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2016/05/13 (金)

そして「遺骨」は粉になる

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 骨を「処理」するサービスが、また一段とさまざまな形になってきているようです。骨、つまり「遺骨」のことなのですが。

 人が死んで、火葬に付された遺体は遺骨になる。これまでは通常、骨壺に収めてそれを墓地に埋葬するという形が一般的だったわけですが、ミもフタもなく言えばそれはつまり「骨」、犬や猫、あるいは魚などにもある同じ物質、単なるモノであることには変わりないわけで、昨今の墓地不足などともあいまって、これまで墓石の下に埋められるものであったそれら遺骨を取り扱うやり方にも、静かな変化が起こってきているようです。

 「散骨」というのは、以前から話題になってきてはいました。それに伴う法律も含めた制度的な環境整備も行われてきて、これはこれである程度の認知をされた方法にはなっている。この散骨形式が整えられたこと、つまり散骨するためにはそれが人の骨だとわからないような形にしなければならない、という制度的な枠組みができたことがひとつの引き金だったのでしょう。これまでのような「遺骨」という意味づけから離れた、単なるモノと化した骨の「処理」の仕方について、多様な選択肢ビジネスとして提示されるようになっているようです。

 たとえば、遺骨をまず粒の細かな粉末にする。そうしたモノを固めて処理してペンダント指輪など、何かそういう身につけたり身近に置いておくアクセサリー記念品的なモノにする。あるいは、そこまでしなくても、粉末のまま骨壺的でない何か別の容器――ガラス金属を使った、いずれオシャレな形のものが多いようですが、そういう収納の仕方で家の中に置いておく。当然、これまでの墓地や墓はもとより、仏壇などの祀る場所も変わってこざるを得ないわけで、すでにそれらを総称して「手元供養」という呼び方も専門の業者によって使われ始めています。このへんは宗教関係含めて「死」を仕事として扱われている方々などからすれば何をいまさら、なのでしょう。

 気になるのは、「ペットと一緒に」モノにしてゆくことも、なにげに選択肢に入り始めていること。いや、すでにペットと入れる墓地や、供養を受け入れる寺などが出てきていますし、それもまた時代の変化なのでしょうが、ただそれら「遺骨」が単なるモノとしての骨、粉砕され粉末状の骨粉でしかなくなってしまうことが、肝心の「死」の意味、生身のいのちひとつのサイクルを終えるということそれ自体のわれわれの中での位置づけなどにどういう影響をこの先与えてゆくものなのか、そのへんの目算や覚悟もまた、併せて整えてゆかねばならない時代になってきているようです。

 「遺骨」がそのようにただの骨粉になってゆくのなら、それを肥料として自然に戻す、そういう供養すら地続きの未来にはあり得るのかも知れません。

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2016/03/22 (火) 正論

「政治」にめざめた「若者」像(´・ω

「SEALDs的なるもの」について

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―――政治とは、単なる政治思想イデオロギー、政策沙汰から党派や派閥離合集散といった要素だけで解釈してしまっていいものでもない。誤解を恐れずに言えば、そんな表象と解釈、さらには芸能の範疇に含まれ得るような領域までまるごとひっくるめて、政治という〈リアル〉は〈いま・ここ〉に埋め込まれている。


 「若者」と「政治」が露出してきている。

 昨年6月、戦後70年ぶりに選挙権年齢を18歳以上に引き下げる公職選挙法等の一部改正が行われた。これは憲法改正が具体的な政治課題として考えられるようになった過程で、それに関する国民投票法その他、各種の既存の法律法規間の整合性をとるための言わば副産物といった経緯で実現した面もあったようだが、それらの経緯はともかく、いずれにせよこの夏に予定されている参議院選挙から、実際に18歳以上の「若者」が新たに選挙権を行使することができるようになった。

 人口統計によれば、18歳19歳の日本人人口は男女あわせて240万人ほど。一方、現在日本有権者数は一説には1億人ちょっと。ここに240万人規模の「若者」が新たに加わっでも有権者数全体からは現状、僅かなものかも知れないが、しかしこの絶賛進行中らしい少子高齢化社会現在、しかも有権者のうち60代以上の高齢者の比率が40%ほどを占めると言われる現状で、現実にこれから先何十年もの間生きてこの国を支えてゆく若い衆世代の240万人というのは、今後の選挙のあり方を考える上で、実際に彼ら彼女らが示すであろう目先の投票行動とは別に射程距離の長い、言わば社会的文化的意味での影響をさまざまにわれわれのこの国この社会に与えてゆく可能性があるだろうこともまた否定できない。世代人口としてはその程度の「票田」でしかないにせよ、いずれ政党政治リアリズムからすれば何らかの手当てを講じねばならないのは必定。若年層の構造的貧困などと共に「若者」をターゲットにした政策的提言玉石混淆保守革新問わずに眼につき始めている。

 と同時に、それらの流れを作り出すメディアの手癖にもまた、合焦しておかねばならない。「若者」と「政治」をめぐってわれわれの社会にすでに刷り込まれてしまっているらしいある意味づけや解釈、それらを下敷きにした語り口が、いまどきの情報環境を介してどこか過剰に演出され、メディア舞台を介して日々のわれわれの意識の銀幕に、見てくれよろしく麗しく、派手にきれいにきらびやかに投映されるようになっている。それはすでにいつの間にやら知らぬ間に眼に馴れ耳になじんだ、その意味では世代を超えて受容される国民的演目のようであり、ゆえにどこか民話のようななつかしささえまとっている上演コンテンツになってもいる。そのことは、おそらくは巷間考えられているよりもずっと切実に、〈いま・ここ〉で「政治」を考えようとする上での重要な焦点のひとつになっている。


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 SEALDsという「若者」団体がある。「政治」に関わっている。20代前半から半ば過ぎ、現役の大学生がとりあえずは表看板として活動しているように見える。そう見せているということも含めて、そういう「若者」ぶりが売りになっている。

 昨年の夏頃から、街頭でのアピール活動やデモの様子がテレビ雑誌新聞などを介してメディア舞台に繰り返し取り上げられるようになっていた。9月には、参院平和安全法制特別委員会安全保障関連法案に関する中央公聴会意見表明する「公述人」として複数のメンバーが招かれ、この時の様子も例によってテレビその他に大きく、概ね好意的に紹介されていた。その後もそういう流れは続いている。

SEALDsシールズ:Students Emergency Action for Liberal Democracy - s)は、自由民主的日本を守るための、学生による緊急アクションです。担い手は10代から20代前半の若い世代です。私たちは思考し、そして行動します。

 私たちは、戦後70年でつくりあげられてきた、この国の自由民主主義伝統を尊重します。そして、その基盤である日本国憲法のもつ価値を守りたいと考えています。この国の平和憲法理念は、いまだ達成されていない未完のプロジェクトです。現在、危機に瀕している日本国憲法を守るために、私たち立憲主義生活保障安全保障の3分野で、明確なヴィジョンを表明します。

                    http://www.sealds.com/ (彼らのホームページから。以下同じ)

 もともとは一昨年、「特定秘密保護法に反対する学生有志の会」として立ち上がったものの由。「ムービー文章による情報共有や、新宿渋谷に集まった学生デモ施行日での官邸前抗議行動など」を行い、その後は「沖縄辺野古基地問題に関するアクション」にも関わってきている。政治的立ち位置としては明らかにいわゆる「左」、昨今よく使い回されているもの言いだと「リベラル」ということになる。事実、彼ら自身そう自認している。

 リベラル勢力の結集にむけて

 私たちは、現政権政治に対抗するために、立憲主義生活保障平和外交といったリベラル価値に基づく野党勢力の結集が必要だと考えます。この野党結集は、市民政治参加を促し、機能不全が嘆かれて久しい代表制を活性化させる、新しい政治文化を創出する試みです。

 「学生」有志の組織と言いながら、短期間で東京大阪沖縄など全国に複数の拠点を展開、中心的な活動メンバーは一説には約400人、それらを中心に各地でさまざまな抗議活動反対運動を迅速機敏に繰り広げられるのには何か背景や後ろ楯があると見るのが自然なわけで、実際に現場には各種既存の政治団体組織の姿が入り交じっているのは政治的立ち位置の如何を問わずこの種の運動のお約束光景。もちろん、webを介した情報環境がここ10年ほどの間にまた一段と異なる様相を呈し始めている分、彼らが具体的にどういう「若者」なのか、出自や背景、生まれ育ちなどは、といったいわゆるゴシップ的で下世話な、しかしだからこそある種本質的な世間の側の興味関心まで含めてリアルタイム匿名性を伴いながら襲いかかるのがいまどきの情報環境。しかも24時間途切れることのない常時接続環境で、ほぼひとり1台と化したスマホ系端末を実装した匿名の「個人」の海が拡がっているわけで、、このSEALDsもみるみるうちに丸裸にされ、昨今「リベラル勢力の結集」を唱える界隈の別働隊、ありていに言ってそのようなオトナたちに踊らされる操り人形であることが、webを中心に露わにされていった。それらの経緯や個々の断片については、この場ではとりあえずどうでもいい。ことが「政治」であれ何であれ、いずれ〈いま・ここ〉の〈リアル〉とはとにかくそういうものになっている、良くも悪くも。

 考えておきたいのは、にも関わらず表のメディア舞台ではそのような背景や事情については見事なまでに「隠されている」、そのことだ。「若者」のやむにやまれぬ問題意識から「自発的に」発生してきた「政治」運動という装いを、まるで何か申し合わせでもあるかのように横並び一律に守った報道に終始している。それは何も「リベラル」界隈だけでない。取り上げ方に濃淡はあれど、政治的立ち位置如何を問わず、「若者」と「政治」の組み合わせがうまく発動できるような事例であれば基本的に一律に発動されてゆく、何かそんな文法や方程式のようなものがメディア舞台に埋め込まれているらしいのだ。


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 それにしても、既視感が強い。それも、「若者」のやることだから、と好意的に前向きに解釈できる余地の乏しい、一瞥するだけで心萎え心象風景としての。とにかく一部始終、見事なまでに可愛げがないのだ、あまりにも。

 個人的な見聞などからは、かつてのピースボートがまず思い浮かぶ。そしてその後の「反原発」運動から天安門事件に際して盛り上がった一連の流れなど、80年代顕在化した当時としては「新しい」「若者」の「政治」的動きが思い起こされる。それらはその後、冷戦構造の崩壊と国内経済のいわゆる「バブル」崩壊などを境にして、オウム真理教のあの騒動などへへともつながっていったものだ。もちろん、もっと引いて見ればそれまでのいわゆる「学生運動」の系譜やそれらと地続きの大衆的な政治運動のあらわれなどにもつながってゆくことは言うまでもないが、しかしとりあえず問題は眼前のこの「SEALDs的なるもの」と、それらを淡々と複写し追認してゆくかのごとき何ものか、だ。

 そのように「若者」を「政治」に導いてゆく道筋はなにも今に始まったことではない。何らかの政治的関心を抱いた「若者」たちが路上に出る、運動に関わる。デモをしアピールし何らかの政治的主張社会に訴える。昨今はさまざまな仮装コスプレ音楽音曲パフォーマンスの類まで「自由」に組み込みながら「イベント」としての融通無碍さを獲得、そういう方向での「親しみやすさ」を前面に押し出すのがひとつの型になってもいる。「若者」と「政治」という組み合わせでそれらを意味づけてゆくメディアの文法も基本的に変わりはない。「若者」の代名詞としての「学生」が「政治」に積極的に発言し行動する、ということ自体が無条件に考えなしに「希望」として良いこととして解釈され意味づけられてゆく過程が、すでに半ば自動的からくりとして稼働して久しい。おおざっぱに言ってそれは「戦後」の過程で、60年安保からその後の全共闘、あるいはベ平連的な「市民運動」などに下地を作られ、その後は先に言ったピースボートなどに連なる同工異曲劣化コピーをたどりながら、いまなお綿々と眼前に繰り広げられている光景ではある。

 「若者」というもの言いが、そのままで何か「未来」「将来」「明日」を表象するものとして通用してきた経緯。「戦後」という時代自体がそもそもそういう経緯をはらんできたし、そしてそれはそれ以前、「戦前」からすでに、たとえばあの学徒出陣から特攻隊に至るまでの空気の中にも胚胎していた。さらにもっと焦点距離を引いてみれば「民俗」レベル、ムラの若衆宿が既存のオトナを凌駕するチカラを持ち始めた近世後期にまで淵源しているのかも知れない。いずれ「若い」ということはそのように、ニッポンの世間に意味づけられる定型が根深くあったらしい

 だが、型としては連続していても、それらの背景となる社会のありよう、時代状況はさまざまに変わっている。たとえば、まずその「学生」の意味が違う。大学への進学率が50%を越えた事実上全入に等しい現状、それでいて奨学金という名の学費ローンを数百万円の単位卒業時に背負わされる者が増え続けている現実。そんな現在を生きる彼らの立場にとつての「政治」とはどのような認識、どのようなことばを介して眼前の社会と、そしてそれらを解釈し理解してゆくためのこれまでの「教養」とつながってゆかねばならないのか、そういう下ごしらえとそのための方法や目算から静かに顧みる必要が「運動」の現場であればなおのこと切実に求められるはずなのだが、しかし当事者である彼ら彼女らはもとより、それらいまどきの「運動」の背景にいる人形遣いたるオトナたちの側からさえそういう見識も失われているらしいことは、他でもない彼らSEALDsのたたずまいや身振り、言動のひとつひとつが何よりも如実に、具体的に証明している。たとえば、こんな具合に。

 日本の政治状況は悪化し続けています。2014年には特定秘密保護法集団的自衛権行使容認などが強行され、憲法理念空洞化しつつあります。貧困や少子高齢化の問題も深刻で、新たな生活保障の枠組みが求められています。緊張を強める東アジアの安定化も大きな課題です。今年7月には集団的自衛権等の安保法整備がされ、来年参議院選挙以降自民党改憲現実のものとしようとしています。私たちは、この1年がこの国の行方を左右する非常に重要な期間である認識しています。

 いまこそ、若い世代こそが政治の問題を真剣に考え、現実的ヴィジョンを打ち出さなければなりません。私たちは、日本自由民主主義伝統を守るために、従来の政治的枠組みを越えたリベラル勢力の結集を求めます。そして何より、この社会に生きるすべての人が、この問題提起を真剣に受け止め、思考し、行動することを願います。私たち一人ひとりの行動こそが、日本自由民主主義を守る盾となるはずです。

 ああ、なんと見事なまでの型通り。大文字政治状況を語るその語り口から平板で無味乾燥で、それらに続いて語られる「私たち」もまた全く変わらぬのっぺらぼう。背後にどんな生身があるのか、どんな生まれ育ちをしてきて何をどう悩み、考え、たとえ舌足らずだったり稚拙だったりしながらもどんな「ことば」を、自前で何とかみつけようとしているのか、そういう気配がきれいさっぱり感じられないまるであらかじめ漂白されたような白々しさ。このようなパッケージ化された「若者」をそのままに受け入れる生身が、これまてそのようなパッケージに梱包された「政治」と紐つけられ、さて、果たしてどんな〈それから先〉があり得るのだろう。

 かつてなら、専従の「運動」家になってゆく道もあるにはあった。労組全盛の頃ならば組合事務専従、そうでなくても食い扶持稼ぎとして大学生協の職員や図書館司書学校事務などに押し込んでもらうといった人生行路はあり得たし、その後も含めて現実政治の過程に学んでゆく可能性も、結果はともかくそれなりにあったはずだ。今、現役で働いている地方の議員や団体職員、公務員などの中に、そのような経緯でひとかどのオトナになってきた人がたは少なからずいるだろう。だが、このSEALDsたちはどうだろう。

 露わにされた断片などから見ると、彼らの親は概ね50代あたり。ということは、かつて「新人類世代」と呼ばれた80年代に「若者」だった者たちの、彼らはその子どもたちにあたる。それこそ、あの辻元清美香山リカ宮台真司の息子や娘であり得るような、そんな「若者」たちなのだ、とりあえず世代的な枠組みとしては。

 少し前「就職氷河期世代」ということが言われた。バブル経済崩壊後から今世紀に入って2000年代半ばに雇用景気が好転するまでの時期に概ね社会に出なければならなくなった、かつて「団塊ジュニア」と名づけられた世代のその後ということになっている。いまの時点での30代前半から40代はじめあたり。この「団塊ジュニア世代」に対して、SEALDsの世代は言わば「新人類ジュニア」ということになる。つまり、今回の新たな選挙制度の下、18歳で選挙権を行使し始めるのは「かつての新人類の子どもたち」ということなのだ。このことの意味についてはまた、もう少し深めてみる必要があるだろう。

 いずれにせよ、眼前の事実、〈いま・ここ〉の事象としてのこの「SEALDs的なるもの」の上演のありようは、好むと好まざるとに関わらず大きく変わってゆかざるを得ないこの国のかたちをこの先、どのようなオトナたちが構想し支えてゆくのか、そしてそのためにどのような後生の育み方をしてゆけるのか、などの課題を静かに考えようとする時、表層のけたたましさや雑駁さなどとは別に、かなり根の深い問いを投げかけていると思う。

思えば、かつて自民党、というのは、正しくオヤジ政党だった。

 オヤジでありイナカであり、地縁血縁であり、義理人情のどうしようもないしがらみであり、ミもフタもない利権共同体であり、土建屋であり不動産屋であり、さらに当たり前だが高度経済成長を具体化させた政策を後ろ盾に突っ走った財界のものであり、何にせよそういう「日本」、少なくとも高度経済成長期までそうであったような一次産業中心、稲作至上の農業基盤、だから当然「百姓」が国民の心性の中核に位置していたような、まずはそんなものを代弁している盤石の何ものか。

 「政権与党」というもの言いにはそういう、うっとうしいけれどもにわかにはさからいがたい、言わば未だに「家長」としての威厳が揺曳しているオヤジ雰囲気がしっかりこってりとまつわっていたのだ、少し前までの、あの「戦後」という空間においては。

 だから野党というのも、イデオロギーとして革新であれ何であれ、常にそういうオヤジに対抗する存在=若者、という属性を引き受けざるを得ないところがあった。冷戦構造下の保守革新という対立構造には、オヤジ若者、という、「戦後」の空間においてデフォルトとして仕込まれてしまった“もうひとつの対立”が必然的に重ね合わされていた。

2016/03/05 (土) イシバシ評論

ご尊顔(´・ω・`)

「年上」ということ――川村邦光さん「退官」に寄せて

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 川村邦光さんは、年上である。年上の、と口にして、さてそのあと何と呼べばいいのだろうとなると、そこでちと立ち止まってしまう。

 学者教員研究者、いずれそんな通り一遍のラベルを貼ってすませるのをはばからせる何ものか、があるらしい。友人というほどのおつきあいがあったわけでもなく、知り合い顔見知りというとただそれだけでもないような、何にせよそういう微妙な何ものか、が間にはさまる、そんな「年上」なのである

 初めてお会いしたのがいつ頃、どんな機会でだったのかは申し訳ない、すでに記憶が定かでない。名のある学会やこれこれこういう研究会の類でご一緒したのがご縁で、などというまっとうな出会いきっかけだったはずもないのだが、何にせよ、いつの間にやら自分の中で、ただの知り合い顔見知りというだけではない「年上」のひとりとして、名前とその仕事とが記憶されるようになっていた。

 『オトメの祈り』を出した頃、というともう20年以上も前のことになるわけだけれども、その頃まわりにいた同じような「年上」界隈に勝手に持ち回り吹聴して歩いた。おもしろいっしょ、ね? ね? という調子の、はた迷惑押し売りみたいなもんだったろうが、それでも中には素朴に素直に「おもしろい」と反応してくれる素朴で気のいい学者稼業というのも、確かにまだかろうじてあり得たのだ、その頃は。お堅い歴史学、それも近代史などという最も脂っこく、かつ剣呑で、あたしなんぞはもうあらゆる意味でつきあいたくない世間にマジメに生きるような人などが、へえ、こんな風な歴史へのアプローチの仕方もあるのね、などと眼をまるくしてたのを覚えている。なんかこちらまで一緒くたにほめられたような気分でうれしくなった。寺山修司なら「うれしくてカレーライスを三杯も」喰うところだ。

 その後、歴博の共同研究をダシに、そんな「年上」の人がたに厚かましくも声をかけ、こちとらまわりの悪童連と共に糾合して「遠足」(今は亡き、そんな「年上」のひとりの命名) 含みの愉快な道行きをやらかしたあたりから、初めて生身を伴う「ひとり」として認識できるような距離でのおつきあいになったらしい。もしかしたら先方、当の川村さんの方がこっちの存在を先に、離れたところから何となく見聞きされていたのかも知れないけれども、そのへんは知らぬが花、なんだろう。

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 「年上」というのは一律ではない。自分を基点にしておよそ10年くらいの間尺のうちに、ちゃんと認めることのできる、輪郭確かな「ひとり」として見ることのできるニンゲン、敢えて言葉にすればそういうニュアンスが含まれてくる。そんな「年上」が、駆け出し若い衆の頃にしっかり視野に入ってこれるかどうか。こちとら捨て育ちの野良もので、そういう「年上」に恵まれたとは正直言えない思えない。学部時代言わずもがな、間違って大学院にまぎれ込んでからも、ゼミ研究室の先輩連ともそんなつきあい方はしてもらえなかったし、またこちら自身が当時からその程度に外道だったんだろう、「研究」というもの言いが昨今のように縛りのきつい呪文になってはいなかった時期だけれども、でもそういうガクモ世間研究沙汰を介した仲の良さ、良い意味での「内輪」のありようをいつもよそごととして感じていた。世間並みの年上、先輩後輩な序列を前提にした関係に背を向けた報いはその後の過程で少しずつ思い知ることにもなる。「年上」とのつきあい方を学びながらこちらもオトナになってゆく、そういう関係をある程度歩留まり良く準備してくれる仕掛けが、たとえば若衆宿とかの「民俗」だったのだろうと勝手に思っている。

 けれども、ここは世の中の通例と異なる渡世のありがたいところ、たとえ実際にツラあわせてことば交わすことなどずっとないままでも、本や活字を介したつきあいというのがある。書いたもの発言したことなどは媒体介して見聞きすることはできるし、また何かの拍子に風の噂、又聞きの類にでも消息最近どんな仕事をしてるのか程度のことは耳に入ったりもする。だから川村邦光という御仁はずっと変わらず、あたしにとってはほんとに数少ない、そんな「年上」のひとりでありました。

 とは言えこの年上、学者研究者としての通りいっぺんの出自来歴ってのも、実はあまりよく知らないままだった。東北大で宗教学で、ってのは知っていたが、それ以上のあれこれはまともに聞いたこともないし、またこちらも敢えて詮索しようとも思わなかった。思う必要がなかった、という方が正確だろう。そういうおつきあい自然にできるような「年上」というのもまた、貴重なものだということを本当に思い知るようになるまで、その後だいぶかかった。けれども、ほんとにそうなのだ

 例の「オトメ…」シリーズ(勝手にそう呼んでいる、お許しあれ)のはじめ一?は、天理大学にいた頃の「仕込み」で形にしたものだな、と思っていたし、それは大筋間違っていないだろう。世間並みの流れから「おりる」ことと仕事の「仕込み」とが人生行路のある時期に、後から振り返れば結構いい頃合いに準備されていた、おそらくご自身もそのことに思い至ったのではないだろうか、とここは勝手に推測しておく。俗世世間的な「評価」だの何だのは知らない。知ったこっちゃないしそんなの、こういう「年上」には関係ない。

 そのような意味で、同じ「年上」でも自分の中では、高橋康雄堀切直人、などと同じ箱に入っている。いずれの御仁も「歴史」に対するにじり寄り方において期せずして同じような認識方法意識と、その上に立った資料素材テキストとの対峙の仕方やその際の「読む」速度や調子の保ち方、そして何よりそれらを実践する主体、他でもないご本尊のありようそのものもひっくるめて、まさに「まるごと」としてのっぴきならない「そういうもの」感を問答無用、能書きいらずの確かさで示している、そういう知性であり書き手であり読み手であり、ああもうめんどくさい、口はばったいけど言っちまう、要は「初発の民俗学的知性」ってことなんだからして。

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 身すぎ世過ぎ、喰ってゆく手立てとしての大学教員稼業、そういうモード日本語環境での人文系にあたりまえに仕込まれていた、おそらくはそのもうかなり最後時代、どういう経緯があったのか知らないけれども国立の、それも東大京大などともまた違う、中途半端なしちめんどくささがこってり粘りついてそうな阪大に移られてから果たしてどういう日々を送られていたのか、そのへんについてもほとんど何も知らない。どんな講義や演習をやっていたのか、どんな若い衆に有形無形の影響を与えていたのか、そんなこともわからないまま。まあ、阪大まわりとおぼしき民俗学文化人類学、いずれ人文系界隈の若い世代仕事に接したり、まれにそういう生身とひょんなことから行き会うこともないではなかったけれども、正直あまり印象に残ってなかったというか、縁なき同時代のその他おおぜい以上の認識を持てない物件がほとんどだったってことは、ああ、同じ阪大ったって広いんだろうな、でもせっかくそこにいたらしいのに、あの川村さんの薫陶というのをうまく受けることのなかったような、そんな気の毒な人がたなんだな、とこれまた勝手に理会してそのまま通り過ぎていた。

 それが数年前、ほんとに藪から棒に研究会みたいなのをやるから出てこい、というお招きを頂戴して、なんでまた、と思っていたら、どうやらそれが川村邦光の若衆宿とその界隈からの呼び出しだったらしい。永らくお会いしてなかったご本尊にもその時、十数年ぶりにお目にかかれたのだが、これまたいい具合に枯れてしなびとられてて(ほめ言葉のつもりであります為念)、あれこれ大変だったのは確かだろうけれども、でもまあこうやって国立大学の中に身を置かれ、それなりの若い世代にも囲まれておられるのをこの眼で確認して、なんかまたひとつこういう「年上」からの学ばせてもらい方について、ちょっと考えさせられるものがありました。

 人文系の知性のスジの通った年老い方、てなことは敢えて問うたところで今さら詮無いこと、ただ、前々から耳にはしていた奥さんとあの猫のコタロウことなど、身のまわり半径身の丈のことどもについては、もしもまたそんな機会があり、そしてお気持ちがそのように向いたならば、ウダウダ呑みながらで結構ですので聞かせてください。

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2016/03/01 (火) イシバシ評論

われらがサトハチ(=゜ω゜)ノ

書評 サトウハチロー『僕の東京地図』 (1936年 有恒社)

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 古書書評、というのはあまり見たことがない。いや、その筋の趣味人好事家道楽者の界隈には紹介言及ひけらかしな蘊蓄沙汰はそりゃ古来各種取り揃えてあるものの、それらは概ね書評というのでもなくお互い手のこんだマウンティング、こじれた相互認証の手続きをそれぞれ身もだえしながらしちめんどくさく垂れ流しているようなシロモノが多い。つまりそこでは古書は単なるダシでしかないわけで、その臭みが時にどうにも疎ましかったりする。加えて昨今、web環境の進展に伴いそれまでともまた体臭の違う基本フラットでマイルドで清潔で、しかしその分どういうものか無自覚に無礼で不遜で可愛げのない古書いじりの増上慢が横行し始めていたりするのでなおのこと。そもそも書評というのは評する主体、「読む」側の器量が良くも悪くも映し出されちまうおっかない形式のはずなのだが、メディア舞台でのそれは新刊書に対するブックガイド、それもある時期からこっちはとにかく業界事情や世渡りの思惑まみれで当たり障りのない広告宣伝提灯持ち的役割が主だったせいだろうか、いずれにせよ新刊書でない古書をめがけた書評というのはやはり需要がないということには昔も今も変わりないらしい。

 思い返せば、未だ懲りもせず刊行される新刊書にまともに興味関心を持てなくなっても久しい。ぶっちゃけ今世紀入るあたりからこのかた、あ、こりゃ気力体力のムダかも知れん、と思い切り、もう積極的に新しい本を追いかけられなくなっちまった。その分、手元にためこんじまった古書雑書ゾッキ本その他の紙のボタ山からとっかえひっかえ、いや、それでもまだ新たに少しずつ積み増しもしながらだけれども、いずれためつすがめつ繰り返しめくっては付箋を貼りメモをとり、気が向けばやくたいもない備忘録や断片をあてもなくつづってみたり、てなことばかり宛も目算も特にないまま日々の習い性にしてきているここ十数年。いやいや、なんのこれもまたひとつ現場、紙の意気活字の野戦感覚を磨いてゆく稽古演習の過程と、表立っては口にはせぬがそっとつぶやいて心励まし、またぞろ眼前の山からひとつ抜き出しては持ち慣れた頭陀袋ひとつに収めてさて、今日もまた同じような日々の道行きが始まる。


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 サトウハチローの『僕の東京地図』(1936年 有恒社)は、そんな日々の道行きにつきあってもらっている常連のうちの一冊。初版昭和11年だから、ざっと80年ほど前の新刊だけれども、なめちゃいけない。未だいつどこから開いてもそのたびに新鮮な発見、枝葉の如く繁ってゆくイメージやとりとめない感興がこの老化著しい脳髄まわりからでさえ惜しげも無く引き出されてくるのははて、ほんとにまったくどうしてなんだ、と不思議がってばかりでもうずいぶんになる。

 戦後昭和21年労働文化社から、そしてまた最近2005年ネット武蔵野というという小さな版元から、それぞれ復刻というか同じ書名で出されていたりするが、残念なことに中身が端折られてたり新たに書き足されたとおぼしき部分もあったりで、まあその分行って帰って値打ちは相殺かも知れんのだが、それでもやっぱりここはもとの版、首尾一貫した調子で当時の〈いま・ここ〉、時代の空気がその微粒子のようなものも含めてしっかり締まったおさまり具合になっている元祖が格別。さらに言えば、こちとら手もとの色褪せ朽ちて背表紙あたりなんざ手垢まみれのボロボロなっちまってるこの裸本こそが好ましく、また手になじんでもくれるというもの。なじみの店のオンナのコのようになつかしい。

 「僕の銀座、君の銀座あなた銀座わたし銀座。気取っていふならば御身の銀座、わがための銀座。おッかなくいふならば貴様銀座、小生の銀座。ざッくばらんにお前の銀座、オレの銀座、そなたの銀座、わらはの銀座、主の銀座、わちきの銀座、旦那の銀座、マダムの銀座、若人の銀座、老人の銀座(あゝきりがないきりがない)ことほどさように、われ等の銀座である。」

 詩人である。だからかように「うたう」のである。うたいながら、まちを堂々、往くのである

 流行歌でも童謡でも、戯作めいた随筆でもなじみの食い物屋の宣伝文句でも、もういっそすがすがしいくらいに一貫したリズムと調子でその持ち前の愛嬌と共に押し通して、しかし素朴な「うた」の呂律を手放さない。それでいてどこか知らぬ間に「はなし」にもつむいでつないでゆける、そんなことばのありようがわれらがサトハチの書きものの本領。何も「文体」などという裃つけたもの言い持ち出さずとも、これは立派にひとつの「個性」、輪郭確かな書き手の骨太なたたずまい、彼の書いたものどれもこれもにずん、と貫かれているゆるぎない味わいの源泉なのだ

 「浅草は、僕の第一の故郷だ。ふるさとのなつかしさは、かくべつだ。浅草へ行くと、誰もが(いや待てよ)何でもかんでも僕に會釈する、あいさつする、肩をたたく、迎へてくれる。僕ばかりではあるまい、浅草はさういふところなのだ。」

 冒頭、いきなりの浅草、そしてまた浅草。小さい頃から文字通りうろつきまわった盛り場の個別具体、細部のあれこれが、しかしあくまでも彼の身の裡の体験や記憶を介して改めて眼前に開陳されてゆく心地よさ。

 食い物がひとつターミナルになっているのも「健康優良不良少年」サトハチならではだけれども、本拠地浅草で景気をつけて、そこから上野木場お茶の水から神保町に四谷、向島へ飛んだと思うと池袋にとって返し、大塚界隈をうろうろする。そして銀座、僕の銀座あなた銀座にしばらく逗留、夜と昼との相貌の違いなどにも筆を走らせ、牛込に早稲田小石川から本郷帝大ときて、山の手の新興盛り場新宿ムーランルージュ三越裏、再び四谷あたりから神宮外苑日本橋に蛎殻町、薬研堀からずっとまた下町へ足を向けて月島佃島八丁堀、再度の上野動物園に帝室博物館谷中へ抜けて三崎町から團子坂、千駄木白山巣鴨中里、果ては田端瀧野川まで出かけてゆく。返す刀で靖国神社芝公園放送局はNHKで麻生十番から品川へとくだって新興大森蒲田の賑わいにも首を突っこむ。このへんから仕切り直し気味に再び伝手と記憶をたどりながら浅草吉原下谷あたりをここはゆっくりこってりぶらつきながら、丸ビル日比谷に帝劇、そして東京駅でめでたく打ち止めという次第。もとは『東京朝日新聞』の連載だったと聞くけれども、なるほどそれぞれひとまとまりはコンパクトで見通し利く範囲で、何より活きの良いまますんなり読めて肩も凝らない。ひとり散歩のそぞろ歩きの、そして時には当時の同時代気分を表象する、彼も好んで使ったあの「行進曲」の速度とテンポ昭和初年、帝都の〈いま・ここ〉がこちとらの身のうちに響きながら、いつしか何かしらの像、具体的なイメージをすらしっかり結び始める。

 「尾張町近く森永のキヤンデーストア−。そこにはラツピングマシン。譯して自動包装機といふ。チョコレートクリーム板チョコが、自動的に包まれる機械だ。(…) 電車通を越えませう。池田屋本店なる毛皮屋がある、そこに熊がゐる。勿論ハクセイだが、こごみかげんで、歩いてゐる姿だ、背中につくりものの鮭を一匹背負ってゐる。小學讀本で教はッたとほりに、ちゃんと笹の小枝に通してゐる。笹の葉はすッかり枯れてゐる。(…)すぐその先が、丸八ァ銀座のノミトリ粉の松澤八右衛門だ、丸八丸八と覚えてゐて、松澤といふ姓だとは僕もいままでは気がつかなかッた。右のかざり窓には畫帳などがづらりとならび左の方にはこれ又サボテンマスゲームてゐる。(…)さて向ふ側だ。愛するカフェーキリンがある、ビールうまいし、サンドヰツチもうまい、だが、こゝの飾窓の小さい牛のつくりものだけは、裏へ片づけていただけないかしら。その昔浅草のちんやに、牛のはらら子の瓶詰が、かざつてあつたのと、同じ効果を銀ブラ族にあたへると思ふが、いかがでございませうか。」

 その頃、たとえば新感覚派などがマジメに本気で目指していたとされる当時のモダン相、都市部の新たな〈リアル〉の速度や猥雑、全方向に喧噪がひしめきあう日常の体感を、できる限り見たまま聴いたまま感じたままに、調律されたことばにおろしてゆく営み。それがこんな形でいともあっさりと、衒いも何もなく無造作に放り出されてあるように見える。才能だの技術だのじゃない、それ以前の「育ち」の違い、生まれてからの日々の過ごし方がどうしようもないまでにその他おおぜいの凡俗とは違っていた、そういう「違い」の否応なさとそれゆえの当時としてはまだちょっとあり得なかった早すぎた「ひとり」のありよう。間違っても当時のブンガクになどそのまますんなり向かうことのなかった天然自然な「表現」への欲求。ああ、今だってもしもこんな具合に書けたら、声に出してうたえたらどれだけ気持ちいいだろう、と素直に憧れのココロを引き出してくれる一冊なのだ

 忘れてた、この本、装幀も挿絵もなんと横山隆一。文中、とりあげた店などの広告もさしはさまれていて、それも彼の手によるとおぼしきものが混じっている。ある種広告がらみの企画だったのだろうか、そういう事情も含めて「読む」ことの愉しみを満身で受け止めてくれるブツであること、申し添えておきたい。


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 「京橋新川お稲荷さんの多いところはない。酒問屋では大てい一つづつお稲荷さんを持ってゐる。僕が行った時も、寳録稲荷のお祭で、余興數番ありなんていふ書きビラが電柱に貼りつけてあつた。

 福徳、入舟、舟玉、寳録(あ、この下にみんな各々稲荷といふ字がつくんですぞ)もう一寸大きいのに、大栄稲荷といふのがある。新川一の三だ。こゝの神主さんを小平勝次郎といふ。昔なら、父と兄と二人を討たれて、仇討ちに出さふな名だ、名は二枚目だが大分しなびてゐる。これが、木やりの研究家だ。いまは神主をしてゐるが、もとをたゞせば鳶だ。火事の時の筒先きのお職(うれしい名ですな)だッたといふから大したものだ。町内の頭だッたのだ。木やりが上手だつたに違いない、それから段々研究にはいつたのだらう、前身仕事師の神主さんなんてものは、さうざらにあるもんぢやない。」

 「都市」はうっかりと身の丈を超えちまう仕掛けがそこここに張り巡らされてゆく状態である、てなことをそう言えばもうずいぶん昔、ものを書き始めて間もない頃に生意気に口走ってたような気がする。確かに、ここにはそんな「都市」が、しかし身の丈超える仕掛けの中にそれでも〈いま・ここ〉にしかあり得ない個別具体の確かさで記述へと運ばれてきている。だが、「細部」だの「ディテール」だのといまどきの能書きでくくっちまう野暮はやめとくが吉。喰い物と顔見知りと路上の交わりと、それらを一緒くたに触媒にしながらサトハチの生身の裡から引き出されるさまざまな記憶や思い出の断片が、眼前の音や声、匂いや気配、ことばやもの言いなどをまつわらせながらひたすら紙の上に綾なし渦を巻き、安っぽくも絢爛豪華な千鳥足の道行きとして現前している次第。だから、こんな場面もしっかりと紙の間尺で切り取れる。

 「木やりは誰が上手です」と聞いたら、「神田のサギ町のをぢさんでせう」といつた。サテ神田にサギ町なんてあつたかしらと考へたら「佐柄木町の小川光吉さんですよ」と重ねていつてくれた。佐柄木町がサギ町と、こつちへ聞きとれる。昔の口調が、まだ残つてゐるんだと思ふと、一寸うれしくなつた。

 「昔は重いものを動かすのに、木やりがなければ動きませんでしたからな。いまぢや機械を使ふんで、すたりましたよ、白酒柱だてなんてものは歌澤となつて残つてますよ」

 たとえば、あの今和次郎考現学、どこか大正的知性のかったるさを引きずる文章でなく、実はこちらが本領とばかりに欣喜雀躍、ひたすらはしゃぎまわった気配が漂うあんな図版こんな意匠のさまとその並びを脳裏に重ね合わせて映し出しながら、あるいは、かの柳田國男は『明治大正史・世相篇』の東洋文庫版旧字混じりの字ヅラを想起しながら、ひとつ声に出して読んでみようじゃないか。同時代の生身の生きて呼吸していた空気雰囲気が、うっかりこの21世紀に身を置いちまってるこちとらの身の裡にもまっとうに感得されてくるようなものだからして。そんな意味での「歴史」「叙述」だったりするんだからして。

 「みなさんのうちで佃島へ行ったとがある人が何人あるでせう。川一つへだてきりなんだが、ここへくるとまるで違ふ。第一匂ひが違ふ。磯臭い匂ひがする。東京といふより近縣の漁師町の匂ひだ。いたづらに臭い匂ひぢやない。なつかしい匂ひだ。僕はアセチリンガスの匂ひを嗅ぐとおふくろを思ひ出すタチだが、この匂ひもをばさん位は思ひ出す匂ひだ。」

 ほぼ煮崩れしちまってるいまどきの古書市場でもまずは4ケタ後半、美本ならどうやら5ケタ越えの値も未だについちまうらしいシロモノなのは、そういうことばの魅力、うたをはらんだ文体の射程を評価する視線が市場に少しでも残っている証しなんだと思いなして、そうか善哉善哉、ならばいざとなったらこのボロい一冊も叩き売りゃまた小遣いくらいにゃなるか、とまあ、そういう信頼もまた宿してくれるのが、これら古書雑書やくたいもない紙の書物の今なお健気で可愛いところなのであります。

 浅草その他、昭和初年のモダニズム、当時前景化していった大衆社会化とそれに伴う新中間層ベース都市生活文化への興味関心が、めて若い衆世代を中心に盛り上がってきているような日本語環境での人文系ガクモン沙汰の昨今、この一冊も主に浅草がらみで引き合いに出されることもあるけれども、いまどきのもの言いでの「サブカル」がらみの読み方味わい方だとどうしてもどこかひとつ薬味がきかぬ憾みもある。いや、それもまたひとつの「研究」視線、「業績」縛りないまどきの知性の習い性なのかも知れないけれども、そしてまた「細部」「ディテール」の類を称揚してみせる身振りそのものもそのような習い性と無関係のわけもないはずなのだけれども、長年のサトハチ贔屓、その「うた」と「はなし」をおのが身ひとつに抑えこんでゆくような生身のありよう、ことばの闊達に、不遜ながらも民俗学的知性の初志の気配を直観的に察知しちまってるこちとらなどからすれば、ああ、もったいねえなあ、とちょいとしかめっ面のひとつもしちまう時もあったりするのだ。

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2015/12/24 (木) イシバシ評論

うちの女房にゃ髭がある(´・ω・`)

「恐妻」とその周辺・ノート 

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 「恐妻」というもの言いがあった。昨今ではもうあまり使われなくなっているようだが、敗戦後、昭和20年代半ば過ぎあたりから、当時の雑誌ラジオその他のメディアを介してある種「流行語」になっていたとされる。

 この種のもの言いを糸口に何か考察を始めようとする際の常として、言いだしっぺは誰で、またそれはいつのことだったのか、といった方向での「起源」の詮索が始まる。いまどきの情報環境のこと、デジタル化されたアーカイヴスを利用してこの「恐妻」というもの言いの経緯や来歴についても比較的容易にある程度の見通しがつけられるようになってきている。*1

 ここではそれらを前提にしながら、その「恐妻」というもの言いが当時の同時代の情報環境においてどのような受け取り方をされ、どのような気分を醸成させていったのかについて、それらが増幅されてゆく過程でのメディア情報環境のありようを補助線にしながら、今後「民俗」レベルも含めたより大きな「歴史」の問いとしての「恐妻」論に資するはずの論点を、今後の考察の足がかりとして示してみたい。


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 「恐妻」が戦後、ブームになっていった経緯にはいくつかの発信源が認められる。ひとつは、活字メディアである新聞雑誌を介して拡散していった阿部眞之助や大宅壮一の界隈。もうひとつは、源氏鶏太小説『三等重役』とそれらの映画化を契機にした経緯である。これらはいずれも昭和20年代半ば過ぎの時期に、それぞれ複合しながら当時の情報環境において「恐妻」というもの言いを新たに拡散、増幅してゆく主要な経路となった。*2

 もともとは、漫画家近藤日出造のまわりで起こったちょっとしたできごと、仲間うちでの挿話に過ぎなかった。それがたまたま新聞」のゴシップ欄に紹介され、それについて当時すでに老境にあったジャーナリスト阿部真之助が「週刊誌」のコラムで触れた。この時点で「恐妻」というもの言いはその字面と共に当時の同時代の気分に何ほどかの刺激を与えたらしい。各方面からの反響も含めてこの「恐妻」に敏感に反応した大宅壮一が持ち前の「宣伝力」であちこちに吹聴して歩き、それがさらにあちこちに予期せぬ反応を招いてあれよあれよという間にブームになっていった――活字メディアジャーナリズムの間尺で「恐妻」が注目されるようになった経緯は、とりあえずこのようなものだったらしい。*3

「民芸」という新劇団体がある。この団体の後援会ができた。5年ほど前のことだ。新橋の「蟻屋」という喫茶店の二階で、民芸同人後援会員の集りがあった。その席上、新劇団体がいかに経済的に苦しいか、というような話が出、ことのついでに「団員のまさかの場合のために共済会をつくる必要がある」と話題が進んだ。その時である。「この顔ぶれを見ると、共済会よりは、恐妻会の方が先にできそうだ」と誰かが一座を笑わせたのは。この席に出席していたのが一期の不覚。生真面目な共済会の話よりは笑い話の恐妻会の方にみんなの口が集り、さしづめ誰を恐妻会の会長にするか、とめいめいの顔を眺め合い、結局一番ツラの大きいボクに一同の視線が止って、初代会長近藤日出造、と名誉職祭りあげられた。それまで一切の名誉職というものから見放されていたボクは周章ろうばい、「とにかく、家に帰って女房とも相談の上御返事をする」と思わず口走ったのがまずかった。「その一言で、日本恐妻会会長たるの資格がイカンなく確認された。まずはめでたし」と一同拍手。このいきさつが翌々日あたりの毎日新聞ゴシップ欄に発表されたのを見て、人の口の端の軽々しさに一驚したのである*4

 この時、同席していたのは森雅之宇野重吉服部良一藤浦洸杉浦幸雄、富田英三、岡倉士郎など。5年ほど前、という文中の記述に従えば昭和25年頃。「恐妻」が本格的なブームになったとされる昭和27年よりも早い。このへんはその後の拡散浸透、増幅の過程に時間がかかったということかも知れない。当時、劇団民芸は第一次民芸がGHQの占領政策の転換に伴うレッドパージあおりを受けたこともあり解散、第二次民芸へ向けての再編を画策していた時期にあたり、この蟻屋の二階を劇団の稽古場にもしていたという。後援会というのは、同じくこの蟻屋によくたむろしていた漫画家杉浦幸雄名付け親になった「民芸の仲間」のことか。彼ら当時の漫画家、近藤や横山隆一らを中心にした「漫画集団」系の者たちは、近藤も含めてこの店のできた敗戦直後、昭和21年当初からの常連客だった。

戦争直後、新橋と土橋との中間に「蟻屋」という喫茶店があった。戦後の混乱時代、ここには宇野重吉滝沢修森雅之、細川ちか子らの新劇俳優石川達三邦枝完二北条誠らの作家吉村公三郎渋谷実山本嘉次郎、高峰秀子らの映画人、そのほか服部良一石川滋、宮田重雄藤浦洸らの画家詩人、それに横山、杉浦、近藤以下の集団の面々が集まり、文化人の社交場のような場所であった。やがてここに集まった新劇人が、劇団「民芸」を創立し、ここに集まった文化人が、「民芸の仲間」という後援会をつくり、初代会長杉浦幸雄がなった。*5

 阿部が明治18年(1884年)、大宅が明治33年(1900年)の生まれで、当時それぞれ60代と50代。一方、近藤は明治41年(1908年)生まれの40代。まわりの人間にしても、杉浦と森が森が44年(1911年)、宇野が大正3年(1914年)、岡倉が明治42年(1909年)と、みんな40代かそれ以下。同じ「恐妻」というもの言いは、阿部や大宅など明治生まれの、当時としてはすでに老年に達していた世代にとってのそれとまた異なった調子を伴いながら、彼ら蟻屋にたむろしていた、大正期にものごころがつき、その後昭和初期にかけて青年期を過ごした者たちの耳には響いていたはずだ。*6


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 ブームになると言い出しっぺ的な先陣争いめいたことも起こってくる。「恐妻」というもの言いの「起源」沙汰ですでに名前の出ていた徳川夢声が、本格的に流行語になったとされる昭和27年1952年)にこのようなことを言っている。ちなみに夢声は明治27年(1894年)生まれ。同席の辰野が明治21年1888年)、林髞が明治30年(1897年)と、いずれも当時すでに還暦前後の世代である

 恐妻組合ということを言い出したのは私なんです。7年ばかり前でしたかね。いやもっと前かも知れませんよ。当時、阿部真之助さんと小林一三さんの夫婦の話から、共済組合にひっかけて言い出したんです。奥さんのほうがどうも強い。奥さんの強い人は家じゃしょうがなくて、そとへ出ると強い。(…) 強い奥さんを持っていることは誇るべきことである、よろしくここに強妻組合を組織して……なんていう冗談を言ったんですな。それがだんだんに内容が変わって来て恐妻組合てえことになったんですな。*7

 冒頭、辰野隆が「この間火野(葦平氏)と旅行をしましてね。その時に“恐妻会”ということを聴きましたよ。(…)あれは火野君の主唱じゃないらしいですね」と口火を切ったのに応えての発言である。どうやら火野が「恐妻会」の首魁説というのも、一部であったらしい。

 その火野葦平は戦後、追放が解除されて以降の精力的な執筆活動の中で、「艶笑もの」と分類されるような小品や随筆、雑文を書いているが、その中のひとつにこんな一節がある。

 オンテレ・メンピン――この符牒のようなことばは、私たち友人の間に広汎に浸透している。ということは、そのことが悲しくも肯定されているということであって、ほとんど人間の宿命のごとくに抵抗感を喪失せしめているのである。女に勝たうと思うな――こういう不文律に屈している者に、女房を教育する力などあるわけはない。*8

 「オン」はオス、「メン」はメスで、「ピン」は、ぴんぴんしている、はげしい、勇ましい、「テレ」はてれっとしている、だらしがない、ぼんやりなどの略語の由。「私たち友人の間に広汎に浸透している」と言うのだから、これはこれで火野の周囲の文学系の内輪で共有されていた気分に対応していたのだろう。

 ただ、火野はここで「恐妻」というもの言いは使っていない。このような夫婦関係が「平和で文化的であるという「女房教育」という観点からの方法的効用を述べたもので、それもいわゆる「九州男児」などに対応するおんなのタフネスとそれらを前提とした主体性への憧憬、といった彼ならではモティーフが前面に出てきている分、オトコとしての主体のあり方についての自省からは距離があり、まただからこそそれまでの花柳小説や随筆などに共有されていた価値観や女性観との間が、その読まれ方も含めて、良くも悪くもスムースに連続する言説にもなっている。 *9

 女房の方は亭主は浮気するものと定めているらしい。(…)女は幻覚を作り出す名人だから、どんなに弁解しても駄目だということを私は知っている。弁解はかえって疑惑を大にする。沈黙に越したことはない。(…) このごろでは、私は沈黙こそ最大の教育であると信じないでは居られなくなった。*10

 「家庭」の外でのオトコの行状≒「社会的な領分」が「家庭」の側からどのように見られるのか、殊にその「家庭」を裁量する女房=オンナの側からはどう見られ受け取られるのか、という問いが当のオトコ=亭主の側に宿ってくる。その過程で「家庭」をうまく制御し操縦するという課題が、オトコにもオンナにも共に意識されてこざるを得なくなる。オンナの側からは、たとえばある時期から増えていった「家庭読本」的な実用本の中身に象徴されるような「主婦」を前提にしたノウハウとして示されていったのに対し、オトコの側からは、「家庭」そのものよりもそれらを経済的に維持し支える(と考えられていた)「社会的な領分」をいかに確保し維持してゆくかという、「世渡りの秘訣」的内実を伴ったものとして現れていったフシがある。それは、給与生活者である都市部中間層ライフスタイルにおいては明快であり、切実なものとしてとらえられることになっていった。「恐妻」というもの言いもまた、そのような「家庭」というまとまりが自明に存立するものでなく、意識的かつ主体的に関わりながら安定を保つよう制御せねばならない存在として意識されてゆく過程で、その「家庭」を直接に具体的に意識してゆくことへの葛藤や戸惑いをオトコの側から期せずして表現するものとして現れてくる。「家庭」の個別具体として認識向かい合うことから逃げる、その表現としての「恐妻」というのは戦後の過程でブームになってゆく以前、「家庭」というもの言いが意識されるようになってゆく経緯の裡にすでに宿り始めていたと言えるだろう。


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 このように戦前にまで焦点を広げた視野で「恐妻」の系譜をたどろうとする時、ひとつ見逃せないのは、昭和初期から新たなコンテンツとして輪郭を整えていった漫才の中に早い時期から成立していた「夫婦漫才」という形式である漫才が戦前の京阪神情報環境を背景に新たな芸能、モダンな都市中間層の感覚にフィットした「話しことば」の〈リアル〉を体現した表現としてその輪郭を現わし始めた当初の段階ですでに、この「夫婦」という形式が確立されていたことは興味深い。*11

 「強いオンナ」とそれに振り回され右往左往するオトコ、という構図。そのオンナの「強い」というのも腕力や体格など身体的な優越に根ざしたものではなく、むしろ体格では「小さい」ことになっている。そんな彼女武器とするのは概ね「ことば」であり、相方のオトコはそのことばに「やりこめられる」。そのように右往左往し翻弄されるオトコの側は当然、オトコは自明に優位にあり「えらいもの」という当時の通念を前提に性格づけられている。このような関係が、当時の初期の漫才の、友人や顔見知りという関係を前提にしたものでなく、はっきり「夫婦」という形式を要求していたこと自体、性別の異なるオトコとオンナが対等に、友人のように「立ち話」をすることが、未だ芸能というつくりものの定型としてでも、いやだからこそかも知れないのだが、いずれにせよ受け入れられにくかった当時の同時代感覚がうかがわれる。

 大阪を背景にしたそれら「夫婦漫才」の形式は、後の「恐妻」にもゆるやかに連なってゆくような、男女関係についてのある種のイメージを人々の間に定着させるものになっただろうし、またそれは「家庭」という新しく姿を現し始めた単位が、都市部モダニズムという文脈の中で、たとえ芸能というつくりものの定型を介したものだとしても、共にひとりの「個」であるような、そしてある程度まで対等であるような「夫婦」というひとつの具体的な形を伴って提示されたものでもあっただろう。

 「フェミニスト」というもの言いも、この頃から一部で使われ始めている。もちろんそれは今日言われるような文脈とは大きく異なり、オトコという主体の側から単にオンナを大事にする、尊重するといった程度の意味に過ぎなかった。だが、たとえそうだったせよ、その「大事にする」「尊重する」こと自体がひとつの態度表明になる程度にそれは間違いなく「新しい」オトコのあり方を示すもの言いになってもいた。それ以前ならば「軟派」と片づけられ、軽侮されてもいたようなあり方から少しずれたところに現れたオトコのありよう。それは「恋愛」という、あらかじめ現実離れした幻想として立ち現れざるを得なかった近代化の過程における男女関係のありように対して、ようやくひとつの具体的な定型を示し得るものとしても受け取られていったはずだ。

 とは言え、それは同時にそのようなオトコの側の自省、少なくとも韜晦という装いを伴った自己相対化を伴わざるを得なかった。概ね大正期から昭和期にかけて、「笑い」や「ユーモア」といった要素を伴った表現が、メディアコンテンツとして都市部中間層を中心に受容されていった過程には、そのような「恐妻」を半ば苦笑いと共に自覚せざるを得ない感覚が必ず貼りついていた。たとえば、こんな風に。


       何か言おうと 思っても

       女房にゃ何だか 言えません

       そこでついつい 嘘を言う


       朝の出がけの 挨拶も

       格子を開けての ただいまも

       なんだかビクビク 気がひける

       

       姿やさしく 美しく

       どこがこわいか わからない

       ここかあそこか わからない *12


 「うちの女房にゃ髭がある」という唄の一節。作詞者の星野貞志はサトウハチローペンネームと言われている。同名の日活映画 (監督千葉泰樹 1936年)の主題歌として、レコードなどを介して流行したものだが、原作というか原案は当時、東京日日新聞記者で人物評論や漫画探訪その他で活躍していた和田邦坊のユーモア小説*13 映画化された際の主題歌だったこと、メディアの増幅力という意味で圧倒的にサトウハチローの名前が残ってしまったフシは否めないものの、いずれにせよ当時の「漫画」経由での「映画プラス流行歌」というメディアの複合により広まり、受容されていったイメージということになる。

 昭和初期の都市部を中心に進展した都市化と大衆社会化状況の下、伸張していった「新中間層」的サラリーマン層のモダンな生活意識に対応する新たなコンテンツがさまざまに姿を現わし始めていた中、「漫画」もまたある種の新しい価値観世界観を敏感に反映していた。それは「ナンセンス」「ユーモア」などの新たなカタカナのもの言いと相まって、当時としては突出した相対化の意識のもたらす自省を前提とした「恐妻」を裏打ちしていた気分の重要な構成要素のひとつでもあった。

 それは、たとえば小林一三が新たな娯楽の受容主体として想定したような「家庭」というイメージが、ようやく期せずして具体化したという一面もあっただろう。「家族揃って楽しめるような」娯楽の提供を志した小林一三と彼の東宝が、大正期の初期中間層の醸成に伴い、有力なメディア産業になっていったように、関東大震災以後のそれまでより一段と強まった大衆社会化の流れの中で姿をはっきりと現した漫才という芸能において、その「夫婦漫才」的な定型において初めて、人々はオトコとオンナの「関係」を自分たちのそれぞれの日常と地続きの水準で、参照し得る雛型として認知できるようになったのではなかったか。「恐妻」というもの言いに対応する気分や意識の浸透も、そのような「家庭」に見合ったオトコとオンナの関係のあり方を仰視するその他おおぜいの人々のココロの視線に附随して起こっていったことではなかっただろうか。*14f:id:king-biscuit:20151224143945j:image

*1:服部このみ流行語「恐妻」について」『金城学院大学大学院文学研究科論集』21,pp.54-39,2015年国立国会図書館デジタルコレクションを用いた調査により、三田村鳶魚佐々木邦平山蘆江の作品から「恐妻」の用例を示しながら、鳶魚の記述を根拠に「1924年には使用されている言葉であったことがわかった」と明言している。デジタイズされたアーカイヴスを介したこのような検索作業とその結果の「わかる」のつながり方はそれ自体、近年の日本語環境での人文系の手の内に当たり前に宿っているものらしい。捨て育ちの経歴のまま古書雑書を「趣味」任せに遊弋しつつ千鳥足のしらべものを長年たどってきた筆者などの手癖や習い性とは良くも悪くも違う、整然としたフラットな情報環境を前提にした効率的アプローチではある。ただ、この彼我の「違い」についての方法的な意味も含めた検討は、外国人研究者による「日本研究」を介しての課題「発見」の経緯表明などと共に、また別の大きな問いを引き出してくるものにもなるだろう。

*2:服部は、源氏鶏太研究を手がけていたためか、この源氏鶏太の『三等重役』を介して増幅された1952年以降の過程が「恐妻」が流行語となってゆく経緯の主流だったと見ている。

*3:この経緯については、主に以下の文献に収められたものに依っている。1964年に阿部が没した後、遺族によって改めて編まれたものなど、収録内容の重複しているものもあるが、晩年NHK会長職などにあった阿部の当時の情報環境における立ち位置や、メディアを介したそのキャラクターの受け取められ方なども含めて、今後別途考察してゆく必要がある。阿部眞之助『恐妻一代男』文藝春秋新社、1955年近藤日出造『恐妻会』朋文社・プラタン叢書、1955年。阿部眞之助『現代女傑論』朋文社、1956年大宅壮一『女傑とその周辺』文藝春秋新社、1958年大宅壮一木村毅・浅沼博・高原四郎・編『阿部眞之助選集 全一巻』毎日新聞社1964年。阿部幸男・阿部玄治・編『恐妻――知られざる阿部眞之助』冬樹社1965年。阿部幸男・編『恐妻一代――阿部眞之助の横顔』角川書店1976年

*4近藤日出造「恐妻会覚書」『恐妻会』所収、朋文社、1955年

*5:峯島正之『近藤日出造の世界』青蛙房1981年、p336。また、この蟻屋については、佐貫百合人『蟻屋物語――戦後新劇の青春』(早川書房1979年)に詳しく描かれている

*6:「ところで、天下に雷名とどろきながら、何のかげんか一向名誉職にありつけないという人物がいるもので、その範チウに入る阿部眞之助、大宅壮一の両氏は、まだ小僧っ子と思っている僕が、次第によっては全日本の全亭主をその傘下に糾合する可能性ある日本恐妻会々長の住職に就任したことをいたくシットし、当方に一言のあいさつもなく、ジャーナリズムのあらゆる面で、安倍氏が恐妻会々長、大宅氏が副会長であるが如くにいいふらし、書き散らし、遂に、実質的に僕の栄誉ある肩書きを奪い去ったのである。無念とはこのことだった。老獪とは彼らのことだった。」(近藤、註4に同じ)もちろん、芸風としての諧謔味も含めてのことと言え、「老獪」といった表現を使っていることは、当時の彼らの側にあった微妙な違和感の表現として、「恐妻」というもの言いの受容のされ方を考えようとする時にも、案外見逃せない補助線になってくると思われる。

*7辰野隆・林髞・徳川夢声による「原爆戦争の次に来るもの、他」と題された座談会における徳川夢声の発言。(『随筆寄席』所収、日本出版共同株式会社、p.29,1954年) 初出は雑誌『随筆』昭和27年(1952年) 2月号掲載とクレジットされているから、その時点から7年前ないしはそれ以上以前のこととなると終戦前後、あるいは確かに戦前の時期になる。先の服部によれば、このへんは夢声自身が各所で何度か語っていることで、これらの夢声の「証言」を尊重して「恐妻」というもの言いの「起源」を「昭和13年春頃」としている事典もあるという。いずれにせよ、戦前すでにある種の界隈で「恐妻」とそれに類するもの言い自体は使われていたことになる。

*8火野葦平「オンテレ・メンピン女房学」『女房学・帝王学』所収、自由国民社・特集文庫2、1953年、P.26。

*9:この火野のような視点は「恐妻」を認めながら、しかしそれによってオトコ=社会的な領分を否応なく持つ存在としての自分という主体のありかたについての自省は、本質的なものになり得ていない。主体はあくまでも明確にオトコとしての自分にあるままで、それを根本的に疑うまでには至らないし、だからその主体性が手放されることもない、通俗的な処世術の範疇にとどまっている。小説においてはそのような気配も十分はらんでいた書き手火野葦平にしても、随筆的な雑文であることも関係するのか、そこまでの昇華した主題性はここでは感じられない。

*10:火野、註醞に同じ、P.29。

*11:「漫才」以前の「萬歳」の段階でも男女の組み合わせはあったとされるが、ミスワカナ・玉松一郎のような「漫才」の形式が整って以降のそれとは意味が異なる。「背広を着た友人同士の立ち話」とも言われた「漫才」の定型が異性間のそれとして成り立つためには、ひとまず「夫婦」という形式にならざるを得なかったらしいことも含めて、夫婦漫才のあり方とその変遷は「恐妻」の民俗史/誌の視野においても、ひとつ重要な足場になり得るだろう。

*12:「うちの女房にゃ髭がある」作詞・星野貞志、 作曲・古賀政男、歌・杉狂児美ち奴1937年1月発売。

*13:和田邦坊は1899年明治32年)四国の琴平生まれ。父は和田菊所という四国新聞の主筆だったという。旧姓高松中学から画家を目指して上京、本郷洋画研究所に学んだ後、岡本一平と出会って漫画に興味を持ち、父の関係で東京日日新聞に。「東京日日新聞大正15年から昭和13年の約14年間、和田邦坊の漫画は縦横の活躍をした。東京日日新聞専門(社員)だったが雑誌講談社の数種、実業之日本社の各雑誌、婦人雑誌、綜合雑誌などありとあらゆる雑誌に一枚ものから、長編絵入り小説などを書きまくり朝日新聞岡本一平と双璧をなしていた。(…) 似顔絵、議会スケッチ社会風刺漫画スポーツ漫画なんでもござれとばかりこなしていたが、コマ漫画パイオニアでもあった。」(伊藤逸平『日本新聞漫画史』造形社、P.99,1980年)退社後、故郷に戻ってからは表舞台からは姿を消した形になったが、終生地元香川県に根ざした画家芸術家として生き、2008年に亡くなっている。

*14:これらの「問い」とそれを配置してゆく前提が共有できたならば、この先はたとえばオトコを主体とした「独身」「チョンガー」論などと併せ技で展開することも必要だろう。その際にも「漫画」とその周辺から発信されていった「笑い」「ユーモア」「諧謔」の類の感覚が、たとえば「男やもめの厳さん」(作・下川凹天読売新聞連載、昭和8年〜9年)や「ますらを派出婦会」(作・秋好馨大阪月刊誌(誌名不詳)、昭和21年〜31年頃)などを産み出していたこと、そしてそれらが戦前から映画化され音楽なども伴いつつ、時には舞台化なども施されながら、当時の情報環境に拡散、増幅されていったことなども視野に入れて、性的存在としての領分を穏当に留保した「個」を「公」の〈リアル〉にしてゆく表現・表象の過程として、広義の現代「民俗」論の脈絡で考察してゆく必要がある。

2015/11/18 (水)

オビはダミーで(=゚ω゚)ノ

『マンガでわかる戦後ニッポン』 (双葉社)

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 「歴史戦」というもの言いが飛び交い始めています。いわゆる「歴史認識」をめぐる情報戦現在。けれども、それは何も国と国、対外的大文字空中戦というだけでもない。いや、むしろわれらその他おおぜいにとっては国内情報環境、ふだん接する日本語母語とする拡がりの中でのしのぎあいの方が実ははるかに切実で、自分ごととして直接間接に影響が大きいものだったりする。事実岩波や中公、筑摩みすずといった「戦後」の人文系教養」を仕切ってきた、少なくとも彼ら自身そう自負し、事実そのような流れで「何となくそういうものらしい」程度の「常識」を形成してきた界隈の版元は、それら国内情報環境での「歴史戦」にこそすでに積極的に参戦してきています大文字情報戦から一見外れるような、関係のあまりないような領分でも見えない「歴史戦」はすでに始まっている。たとえば、この一冊などはそういう意味で興味深いものです。

 タイトルタイトルなので、なんだよくある「マンガでわかる」系の通俗本か、と見過ごされがちでしょうが騙されちゃいけない、中身はかなりスジの通ったマンガ作品オムニバス歴史とは文脈構成してゆくことであり、その上に「政治」もまた必然としてからんでくるものである、という認識を穏当に持ち得るだけの読み手ならば、これもまた国内日本語環境での「歴史戦」の一角を好むと好まざるとに関わらず担う一冊、と理会できるでしょう。

 帯に大きく「内田樹」の名前が「解説」の一部と共に掲げられていますが、これはダミーデコイの類でしかない。このオムニバス本体はおそらく作品の選定から文脈構築にまで主に関わっていたはずの中野晴行のもの。なるほどそれなりの丹精の感じられる仕事なのですが、ただ、それがいまどきの「歴史戦」で担ってしま意味についてどこまで自覚的なのか、そのへんは判断留保せざるを得ないところです。

 手塚治虫水木しげるつげ義春はるき悦巳大友克洋西岸良平諸星大二郎かわぐちかいじ谷口ジロー岡崎京子……とまずは「マンガ史」的にも無難に納得できる13人のラインナップ。その彼らの、あまり知られていないだろう短編作品をダシに「戦後」を語る、いや、具体的に「語る」のではなくある方向の「察する」へと導く、その手口は実はかなり巧妙です。関わっている人がたがおそらくスッピンの「善意」で「良心的」にそうされているだろうがゆえになおのこと。マンガアニメ音楽など「サブカル」と好んで呼ばれるようになっている界隈の「批評」「研究」系のもの言いや、それらの自明の前提になっている共同性には、このような「善意」の類を介して漠然と合焦してしまう「戦後」像、「民主主義イメージがすでに定型としてついてまわっているらしい。たとえば、そう、宮崎駿のあのアニメ風立ちぬ』に現れていた、ある種の「戦争」「歴史認識の肌合いなどを想起してもらえるなら、もう少しわかりやすくなるでしょうか。

 マンガに限らず、アニメその他いわゆる「サブカルコンテンツ媒介にそのような「戦後」を察してもらう、その手法はいまどきのこ情報環境において確かに有効でしょう。ならばなおのこと、個々の作品についてはもっとていねいな、複数文脈配慮した補助線をできる限り張り巡らせておく、それによって「読む」側の理解本来意味で「豊か」にしてゆく環境提示する、そのような方向でのフェアな専心が求められる。これらの作品の並びから何をどう「読む」のか、その可能性をたとえ「善意」で「良心的」に、おそらく無意識も含めてあらかじめある範囲に狭めてしまうことを丹精に行ってしまう、そのような習い性自体もまた〈いま・ここ〉の「歴史戦」の裡にすでにあります

 このような手法もまた、昨今一部で言われる「キュレーション」ということになるのでしょうか。それはともかく、ならばその結果導かれるその「戦後」像の是非と共に、このような手法に合焦できるようなこちら側の能動的な「読み」もまた切実に必要になってくる状況を、われわれはすでに生きているはずです。「善意」「良心」による丹精はそれ自体、「政治」的でもあり得る。なじみやすい「サブカルコンテンツ媒介にするからこそ、その方法自覚とそれに伴う「責任意識はいまどきの情報環境を呼吸し生きてゆかねばならぬ生身にとって、今後さら重要になってくると思われます

2015/09/30 (水) 宗教問題

 政治と宗教、のいまどき

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 宗教政治、という、このただでさえ脂っこくもしちめんどくさいふたつの領域が、共に重なってさらにめんどくささ自乗になる案件が、この夏このかた、浮上してきてました。

 もちろん、これは何も「宗教」だけではないわけで、「社会」であれ「文化」であれ何であれ、いずれ日本語熟語自体本質的性格だったりするらしいのですが、それにしても、です。ことこの「宗教」という漢字2文字熟語については、その記号としての単語とそれがさししめす中身や内容とのかけ離れ具合が、おおげさに言えば歴史的にもほんとにさまざまな難儀を現出させてきているんだなあ、と改めて思ったりします。

 他でもない、例の「安保法制」、一部では「戦争法案」とも呼びならわされていた法案の審議過程で、反対を叫ぶ市民運動の中でもメディア舞台を介して割と話題になって注目されていた若者たち運動。「シールズ」とか銘打っていたようですが、あの若者たちの背景に何やら「宗教」の影がちらほらする、といったことが、例によってのいまどきの情報環境のこと、SNSその他webを介した世間で露わにされて情報として共有されていった、という顛末のことです。

 ごくざっくり言うと、その運動の中心にいてメディアの前面に姿をさらしていた幹部級の若者たち(多くは大学生ということでしたが)の経歴その他をあたってみると、キリスト教系の学校、それも全寮制の環境教育を施しているような高校などから、やはりミッション系の大学などに進学した子たちが眼につく程度に多かった、というお話。もちろん前提となっている情報自体既存メディアを介したものなのですが、それにしてもそれら情報を素材としてその背景や出自来歴まで相互検索をかけてあぶり出すことが容易になっているのは、良し悪しともかくいまどきの情報環境のすでにお約束。なまじ眼につく位置にあった運動だけに標的にされやすかったという事情もあったと思います。

 その過程で改めて浮かび上がってきたのは、とりあえず「キリスト教」というくくり方で、そこから大きくは「宗教」という、この漢字2文字のこの熟語とりまとめられている内実が、実はこれら宗教と関わるとみなされる現象をできる限り〈いま・ここ〉の手ざわりのままとらえようとするためには、最も邪魔になっているらしい、という、日本語とそれを母語とする環境でのいずれ拭いがたい難儀でした。

 これが仏教神道系だったら、また別の方向での解釈意味づけも発動されていたかも知れません。けれどもとりあえず「キリスト教」で、それ経由で「宗教」と意味づけられてしまうことであらかじめある種の型にはめやす解釈へと事態は流れていったらしい。カトリックプロテスタントか、といったごく基本的な違いについても、「キリスト教」と言われた瞬間から多くの世間にとってはどうでもいいものになってしまう。もちろん、ある種の宗教、具体的な教団やその界隈が「教育」「学校」と積極的に関わり、その経緯で「政治」にもあるスタンスを表明するための道具立てのひとつとして利用してゆく、それはキリスト教であれ仏教神道であれ、それぞれやってきていることで、そういう意味はいさら珍しくもない事案のはず、なのですが、ただそれがメディアを介して改めて世間の眼にある文脈さらされるとまた、格別の意味づけが過剰にされていってしまもののようです。

 訳知り顔に声ひそめてささやかれる、それによってとりあえず表沙汰にならずにすんでいてそれで世間も困らないから見て見ないふりしていてくれる、そういう「宗教政治」のコントロールの仕方/され方のままでは、もうこれから先はうまくゆかないんだろう、そういうこれまでの当たり前のまま、この先この日本世間宗教としての信頼を具体的に維持し回復してゆこうとすることは、もうあり得ないんだろうな……そんな感慨を正直、抱きました。

 宗教政治と不即不離である。いま初めてそうなったわけでは全然なく、これまでもそしてこれからもそういうものである。胸を張って誰にもわかるような言葉もの言いとで、そういう当たり前を説得してゆく、そんな態度を腹くくって自分たちのものにしてゆくことが、宗派や教団などの違いを超えたところでの、いまどきの日本宗教全体に切実に求められているのだと思います。