オヤジ狩りの背景

 仕事の関係でしばらくアメリカに出かけていた友人が帰ってきて曰く。

「おい、日本の若いモンって急に服のセンス悪くなってないか?」

 もともと生粋の街育ち。仕事だけでなく遊びの方もそれなりにこなしていた人間なのだが、その彼に言わせると、今どきの下北沢や渋谷あたりを歩いている若い衆の格好や身振りは、まずもってアメリカならば下層の家庭の子弟のそれとか。早い話、育ちがあまりよろしくない連中ってことだそうで。

「いや、そりゃ何着たって構わないけど、問題はそれがどう見たって似合ってないってことなんだよ。そのへんのセンスが知らない間におかしくなってんじゃないかなあ」

 確かに、服や化粧に限らず、そういうおしゃれのセンスってのは、まわりから自分がどう見られているかをどう自覚しているか、にかかってくる。どんな格好をしてもいいけど、その自覚が薄いままじゃそりゃひとりよがり。「サマにならない」「みっともない」ってのはそういうことだ。

 まあ、若い衆ってのはいつの時代もそういうものと達観したふりする向きもあるだろう。確かにそれもまた一理ある。とは言え、「オヤジ狩り」だの「自動販売機荒らし」だの、あまり深くものを考えない異様な暴れ方がそこここに出てくるのは、そのへんの自覚の薄さというかひとりよがりのあり方とどこかでからんでいるような気がする。

 たとえば、今の若い衆ってカッとするといきなり“蹴り”が出ますもんね。手でブン殴るよりも足。以前は胸倉つかんで組み打ちなんてのがカッときた時の日本人の基本的な身振り。もっと昔になると、拳固を振り上げて上からポカポカ殴ってたらしい。漱石の『坊っちゃん』の幕切れ、山嵐とふたりで赤シャツたちを襲撃するシーンなど、まさにこのポカポカでしたもんね。

 いずれにしても、足蹴にするなんてのはついこの間までの日本人にとってはよほどのこと。それこそ『金色夜叉』の貫一くらいの怒り心頭、まさに相手を人間じゃないと思っている表現でもあったわけで、そんな“蹴り”が平然と初手から繰り出されるようになった背景というのも、静かに考えてみなければならない日本人の「歴史」であります。  

 もっとも、一方じゃ慶応の学生ですら借金に困ればゲーセンを襲撃するご時世。あれほど強固なはずの偏差値的序列でさえ、今やそれぞれの内面やカルチュアとまるで連動しなくなってるのだ。いかにもツッパリらしい格好したツッパリなんかマンガかファミコンの中だけ。一見なよなよしてすぐにしゃがみ込むような表情の乏しい若い衆が、いきなり蹴りの乱打で襲いかかってくるのが今どきの日本らしい。お気をつけあれ。