けが、たとえば若衆宿とかの「民俗」だったのだろうと勝手に思っている。

 けれども、ここは世の中の通例と異なる渡世のありがたいところ、たとえ実際にツラあわせてことば交わすことなどずっとないままでも、本や活字を介したつきあいというのがある。書いたもの発言したことなどは媒体介して見聞きすることはできるし、また何かの拍子に風の噂、又聞きの類にでも消息最近どんな仕事をしてるのか程度のことは耳に入ったりもする。だから川村邦光という御仁はずっと変わらず、あたしにとってはほんとに数少ない、そんな「年上」のひとりでありました。

 とは言えこの年上、学者研究者としての通りいっぺんの出自来歴ってのも、実はあまりよく知らないままだった。東北大で宗教学で、ってのは知っていたが、それ以上のあれこれはまともに聞いたこともないし、またこちらも敢えて詮索しようとも思わなかった。思う必要がなかった、という方が正確だろう。そういうおつきあい自然にできるような「年上」というのもまた、貴重なものだということを本当に思い知るようになるまで、その後だいぶかかった。けれども、ほんとにそうなのだ

 例の「オトメ…」シリーズ(勝手にそう呼んでいる、お許しあれ)のはじめ一?は、天理大学にいた頃の「仕込み」で形にしたものだな、と思っていたし、それは大筋間違っていないだろう。世間並みの流れから「おりる」ことと仕事の「仕込み」とが人生行路のある時期に、後から振り返れば結構いい頃合いに準備されていた、おそらくご自身もそのことに思い至ったのではないだろうか、とここは勝手に推測しておく。俗世世間的な「評価」だの何だのは知らない。知ったこっちゃないしそんなの、こういう「年上」には関係ない。

 そのような意味で、同じ「年上」でも自分の中では、高橋康雄堀切直人、などと同じ箱に入っている。いずれの御仁も「歴史」に対するにじり寄り方において期せずして同じような認識方法意識と、その上に立った資料素材テキストとの対峙の仕方やその際の「読む」速度や調子の保ち方、そして何よりそれらを実践する主体、他でもないご本尊のありようそのものもひっくるめて、まさに「まるごと」としてのっぴきならない「そういうもの」感を問答無用、能書きいらずの確かさで示している、そういう知性であり書き手であり読み手であり、ああもうめんどくさい、口はばったいけど言っちまう、要は「初発の民俗学的知性」ってことなんだからして。

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 身すぎ世過ぎ、喰ってゆく手立てとしての大学教員稼業、そういうモード日本語環境での人文系にあたりまえに仕込まれていた、おそらくはそのもうかなり最後時代、どういう経緯があったのか知らないけれども国立の、それも東大京大などともまた違う、中途半端なしちめんどくささがこってり粘りついてそうな阪大に移られてから果たしてどういう日々を送られていたのか、そのへんについてもほとんど何も知らない。どんな講義や演習をやっていたのか、どんな若い衆に有形無形の影響を与えていたのか、そんなこともわからないまま。まあ、阪大まわりとおぼしき民俗学文化人類学、いずれ人文系界隈の若い世代仕事に接したり、まれにそういう生身とひょんなことから行き会うこともないではなかったけれども、正直あまり印象に残ってなかったというか、縁なき同時代のその他おおぜい以上の認識を持てない物件がほとんどだったってことは、ああ、同じ阪大ったって広いんだろうな、でもせっかくそこにいたらしいのに、あの川村さんの薫陶というのをうまく受けることのなかったような、そんな気の毒な人がたなんだな、とこれまた勝手に理会してそのまま通り過ぎていた。

 それが数年前、ほんとに藪から棒に研究会みたいなのをやるから出てこい、というお招きを頂戴して、なんでまた、と思っていたら、どうやらそれが川村邦光の若衆宿とその界隈からの呼び出しだったらしい。永らくお会いしてなかったご本尊にもその時、十数年ぶりにお目にかかれたのだが、これまたいい具合に枯れてしなびとられてて(ほめ言葉のつもりであります為念)、あれこれ大変だったのは確かだろうけれども、でもまあこうやって国立大学の中に身を置かれ、それなりの若い世代にも囲まれておられるのをこの眼で確認して、なんかまたひとつこういう「年上」からの学ばせてもらい方について、ちょっと考えさせられるものがありました。

 人文系の知性のスジの通った年老い方、てなことは敢えて問うたところで今さら詮無いこと、ただ、前々から耳にはしていた奥さんとあの猫のコタロウことなど、身のまわり半径身の丈のことどもについては、もしもまたそんな機会があり、そしてお気持ちがそのように向いたならば、ウダウダ呑みながらで結構ですので聞かせてください。

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2016/03/01 (火) イシバシ評論

われらがサトハチ(=゜ω゜)ノ

書評 サトウハチロー『僕の東京地図』 (1936年 有恒社)

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 古書書評、というのはあまり見たことがない。いや、その筋の趣味人好事家道楽者の界隈には紹介言及ひけらかしな蘊蓄沙汰はそりゃ古来各種取り揃えてあるものの、それらは概ね書評というのでもなくお互い手のこんだマウンティング、こじれた相互認証の手続きをそれぞれ身もだえしながらしちめんどくさく垂れ流しているようなシロモノが多い。つまりそこでは古書は単なるダシでしかないわけで、その臭みが時にどうにも疎ましかったりする。加えて昨今、web環境の進展に伴いそれまでともまた体臭の違う基本フラットでマイルドで清潔で、しかしその分どういうものか無自覚に無礼で不遜で可愛げのない古書いじりの増上慢が横行し始めていたりするのでなおのこと。そもそも書評というのは評する主体、「読む」側の器量が良くも悪くも映し出されちまうおっかない形式のはずなのだが、メディア舞台でのそれは新刊書に対するブックガイド、それもある時期からこっちはとにかく業界事情や世渡りの思惑まみれで当たり障りのない広告宣伝提灯持ち的役割が主だったせいだろうか、いずれにせよ新刊書でない古書をめがけた書評というのはやはり需要がないということには昔も今も変わりないらしい。

 思い返せば、未だ懲りもせず刊行される新刊書にまともに興味関心を持てなくなっても久しい。ぶっちゃけ今世紀入るあたりからこのかた、あ、こりゃ気力体力のムダかも知れん、と思い切り、もう積極的に新しい本を追いかけられなくなっちまった。その分、手元にためこんじまった古書雑書ゾッキ本その他の紙のボタ山からとっかえひっかえ、いや、それでもまだ新たに少しずつ積み増しもしながらだけれども、いずれためつすがめつ繰り返しめくっては付箋を貼りメモをとり、気が向けばやくたいもない備忘録や断片をあてもなくつづってみたり、てなことばかり宛も目算も特にないまま日々の習い性にしてきているここ十数年。いやいや、なんのこれもまたひとつ現場、紙の意気活字の野戦感覚を磨いてゆく稽古演習の過程と、表立っては口にはせぬがそっとつぶやいて心励まし、またぞろ眼前の山からひとつ抜き出しては持ち慣れた頭陀袋ひとつに収めてさて、今日もまた同じような日々の道行きが始まる。


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 サトウハチローの『僕の東京地図』(1936年 有恒社)は、そんな日々の道行きにつきあってもらっている常連のうちの一冊。初版昭和11年だから、ざっと80年ほど前の新刊だけれども、なめちゃいけない。未だいつどこから開いてもそのたびに新鮮な発見、枝葉の如く繁ってゆくイメージやとりとめない感興がこの老化著しい脳髄まわりからでさえ惜しげも無く引き出されてくるのははて、ほんとにまったくどうしてなんだ、と不思議がってばかりでもうずいぶんになる。

 戦後昭和21年労働文化社から、そしてまた最近2005年ネット武蔵野というという小さな版元から、それぞれ復刻というか同じ書名で出されていたりするが、残念なことに中身が端折られてたり新たに書き足されたとおぼしき部分もあったりで、まあその分行って帰って値打ちは相殺かも知れんのだが、それでもやっぱりここはもとの版、首尾一貫した調子で当時の〈いま・ここ〉、時代の空気がその微粒子のようなものも含めてしっかり締まったおさまり具合になっている元祖が格別。さらに言えば、こちとら手もとの色褪せ朽ちて背表紙あたりなんざ手垢まみれのボロボロなっちまってるこの裸本こそが好ましく、また手になじんでもくれるというもの。なじみの店のオンナのコのようになつかしい。

 「僕の銀座、君の銀座あなた銀座わたし銀座。気取っていふならば御身の銀座、わがための銀座。おッかなくいふならば貴様銀座、小生の銀座。ざッくばらんにお前の銀座、オレの銀座、そなたの銀座、わらはの銀座、主の銀座、わちきの銀座、旦那の銀座、マダムの銀座、若人の銀座、老人の銀座(あゝきりがないきりがない)ことほどさように、われ等の銀座である。」

 詩人である。だからかように「うたう」のである。うたいながら、まちを堂々、往くのである

 流行歌でも童謡でも、戯作めいた随筆でもなじみの食い物屋の宣伝文句でも、もういっそすがすがしいくらいに一貫したリズムと調子でその持ち前の愛嬌と共に押し通して、しかし素朴な「うた」の呂律を手放さない。それでいてどこか知らぬ間に「はなし」にもつむいでつないでゆける、そんなことばのありようがわれらがサトハチの書きものの本領。何も「文体」などという裃つけたもの言い持ち出さずとも、これは立派にひとつの「個性」、輪郭確かな書き手の骨太なたたずまい、彼の書いたものどれもこれもにずん、と貫かれているゆるぎない味わいの源泉なのだ

 「浅草は、僕の第一の故郷だ。ふるさとのなつかしさは、かくべつだ。浅草へ行くと、誰もが(いや待てよ)何でもかんでも僕に會釈する、あいさつする、肩をたたく、迎へてくれる。僕ばかりではあるまい、浅草はさういふところなのだ。」

 冒頭、いきなりの浅草、そしてまた浅草。小さい頃から文字通りうろつきまわった盛り場の個別具体、細部のあれこれが、しかしあくまでも彼の身の裡の体験や記憶を介して改めて眼前に開陳されてゆく心地よさ。

 食い物がひとつターミナルになっているのも「健康優良不良少年」サトハチならではだけれども、本拠地浅草で景気をつけて、そこから上野木場お茶の水から神保町に四谷、向島へ飛んだと思うと池袋にとって返し、大塚界隈をうろうろする。そして銀座、僕の銀座あなた銀座にしばらく逗留、夜と昼との相貌の違いなどにも筆を走らせ、牛込に早稲田小石川から本郷帝大ときて、山の手の新興盛り場新宿ムーランルージュ三越裏、再び四谷あたりから神宮外苑日本橋に蛎殻町、薬研堀からずっとまた下町へ足を向けて月島佃島八丁堀、再度の上野動物園に帝室博物館谷中へ抜けて三崎町から團子坂、千駄木白山巣鴨中里、果ては田端瀧野川まで出かけてゆく。返す刀で靖国神社芝公園放送局はNHKで麻生十番から品川へとくだって新興大森蒲田の賑わいにも首を突っこむ。このへんから仕切り直し気味に再び伝手と記憶をたどりながら浅草吉原下谷あたりをここはゆっくりこってりぶらつきながら、丸ビル日比谷に帝劇、そして東京駅でめでたく打ち止めという次第。もとは『東京朝日新聞』の連載だったと聞くけれども、なるほどそれぞれひとまとまりはコンパクトで見通し利く範囲で、何より活きの良いまますんなり読めて肩も凝らない。ひとり散歩のそぞろ歩きの、そして時には当時の同時代気分を表象する、彼も好んで使ったあの「行進曲」の速度とテンポ昭和初年、帝都の〈いま・ここ〉がこちとらの身のうちに響きながら、いつしか何かしらの像、具体的なイメージをすらしっかり結び始める。

 「尾張町近く森永のキヤンデーストア−。そこにはラツピングマシン。譯して自動包装機といふ。チョコレートクリーム板チョコが、自動的に包まれる機械だ。(…) 電車通を越えませう。池田屋本店なる毛皮屋がある、そこに熊がゐる。勿論ハクセイだが、こごみかげんで、歩いてゐる姿だ、背中につくりものの鮭を一匹背負ってゐる。小學讀本で教はッたとほりに、ちゃんと笹の小枝に通してゐる。笹の葉はすッかり枯れてゐる。(…)すぐその先が、丸八ァ銀座のノミトリ粉の松澤八右衛門だ、丸八丸八と覚えてゐて、松澤といふ姓だとは僕もいままでは気がつかなかッた。右のかざり窓には畫帳などがづらりとならび左の方にはこれ又サボテンマスゲームてゐる。(…)さて向ふ側だ。愛するカフェーキリンがある、ビールうまいし、サンドヰツチもうまい、だが、こゝの飾窓の小さい牛のつくりものだけは、裏へ片づけていただけないかしら。その昔浅草のちんやに、牛のはらら子の瓶詰が、かざつてあつたのと、同じ効果を銀ブラ族にあたへると思ふが、いかがでございませうか。」

 その頃、たとえば新感覚派などがマジメに本気で目指していたとされる当時のモダン相、都市部の新たな〈リアル〉の速度や猥雑、全方向に喧噪がひしめきあう日常の体感を、できる限り見たまま聴いたまま感じたままに、調律されたことばにおろしてゆく営み。それがこんな形でいともあっさりと、衒いも何もなく無造作に放り出されてあるように見える。才能だの技術だのじゃない、それ以前の「育ち」の違い、生まれてからの日々の過ごし方がどうしようもないまでにその他おおぜいの凡俗とは違っていた、そういう「違い」の否応なさとそれゆえの当時としてはまだちょっとあり得なかった早すぎた「ひとり」のありよう。間違っても当時のブンガクになどそのまますんなり向かうことのなかった天然自然な「表現」への欲求。ああ、今だってもしもこんな具合に書けたら、声に出してうたえたらどれだけ気持ちいいだろう、と素直に憧れのココロを引き出してくれる一冊なのだ

 忘れてた、この本、装幀も挿絵もなんと横山隆一。文中、とりあげた店などの広告もさしはさまれていて、それも彼の手によるとおぼしきものが混じっている。ある種広告がらみの企画だったのだろうか、そういう事情も含めて「読む」ことの愉しみを満身で受け止めてくれるブツであること、申し添えておきたい。


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 「京橋新川お稲荷さんの多いところはない。酒問屋では大てい一つづつお稲荷さんを持ってゐる。僕が行った時も、寳録稲荷のお祭で、余興數番ありなんていふ書きビラが電柱に貼りつけてあつた。

 福徳、入舟、舟玉、寳録(あ、この下にみんな各々稲荷といふ字がつくんですぞ)もう一寸大きいのに、大栄稲荷といふのがある。新川一の三だ。こゝの神主さんを小平勝次郎といふ。昔なら、父と兄と二人を討たれて、仇討ちに出さふな名だ、名は二枚目だが大分しなびてゐる。これが、木やりの研究家だ。いまは神主をしてゐるが、もとをたゞせば鳶だ。火事の時の筒先きのお職(うれしい名ですな)だッたといふから大したものだ。町内の頭だッたのだ。木やりが上手だつたに違いない、それから段々研究にはいつたのだらう、前身仕事師の神主さんなんてものは、さうざらにあるもんぢやない。」

 「都市」はうっかりと身の丈を超えちまう仕掛けがそこここに張り巡らされてゆく状態である、てなことをそう言えばもうずいぶん昔、ものを書き始めて間もない頃に生意気に口走ってたような気がする。確かに、ここにはそんな「都市」が、しかし身の丈超える仕掛けの中にそれでも〈いま・ここ〉にしかあり得ない個別具体の確かさで記述へと運ばれてきている。だが、「細部」だの「ディテール」だのといまどきの能書きでくくっちまう野暮はやめとくが吉。喰い物と顔見知りと路上の交わりと、それらを一緒くたに触媒にしながらサトハチの生身の裡から引き出されるさまざまな記憶や思い出の断片が、眼前の音や声、匂いや気配、ことばやもの言いなどをまつわらせながらひたすら紙の上に綾なし渦を巻き、安っぽくも絢爛豪華な千鳥足の道行きとして現前している次第。だから、こんな場面もしっかりと紙の間尺で切り取れる。

 「木やりは誰が上手です」と聞いたら、「神田のサギ町のをぢさんでせう」といつた。サテ神田にサギ町なんてあつたかしらと考へたら「佐柄木町の小川光吉さんですよ」と重ねていつてくれた。佐柄木町がサギ町と、こつちへ聞きとれる。昔の口調が、まだ残つてゐるんだと思ふと、一寸うれしくなつた。

 「昔は重いものを動かすのに、木やりがなければ動きませんでしたからな。いまぢや機械を使ふんで、すたりましたよ、白酒柱だてなんてものは歌澤となつて残つてますよ」

 たとえば、あの今和次郎考現学、どこか大正的知性のかったるさを引きずる文章でなく、実はこちらが本領とばかりに欣喜雀躍、ひたすらはしゃぎまわった気配が漂うあんな図版こんな意匠のさまとその並びを脳裏に重ね合わせて映し出しながら、あるいは、かの柳田國男は『明治大正史・世相篇』の東洋文庫版旧字混じりの字ヅラを想起しながら、ひとつ声に出して読んでみようじゃないか。同時代の生身の生きて呼吸していた空気雰囲気が、うっかりこの21世紀に身を置いちまってるこちとらの身の裡にもまっとうに感得されてくるようなものだからして。そんな意味での「歴史」「叙述」だったりするんだからして。

 「みなさんのうちで佃島へ行ったとがある人が何人あるでせう。川一つへだてきりなんだが、ここへくるとまるで違ふ。第一匂ひが違ふ。磯臭い匂ひがする。東京といふより近縣の漁師町の匂ひだ。いたづらに臭い匂ひぢやない。なつかしい匂ひだ。僕はアセチリンガスの匂ひを嗅ぐとおふくろを思ひ出すタチだが、この匂ひもをばさん位は思ひ出す匂ひだ。」

 ほぼ煮崩れしちまってるいまどきの古書市場でもまずは4ケタ後半、美本ならどうやら5ケタ越えの値も未だについちまうらしいシロモノなのは、そういうことばの魅力、うたをはらんだ文体の射程を評価する視線が市場に少しでも残っている証しなんだと思いなして、そうか善哉善哉、ならばいざとなったらこのボロい一冊も叩き売りゃまた小遣いくらいにゃなるか、とまあ、そういう信頼もまた宿してくれるのが、これら古書雑書やくたいもない紙の書物の今なお健気で可愛いところなのであります。

 浅草その他、昭和初年のモダニズム、当時前景化していった大衆社会化とそれに伴う新中間層ベース都市生活文化への興味関心が、めて若い衆世代を中心に盛り上がってきているような日本語環境での人文系ガクモン沙汰の昨今、この一冊も主に浅草がらみで引き合いに出されることもあるけれども、いまどきのもの言いでの「サブカル」がらみの読み方味わい方だとどうしてもどこかひとつ薬味がきかぬ憾みもある。いや、それもまたひとつの「研究」視線、「業績」縛りないまどきの知性の習い性なのかも知れないけれども、そしてまた「細部」「ディテール」の類を称揚してみせる身振りそのものもそのような習い性と無関係のわけもないはずなのだけれども、長年のサトハチ贔屓、その「うた」と「はなし」をおのが身ひとつに抑えこんでゆくような生身のありよう、ことばの闊達に、不遜ながらも民俗学的知性の初志の気配を直観的に察知しちまってるこちとらなどからすれば、ああ、もったいねえなあ、とちょいとしかめっ面のひとつもしちまう時もあったりするのだ。

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2016/01/26 (火) 宗教問題

「明日」は良くなるのか?

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 家族の絆、ということが言われます。人と人との温かいつながり、というようなことも、また。それら人間本来暮らしのあり方だったのものが、いまのわれわれの生きている現代社会からは失われてしまっている。だからいろんな問題さまざまな病理が露わになってきているのだ――ざっとこのような筋道自分たちの生きる「現在」、〈いま・ここ〉を説明しようとする型通りのもの言いがあります。それらは、その中身がどれだけ確かなものか、それらを口にする他でもない自分自身がどれだけそのことに心服しているか、などとは全く別に、とりあえずそのように思い、語っておけばすむ程度の常備薬的な役割を担わされているようです。

 テレビキャスターコメンテーター評論家文化人の類は言わずもがな、いや、彼らはそれが稼業の口上みたいなものですから割り引いくにせよ、何でもない普通の人たちでさえも、何か「社会」についてものを言わねばならない状況に置かれた時につい口をついて出るのは、「むかし」はあった「良いもの」(人間関係でも何でも)が「いま」は失われてしまった、「だから」今の世の中は良くない――概ねこういう型通り。「現在」というのは、その他おおぜいの世間にとってはある種「民話」のように、このような定型を介して漠然理解されているもののようであります

 このへんの事情は、たとえ宗教関係の人がたでも同じこと。それこそ法事の後のちょっとした法話、あるいは何かの集まりでのテーブルスピーチの類などで、仕事に見合った程度のちょっと気の利いたことを言おうとした時にこの定型がつい便利に使い回される。むしろ、「宗教」というのはそれが何であれ「心の問題」を正面から扱うものだ、という理解の仕方もまた世間の側に何となく共有されているらしい分、宗派教義の違いなどきれいにすっ飛ばしたところでこれまた漠然とおさまりのいいもの言いとして、それらの定型平和効率良く消費されています

 そしてそれらは「現在」を認識する定型としてだけならまだしも、一?踏み出してその良くない状態の「現在」を良い方向にしてゆかねば、といった使命感などが昂じてくると、そのかつてあって今失われてしまった何ものかは「伝統」といった大きなくくり方で新たに意味づけられ、より良い明日のために「復活」させるべき目標として装い新たになってゆくものでもあるらしい。スローガンとしては誰もがことさら反対したり違和感表明したりする必要もないくらいになめらかで眼ざわり耳ざわりの良いものになっていますから、それらはそれこそ燎原の火のようにみるみるうちにある「常識」として世間に広まり漠然と共有されるようにもなってゆきます。近年いろいろな形で取り沙汰される「歴史」がらみの問題や、「日本らしさ」の案件などの底流には、そのような大きな世間の気分、その他おおぜいの「現在」に対する感じ方みたいなものが大きなうねりとして伏在していると感じています

 なぜ、こんなに生き辛いのか、苦しいのか。それは自分自身問題があるのかも知れないという方向と共に、いまのこの世の中がどこかよろしくないからだ、という方向にも人は説明を求めてゆくもののようです。その分だけ「むかし」は良いものとして映るようになり、その裏返しで「現在」が、そしてその先の「明日」もまた同じように、どんどん良くないものになってゆくように感じられる蟻地獄

 でも、思えば不思議です。だって、少し前までわれら日本人は、「明日」は今日より少しはましになるはず、と概ね信じながら生きてきたはず。あの敗戦後の混乱の中でさえも、そういうより良い「明日」を何とか考えようとする、民族としての向日性は手放してなかったはずです。それがいつ頃からどうしてこれほどまでに「現在」は良くない、「明日」はさらに良くない方向に転がってゆく、としか感じられなくなってしまったのか。これらの問いにも何とか応えようとする、それがどのようなものであれ「宗教」や「信仰」の大切な役割だったはず、とひそかに思っていたりするのですが、さて。

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